• 検索結果がありません。

アジアにおけるエビ類養殖のパイオニア(甲殻類研究の歩み,<特集>日本甲殻類学会50周年記念)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "アジアにおけるエビ類養殖のパイオニア(甲殻類研究の歩み,<特集>日本甲殻類学会50周年記念)"

Copied!
8
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

C組 関r加:113-120 (2011)

rcinological S ocie砂 o l.h

α

p a n

アジアにおける工ビ類養殖のパイオニア

Pioneers o f aquaculture o f M a c b r a c h i u m a n d P e n a e u s species in Asia

諸喜田茂充

l Shigemitsu Shokita . は じ め に 飲水思j原とは,中国では広く知られているが, 日 本の事典には見かけにくい この成句は,中国北周 詩人 ・癒信の「微調曲」の詞から生まれたようであ る. 意味は「水を飲む時は,井戸を掘った人のこと を思い浮かべ よ

J

,ということから,物事の基本を 忘れず, 他人から 受けた恩を 忘れてはいけないとい うことである. また,物事の創始者を敬い,世話に なった人や社会に感謝せ よとの意もこめられてい る. 甲殻類を研究対象に している者は, は じめて手が けた人や草分け的な人の苦労話やエピソードなどに 思いをはせ,古きを訪ねて先達の偉業から学ぶこと も必要で、はないでしょうか ここでは,シンポジウム「水産面の 甲殻類研究者 と沖縄での幼生研究」で話した沖縄での甲殻類幼生 研究は省略し,

i

アジアにおけるエピ類養殖のパイ オニア」とタイ トルを変えて述べたい また, ここ で取り上げるエピ類養殖のパイオニアと扱 ったエピ 類は, 林 紹 文 と オ ニ テ ナ ガ エ ピ M acrobrachiurn rosenbergii (de M a n) , 慶 一 久 と ウ シ エ ピ P enaeus rnonodon Fabricius, 藤 永 元 作 と ク ル マ エ ピ P . japonicus Bateの 3 方と 3 種である (図 1)

1 (財) 沖縄科学技術振興センター / 琉球大学名誉 教 授

干900-0029 沖縄県那覇市旭町 112-18

Okinawa Science and Technology Promotion C enterl Professor Em eritus, U niversity of the Ryukyu, 112-18 A sahi, Naha, Okinawa 11 2- 18, Japan

E-mail: shokitas@ khaki.plala.or.jp

図1 . アジアでの養殖エピ類 上,オニテナガエビ ,

中,ウ シエピ (1喜一 久氏提供) ; 下,クルマエ ピ (大鋸屑無しで輸送)

(2)

. 淡水蝦養殖の父一林紹文 真水では育たないゾエア オニテナガエピは,東南アジアにすむ大型のテナ ガエピで,美味で、商品価値が高く,かつて,タイな どで天然、産稚エビで水固などで養殖していたが,捕 りすぎで天然産が減少傾向にあった. そこで,養殖 するにあたって,その天然稚エビが不足して,人工 種苗の量産研究が要望されていた それを受けて, F A O ( 国連食糧農業機関) の東南アジア駐在員の林 紹 文 (Lin Shao-W e n) 博士は. 1960 年 代 に ゾ エ ア 幼生の飼育にいどんでいた. オニテナガエピは,淡 水域で生活しているので,ゾエアも淡水で育つもの と思い,いろいろな餌を与えて真水で飼育をしてみ たが,うまく育たず失敗の連続であった さて,彼はどのような発想、で,オニテナガエピの 稚エピ量産に成功したのでしょうか? ゾエア幼生は 何度やっても淡水中では育たないので,匙を投げて 挫折したが,やけくそになりテーブルの上にあった 魚醤油( ナンプラ) ・砂糖・味塩・味の素などを幼 生飼育水槽にぶち込んだ. 数日後,魚醤油や味塩を 入れた水槽のゾエアが長く生き残っていることに気 がついた. そこで,彼に閃くものがあった オニテ ナガエピの親は淡水に棲んで、いるが,ゾエア幼生は 鮮化すると川の流れにのって汽水域や海に流され, そこで育つのではと発想した. 彼は,思いを新たにして,真水から海水まで様々 な濃度の飼育水をつくりゾエアを飼育してみた. す ると,ゾエア幼生は,純海水 (35男。) を 100 として 3 0 % 海水で飼育すると生残率が高くなることが分 かった. この様に,幼生飼育の適正濃度が解明されたの で,ゾエアの餌にアルテミアや魚介類の細片などを 与えて,オニテナガエピの稚エピ量産に見事に成功 したのである この手法を応用して稚エピを生産 し,オニテナガエピの養殖が台湾やハワイなど数カ 国で行われるようになった 林紹文の履歴 林 紹 文 (1907-1990) (図 2) の 履 歴 概 要 に つ い て述べよう( 真道. 1999,2003) 彼は中国福建省の 棒州出身で. 1924- 1939 に北平燕京大学生物系お 11 4

