Title
気候変動と沖縄の災害 : 1780年代を考える
Author(s)
山田, 浩世
Citation
論文集「防災と環境」(1): 25-30
Issue Date
2012-08
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/20010
Rights
沖縄防災環境学会
論文集 「防災と環境J
気候変動と沖縄の災害
-1780
年代を考える
1.はじめに 気候変動に対して社会は、どのように対応して きたのだろうか。これまで気候変動については、 気象研究(学)を発端に地理学や歴史学などを含 む諸分野が合流しつつ、気候学と呼ばれる研究領 域を形成し進められてきた1。気候学における研 究の蓄積によって数万年にわたる気候の変化が、 人類の歴史に大きな影響を与えてきたことを明ら かにしている。 一方で、琉球弧の島々で見られた自然現象(災 害)と気候変動との関係については、十分な議論 はなされてこなかった。古気候復元の取り組みや 分析の指標も検討されておらず、同時期の日本や 中国における環境変化に対し琉球弧の島々では、 どのような状況が発生していたのかもはっきりと していない そこで本発表では、先学の研究成果に依りなが ら、 16世紀から 19世紀半ばの 「小氷期」と呼ば れる世界的に寒冷な時期、とりわけ気候変動の激 しかった 1780年代を例として、琉球においてど のような災害と現象が展開していたのかを歴史史 料に基づいて見ていくこととしたい また、本発表が 1780年代を取り上げるのは、 同時期に日本で、江戸の四大飢僅のーっとして有名 な天明の大飢僅が起こり、火山噴火や異常天候と いった自然災害が世界的にも頻発した時期だ、った からである。広範な地域で発生していた災害との 連動性について検討し、当該時期における琉球に おける災害への対応状況を明らかにすることとし たい 2 近世後期の気候変動と災害の頻発 気候学において気候変動とは、平均的な気象状 態(気温や降水量など)の平均的な推移に対し、 値が大きく揺らいで観測される状態を指す2。例 えば、夏における平均的な気温に対し、極端に冷 え気温が低かった場合は、それだけ大きな気候変 動をともなう冷夏の状態にあったと言える。 日本における気候変動については、1980年代に 解明が進み、16"-'19世紀半ばまでの300年間は、 世界的に寒冷な時期であったことが明らかにされ た。この時期は「小氷期J と呼ばれ、その中でも 温暖期と寒冷期が繰り返されていた。近世後期の 気候変動を概括的に示せば、 1740"-'80年が温暖 な時期、 1780"-'1820年が寒冷な時期及び 1820"-' 山田 浩 世 (島 幌 防 災 研 究 セ ン タ ー 特 命 助 教) 50年が非常に寒冷な時期に区分されている(表1 参照)30 表1:日本の小氷期の時代区分 時 代 西暦 気 候 第l小 氷期 1610~1650 非常に寒冷 第l小間氷期 1650~1690 温 暖 第2小氷期 1890 1740 1690 1720 非常に寒冷 7K lnO~1740 寒 冷 第2小間氷期 1740~ 1780 温暖 期 1780~ 1820 寒冷 第3小 氷期 1780~1880 1820~ 1850 非常に寒冷 1850~ 1880 寒冷 *表の作成には、〔前島-田 上1982)及 び〔前島1984)参照 本発表で注目する 1780年代は、小氷期の中で も温暖期と寒冷期の変わり目に位置し、激しい気 候変動に見舞われた時期の一つであった。また、 同時期は、日本でもっとに有名な江戸四大飢僅の 一つ、天明の大飢僅 (1782"-'87年)が発生して いた。同飢僅は 1785年をピークに、東北地方を 中心として甚大な被害と多くの餓死者を出してい る。日本では天明 3(1783)年 3月 12日に岩木 山 (青森県)、 7月 6日に浅間山(長野県)が噴火 したことで大量の火山灰が吹き上がり、日射量の 低下が引き起こされ冷害となったとされる。