学校の体操教育が女子日常服に与えた影響 : 明治時代(1868年-1912年)
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(2) . 北海道教育大学紀要 (第2部C) 第35巻 第1号 lofHokka i do Un i i Jou t i i rna ve r s t I IC)VO on(Se yofEducat c onl .35 .1, ,No. ・. 昭和59年9月 SeP t embe r 98 4 ,1. 学校の体操教育が女子日常服に与えた影響 明治時代 ( 1868年−1912年). 斎. 藤. 祥. 子. 北海道教育大学函館分校家政学教室. vvomen, ing as lnfluenced by PhysicaI Education i S C1 oth ] n Schools − − Throughoutthe Me i iPer iod i sachiko sAITO Laboratory of Home Economi l lege do Un iver i ion cs ty ofEducat e Co s ,Hakodat ,Hokkai , Hakodat e040 / /. Abstract Throughoutt he Me i iPeriod,the Wearing of western clothes by Women deVeloPed slowly j. ththesituationfor men. ascompared Wi. TheCauseisasfol lows . ハden Puton westernclothes. ththe deveIPementof modernindustry afterthebeg i i iera Wi i nni ngofthe Me ,but womenhad ’ l h l l c ance of doi imi on y a sma ted number ofiobs ng so i n only a l . That Was a womans i ion i tuat s trememberthe socialideas ofthose days, and how these n those days ‐ VVe mus ld have Prevented any Change. The di i ion between men and Women,the conscious‐ t wou s nct iona1nature o fc 1othes nessofbeauty,andthefunct ・ vvhen we examine Physica1educationin those days l igated the e to find out how changes did come about. linves t , we may be ab. lat ionsh ip between clothes worn these days and various kindsofclothes Wornintheper iod re i leducation wasintroducedinto schools dur ingthe Me When Phys i iera. ca i. 1. は じめ に. 明治における男子服の洋装化は, 軍服の制度と相まっ て促進された. 明治3年, 海軍服制の制定, 明治4年陸軍服を制定, 明治5年, 海軍服制を改め, 礼服は洋服を採用した. それらにあわせて髪 型も散髪令 (明治4年) が出さ れる等男子の洋装化は年を追って遂次整えられていっ た 。 一方, 女子に ついては, 学校の服制として明治18年に東京女子師範学校で職員 学生の服装を洋 , 服に定め, 明治19年には, 宮中における洋服に対する服制が定められた 大礼服, 中礼服, 小礼服, . 通常礼服となっ たが, それ以前には女子の洋服の服制 はみられない。 (1).
