形象思惟論札記(一)
著者 齋藤 敏康
雑誌名 静岡大学教養部研究報告. 人文・社会科学篇
巻 21
号 1
ページ 124‑106
発行年 1985‑09‑01
出版者 静岡大学教養部
URL http://doi.org/10.14945/00008506
形象思惟論札記 (一)
斎 藤 敏 康
は じ め に
中圏の文芸界が,所謂「十年の災厄」を脱して,文化大革命中の文学を 否定しそれ以前の時期の社会主義文学にも批判的な検討を加えながら,新 しい展開にすすみいってから7年になる。この間の文芸理論をめぐる討 論・論争についてみると,社会主義リアリズム論文学的ヒュ・一マUtズム 論,典型論,社会主義における政治と文学の関係,『文芸講話』再評価に 関して等,全体としては極めて活発な議論が積み重ねられてきた。とりわ け,形象思惟をめぐっては,それの否定論が文革期文学認識論の基礎であ ったという経過があり,またti・・…一般に文学家,芸術家が創作活動をすすめる 際の,科学者とは違った独自な思惟過程を説明する基礎的な理論にもなっ ていることから,多くの文学家,芸術家によって多面的な検討や批判が行 なわれてきた。後に詳述するように,中国において形象思惟に関する議論 が最初の高まりをみせた1950年代には,前後約20篇の専論と22篇の関説論 文が発表され,それ以外に9冊の文芸理論教科書と3冊の文芸理論書,2 冊の雷語学に関する著作で形象思惟が論じられたというω。しかし1978年 以降の論争では,管見の及ぶ限りでは,約2◎0篇の専論が発表され,形象 思惟(芸術的思惟)に関する考察を重要な部分として含む論文を加えると 優に200篇を越える数になる。さらにこの数年間に刊行された『文学概 論』或いは『文学的基礎理論』と題される文学理論書や『文学理論学習参 考資料』の類の資料にも,すべて,形象思惟に関するかなり詳しい叙述が みられる。こうした謂わぱ「百家争鳴」とも書える状況は,形象思惟が中 国の文芸界の理論動向や文学批判のありかたを深部で規定づけている重要 な理論であるばかりでなく,翻って創作活動の自由な展關ということに対
しても微妙な影響を現実にあたえていることを想像させる。
私は数年前に,1978年の一年間について中国における形象思惟論の展開
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を,日本の先行論文と併せて紹介し,指摘できる問題点を識したことがあ る(2>。そこで得た経過的な概括としては,先ず鄭季翅「文芸領域里必須堅 持馬克思主義的認識論」(1966年第5期『紅旗』,以下鄭季翅論文)に対す
る反論の論理が50年代の形象思惟論へ立ち戻っていく傾向をみせた,また 鄭季翅論文を批判の姐上にのせて新しい角度から形象思惟の存在と認識論
としての有効性を主張しようとした論文も,毛沢東の『実践論』や『文芸 講話』が提示する認識論的な枠組みを再検討するという方向に踏みこめな かったために,謂わば毛沢東の認識論を精細に文芸理論に応用した形の鄭 論文の死命を制するに到らなかった,さらに78年後半には,形象思惟を文 芸の表現技法としては認めるけれども,認識能力は認めないという実質的 な形象思惟否定論も出てきた,従って中国において,この議論を一歩進め るためには毛沢東の認識論的命題を批判的に検討することが不可避であ る,ということであった。
その後の経過を概観すると,78年当初には多分に政治批判的な色彩を帯 びていた議論の応酬が,次第に学術討論的な様相に変化していることにま ず気づかせられる。それだけ,論争が現実の文学界の動向にあたえるイン パクトは減じたものの,理論的には逆に精確さをましながら,芸術的思惟 の複雑かつ多面的な過程や性格への分析が進んでいるように思われる。本 稿では,ひとつはそうした形象思惟論の規在における理論的諸相を追いた いと思う。しかし同時に,1930年代よりこのかたの形象思惟論に関する議 論を通時的に概観すると,形象思惟を擁護する論とそれを批判するものと の角遂の歴史とも言える様相が浮ぴあがってくる。そこで文革後の形象思 惟論を検討する前提として,歴史的論争の論理と争点を再構成しながら,
数十年にわたる議論の重畳の中で,今臼のそれがいかなる到達点にあるの かについても可能な限り考察しておきたい。
・・・・・・…A
D1930−−40年代の形象思惟論
周立波の文学論
文学・芸術創作の特殊挫を説明する用語としての形象思惟i(形象的な思 惟)は,ベリンスキーeドブロリ。・,・一一ボフ,ゴンチャpeフ,ツルゲーネフ など,主として19世紀後半のgeシア罠主主義文学派の人々によって繁用さ れた概念であるが,中国には,左翼作家聯盟(左聯)の文学家たちによっ
2(123)
て,ゴーリキP−,ルナチャルスキr・一一・・,ファジェーエフなどのマルクス主義
文学論を受容する過程でもたらされた。雑誌『北斗』1巻3期(1931年11 月)には,ファジェーエフの「争取倣一個辮証唯物主義的芸術家」が「創 作方法論」と訳されて載っており,そこに形象思惟に関する叙述がみられ る。また胡秋原は1931年に「唯物史観芸術論一一撲列汗諾夫及其芸術理 論」《3》を著わして,プレハ・…ノブの芸術理論を詳細に紹介,評論している。
30年代に,最初に芸術的思索の特徴や特殊性について考察を推めたの は,周揚とともに左聯後期の指溝者であり,r国防文学論争」の主要な提 囁者でもあった周立波である。おそらくかれによって初めて,科学的思惟 に対置してr形象思惟」ということばが使われた。例えば,35年5月『読 書生活』第2巻第2期に戴った「文芸的特性」ゆでは,あらゆる文学には すべて,作家の政治的見解や哲学思想が浸潤していると,トレチャコフを 援用しながら,しかし文学と科学は感情と思想という境界で区別されるの ではなく,ともに思惟の産物であり,客観世界の認識手段であるとした上 で,「文学と科学の区別はそれではどこにあるのか?」と改めて聞い,次 のように述べている。
