宗教教育論序説(1)
小 松 昌 幸
1
現代の文化の特色は種々のかたちで語られるが,一般大衆に共通にみられる行動様式は 頗る官能的なものである。うまい食べもの,気持のよい衣服住居,性的満足,富と権力,
入声と名声が最あ重要な価値とされている。禁欲主義を:是とするのではないが,それにし てもあまりにも官能的である。このような世俗的価値は稀少性において存在するにもかか 二ねらず,無数の人によって際限もなく欲しがられる。限りあるものを限りない人々が獲得 しようとすれば,そこには必然的に斗争が結果する。故に官能文化は個人と個人,集団と
.集団とを仇敵として戦わせる敵意と斗争の文化であるといわれるのである。しかもかかる 文化の中で生活する人々に共通にみられる特性は,平均入,レーダ的人間,オート。マン
として主体性を喪失した入間のタイプであるといわれている。
これに拍車をかけるものが現代に於ける教育である。今日の教育は官能的価の獲得に威 力を発揮するとせられる知識や技術を中心とする世俗的教育である。人間の内面を深く耕 す教育はほとんどかえりみられない。宗教教育にいたっては家庭からも,社会からも,学 校からも消滅せんとしている。その反面現世的御利益宗教は巷に氾濫している。
以上のような文化や人間の情況は現代の社会体制の欠陥から生じたものであると簡単に 割り切れるものであろうか。もっと根深いところにより根源的な原因をもっているのでは なかろうか。
現在われわれに大きな影響をあたえている文化はユーラシャ大陸の一半島である西ヨー ーロッパに発生した西欧文化である。なかでも特にここ五・六百年あまりの間に次第に発展 してきた人聞中心主義のものの考え方や行動のしかたをもつ近代西欧文化が,地球上のほ とんどの人類に強い影響をあたえている。この近代西欧文化はヘレニック文化を媒介とし て,自らの古い神中心の文化を否定するところに成立したものである。近代西欧文化は限
りない入間性への信頼を基盤として展開されている。それは自然や社会に対する輝かしい 科学や技術の成果をわれわれにもたらしている。その反面経験主義,実証主義,合理主義 が絶対のよりどころとされ,宗教は幻想として拒否される傾向を発生せしめている。そう してまた世俗的価値の重要視はその価値獲得になんの力もないものとして,宗教を人々の 磁心の外におしだしている。
かくて近代西欧文化の強い影響下にある社会に於ては,人々は宗教に対して,積極的に は反宗教的態度を,消極的には宗教的無関心の態度をとる傾向が次第に顕著になっている。
比較的宗教教育が盛んであるといわれているアメリカに於てさえも,教会のペーパー・メ ンバーの増加や「日曜宗教」の人の増加があだつようになったと謂われている。 (註1)
人間は信頼されなければならない。しかしそれには限度がある。人間はいかに力んでみ
ても有限なるをまぬがれない。人間は 己の有限を照し出す無限なものに出逢うことに於
て真の人間となることができる。そこにおいて人間のなんたるかの意味を得ることができ
る。近代自律的人間は科学的思惟を唯一絶対のものとしてよりかかり,その全能を信ずる。
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なるほどそれは人間に偉大な科学や技術についての結果をもたらしたけれども,全能では ない。それは対象的思惟である。人間はそれによって世界や自己を対象化して知ることが できる。しかしそこに知られた自己は対象化される限りの自己であって,「見られる自己」
は明らかになっても, 「見る自己」はそのまま残る。人間の自己はあますところなく対象 化されない。入間は自己自身をあますところなく知るためには,自己の根源である超越者に一 照し出されねばならない。でなければ人間は自らの内なる自然を支配することもできず,
なんのために生きるかの意味もえられない。かくて宗教を拒否する人間中心主義の文化は一 入間の内面を様相にみちびく。また入間存在の究極の意味や価値の存在しないところには,