I

C a n伺r20(.却11) 図2. 淡水蝦養殖の父林紹文( 左) と草蝦養殖の父摩 一久( 右) ( 彦一久氏提供) • よび同研究院で学ぶ 1930 年には度門大学の講師 に 任 ぜ ら れ る 1930- 1933 年 に は . C omell University の生物学部で学び Ph.D ( 哲学博士) を取 得 1933 年,慶門大学副教授. 1935 年山東大学生 物 系 教 授 1947 年,中華民国園立中央水産試験所 所長. 1949- 1973 年. F A O 技 術専門家並びにアジ ア極東地区養殖専門家. オニテナガエピの人工育苗 と養殖技術に成功,その功績により 1970 年タイ国 カセサート大学水産科学名誉博士号. 1973 年シン ガポール大学理学名誉博士号. 1973- 1974 年,台 湾 の 農 復 曾 漁 業 組 技 術 顧 問 1974- 1976 年. 米国 ワシントン大学漁業学部客員教授. 彼は. 1949- 1973 の期間 F AO の技術顧問として ア ジ ア 地 区 の 漁 業 発 展 に 貢 献 し た 例 え ば . 1950 年にはタイ国では「皇宮の魚」と称せられている呉 郭魚( テラピア属の魚) は,未だ普及しておらず, 彼はこの魚の紹介と移殖に貢献した その功績によ りタイ国王から名誉博士の称号を受けた. また,シ ンガポール大統領からもシンガポール大学理科の名 誉博士号を受けた F A O に勤務する前は,中国で生物学の研究論文 13 篇,在職中に純学術論文 27 篇,会議報告を除い た技術指導書10 篇,そ れぞれ発表している これ らの内,最も知られているのはオニテナガエピの生 物学や発生学および養殖に関する一連の論文であ る オニテナガエビは,元来マレーシアやタイ国が 原産国であるが,今では欧州・アジア・米国・アフ

(3)

一-:-:-n:古

-・

圃圃

圃官

図3. 林紹文の水墨画( 手長蝦の交接行動などが描か れている) • リカなどで養殖されるようになった 1973年に F A O を退職後,台湾の農復曾漁業チー ムの技術顧問になり,台湾省水産試験所の登