抽象的な観念から出発するのではなく,数字や概念から出発するので もなくて,芸術の光彩ある筆が描きだした生活の色調と芸術的手段によ って自然と思想を嚢現し,その思想と自然により,形象的なつながりを とおして,生き生きと社会的本質を再現する。矛盾と発展もその中に透 映されてくる。この形象を透過することによってわれわれは世界を認識 し,世界の矛盾と発展を認識する。これが文学である。
文学と科学はともに具体的現実から出発して世界を認識する目的をも つ。異なるところは,認識の形式にある。「科学は概念で世界を認識す る……芸術は形象的な形式(形象的思惟の形式)で同じように世界を反 映し認識する」(ミ・・・・…チン)「芸術は,ひとがかれをめぐる現実的な影響 の下で経験した感情と思想を再び自己の内部に喚起して,それに形象的 な表現をあたえた時のものである。」(プレハーノフ『芸術論』)(中略)
一切の概念と思想は,形象の中で,濃厚な溌刺とした彩色と,胸に迫 る感情としてあらわれる。文学作品は人類のあらゆる活動,あらゆる有
機的な,あるいは無機的なものに躍躍たる生命をあたえるのだ。
文学は人間の認識の表現手段としていかなる特徴をもつのか,現実生活 を,あるいは世界を認識しうるか,創作における主体の感情や思想はいか なる意味をもつのかといったことが,周立波のこの晴期のテーマであった
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と思う。「芸術的幻想」c5>「文学的永遠性」c6)「形象的思;19」 (7 「文学的界隈
和特性」(8)など同時期に書かれた他の評論にも,それは一貫している。周 立波は,主張すべき思想をもたないとかれが考える意象派,褒現派を拒否 しながらも,文学性,芸術性という観点からは「形象的形式」を重要なも のとみる。そしてそうした考えを導く上で,トレチャコフ,ミー一チン,ジ
ョン・ストレイチイらに多くを負っていることも事実である。
周立波の形象思惟論についてみれば,科学と区別される文学の特徴が形 象的な思惟に求められており,その意味では,形象思惟は強く肯定されて いる。しかし後に問題になる観点,すなわち科学的,概念的思惟が形象思 惟の過程に介在するのか否かが曖昧である。引用されている文章でいえ ば,ミーチンのそれは明確eZSO年代の形象思惟論に受け継がれている内容 であるが,プレハーmノフの文章は「経験した(感情と)思想」という抽象 的概念に,再び形象的表現をあたえるとも理解できる。そして,そうした 考え方は,典型鋤こは鄭季麺論文に展開されるように,反形象思惟論とし てまとめあげられていく見解である。おそらく当蒔,周立波自身にとって
この違いはまだ明確に意識すらされていなかったと思われる。
胡風の形象思惟論
螂季麹論文において,形象思惟を鼓吹して反マルクス主義の活動を行っ たと指弾されているひとりに胡風がいる。鄭論文のみならず解放後の形象
思惟否定論には必らず,50年代に「反党陰謀者」「反革命分子jと断罪さ れた胡風と形象思惟を結びつけた行論をみることができるし,文革後の形 象思惟擁護論においてさえ胡風を否定する意見は少なくないのが現状であ
る。確かに胡風は「作家の認識作用は形象思惟」に依るのであって,「先 にあった概念が再び 変化 して形象になるのではない」という見解に立
って「作家は,気醜をもって 論理公式の平面 を乗り越えなければなら ない」㊥と主張した。その筆勢は鋭く,批判者に対しては峻烈であった。
しかし胡風の評論は,鄭論文のように断章取義に走るのではなく,40年当 蒔の抗日戦争という時代的背景と,「国防文学論争」に揺れた文壇の情況
の中に還元して,文脈を追ってみる必要があるだろう。そうすることによ って,胡風自身の,時代の文学に対する痛切な思いとともに,その論旨も かなり明瞭になると思われる◇
胡風の第四評論集『民族戦争与文芸性格』㈹には,1937年から41年にか けて執筆した文学評論が収められているが,一連の評論を通観した特徴
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は,魯迅を回憶し論じた文章が多いことと,r論戦争期的一個戦闘的文芸 形式J(is>r論持久戦中的文化運動」q2)「昆族革命戦争与文芸」q3)r罠族戦 争与我個」q4)「昆族戦争与新文芸伝統」CIS》など,抗日戦争下の文学のあり 方を論じた評論が多数を占めていることであって,この評論集の一貫した 課題意識を体現している。こうした事情は,謂うまでもなく,1936年の
「国防文学論争」において,左聯を解散して漸たに「国防文学」のスロー ガソの下に広範な作家を結集しようとした周揚らに対して,魯迅とともに r民族革命戦争の大衆文学」という立場を提起したが,多分に孤立した闘 いを強いられ,しかも論争の渦中で師と仰ぐ魯迅の死と向い合わねばなら なかった胡風の,文壇における位置と無縁ではない。この時期の評論に散 見される,国防文学派文学者に対する多分1感情的な論法竜そうした経過
と関わっている。
さて,鄭季翅論文において凱判の対象となった「今天,我個的中心問題 是甚慶?」にはふたつの論点がある。ひとつは抗戦期の文壇を,より「理 論的」政治的に掌握し,指導しようとする傾向に対して,作家の自発性,
情熱などの主観や感情,また主体的意志を重視せよという主張であり,い まひとつは,詩的野情の「放逐」に反対するというものである。文学的典 型の創造について,かれの述べるところから具体的にみていきたい。
勿論,鄭伯奇既の8人物の生活とともにあること一口観察一㊧帰
納一一凶描写,あるいは羅薫庇の 概括 分析 精密な仕事…… は,
書い回しは多少異なるとはいえある点では一一致している。作家の,対象 (題材)に対する態度,作家の主観と対象の聯結していく過程,作家の 闘争意志と対象の発展法則との矛盾と統一の心理過程がまったく打ち遣 られてしまっていることである。
これはどのような結果をうむことになるか? 私が考』えるには,一一種 の冷静な,精密な, 単純 な,論理的過程となるだけであって,新し いリアリズムが一再ならず作家に求めている戦闘意志の燃焼,情緒の横 濫,生活より以上の高みに立つこと等は跡形もなくなってしまい,所謂 典型も,勢い,あちこち寄せ集めの,絵解き式の,死んだものになって