真の人間の共同体は成立しない。宗教を拒否する入間中心の文化は相対的価値の渾沌の中:
で,個人と歯入,集団と集団との対立斗争をおこさせる。この世に真の平和を招来するこ ともできない。現代は宗教なき人手中心主義の文化によって,すばらしい繁栄と同時に大 きな人類的危機を招いている時代であるといってよいであろう。この人間中心主義の文化 を止揚して新しい文化を創造せんとする教育は,宗教教育を問題としなければならない。
2
新しい:文化の創造に参与する宗教教育は,単にある神学に基礎をおいた宗教教育ではな:
く,宗教社会学,宗教学,宗教心理学,宗教哲学,宗教体験を通過して捉えられた宗教で なければならない。学校教育の宗教教育は特定の宗派の教育であってはならないのは勿論 であるが,だからといって単に宗教的情操の教育におわってはならない。既成宗教は宗教 の本質的なものと,偶有的付加物との混合したものであり,今日のような宗教衰退の時代に はむしろ既成宗教はその偶有的付加物によって宗教的本質が失われている場合が多い。
また巷にはニセ宗教の氾濫現象がみられる。宗教教育は偶有的付加物を見ぬき,ニセ彊 教を見破り,宗教の本質的なものにねざす信仰の芽を育てるものでなければならない。児 童生徒が成長して如何なる完派を択ぶかは自由であるが,純正な信仰を持ちうる素地をあ たえるためには,宗教的情操のみに終る宗教教育であってはならない。このような意図に二 よって展開される宗教教育は先づそのよってたつ宗教とは何んであるかを問題にしなけれ,
ばならなない。そのために先ず現代に於ける反宗教的なものの代表とされるマルキシズム と宗教との関係を考察しながらその宗教の何んだるかを明かにしてみよう。
マルキシズムは宗教とは人間の日常生活を支配している外的な力が人間の頭脳のうちに
空想的に反映したものにすぎないとする。即ち「もろもろの自然力は原始的人間にとって
は何かそよそよ、しい,神秘的な,優越したものであった。あらゆる文化民族が経過すると
ころの,ある特定の段階になると,人間は自然力を人格化して自己に同化する。こうした一
人格化衝動こそはまさにいたるところで神々をつくりだしたものであって,………自然が
がほんとうに認識されるようになってはじめて,神々ないし神がつぎつぎにその位置を追
いはらわれゆくようになる。」というのである。(註2)「反デユーリング論」の第三篇第
五章では社会的な力が人間にとつの見知らぬもの説明つかぬものとして人間に対立し,自
然力と同じ外見上の自然必然をもって人間を支配すると,これが人間の頭脳のうちに空想
的に反映して宗教を成立せしあることを述べている。結局「宗教は非常に原始時代に人間
が自分自身の本性と自分をとりかこむ自然にかんしていだいていた誤った,非常に原始的
観念から生じたもの」であるとするのである。そうして宗教が一度このようなイデオロギ
ーとして成立すると,「与えられた観念材料と結びついて,それをいそう発展させるもの」
であり,「このような思想過程がその頭脳のなかでおこなわれている人間には, 自己の物 質的生活の諸条件が,けっきょくこの過程の進路を決定するということは必然的に意識さ れないでいる」というのである。(註3)したがって宗教は下部構造に於ける生産関係の変 一化と発展によって変化し,究極的には共産主義社会に於て消滅するとするのである。
人間は現実的不幸の中で,ただ宗教という,「なやめるもののためいき」をついたり,宗 教という阿片をのんで幻想的幸福に酔いしれているというのである。しかしそれでは入晦 はその不幸から解放されない。いなそのようなためいきのみでは,人間の現実的な生活の 周題に何んの解決もあたえないだけでなく,却ってその解決を阻害しているものであると する。人間の現実的な不幸の除去は,宗教でなく,社会科学によらなければならないとす