s

火土所 長や台南分所の唐允安分所長らと蝦苗養殖や飼育生 態およびボラの人工繁殖の仕事に携わった. 都火土 所長は,京都大学の松原喜代松教授のもとで,サメ 類の分類で学位を取得された方で,私が台湾の水産 業視察や調査の際に,一方ならぬお世話になった. 林紹文は蝦の水墨画も堪能で傑作が多い 図3 は , か つ て 筆 者 が 東 港 の 水 産 試 験 場 に 彦 一 久 (Liao, 1・Chiu) 所長を訪ねたときに事務所の壁に掲 げられたテナガエピの水墨画であるーオニテナガエ ピの交接行動などが描かれている オニテナガエビ養殖の課題 オニテナガエピの養殖方式には,集約的養殖と粗 放的養殖がある. 集約的養殖は種苗( 稚エピ) を量産し,コンク リート 養殖タンクや池な どで高密度に放養し,人工 飼料を与えて養成する. 酸欠にならないように水車 をまわしたり,コンプレッサーで送気したり,注意 深く管理をしながら養成する. 原産地に遠い国での養殖は,同一親から継続して アジアにおけるエピ類養殖のパイオニア 種苗生産するため,遺伝子の劣化が起こり,繁殖力 が低下して小型化する課題がある 遺伝的劣化を防 ぐには,天然の親を導入して多様な遺伝子を維持さ せる必要がある 実際,沖縄島北部の今帰仁村で数 十尾のオニテナガエピを導入して親を養成して種苗 を生産し湧水を利用して養殖していたが,数年後 には繁殖力が低下し,稚エピ生産が困難になり失敗 した例がある 粗放的養殖は,広大な水固などに粗放的に稚エピ を放流し,天然に発生する餌を利用して養成する. 東南アジアでは稲田エピ養殖が行われている. 例え ば,ベトナムの高官・エピファームシステムのよう に,水田の一部を深く掘り,稲を作りながらエピを 生産している. エピが小動物や藻類を食べて育ち, 害虫の駆除にも役立つようである. 林紹文の想い出 私が琉球大学の学生の 1964 年の頃,林紹文先生 が沖縄に立ち寄られた際に,当時琉球列島米国民政 府に勤めていた伊佐次郎氏の計らいで,那覇のホテ ルでお会いする機会があった. 当時,琉球列島の淡 水エピ類の分布や生態などを調べていたので,伊佐 氏が大先生にエピ類のことを私に教えてもらいたい という親心から 会わせたようである 彼は,日本復 帰後に沖縄県水産試験場場長はじめ水産行政に携わ か沖縄県文化功労者表彰を受けられた 林先生は,温厚な人柄でオニテナガエピの生活史 や養殖について丁寧に教えてくださった その時, すでに述べたゾエア幼生飼育のエピソードやアジア での養殖事情などについて話された. 将来,沖縄で エピ類の養殖を振興したいというと,頑張るよう エールをいただいた 大学卒業後,琉球水産研究所に就職し ,クルマエ ピ類やテナガエピ類の増養殖研究にたずさわること になり,沖縄におけるクルマエピ養殖の草分け的な 仕事を行った また,琉球大学に転職して,本格的 に淡水エピ類( ヌマエピ類やテナガエピ類) の研究 が始まり,ゾエア幼生飼育に林先生が行った真水か ら海水までいろいろな濃度の水中で,適正濃度の飼 育水を決めていった 日本とアジアの淡水エピ類の生活史,特に初期生 活史を通して,地理的分布の問題がゾエアの適正塩

c8ncer

20 (2011)

11 5

(4)

分飼育水と卵サイズと卵数などに関連することに閃 くようになった すなわち,小卵多産エピ類のゾエ ア幼生で,海水に近い濃度で育つエピは,浮遊幼生 期が長く広域分布をし,汽水的なところで育つエピ 類は,浮遊幼生期が比較的短く分布が限られること が そ れ ぞ れ 明 ら か に な った 反対に大卵少産エピ 類の幼生は,海水では死に淡水中でうまく育ち,分 布が局限することが分かつた. 卵と初期生活史から分布現象を解釈したことは, 京都大学に提出した学位論文の一部となり,林先生 のオニテナガエピ幼生飼育から大いにヒントを得る こと が出来た. . 草 蝦 養 殖 の父一摩一久 ウシエビ養殖 草蝦とは ,ブラックタイガー ことウシエピで,体 色は紫黒あるいは藍黒色で,大きくなるにつれて, 黄色の横縞が甲羅や腹部にあらわれる 生きている ときの全体は,黒牛のように黒っぽいのでウシエピ と名付けられたのでしょう インドー西太平洋の熱 帯- 亜熱帯に広く分布し,特に,インド沿岸や東南 アジアでは最重要種である. 天然、物や養殖物は,食 用として世界各地で利用されている. 最大体長36 c m前後で,体重が600 g ものもいるという. 東南アジアを中心 にさかんに養殖され, 日本はじ め世界各地に流通している. 我が国への輸入えびの 4割前後がウシエピで,インドネシア ,インド,ベ トナム などから輸入されている 台湾南部の西海岸では,かつて,ウシエピの稚エ ピは波打ち際で叉手網を用いて,サパヒー C hanos chanos (Forsskal) の 稚 魚 と 一 緒 に 捕 獲 し 養 殖 池 に 放養していた すなわち,サパヒーとウシエピは混 養殖していた ウシエピは,天然、稚エピを捕獲して粗放養殖して いた時代があったが,1968 年に彦一久により種苗 の大量生産に成功し,ウシエピ養殖の画期的基礎を 築いた . 台湾の ウシ エピ養殖産業は, 1980 年代に 急速に進展し,日本に約4万トンが輸入された し かしウシエピ養殖はウイルスの蔓延により崩壊状 態に追い込まれた そのころの台湾の養殖技術者 は,東南ア ジアや 中南米にわたり,エピ養殖技術を 116

