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上代に於ける讃備地方の地位-香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

良 次

寺 田

皇紀二千六百年を迎へ得たことば宮入め最光栄とする閉で、囲民としで今更ながら常時を追想し、殊に郷理の

者としでは其の地の竃を偲び、甜先に謝し、現在を悦び、賂釆に資することは最必要字1と∼思ふのである、夫

につけても我が蛮岐附近の地が我が困に封し、古来如何なる役割を演じた所であるかを熱々感じたので、この記

念すべき論文集張行に雷り、獅か追懐共に認識を深くしたいと思ふ次第である。

9 義が讃岐の地は対岸岡山蓮の地と共に、我が珂にとつては古来最語勢な佗違を占めてゐた桝であ㌔郷原人た

轡滞

る常人の最よく認識しなければならない所である。普備高畠蟄踪頸彰命数行の高島村誌にも岡山附近の地の盈紫

煙を論じて、﹁上古の吉備兜を摸する時、我が高島村を中心として、此の地方が全図第叫の文化敢展の地として、

我が光輝ある帝闊進展の損耗をなせるの地たるを思ふ時、感興禁する能はぎるものあヱ︵貰二︶と栴してゐる。

かく我が郷土の地が議には考へられてゐない程、我が樹にとつて豊貸付を有してゐた土地であるのは何故であ

るか、兼は全く地機上の関係から起って払るので、全く地理的の原図に依るものであると云ふことを看過しては

ヒ代た於ける讃借地方の地位

上代に於ける讃備地方の地偲

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ならないのである。 地質革新の研究によれば、我が郷蜃の地は瀬戸内海の地蒲帯と、之に縦横の断僚作用が加って自然の変通路を 生じ芦朋である。即ち我が日本列島は亜細亜の乗珠を飾る所謂花彩列島で、凸面を太平洋に向けて攣曲して居る のであるが、喪の中央に山放に滑ふて地溝が出来てゐる、其の原因に就ては色々の説があるが、多くは我が列島 は柄北二攣より成って屠る闘係上生じたものと考へ、殊に南轡の方即ち我が郷土の地方は、地帯構造上内外二常 に分れて居ることが比較的よく見られる朗であるので、これを論掠としてゐるのが多い、有名な弼逸の鞄規準者 一 リヒトホーヘンの如きはこの内滞を以て支那の還俗山系の北淡、即ち秦嶺山駄の薙kであり、外滞は南派即ち 支郡山系︵南嶺︶の延長であるとし、この両帯の結合によつて破砕滞を生じこゝに内外二帯が分れたのであると考 へて居hl我が図の地質撰者故原田也豊胃博士の如きは、九州の八代より佐賀闘牛島の北を通り、伊改の松山に至 り↓更に来して讃岐山肱の北側を通り、近畿地方をへて、信濃の諏訪盆地に至る馳膿構造線を以て、内外を分つ 放と申してゐるのである、この地溝帯が即ち我が瀬戸内海をなしてゐるわけである。 而この内外地滞の粗服は放初は高い山嶽を形成してゐたのであるが、多年の星霜を鮭て所謂琴平原Pe莞p−a置 と成り、が謹風水の浸蝕を受けて視軸な地形を形成するやうになつたのである、然し準平原の性として甥今の起 伏を見ると、何れも其の高さは忍叫愛してゐる.、新しく噴出した大山︵伯菅︶並に、石見の三瓶山等を除いたなら ば、中開の山々は大館に於て手先百尺内外の高きのものゝみで、頂上は忍藤二しに綬斜面の丘陵をなしてゐるの 高麗富感商業撃校紀元二千六百年記念論文童 ニー四

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である、これに後になつて鴫裂が出来、これが者々放射状に生じた、この碩裂は中開より四囲を通じで蟹生して ゐるので、大阪から室戸崎方面に連れる大阪垂戸綿、讃岐の引田から土佐の野市に適する引咽野市練、其の他、壬 生川八幡濱紙、鷲別船級、濱田大牟田挽は、即ちこの断麻作用で出釆た触褒感でへあり︵蛸馴謂守河川がこの紋 に澹ふて蟄達し、これが雷、恰も帯の如㌢狭長い摸谷が穿たれ、深く内陸に入込んでゐるのである。中国地方の 地形はかくの如くであるから、この地方では多少の迂廻を魔悟さへすれば、殆せ山坂を越える無はなくしで、彼 我往寄ることが招来るのである?︵帥細謂欄即諾欄︶ かく我が郷士の地は、・瀬戸内海の陥落地帯と、之に忍縦に走る餅原放とによつで、自然の交通路を生じたので あるが、然も其の縦横の繭交通扱が我が郷土附近に於で交叉してゐるのである。′即ち瀬戸内海の東西の交通練、 即ち下摘方面から大阪に通やる絶と、岡山螺の旭川又は高境川と出雲の日野川又は斐伊川︵簸川︶を結ぷ放と、瀬 戸内海から紀淡海峡に通やる南北線とによつで造られてゐるのである。この縦横の丙交通級のあつたことは、我 が郷土をして、我が閥に於ける重要なる位置を備えしむるに至った盛大原因と考へられるのである。 この交通級は意外にも文化上より観察する時、ぬも我が図文化費畔地の如き役割を宿してゐるのである。我が 国唯二の古典たる古事記、日本雷紀を播く時、其の記事が殆ど我が郷土の地名を以て充満されでゐるのに驚かさ れるのである、即ち古事記で放初に我が郷土地方の名栴があらはれてゐるのは﹁故二喋神立天浮橋而∵︰⋮・・生チ アハジシマ 水蛭子、此子潜入葦糠雨、流去、次生淡嶋、是亦不入子之例﹂であり▼、之に吹で、﹁生予淡遣之穏之狭別畠、衆生 上代K於ける讃備地方の地倣

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こ〓ハ 高畢偽称商業撃校紀光二千六宵神託念論文集 伊預茎一名島、此島者身岬而、有面閤、録画有名故伊簡閲謂愛比資、輩岐閉謂飯依比苗、梨園謂犬宜都比賛∵土 左閣謂建依別、衆生憶佼之二手串:・⋮﹂﹁後還坐之時、生育僻見島亦名謂軽口方別、炎熱小豆島、亦名謂大野手

