古典派の価値概念とマルクスの価値概念
−労働価値論の回転軸としての二重的形態にある労働の分析−
目 次 はしがきI問題の所在 一 古典派による価値概念の端初的形成 H 古典派の価値概念の発展過程 口 古典派の価値概念に内在する理論的欠陥 ニ マルクスによる価値概念の終局的定立 H 商品生産の相対化による唯一の現実的労働の措定 ロ マルクスの価値概念の成立 呻 二重的形態にある労働分析と労働の二面的作用 むすびI抽象的人間労働をめぐる論争の批判的総括 はしがき1問題の所在 周知のように、価値を一元的に無差別一様な労働に帰着させたのは古 典派を代表するスミスとリカードの特筆すべき功績をなし、これを発展 的に継承して、価値を凝固した抽象的人間労働として明確に定式化した のはマルクスであった。ところが、ここでわれわれにとって基本的な疑 問か生じる。すなわち、われわれの直面する基本的な疑問とは、凝固し た無差別一様な労働という価値概念それ自体に関して古典派とマルクス との間に存在する本質的相違は何か、換言すれば、古典派の価値概念に 対するマルクスの価値概念の決定的進歩はどこにあるのかということ、 これである。けだし、マルクスによって最終的に理論化された労働価値 一 頭 川 博 ︵人文学部経済学科︶ 論が古典派の端初的な労働価値論の徹底的な批判的彫琢の上に聳立する 首尾一貫した理論体系をなす以上、マルクスが定立した労働価値論の扇 の要に位置する価値概念は先行する古典派の価値概念の単純な再版では ありえず、マルクスの価値概念には古典派の価値概念とは一線を画する 本質的進歩がなければならないはずだからである。逆にいえば、労働価 値論がそこから全面展開する価値概念に関してマルクスに古典派をしの ぐ決定的な理論的前進かあったことが、マルクスをして価値概念を起点 とする労働価値論の最終的体系化を可能ならしめたと考えねばならない のである。 そこで、先ず第一に、古典派の価値概念とマルクスの価値概念との間 に横たわる決定的距離を古典派が無意識的に無差別一様な労働を想定し て価値概念を事実上定立したのに対してマルクスが二重的形態にある労 働の明確な分析に基づいて価値概念を定式化したことに求めるならば、 これはその限りでは絶対的に正しい。 ﹁商品生産における労働の二面性にかんする学説は、マルクスの価値論 の土合をなすものである。ここにこそ、マルクスの理論を古典派ブルジ ョア経済学の労働価値論と区別する境界線かある。﹂ ︵ブーコツキー﹁資 本論の生誕﹂新読書社、富岡裕訳、八〇ページ︶ しかし、第二に、古典派の価値概念に対するマルクスの価値概念の画 期的進歩を二重的形態にある労働の意識的な分析に見いだす一般的解釈一 一 高知大学学術研究報告 第二十九巻 社会科学 が絶対的な正当性をもつのは、二重的形態にある労働の分析が使用価値 に表わされる具体的有用労働と価値実体をなす抽象的人間労働との単純 な自然的区別としてではなく、超歴史的な具体的有用労働と特殊歴史的 な抽象的人間労働との内在的関係の分析として把握され、従って、対象 的形態にあって市場で相対する相異なる超歴史的な具体的有用労働の等 %%%xss%xs%xssxsssisssts%一置関係のうちに特殊歴史的な抽象的人間労働か成り立つその特有な存在 様式か明確化されたときに限ってのことである。つまり、われわれの到 達した結論を先回りしていえば、価値概念それ自体に関してマルクスが 古典派に対してなしえた理論的進歩は、古典派か無意識的にではあるが 二m的形態にある労働の区別を人間労働のもつ超歴史的な自然的区別と して観念して価値実体をなす無差別一様な労働を概念上自然的定在に還 元したのに対して、マルクスか商品生産の特殊歴史的性格を認識して価 値実体をなす抽象的人間労働の特有な存在様式を対象的形態にあって市 sxx% sssxs%xs%xsssxss場で相対する相異なる具体的有用労働の等置関係そのものに見いだし、 もって商品生産にのみ固有な価値概念を一分子の自然素材をも含有しな い社会的定在として名実ともに定立したところにある。あるいは別の言 葉でいえば、マルクスは古典派と決定的に異なって、価値実体をなす抽 sss%x%ssx %一%s%x%sss%s象的人間労働が市場で相対する相異なる物質的財貨に結実する具体的有 用労働の等置関係の内部でのみ成り立つにすぎない所以を確定して価値 概念を定立することによって、価値概念から内在的に交換過程でのみ成 立しうる或る種類の使用価値と別の種類の使用価値との交換割合をなす 価値形態または交換価値をみごとに展開し、その反面で、価値形態また は交換価値との内面的な必然的関係を欠落させている古典派の価値概念 のもつ理論的欠陥を批判し、総じて特殊歴史的な抽象的人間労働を唯一 無二の構成要素とする価値概念の真価を回帰的に検証したのである。従 って、価値実体をなす抽象的人間労働を特殊歴史的範鴫として定立する ことは、マルクスの価値概念を古典派の価値概念から本質的に区別する 決定的なメルクマールにほかならない。 ところが、従来、古典派の価位概念とマルクスの価値概念との決定的 相違が二重的形態にある労働の分析にあることは一応曲りなりにも指摘 されながらも、マルクスに固有な二重的形態にある労働の分析とは凝固 状態にあって市場で相対する相異なる超歴史的な具体的有用労働の等置 関係の内部に価値実体をなす特殊歴史的な抽象的人間労働を見いだす天 才的な洞察であるということか不分明な現状にある。そこで、本稿で は、古典派からマルクスに至る価値概念の発展過程を追跡して、古典派 の価値概念とマルクスの価値概念との間に横たわる決定的懸隔が価値実 体をなす特殊歴史的範鴫たる抽象的人間労働の一種独特な存在様式を明 確化した二重的形態にある労働の独創的な分析にあることを証明する。 以下、先ず第一節において、ペティからスミスを経てリカードに至る古 典派の価値概念の形成過程を必要最低限の範囲内で跡付け︵第一項︶、 古典派の価値概念に内在する根本欠陥か商品生産を絶対化する固定観念 から具体的有用労働のみならず価値実体をなす無差別一様な労働をも超 歴史的な範瞭とみなした取り違えに起因することを究明する︵第二項︶。 続く第二節において、古典派の価値概念のマルクスによる超克の発端 か商品生産の特殊歴史的性格の深い認識によって労働の唯一の超歴史 的形態を具体的有用労働に見いだすことにあったことを明らかにし︵第 一項︶、そこからマルクスか超歴史的な具体的有用労働とは質的に峻別 される特殊歴史的な抽象的人間労働を如何にして析出しえたのかをマル クス自身の思考過程に即して考察してマルクスの措定した価値概念の真 理性を価値形態または交換価値との必然的関係に照らして回帰的に検証 し︵第二項︶、最後に古典派とは決定的違いをもつマルクスに固有な二 重的形態にある労働の分析によって初めて生産過程における具体的有用 労働の二面的作用が明らかになった所以を示し、総じて従来指摘されて きた二重的形態にある労働の分析のもつ意義付けは二重的形態にある労