また、 1783年には、浅間山に先立つてより大規模な噴火 がアイスランドのラキ火山 ・グリムスヴォトン火 山で起こっており、ラキ火山にいたっては 1783 年 6月から翌年 2月まで噴火が続いた。この巨大 噴火によって、北半球全域に低温化と冷害が引き 起こされたとする研究もある4。この大噴火は、 ヨーロッパ全域において慢性的な飢僅を生み出し、 1789年のフランス革命の一因になったとされて いる。 大規模な飢僅が発生したが、その気候変動の原 因となったのは、上記の火山活動の他にも太陽活 動や深水層の形成、雪氷などといったさまざまな 要因が考えられている。また、北半球全域がまっ たく同じ自然現象や環境変化を経験したのではな く、環境変化の地域的な偏差も重視すべきである との指摘がなされている50 そこで 1780年代の沖縄の状況を検討するにあ たって、まずは隣接する日本における気候状況を 整理しておくこととしたい。1780年代の気候につ いては、先学の研究によって各藩の日記や天候記 録の解析が行われ、天候や乾湿の分布が明らかに論文集
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防災と環境j されている60 それによれば夏期の天候分布は、全部で 17の タイプに類型化され、その中でも 1781年、 1785 年、 1790年は、全国的に晴れの続く天候状況が見 られ、典型的な暑夏であったとされる。また、1783 年と 1786年は一転して晴れが少なく、その中で も83年は雨域が東北地方北部、 86年は関東以西 の中部・西日本に偏在する傾向が見られたという。 また、1780年代における気候分布と地域別の降 雨日数の記録を照合し、全国的な乾湿分布の状況 を整理すると、以下のような状況が見られたとい フ。 まず、 1781年は東北地方を除き、全国的に少雨 で、西南日本で著しく乾燥した気候であった。 1782年は、東北及び関東・中部地方で少雨傾向を 示し、四国・九州では多雨傾向となった。 1783 年は、全国的に著しく多雨傾向となり、東北地方 の太平洋側で降雨日数が増大した。 1784年は、典 型的な北暑西冷型の夏となり、九州を中心に多雨 傾向となった。 1785年は、東北地方南部から西日 本にかけて著しく乾燥し、典型的な暑夏となった。 1786年は、中部・西日本を中心に著しい多雨傾向 を示した。1787年は、多雨・少雨とも認められず、 平年並みの夏となった。 1788年は、東北で少雨、 西日本で多雨の傾向が見られた。 1789年は、関東 から中部地方にかけて顕著な多雨傾向が見られた。 1790年は、西日本を中心に少雨傾向となり典型的 な暑夏となった。 このように先学の成果を整理し、1780年代にお 表2 : 1780年代における提害記事一覧 西 屠 沖 縄 1781年 4閏/9,伊平屋島に電雨陪る(時陽 15/28,勝連に雨雷〈球陽 1346)342め 2/30,伊平屋島に雨雷〈暗躍 1353) 4/14,読替に竜〈竜巻 9)に人家損傷〈球陽 1782年 1356) 7/4以前,詰郡鹿皐に遭い五穀実らず、来納 となり、宮古ー八重山も同様(字姓家謂〉 1783年 4/15,首里+羽地に雨雷(球陽 1365) 9,大肌の時に当たる〈球鴎 1396) 1784年 9,無類の凶作、醐克人ー身売り人が出て疲 弊〈毛姓家謂f由多数牢〉 9,国中大いに飢謹う〈球陽 1384) 1785年 9 ,大肌の時に当たる(球陽1396) 9 ,前年冬より春まで犬飢瞳〈柳姓家謂〉 1786年 日1/3179,摩文仁に積者を立つ、近年飢謹(椋陽8) 1787年 6/12,那覇に雷(部鴎 1387) 1788年 1789年 1790年 ける日本の天候状況を見てきたが、冷夏と暑夏が 2""'3年の周期で繰り返される気候変動の大きな 時期で、あったことが指摘できょう。 次に、当該期の琉球の各島々で見られた災害の 状況について見てみることとしたい。 3. 1780年代における災害の発生状況 近世琉球期の災害事例を体系的に記載したもの に、 18世紀中ごろから編纂され始めた『球陽』が ある。『球陽』の他にも宮古・八重山には各在番記 のような経年的な出来事を記録した史料もあり、 さらに、家譜資料などにも災害についての記録を 見ることができる(1780年代における災害記録を 整理したのが〔表2