しまう。
現在の中国文壇は,一般化して言えば,理論がついに紙上の理論に過 ぎなくな・ってしまっているのだ。
このような文脈の上に,生活,理想,時代の新しい性格について考察す ることから得た結論が,真に美しい価値の創造にまで到っておらず,r理
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論的な公式の平面上にとどまっている」というC・ヴォルフマンの指摘を 繋いだ上で,鄭季翅論文が引用する個所に続く。
そうだ,この後には作家にとって困難な奮闘の過程が控えているの だ。もし芸術(文学)を芸術(文学)たらしめたいのなら,もし芸術(文 学)に本来あるべき威力を得させようと書うのなら,作家は気擁をもっ て 論理公式の平面 を乗り越えねばならない。
ここで,胡風の熱を帯びた議論の意図は,一一定の創作理論や手順に則っ た,型にはまった文学の創造ではなくて,血のかよった作家の,現実生活 に対する主観的ではあっても瑞瑞しく繊細な感性や,激しい情緒,主体的 意欲などを,創作にとって普遍的に重要なものとして重視しようというこ とであって,決してr論理的公式」や,創作における論理的思惟の意味を 否定することにあるのではない。況んや鄭論文のように,こうした見解を
r世界観と創作方法の矛盾を強調する」とか,「世界観の作家に対する指 導に反対する」と解釈するのは甚だしい歪曲であろう。胡風の形象思惟論 はあくまでも,作家が膚律的,主体的に,情熱をもって現実と関わってい こうとする意欲を根拠づける思想として出てくる。
具体的に作家の主観と対象との結びつきの過程に対する探求を経,具 体的に客観的現実と形象との統一的な探求を経るのでなかったならば,
批評家の筆のもつ政治的任務,蒔代の使命などは,ひとつなぎの論理的 公式の殻を並べたてただけのものにしかならず,硬直した,白紙上の黒 字になりおわることを免れがたい。
形象的思惟の認識過程という課題からみれば,胡風の見解は漸く問題の とばくちにさしかかったに過ぎないと言えよう。客観的現実の対象を基に して文学的形象が塑造されていく過程で作家の主観や情感がどのように介 在していくのか,作家はどのような形で現実を認識し,それを作品に形象 化するのかといった問題は,胡風にとってもまだ模糊としたままで残され ている。ただかれは,当時の「客観主義」,政治思想優位の文学状況や単 純な創作方法の横行する作家集団の中にあって「概念が文学を生みだすの ではない」という信念にも似た見解を対置したにすぎない。
胡風は,当時創作をめぐって「あの事件は本当に偉大だ。あれを題材に して早く作品を書かなければj,「私の作品内容はまったく 積極人物 な のに,どうして眼識のない批評家たちは誉めてくれないか」,「私の作品の イデオロギーは正しいのに失敗作だというのなら,齎は反革命だ……」と いうように,現実からの要請や,思想性を重視するあまり,ひとりひとり
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の作家の精神や思考を粗略にあつかう雰囲気があったとし,これに対して 次のように述べる。
これは,概念が直接文学を生むことができるということであり,文学 の主題は,楽楽と,運びこまれた合理的結論に依拠するということだ。
こうすれば,作家の精神活動はいかなる準備もいらないし,実際の創作 過程も,苦労をともなわないような性質のものになるわけだ。
合理的概念に反対するのか? そうではない。創作過程は合理的概念 によって導かれ制御されうるし,またそうでなければならない。だがそ うでははあっても,文学はやはり自己の道をもっている。文学の認識と いうのは,作家の意識に対し,特殊な方法で最高度に格闘することを求
める。
成功した作家の「描く主題は,かれが熟知し,経験し,深く思いを致 してきた,再三にわたって感じ続けてきたことがらなのである。」(レー =ン)熟知,経験,深く思いを致す,は当然のことである。しかしなぜ 「再三にわたって感じ続けてきた」ものでないといけないのか? 文学 は形象を創造するのであり,従って作家の認識作用は形象的思惟である からだ。決して,先にあった概念が再度 変化 して形象になるのでは なく,可感的な形象状態のままで,人生と世界を把握する。(中略)そ れゆえに,芸術の蓑現能力はまさしく芸術の認識能力のひとつの面であ り,芸術的認識能力があることによってはじめて芸術的表現が可能にな るのである。
胡風は,概念が形象に変化するのではない,作家の認識は「可感的な形 象」のままで,また生活や感覚と結びついたままで,それを構思すること によって行なわれる,と言うのである。その限りでは,これは概念・思想 を排除して,思惟の基礎要素を形象にもとめ,形象から形象への連想,形 象による想像と再構成が所謂形象思惟であるとする19世紀Ptシア民主主義 学派の見解を透写したものであり,また5◎年代の申国における形象思惟の 基本的な考え方ともあまり変わらない。しかし胡風は一方で,創作過程ほ 概念によって導れるとも述べる。形象から形象へと継踵される思惟に対し て概念・思想はどのような働ぎをするのか,また創作が現実の単純な模写 による再生ではないとすれば,客観対象が作家のどのような認識回路を経 て文学的形象に転化するのか,「感覚に滋かれ,深く生活にはいって,形 象を抱きかかえる」ところから,如何にして「薪しい思想内容をもった芸 術生命」が創造されるのか,その複雑で循環的なプPtセスのありようが,
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形象的思惟の「特殊性」として問題になるところなのである。概念と形象 を区別はするが,相互の関係を具体的に考察しない胡風にはこうした課題 は導きえない◎