・るのである。この点を示すものとしてやや長文であるがマルクスの言葉を引用してみよ う。「宗教は自分自身をまだかちえていない.か, またはそれをふたたびうしなってしまつ 曽た人間の自己意識であり,自己感情である。だが人間,それは抽象的な世界のぞとにうず
くまるものでもない。人間,それは人間世界すなわち国家であり,社会である。この国家 この社会は倒錯した世界であるゆえに,それらは倒錯した世界意識なる宗教をうみだす。
:宗教はこういう世界の普遍的理論であり……。宗教は人間の本体を空想的に実現したもの である。というのは人間の本体か真の現実性をもっていないからだ。だから宗教にたいす る斗争は問接的には宗教をその精神的香料とする世界にたいする斗争である。
宗教上の不幸は一つには現実の不幸のあらわれであり,一つには現実の不幸にたいする 抗議である。宗教はなやめるもののため息であり,心なき世界の情操であり,精神なき状 態の精神である。宗教は民衆の阿片である。
民衆の幻想的幸福としての宗教を揚棄することは,その現実的幸福を要求することであ る。民衆は自分自身の状態にかんする幻想を揚棄せよと要求することは,幻想を必要とす
・る状態を揚棄せよと要求することである。だから宗教の批判は潜在的に宗教を後光とする 世界の批判である。
批判は鎖についた想像の花をむしりとってしまったが,その目的とするところは,人間
:が空想なき,なぐさめなき鎖をおうようにというためではなくて,鎖をたちきり生きた花 をつむようにというためである,宗教の批判は人間のまよいをさまさせるが,その目的と するところは,人間がめざめた正気にかえった人間として,思惟し行動し,自己の現実を 二かたちつくるようにというためであり,自分自身を中心にして,したがってその現実の太 陽を中心にして運動するようにというためである。宗教は人間が自分自身を中心にして運 動しないあいだは人間の周囲をめぐる幻想的な太陽であるにすぎない
だから真理の彼岸がきえうせた以上,此岸の真理を確立することが,歴史の任務である。
人間の自己疎外の偶像が仮面をはがれた以上,聖ならざるすがたにおける自己疎外の仮面 をはぐことが,歴史に奉仕す哲学の任務である。こうして天国の批判は地上の批判にかわ
り,宗教の批判は法の批判に,神学の批判は政治の批判にかわる。」 (註4)
以上のようなマルキンズムの宗教否定論は宗教が原始宗教にとどまっている場合は尤も な批判であろうが,それは高等宗教の本質を捉えての否定論を展開しているであろうか。
宗教の本質が現世御利益的な点にあるとすれば,その否定論も成立するであろう。またそ の宗教消滅論にしても,人間が生産関係のカテゴリーのみからその全存在を捉え得られる
とするならば成立するであろう。
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マルクスの最:大の関心は現実に存在する人間の不幸な状態を如何にして救済するかとい うことにあり,従って彼は画餅のような観念論的な「人間尊重や自由平等」の強調によっ てはこの現実をどうすることもできないことを痛感したのである。(註5) サ実に存在する 人間の不幸な状態は経済政治の領:域から生じているものであり,経済政治を対象とする科 学的な研究により,そこに存在する人間を不幸にしているからくりを明らかにし,不幸な人 間達がそのからくりを知ることによって,主体的にその矛盾を打破し,自らの幸福を現実的 に自らの手で確保せしめんとすることを意図したものである。人間はパンのみに生きるも のでないにしても,入間はパンなくしては生きられないことも事実である。人間の生存にと ってパンは先づ何よりもの基礎であり,人間はカスミを食って生きられるものでない。勿 論下聞は必要とあればパンを捨て,生命さえも放棄する自由な存在ではあるが,だからと いってパンを軽視することはまちがっている。人間の現実的な幸,不幸は先づパンの問題.