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である) 70 まず、これらの中で 1780年代に注目してみる と、 1781年及び 1782、1783年に重や雷などの被 害が散見されるにまた、 1782年は、具体的な記 述を欠き詳細は不明であるが、宇姓家譜・昂姓家 譜に宮古・八重山で台風と早越による被害があっ たことが記されている90r
近年諸郡屡逢鵬阜五穀 不登貢賦有欠宮古八重山岡島亦如此J ともあるよ うに、五穀が実らず年貢未進の状態となっていた ようである。 これら 1780年代初頭の災害に対し、より大規 模かつ甚大な被害を出したのが、 1784""'1785年 に発生した飢僅である。『球陽』に拠れば、乾隆 50 (1785) 年「本国大いに餌ゑ、万民困窮す。既 に倉庫を発して救助するも、而も粟米足らず。此 れに因りて、国中及び各島の、凡そ銭穀有る者に 宮古諸島 八 重 山 諸 島 9 ,小槙島は省風で稲ー粟に被 害〈御手形写) 7/4以前,近年先島で風皐の毘 硯が続¥ (晶姓家謂〉 9 ,稲ー粟が不作(御手形写〉 9 ,無類の飢謹〈宮金氏 家謂その他多数制) 9 ,慢性的な肌謹が1790 年代まで〈向育民家謂〉 〔史料〕椋陽:時鴫研究会編『時陽.!I (角川書底、 1974)、御手形写按書: Ii'石垣市史叢書.!I 11御 手形写抜書〈石垣市、 1998) を憧用。 本この他にも恵姓家譜・昂姓家譜にも同様の記載あ ~)o 判官金氏家譜・向奮氏家譜・忠、導氏家譜・根馬氏家譜などに記載あり。働行し、奉借して以て国用に備ふ」とあり、非常 の大飢僅の発生、貯蓄食糧の払底とともに富裕者 への米銭の供出が命ぜられていた10。従来にない 大規模な飢僅の発生に、王府は民聞からの借り上 げという名の供出を公命で指示し対応しようとし ていたようである。 さらにその前年の 1784年に同じく深刻な飢僅 が発生していたことが、『家譜』の記事に散見され る。例えば、具志川間切の検者であった「栴姓家 譜」四世房慶の乾隆51 (1786) 年の条には、「多 年疲入候上、去々年(1784) 大凶歳付而者、猶亦 上納未進相増身売・餓死人等茂及太分、極々難儀 仕事候J とあって、無類の大凶作となり、身売り 人や餓死人が続出していたことが記されている。 この 1785年の飢鐘は、宮古島でもその発生を確 認することができるが、 1784年については宮古・ 八重山において飢僅が発生していたのかは史料上、 判然としない。ただし、1784年における大凶作が、 1784年冬から 85年春にかけての大飢僅を誘発し た大きな要因の一つであったことは間違いなさそ うである。規模においても 1784"'85年の大飢僅 が 1782年の比ではなかったことは、各飢僅を記 した文書件数の違いからも明らかである。 1786年(沖縄)、 1788年(宮古)にもそれぞれ 慢性的な飢僅の発生を示唆する記録は見られるも のの、管見の限り 1785年以降の災害記録は具体 的な記述に乏しく、 1784"'85年における飢僅の 発生が、1780年代における最大の災害であったと 言えそうである。ただ、飢僅発生の一文を記録し た文献は多いものの、飢僅発生の原因や状況につ いては、具体的な記録は見られず、同時期の日本 で観測された気候変動・気候分布と連動するもの で、あったのかは、はっきりとしない。 そこで次項では、当時三司官を勤めた伊江親方 朝睦の日記(~伊江親方日々記~)を取り上げ、ミ クロな(個人の)視点から、 1784年の状況につい て検討を加えてみたい。 