(3) . 斉. 藤. 祥. 子. 早くから男子の洋装化が押しすすめられていったのは,明治以降の近代的企業の勃興に合わせて, 労働服に洋服が次々に採用された事によるが, 女子の社会進出に対しては, その職種が, 教員, 看 護婦, 電話交換手等に限られており, 大部分の一般家庭にある婦人においては前近代 的着装状態が 続けられた。 3 前記の限られた階層の女子の服制も一時的なものであり, 東京女子高等師範学校でさえ, 明治2 「 女子職員の服装は追テ之を 目をとりあげ 年に到り, 教員, 幹事の服装を定めたが女子に対する項 3 ) 定 ム2 」 と し た. こ れさ え も 強 い 義 務 づ け が さ れ て い た わ け では な い.. 4年頃の 0年史によれば, 明治1 当時の服装の男女の違いの過程を栃木県立宇都宮女子高等学校9 「栃木県第一中学校時代の男女合併の記 念撮影」の男子生徒は, 洋服 であり, 女子生徒は和服, 「明 治29年の先生と生徒」は, 男子教師, 洋服又は和服, 女子の教師, 生徒は, 全員和服で, 明治35年 の 「塙田町校舎において記念撮影」 にも男子教師は, 洋服又は和服, 女子生徒は, 和服に袴を着用 し て い る.. 明治維新以来, 社会, 生活全体が近代化の方向をめ ざしていたものの女子の服装にみる 「前近代 性」 には, 当時の女子の社会的・経済的地位のあり方と関係があると考えられる. そこ で, 学校教育に女子の体操が登場し, 女子の従来の服装の適否が検討さ れる過程に注目した. このため学校史を中 心に, 明治の 「近代化」 の 思潮を代表する 『女学雑誌』 の19年, 20年頃の女 子教育の指導者の主張を有力な手がかりと し, 本論は, 明治の学校教育の 規範が成立し始める明治 2 0年前後と, それ以降を主たる内容とする. およそ服装は, 美意識, 形態, 社会思潮, 男女の性差別, 機能性に左右さ れる. 明治20年から末ま では, 我国の近代的国家の形成が急速に進められた時であった. 身分, 格式か らの開放は人々の服装を甚しく変えた. また欧米の影響も多大なものであっ た. この時期をとらえ, 女子日常服の洋装への契機を, 学校教育の体育の授業開 設に求めたものである.. 1 1 . 学校体育導入と展開 1871年) 文部省 近代教育制度下において, 女子教育のことが最初に明記されたのは, 明治4年 ( それによれば 太政官の発した「 着手順序 」においてである が提出した同書に対し, , 「一般の女子 . 男子ト均シク教育ヲ被ラシムヘシ事」 とある. が現実は, 当時の就学人口が低く, 女子教育への関 心が高まらなかっ た. 学校体育の歴 史を制度から見ると, 小学校における体育は明治5年に学制27 9日の改正小学校教則に 「毎級ニ体操 章の小学校教科のなか で「体術」 として現われ, 同6年5月1 ヲ 置 キ, 一 日 一, 二 時 間 ヲ 以 テ 足 し リ ト ス」と さ れ て い る. 次 い で, 同 12 年 の 教 育 令 で は, 体 操 は. 学校令と小学 「罫画」 , 「唱歌」とともに, 土地の情況によっ て行なう随意科目とさ れ, 同19年の小 校の学科及其程度で公式に正科となっ た. 4年7月 29 日の中学校教則大網 で, 「適官ニ之ヲ授クヘシ」と指示さ 中学校における体育は明治1 9年, 中学校令と尋常中 学校の学科及其程度により 必修科目のなかに加 れているのみであ っ た. 同1 え ら れ た.. 師範学校における体育については, 明治14年, 師範学校教則大網 で,「適官之ヲ授クヘシ」とあっ たのが, 同1 9年, 師範学校令にもとづく尋常師範学校の学科及其程度で体操を必修とした. こうして, 体育が学校教育に開設さ れていく過程で, その内容, 時間に, 男女の相違点がでてく る. (2).
(4) . 学校の体操教育が女子日常服に与えた影響 そ れは,明 治 24 年 11 月 17 日の小学校教則大網 の中で小学校における体操科の指導要 旨とその順 序を明確にしたが, その中で 「尋常小学校 ニ於テハ最初適宣ニ遊戯ラナサシメ 漸ク普通体操ヲ加 , へ, 男子ニハ兵式体操ノ一部ヲ授クヘシ 高等小学校ニ於テハ男児ニハ主 トシテ兵式体操ヲ授ケ , , 女児ニハ普通体操若クハ遊 戯ヲ授クヘ シ」 として 男子には文部 大臣森有礼の強い主張によ て , っ , 小学校, 中学校, 師範学校を通 じて体操教科の教材となっ た事もあり 国家の政策が兵式体操とし , て男子に課せられた例が見られる 。 