に起因し,それを起点として入筆疎外の問題にまでに発展する。パンの問題は単に経済の みの問題でなく,政治の問題であり,社会体制の問題であるからである。観念論的に入間 の尊重や自由平等を強調してみても,また形式的に法的にそれを規定してみても,現実に それらが確保できるであろうか。戦前のわが国の憲法にも,言論の自由,良心の自由,職 業選択の自由,あるいは法の前の平等など謳われていたけれども,果してそのような自由 平等が確保できたであろうか。その原因がどこにあったか考察すれば明瞭であろう。「パン の問題」をめぐる現実的解決は社会科学によるほかはない。哲学や宗教が「パンの問題」
をめぐる人間の問題を現実的に解決できるなど考えるならば,自らを知らないものと云わ なければならない。
人間の問題はその解決の鍵が自己の外の自然や社会に存在する性質のものと,自己自身 及び自己と外との関係に存在する性質のものとに分類される。前者のような人問の問題は 自然科学や社会科学の力かをりることなしに,その問題を解決することはできない。後者 の場合は宗教によらなければ解決できない。科学的なものが一切の入問の問題を解決でき るとするのはあやまちであるように,宗教が入間の一切の問題を解決できるとするのもあ やまちであ石。 (勿論宗教の特質がト切の人間の問題を究極的に解決する」ことにある のを否定するものでないが,それは次元のちがった立場に於て云われなければならいごと で,このことは後に明らかにしたいと思ふ。)マルキンズムの特色は人間存在を生産のカテ ゴリーによって切断し,その限りに於ける真理を明かにせんとする社会科学(資本論)と,
そこより得た理念によってあらゆるものを関聯づけて,一つの世界観人生観を形成せんと する哲学(史的唯物論)とをもって,社会に於ける現実的な不幸から入間を救済せんとす
るところにある。こ㌧で問題なのはその史的唯物論と称する哲学である。
史的唯物論は現実的な入間の不幸を救済せんとする意図にもとずき,人間の経済的,政一 治的あり方の中より,一つの理念を確立し,その理念を中心としてあらゆるものを内面的 に関聯づけて,そこに一つの世界観人生観をつくりあげんとするものである。・それが主観.
的,恣意的なものとちがうところは,弁証法的な知的反省を媒介として普遍妥当性,客観 性をもった全体を示そうとするところにある。しかしそれはそこに把握されている「理念 の枠内に於てのみ」という限定のもとにおける普通妥当性である。
理念が唯一絶対でないことは,入間はさまざまの理念をもっていることをみてもわかる。
理念は相対的なものである。しかしそこに関連づけられる個々のものはその理念と関係す
る限り普遍妥当性をもっている。けれども決してそれらのものがもつその真実のすべてを 明かにするものではない。母の涙は塩分と水分の化合物であるということは,一つの立場・
からは普遍妥当性をももつが,それはその真実を明らかにしているとはいえない。普遍の 中で真実が失われている。この理念の有限性がその原因である。理念の有限性相対性をお もえば,単に生産のカテゴリーより捉えられた理念で,すべてをものがたろうとするのは 矛盾も甚しいといわざるをえない。対立併存する理念を統一するような根本的なものは,
有限な人間もその中にある全存在に於て得られる。そのような根本的なものによってのみ 人間のすべてが究極的に明かにされる。宗教とはこのような根本的なもの出逢うところに一 成立する。 (註6)人間は宗教によって社会や自然や自己自身について究極的な意味を知
り,真の世界観人生観を確立することができるのである。史的唯物論は現実的な経済政治 ひいては社会体制の変革への主体性を確立するための理論としては一応認められるとして も,人間の全存在を捉えてのものではない。史的唯物論は人聞存在と生産との関係に於け る理論で,その限りに点てはその意味をもつがか,それによって人間を縛らんとするなら ば,人間の限りない発展を抑圧し,したがって人間を力によって押え込む現象をひきおこ一 すこととなろう。
勿論マルキンズムによって否定されうるニセ宗教あるいは高等宗教とは名のみの堕落宗 教が存在する事は事実である。宗教の名に寝て自然や社会に関する人間の問題を解決でき