フクゴ

うジマ 比更、衆生大島亦名謂太多麻流刑、衆生女島、亦名謂天側板、衆生知討薫亦名謂天之忍男、衆生丙児島、亦名 謂天桶屋那配離鵬楠腎茜雲紳︰⋮﹂きが漂着しい斯である。 然しこれを地構上から考へる時、この記事は決して偶然ではないと考へられるのであり、寧意外に意義深きを 覚り得るのである。即ち横の交通放たる瀬戸内海が我が組菟活動の柿既であつたことは理の普然であり、従て又 縦の交通級が常時より眈に利用されてゐ仁ことも察す.ることが出来るのであるからして、古典に於ける開閉の物 語が共に我が郷土を無益としで営まれてゐることも決しで不思議ではないと堵へられる。 良いことではあるが﹂逃ぶることを許されるならば、自分は竃典にある伊非諾、伊弊西浦禽の物語の如きは、 余の所謂輌北紬に封する往釆を示すものと考へられ、之を具轄的に申すならば、紀伊方面と出雲方面との往来を 示すものではないかと考へるのである。古事記に伸葬阿食のおかくれになつた路の記事がある。﹁故伊邪郡莫細波 開銀火桶、途神辺坐也︵離語継闘相韻諾㌔︶糞桝紳避之伊邪郡話者、葬洪雲団褒宿産繭堺比警山地﹂、 と記され、出崇と伯菅の堺の遼に御陵が営まれた守っに察せられ、山原この感を深くするのであり、この他南北 線による常時の交通状態は苗寄託の所々に見受けることが出水る、例へば仲弊諾奇の旧軍に御越になつた記事と しT、

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﹁故其所謂黄泉比良坂新、今謂出雲囲之伸蹴破坂也、於是欲荊見其妹伊那郵美、退社黄泉囲、爾白較騰戸田向 之時、伊邪部位命、諸詔之、愛我郵避妹命、雷輿汝所作之固米作光、故可還、伊邪邦夫命、各日悔載、不速釆 ︰⋮・⋮﹂ があり、叉素意鳴尊の俸に ﹁紋所避退而、降出雲図之兄上河上春鳥栄城、此時箸捉其河流下、於是須佐之男命、以番人有黄河上而、尋覚 上徒者、老犬輿老女二人在而童女道中而泣﹂ の記事がぁり、何れも古い時代に於て瀬戸内海を中心としで、我が郷土地方に於て南北の往来が盛に行はれた ことを物語るものである。偶後になつTもかゝる例は各時代を通じで之を観ることが出釆、大開主神についでも 次の如き記事を牽見する。﹁汝有此間者、途焉八十紳桝滅、乃速追於木固之大屋鬼石紳之御所、爾八十翻覚追琢、 両突刺之時、白木俣避逃而去、御組命生子云、可蓼向須佐能男命胡坐之根竪洲閲、必其大輔議也、政略詔命、面 会到痴佐之男命之御所考、共女須勢埋度盛出足・︰⋮⋮﹂﹁神武天皇﹂環八九には、大閏主命のことを記して、﹁俵て 母紳は命を紀伊固なる大屋艮石油の御許に逃がしで造られたが、そこにも八十両が迫で釆たので、選に須佐之男 命の御許に遣り給ふたと云ふてゐる、此等も出雲と木組との問の往釆を物語るものと申すことが出来る、﹂と云 か、又沼田頼締着﹁上代の吉備﹂貫三には﹁神武天皇御東遽の時、天皇が久しく騨を高島の行宮に駐めさせ給ひし も、恐くは出雲民族牽制のためにして、暴この消息を魂ふに足る﹂と云はれ、この時代に於てむ筒音備を通じて 上偶忙於ける讃借地ガの地位 こ叫七

(6)

二一入 高埜品等商葉単校紀元二千六甘年記念論文集 山陰との往来線の糞婆でかつたことを察せしめるものである。何時代は下るが昔備津彦命の吉備に網下りになつ た理由も、矢張りこの道による交通相係を思ひ出さしめるのである、同﹁上代の音備﹂買五には、﹁書備津濠命が晋 備に入られし後の事情については正史にこれを見ざれば知り難きも、霊山簑民族銭撫の璃なることは疑なかるべ し﹂と云ひ、この道の社葬を物語てゐるのである。葡晋備渾彦命以後に於ても往釆のあつにことは現今この道に 沿ふて、徒釆を示す遺跨が蔑つでゐるによつでも察することが出来る。蒋﹁上代の吉備﹂豊硯むと、次のやうな記 事がある。︵順姉︶ トコロコ サ・フク ﹁伯著の日野部首内村に柴空相神政めり、吉備津貴命を祀る、叉伯曹に西伯郡朋子村にも叉宮内といへる桝あ り、青儲津彦命を祀る、又高境川の流域にも今も吉備津彦命に閥する口碑を侍ふるものあ㌔中にも阿哲郡新見 村には晋備樺彦命の墳基とさへ侍ふるものあり﹂とて其の著者は之を解詳して﹁かく伯菅の国民に吉備津薄命を 組紳と仰ぐものあるは、思ふに曹備の国民の高梁川の流域に沿ひ、次第に北部に向て磯展し、途に中図脊梁の分 水嶺を越えて、始めて日野川の水誠に合し、更に其流域に滑ふて北方に植民したるものなるべし﹂と云ふてゐ る0 伺高東川の南北挽により近畿と出雲地方との交通を説いたものゝ叫つを奉げると、菟出茂丸著の﹁檀原の遠組﹂ 頁七仙には、熊野と出雲との関係を記しで﹁熊野とは苗へは、紀伊図南北牟婁郡海陸完即に潜る憐い帯域の苗名 であります、此の地は天照大神の御弟素謹聴食が神代に根圃であつた、山陰地方からしばノ1従来せられた、我

