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  聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

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1 聖 書 ヨハネ8:21~30 (第49講) 題 「信仰的な自分本位から神本位の生き方に」 (序)自分本位に生きてきた自分を否定したか * イエス様は、ご自身の正体を明らかにしていかれることに よって、人々に何を求められたのでしょうか。驚くべき命 の光をもたらす世の光として、神が遣わされたイエス様を 受け入れようとしないなら、もう罪からの救いのチャンス はどこにもないということを示し、自分本位に歩んできた 人たちの心をかき回すことにより、神信仰に立つ者は、自 分本位から神本位の考え方に変えられる必要があること を明らかにしようとされたのでしょう。 * 自分本位の歩みとはどういうものでしょうか。それは、自 分の見方、考え方を基準にして、すべての物事を判別して いく歩みのことですから、自分の見方、考え方が最善であ り、正しく、それに沿わない事柄は誤りとし、不用とする 向かい方のことです。 * この当時のパリサイ人たちは、彼ら自身の持っている見方、 考え方の基準は、神への信仰と、律法を基にした神のお言 葉によって、その見方、考え方を形造ってきましたから、 神本位の生き方になっていると思うのに、現実には自分本 位の見方、考え方になってしまっていたので、イエス様と、 イエス様の御言葉を受け付けなくなっていたのです。 * これはどうしてでしょうか。神への信仰と、神のお言葉に よってその見方、考え方が形造られていると思っていたの ですが、実は彼らは、自分の思いを基にして、自分の思い に合う神への信仰、神の御言葉を受け取ってきただけに過 ぎないのです。言うならば、信仰的な自分本位の見方、考

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2 え方になってしまっていただけなのです。 * これは、今日の信仰者においても言えることです。それま での自分の見方、考え方を否定しないまま、そこへ自分の 思いに沿った神への信仰と神の御言葉とを選んで受け止 め、それで信じたつもりになっているから、確かに、信仰 的な見方、考え方を受け入れるようになったという大きな 変化はあるものの、それ以上にはなれず、自分本位のあり 方から一歩も出てはいないのです。その結果、自分にとっ て都合が悪いと思うようなことに対しては、受け付けない のです。 * すなわちその物差しは、信仰が加えられて少しは変形した ものになっていて、世の物差しとは異なっているのですが、 根底から神用の物差しに変わったわけではないのです。そ れ故パリサイ人たちは、イエス様が投げ込まれた石を受け 止めることができず、その石を偽りとして弾き飛ばそうと したのです。 * 彼らはどうして、神本位のあり方に変わらなかったのでし ょうか。それは、自分の見方、考え方が罪の影響を受けて、 すべて世的に染まったものとして否定していないからで す。否定すべきものだとまで思っていないのです。しかし それでは自分本位のままです。 * それ故、自分本位に生きている自分を否定した上で、神の 御思いと神のお言葉が正しいとし、それを物差しとして受 けとめて歩み出そうとする時、神本位の信仰的あり方が形 造られていき、見方、考え方も全く異なったものとなって いくのです。 * このことが分からないならば、どれだけ長く信仰に歩んで いても、自分本位のあり方から、神本位のあり方に変わる

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3 ことはありません。せいぜい信仰的になった自分本位には なるでしょうが、それ以上にはならず、神が用意して下さ っている恵み、祝福が本当の意味で見えないまま終わって しまうのです。 * 私たちも、元々自分本位で生きてきた者であり、自分本位 のままで信仰を受けとめやすい者であることを悟り、神本 位に生きることが神の大きな愛と導きと助けとを受け止 めることができる最高の生き方であることに気づかされ、 変えられていく必要があるのです。その観点から今日の箇 所を学び取っていく必要があると思わされるのです。 (1)自分につくか、神につくか * 前回の所では、人々は信仰を持って生きていたにもかかわ らず、イエス様の目から見れば、闇に生きている者、闇人 生を歩んでいる者と見ておられ、そんな彼らに対して、ご 自身が神から遣わされた世の光であることを示され、その 光に照らし出されることによって、罪の本質から解放され、 義の香りがする者に造り変えられると言う、光人間になる 道を指し示されたのです。 * しかしパリサイ人たちにとっては、彼らが今日まで持って きた信仰的な自分本位の思いからは、イエスをうさん臭い ほら話をする誇大妄想家にしか写らず、人民を惑わす危険 人物としてしか写らなかったのです。どれだけ神の権威に 満ちた奇蹟を見ても、鋭い神の教えを聞いても、彼らの受 けとめ方を変えることはできなかったのです。 * 彼らは、イエス様がどのような姿を現せば、神から遣わさ れた救い主、神の子として信じることができたのでしょう か。それは、律法を信仰の規範とした律法主義的な自分た