しかし,胡風の評論の主眼がそうした問題の解明にあったわけではない ことも事実である。30年代にモダニズム詩人であった徐遅が,最近の抗戦 詩歌の中には拝情的あるいは感傷的なものが多くて,その価値を疑わざる を得ない,敵のr爆撃が多くの人間と彗予情を爆死させてしま・ったのだか ら,それでも爆死させられない詩の責任は,われわれの爆死させられない でいる精神を描くことなのだ」q6)と, 捌青の放逐 を唱えたことに対し て,r爆死さぜられない精神」は必要であるけれども,それを体現する詩 人の精神活動を無視することなく,詩人のr個」としての情緒の中に生命 を汲みとるのでなければ意味はないとして,次のように述べている。
ふりかえってみると戦争よりこのかたの詩は,(中略)もし 感傷主 義 と,現実生活が詩人の主観に反映する苦脳,仇恨,興奮,感激…等 の格闘精神とを混同してしまうことさえなければ,われわれにとって決 して理解しがたいものではないし,情況がそもそも,そのように簡単で はないのだ。(中略)
詩人の個人的情緒の能動作用とk3己闘争を経るのでなければ,それ は,思想概念に強奪され生活現象に屈服することになる。
このように見てくると,胡風の形象思惟論の真価は,認識論的な精緻さ に求められるのではなくて,芸術精神活動の捕捉しがたい複雑,微妙さの ゆえに,文学者の主体的,主観的な感性の飛翔を認め,創作という営為に 広やかな自由と可能性をあたえようとするところあったと理解できよう。
むしろ戦争の聴代であればこそ,文学,芸術における多彩な精神的風格多 様な現実反映の道を認めようと主張する契機として働いていたのである。
解放後の文学界において,また文革後にあっても,理論上の個々の懸隔に もかかわらず,形象思惟を擁護する思潮がもった現実的意味もまた創作の 自由の保障という点にあった。形象思惟論者は,論理的帰結として文学芸 術の相対的自立性を強く主張したのであり,またそれがもたらした自由な 空気の中で,例えば劉賓雁『橋梁工事場にて』(1? )や白樺『苦恋』q8}もうま れたのである。その意味では,文革後の形象思惟論が,胡風の文学論の本 格的な再評簡を行なわずに,依然として「文芸創作の特殊性を一面的に誇 大視し,形象思惟を絶対化,神秘化するJCtg>ものと批判することは,みず から前途に隣路を用意するものと言わねばならないだろう。
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藥儀『斬芸術論』における形象思惟
中国において形惟思惟論をはじめて美学的・哲学的認識論によって基礎 づけようとしたの瞭儀である.原名は藥南冠・1906年生まれ・29年醸
日し,はじめ東京高等師範,次いで九州帝国大学に学び・37年7月盧溝橋 事件が勃発するや,抗日救亡活動に従事すべく帰国している・解放後も北 京大学文学研究所(現社会科学院)などにあって文芸理論界の指導的存在 のひとりである。藥儀の形象思惟論は『新芸術論』(1943年・商務印書館)
の「芸術与科学」に詳しい◎
藥儀は,意識活動は感覚を基礎として開始されるが・芸術活動は単純な 感覚,思惟ではなく,抽象概念を基礎とする思惟とも異なるとし・芸術認 識とは,感覚より一歩を進めながら感覚を否定しない認識を言うのであっ て,それは「思惟」を経ることを否定するのではないと述べる・そして・
芸術認識という精神活動はどのようなものであり,その認識論上の基礎は どこに求められるのかと問題をたて,それセ塔えるためセこは憾性から知 性への認識過程」が分析されなければならないとする・藥儀においてはじ
めて芸耀識論的な観点から憾覚→知覚」の謝過程が具体醜獺さ
れることになる。かれはまず,認識とは,芸術認識も含めて・ある種の抽 象機能であるということを前提に,感覚から表象表象から概念,そして 概念の二面的性格の指摘をつうじて・それが形象的思惟の特殊性と深く関 わることを述べる。以下,察儀の論旨を要約し摘記してみよう。
認識は弁証法的なひとつの過程である。それは客観的現実が感覚を刺激 するところから始まるが,感覚器官(感官)は客観的現実の「部分的属 性」を反映する。この晴,現実自体は具体的であるが・感官の現実に対す
る反映は抽象的である。しかし感官が反映する現実の属性は・われわれの 意識に対しては具体的なのである。
感官が多く集められると,個々の感覚は棄てられる一方・現実を反映す る属性は総合されて,比灘充実した,現実そのものua接近しうる表象を 構成する。表象は,反映されている個別的,客観的現実に対しては抽象的 であるが,個々の感覚からみれば具象的である。また表象は,感覚された 内容に対しては個別的であり,感覚形式を捨象している点では普遍的であ る。ところで客観的規実は絶対的に個別的ではなく・無限の連関と変化の 中にあるから,認識の過程としての表象は断えず普遍化と概念化の傾向を 強めざるをえない。
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次に,多くの蓑象の中から表象の共通する属性を概括,普遍化して概念 を構成する。概念の構成は思推による比較,分析と総合の過程を経る。蓑 象の構成に関わる意識の能動性は小さいが,概念の構成に関わる意識の能 動性は大きい。従って概念の形成は感覚認識の終結であるとともに,知性 的認識の開始である。
藥儀はこのように,認識過程における概念の成立を説明した後,概念を 抽象的な側面と具象的な側面とに分解し「具象的概念こそ形象的思惟の基 礎である」と展開する。
概念は一面では個洌の特殊な属性を棄てさるが,これは一般に所謂思 惟の抽象作用である。他の一面では共通する属性を概括するが,これは 一般に所謂思惟の具象作用である。従って概念は個別の表象,個別の表 象が反映する個別的現実に対しては,抽象的,一般的であると言いうる けれども,しかし概念は,その他の概念との連関,即ち全体的な客観的 現実の連関の環と運動の契機としてみたときには,それは個別の客観的 現実のある種の本質的属性を反映する。この時,概念は具象的であり,
個別的である。(中略)
蓑象を普遍化した概念は,まさに抽象的に一般的な客観現実を反映し ているので,それは本質的に一般的,抽象的であるといえる。しかし,