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図苗代文化の三大地方の仙であります﹂と云ひ、叉、日本番組にある﹁狭野を越えで熊野の紳邑に到る﹂を解しで、 ﹁紳武天皇が山道を越え、熊野詣でを遊ばされにことを申しますので、大御船のみが熊野川の河口である今の新 富の地に御得ち申し上げたものと侶するのであります、さて熊野の紳畠とはどこであるかと申しますと、それは 今の熊野本官の鞄であります、此熊野は天皇御東征以前からぁらはれてゐた古い土地で、紳代に素盛鳴尊が′こゝ を本擁として山陰地方に往乗せられた苗代文化の地でありますから、天皇が此の紳邑に特に御出でになつたもの と存サるのであります、出芸にも熊野の地名がありますが、やまとに近接してゐる地勢上、紀州の熊野の地名が 出芸の地名に移ったものと思はれます。﹂と、 かゝる例謹は各軍に於て耽ることの出来る桝で∵高東川の断居組により、南北往来の感であつにことは、充分 に知ることが出来ると思ふ。 伺瀬戸内海の東西の往来の如きは、素より盛であつ㌍ものでぁるが、竃寄託に俸ふる例を今仙つ奉げるなら ば、自分は前述の伊非諾、伊弊舟両今の図土御修埋固威の投を拝察しょうと思ふ。 ツハジシマ 最初に子水蛭子を、次で淡島を、次で淡遥之徳之狭別島を生み給ふたが、此等は御子の数には御入になつてゐ ない、次に伊預の二名島を御生になつた、此島は身仙つで両四つありと申し、讃岐■阿波・土佐を指すもので、即 ち四囲の事であり、次に隠岐の三子島を御生みになり、かくで大八島を御生になり、御還りに曹偏見島を始め・、 ブクゴ セノジマチカノ 小豆島、大島、女島、知河島予両見島を御生になつたと云ふ順序になつで居り、御生になつたと云ふ意味を修理 上偶忙於ける語備地方の地位 二 仙九 1、、溺﹂湖瀾

(8)

高松高等商業撃校紀元二千六官年記念論文集

三〇

開成遊ばされたと云ふ意に考へるならば、この物語は食の御柱釆になつに御導肋を申すものと解することが出

来、恐が淵戸内海の東西の交通級により、淡路の方面から四囲、九州と大八洲を御めぐりになり、御滞りに寄儲

から小豆島を始め、其の附近の島々を御めぐりになつたものと挿察することが出来るやうな東だ打たれる。かく

考へる時、隠岐が少し先に記されてゐるのは不審であるが、これは叉高梁川の南北線によつで山陰方面と御柱来

遊ばした結果とも考へられないこともな′\最後に吉備・児島・小豆島克どが出てゐるのは、御録途に、矢張り

高染川の交通線によつて、菅備に御もどりになり、夫から兄島並に其の前面に構はる諸島、即ち今の備讃瀬戸に

散在する島々を御めぐりになつたと見ることも出乗るのであり、此等も結局ほ瀬戸内海を中心とした東西、南北

雨交通の状態をあらはすものゝ如くに考へられるのである○

葡瀬戸内海の東西の往釆については、古事記では伊弊諸藩の御柱釆が嵐に付くのである、即ち倦がさきに紳週

ょした伊弊何奪に御薗りを御望になり、出憲に御越にな㌔御陵に御重りになつた物語があ㌔尊は伊弊飽食の

かはり給へる御姿を眼のあたり御兇になり、逃れて御躍りになる物語がある、其の時の記事は、

﹁絨閣而在那理、政富者薦御身之楔而、到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而楔故地、﹂

で定めて出喪から吉備をへて内海に御出ましになり、内海を経て日向に御越しになつたこと∼舞察される。叉未達 嶋禦避速須佐之男命︶が梅原を治すやうに御定まりになつた時に︵苫寄託︶其の方には行かれすして御母の囲に重

り度旨を以て御泣笑になつてゐた、そこで常時淡梅の多賀にましました伊邪那岐大赫は之を閲しめし、大に御念

(9)

になり﹁然者汝不可任此囲、乃紳夜艮比蘭夜艮比賜也﹂と云ふことになつたので、奇は高天原の御姉天照大神の夙 に御暇乞に御越になり、途に御母の閉即ち出藍の方に御下りになり、肥川上︵簸川上︶の物語となるのである。此 等む何となく食が瀬戸内海を御通になつて西方に御越になり、吏に内海の迫をかへし、高梁川の線によつて肥川。 上に御出ましになつたと云ふ交通路を彷彿にらしめるのであり、細武天皇の日向から瀬戸内海の遣によつて御東 遊になつた事賓により、瀬戸内海の往来の感であつたことを確蝕する以前に於て、眈に内海の早くから主要な交 通路であつたことを考へさせられるのである。 かぐ古事記の記者を翫味して見ると、何れも我が郷土を中心としての物語のやうに感ぜられ、従って我が郷土 の地が1我が園にとつて古くから如何に盛要地鮎であつたかを考へずには居られないのである。吾人は更にこの 輌交通に封して想像をたくましくすることを許されるならば、この両交通の本披たる北部は勿論、韓牛島との闘 係を思ひ、南部は黒潮の関係を考へさせられ.るのである。か∼る考は決して自分だけではない、東京人類革命後 行の﹁日本民族﹂申、長谷部吾人氏着日本人と南洋人身長頭骨形よりの研穿︵貰−八大︶には、液大報長と最大頭帖 との組合せ型について相比研究して、﹁以上の簡箪な所見から柳か犬胎ではあるが、日本人と南洋人との間に親近 糊係のあることは予も之を信じたい、それは日本人の組兜の大なる部分が、′砂童の太古に南洋より渡来せること を想像せんとするのである﹂と云ふてゐる。叉同音に、 ﹁この組先の中には、現に印度洋諸島に棲息するものと、身性甚だ類似するものもあつたが、寧ろ然らざるもの ● 上備忙於ける滴備地方の地位 二二山

(10)