働分析と価値概念との一体的関係の問題に帰一することを結論する︵第 三項︶。以上の骨格をもつわれわれの分析によって、古典派の価値概念 とマルクスの価値概念との本質的相違を二重的形態にある労働の分析に 求めながらなおかつそれを労働が超歴史的にもつ自然的区別と観念して 抽象的人間労働を超歴史的な範鴎とみなすならば、主観的意図がどうで あれ、ここから価値実体をなす抽象的人間労働の独得な存在様式を解明 した二重的形態にある労働についてのマルクスの独創的な分析が根底か ら覆され、結局マルクスの価値概念が古典派の価値概念に解消される論 理的帰結を生むことか明らかになろう。 ︵1︶ 因みに、労働価値論の丹念な通史的考察をなしたミークやプラン問題で 国際的に著名なコーガンでさえ、商品の二つの要因をなす使用価値と価値 とを単純かつ機械的に二重的形態にある労働に還元するだけで満足して二 重的形態にある労働の内面的関係を不問に付し、従って、マルクスの価値 概念が古典派の価値概念に対してもつ理論的前進面を明らかにしていない のである︵﹁労働価値論史研究﹂日本評論新社、水田洋・宮本義男共訳、 第四章﹁カールーマルクスの価値論︵一︶﹂、﹁経済学批判プランと﹁資本 論﹂﹂大月書店、中野雄策訳、第六章﹁競争にかんする特殊理論の問題か ら商品への回帰運動﹂︶。なお、抽象的人間労働が歴史的範鴫か否かをめぐ るこれまでの連綿たる論争の経緯については、吉原泰助﹁労働の二重性﹂ ﹁マルクス経済学体系﹂I、有斐閣、一九六六年所収、同﹁生産関係分析 としての商品論﹂ ﹁講座資本論の研究﹂第二巻、青木書店、一九八〇年所 収、正木八郎﹁商品論と抽象的人間労働﹂ ﹁現代思想﹂第三巻第一三号、 一九七五年 を参照されたい。 一 古典派による価値概念の端初的形成 はしがきで述べたように、本稿の課題は、価値概念に関して古典派と yルクスとの間に伏在する本質的懸隔を追求して、それが使用価値に表 わされる具体的有用労働と価値実体をなす抽象的人間労働との一種独特 な内面的関係を究明した二重的形態にある労働の分析にあることを摘出 三 古典派の価値概念とマルクスの価値概念 することにあるが、それにはさしづめ古典派の価値概念のもつ基本性格 を立ち入って分析しておかねばならない。 ︲ 古典派の価値概念の発展過程 本項では、価値概念に関する古典派とマルクスとの間にある根本的相 違を析出するのに必要最小限の範囲内でペティからスミスを経てリカー ドに至る古典派の価値概念の発展過程を追跡しよう。 周知のように、価値を労働に還元して労働価値論の端初を切り開いた のはマルクスが経済学の父と呼んだ一七世紀後半の経済学者W・ペティ であった。というのは、ベティは同一労働時間によって生産された穀物 と銀とは同一量の価値に評価されねばならず、諸商品は等量の労働を基 準に交換されると述べているからである。 ﹁もしある人が、一ブッシェルの穀物を生産できるのと同じ時間で、一 オンスの銀をペルーの大地の中からロンドンにもってくることかできる としよう。この場合、一方は他方の自然価格である。﹂ ︵﹁租税貢納論﹂ 一六六二年刊行、岩波文庫、大内兵衛・松川七郎共訳、八九ページ︶ つまり、ペティは、事実上、不断に騰落する市場価格の重心に自然価 格を見いだし、これを投下労働時間に還元したのである。しかし、ペテ ィには土地の剰余生産物に関してのみわずかに労働による価値規定を展 開するという理論的視野の狭さがあり、しかも、労働が富の父で土地か その母であるという使用価値に関してこのうえなく正しい根本思想か肝 腎の労働による価値規定に紛れこみ、土地と労働とを同等に内在的価値 尺度に組み入れるという論理的不徹底が残され、かくて、ペティにおけ る労働価値論は萌芽的な展開に留まったのである。 ﹁すべての物は、二つの自然的単位名称、即ち土地および労働によって 価値づけられねばならない。⋮⋮即ち、われわれは一隻の船または一枚 の上衣か、これこれの面積の土地並びにそれとは別のこれこれの量の労
四 高知大学学術研究報告 ・第二十九巻 社会科学 働拓値するというべきなのである。なぜなら、船も上衣もともに、土地 およびそこに投じられた人間の労働の創造物であるからである。このこ とが本当であれば、われわれは土地と労働との間に一つの自然的等価関 係を発見したことを喜ぶべきである。﹂ ︵同上、七九ページ︶ これに対して、ペティに残された曖昧さを基本的に除去して価値を専 一的に労働に還元したのみならず価値形成労働の一般化をもなしとげて 労働価値論を本格的な軌道にのせるには約一世紀に亘る商品生産の発展 を背景とした かったのであ 一八世紀末の経済学者A・スミスの登場をまたねばならな る。すなわち、スミスは本来的なマ、ニュファクチュア時’ 代 を 代 表 す る 経 済 学 者 に ふ さ わ し く 、 先 ず も っ て 社 会 的 富 を 国 民 が 年 々 消 費 す る 一 切 の 生 活 必 需 品 お よ び 便 益 品 と し て 包 括 的 に と ら え 、 そ こ か ら 社 会 的 分 業 の 諸 環 を 担 当 す る す べ て の 労 働 を 社 会 的 富 を 供 給 す る 本 源 的 フ ァ ン ド と 規 定 し て 、 商 品 を 生 産 す る 千 差 万 別 の 具 体 的 有 用 労 働 を 全 部 ひ っ く る め て 価 値 形 成 労 働 の 中 に 算 入 し た の で あ る . 換 言 す れ ば 、 ス ミ ス は 、 商 品 生 産 の 進 展 を 眼 前 に し て 社 会 的 富 に ま つ わ る 重 商 主 義 の 貨 幣 的 外 被 と 重 農 主 義 の 現 物 的 制 約 を そ こ か ら 解 き 放 ち 、 社 会 的 富 の 一 般 化 か ら 価 値 形 成 労 働 の 一 般 化 を 遂 行 し 、 価 値 を 無 差 別 一 様 な 労 働 に 帰 着 。 J . a . 1 t I / ■ ノ I -. . . ( -^ . ≪ O ︶ F ″ L r f ` ︲ ノ 3 ″ s ‘ r χ ト k s L k i 4 J 卜 ら ! ` ’ ″ ・ 1 J r 1 I ‘ ︱ ’ i ゝ ・ I させたのである けだし、スミスは、社会的分業を担当するすべての 労働を価値形成労働とみなして、一方では使用価値形成要因としては質 的に区別しながらも、他方では価値形成要因としては量的に比較してお り、ここから判断すれば、二重的形態にある労働を﹁明文と明瞭な意識 とをもっては区別していない﹂︵﹁資本論﹂I、九六ページ︶としても﹁実 際には区別をしている﹂ ︵同ページ︶といえるからである。 ﹁A・スミスの場合には、価値をつくりだすのは、どんな使用価値とな って現われるかはまったくどうでもよいところの一般的な社会的労働で あり、単なる必要労働量である。﹂ ︵﹁剰余価値学説史﹂I、五六ページ︶ ここでは、単に労働を価値の唯一の構成要素と理解したのみならず、 更に千差万別の具体的有用労働を暗黙のうちに無差別一様な労働に還元 して価値形成労働の一般化をなしえたスミスのペティに対する理論的貢 献をみるべきである。因みに、労働と土地とを価値の同等な源泉である と考えたペティの曖昧さを突破して価値を無差別一様な質のない労働に 一元的に還元したス//スの功績はこれを古典派経済学の完成者たるリカ ードも称讃しているほどである︵﹁経済学及び課税の原理﹂一八一七年刊行、 上巻、岩波文庫、小泉信三訳、一五ページ︶。しかし、スミスは、ペティをの りこえて事実上無差別一様な労働をもって価値の唯一の構成要素と規定 する大きな前進をなしだ反面で、投下労働量による価値規定の妥当性を 資本の蓄積と土地の占有のある社会︵=文明社会︶に歴史的に先行する 初期未開社会︵=商業社会︶にのみ限局する論理的不十分さを残してし まったのである。 ﹁資財の蓄積と土地の占有との双方に先行する社会の初期未開状態のも とでは、さまざまなものを獲得するために必要な労働量のあいだの割合 か、これらのものをたがいに交換するためのある規準になりうる唯一の 事情であるように思われる。⋮⋮ 資財か個々人の手に蓄積されるや否や、・:職人たちが原料に付加する 価値は、このばあい二つの部分に分解されるのであって、その一つはか れらの賃銀を支払い、他は雇主か前払いした原料と賃銀との全資材に対 する利潤を支払うのである。⋮こうなると、ある商品の獲得または生産 にふつうついやされる労働の量は、その商品がふつう購買し、支配し、 またはこれと交換されるべき労働の量を規制しうる唯一の事情ではな い。﹂ ︵﹁諸国民の富﹂I、︸七七六年刊行、岩波書店、大内兵衛・松川七郎共 訳、四九一五一ページ︶ つまり、スミスは、労働条件と労働者との個別的結合を前提とする初 期未開社会では労働の全生産物が労働者に帰属し、投下労働量と支配労 働量とが一致してこの限りでは投下労働価値説は支配労働価値説と無矛
盾に統一されるが、しかし、労働条件と労働者との社会的分裂を根本前 提とする資財の蓄積と土地の占有の存在する資本主義社会では、労働者 の付加する価値は労働者の賃金と資本家の利潤という二大部分に分離し てしまい、資本家と労働者との開の資本と労働との交換に関してはより 少量の対象化された労働がより多量の生きている労働を支配することに なり、投下労働量による価値規定か効力を失うというのである。換言す れば、スミスは、初期未開の商業社会と資財の蓄積および土地の占有の 存在する文明社会との間に一線を画し、投下労働量と支配労働量との一 致から不一致への転換をもって、文明社会では投下労働量がもはや内在 的価値尺度たる位置を退き、労働の価値または一商品が買いうる労働の 分量を価値尺度として設けるという価値規定に関する一八〇度の方向転 換をしたのである。しかし、ここでスミスは、商業社会から文明社会 への移行によって投下労働量による価値規定から一足飛びに支配労働量 による価値規定へと転じるのではなく、商業社会で貫徹すると考えた投 下労働量による価値規定に踏み留まったうえで、文明社会でより少量の 対象化された労働かより多量の生きている労働と交換される所以を労働 力の商品化に基づく労働力の使用価値と労働力の価値との分裂に求める べきであったが、それはともかく、スミスは或る大きさの価値の内部分 割が価値の大きさそれ自体の規定と無関係であることを看破しえず、投 下労働量による価値規定から一転して支配労働量による価値規定へと翻 ることになったのである。いうまでもなく、支配労働量による価値規定 とは、一定量の商品で買いうる生きた労働の分量による価値規定である から、投下労働量による価値規定から支配労働量による価値規定への移 xxs%sl%ちxssx行は凝固した無差別一様な労働という価値概念それ自体の放棄を意味す る。なお、スミスの全体的評価のために付言すれば、商業社会から文明 社会への移行と同時にスミスが投下労働価値説から支配労働価値説へと 傾斜したのは、スミスには商業社会と文明社会との歴史段階上の相違認 五 古典派の価値概念とマルクスの価値概念 識があったからにほかならない。因みに、後のリカードになると、商業 社会は単純に文明社会内部での未発達な一時期としてしか把握されえ ず、ここに商業社会と文明社会とのスミスによって気付かれた歴史段階 上の相違が抹消されたのである。けだし、リカードにあっては、商業 社会における猟師の武器もまた小規模な資本をなし、商業社会と文明社 会との相違は単に資本の蓄積における量的違いにあるにすぎないからで ある。 ﹁アダムースミスが説ける、彼の初期の状態に於ても、狩猟者をして能 く鳥獣を獲ることを得しめんが為めには、それは或は狩猟者自身が之を 造り、且つ蓄積したものであっても、兎に角多少の資本か必要であろ う。﹂︵﹁経済学及び課税の原理﹂上巻、二五ページ、傍点−頭川︶ この意味では、商業社会と文明社会とのスミスにおける歴史段階上の 相違認識は、スミスにおける一つの功績であろう。 ﹁A・スミスの偉大な功績は、彼がまさしく、第一篇の諸章において、 単純な商品交換とその価値法則から、対象化された労働と生きている労 働とのあいだの交換に、・:移るさいに、ここに一つの裂け目の現われる ことを感知していること⋮⋮である。﹂ ︵︵剰余価値学説史JI、五八−九 ページ︶ このような初期未開社会への投下労働価値説の限定というスミスにお ける首尾一貫性の欠如を打破して投下労働価値説を貫き、凝固した無差 別一様な労働という価値概念を最高度に定式化したのが一九世紀初めの 経済学者D・リカードである。すなわち、リカードは、先ず最初に無差 別一様な労働こそ唯一の内在的価値尺度であるというスミスの理論的到 達点を前提したうえで、続いて、価値それ自体は支配労働量によってで はなく生産に必要な投下労働量によって規定されると真先に確言する。 ﹁一貨物の価値、即ち何でも之と交換せらるべき他の貨物の数量は、そ の生産に必要なる相対的労働量によって定まり、その労働に対して支払
」 _ / ゝ 高知大学学術研究報告 第二十九巻 社会科学 はるる報償の多寡によって定まるものではない。﹂︵﹁経済学及び課税の原 理﹂上巻、一三ページ︶ そして、﹁諸貨物の現在及び過去の相対価値を決定するものは、労働 が生産すべき諸貨物の比較的数量であって、その労働に対して労働者に 与へられる諸貨物の比較的数量ではない﹂ ︵同上、一九ページ︶という明 言的な規定からもわかるように、リガードは、価値の大きさと価値の内 部分割とを二つ・の相異なる事柄として峻別し、投下労働量による価値規 定を理論的に徹底化して、支配労働mによる価値規定に傾いたスミスの 首尾不一貫性を厳しく批判したのである︵同上、一六−九ページ︶。換言 すれば、リカードは、労働の分量と労働の価値とのスミスによる混同を 振り払い、労働の価値は労働の分量より小さいという事実認識に立ちき って投下労働量による価値規定を純粋に定立しようと試みたのである。 従って、リカードにあっては、労働の分量と労働の価値との同一視に基 づくスミスのような支配労働価値説への傾斜は労働の分量と労働の価値 との量的相違の事実認識によって歯止めがかけられ、その限りでは、リ カードに至って最終的に凝固した無差別一様な労働という価値概念が古 典派経済学内部で確立したのである。 ﹁リカードは古典派経済学の完成者として、労働時間による交換価値の 規定を最も純粋に定式化し展開した。﹂ ︵’﹁経済学批判﹂、国民文庫、四六ペ ージ︶ なお、リカードは、資本と労働との間に生じる事実上の不等価交換を その単なる事実認識でもって満足したために、後に、大きさの異なる労 働の分量と労働の価値との間の論理整合的関係如何という解きがたい理 論的壁に直面し、これが古典派経済学解体の一つの材料になったことは 周知の事柄であろう︵﹁資本論﹂n、二五一六ページ、﹁剰余価値学説史﹂Ⅲ、 一七七ページ︶。 かくて、古典派の価値概念は、ペティからスミスを経てリカードに至 る一世紀半余りに亘る期間に合法則的な発展をとげ、無差別一様な労働 め純粋な結晶と規定される地点まで到達しえたのである。 ︵︱︶ 念のために断わっておけば、スミスは労働価値論に関してペティから直 接的な影響を受けておらず、二人の間にはスミスとリカードとの間に実在 する直接的な継承発展関係はない。