4.W伊江親方日々記』に見る 1784年の飢鐘 『伊江親方日々記』は、乾隆 47 (1782) 年か ら嘉慶7 (1801) 年まで三司官を勤めた伊江親方 朝睦(唐名:尚天適)が書き留めた種々の日記の 総称である11。王国時代における個人の生活日記 は非常に少なく、王国の様相を個人の記録として 記す貴重な史料である。この『伊江親方日々記』 内には、三司官就任直後の1784年当時の御物日々 記、すなわち公務日記が収録されており、 1780 年代のなかでも、とりわけ大規模な飢僅が発生し た 1784年当時の王府中枢部の状況や彼が耳目し た世相が記録されている。記録は旧暦で、 1784 論文集
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酷災と環境j 年1月 13日から 12月 23日まで記録されている。 1784年における災害の影響を垣間見ることが できるのが、 3月 2日"'5日の条に見られる焼酎 (泡盛)作りに関する議論である。 3月 2 日に世 間では、穀物価格が高騰し万民が困窮にあえでい るため、穀物を原料とする焼酎作りは禁止すべき ではないかとの提案が上申され、国王の判断が仰 がれたと記している12。同案件は王府内部での議 論が重ねられ、祭礼や宴席などでの酒の禁止 (3 月 2日)、さらに製造の禁止 (3月 5日)がその後 に出されることとなった。飢僅に前後して穀物価 格が上昇していたことも押さえておきたい。 さらに、 5月 26日には、収穫が少なく穀物が払 底している状況が記されている。1784年分として 薩摩へ上納が予定されていた積穀に不足が生じ、 飢米(救援米)の臨時支出もあって、船への積み 込みが滞っている旨が伝えられている。また、大 和(薩摩)も凶作で、囲米(緊急時用の貯蓄米) 1400石の輸送が昨年に引き続いて要請されてい たことも見て取れる13。積穀の不足と飢米の支出、 さらに大和における凶作への対応等、穀物の不足 や凶作が問題化していたことが見て取れよう。 このような中で8月 17日には、同じ三司官で あった与那原親方から伊江親方に今後の方針に関 わる趣意書作成の相談がなされ、草案が伝えられ ている。その内容を見ると、当年の災害がどのよ うなものであったのか、さらに災害に対する王府 の対応策の状況を知ることができる140 8月 17 日の条には、災害(長雨と台風)の頻発と穀物価 格の高騰から、国王が今後について憂慮していた 旨も記されている150 趣意書(1御伺書J) には、前文において 1784 年の災害が、長雨(1霧雨J) が続いたため、例年 通りには作物が実らず物価が高騰していること、 さらに二度の台風もあって食糧不安が広がってい たことが述べられている。関連する記載は他日に も見られ、「当年之儀天気不順有之、災変共出来世 振あしく世上及困窮候付市ハ、御政道向随分気を 付吟味を以不奉伺候而不叶候J(10月 20日の条) とあって、天候不順が類例のない規模であったこ と、 6月 22"'25日、 7月 25"'27日に「あらし」 があったことも確認できる。 また、長雨による被害の一端として、「項目いも かつら口(にカ)虫付、殊之外相痛候J(10月 19 日)、「いもかつら虫付候儀ニ付、取納奉行両人近方 之間切々々江見分ニ差遣候付、検者・さはくり・耕 作当召寄吟味させ候処、当年之儀雨天相続候付、草 取方も差支、其上湿之痛有之、かつら相草臥候付虫 付出来候様ニ相見得申候付而者J とあり、長雨に よって震要な食糧源となる芋に大きな被害が出て論文集 f防災と環境J いたことが分かる。 このように伊江親方の日記からは、長雨などの 天候不順が凶作の原因となっていたことに穀物値 段の高騰も相まって、社会不安が増大していたこ とが見て取れる。また、それは同時代の日本にお いて天明の大飢僅を引き起こしたとされる変動性 の激しい気象状況の内容(1784年は、典型的な北 暑西冷型の夏で、九州を中心に多雨傾向)とも合 致するものであった。 