高松高等商薬療蒜禁些元二千六有年記念論文集 二二こ が数に於て甚だ勝てゐたと思はれる、後者は前者よト長頭に傾き、それだけ亜細亜人を遠ざかれるものである0 我等は叉ニ、ウギ一;・メラネジヤ人よりも大なる頭を有し、この鮎に於てアイノと共に幾分ポリネージャ人に近 似する、凡そ南洋諸島人は償大陸より印度渾を経由し、赤道反流に乗じて南洋に到達せる群落に出づること疑な く、その叫部が黒潮に身を托しで日本畠に達しにるは甚あら得べきことである、印度洋語島を敢に辟ること最速 きポリネージャの住民と、これと北に距る甚遠き日本の北部地方型との問に、幾分の近似を見るは蓋し偶然では ないであろう﹂と記してゐる。従ってこの縦横弼交通は如何なる意味を寓するものであるかをも想像せしめられ るのである0 我が大仰組にまします天照大神は、御宗家の紳として高大原にましまし、御弟署素意鳴禽は北方次の後を昭が せられ、即ち母方の方を御鳩ぎになり、出雲との関係許有せられた。肥川上の御憧訟の如き之を葬祭致す時、思 ひ牛に過ぐるものがあるのである。従って素骨の御後が大圏主命、少家名命などゝなり、我が郷土附近を御紙座 になつた、即ち闘士開拓を遊ばされにのであると云ふことをも、理解し得られるのであり、此等もこの交通線が あづかつて力のあつたことを忘れるわけには垂らぬのである。告傭の地は素より我が讃岐の如きも出笥系の遺跡 が多し認められてゐる、例へば金刀比警の偉によると︵綱川鯛謂︶、萬岐琴平の地は天顔主命が本讐して中。 固・四囲・九州を御経常あらせられた断となつて居り、金刀比羅宮は命を御祀り申してあるのであるチ叉小京都 には母御来航の偉詭があり、同地の散薬は今に共の端を賛してゐると云ひ、叉同四梅村八坂紳祀は尊を奉祀し、

(11)

叉同村の冠牙紳赦は尊御衆航の時の講師脅祀った断と云ひ、叉八坂紳敢は初め合切御登攣あらせられしと云ふ大

丸の地に鍔座ありしを、穫麿≡年勅命により官牛を長嶋に移し、骨年数牧の潰址へ連座したと云ふことになつて

ゐる︵鮎川紬豊︶。雷川願内項塵の紳雷管と其の御祭神に大部分が素食と大関主軸とである︵霊︶。この他

スエ

訟妓には陶と云ふ地名があり、古米陶器の産地であつた朗で、今も多数の竃址が残ってゐるが如きも、出芸との

関係を物語るものと云はれ、我が郷土附近が如何に出雲と幽係が深かったかをも想像し得るのである。

額面武天皇御楽壇の時、吉備の袖に比較的永く御荘螢になつた、古事記には≡年開腹撃とあり、日本苔紀には

﹁絶入曽僻観、起行宮、以屑篭=苗高島苧1港上孝和整晶2高島富、八年讐とある、かく意外に永く御滞留 に讐忘は、或は舟械を修め、兵食違へ拾竺莞和寒富んとし袷ひしな㌃と巾すが︵舶警︶叉甲田械 輔氏は之を以て恐らくは望罠牒儲のためであろう︵翫雛聖と克てゐる。叉時代は下るが吉備津彦命が音 備に御下 りになつたのも、其の賢は出言放銭撫の焉であろう︵根城望と、諭ぜられてゐる。尤喜備津濠

命と出雲主の御囲係は古典に叔日本武禽の御停と混ぜられてゐる、即ち吉備津彦命は普備に御下りになつて後凡

五十年を経て、望蒜根を御征しになつたと云ふのである、が、古事記には倭建命が望遠を御征しになつたこと

になつてゐる、この両悔は事蹟が類似して居り、且出雲建と申すのは出雲鼻師の義で、損害の族長であるから、

振警指すものと基へられるが、今俄針先サることは困讐至。︵町械璃︶

兎に角、望読の勢力が高菜川の交通級によぅて、吉備は素より内海藷島から畜岐方耐にまで及んでるて、笛

上代に於げる評僻地方の地位

(12)

二二田 甘涌聡高等商兼蟄校鮎元二千六百年記念論文集 時の大勢力であつたことが考へられるのである。従て我が郷土附近の地は早く開け、文化の庶も早く吏達したも のと考へられ、日分は我が国語群の播藍は確に瀬戸内海、殊に我が郷土附近であつたのではないかと考へるので ある。 長いことではめるが、出雲次の国土贋螢を完成遊ばされ、愈々固土奉還と相成り、こゝに高天原から宗家の紳 が御降臨と打アり、はては紳武大畠の御来遊と相成ったので、是誠に二千六百年の記念すべき苗であづたのであ る。両天皇も亦我が郷土の地に於て比較的永く御滞朝遊ばしてゐる、古事記には三ケ年日本普紀には八ケ牛、御

覧と侍えてゐる、嘉の高馨

あろうか、或は晋備の地は交通路の囲係上田実況の勢力の盛克斯であつたから、天皇は先之々優制する為に永く 御駄警浩志であると云且翫媚詔︶或は舟械を修め、兵書苔へ給ひ二・撃大和を平定せんとし給ふた悠 であると為す︵摘貼晋、とちらにサよ、備蛮海峡の地は所謂噂飽島が警しう姦患部の根地を琶世 に盛儀海賊と柄せられて﹁御武天皇御東速を始め、紳助皇后の二転御征伐、天慶の乱、源平二氏の争乱、吉野糊時 代、八幡船、吾秀普の朝鮮征伐、諾役に誓葺璧に㌢括管しきとは世の知る朗である︵堀納離蚊︶ ︷ソラ 文吉備の方にも海賊の倦詮が凍てゐる、即ち吉備津紳軋の敢偉による土、吉日酒より通辣と云ふ者が釆て吉備の エヒ 地方を占領し、今の音備郡の新山に城郭を欄へ、西圃の賞牌を掠奪しにから、普備津彦命が御越になつて之々御 成定に誓たと云ふのである︵鋸璃絹了代の漕備の著者沼田鹿輔氏は之を許して、

(13)