その意味では、労働価値論はペティか らスミスに至る一世紀ほどの期間一つの伏流にすぎなかったのである。 ︵2︶ ここで価値概念の定立に際してスミスかなしえた価値形成労働の一般化 は、あらゆる生産部面への剰余価値生産分析の適用、あらゆる賃労働への バ ー生産的労働概念の拡張、すべての生産資本べの固定資本・流勁資本範鴫の 適用にもそれか必然的に波及した点で決定的意義をもつことか想起される べきである。 ︵3︶ スミスは、﹁製造工の労働は、一般に、自分が加工する材料の価値に、 自分自身の生活維持費の価値と、げ分の1 方の利潤の価値とを付加する﹂ ︵﹁諸国民の富﹂I、三一三ページ︶という周知の文言から明らかなよう に、剰余価値の源泉を労働者の付加する労働の一部分に求めたか、これ は、労6 の分八mと労働の価値との同一視から生じる支配労働価値説に対す るスミス自身の無意識的な反駁にほかならない︵﹁剰余価値学説史﹂I、 五〇ページ︶。従って、スミスにおける支配労働価値説への傾斜は剰余価 値の源泉それ自体に関するスミスの事実認識を損わないのである。﹁スミ スは剰余価値の真の源泉を認識していたのである﹂ ︵同上、五一ページ︶ とマルクスか明言する通りである。 ︵4︶ 後の議論との関連で、スミスに対するリカードの労働価値論の一つの進 歩を指摘しておけば、リカードは商品価値を規定する投下労働mのうちに 生きた直接労働のみならず生産手段に体化された死んだ間接労働も入りこ むことを明示していることである。 ﹁諸貨物の交換価値は、その生産に投ぜられた労働mI琶にその直接生産 のみならず、それを用ゐてする特定労働を有効ならしむるに必要な、一切 の機械と器具とに投ぜられた労働旦−に比例する。﹂ ︵﹁経済学及び課税 の原理﹂上巻、二七ページ︶ I 古典派の価値概念に内在する理論的欠陥 前項において、われわれは古典派の価値概念の発展行程をマルクスの 価値概念との対比に必娑な最低限の範囲内でサーヴェイしたが、実はマ
ルクスの価値概念と同一の外観を呈する古典派の価値概念には解きがた い理論的欠陥が内在するのである。そこで、本項では、価値形態または 交換価値との必然的関係の有無に照らして古典派の価値概念を批判的に 吟味し、そこから古典派の価値概念の欠陥が二重的形態にある労働の機 械的区分による無差別一様な労働の超歴史的な自然的範鴫化に起因する ことを究明する。 先刻概観したようにJ古典派はその最高の発展段階において無差別一 様な労働による価値規定を純粋に定式化したが、翻って反省すれば、古 典派の価値概念には果して或る商品の価値か投下労働量でそのまま表わ しえないでそれと市場で相対する別の商品の使用価値を必然的な現象形 態とせざるをえない理論的根拠までも内包されているのか否かという単 純素朴な疑問がわれわれに生じるのである。なぜならば、‘商品は価値の 必然的な現象形態として価値形態または交換価値をもち、価値と価値形 態または交換価値とは一蓮托生の関係にあるから、論理的先行者として 定立された価値概念の正否は論理的後続者としての価値形態または交換 価値をそこから内在的に導出しうるか否かによって第一義的に検証され ねばならないからである。われわれの分析を先回りしていえば、古典派 の価値概念に厳密に即する限り理論上そこからは価値形態または交換価 値を内在的に導出することができず、正反対に、古典派の価値形態が内 容上含意することは価値が投下労働時間で直接表現されうるという経済 学上の逆説にほかならない。あるいは別の言葉でいえば、共同的生産と 商品生産との間に存在する生産形態上の根本的相違を抹消して商品生産 の基礎上でのみ客観的に二重化する労働の対立的区別を絶対化し、価値 実体をなす無差別一様な労働を超歴史的な自然的定在に還元するなら ば、自然的定在たる無差別一様な労働を唯一の構成要素とする価値概念 からは如何にしても価値形態または交換価値を引き出すことができない のである。以下、先ず第一に、古典派による商品生産の絶対化について 七 古典派の価値概念とマル。クスの価値概念 考察し、第二に、商品生産の絶対化から二重的形態にある労働の機械的 区別か生じたことを分析し、最後に自然的定在たる無差別一様な労働を 唯一の構成要素とする価値概念の不可避的な帰結は価値が直接投下労働 時間で表示されうるというパラドックスにほかならないことを明確化す 第一に、商品生産にのみ固有な二重的形態にある労働を誤って事実上 労働が超歴史的にもつ自然的二側面と錯覚せしめた根因をなす商品生産 の自然的な生産形態への解消に関していえば、ここでは、スミスが商品 生産の基礎上における工場内分業と社会的分業とを概念的に混同した著 名な事例を挙げるだけで十分である。すなわち、スミスは、﹃諸国民の 富﹄において先ず生産力増進の最大原因を分業に求めてこれをピンーマ ニュファクチュアによって例解し︵第一章﹁分業について﹂︶、次にピンー マニュファクチュアを典型例として挙げて説明した分業の発生原因を無 意識のうちに商品交換によって媒介される社会的分業に置き換えて人間 が本来的にもつという交換本能によってスミスなりの解明を与えるので ある︵第二章﹁分業をひきおこす原理について﹂︶が、ここから推測されるよ うに、スミスは、どこにおいても商品生産の基礎上での工場内分業と社 会的分業との間に実在する概念的相違を論じてはおらず、工場内分業と 社会的分業とは﹁零細なマニュファクチュア﹂ ︵﹁諸国民の富﹂I、五ペ ージ︶と﹁大きなマニュファクチュア﹂ ︵同上、六ページ︶という量的相 違をもつにすぎず、商品交換によって媒介される社会的分業か工場内 分業に対してもつ特殊歴史的性格を析出していないのである。換言す れば、商品生産の基礎上での工場内分業と社会的分業との間の本質的相 違を看過することは、商品交換によって媒介される特殊歴史的な社会的 分業を自然的な分業一般に還元することにほかならず、帰する所、特殊 歴史的な生産形態たる商品生産を自然的な生産形態に解消することに等 しヅ従って、スミスにおいては商品生産は永久的にして自然的な生産
八 高知大学学術研究報告 第二十九巻 社会科学 形態にほかならない。なお、リカードに関していえば、スミスが直感し た商品生産と資本主義的生産との歴史的区分をも抹消し、それまでの歴 史的展開を資本主義の単調な発展過程と観念してスミスよりも後退した 歴史認識に陥ってしまったことについては既述の通りである。 第二に、古典派は、商品生産を自然的な生産形態と誤認することから不 可避的に商品生産という特殊歴史的な生産形態にのみ固有に生成する無 差別一様な労働を誤って労働のもつ自然的一面として絶対化する固定観 念。にのめりこんでしまったのである。というのも、先刻論じたように、 古典派は、特殊歴史的な生産形態たる商品生産をそれ以前の生産形態に 逆延長してそれを生産形態の永久的な自然形態として釘付けにしたか、 ここからすれば、古典派か質量両面から暗黙のうちに区別した二重的形 態にある労働はともに商品生産の絶対化に照応して労働が永久的にもつ 自然的二側面に堕し、とりわけ価値実体として観念的に想定した無差別 一様な労働は労働が絶対的にもつ自然的一面に解消されざるをえないか らである。