明治34年, 文部省普通学務局から 「小学校体操科課程及教授時間割」 が通牒された 。 また, 高等女学校 における体育は, 明治28年の高等女学校規程で はじめて必修科目のなかに加 , えられ, その学科程度が 「普通体操若クハ遊戯ヲ 体操ヲ授 クルニハ精神ヲ爽ニシ 身体ヲ健康ナ , , ラ シ メ ン コ ト ラ務 ム ベ シ」 と い っ た も の であ っ た 。. 師範学校においては, 明治19年から毎週男生 徒6時間 女生徒3時間の時間数を課している こ , . のように規程上の男女の時間割 内容的相違 が出てきては いるものの 教科としての体育は進めら , ,, れていっ た。 実施上種々の障害も生まれ 例えば 小学校の女子に体育をさせることについて 「女 , , 8 } 生 徒の体操に両親 が反対1 」退校させる等も みられた。 しかしな がら明治に至るま での女子に対する 根の深い固定観念を打破 しながら 学校に体育をとり 入れようとした事は充分に伺うことが出来る , 。 その代表的論 拠は 「学問を女子において男女平等にするには まず体力 が必要だから叩0 〉 」 とした国 , 家的見地と結びついた世論の形成があったが 学校教育における体操 の実施が活発 でなか たため , っ , 女子の服装に著しい変化は見られなかった. 1 1 1 。 明治20年以前 女子の服装は, 男子とは異なり, なかなか進 展していなかっ た 明治20年以前の学校史等で制度 , 上は体操と いう学科名は 見られても 実施状況を記した資料は少ない , 。 社会が, 女子の体育実施に対して, 否定的姿勢 であった時 国の支配下の官立 またその影響を , , 直接受けや すい華族の子女の入学する学校に体育がとり入れられていく 東京女子師範学校の学科 , 目中見られる(明治8年) 。 また, 跡見女学校 でも, いち早く学科目に採用され, その年史には, 「生 徒の衛生にも注意し, 宮中に於て, 盆の日に女官方の物せられ来りし 大踊と云うものの型を取り , て, 今様の歌詞に合はせ, 体操に代ふること・名けて運動踊と云へり 現代の遊 戯に類するものな , ) り1 」 と記録されている。 その後, 他の学校, 地方へと普及されていく 事になるが そこで問題となっ てくるのは服装であ , る. 木村吉次も 「女子の体育 が, 男子の体育に比較し かなり遅れて進展した事は 一つの特徴的 , , 6 ) 事実である1 」として, その原因に女子の蟻(作法)の問題, 女子の就学率の問題とあわせ 服装の , 問題をとり上げている. この時代は改良と いう言葉が盛んに使われたが その間の事情を『女学雑誌』に求めれば 「日本 , , 婦人改良」 としての提案があり, その内容を 「智識 徳行 体力」 に分けている 体力に関する項 , , 。 の説明に 「衣食住ヲ改良スベ シ, 遊戯ラナスベ シ 体操ラナスベ シ……長袖ノ 衣服ヲ改テ窄袖トシ , 1 ) 学校女生徒ニ体操セシメ西洋遊 戯ラナシ1 」とある。 同誌には, 和服に対しての批判もあり それは , 自由を失い, 成長と発育を防げる, そのため不健康の身体 で勉学にもさしつかえがある だから軽 。 2 1 } 3 )に代表された衣服改良の重要さ をう たえてい 便自由なものにしなければならないという意 見1 っ る (3).
(5) . 斉 藤 祥 子. 0年代の 末期に, なお, 男子のそれは, 兵式体操採用と洋服着用は表裏の関係に あり, すでに明治1 中学校, 師範学校に, 制服, 制帽, ゲートル姿が, 新しいスタイ ルとなっていた. 一般の小学校で 1 2 } は 制 服 は な い, し か し, そ の 内 実 は 大 き な 問 題 と な っ て い た よ う だ .. IV. 明 治 20 年 か ら 35 年 ま で. 20年以降は, 欧米の影響も加わり女子の洋装化について論議が活発に交さ れた時代なので, 総理 大臣伊藤博文の極端な欧化主義の背景にあって, 女子にも, 国の政策が, 男子の場合と違った形で 行われたと思われるものが, 明治20年1月の皇后陛下の思召書である. その中に 洋装化を促がす理 由として, 運動と結びつけている 点が注目される.