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4 ちの思いを納得させてくれるもの以外では、絶対信じよう とはしなかったでしょう。 * 結局は、自分たちのこれまでの生き方を承認し、賞賛し、 保証してくれるようなものでない限り信じようとはせず、 偽者として排除にするようになることは目に見えていま した。このように、信仰的な自分本位の生き方に凝り固ま っている人々は、動かすことのできない大きな岩盤のよう なものだと言えるでしょう。 * すなわち、彼らにとって、イエス様を受け入れると言うこ とは、これまでの自分たちの生き方を全面否定することに なると感じ取っていたので、彼らは決してそうしたくなか ったのです。自分を全面否定すれば、これまでの自分たち の信仰は一体何だったのか、すべて無駄であったのかと思 わされ、そのような事実を受け入れられなかったからです。 * それ故、彼らが取った行動は、イエスの方が偽者で、その 語っている内容は事実ではなく、彼の作り上げた空想であ り、神を父と呼ぶ、とんでもない神を冒涜するまやかし者 だとして退けるしかなかったのです。 * なぜ、信仰に生きてきた彼らが、神本位の見方、考え方、 生き方になっていなかったのでしょうか。それは、人間の 本質を完全にゆがめてしまっている罪の恐ろしさに気づ こうとしなかったことが原因なのです。その罪がもたらす 思い、考え、知恵、行動などすべてが罪に汚染されてしま っていて、神に逆らうものでしかないことを知ろうともし なかったのです。 * それ故、自分の思いをベースにして信仰を受け入れ、信仰 的な自分本位の心を作り出して、それで神を信じていると 思い込んでいたのです。それは、ベースにしている自分が、

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5 神に逆らうものであるが故に、これまでの信仰的生き方を 全否定しておられる、神から遣わされたお方を受け入れる ことができず、反旗を翻すしかなかったのです。 * ここから見えてくる真理は、罪の思いに汚染されている腐 った自分に付くか、自分本位に生きてきた自分を全否定さ れる神に付くかという二者択一が迫られており、神から遣 わされたお方を信じる者は命、神から遣わされたお方を退 ける者は滅びという明確な福音であることが分かります。 * そのことは、パウロがローマ書ではっきりと示しています。 「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなく なっている」と。(ローマ 3:23)多くの信仰者は、この 御言葉を読んでも、罪の思いに汚染されている自分を全否 定しなければならないと言うことまで読み取ることがで きないので、いつまでも自分の思いをベースにし続けてお り、その結果神に付くことができないのです。 (2)神との関係をつなげて下さるパイプ役を信じる * そのようなパリサイ人たちに対して、21 節で「私は去って 行く、するとあなたがたは信仰的な自分本位の考え方を変 えようとしないままで私を捜し求める。それ故、あなたが たは何も分からないまま、罪の解決を得ることができない まま、罪のうちに死ぬことになる」と。彼らが、自分本位 の考え方を全否定できないまま滅びを選び取るようにな ると言われたのです。 * そして、「わたしの行く所には、あなたがたは来ることが できない」と言われ、私が帰ろうとしている神のみもとに は、あなたがたは来ることができない。あなたがたは自分 を全否定して、神のみもとに立ち帰ろうとせず、自分の下