I

Cancer 20 (2011) 広める貢献をしたと云う. 彦一久の履歴と業績 (図4) !琴一久は,前述の ように,世界に先駆けてウシエ ピの養殖 を成功 させた. また ,ボラ M ugil cephalus Linnaeus やサパヒーなどの人工繁殖で世界記録を打 ち立てるなど,台湾はもと より,世界の養殖業に多 大な影響 を与えた( 摩, 1999). 彼は,ウシエピの繁殖生態, 眼柄処理によ る成熟 や 排 卵 促 進 , 人 工 飼 料 開 発 な ど 完 全 養 殖 技 術 を 1970 年代 中盤に成功させた. 1980 年代には,台湾 のウシエビ養殖の革命が起り,生産量が急増し,そ の多くを日本に輸出されていた. しかし前述のよ うに,ウシエビの疾病に よ り養殖生産量が激減し たー 彦一久は ,1962 年東京大学修士課程に入学し, 博士課程修了までの6 年間を渥美半島にある東京大 図4. 上,日本水産学会 70 周年記念 シンポジウムで 講演のため来日された慶一久夫妻 (両サイド) : 下,美ら海水族館を見学された摩一久夫妻( 前 列右 2,後列右 1) と前国立台湾海洋大学賞祭 鑑学長夫妻( 前列左 1,2)

(5)

学水産実験所で過ごし,クルマエピの研究で大きな 研究成果を残した 修士論文は「クルマエピの餌料 に対する晴好性について

J.

博士論文は「クルマエ ピの摂餌に関する研究」で,それぞれ東京大学から 学位を取得した.

1968

年に台湾に帰国後は,台湾省水産試験所の 研究員として,研究者としてだけでなく,国立台湾 大学教授,台湾水産学会理事長,財団法人中華農学 会理事,中央研究院院士など,研究と教育において

40

以上の重職を歴任し,国民から尊敬と信頼を得 ている.

2004

年には,国立台湾海洋大学の「終身特稗教 授」の栄誉を与えられた.

2009

12

月には,第

5

回総統科学賞を受賞した この賞は,台湾の数理科 学 ・生命科学・社会科学・応用科学分野において, 2年に l回,顕著な功績を残した研究者に贈られる 台湾で最も権威ある科学賞である. また.

r

草蝦養 殖之父」と題して,園民小撃四年級下挙期の園語の 教科書に取り上げられ,子供時代からウシエピ養殖 成功までの人生模様が紹介さ れている 彦一久は,在日 中( 財) ロータリー米山記念奨学 会から奨学金を得て東京大学で学び,クルマエピの 餌料や摂餌に関する研究を完成させた彼は,総統 科学賞を受賞するに当たって,次のようなメッセー ジを送っている( ( 財) ロータリー米 山記念奨学会 ニュース .

2010).

「私が学んだ50年前は,台湾も日本も貧乏な時代 でした 米山奨学金のお陰で勉学に励むことがで き. 7 日7 晩寝ずにエピの研究に没頭したことも あ りました. その成果として,帰国後,エピや魚など さまざまな養殖に成功し,世界的な名声を得ること ができました 日本のロータリアンの皆々様に心よ り感謝を申し上げます

.J

オニテナガ工ビの養殖 彦一久は.