さらに日記には、 11月に入り物価上昇が続いた ことが記され、 11月20日に「此内米日増高直ニ 罷成候付市ハ、世上猶々困窮之筈候問、一往直究を 以被渡候而者何様候哉」とあって、公売価格の決 定による物価高騰の抑制策が協議されていたこと が分かる 16。同日には、「此境節格別之事候問、米 持合之方ハ差出売出、又窮迫之者共相救候ハ〉 夫々相当之御褒美・新禄なと被成下候段J(11月 20日)ともあって、格別な時勢であるので米を提 供して者や窮迫者を救った者には、ご褒美や新禄 を授けてはどうかとの提案が王府内で出されてい たことが分かる170 11月 初 日 に 「 奉 備 上 覧 候 処、弥其通可然被思召上候」とあって、先の対応策 が許可されるに至っており、翌年の『球陽』に記 された大量の米・銭の供出と褒賞の事例へと繋が っていったと考えられる180 12月には、 1784年の飢僅の状況を象徴するよ うに次のような事件が起こっていた。 12月21日 の条に、首皇居住の人々2"""300人が、徒党を組ん で西原・中城間切に赴き、山野に生えていた蘇鉄 を無理やりに切り取っていったことが、西原・中 城間切から訴えとして伊江親方が耳にしているの である。行き詰まる生活の中で、食料確保に躍起 となっていた社会状況が垣間見え、また、その懲 罰については、「当時節其上多人数之事候問、堅締 方申付、御沙汰なしニ被仰付度」とあって、現在 のような(食料に逼迫した)状況を鑑み、かつ多 くの人が関わっているとして、以後の取締りを厳 にするのみで、法外な行為であるものの寛容な取 り扱いをしたいと記している19。このような行為 についても致し方なしとするような厳しい食糧事 情が広がっていたことを示す証左であろう。
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おわりに 本発表では、近世琉球期の災害、とりわけ気候 変動の激しかった 1780年代における災害につい て検討を加えてきた。この中で、従来個別の事件 史として取り上げられてきた 1784"""85年の大飢 僅は、同時期に日本で発生した天明の大飢僅との 時期的・現象的共通性が見られた。『伊江親方日々 記』の記載からは、 1784年の異常な長雨と天候不 順が、食料の払底、穀物価格の高騰を招き、社会 不安をあおる中で飢僅を連続的に発生させていた ことが読み取れた。 また、 1780年代は、別稿でも論じたように近世 後期の琉球を逼迫させる社会的な問題一村落の疲 弊ーの端緒ともなっており、この後の検者・下知 役の任命といった立て直し策が、恒常的にとられ ていく契機でもあった2 0。同じく、本稿で十分に 論じることができなかったものの、1786年には褒 奨条例も制定されており、民聞からの資本供出を 積極的に活用していく時期にもあたっている。 1780年代は、琉球社会の一つの転換期として重要 な位置を占めており、その転換の背景に環境の激 変という問題があったことが浮き彫りとなったの ではないだろうか。 最後に残された課題を挙げておきたい。本発表 では、史料上の制約もあり 1784年に続く 1785 年の飢僅がいかなる気象・社会状況から引き起こ されたのかは、言及することができなかった。同 時期の日本では、 1784年の長雨(とそれに伴う冷 夏)から一転して極度の乾燥(皐ばつ)状況に見 舞われ、天明の大飢鰻がピークを迎えていったこ とが明らかにされている。琉球においても同様の 現象が展開したのか、今後の検討が必要とされよ うが、1785年の飢鐘が激烈であったことは共通し ている。 また、 1780年代については、乾隆 53 (1788) 年の那覇にける記録(