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6 に居り続けることになると言われたのです。 * パリサイ人たちは、イエス様が世の光としての働きをなし、 すべての人のためにご自身を投げ出した後、父のみもとに 帰ろうとしておられることを全く悟ろうとせず、捕えられ ることを恐れてどこかに逃げようと考えているのか、それ とも、自分が受け入れられないからと悲観して、自殺でも しようと考えているのかと思ったのです。 * 全く鈍くなって、完全に目が塞がれてしまっている彼らに、 イエス様ははっきりと示されるのです。23 節「あなたが たは人間だが、私は神から来た者、あなたがたはサタンの 支配を受けている者だが、私は神の支配の中にある。あな たがたはこの世に染まってしまっている者であるが、私は この世に染まっている者ではないと、罪人と、神の子との 違いをあらゆる面から示されたのです。 * その上で、あなたがたが、私がそのような上から来た天的 な存在であることを信じるならば、罪から解放され、サタ ンの支配も、世の汚染力からも解放され、救われて神のみ もとに行くことになるが、信じようとしないことが目に見 えているから、罪のうちに死ぬことになると言ってきたと 宣告されているのです。 * 自分の肉の思いを大事にして歩み続けるから、罪のうちに 死ぬことの恐ろしさが見えなくなってしまっており、その 恐ろしさに気づいた時にはすでに遅く、滅びを前にして絶 望しかないと言われ、信仰者がなおも罪の中に居り続けて いる様を、信仰的な自分本位の見方、考え方、生き方をし ていることを指していると示されたのです。 * ここで言われた罪のうちに死ぬとは、神との正しい関係が 回復されないまま、神からの驚くべき命の水が流れ込むこ

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7 となく断絶したまま、すなわち、人間としてのあるべき姿 が回復されないまま死を迎え、御国から切り離されて滅び る者となるという意味です。 * なぜイエス様を、天的な存在者として信じることが、そこ までの大きく、結果において違いができると言うのでしょ うか。天的存在者として信じるということは、罪によって 神との関係が断絶してしまっていて、人間の側には回復の 望みが全くなくなっていたのに、その関係をつないで下さ るパイプ役になって下さるのが、天的存在者である救い主 ですから、このお方を信じるとは、神との関係をつなげて 下さるお方であると信頼することに他なりません。 * 私だけがそれをすることができる。そのために世の光とし て私は来たと言われたのに、ここまではっきりと示された し、これまでも示して来られてきたのに、人々は全く悟ろ うとはせず、「そこまで言われるあなたは、一体どういう かたなのですか」と問い返しています。 * 人々の状態を考えて見ますと、彼らは、自分たちは神と断 絶している状態にあるとは思ってもいないのです。そうす れば、イエス様に何を求めてやってきていたのでしょうか。 自分たちの信仰を励ましてくれる言葉を求めていただけ でしょう。けれどもイエス様によって、あなたがたは罪の 中にあって、神と断絶している状態にあると断言され、私 を信じようとしないので、罪のうちに死ぬことになると言 われたのです。 * 人々は、イエス様の話を聞こうとして来ていましたが、イ エス様を信頼してついていこうとまではしませんでした。 このお方を信頼してついていくとは、これまでの信仰が自 分本位のものであったことを悟り、それを全否定して、こ

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8 のお方を神から遣わされた神性を持ったお方として受け 入れ、信頼を寄せていくことが神本位の生き方であると信 じてついていくことなのです。 (3)信じるということが分かっていない人々 * あなたは一体どういう方なのですかとの問いかけに対し て、なおも丁寧にイエス様は答えられるのです。「私は真 実なお方から遣わされた者、真実なお方から聞いたままを 語っている者です」と言われたのですが、それでも人々は、 イエス様が、父なる神様のことについて語っておられるの を悟ろうともしなかったのです。 * あなたがたの霊がうとくなってしまっているから、不信仰 の故に、私を十字架につけてしまうことになった後になっ て、初めて気づくであろうと預言されるのです。このこと が事実となったのを、使徒行伝 2 章のペテロのメッセージ によって、自分たちが十字架につけたあのお方がキリスト であったと言う衝撃的な事実を聞かされた時、強く心を刺 され、初めて信じるようになった様子として記されていま す。(使徒 2:37~41) * 霊がうとい者は、罪に気づくまで長い時を要するのです。 気づくことができる人はまだ幸いです。キリストを十字架 につけて、それでも気づこうともせず、自分たちは神に喜 ばれる正義の裁きをしたと思い込んだまま滅びに至る人 の方がはるかに多いという事実も考えさせられます。 * まして、「私を遣わされた方は、わたしと一緒におられる。 わたしはいつも神の御心にかなうことをしているから、神 はこのわたしを見捨てて独りぼっちにされることはない」 と言われたお言葉は、霊が聡くされない限り、受け止める