﹁この訟た各釆、俄に宿すべ卓にあらざるも、思に雷備の沿岸は由鞠往来の姿儲に管、其準挿は港飛出入ん

て、畠よh塵海賊の占居せる朗写れ′ば∵認羅の如きもの・ゝこの地方を占有せJりといへる倍詮の如きも、直に排斥 す大きにあらや。﹂︵鋸贈撃

と云はれてゐる、事茸如何を間はや、要するに備蛮海峡の地は早くより梅止生活民の根接地で有勢であつたこ

とは春賀でぁる・、神武天皇の吉備め地に永く御滞留になつた胎内も、或ほこれがためであつたかも知れないので

ぁる、盈飽諸島には硯今神武大畠富時に闘する鯨紛は何等存するものがないのであるが、定めし飴時に於ては何

等かの御車仕を申したこと・、考人﹀るのである。かく考へ・て見ると、我が郷土附近の地は、帥武天皇の苗に於ても

葡濱要な地鮎でぁつたことを想像することが錯雑るの′である。

箪に紳武天皇の苗に於て許りでなく、有兜以後の苗にあつても、我が郷士附近の地が大和の中央にとつて、飴

程密接且意恕東森割をつとめ王朝であることが考へられるのである。此等も苗此ハの明に記す所で、吾人は古事記

を邦武する時、其の意外なのに殺かされるのである、即ち栄沖天畠の囲造将軍を御迫はしになつた時、吉備津珪

命宝口備の地に御遭はしになつたこミ女我が讃岐の地が日本武奇の御樽訟を宥してゐることなぜを考へると、

宝思中年に過ぐるものがあるの′である。昏備の他の如き、出雲と中央︵大和︶との交嫡上箪要地鮎であり、文中期

では珍らしく開けにる農作地である関係上、特に孝麗天皇の皇子で常時有力でゐらせられた吉備津彦命が御出で

になつたのであり・、其の御子孫が普備の袖にひ巧がつて∵兼く大和と欄密磯な囲係を希せられたのである、晋腑

土偶冗於ガる圃儒地方や地使 ︰二−正

(14)

二二六 高船二偽等商業鍵校紀元二千六青年記念論文集 の中山に厳然たる命の御基を辞する時、さては喪の山麓に祉腋なる図解申祀吉備港沖政を尭する時、′紬感慨の情 に打たれるのである。 然し蕾備津軽命については兜の侍ふる朗不備で、革質は判明を欠いでゐるノのであるが、常時吉備に御下りにな ったのは、普通に考へる如く曹備津彦命御叫人ではなかつたらし′いのである一朗謂大吉備津彦命以外に、御弟の 雄武吉備津彦命も同時に御下りになつたのである、首巻記には ーシコ≠ムヰヤハシタマフ ノハシラ ﹁大音備韓日子命、輿若建吉備津日子命、・二庄相副簡、於糾問氷河之繭、屈忌怠滴、糾問残量囲以、言向和音備

望、故此喜備警孟盈語要菅子警備菅富農節野

とあり、叉﹁上代の膏備﹂には︵貢七−八︶右を許しで、﹁栗田博士詮を尊げ、御兄劾にて吉備に雷向給ひしは、黒 田宮の御寧にて、皇子ニて閤十哉の墳と、即孝窪め三十八年頃とさしあて1も二百歳に近かるべし、たとひ常世 の人高年なりとも、人々みな然るべきにあらや、されば曇紳妃にみゆる普備津濠は菜墳吉備津日子命の子なる晋 ヤハ 備武濠の審とすべし、二皇子の首向和し給へる時より崇紳の御世に至る▼まで、多年序をへ七、国人文命に背し奉 りし故に、彼観に囚ある普備武薄命を遭はせしを崇紳紀には吉備輝彦と記せしものなるべし、﹂と云ふで.ゐる。要 するに吉備は最初大昔傭津濠、革避雷備津彦の御兄弟で御鎮定になつたのであるが、後になり叉其の必要を生じ たので.、蒐に音傭武濠命を御遭はしになつたのであるのを、所謂普備津彦山人のノ御夢魔としてしまつたのであ.る から事質を親祭する場合には此等の鮎をよく吟味せなければならぬ.。

(15)

之に反七で讃岐の地は、この盈要な普億の封岸の地ヤあるから、昔備津彦命に閃で御姉君に懲らせられる倭迩

々百事那命の御領地となつたのノである、然し姫命が褒岐に御越レになつ吏か香かは正史の記す研がないから不明

ヨミ■ノ

であるが大川郡啓水村の大水主神敢並に香川郡一宮村の尉街中敢田村神政では之を侍へ、繭祀共整骨武内祀であ

り、女香川郡柳生山町の村政百相沖祀も如命の御釆遊を鰭へ′て居り、飼犬川部方面には命の御蒐断と和する所が

各所に.残ってゐる︵腎餉鯛琴此等毘ると、百事娘命との関係は少ぺ栗つ至とが考へられ、音備の地と

並び音傭讃岐を山丸とせる地域の、常時登要地帝であつたことをを察せられるのであるっ

我が郷士附近の地は⋮隼に吉備津濠命の時代許でなく、之より以後久しき間、中央︵大和︶との間に交渉を保って

蚤要な地付を持概してゐたことぉ、忘れてはならない。品等も古典の物語る朗で、小豆島に應沖天真の勧由痕前

局ることなど、あんな小島に、然もあの上代に於て、應沖天畠が御越になつた等如何にも不審に感ぜられるので

ぁるが、犬は決して塞霞演の名勝があつたから御地になつたのではない、古典によると、應翻天皇の宮た入つて

妃となり寵のあつた兄填と申す方がおありになつた、玉兄媛は稚武吉備津彦命の御子吉備武薄命の女にましま

し、御父武彦命の如きは吉備津箆命の裔として茸誓の関係が洗い許でなく、常時勤功の赫々たりし日本式倉の

御件をしで東征に従事し鋤功をたてられた方である、かく皇吏との紺係が深かつためで宮仕されたわけであろ

.︸、この兄媛が應而夷白岩排波大隅冨に睾せられた時御仰せられ、高基に上り西方藍芸懐郷の情禁じ難く、御

許を得て菱川月には難波津空音辟省せられることになつた・ので、琴皇は兄媛の為に、海夫八十人を淡路の榊原

上代k於ける讃僻地方の地政

(16)