客観現実自体は原来,絶対に普遍的なものではない。(中略)従って概 念は一方では表象の普遍化であるが,他方では表象と完全に離れてしま っているのではない。ここから概念にはふたつの傾向があって,ひとつ は表象と離れる傾向,いまひとつは表象と結合する傾向であると言いう る。前者は概念の抽象性であり,後者は概念の具象性である。(中略)
事実上,概念はわれわれの意識の中では,思惟の具象的作用によって,
随時,具体的,個別的な形象を喚起することが可能である。この具体的 個別的な形象を喚起しうる概念は,あるいは具体的概念ともいうことが できよう。この具体的概念が所謂形象的思惟の基礎である。(中略)
この具体的な概念に基いて,さらに高次の形象思惟に進むことができ る。所謂形象思惟は一般の所謂芸術的想像と同じである。即ち,具体的 な概念によって既知と未知のものを結びつけ,既知のものどうしを互い に関連させて形象的判断を行なう。未知のものを互いに闘連させながら 形象的推理を行なう。
こうした具体的概念による認識こそが,芸術的認識の基礎である。
察儀においては,科学は抽象によって思惟し,芸術は形象によって思惟
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する,形象から形象へ転移し飛翔するのが芸術的想像であるといった19世 紀的な単純化はもはや見られないばかりか・概念と形象を対立的にみる考 え方そのものが乗り越えられている。思惟は,形象思惟であれ,論理的思 惟であれ,ともに抽象化過程を経るし,また概念的なものであることを前 提としつつも,ただ概念が具象的側面と抽象的側面を併せもつことを指摘 した点は藥儀の認識論の創見であり,形象思惟論を認識科学として捉える 上で決定的な要因だったと言える。またこうした藥儀の形象思惟論は,か れが留学していた1930・年代の日本における芸術哲学あるいは芸術認識論の 影響があるのではないかと考えるが,この点はまだ詳らかにしない。とも あれ,察儀の論がその後の形象思惟論の基礎にあることは事実であり・40 年代における理論的水準をこれによって確認しておきたい。
二.1950年代の形象思惟論
解放後の形象思惟についての討論は1956年以降本格的になる。
ソ連共産党20回大会におけるスターリン鋤判とその後の「雪溶け」es , 中国の文芸・学術界にも少なくない動揺と変化をもたらした。中国共産党
は「プPtレタリア・・ ・−tト独裁の歴史的経験について」(1956年4月)によって,
この問題を総括し,同聴に芸術・学術上の「百花斉放・百家争鳴」という 方針を打ち出した。この言論自由化,開放政策の中で,社会主義的民主主 義をめぐって,多くの知識人の積極的な発言が編継いだが,文芸界でも,
解放後の文学,芸術のあり方を批判的に踏えながら,創作におけるr公式 化・概念化」の批判,または噛然主義」的傾向の批判・文芸理論批判 における「庸俗社会主義」批判などが臓出した。とくに56年のr文芸報』
は第3号に「関於文学芸術中的典型問題」と題する論文をソ連『=ムニス ト』誌から転載し,次期号からは「関於典型聞題的討論」という専欄を設 けて,張光年,林黙滴,黄薬眠,陳涌,巴人らの議論を掲載した。形象思 惟論も典型論などと関連づけられながら,こうした思潮の変化の申で盛ん に論じられたのであり,後にみる陳涌「関於文学芸術特徴的一些問題」㈱
は,この『文芸報』専欄に発表されたものであるし,上・E 2ム=スト論文
がそもそも,ニコラエヴァ「論芸徳文学的特徴」㈱(以下==ラエヴァ論
文)とともに50年代の形象思惟に関する討論を活発にするきっかけになっ
ていたのである。文革以前の形象思惟潤係の論文,文献を通覧すると,そ
の多くが56・57年に集中していることがわかる。ただ,周知のようにこの
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開放政策は長くは続かず,「妖風」を吹かせておいて,これを「撃退」す ることを目的とした毛沢東は〈22>,57年6月頃から反攻に転じ,各分野に おける反「右派」闘争を繰り広げることになる。
文芸界では55年の胡風批判とも結合して,『文芸報』編集部,薦雪峯,秦兆 陽らへの批判,また朱光潜の美学思想に対する批判などが行なわれた(23》。
r文芸報』典型問題の専欄に執筆した上記文学者たちも軒並みr右派」と して断罪されていったのであるが,こうした「右派」批判論文のひとつと して書かれたのが,陳涌を批判した毛星r論文学芸術的特性」㈱であっ た。50年代に書かれた学術的な論文も少なくないが,それは文革前後の形 象思惟論を概観する際に併せみることにして,ここでは所謂反「右派」
闘争前後の時代と文芸界をめぐる情勢の中で,形象思惟に関する議論がど のような現実的意味をもっていたのかについて,陳涌,毛星論文を中心に みておきたい。
何森,陳涌の形象思惟論とソ連文芸論の影響
典型問題討論の先躍となった『コムユスト』誌の「関於文学芸術中的典 型問題」は,ソ連文学と芸術の発展は社会主義リアリズム美学の発展と 切り離せないが,その見地から,美学理論,とりわけ典型形象問題は美学 領域で解明を求められている緊要な課題である,として,典型を単純,機 械的な社会的本質の顕現とみることはr哲学」的あるいは「庸俗社会学」
的謬論であると批判する。その中で形象思惟についてみれば,「一般と個 別と特殊の中で再現するのでなければ,芸術的,県体的な感性形象をもつ ことは不可能である。典型的霧物は一旦ある種の抽象的なものとして描か れなければならないのだとすれば,芸術形象はその感触性を失って公式に 変ってしまう」と述べている。また,ショ・一 ptホフの作晶にみるような,
芸術上極めて鮮開な形象の例は「典型をたかだか社会的本質の煩環な哲学 であるとするだけの議論を明確に駁斥している。これらの議論は,リアリ ズム芸術における芸術概括の性質を曲解している」とする。こうした,形 象思惟についての指摘が討論を引き起こすきっかけになったと思われる。
ニコラエヴァ論文は,53年に執筆され,54年に申国で翻訳されたが,論 理思惟と形象思惟を,現実を反映する異った方式として区別し,形象思惟 は芸術と詩学の永遠性にとって極めて重要であるとして,次のように述べ