1971

年に越乃賢と結婚され,二人の 子供が誕生した. 屡夫妻は,台湾南部にある東港の 水産試験所の設立と試験研究の推進に貢献した 彼 らは同じ職場で夫唱婦随で,貧乏漁村を魚介類の養 殖で振興させようと日夜試験研究に取り組んだよう である 越乃賢は,オニテナガエピの研究者で,その生活 アジアにおけるエピ類養殖のパイオニア 史・人工飼料・人工繁殖などについて試験研究し て,単著論文や! 喜一久との共著論文を発表してい る 彼女は台湾におけるオニテナガエビ養殖の推進 者として貢献した また, 彼女は,林紹文の多くの 淡水蝦の論文に啓発され,台湾のオニテナガエピの 研究を始めたようである . 台湾に調査や会議出席および視察等で訪問する際 は,彦一久夫妻に一方ならずお世話になっている. ご夫婦とも流暢に日本語を話され,いろいろ便宜を 与えて下さっている 圃エビ養殖の父一藤永元作 藤永先生との出会い 私は.

1966

年 に 琉 球 水 産 研 究 所 に 就 職 し そ の 分室に相当する石垣島川平に八重山水産模範養殖場 ( 後の沖縄県水産試験場八重山支場) が設立された ので,そこに

1967

年に赴任した. 八重山水産模範 養 殖 場 は , 当 初 , ク ロ チ ョ ウ ガ イ P inctada margarit件ra (Linnaeus) による黒真珠養殖とクルマ エピ養殖およびコブシメ Sepia latimanus Q u o y et Gaimard養殖を振興させる目 的で設立 さ れ た 特 に,黒真珠とクルマエピは,当時の琉球政府の至上 命令とも見なされる重要な試験研究課題であった 日本政府総理府は,本土の真珠養殖の専門家を次々 と派遣し技術援助をしてくれた 私はクルマエピを担当し,母エピを台湾から導入 して稚エピ生産試験や地元産のフ トミゾエピの繁殖 生態や種苗生産試験などを行った. フトミゾエピの 初期 生活史や繁殖生態などをはじめて解明した (Shokita,

1984).

クルマエピ養殖を軌道に乗せるに は,先進地で技術を習得する必要があり,総理府に 山口県での研修をさせてくれるよう依頼した.

10

ヶ 月の研修が認められて,秋穂の 山口県種苗センター や水産試験場などで,餌づくりや種苗生産などを学 んだ 当時,沖縄は米軍の統治下で,大和国 ( 本土) に 行くにはパスポートが必要で、' 簡単には旅行も難し い時代であった本土滞在中に 国の水産研究所や主 要県の水産試験場およびエピ類学者など尋ねさせて もらった研究所や試験場では,多くの研究員を知 る機会に恵まれた

C

創 鴎

r20 (2011)

I

117

(6)