「……西洋の女服を見るに, 衣と裳を具ふること 本朝の奮制の如くにして, 偏へに立蔭に 適するのみならず, 身体の動作, 行歩の運動に も便利なれ 3 ) 」として, 二部式になることは, 運動上もよいと唱 ば, 其裁縫に徴はんこと, 当然の理りなるべし2 え, その影響は大きく, さ っそく各所で実施されることになる, その中でも, 体操の実施にともなっ て衣服に対する 規定を設けた華族女 学校の資料は貴重なものといえる.「一, 衣服ノ 地合ハせる. ふ らんねる, 麻, 木綿ノ類ニ限ルベ シ, 二, 衣服仕立ノ形ノ、富校ニ備へ置ケル雛形四種ノ中ニテ其ノ 年齢ニ適応スルモノラ選ミ之ニ準拠スベ シ, 三, れーす, 金, 玉等高価ノ飾物ヲ用フベ カラ ズ, 但 1 5 ) シ所持ノ洋服ニテ右第一, 第二項ニ抵触セ ザルモノハ当分其 月壷相用ヒ苦シカラ ズ 」として, 選択 の余地のあるゆるい規定であっ たようすが, うかがえる. 1 4 しかし, このよう な事は例外で, 他は旧態のままが多かった. 『女学雑誌』 )の中で, 当時, 先進 的に洋服をとり入れた海軍軍医総 監の意見として,「長袖にタスキをかけて体操を行うのは 時間的に 無駄, 経済的に無駄」 といっ ている. また, 洋服とまでゆかなくともその頃, 筒袖に袴というスタ イ ルが見えは じめている. 『女学雑誌』に 「岡山尋常 師範学校付属小学の女生徒は軌も女袴に て衣服 3 ) ・んといへるより起りし……1 」 す でに体操 と結びつ は筒袖に……体操あるゆえに此の方が便利から けて衣服の改良を実施している. こう した事は, かなりの前進とみることが出来るが, 周囲の状況 から文部省は同27年 「小学校ニ於ケル体育及衛生ニ関シ, 訓令スル所アリタリ」 として, 「(三) 小 学校校内ニ於テハ, 洋服又ハ, 和服ヲ問ノ・ス, 都テ筒袖ヲ用井シムヘシ」 とかなり積極的姿勢で規 定している事から義務教育を通して, 広く, 服装に対する従 来の習慣を改め, 機能性を第一にした 進歩的なものといえよう. また一方, 国の直接支配下に なかっ たキリスト教系の学校教育の各方面で果した役割は大きい. しかし, 明治21年頃は欧化 主義に対して, 国粋保存主義運動がおこり, 同22年2月11日の帝国憲 法発布により, 欧化熱は下火と なり, 同23年10月には, 教育に関する勅語が出さ れ, その後は国 家主義の教育とキリスト教主義のそれとが衝突した事もあっ たが, やがて, キリスト教主義は, そ 1 9 ) の方針を変えた, その例を, 明治23年2月「宮城女学校 規則変更之儀ニ付願 」にみたい, 「本校ノ・ 女子ニ高等ノ普通教育 ヲ授ル為ニ設ルモノトス」 と改め, 学科から聖書を除き 体操が加わる等, 学 校の規定をかえていった. 外人教師の多い学校は, やはり衣服においても, 洋装化への直接の 影響 を与える事は当然とい える. 体操の実施に対して も, 優美さを前面に押し出したフエリス女学校の例もある.「最も女子身体の ) 」としている. 形の上での体操の 発育を資し, 風彩の優美さを整ふに 適するものを選びて 之を課す4 設置をしつつ彼女らには人間の内面性を強調している. 卒業生のひとり相馬黒光によると 「フエリスはす でに明治 二十五・六年時代, 日本における新式 (4).
(6) . 学校の体操教育が女子日常服に与えた影響. 2 ) 体操のトッ プを切っ て…2 」また体操服について「明治二十三年, 高等科卒業以後三十五年ま で, 本 校で教鞭をとられた平野はまこ女史が, 衣服改良を主張され, 特別の服を考案されそれを着用し体 ) 操をした……5 」とある. この事実は, 袴, 筒袖の段階より, さらに大きく 改良された事になり こ , 0 )「活動しやすい体操服をつく って着せた事 で 服装史上の立 場から の功積は大きい, 村上信彦は2 , 言っても前例のない画期的なもの」 と評価している その形は 「下級生は 詰襟のワンピースで襟 。 , と裾に二本の白線をとり,腰でたるませて紐 で留めている ベ ルト代りに紐を使用した のはワンピー . スを固定させるためだし, 十分にたるみを持たせたのは上半身の自由な動きのためである スカー 。 トは, 活動の邪魔にならないよう膝ま でしかない (つまり, そこまで引き上げて腰上にたるみをつ けた) 。 