換言すれば、商品生産の自然的な生産形態としての固定化 は、商品形態の自然形態への還元つまり使用価値と価値という商品の二 つの要因の自然的契機への還元に等しく、わけても商品の本質的契機た る価値の自然的契機への解消と同じであって、価値の自然的契機への解 消は古典派が諸商品の全面的交換の事実を表象に浮かべて観念のうえで もっぱら量的にとらえた無差別一様な労働の自然的契機への還元にほか ならない。因みに、リカードが﹁貨幣は単に交換を行なう媒介物にすぎ ない﹂︵﹁経済学及び課税の原理﹂下巻、二五ページ︶と確言して貨幣を単純 に生産物と生産物との交換の一時的形態として把握したように、古典派 にとって使用価値と価値との対立を含む商品は生産物の単なる名目的な 形態であるだけで、商品流通は物々交換と形式的にのみ異なる社会的物 質代謝の自然形態にすぎないのであった。従って、商品生産の絶対的な 生産形態としての固定化は、価値実体としての無差別一様な労働の自然 的契機への解消と同じである。 第三に、商品生産の絶対化から二重的形態にある労働の機械的区別か 生じ、そこから自然的要素たる無差別一様な労働からなる価値概念か構 築されるならば、古典派の価値概念から生じる唯一の論理的帰結は価値 の大きさか無差別一様な労働を自然的一面として含む労働の継続時間で 直接表示されうるということにほかならない。なぜならば、ここで最も 厳密にすべての労働種類か単純労働からなる社会的総労1 の均衡的な部 門間配分を理論的な単純化仮定として採用するならば、労働は本来的に 無差別一様な労働を含むと古典派が考える以上、価値実体をなす無差別 一様な労働は既に流動状態にある労働の一面として実在し、従って、価 値は流動状態にある労働の継続時間で直接表示されうるとしなければ首 尾一貫しないからである。実際、スミス以前にペティより明瞭に価値を 一元的に無差別一様な労働に還元した一八世紀初めの一流の経済学者B ・フランクリソは自ら定立した価値概念に忠実に価値の大きさが投下労 働量て直接計測されうると明言しているか、これは古典派の価値概念の 含む内的本性を何よりも雄弁に物語る注目すべき論述である。 ﹁およそ商業はある労働と他の労働との交換にほかならないのだから、 すべての物の価値は労働によって最も正しく評価される。﹂ ︵﹁資本論﹂ I、六五ページ、注︵一七a︶よりの孫引き︶ みられるように、フランクリンは価値を﹁ある労働﹂でも﹁他の労 働﹂でもない形容詞なしの﹁労働﹂に還元した功績をもつか、にもかか わらず、価値実体をなす無差別一様な労働を労働のもつ自然的一面と取 り違えたために、事実上価値の大きさは無差別一様な労働の分量換言す れば労働の継続時間で直接計測できると考えたのであらこ’相対的価値形 態の内実﹂というまさしくその箇所でのマルクスのフランクリン批判の中心眼目 については、拙稿﹁価値概念と価値形態﹂ ﹁高知論叢﹂第八号、一九七九年、第 三節注︵1︶を参照されたい︶。また、リカードの場合には、最初から価値
の大きさにのみ問題関心か集中して、無差別一様な労働がそれとは概念 上無縁な使用価値を現象形態とする摩詞不思議な関係に少しも注意を払 わないが、しかし、マルクスの明言するように、もともと﹁リカードは、 労働のブルジョア的形態︵価値実体としての無差別一様な労働と読め⋮頭川︶ を社会的労働の永遠の自然形態だとみなし﹂︵﹁経済学批判﹂、四六ページ︶ て価値概念を定立した以上、そこから価値形態ま。たは交換価値を内在的 に導出しようとしても、それは所詮解決不可能な課題でしかなかったの である。 ﹁リカードは、この労働の姿態−交換価値をつくりだすものとしての、 または交換価値で表わされるものとしての、労働の特殊な規定−を、こ の労働の性格を研究していない。したがって、彼は、この労働と貨幣と の関連を、すなわちこの労働か貨幣として表わされなければならないこ とを、理解していない。したがって、彼は、商品の交換価値の労働時間 による規定と、諸商品が貨幣形成にまで進む必然性とのあいだの関連 を、まったくつかんでいない。﹂ ︵﹁剰余価値学説史﹂n、一六一ページ、 傍点−マルクス︶ なお、付言しておけば、リカード理論においてリカードのいう﹁絶対 的価値︵absolute value︶﹂ ︵﹁経済学及び課税の原理﹂上巻、二四ページ︶ と﹁相対的価値︵relative value︶﹂︵同ページ︶との間に理論的断絶が 残されたからこそ、後にS・ベーリから価値概念そのものの根底的転覆 を意図する鋭角的批判を甘受せざるをえない羽目になったのである。 ﹁一商品の価値は、ある他の商品の数量によってより外には、これを指 示し、または表現することはできないのである。﹂︵﹁リカアド価値論の 批判﹂ 一八二五年刊行、日本評論社、鈴木鴻一郎訳、二二−三ページ︶ つまり、ベーリは、或る種類の使用価値が別の種類の使用価値と交換 される量的割合たる交換価値をもって価値それ自体に置き換え、現象形 態たる交換価値の基底に伏在する価値概念を根本から否定しようとした 九 古典派の価値概念とマルクスの価値概念 のであるが、それというのも、叙上の引用文から明白なように、或る商 品の価値はその使用価値と市場で交換される別種の商品の使用価値でし か現出しえず、従って、交換価値の基礎には無差別一様な労働からなる 価値が伏在すると主張するリカード理論にとって、無差別一様な労働が その正反対物たる使用価値を現象形態とせねばならない所以を説明する 合法則的な分析か必要とされたにもかかわらず、リカードの価値概念は それと交換価値との必然的関係を少しも解決しなかったからである。従 って、ベーリは、価値の現象形態たる交換価値に一面的に固執して交換 価値の内奥に宿る価値概念を峻拒した否定的な面をもつ反面で、交換価 値との必然的関係を本質的に欠くリカードの価値概念のもつ急所を確か に衝きえたといわねばならない。 ﹁ベーリがリカード学説の急所に触れたことは、たとえば﹃ウェストミ ンスター・レヴュー﹄のなかで彼を攻撃したリカード学派の立腹がすで に証明したところである。﹂ ︵﹁資本論﹂I、七七ページ︶ 従って、古典派が無差別一様な労働をもって定立した価値概念はそれ がマルクス以前の最良の学説を形成したものとして古典派の不滅の功績 を解消しないが、しかし、古典派は商品生産の絶対化に災いされて二重 的形態にある労働をともに労働のもつ自然的な二面と取り違えたため に、価値実体としての無差別一様な労働が対象的形態において市場で相 対する相異なる具体的有用労働の等置関係それ自体をその特有な存在様 式とすることに気がつかず、結局古典派の価値概念はそこから交換価値 を展開しえない致命的欠陥を露呈することになったのである。それ故 に、古典派の価値概念に内在する固有の欠陥は、価値実体をなす無差別 一様な労働を労働が永遠にもつ自然的な一面として絶対化したことそれ 自体にある。翻っていえば、古典派が価値と交換価値とを無関係に並立 させるに留まった原因を単に商品生産の絶対化に求めるだけで満足する とすれば、それは価値と交換価値との切断に対する古典派理論の批判と