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9 ことができない内容です。 * しかしなぜか、パリサイ人たちは別にして、多くの人々は、 これらの語られた内容を聞いて信じたというのです。人々 の現したこの時の信仰は、一時信じてみてもいいかな!程 度のものであったことが、この後の記事から見て、すぐ心 変わりしている様子を見ると分かります。 * 信じるということがどういうことか分かっていないので す。信じるとは、自分の見方、考え方、生き方に凝り固ま っていた心をイエス様の前に差し出し、これまでの自分本 位に向かってきた自分を全否定した上で、神のお心をベー スにして生きていきますという強い信仰的決意を示すこ となのです。 * この後の記事にあるように、少し納得しがたい話を聞いた ら、思いを翻して噛み付いていくと言うのは、信じるとい うことがどういう意味か分かっていない人の現す姿なの です。 (結び)パリサイ人たちの信仰の歪みを理解する * 今日の箇所は、パリサイ人たちの信仰とはどういうもので あったかつくづく考えさせられました。信仰的なようで、 自分本位の考え方を少し変形させただけのものでしかな く、それは罪の解決がないまま闇人生を歩み続けている姿 であり、世の光のすごさを味わうことができない、霊の鈍 い者でしかないことが明らかにされていました。 * どうして彼らは、このような信仰しか持つことができなか ったのでしょうか。どうして神から遣わされたお方を受け 入れることができず、排除しようとする行動を起こしてし まうようになっていたのでしょうか。

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10 * これらはすべて、自分のすべてが罪に汚染された存在だと 認めようとしないことが根本原因であると分かります。自 分は罪深いと認めていても、それは一部であって、私のす べてが罪であって、何のよいものはないとまで思いたくな い心がどこかに潜んでいるのです。 * しかし神の目から見れば、すべてが汚染物質であって、よ いと思える部分がどこにもない罪そのものだと見ておら れるのです。そこから出てくる思いをベースにしている自 分本位に生きている人は、たとえ信仰を持っても、世の光 のすごさも分からないし、信仰も歪むし、罪の解決を得る こともできないので、神とのつながりが回復されることは ないのです。 * せっかく、神が命の水をどんどんと流し込み、その命のす ごさに心躍らせ、喜びにあふれさせ、罪から解放される素 晴らしさを味わわせ、神の守りと力の中に置かれる幸いを 受けとめることができるように、霊を聡くしようとして下 さっているのに、自分本位に生きてきた自分を全否定でき ないが故に、その命の水を受けることができず、貧しい、 力のない信仰で終わらせてしまっているのです。 * 信仰的な 自分本位の生き方は、信仰的ではあっても、信 仰ではありません。神本位の生き方へと変えられない限り、 信仰の素晴らしさは分からないし、信仰に生きる幸いは見 えてこないのです。 * 私たち人間は、下から出た者であり、この世の者であり、 罪のうちに死ぬ者となっていた者であります。そんな私た ちが、このお方を上から来られたお方だと信じ、神との関 係を回復して下さるパイプ役だと信じてついて行くだけ で、私たちは、見た目はそのままであっても、世の者では

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11 なくなるのです。(ヨハネ 17:14,16) * もはや罪にうちに死ぬことはなく、神のうちにあって生き る者となり、神の御言葉を食べ続けることができるように して下さり、その力に満たされて、この地上にあって生き、 終わりの時には御国へと迎え入れて頂けるのです。この幸 いをしっかりと味わう者でありたいのです。

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