︵ニ房︶から召し寄せ、水手となし、兄蝮を御選りになづたが、其の九月には天皇ほ特に吉備の地に御車になづた

のであそ即ち天皇は九月初淡路島に狩を思つき給い、次・で小豆島に率し、やがで音備に御渡ケになり、某国の

葦守宮に御着きになづたのである。小直島に天皇の究既が洩ってゐる、例へば小貫島の古址八幡宮は天皇の御即

什め二十二年に淡路島よ皇炭団に重し給ひ\、更に小豆島に御遊串遊ばされた、その故を以て網漁跡に奉祀しに

もの、芸川郡軋離析には天皇御即位の二年に御来島になら上方の偉訟があ⊥腎謂聖文小豆島淵峰村の警

院工は臆紳天皇御手栖と條ふる盃煩が雪、、今は天然記念物として保存されてゐる。︵鯛嫡醐酢射鰯名鯛詔璃 附川︶此等は将に。の書物警真に外誉ないのである。 γ享 佃應沖天皇官軍仁徳天皇の時にも吉備から宮仕された方がある・、吉備海部直の女黒媛と申す方である。︵日本 革紐大望叩の條︶ 梅部痘と申すのは海人を統領せる族長であるから、常時梅岸地方に占屈してゐに義旗であつた

のであり、従て宮仕も出来たと云ふ闘係をもつむの占考へる、⊥あ、黒媛も後に鐸野蒜た、苔紀には常時の模桔

カサゲ を次の如′∼記してゐる。大雀命璽天皇看育備海部紆之女巣旦黒其容姿磯甫、喚上佃使也、警芸大信之嫉、逃下 クPザヤノ ミサケマシテ,フ守 本圃天白毒高姦望胎北へ器具只之船出浮海、以欲目、醇岐解題波1姦夫泥離郷罷玖↓久漏邪破顔、嘩便宜吉和塾

毛、玖適幣玖陀艮琴誉。﹂犬后之を御別になり太に御念になつたので、天皇は淡路行に託けて普備に率し給ふに

と云ふ俸になってゐる、由に.は常時の事蜜を左の如く記してゐる、 ﹁於是天皇攣巷学監彗欺犬后白欲見淡路串m、奉行之時、′坐淡道鳥、遠望歌由、違憲且流硬、郡南淡能佐岐 7 高松高年商業撃校紀元二本六甘牢記念論文集 二二八

(17)

川、働俸多知昆、知貿久遜発砲婆、阿波志摩、辟能碁書道摩、阿遽摩轄能志腕廃業由、任東都志摩発巾、﹂乃日英 カレ 嶋樽而、奉行苦情囲、爾韻旦異令大盤其図之山方地﹂而献大御飯、於足薦煮大御爽、探基地之荘実時、天皇到坐 ケヲカ 華妹子之礫裁縫、・歌日、﹁夜麻賀多題、肺那流阿裳邪母、岐備比登警等打越斯都米婆、ダ紆野久蹄阿流迦﹂かく て天皇御選挙の際、黒媛が叉歌を御詠み巾し御途中しでゐる、紀に天皇上車時、黒目更献御歌日、 −1シ ゲテリヲ、 ﹁夜肺登幣逓、爾斯布岐阿宜旦、玖毛婆郵相曾岐義理登母、和祀和須噌米夜、﹂ と叉 コヘ ﹁硬麻資格嘩由玖汲多栗都肺、詐称撃且髄、志多用波潤都々、山久波多賀都肺、﹂ と、この事茸によつても、上代に於ける吉備の地が中央の大和との往来に於て、如何に頻繁であつたかゞ伺は れる。 か、る中央との関係は単に吉傭蔀でなく、封岸の讃岐に於ても之を認めることが出来る、讃岐に於て日本武禽 の御偉訟を有するが如き、決して偶然でないと考へるのである、之を兜燕に敬すると、オ本武命の御母は所謂天 資備韓藷命の御窮で、大吉備浄彦命と共に晋備を御鎮定になつた稚武音備津淳命︵宕日子武吉備津日子命︶の女 で、宿日大郎姉と申し、景行天皇の富に入り、妃となられた方である、古事記、大帝H子供斯囲和気天皇の備に、 イナビ′クシツスリケノ・∼コ ﹁此天皇、婁吉備臣等之組、著避雷備韓日子之女、名ハ針間之伊部且能大邸女、生御子、柄角別王、爽一夫碓命、 次小柿命、亦名優男具那命、次倭根子命、次仲宿王。﹂ 上代元於ける讃僻地方の地位 二二九

(18)

高松高等商業数枚紀元二千六官扉盆石論文集 二三〇 とある、夫の應沖天垂の妃であらせられに兄姉の如きは、日本式骨とは従兄弟に苦らせられ、何日本洗骨の妃に ク〃カヒコ 兄雛の御姉の大昔備建比聾︵晋備穴戸就航︶がならせで尽か、建只見命を御生みになつたと云ふ侍説もあるので通 る、.此等の御関係を謁へる時、音備の判岸たる萬岐の他に日本武鎗の御遣贋、偉訟のあるのは偶然でないことが 娯せられるのである。

吉備原審系

日本式尊の我が郷土附近に射する樽説としては、墓詑に、、倭蓮命の出雲建を征し給ふたことを栽す、即ち倭 建金︵小碓命︶は熊襲ぉ琴げ、御縁途、出実を御鋸定に克つ濫ので、古事記には左の如く乱されてゐる。 ﹁然而還上之時、山紳河紳、及穴戸面、唐音向和、而参上バー即入飽田雲図、欲殺其出雲建而、到即結友、故兢以 イチヒノヰ 赤梼、作詐刀∵篤御楓﹂共沐肥河、圃倭建命、白河兄上㍉取侃出琴橙之僻鹿應刀両、詔薦易刀、故後出雲建白 孝曇天畠− ー孝允天皇 1彦亙十狭撞命 ︵大吉備渾彦命︶ ー 維武吉備 書目 備浄 日子 子武 愈苫津 \J・ 命

景行天皇

一書備武彦命 播磨科目太郎姉 −大書備建比蛮 ︵稗通則︶ ︵吉備穴戸武舵︶﹁兄薄命︵川路腐下遺臣租︶ ⊥御友裾∵甲十仲濠命︵上道蟻上適齢如︶

晶別命﹁

弟貴命︵≡野望野鼠︶ − 兄 姉 ︵應御地︶′ 日本式令

九朝ノ孫 ⋮・吉備厨備

(19)

河上而、、鹿倭建命之詐刀、於是俸趨命、﹀跳云伊賓合刀、爾各抜塊刀之時、出雲建不得按詐刀、即倭麗命披共刀 而、打殺出冥建。﹂ この俸詮は、菅傭津窪晶の出賽銭克と類似して居力冷凍のある所であをが、兎に角奇の我が郷土に何等かの囲係 を有せられたことは、察することが出来る。文盲革記には ﹁倭塵命︰︰・・′量其入海約橘比嚢命、晶子、君達玉蟄落梅之安園造孟、吾多卑和気之女、布多淫比 クケカヒコ