るとする現世利益的宗教が今日に企ても世界いたるところに繁昌している。 (註7)また 高等宗教も現実的には宗教的本質と偶有的付加物との混合のかたちをとって存在してい る。そうしてともすると宗教的本質が全く失われて偶有的付加物のみが生き残っている高、
等宗教もある。マルキシズムが否定する宗教とはかかる宗教ならざる宗教であって,高等 宗教の本質にふれてそれを論破否定した点はみられない。このような種類の宗教はマルク
スならずとも真の宗教の名に於て否定すべきものである。
3
マルキンズムは人間の本質を次のように述べている。 「フォイエルバッハは宗教の本質闇 を人間の本質に解消する。しかし入間の本質は,個々の個人に内在する抽象物ではない。
人間の本質とは現実には社会的諸関係の総和である。」(註8)そうして人聞の自由につい・
ては次のように述べている。「人間は彼の生活行為そのものを彼の意欲および彼の意識の 対象とする。彼は意識的な生活行為をもっている。彼はある一脈定性と直接に合致しな い。人間を直接に動物的生活行為から区別するものは,意識的生活行為である。まさにこ のことによってのみ,人間は一個の類的存在なのである。つまりまさに入聞が一個の類的 存在であるからこそ,彼は意識的存在であるだけである。いいかえれば彼自身の生活がそ皮 にとって対象なのである。この理由からしてのみ彼の行為は自由な行為である。」(註9)
そうしてさらに「プロレタリヤ革命。矛盾の解決だ,即ちプロレタリアートは公共的権力1
を把握し,この権力を以てブルジョアジーの手から離れつつある社会的生産手段を公共的
所有に転化する。この行動によって,プロレタリアートは生産手段をその従来の資本的性質
から解放し,その社会的性質に自己を貫徹すべき完全な自由をあたえる。……社会的生産
の無政府状態が消滅するにつれて,国家の政治的権威もまた衰へる。人間は遂にそれ特有
な社会の主人となったわけであって,これによりまた自然の主人となり,自分自身の主人
となる一要するに自由となる。」(註10)といっている。
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以上のようなマルキンズムあ人間の捉えかたで,人間が真に捉えられているであろうか
.人間は自然や社会や歴史によって規定されている。また自己自身かちも規定されている。
したがって人間は自然や社会や歴史という自己の外のものから問題どされると同時に自己 等身からも問題とされなければならない。真に人間を捉えようとするならば,人間をただ 単に社会からのみ捉えるばかりでなく,自然からも社会からも歴史からも,自己自身からも 捉えられなければならない。入間は常に自然科学や社会科学が明かにするものをもって自 己を知るだけでなく,さらに自己を知る自己を知らなければならない。でなければ自己の 主入とはなれない。社会的立場でのみ入間や入間の自由が語られてよいものであろうか。
人間の本質や人間の究極的自由は人間が自己自身を知ることにおいて明らかになるので 慧なかろうか。人間はいろいろの自由をもち,それにしたがっていろいろの「自己の主 入」のあり方をとる。人聞の本質と人間の自由はその段階に応じて語ることができる。し かし究極的なものに於て入聞の本質とその自己を語ろうとすれば,入間か自己自身を知を ことによってである。人間は自己自身を知るためには絶えず我執を脱しなければならな
い。
人間は素朴な状態に撃ては,主観的な恣意として存在する。そこには即自的な自由があ 渇。我執のもっとも喋々しい状態におかれている。この主観的恣意(我執)をすて\万人
:が認める普遍妥当なものに於て自己を知る。いわゆる科学的思惟をもつ意識一般の立場に 光つ。一それによって自然や社会に関係してより広い自由をもつ。最後の段階に於て,知ら れるもの,行為されているもの(対象)と知るもの行為するもの(自己自身)の対立を超 えて自己を悟る。そこに於て全く我執を脱し究極的な自由をうる。真に自己の主人となり 一人間の本質を知る。このような段階に於ける自己の知り方は,「自己をはこびて万法を修証 するを迷とす。万法す\みて自己を修証するはさとりなり。……諸仏のまさしく諸仏な・ると きは,自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。しかあれども隣町なり。仏を証しもてゆ く。身心を挙して色を見取し,身心を挙して声を聴取するに,したしく会取すれども,かがみ にかげやどすかごとくにあらず,水と月とのごとくにあらず。一方を証するとき一方はくら