一〇 高知大学学術研究報告 第二十九巻 社会科学 しては決定的な不十分さを免れがたいというべきである。何故ならば、 価値と交換価値との切断に関する古典派批判の核心は、理論的批判がす べてそうであるべきように、古典派が商品生産の絶対化から価値と価値 形態との間の必然的関係に問題関心をもちえなかったという主観的意図 の欠落の指摘にあるのでは全然なく、価値と交換価値との必然的関係如 何という問題意識を前提にしてもなおかつ自然的定在に解消せしめられ た無差別一様な労働を実体とする古典派の価値概念からは交換価値を内 j siχsχ ‘ 在的に導出できないという価値概念それ自体に潜む理論的欠陥の指摘に あるからである。 なお、最後に強調しておけば、われわれはこれまでに古典派による労 働の機械的区別か商品生産の絶対化に規定されて生じたと述べてきた が、しかし、古典派における商品生産の絶対化と労働の機械的区別との 規定関係はあくまでも後世の分析者が結果的に両者の間につけた論理的 規定関係にすぎず、従って、たとえ古典派とは違って共同的生産と商品 生産との歴史的相違に対する認識かあったとし’ても、商品生産の基礎上 で展開する諸商品の全面的交換という支配的現象を表象に浮かべてそこ から千差万別の労働は無差別一様な労働に還元される限りでのみ通約可 能性をもちうるのだから、すべての労働は超歴史的に無差別一様な労働 。という一面を必ず含有しているのだという帰結を引き出すならば、それ は、労働の機械的区別を生んだ古典派の発想方法と完全に同じであるこ とに注意すべきである。けだし、古典派経済学者こそ、諸商品の交換関 係において如何にして価値実体としての無差別﹁様な労働が客観的に成 り立ちうるのかという根本問題を閑却してノすべての労働を観念的に無 差別一様な労働に還元して相互の量的比較を試みたにすぎず、このよう なすべての労働の無差別一様な労働への観念的な還元によってこそ二重 的形態にある労働の単純な機械的区別に陥ってしまったのだからであ る。換言すれば、諸商品の交換関係という特殊歴史的な基礎上における 価値実体としての無差別一様な労働のもつ特有な存在様式を不問に付 したままで、すべての労働を観念的に無差別一様な労働に還元するなら ば、それは概念上無差別一様な労働の還元方法の観念的性格ゆえに分析 対象たる諸商品の交換関係のもつ特殊歴史的性格の閑却と表裏一体の関 係にあり、ぞの意味で、われわれは、古典派による労働の機械的区別の 基底に商品生産の絶対化をみたにすぎないのである。 以上、われわれは、本項において、古典派の価値概念に内在する本質 的欠陥を究明した。﹃ ︵I︶ 本文で指摘したように、古典派の理論的代表者の一人であるスミスでさ え、商品生産の基礎上での工場内分業と社会的分業とを概念的に混同した 根本原因は、特殊歴史的な生産形態をなす商品生産の超歴史的な生産形態 への解消にあった。そして、更にI歩突っ込んでいえば、マルクスか﹁資 本論﹂第I巻第一二章﹁分業とマニュファクチュア﹂第四節﹁マニュフ’ア クチュアのなかでの分業と社会のなかでの分業﹂において商品生産の基礎 上での工場内分業と社会的分業との間に隠された本質的相違を分析したの は、ここでの分析対象をなす工場内分業と既に第一篇で登場済みの社会的 分業とを対比して両者の概念的区別を明示しておかねばならない論理展開 上の必要性に加えて、マルクス以前の古典派にあっては社会的生産の特殊 な︸種類にすぎない商品生産を永久的な生産形態として絶対化する固定観 念に起因じて両者の概念的差別か皆目不分明であったからにほかならない のである。 ︵2︶ 一歩進めていえば、リカードは、貨幣を生産物の特殊歴史的な形態とし ての商品から内在的に導出せず、交換の一時的な媒介物としてとらえたこ とから、商品価格は流通貨幣mによって決定されるという間違った貨幣論 を生み落とすことになったのである。なぜならば、流通手段は通常それ自 体としては無価値な紙券にすぎない価値章標に転化するから、貨幣かもっ ぱら商品交換を媒介する流通手段として孤立化させられるならば、商品価 格から流通貨幣格一を引き出すのではなく反対に流通貨幣mで商品価格を規 定する考え方かあたかも事態照応的な理論であるかのような外観を呈し、 ここから貨幣数m説が論理必然的に生じるからである。これについては、 ﹁経済学批判﹂、一三四一五ページ を参照されたい。 ︵3︶ ここから想起されるように、商品生産の基礎上で特権的な地位にある貨 幣を廃止してその代わりに労働時間を轡き記した紙券を発行しようという
労働貨幣論は、理論上古典派の価値概念か内蔵する一つの理論的帰結を政 策的に言い表わしたものにすぎないのである。‘ ︵4︶ 従って、﹁経済学史のうえで、価値の実体かまず古典派経済学者によっ て発見され、価値形態はそれよりのちに、マルクスによってはじめて発見 された﹂ ︵見田石介﹁﹃資本論﹄における実体と形態﹂ ﹁見田石介著作集 ﹂第三巻、大月書店、一九七六年所収、三三ページ︶のでは全然なく、古 典派は特有な存在様式をもつ抽象的人間労働という価値実体の析出に失敗 して価値概念を定立しえなかったために、価値と価値形態との内面的関係 の分析に蹟いたのである。逆にいえば、価値形態は理論上価値概念それ自 体のうちに内在するのである。なお、付け加えておけば、見田氏は、価値 形態かマルクスによって初めて発見されたものだといわれるか、これは字 句通りに解釈する限り事実誤認に基づく誤りである。というのは、例えば リカードにはマルクスの価値形態または交換価値に匹敵する﹁相対的価 値﹂ ︵﹁経済学及び課税の原理﹂上巻、二四ページ︶というタームが厳然 として存在し、リカードか未解決問題として残したのは ︵同ページ︶と る。 リカードか未解決問題として残したのは﹁絶対的価値﹂ ﹁相対的価値﹂との間に隠蔽された内在的関係だからであ ニ マルクスによる価値概念の終局的定立 われわれは、前節において、リカードに至って最終的完成をみた古典 派の価値概念に内在する本質的欠陥が商品生産の自然的な生産形態への 解消による無差別一様な労働の自然的範瞬化に起因することを究明した か、以上の分析からすれば、マルクスによる古典派の価値概念の超克か 二重的形態にある労働の単純な自然的区別の廃棄つまり具体的有用労働 のみの超歴史的範鴫としての固定化をもって始まることは誰にでも推論 可能なことである。そこで、本節では、先ず第一に、マルクスによる古 典派の価値概念止揚の第一歩が商品生産の特殊的な生産形態としての相 対化に基づく具体的有用労働の唯一の現実的労働としての措定にあるこ とを分析し、第二に、マルクスの価値概念は価値実体をなす抽象的人間 労働が市場で対象的形態において相対する相異なる具体的有用労働の等 一 一 古典派の価値概念とマルクスの価値概念 置関係の中でのみ成り立つという独創的な発見によって定立されるに至 った理論的経緯を考察して、価値形態との必然的関係の有無如何に照ら してマルクスの価値概念の真価を検証し、最後に、マルクスに固有な二 重的形態にある労働分析から生産過程における具体的有用労働の二面的 作用を内在的に明らかにして、従来指摘されてきた二重的形態にある労 働分析のもつ意義づけが二重的形態にある労働分析と価値概念との一体 的関係の把握の問題に帰着することを結論する。 ︲ 商品生産の相対化による唯一の現実的労働の措定 周知のように、﹁これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史で ある﹂という書き出しで始まる﹃共産党宣言﹄刊行の一八四八年当時未 だ有史以前の社会状態に関して不分明であったマルクスは、その後の研 究によって相対立する階級の存在か生産形態の特定の発展段階にのみ’妥 当することを発見し︵一八五二年三月五日付ヴ″イデマイアー宛手紙、﹁資本 論書簡﹂1、国民文庫、一四二ページ、﹁経済学批判﹂、二〇−一ページ︶、同 時に商品生産とは対極的な生産形態をなす共同的生産か歴史上実在した ことを明確化した。ところか、共同的生産の歴史的存在の確認はマルク スに対して商品生産の基礎上での二重的形態にある労働の区別を古典派 のように単純に労働のもつ自然的区別として絶対化することを許さなか ったのである。なぜならば、マルクスにとって経済的定在は特殊歴史的 な生産関係から抽象された経過的存在としてのみ成り立つにすぎないと いう確たる認識があり、ここからして、古典派によって単純に区分され た二重的形態にある労働は商品の二要因に対応してみられた区別にすぎ ないことに気付いたからである。しかし、古典派が事実上区別した二重 的形態にある労働の区別か商品生産に限って妥当するということは、そ れか共同的生産と商品生産との形態的区別を背後にもつ歴史的なものの 見方からの推論である限り、マルクスにとって単なる予感でしかなかっ