その下に膝下まで達す る ズロースを穿いている」着心地は, 相馬黒光によれば「先生も生徒 2 ) もダブダブした特殊な服を着て……2 」の所感のようだが, 当時, 外人の影響下にあっ た事が, ここ まで思い切っ た事が出来たと考えられる。 しかし, 一般には同時代でも, そうした服装が許されない現状にあり その事情は多くの学校史 , に見ることが出来る。 福島女子師範学校において 「服装については, 明治二十一年十二月十三日 , 時代を反映して, 洋装と定められた……ところが二十三年十月, 教育勅語が下賜され 教育の方針 , と国民道徳の帰趨が改めて示さ れると, 手のひらをかえすよう に女子部の制服は二十四年四月から ) 絹以外の和服と定められた6 」とあるように, 制服は, 体育の時も以前と全く変わらない状能を続け ることになる。 栃木県の女学校 では 「髪は大抵挑割れ, 銀杏返し, 切下げ前髪の束髪で板のような 広帯をお太鼓結びにして, 帯上げを胸高にしめ」が, 明治32年頃までの女学生の服装で「体操の時 4 ) には棒をかけ, 草履をはいて, 亜鈴体操や球竿体操を行っ た2 」とあり, 福島女子師範学校の庭球部 について 「明治三十一年頃両手でラ ケッ トを持ち女子は振袖ハチマキで……」 といった現状で 女 , 子部第一回卒業生須子富子は「体操の如きも棒掛けで長裾のまま で……」したがって その姿も「駈 , 足などの時はいつも 右手 で押えて駈けるという有様」 と回想しているよう に実用に伴わない服装を 強い ら れ て き た.. 明治32年, 高等女学校長会議では体操服採用「袴着用, 結髪は束髪又は銀杏返し」の議論は委員 附託で否定さ れている状態であっ た。 この時期の体操についてみると, 同34年3月 22 日 文部省 , 令第四号を持って高等女学校施行規則に 「体操ノ・身体ノ各部ヲ均斉ニ発育セ シメテ之ヲ強健ナラシ メ四肢ノ動作ヲ機敏ナ ラシメ, 容儀ヲ整へ精神ヲ快活ニシテ 兼テ規律を守り協同尚フノ習 慣ヲ養フ ラ以テ要旨トス」 という考えを出している。 「容儀」 の問題とのかかわりも無視出来な い そこ で , , 袴も行灯袴という股の割 れていないものを使用する事により,その解決をみい出していく事になる . }では 明治33年から 体操の時だけ袴を着用し 裾の乱れを防いだ 「体操の 千葉女子師範学校3 , , , 。 時間以外は着用しなかっ た」 とある。. V。 明治36年以降 教育制度上このような実態を背景にして, 明確に, 服装について触れ始めた時期 である それは 。 明治36年3月 9 日, 文部省訓令第二号をもって, 高等女学校教授要目の中 で「教授上の注意」とし て,「七, 体操ニ於テハ衣服特ニ帯袴ノ仕立方著 方ニ留意シ, 四肢ノ運動ノ・勿論呼吸及血液循環ラシ テ自在ナラシメンコトラ期スヘシ」 と, 女性の特性を考慮に 入れた内容 である。 世論や周囲の状況 から, 袴についてもふれざるを得ない事態になってきた. しかしながら, 洋服採用ま ではのぞまれ ず, 明治37年11月, 神奈川県立高等女学校の新原俊透校長は「女学生ノ学校服改良ニ関スル建議」 (5).
(7) . 6. 斉. 藤. 祥. 子. を久保田文相に提出,「女子体育ニ極メテ密接ノ 関係ヲ有シ, 寧ロ体育ノ効果ヲ収ムルノ必要条件ト 称スベキ服のコト有 之候。 ……本校デハ 生徒ノ衣服ノ・短袖着袴又ノ・洋服トス. 閣下若シ女子ノ体育 ノ奨励ニ意アラ バ, 願クハ先 ズ女子ノ体育ニ最モ障碍ヲ与フ ル服装ヲ改良スルニ挙ニ出デランコト ラ……」 体操遊戯取調報告書でも, これを懸案のひとつとして取りあげ, 学校平常服としての標準 型洋服を制定し, その袴 (スカ ート) を脱して, 袴下 (一種のブルマー) の裾を括りあげた運動服 を考案した. この新制運動服は現場で広く採用されるとま では 至らなか ったものの, 運動に便利な 洋服奨励につれて, 筒袖, 袴の着用が次第にひろがり, 注目されるようになってくる. しかし, 結果的にこの問題に熱心な久保田文相の交迭のために通牒 を予定さ れていた運動服奨励 の件も見送られて しまうことになるが, 袴採用の段階から一歩すすんで洋服採用ま で問題が展開さ れてきたという事は, 教育現場からの要求として, 機能性を洋服に求めることの必要性が叫けばれ てきたからに他 ならない, が, 現実には, 明治時代を通して, 女子服装の前進は, 形態上で見る限 り制服に, 元禄袖, 長袖, 筒袖等の着物に袴が採用され一般化したといえる. これは, 明治の改良 の所産であっ た. 