た。
抽象的なすべての過程は形象思惟と論理思惟とを問わず一様である。
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その区別は,抽象的なものが具体化する時に始まる。科学における抽象 的なものは論理的に具体的なものの本質を洞察し,芸術における抽象的 なものは,形象をとおして具体化される。私は,この観点は不正確であ り,こうした理論的前提を基礎として真の芸術作品を創造することはで きないと考える。(中略)
形象思惟の過程で,現象的本質の概括と認識は,そもそものはじめか ら,具体感性の特徴と,ディテー一ルに対する選択とが密接に関連しなが ら,同時におこるものである。現象的本質は,これらの具体感性の特徴 とディテーmルをとおして,充分に豊かな感動をともなって表現される。
ニコラエヴァ論文が,認識論的にみて特に新しい知見を備えているとい うわけではないが,こうした論調が,ややもすれば政治思想に手枷足枷を はめられて,硬直化しがちであった文芸情況に,理論的な面から再検討を 加えようと意欲させる雰囲気をともなっていたことは事実であろう。
こうして,中国共産党によって唱えられた「百花斉放・百家争鳴」と,
文芸の独自的特徴を問い直す思潮の中で,先ず何森r不能離開形象思維的 特殊規律」〈25)は,r長江文芸』56年1月号に載った程千帆の文章において,
「主題」が作命の基本問題であり,思想は,作家の主題に対する解答であ って,あらゆる人物,物語,ディテ・・…ルの描写は問題の解答にr服務」し なければならないと述べられているのを捉えて,文学的「主題思想」の概 念に「機械的,庸俗的な解釈」をおこなったものであると批判した。
先ず作晶の主題思想をつくりあげて,しかる後に再び人物,ストーり 一一,物語をこの抽象概念に 服務 させるという。程千帆同志がここで さらけ出しているのは,形象思惟の法則生に対する誤った見方である。
(中略)
こうした見方は,形象思惟と論理思惟を本質において混同し,何も根 本的な区別のないものに変えてしまい,表現方法においてのみ違いを認 めようというものである。芸術作贔の主題思想は,作晶中の形象があら かじめ独立した存在であることと切り離せないものだということを,こ うした見方をする人は理解でぎない。主題思想は,形象の豊かさと深さ に伴って,また人物,ストーり一の理詰めな発展と漸次の深化に伴って 徐々に形成されるものである。
人物の塑造やストー・・…リーの構成はすべて主題思想から導かれねばならな いとする程千帆の論は極端な「公式化,概念化」論であるとしても,それ を批判する何森にも,「形象思惟の法則性」についての解明があるわけで
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はない。何森の狙いは,形象思惟が単なる表現技法ではなく,認識能力を もつとする見解を挺子にして,断えずr主題思想」だけを問題にする硬直 した批評原理から形象的な想像を解放することにあると言えよう。その意 図は40年代の胡風につうずるが,より重要なことは,陳涌が更に一歩踏み こむことによって問題状況をより明瞭にしたように,こうした論調がr実 践論』や『文芸講話』に背馳する内容を含んでいて,当時の支配的オーソ
リティの否定に二向いかねない要素を包摂していたことである。
陳涌論文が直接,批判の対象として取りあげたのもやはり程千帆のrr実 践論』対於文芸科学幾個基本問題的啓示」 26)であり,批判の論点も何森と ほとんど変らない。即ち,程千帆が現実の認識形式としての文芸と他の科 学との基本的一一致点を強調して,文芸も「感性認識」から「理性認識」そ
して「実践」の過程を踏む,第一段階は「認識jでありe第ご段階はr形 象による表現」であるとすることなどを駁して,「文学芸術の特殊な性質 と任務を否認した庸俗社会学」であると述べる。ただ・ここで「庸俗社会 学」と抵判される対象は,==ラエヴァなどにあっては,おそらくフリー チェ流の「芸術社会学」的な方法であるのに対して,何森,陳涌らの場合 は毛沢東の認識論なのであって,ここに,50年代「整風運動」の中で・形 象思推をめぐる討論が特異な政治的緊張を帯びざるを得ない原因がある。
試みに,陳涌による批判の対象となる程千帆の論理を抜粋してみる。
文芸作品の創作過程は,さらに具体的に書えば,やはり人類の感性段 階をつうじて獲得した客観的環境と人物性格に対する特殊な認識を・理 性段階をつうじて一般的普遍的な認識eこ高め・さらに一般臨普遍的な 認識を作品の中で,個別,特殊の環境と人物をとおして形象的に褒現す るのである。
一見して明らかなように,程千帆の論は,①認識の階梯化と蓑現の分化,
②創作的営為それ葭体に認識を認めないという点で,毛沢東のIi実践論』
を文芸認識論として透写しているし,程千帆自身もそれを否定しない。こ れに対する陳涌の批判はまことに刺激的であり,かつ鋭い。
この公式はまさに典型的な庸俗社会学の公式であり・それは真の文芸 科学と無縁である。この公式に従って創作すれば,芸術的生命をもたな い公式的,概念的作品がうみだされるだけである。(中略)
形象思惟と論理思惟を対立させるならば,反理性主義に赴くことにな るだけである。(中略)
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作家と芸術家の創作過程を,躰一抽象一具体の 三麟論 に 規定することは,実際には次のような結論に導く。即ち・作家と芸術家 は,作家,芸術家である前に先ず科学家にならねばならず・形象思惟を すすめる前に論理思惟を行ない,論理思惟の到達点があってはじめて形 象思惟に到ることができる。こうした結論は,マルクス主義の文芸科学 とは微塵の関わりもない。
文芸科学と「無縁」とか,「微塵の関わりもない」といった言葉は毛沢
勲轍こ名指ししなくても帽文芸界セこおいては溺ら旅毛沢東の権 勲なみする批判と受けとられうるし,しカ・轍鰍の鰍と認められよ う。そうし懐現について晒く措くとしても・この論理は嘆践論』に おける認識論の根幹姪面的セこ否定することになっていると謙る・しか