褒、生御す、桁依聖断、叉要吉備臣遼百子之妹大義琵霊撃、貿望町⋮:賀望老媚詔㌔鮒

之別、頗佐首、 官琶之別等之楓﹂ と晋、この中、狛橘比褒は讃岐の方で、今の大師神政々司穂積家は其の後であると云はれで響︵鵬飢嗣︶叉、 クケカじコ 大吉傭建比責を入れで妃とせられ、其問に御生れになった橙只見王は讃岐の海で憩魚を御退治になつたと樽へら れT居り︵静留旗手記︶、讃岐の綾家は其の裔であると和せられてゐる。此等の脚係によるものか、‖本武奪伊勢 に蓑去の後白鳥となつて西に御飛びになり、遮には讃岐にまで及んだとの侍詮を有し、今の大川郡白鳥町に森 各白鳥紳赦はか、る慧によら督基祀した断と柄せられてゐる︵醇紺轡偶語岐の閣迫として始めて御下たな カムクシ′ミリ ったのが景行天皇の皇子紳柄壬であらせられるが、ごの王が矢張り日本武奇の同腹の御弟に懲らせられ、大吉備 津彦命の御藷警備津彦命の御孫に常らせられるのである、︵詣摘鮎鯛猥淡︶、露王は鷲の軒掛に御ゐで になり、御子孫相場で讃岐の囲遭となられ、後には中臣富所氏を補しで代々山田郡の大領であつた、今の木 上代に.於ける讃億地方の地位

(20)

高空偽琴南染辟校紀元二千大官牢記念論文集 二▼三二 m郡前感付の地はこの農家の警蒜であ止紺柳本︶其の避騎冬に残って腎虚鞘鮒器ほ轍郎嗣︶紳稀‡の 御去の如きも牟磯村に御治定になつてゐる、此等の兜傑を観ると讃岐の地も亦晋備と共に上代中央︵大和︶との関 係悠々焼からぎりしに衝かされるのであり、此等の諸鮎から推して我が郷土附近の地は、上代に於て中央との関 係故洗く、従って最重要な土地であつたと想像するのであるカ 而この閥係は単に常時に於てのみではなく、荷壊せに至るまでこの露天性を藤根してゐたことを忘れることが 出来ないのである、應碑天皇の晋備に幸せられ七時の状況を観るに、音備氏では兄墟の御兄、御友別が′∼族を集 めて膳夫となし、大に天皇を饗し率った、﹁上代の吉備﹂には常時め有様を想像しで、 ﹁兄媛の兄の御友別は︷族料呼び嚢へて膳夫となし、笛海の珍味を寂して天皇を饗し奉つに、喝しも秋の末なれ ば、相方の仙遜は見渡す限り紅恋して錦ぉ飾り、謂はゆる二月の花にも勝り、その眺め叉¶入行†りしなるべく、 天皐御感に入りけひ、一やがて吉備鯛.曾分ちて阻く普備氏二放に宛行れ元へり、﹂ と記しでゐる、革蜜音備家は之より大に繋増したもめで\御友棚命の長子村落別は川島郡に、次子仲務は上沼雁 リノ に、二事弟濠は三野顆に、女御友別の鬼浦凝別ば苑腺にハ 叉御友別の弟噂削は伯匠勢願に封ぜられ、兄媛には 識部郡を脇った、椙遠別の後は下遺臣の組となりヽ仲韓の後は上道駐、香屋臨の租となり、弟彦は三野田め組、 ウラコリゾ′・オ・しソ′、アタヒ 浦凝別は苑指、苑直︵苑は叫に薗︶の組、鴨別は笠情、笠朝臣の租となり、凧門相磯で大和朝廷に奉仕、太に貢 献す争研があつたのでめる、奈良時代の始め和歌で知られてゐる笠朝臣金村はこの鴨別の後であb、葦屋臣の香

(21)

屋は蚊屋或は賀暢と背き▼、子孫緊縛し、天車軸護・光年に址への氏上に賀揚朝臣の姓を賜つ仁のは仲濠の後であり、 大の有名な吉僻虞傭の如きも宿遠別の後である。藩備償備の血人だけ観て滝晋備家山門の大和との関係が如何に へトけノ 捉く、叉如何に我が閥文化上に哀歓したか・ヾ衷へられるのである。傭見境に賜った紺部願は備前、備中∵備後の 各地にあり何れが犬であるか不明であるが、矢張り賀陽郡の服部郷が犬で今日晋備郡にある服部柑が之に常るも のであろうと云はれてゐる︵鮎還︶麒紳天皇の末年に﹁宗国主照重、政牡馬盟疋牝豊疋、扁阿知音師以 試土、亦買上購刀及大鏡、文科賜百済閲、若布賢人者買上.故受命以買上人名和邁吉師、即論語十巻、千字文叫省 力ヤノキススも 併ヤー奄、付是人即買進、云々﹂︵古事記︶とあり、史上に有名私語で凍るが、この阿知傍が寧かで釆た蚊屋衣縫 ︵加夜衣縫︶が服部郷にゐたと稲せられ、︵翫詣︶急伸雲重晶に御車の時針瀧牒に篭たのが棄由と申す 研であり、この英田は秦、波多↓′幡多と同山の語塀の字で、縛縫を発とした部民の居住地であつたことが察せられ 叉都窪、浅口の両部には往時阿智郷があ五∴叉倉激町には画知町があり、こ∼に阿智紳政と申すのがあう、叉邑久

郡にも阿掌冨が葺こゝに苧鷺申敢の安仁謡があ㌔靴節雷祀つ㌃ると申す︵璽苦

く阿知使に因める土地が多くあるのを観ると、阿知使とは関係の後程洗い桝であることが考へられ、而阿知佼は 我が固に支部文化を悼へに最初め如く考へられてゐる人であり、この阿知使の関係者が應赫天皇と関係の開い苦 情の他に繁殖したのも亦偶然でない感に打たれ、従って常時この地方の我が闊文化懲謹上に及しだ影攣せ決して 少くなかったことゝ考へられる。 土偶に於ける讃爛地方の地位 二三三