体操の時は, その上に棒をか ける程度でも, 当時の社会的風潮を考えれば, 大きな変化であった. 形態上は, あまり大きな進歩はなかっ たが, ここま での 変化は, 次の時代へ向かって大きな花を開 かせたと見ることが出来るの ではないか.. V I . 明治の女子に対する社会背 景とその問題点 明治初年代から 「体操」 という教科名が学則に掲 げながら, なぜ男子の場合のように実施されて いかなかっ たか, それには女子に対 して儒教的女性観が支配 し, 活動に伴なわない和服, 髪型の問 題が考えられる, 女子の体育は教科としての体操を論ずる以前の問題とかかわっ てくる. この事について, 荻原美代子は 「女子の体育の場への洋服導 入は単なる和服か, 洋服か活動的な 方をとるという選択の問題 ではなかっ た. ……袴は男のもの であるときに女が, その袴をつけてま で運動することへの抵抗感, 必要性の無さ, 女性の男性化という 懸念, 諸々の否定的要素がある. そして, これらが打ちこわされ, 変化したときより, 強い肯定的要素があらわれたとき事態は徐々 } 」 としている. さらにもう 一つの見方として, 『近代日本学校体育 史』 によると, に変化してゆく7 「筒袖, 袴の着用は経済的な問題からではなく, 道徳的非難をこめてさ けばれた. 女学生の青春時 代の躍動は, お転婆という語によって冷笑さ れた. この非難は農村と対照的である. 女子の労働に は男子に近い体力を期待する農村でも, その活動が一歩実用を越えて遊びに転じた時には, 道徳的 な非難をこめて冷笑さ れ, 都市では上流社会の女性の品位の問題として, 動的活動自体が非 難され 7 ) た1 」等, 問題を含んでいる. そうしたなか でも, 理想論を掲げながら女子教育を実践していった先 駆的役割を果した人々の功積は 大きい. 体育が女子にとっ て必要 であるとして 実践を同時に行った の中で3人をあげてみる. 第一に三輪田真佐子は 「倫理は 内部 (人格) を司り, 体操, 作法は外部の容姿を司るもの である ) 」とし, 女徳 から, この3者はお 互いに連絡を保ち, また一致しなければ本当の効果は得られない8 を重視, また下田歌子は昭和36年 『女子教育概論』 において, 教育上の3つの点を強調している. それは (1) 体育の重視 (2) 知育 (3) 徳育 であ ったが, そのうち体育 を重視することについて, ) 「健康な国民は健全な母の胎内に育つ8 」として, 子孫繁栄, 国家の富強を望むためという, 国の政 女子教育と照応させているが 策に合わせて, , 従来の和服を改 良し, 制服としてとり 入れた功積は (6).
(8) . 学校の体操教育が女子日常服に与えた影響. 大きい。 また, 井口あ ぐりは, 明治31年から明治3 6年, アメリカで学んだ体育を, 帰国後, 母校, 東京女子高等師範学校の国語体操専修科の教授となっ た 「女子は今後 精神身体共に健全にして立 。 , ) 派なる鹿の日本の国民を産 み出す本である2 」として, 従来の女性観を打破して, 行動する女性像を 提示している。 また, 体育に伴う改良服も提 案している これらの人達の影響も受け女性は従来の 。 ままではいけないことを一部の人は感じながらも, 表面は大きな変化 を示さずに 新しい生命をそ , の胎内にひそませな がら, 次の時代をむかえる事となる 。. I V L ま. と. め. 男子に比べて, 遅れた女子の洋服導入にはさま ざまな問題が含ま れている それらを検討してい 。 くことによって, 同時に, 衣服の成立には, さま ざまな要因が含まれてい る事を探ろうとした そ 。 のひとつとして, 女子教育に体育が導入された事によ って, 従来の和服からの改良服 洋服が 実 , , 体験の優位性によって, 今日の我々の衣服となっ ていく一つの契機となっ た事を見た 。 明治のはじめに. 