一二 高知大学学術研究報告 第二十九巻 社会科学 たのである。使用価値に結実する具体的有用労働こそが唯一の超歴史的 な現実的労働であるという予感を、マルクスは以下のような経済学者と しての面目躍如たる分析によって真に証明したのである。 先ず第一に、労働が労働力の合目的的な支出であるのは、人間かあら かじめ心像に描いた特定の目的に沿い、特定の労働手段を媒体にして特 定の労働対象に働きかけるからにほかならない。換言すれば、労働力 は、特定の目的を前提として、特定の生産手段との対応関係においての 。み支出されえ、労働力を構成する肉体的・精神的諸器官は特定の目的に 制約された特定の生産手段の下でのみ機能しうるにすぎないのである。 ﹁人間労働、人間労働力の支出は、どのようにでも規定されることはで きるが、それ自体としては無規定である。それは、ただ、人間労働力が 特定の形態において支出されるときにはじめて、特定め労働として実現 され、対象化されることかできるのである。なぜならば、ただ特定の労 働にたいしてのみ、自然素材は、すなわち労働かそれにおいて対象化さ れる外的な物質は、相対するのだからである。﹂︵﹁資本論第一巻初版﹂、 国民文庫、一八ページ、傍点−マルクス︶ 従って、単純に労働一般といっても、それは特殊的形態の相違をもつ 種々の具体的有用労働の総称であるにすぎず、労働はすべて特定の具体 的有用形態をもつ。換言すれば、すべての労働は本来的に抽象的人間労 働という共通な属性をもつというならば、そこでは種々の具体的有用労 働が千差万別の具体的有用形態の相違を残したままで人間という同一種 属から発する労働ということで一括されているにすぎず、このような観 念上の一括によっては種々の具体的有用労働が抽象的人間労働に還元さ れえないという単純な事柄が閑却されているのである。それ故に、超歴 史的に実在する唯一の現実的労働は使用価値に表わされる具体的有用労 働にほかならない。 ﹁現実的労働は、ある使用価値を作りだすための、特定の諸欲望にかな つたある仕方で、ある自然素材をわか物とするための、合目的的な活動 である。﹂︵﹁経済学批判︵一八六一−一八六三年草稿︶﹂I、マルクス資本論 草稿集④、四八ページ︶ 第二に、マルクスは、具体的有用労働を唯一の現実的労働として措定 したうえで、更に分析を一歩進めて、商品生産とは正反対の生産形態を なす共同的生産の基礎上では具体的有用労働か社会的労働の直接的形態 をなし、具体的有用労働の継続時間で投下労働量が直接計測され、社会 的総労働かそれに基づいて計画的に均衡配分されることを見きわめたの である。すなれち、ロビンソ。ンの孤島での生活を想起するならば、ここ では所有と労働との結合を根本前提とするから、ロビンソンのなす種々 の具体的有用労働はロビンソンという同一主体の活動形態としてすべて 質的同一性をもち、生活維持に必要な総労働時間を種々の具体的有用労 働の継続時間の合計によって算出する。逆にいえば、ロビンソンか一日 になすべき総労働時間が種々の具体的有用労働の継続時間の単純な総計 によって計算されうるのは、種々の具体的有用労働か所有と労働との本 源的結合を圧縮した形態で内包するロビンソンという同一主体の労働力 の生産的支出上の単なる形態の相違にすぎず、相互にそのまま同一主体 の活動形態として同一だからである。これと同様に、ロビンソンの生活 様式を拡大した規模で再建する共同的生産は、生産手段の社会的所有を 根本的基礎とした所有と労働との本源的結合の上に成り立つがゆえに、 共同体を構成する個別的労働力の集合は社会的生産手段の総体に対応し て一つの社会的労働力を形成し、従って、ここでは個別的労働力は一つ の社会的労働力の一器官としてのみ存在しうるのである。﹁共同の生産 手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つ lss一s%一%xssxx s の社会的労働力として支出する自由な人々の結合体﹂ ︵﹁資本論﹂I、九 ニページ、傍点I頭川︶。それ故に、所有と労働との本源的結合を根本前提 とする共同的生産では、一つの社会的労働力の生産的支出をなす種々の
具体的有用労働は、所有と労働とが対になって帰属するロビンソンとい う同一主体の発する種々の具体的有用労働と同じように、活動形態の相 違はあっても同じ一つの社会的労働力の発する活動形態の有機的な一部 分として質的同一性をもつのである。換言すれば、個別的労働力か共同 .issssssssIく4%的生産そのものに内属する所有と労働との本源的結合に規定されて一つ の社会的労働力の同等な有機的成分として存在することが、種類の異な る具体的有用労働をして同じ社会的労働としての極印を押しつけるので ある。従って、共同的生産の基礎上では、種々の具体的有用労働はその 現物形態のままで相互に社会的労働時間として質的同等性をもち、社会 的総労働時間の計画的配分においてあるいは個人の生産参加の尺度とし て二重的役割を演じるのである︵同上、九三ページ︶。換言すれば、共同的 生産の基礎上では具体的有用労働が社会的労働の直接的形態をなすとマ ルクスがいう場合、それは種類の異なる具体的有用労働の相互関係にお いて或る具体的有用労働か別の具体的有用労働と同じ社会的労働時間と してそのまま通約可能であるということにほかならない。それ故に、単 s%lχsχ%χssss刀直入にいえば、共同的生産の基礎上では所有と労働との本源的結合と いう生産関係の存在か種々の具体的有用労働を相互に同等化せしめて社 会的労働の直接的形態としての極印を押しっけるのであり、反対に、商品 生産の基礎上では所有と労働との本源的結合の解体が種々の具体的有用 労働を私的労働の形態たらしめるのである。それだから、共同的生産の 根本的基礎を見落とすならば、共同的生産でも商品生産と同様に相異な る具体的有用労働は抽象的人間労働に翻訳されねば通約可能にならない という生産関係上の根本的相違を無視する誤りが生じるのである。それ 故に、共同的生産の基礎上では、労働の唯一の現実的姿態をなす種々の 具体的有用労働がそのまま相互に通約可能な社会的労働の形態をなし、 共同的生産は具体的有用労働とは別個の社会的労働の形態を要しないの である。 