(22)

嵩撃歳笹商業撃校撃空事六官軍記念論文集

二三四

倍この他に、蕾僻地方と大和との関係を物語る兜驚は赦額に違がない、中には古釆の折角の立派な変賢を汚が

すが如き寄賀もあつたことは、雷地方の馬如何にも遺憾とする朗であるが、文夫の弓削道銀の非望を排除心て大

功のあつた和気滞腔も亦この地方の出であることを思へば、この地方の上代に於ける重要性を仙暦感ぜきせちれ

るのである0

一鰭和気氏の起については、三代の音備﹂の侍ふる筋によると、紳功皇后の三韓御討征に凱旋し胎ふや、忍熊

別命が明石の讐兵品へ、皇軍に飯←た、菖曹嘉民の豊命を臥して、緋︵警嘉の堺に相姦

けで、七れを防がしめになつた、この開を和気摘と申す、・今甘の三石の地が其の遺跡である、命は此功によつて

嘉の纂警賜はった、束の孟が誤写、備前、牒に戚がり、軒茸警部、如紆の琵が出警の

である、備和ご実作雨囲の囲遭に和束氏の人が任ぜられてゐるのもあるから、この族は蕾備氏と共に常時朝廷の

御宿任を得てゐたものと考へることが出来、和気清磨の忠誠の如き、中央にも他に人は多かつにに相違ないにも

係らす、態々晋備の和泉氏がこの大任にあづかつた連覇ふことは、飴程の原因のあつたこと\考へられ、決して

偶然でないと信するの・である。されば吾人は常時の吉備癒方と大和之の関係聖不す幾多の兜驚中、晋傭虞備並に

和束清臍の二人の兜資だけで以で、この地方の常時我が固にとづて如何に畢犬な地位にあつたかを察し之を信じ

点いせ息ふものである。これと共に対岸に常る我が讃岐も同様の紳係留有しで、榊道革帯として吉備津薄命の御下

りに空で以釆は表岐は誉り苦学にあうた去・毒へ急︵帥肇葦吉備津彦命の時代には讃嘆は命の

(23)

御姉に常らせちれる倭迩々苫婁如命の御領地とnアサ、下で曹儲こ門の繁盛した頓には之と御姻戚の朋係を看せら るゝ是武警の関係塞じ、墨は明姦く桝は少くないの・であるが、占本武尊の御子那欝ゑ罷H昔讃 岐に御下りになり、讃岐附近の意魚即ち惑飽遜に根接を畳てゐた海賊を御鎖走に克う王と云ひ︵讃優麗譲︶、此の 王は俗に讃留嘉‡と申し、西讃の豪族、で為っに綾家が茸から出た土樽へられて居乃、又日本武奇の御弟の紳稀主 が萬岐に封ぜられ翰ひ、御子孫相場い.で讃岐の国造をつ主められたと云ひ、後には日本武尊の御子建只見命︵武 殻王︶も綾郡に封ぜられ、願主の暇に任ぜられ給ふたと侍へてゐる、古い時代のことであるから俺詮は色々にな ってゐるけれども、要するに吉備の地㌧も其の封岸の讃魔の地軋∵即ち備欝瀬戸を入だて∼其の両岸の地には、音 備氏の﹁族並に其の線番の本接と克っ.先例で、然も音備津軽命と云ひ、日本式尊重試ひ、普代に於ける皇族とし て故有力な方であることを息ふと、我が郷土附近の地悩菅傭讃岐を通じで、常時の我が園にとつて最重要な地位 を保った断と申サことが出発るのである。 應沖天皇の御代は百研から文革を御樽へ申したことは有名な事葦であるが、之を偉へた阿知使主が吉備の砲に 関係曾もつてゐたことは既に申した通りであるから、常時の吉備地方は叉我が組中で諸文化の故初に高まつた断 と見ることが出来、奈良時代になつで文挙が隆盛を極めた時代にも督備の地は其の中心であつたとも考へられ、 。これと同株叉畜岐の均も﹂北ハの影響

眞のき

吉傭備如拳老ぉ出し、海外にも常襲するの名啓を拾なったのである を受けて塾問の婆達を見たと考へることが出発、現に蛮岐には常時代から却々の単者が輩出してゐる、殊に法華 上代に於ける沸騰地方の地位 二三五

(24)

侍彿教が業するに及んでは彿警亦此等地方には牽に行はれた、殊に讃岐の如きは隆盛で、恰喜傭地方に

於ける吉備虞備ゎ如く、愛郷に留拳した叫代の単著にして宗教繁る弘業師晶し、鮮束の宗教は是的靂徽

に讐られ、耐震敬の優讐共に讃岐よりは草木師を出し、他に比類登武蔵を小たし七こ上は世のよく知牒

朗である。

かく吉備、著岐絹地方竺丸として考へる時、この地方は我が開閉闘の嵩より奈良、平安の始めにわたる上代

に於て、如何に重要な地鮎であつたかが想像さ・弟るのである。

然るに不淑誠にもヰ嬰しの地位は忘れちれ1宮人一の如きこの地に居住しながらも庸ごれが談論を炊き、中火

を遠ざかつ三寒村、ノ・経済的に槻察して藩阪仰の姦智地位にしか考へない守っになつたのは何が薦であらう

か、■申すまでもなく、交通路の変化に辟囚するもので、時代の進学孟ハに高梁川を媒介とする南北線の往来の蟄

が減少し、瀬戸内梅が交通の本幹之望に及んだ焉であ王1文化の中心が漸次束に移るに従ひ、窟に其の濁要 さが忘却さる∼に至ったのである。然し二千六百年の記念すべき年に常り、特に新鰭制の採用されんとするの時

に首つで、瞥人は我が郷土の本来性を思ひ雌しで、所謂洩故知新以て新鰭制に従か、我が租先の転心霊心れる

ことなく、至誠奉公、大政翼賛の驚を畢ぐ竜やう努力しなければならぬせ児ふのセ、抒苗典を検討して、我が郷

土の地位を考究した次箪であそ若し完にてる我が郷ヰの壌東低を認識して下さるを得ば無上の光紫である。

中岡松高等商業畢校撃空手六昔年記念論文集 に閲する博士が多く出たのである0 二三六

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