し。」(註ll)ということである。故に「仏道をならぶといふは,自己をならうなり。自己 をならうというは,自己をわするるなり。自己をわするるどいふごとは,万法に証せらる
るなり。万法に証せらるるといふは,自己の身心をして脱落せしむなり。」である。(註ユ2)
ヤスパースは我執を脱することについて次のように言っている。「人間は世界からも,
歴史からも自己をとらえない。人間は自然の現在にとらわれながらも,自己を超えでよう とする。」(註ユ3)そうして「〈それを超えて〉超越者に向う道が得られないならば,人間 はほんとうにまだ彼自身でない。彼はたんに生命をもち理性的に思考する現存在であり,
カぬる現存在に縛りつけられているにすぎない。」(註14)
われわれは我執を脱し,真の自己自身の根源にふれることによ、って,そこから自己につ いての究極的な自覚一われわれが存在する意味と価値を悟る。フランクルは悲惨なナチ・の
強制収容所の体験を次のように語っている。
「強制収容所において,生命のこのような本質的な超越,つまり生命が「志野的」に自 己自身を超えてより高きものをめざずという現象がはっきりと現われ出たのです。という
のはたとえ大多数の人にとっての問題が「自分は生きのびる ことができるのだろうか,も
し生きのびれないものだとしたら,こんなひどい苦しみはなんの意味もないではないか」
というζとであったとしても,それでもこれとは別の問いを発する人々もやはり必ずいた からです。彼らはこう問うたのです。「この苦しみ,いや,この死に果たして意味がある のだろうか?もしもないとしたならば,生きのびることにもなんの意味もあるまい。とい うのはもし生命がある偶然の恩恵に依存しているものだとするならば,たとえ実際に生命一 を保って助かった場合にすら,そんな生命はなんの意味もなく,また生きるだけの値打も ないものでしかあるまい。」 このようにして強制収容所における苦痛と犠牲と死とのすべ て外見上の無意味さの背後に,苦痛と犠牲と死とのもつ意味をさえも共に包含するほどの 絶対的な有意味さが現われ出たのであります。」(註15)またヤスパースは「超越者がなげ れば実存は実りなき,愛なき,悪霊的反抗である。」(註16)と云っている。
人間は自己自身を知らんとするなかで自己自身を超えてより高きもの,超越者にであ う。ここにおいて自己自身を知り,究極的な人生の意味と価値を悟る。キリス教上等,仏.
教的慈悲もこの泉から湧出する。人間はこの泉に浴して真の自己となる。
われわれは宗教によって真の自己となったとしても,全能の力を得たわけではない。「花 は紅柳は緑」である。それによって自然や社会について,現実的にちり一つどうすること もできない。自然や社会はそこにおける理法を知る自己によってそれを動かすことができ る。しかし動かす方向性は動かすもののもつ意味と価値によって決定される。原子力に関 する理法はそれ自身如何に用いるかを教えない。利欲と残忍と憎悪の自己によっても用い ることができる。社会についての理性も野心や復讐の自己に於て動かすこともできる。人 間は超越者に出逢うことにおいて得た究極的な意味と価値に着て入闘について悟り,月然 についてさとり,社会についてさとり,それらをその意味と価値に於て統一する。かくて 自然や社会や自己自身の主人となり,世界を変える。しかしこれは社会科学や自然科学が 現実を動かすのとはちがつた次元に断て現実を動かし変えるのである。
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宗教が歴史の上で社会的に何をなしてきたかについて,マルキシズムは痛烈な批難を浴 びせている。たしかに宗教はこのマルキシズムの批難を傾聴すべきものをもっていると思
う。