「男女の差アルコトナシ」 から始ま った教育に対して 実際に 国語等の教科に , , 比べ, 体育開設, 導入過程に明確な男女差 が表われてくる 内容 時間に差が出はじめ 実技に伴 , 。 , う服装の問題が表面化した。 始めにかかげた理想の実現には実に遠い道程が必要とされた 明治20 。 年前後から, 富国強兵の拡がりに伴なって, 国家的見地から論説等がに ぎわい始め試行錯誤しなが ら, 新しい道がひらかれていく, 明治期にあらわれた 衣服の変遷の中に常にとりあげられる華やか な鹿鳴館 等の特権階級の女性のみの洋服採用, 国の政策によって採用された学校の制 服としての洋 服採用は, 一時期, 地方にま で拡がりを見せたが, それは火花のようにあらわ れ 後かたもなく消 , えさり, すべての女性の洋服登場には日を要する。 今回, 学校における女子体育 導入とそれに伴う女子服装の改良をめぐる問題を考察して当時の社 会には, 服装の支持基盤としての社会的生 活様式, 人間観 教育観など 極めて劣弱 であったと考 , , えられる。 しかし, 体育の授業開設にからむ, 女子の服装の認識が 女子の立場や あり方のとら , , え直しのエネ ルギーとなった。 これに大正デモクラシーと欧米の科学主義が加わり 女子の洋服化 , の土壌となった。 その後, 大正12年の関東大震災は洋服化の契機を与えることになる 。 本研究にさいし, 御指導, 御助言いただきま した北海道教育大学函館分 校清野きみ教授に深謝い たします。. 引. 用. 文. 献. 1) 跡見女学校五十年史 (1925) 2 2) 井口あくり ( 1 ) 女子体育について 教育公報 27 9 0 3 0 9 3) 千葉大学教育学部百年史 (1981) 184 4) フエリス女学院1 0 0年史 (1970) 108 5) フエリス女学院1 00年史 (1970) 489 6) 福島大学教育学部百年史 (1941) 91一92 7) 荻原美代子 ( ) 女子運動服の変遷 女子体育 19(7) 19 7 7 8) 唐沢富太郎 ( 1 97 ) 女子学生の歴史 木耳社 297 9 9) 女学雑誌 13 ( 1886 ) 20 1 ) 女学雑誌 14 ( 0 1 ) 45 886 (7). 日本女子体育連盟 33.
(9) . RU. 斉. 1 1 ) 女学雑誌 22 ) 女学雑誌 28 1 2. ) ( 1 86 8 ) ( 1 86 8. 5 2 63. 13 ) 女 学 雑 誌 57. ) ( 1887. 140一142. 14 ) 女 学雑 誌 68. ) 1887 (. 148一152. 藤. 子. 祥. 19 ) 22 3 3 5 ) 女子学習院五十年史 ( 15 5 ) 体育・スポーツに貢献した女性たち, 体育の科学 24 体育の科学社 19 1 974 ) 木村吉次 ( 1 6 ー 0 一 6 1 6 育史 日本図書センタ ) ( 近代日本学校体 休蔵 1 9 8 3 1 ) 岸野雄三・竹之下 7 , 18 ) 明 治 ニ ュ ー ス事 典. 2. 1983 ) (. 毎 日コ ミ ュ ケー シ ョ ン. ) 1 9 1 966 ) 宮城学院八十年史小誌 ( 1 9 ) 明治女性史, 理論社 0 1 97 2 0 ) 村上信彦 ( 7− ) 兵式導入をめくる学校教育の諸問題, 北海道教育大学紀要, 第一部C, 28(1) 2 19 77 2 1 ) 佐竹道盛 ( 国民の 大することとなり わば国民的規模に拡 入をめぐる服制の問題は服装改革をい 2 8 , ,「小学校への兵式体操導 生活習慣や生活の実態とのずれをあらわにし, 大きな問題」 197 4 ) 黙移 日本人の自伝6 平凡社 349 2 ) 相馬黒光 ( 2 )5 1934 7一61 2 3 ) 東京女子高等師範学校六十年史 ( ) 1 8 19 66 ) 宇都宮女子高等学校90年 ( 4 2. 参. 考. 文. 献. ) 体育之理論及実際 国光社 19 06 1) 井口あぐり, 可児徳, 川瀬元九郎, 高島平三郎, 坪井玄道, ( ) 文部省内教育史編纂会 193 8 2) 明治以降教育制度発達史 4 ( ) 日本教育史2 平凡社 1 97 3 3) 佐藤誠実 (. (8).
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