も陳涌は「マルクス蟻は文芸創作中のリアリズム施括しうるだけで・
それに代ることはできない」 ・2vという毛沢東文芸論においては建前とみえ る部分,少なくとも実践的セこは建前としてしか機能していない言葉を論拠 にして,毛沢東の一般論を無理遣り,文芸という「専門部門」にあてはめ
るのは「読書バカ」のやることだと述べる。
陳涌の批判鉦鵠を得ているかどうかは・別に検討頒しよう・しカ し
歴蜘には練涌が形象思惟論の鯉性を翻するために激えて険践 翻搬討嘲上瞭せ,批判したとし・嬉実噸め鍾要である・5G年
代以来の形象思惟論がr実践論』と理論的に底触する部分をはらむ以上,
文鞭の今印こおいてもこの課騨粗騨すませら紘いはずである・
しかし現実には,毛沢東批判に赴くべき理論が説に片耽る毛沢東の一 書簡によってド復権」せしめられるのであって,ここに中国文芸界の自律
の遼遠なることを感じざるをえない所以がある。
ともあれ,それでは陳涌自身の形象思惟論,創作過程論はどのようなも のであったか。まず基礎となる考え方をマルクス「『政治経済学批判』序
訓の噸脳の中で騰の全体とし硯われるような全体は・購する頭 脳の勲であり,この購する頭蹴自分に唯一可能な様式で世界縮 己のものとするが,その様式は,この世界を芸術織申鵬宗教精葡 に渓践織轍こ記のものとするのと膿なった様式である」(鯛)という 一節に求めて,次のように解釈する。
マルクスがここで言う・・思考 は専ら論理的な思惟を指すと解釈する
必要はない。マルクスはここで明白に,科学的思惟と芸術的思惟は,二
種類の異なった思惟方式であり,二種類の異なった世界に対する 把握
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方法 であると指摘している。
こうした「序説」の解釈が妥当か否かは,おそらく議論の別れるところ であり,事実,文革後の議論においてすら,この点は・形象思惟をマルク スによって論拠づける際の争点のひとつになっている。しかし陳涌が,形 象思惟のマルクス主義的理解のために,この論拠を提出した先躍的な意味 鳳確認されてよいと思われる。そして陳涌は・この措辞に立脚して,「芸
術的概括Jと「科学的抽象」の相異について,次のように述べる。
当然,芸術的に現実を反映するにもまた,現実生活の現象を概括する 必要がある。しかし,芸術的概括を科学的抽象とみなすべきではない。
芸術的概括,芸術的分析,比較,提案などの過程は・常に芸術的思惟の 印象・記憶を帯びないわけにはいかず,常に芸術思惟の特徴を帯びてい ないわけにはいかない。芸術思惟は作家と芸術家の全創作過程に浸透し なければならない。芸術家は加工する過程で常に抽象思惟の援助をうけ るが,それは,その芸術加工の対象となる事物の個別化,具体感性的特 徴のためであって,抽象的事物に呑みこまれてはいけない。
芸術思惟もまた「概括」を行なうが,その過程には常に具体的印象・記 憶が結びついており,それは,創作の全過程を貫く,芸術思椎も典型化の ためには抽象思惟に「援助」されるという説は,50年代にあっては・とく に目新しいわけではないが,陳涌の評論は,その中でも早期に属するもの ではある。しかし同時に,「概括」それ自体が既に抽象的営み(即ち思惟i)
であることを,形象化との関係でいかに説明するのか,「印象・記憶」を 帯びた概念とはどういうものか,r芸術的個性化」という最も形象的思惟 が発揮されるべき過程で,抽象思惟が必要だとするならば・形象思惟は成 り立たないのではないか等,50年代の形象思惟論が十分に解明しないまま に残した疑問や理論的通弊から,陳涌の論も自由ではない。
毛星の陳涌批判
毛星r論文学芸術的特性一一評陳涌等関於文学芸術的特性的錯誤意見 一一 vはf57年10月2日完稿」と付記されて『文学研究』第4期に載っ た,かなり長大な論文である。すでに前年後半から広範に展開されていた
「右派」批判の一環をなしており,「文学芸術の特殊性」を論じつつ,当 蒋文芸界に存在したいくつかの間題,例えば文芸の神秘化や党派性などに も触れた政治性の強い論文でもある。陳涌らは既に「右派」という烙印を 押されているので,毛星の論調も,「『文芸報』に加わった右派分子,同人
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で刊行物を出すという秘密活動を行って,党の文芸に対する指導に反対し た陳涌は,他人はすぺて文芸を知らず,かれと薦雪峰だけが文芸を知って いるかのような顔をして現れて」云々というように,一一方的な,既に批判 された者への追い撃ちになっていて,対等の論争ではない。その意味で毛 星論文は典型的な政治的断罪文であり,反形象思推論としてみてもかれ
の芸術認識論が包括的に提示されているわけではなく,理論的体系性はほ とんどないと習える。
毛星の陳涌批判の論点は,まずマルクス『政治経済学批判序説』に関わ ってであり,「マルクスがまるで独得の芸術思推を主張しているかのよう だ」として次のように述べる。
もしマルクスの言うところの四種の方法が四種の思惟を指すならば,
科学的 は 論理思惟 で 芸術的⇒ は 形象思惟 とかであるとし ても, 宗教的 と 実践精神的 は何思惟になるのか? 論理思惟 と 形象思惟 とか言うものの他に,まだ 宗教思惟 とか 喫践精神的 思惟・・が存在するというのだろうか? 明らかにそう言うことはできま いo
そして,毛星は,思惟の根本的特性と法則はひとつであり,ただ思惟する 内容に違いがあるだけなのだとする。後の反形象思惟論には・思惟の方式 と思惟の内容の分離として把握され継承されていく点である。
次にr概念」と「形象」の関係について,思惟活動は,概念・推理・判 断を離れるわけにはいかないと『実践論』を敷術した後で,
試みに,いくらかの形象だけで,いかなる概念,判断,推理もそこに 加わらず,ただ,眼をこの形象からあの形象へと移行させるだけである とするならば,どのようにして思惟が推められると言うのか,何故それ が思惟と呼べるのか?