一三 古典派の価値概念どマルクスの価値概念 かくて、共同的生産と商品生産との生産形態上の相違から二重的形態 にある労働の区別を商品生産に固有に生じる労働の区別と予感したマル クスは、労働力の生産的支出の合目的的な性格と共同的生産における具 体的有用労働の社会的性格との両面から労働の唯一の現実的形態を具体 的有用労働に認め、もって二重的形態にある労働の区別か商品生産の基 礎上で生じる具体的有用労働それ自体の異なる表現様式であることをつ きとめたのである。従って、商品生産の基礎上で価値実体が無差別一様 な労働であることは確かであるとしても、唯一の現実的労働が具体的有 用労働である以上、古典派のように価値実体を観念的に無差別一様な労 働に求めることはその特有な存在様式を厳密に規定していないことにな り、そこからして、マルクスにとって抽象的人間労働の固有な存在様式 を具体的有用労働との関係で分析することが価値概念の定立にとっての 中心問題として提起されることになったのである。 ︵1︶ 参考のために付言七ておけば、マルクスか超歴史的な妥当性をもつとい う﹁経済学批判要綱﹂における労働一般と﹁資本論﹂ 労働とを概念的に混同してはならない。﹁経済学批判 における抽象的人間 要綱﹂における労働 一般は商品生産の基礎上で抽象的人間労働に整約される母胎たる超歴史的 な具体的有用労働の総体を指すのに反して、﹁資本論﹂における抽象的人間 労働は具体的有用労働から具体的有用形態を客観的に捨象した限りで成り 立つ無差別一様な労働の質を指すからである。従って、﹁経済学批判要綱﹂ における労働一般と﹁資本論﹂における抽象的人間労働とを等置して、そ こから抽象的入閣労働を超歴史的範鴫と主張する議論は間違いである。こ れに対する詳細な批判については、拙稿﹁価値論の一基本問題﹂ ﹁一橋論 叢﹂第八一巻第六号、一九七九年、第四節を参照されたい。なお、﹁経済 学批判要綱﹂における労働一般と﹁資本論﹂における抽象的人間労働との 概念的混同は既に一九四二年刊行のスウィージー﹁資本主義発展の理論﹂ 新評論、都留重入訳、三五ページ にみられる。 ︵2︶ 従って、抽象的人間労働凡 す相異なる労働様式を表象に浮かべて、相異なる具体的有用労働は同じ人
一四 高知大学学術研究報告 第二十九巻 社会科学 間の労働の諸変形だから抽象的人間労働としての共通項をもつと考えるな らぱ、それは短絡的発想にすぎない。ここで相異なる具体的有用労働か 相互に通約可能なのはそれぞれか同じ人間の労働力の支出形態だからであ り、従って、この場合には、相異なる具体的有用労働は同じ人間の労働 の単なる諸変形としてその現物形態のままで通約可能なのである。それ故 に、同じ個人のなす相異なる具体的有用労働について妥当することは、一 つの社会的労働力にまとめられる共同体における種々の具体的有用労働に ついても同様に妥当するのである。 ︵3︶ ここで反論の予想されるマルクスの一論述つまり共同的生産が既に価値 の本質的な規定をすべて含蓄するという一論述︵﹁資本論﹂I、九一ペー ジ︶の指し示す意味内容について触れておこう。通常、共同的生産か価値 ` のすべての本質的規定を含むといえば、すぐに共同的生産において抽象的 人間労働か存在すると受けとられがちであるか、しかし、これは早計であ る。というのは、価値法則はすべての生産形態に内在する社会的労働に関 する経済法則が商品生産という特殊歴史的な生産形態に規定されて形態変 化したものにすぎず、逆にいえば、商品生産の基礎上で展開する価値法則 から特殊歴史的な形態を捨象すれば価値法則の基底に共同的生産の基礎上 で本源的形態で実在する社会的労働に関する経済法則︵第︶に具体的有用 労働という社会的労働の形態の存在、第二に社会的労働の形態たる具体的 有用労働による労働時間の計測、第三に具体的有用労働という社会的労働 の形態による社会的総労働時間の生産諸部面への適合的配分の三つの契 機︶があらわれ、従って共同的生産か価値のすべての本質的規定を含むと は、共同的生産においては商品生産におい 形態で現出する本源的な経済法則としての て価値法則として特殊歴史的な ssss%xsxslis%x社会的労働に関する経済法則か 既に存在するという意味にほかならないからである。つまり、それは、超 歴史的に存在する社会的労働に関する経済法則とその特殊歴史的な形態を なす価値法則との関係を述べたものにすぎず、端的にいえば、共同的生産 χsχssχssss%sが既に内包するという価値のすべての本質的規定とは価値法則として特殊 xχ%lχsχχx131s歴史的形態で現われる社会的労働に関する経済法則を指すのである。 ﹁商品の﹁価値﹂は、他のすべての歴史的社会形態にも別の形態でではあ siχsissssssχるが、同様に存在するもの、すなわち労働の社会的性格を、ただ歴史的に 発展した一形態で表現するだけである。﹂ ︵﹁アドルフーワグナー著﹁経 済学教科書﹂への傍注﹂、マルクスーエングルス全集第︸九巻、三七七ペ ージ、傍点−マルクス︶ また、周知のクーゲルマン宛手紙でマルクスが述べたことも、つまると ころ、価値法則かあらゆる社会に普遍的に存在する社会的労働に関する経 済法則の特殊歴史的な形態変化した姿態にすぎないということにある。 ﹁いかなる国民でも、一娠間はおろか二、三週間でも労働を停止しようも のなら、たちまちまいってしまうということは、どんな子供でも知ってい る。また、種々の欲望に応じる諸生産物の量は、社会的総労働の種々のそ して特定の分aを必要とするということもどんな子供でも知っていること である。このように社会的労働を︸定の割合で配分する必要は、社会的生 産の︸定の形態によってなくされるものではなくて、ただそのあらわれか たかかわるにすぎないことは自明である。自然法則をなくすことはけっし てできないことである。いろいろの歴史的状態につれて変化しうるのは、 それらの法則か貫徹される形態だけである。そして、社会的労働の連関か 個人的労働生産物の私的交換としてあらわれる社会状態においてこの労働 の比例的配分か貫徹される形態がまさしくこれらの生産物の交換価値な’の である。﹂ ︵﹁クーゲルマンヘの手紙﹂、国民文庫、八七−八ページ、傍 点−マルクス︶ ︵4︶ 従って、先回りしていえば、商品生産の基礎上では﹁何故に労働か価値 に表わされるのか﹂ ︵︷資本論第︸巻初版﹂、。四一ページ︶とマルクス が問題提起する際の﹁労働﹂とは、唯一の超歴史的な現実的労働をなす具 体的有用労働を指す。労働か価値に表わされるとは、具体的有用労働かそ こから具体的有用形態を客観的に捨象されて抽象的人間労働に整約される ことと同じだからである。そして、一歩更に突っ込んでいえば、労働か価 値に表わされるとは具体的有用労働か抽象的人間労働に約元されることで あるからこそ、価値概念は抽象的人間労働以外の契機を一分子も含まない その純粋な結晶として規定されうるのである。つまり、抽象的人間労働が 価値の実体をなすという場合の実体とは或る定在を構成するそれ以外にな い唯一の契機という意味である。それ故に、抽象的人間労働の結晶という 価値の概念規定は抽象的人間労働=特殊歴史的範旧説に固有な命題をなす ことに最大限留意すべきである。けだし、抽象的人間労働9超歴史的範略 説によれば、抽象的人間労働の結晶そのものはあくまで超歴史的定在にす ぎず、従って、これでは特殊歴史的な価値概念の規定には全然ならないか らである。 ロ マルクスの価値概念の定立 本項では、前項の分析を受け、価値実体をなす抽象的人間労働が対象 的形態にあって市場で相対する相異なる具体的有用労働の等置関係その