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親見世田期』台湾大学所蔵) も残されており、あわせて検討される必要があろ う。この他に、理化学的な古環境の復元研究が、 南西諸島地域では低調であり、歴史史料との照合 とも合わさることで、より多面的な実態の把握が 可能となろう。ひとまず残された課題は多いが、 他日を期すこととし、本稿を結ぶことしたい。 く参考史料〉 ・石垣市総務部市史編集室編『石垣市史叢書11御手 形写抜書』石垣市、 1998 ・球陽研究会編『球陽』読み下し編、角川書底、 1974 ・公文書館管理部史料編集室編『沖縄県史』資料編 7 伊江親方日々記、沖縄県教育委員会、 1999 -那覇市企画部市史編集室編『那覇市史』資料編第 1巻5""'8、家譜資料(ー) ""' (四)、那覇市役所、 1976""'83 -平良市史編さん委員会繍『平良市史』第3・8巻、 平良市、 1981・1988 <参考文献> ・高良倉吉(研究代表)、平成 17年度 平成 19年 度基盤研究 (B)W
沖縄の災害情報に関する歴史文 献を主体とした総合的研究』、琉球大学、 2008-谷治正孝・三津明子「天明飢僅前後の気候に関す る一考察J~横浜国立大学紀要第二類~ 28、横浜 国立大学、 1981 ・前島郁雄・田上善夫「中世・近世における気候変 動と災害J~地理~ 27 (12)、古今書院、 1982 ・増田耕一「小氷期の原因を考えるJ~地理~37 (2)、 古今書院、 1992 ・松本淳「世界各地の小氷期J~地理~ 37(2)、古 今書院、 1992 ・三上岳雄 118世紀末における日本の気候復元J~気 候変動の周期性と地域性』、古今書院、 1986 ・山田浩世代研究ノート)近世後期の詐し球・奄美に おける災害一災害の広域・連鎖的派生に注目して 一J~国際琉球沖縄論集』創刊号、琉球大学国際沖 縄研究所、 2012 ・吉野正敏「歴史時代における日本の古気候 J~気象』 26、日本気象協会、 1982 ・吉野正敏『気候学の歴史一古代から現代まで一』、 古今書院、 2007 ・吉野正敏「歴史時代の気候変動に関する研究の展 望J~地学雑誌~ 116 (6)、東京地学協会、 2007 ・w.J.パローズ/松野太郎監訳『気候変動一多角的 視点から』、シュプリンガー・フェアラーク東京、 2003 1気候学の展開状況については、吉野正敏『気候学の 歴史 古代から現代まで一~ (古今書院、 2007)を 参照。このほか、吉野正敏「歴史時代の気候変動に 関する研究の展望J~地学雑誌~ 116 (6)、東京地学 協会、 2007も参照。 2W.J.パローズ/松野太郎監訳『気候変動一多角的視 点から~ (シュプリンガー・フェアラーク東京、2003) 参照。 3 吉野正敏「歴史時代における日本の古気候 J~気象』 26(日本気象協会、 1982)、前島郁雄・田上善夫「中 世・近世における気候変動と災害J~地理~ 27 (12) (古今書院、 1982)による。 4谷治正孝・三津明子「天明飢鐘前後の気候に関する 一考察J~横浜国立大学紀要第二類~ 28(横浜国立 大学、 1981)。 5増田耕一「小氷期の原因を考えるJ~地理~ 37(2)、 (古今書院、 1992)及び松本淳「世界各地の小氷期」 『地理~ 37 (2)、(古今書院、 1992)による。 6参考とした日記は、三上岳雄 118世紀末における 日本の気候復元J~気候変動の周期性と地域性~ (古 今書院、 1986)によれば、弘前(藩日記)、八戸(藩 日記)、盛岡(藩家老席日記)、高田(榊原藩政日記・ 歳日記)、日光(社家御番所日記)、高崎(鯖江藩日 記)、江戸(弘前藩庁江戸日記)、甲府(坂田家御用 日記)、伊勢(外宮長官の日記)、大坂(兼蔭堂日記)、 佐賀(鍋島藩日記)、諌早(藩日記)、宮崎(佐土原 藩日記)で、あった。 論文集 「防災と環境」 7各島の出来事を記録した本文中の記録類における 災害事例は、研究代表者高良倉吉、平成17年 度 平成19年度基盤研究