と問う。これは,既に見たようee ,陳涌の形象思惟論挑判としては当を得 ておらず,曲解であるが,むしろ毛星の論旨は,従って形象思惟論がクロ
P・・ri
̀ェ流の「直覚主義」,「反理性主義」と選ぶ処がないと論断することに
あると言える。ただ,毛星の場合も芸術活動のある種の特殊性は認めない わけにはいかないのであって,ゴーリキーの「想像は,形象を創造する文 学技術の最も本質的な一方法である」という言葉を引きながら,想像ある いは幻想は,確かに「形象を借りた思惟」であるけれども,しかしそれは
「思惟の起点」にしかすぎないとして,その認識作環を否定する。
結局,毛星の反形象思惟論の基本的観点は次のような行論に尽きよう。
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形象思惟という用語は非科学的である。思惟は大脳による認識活動で あって,概念,判断,推理を離れることはできず,ひとかたまりの形象 ではありえない。具体的な形象をもった表象は,外界の事物に対する初 歩的な抽象作用であり,僅かに,感覚から表象への推移についてみて も,この活動には思惟の意味は含まれているのである。ただそれは思惟 の萌芽にすぎないけれども。
ここで毛星が,思惟の基層単位としての表象ですら,既に客観現実の再 現ではなく,初歩的な抽象作用を含んでいるとする指摘は,察儀の論を承 けたものとして重要である。このように藥儀の「具体的概念論」は藥儀自 身の意図を越えて,反形象思惟論にとっても,一定の論拠となる面をもっ ていたと言えよう。
毛星論文の意図は,しかし,形象思惟論そのものの批判にあったと言うよ りも,それを挺子として,文芸の「神秘化」を批判すること,あるいは
「直感主義」,思想性の無視から,文学の独自性を振りかざしてr党の指 導」に反対し,「思想改造」の課題を受け容れないといった文芸情況その ものに批判の鋒先を集中することにあった。それは,90パ1一一・一セントの知識 入が「思想改造」を拒否していたとも冒われる反「右派」闘争当蒔の状況 下にあって,所謂「整風運動」の政治鷺的に忠実に沿った論理であった。
ただ,右派批判をつうじて,朱光潜批判にみられるように,例えば美学・・・… ・ 般にマルクス主義美学を等置するような,美学概念の狭騰化,研究の統制 は推められたが,それにもかかわらず,形象思惟を論ずること自体が否定 されることはなかった。おそらくそれは,形象思惟論がソビエト文学理論 に範を取るものであったことと深く関わっていようが,いずれにしても=
コラエヴァ論文の発表から,58年頃にかけて,学術的なレベルで,謂わば 50年代形象思惟論の理論体系が構築されていくのである。そしてそれは,
鄭季翅論文が直接,批判の対象とした理論体系であった。
註
(i)張錦池「試談形象思維的歴史発展」(『形象思維問題論叢』吉林人罠出版 社,1979年,所収)
(2)拙稿「形象思惟論の展開」(r野草』25号,中国文芸研究会,1980年)
(3)鵡秋原「唯物史観芸術論一撲列汗諾夫及其芸術理論」(『文学芸術論集』
(上)民国68年,所収)
(4) 「文芸的特性」(周立波『三十年代文学評論集』上海文芸出版社,1984年,
18(107)
所収)
(5)
(6)
(7)
(8)
(9)
「芸術的幻想」(同上)
「文学的永遠性」(同上)
「形象的思索」(同上)
「文学的界限和特性」(同上)
胡風「今天,我イ門的中心問題是什塵?」(『胡風評論集(中)』人罠文学出版 社,1984年,所収)
(10)
(11)
(12)
(13)
(14)
(15)
(16)
(17)
(18)
『昆族戦争与文芸性格』(同上)
「論戦争期的一個戦闘的文芸形式」(同上)
「論持久戦中的文化運動」(岡上)
「厩族革命戦争与文芸j(同上)
「民族戦争与我儒」(上同)
「民族戦争与新文芸伝統」(同上)
徐遅「仔惰的放逐」全文は未見。
劉賓雁「在橋梁工地上」(『人民文学』1964年4月号)
白樺r苦恋」(『十月』1979年第3期)
(19)蒋孔陽r形象思維理論的歴史発展」(『文芸論叢』4号,上海文芸出版社,
1978年)
(20)陳涌「関於文学芸術特徴的一些問題」(『文芸報』1956年第4号)
(21)==ラエヴァ「論芸徹学的特徴」(鷹轍学芸術論文剣学習雑誌社・
1954年)
(22) 『毛沢東思想万歳』(東大近代中国史研究会訳,三一書房)
(23)林道生「『美学論争』について(一)J(静岡大学教養部『研究報告』人文・社 会科学篇,第17巻第2号,1981年)参照。
(24)毛墨「論文学芸術的特性」(原載『文学研究』1957年4期。『論文学芸術的 特性』人民文学繊版社,1958年所収)
(25)何森「不能離開形象思維的特殊規律」(『文芸報』1956年11号)
(26)程千帆「『実践論』対於文芸科学幾個基本問題的啓示」(『文芸報』1953年 9号)
(27)毛沢東「延安の文学・芸術座談会における講話」(1942年δ月)(『毛沢東選 集』第三巻)
(28)マルクスrr経済学批判要欄への序謝(rマルクス資本論草稿集』L大
月書店, 1981年)
(106)19