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~沖縄の災害情報に関す る歴史文献を主体とした総合的研究~ (琉球大学、 2008)がある。 8気候変動の大きかった1780年代における特徴的な 現象のーっとして、雷や重などが頻出する傾向にあ ったことは、先学によって指摘されており、琉球に おいても共通する影響が見られたことを示唆する。 気候学的解釈は、今後の課題に委ねられよう。 9 宇姓家譜(仲浜家)一世思嘉那(~那覇市史J 那覇・ 泊系家譜 7頁)、昂姓家譜(安慶田家)新参一世憲英 (~那覇市史』那覇・泊系家譜 214"'-'215 頁)を参照。 1 0 球陽研究会編『球陽~ (読み下し編、角川書庖、 1974)、記事 1384参照。 1 1日記には、乾隆49年・乾隆53年の御用日々記、 嘉慶8"'-'12年の日々記、嘉慶 13"'-'14年の日々記、 嘉慶15"'-'16年の日々記、嘉慶 18年の日々記、嘉慶 19"'-'21年の日々記、嘉慶20年からの御病中日々記 と乾隆60年の御先室御病中御看病日々記の計七冊 が収録されている。詳しくは、公文書館管理部史料 編集室編『沖縄県史』資料編 7 伊江親方日々記(沖 縄県教育委員会、 1999)を参照。 1 2 ~伊江親方日々記~ 3月2日の条には、「世上穀物 齢り高直ニ相成、諸士・百姓困窮之体候問、焼酎作 り候儀御禁止被仰付度与、十五人吟味を以被申出候」 とある。 1 3 ~伊江親方日々記~ 5月26日の条には、「新垣親 雲上被罷出被申聞候者、附役衆より御相談之趣者、 此節新米立船々之儀、積穀不足之上飢米も臨時出方 有之・・・其上大和江も凶年之由候問、当年囲米千四百 石運賃相付可差議候」とある。 1 4王府の対応策として、上納物の納品厳守、焼酎作 りの禁止、特殊な事情(王府の祭礼)を除いての酒 の禁止、無駄な鰻頭・素麺の生産禁止などといった 日頃からの節制策と取締りが関係機関に伝えられて し、る。 1 5 ~伊江親方日々記~ 8月17日の条には、「当年之 儀、長々之零雨大風等之災熟有之、石物高直罷成、 先様世振何様可罷成哉、上様御念遣被思召上」とある。 1 6公定価格の決定は、12月3日の条に、「一同三日、 穀物無類之高直ニ罷成候付、七貫文直成を以売出候 様直究申渡候処、段々葉支、同六日より相場直成を 以相払候様、申渡候事」とあって、 7貫文で、あった ところ、後に改定されていったことが分かる。 1 7民聞からの食料・金銭の供出によって窮迫する 人々の救済にあたろうとする政策は、『球陽』に褒賞 事例として頻出する。同政策が琉球王府に採用され ていく背景には、変動するゆるやかな身分制が敷か れていたことと関連して次の記載に注目する必要が あろう。『伊江親方日々記』の 11月30日の条には、 「一同廿目、御位役御伺ニ付、譜久山親方・私御前 参上、右之御伺相済、当世振ニ付而者段々御物入多、 極々御手迫ニ付而ノ、御借入無之候而不叶由、十五人 吟味を以被申出、右吟味書奉備 上覧候処、御意之論文集 「防災と環境J 趣ハ、御借銀差上候方ハ新禄被成下候処、得与御考 被遊候処、御当国之儀先懸而も何欺ニ付市御要用相 支候節者、御借入無之候市不叶事候処、借上候面々 永々士ニ被仰付候而者以後差支可申候問、右褒美ニ 一代士ニ被仰付、其身勲功次第御吟味之上子孫江茂 相続被仰付候市ハ何様候哉、読谷山王子・与那原親 方江も御相談を以可申上旨、被仰下候事、但、御国 元江も一代士与可有之由、被聞召上由被仰下候事」 とある。 1 8同記事については、球陽研究会編『球陽j] (読み 下し編、角川書居、 1974)、記事番号 1384を参照。 1912月 21日の条には、「一首里住居之者共、弐三 百人徒党組を以西原間切・中城間切押寄、山野々々 の蘇鉄無理ニ切取候由、両間切より披露申出候段、 被聞召上候、何共法外之仕形候問、急度札方可申付 由被仰下候処、人差を以披露も無之、当時節其上多 人数之事候問、堅締方申付、御沙汰なしニ被仰付度 由、奉伺可然由ニ御相談仕候事、」とある。 20拙稿 I(研究ノート〉近世後期の琉球・奄美にお ける災害一災害の広域・連鎖的派生に注目して 」 『国際琉球沖縄論集』創刊号(琉球大学国際沖縄研 究所、 2012)参照。