藤永先生には沖縄を発つ前に連絡していたので, 先生の三鷹の実家を尋ねてクルマエピ養殖のことを いろいろ教えてもらった. また,山口県秋穂にある 種苗生産池も見学させてもらった 藤永元作の履歴と業績 (固め 「エピ養殖の父」と称せられる藤永元作の履歴や 業 績 に つ い て , 酒 向 ( 1987) の 『えび学の人びとj などを参考に略記しよう. 彼は, 1903 年 1 月 16 日 に山口県に生まれ, 1973 年 9 月 12 日に 70 歳で逝 去 東京帝国大学農学部水産学科に進み,苦学の末 に 30 歳で卒業 学生時代に黄海の海洋調査に参加 し台湾総督府の船で南シナ海,シャム湾,マラツ カ海峡などを巡り,その体験談をまとめたのが卒業 論文のようである. この卒論は,主任教授の雨宮育 作が「南方旅行記でよい」という助言で海洋調査で 東南アジアを見聞したことをまとめたようである. 彼は卒業式前に,クルマエピの研究を条件に早朝水 産研究所に赴任した. 彼がエピと出会い,クルマエビの養殖という夢に 生涯をかけるようになっ たきっかけも ,南方海域に はクルマエビ属のエピが多数生息しこれらのエビ の多くが水産物として人々に食されているにもかか わらず,生態学的な研究はほとんどなされていな かった. そこで,彼は「一生かかってもクルマエピ の研究をしてやろう」と決意したという. 1933年から,天草千束蔵々の島の海辺の掘建て 小屋の実験場でクルマエビの生態解明に明け暮れ た その年には,生け貸での産卵とffllf化に成功し, クルマエピ養殖の第一歩を踏み出した 翌年 (1934 年) は実験場を三角町の瀬戸に移した. そこでの2 年間に,卵数は数億に達したが,後期幼生にたどり 受精卵は水温 2 S t で 14 時聞かかって解化. 幼生 は 6 期の Nauplius,3 期の Zoea,3 期の Mysis をへ て Postlarva に変態し, 9 日間要した Zoeaの餌が 分からず死滅させて,後期幼生まで、残ったのはー夏 でわずかであった. 実験場は三度瀬戸内海の寒村山口県吉敷郡秋穂村 黒潟の資産家 山尾敏郎男爵のクルマエピ畜養池に移 交尾の瞬間をとらえるのに成功する 1941年には, 東 京 大 学 松 江 吉 行 助 手 が ゾ エ ア に 浮 遊 性 珪 藻 (Skeletonema costatum) を与えてミシスをへて後期 幼生に飼育するのに成功する クルマエピの交尾や初期幼生などの繁殖生態がほ ぼ明らかになったころ,恩師の雨宮育作教授が出張 の途次に秋穂、に立ち寄り. その成果に驚き,これま での研究成果をまとめて学位論文にするよう勧めら れ た 東 京 帝 国 大 学 に 提 出 し た 英 文 の 学 位 論 文 IReproduction, development and rearing of Penaeus japonicωB a t e (ク ルマエビの生殖・変態と飼育)J (Hudinaga, 1942) に より ,1942 年 3 月に農学博士 の学位を受けられた. また,その業績により同年 4 月には日本農学賞を受賞した 戦後,彼は小田原にあった日本水産研究所所長に 図5. エピ養殖の父上,藤永元作,下, 車海老の絵 なり, 1949 年には水産庁調査研究部初代部長に就 (1968年東京都三鷹の藤永宅で写す) 任 し た 水 産 庁 10 年余をへた 1959 年に役所を辞

118

I

car

r20(2011)

(7)

め,日本水産と大洋漁業の共同出資により,世界初 散歩されていた のクルマエピ養殖企業化のための太平洋養魚株式会 社を創設し,花々しくスター卜した. 1960 年には クルマエピ養殖株式会社と改名している. 1963 年 には,種苗生産を目的とした瀬戸内海水産開発株式 会社を山口県秋穂町花香に設立し藤永が社長に就 任した 1968年 には,固と県が協力して,クルマエピ種 苗を大量に海へ放流する事業が瀬戸内海栽培漁業協 会によって実施されるようにな った その実現に は,クルマエピ量産化を可能にした技術者の貢献が あった. 藤永元作の人柄と夢 彼は. [ " 庶民に朝からエピを食べてもらう j のが 夢であったようだ. クルマエピ養殖の基礎的研究か ら事業化へ向けた会社設立など多くの仕事を成し遂 げたものの,経営面では今ーであったようである. しかし彼の弟子や指導を受けた多くの人たちによ り,クルマエピはじめ有用エピ類の種苗生産や養殖 技術を確立し,世界的にエピ養殖産業が盛んになっ た. 彼の友人や部下などによると,人を差別せず明朗 閲達,柔軟でそれでいて理知的な人,明治的気骨の ある人情味のある人,庶民的で酒豪,等々評されて いる. しかし大人物にも欠点はあった. 嘘が言え ず技術を易々教えたり,はしご酒の酒仙であ った り,また,彼の海名の「抜け作j が示すように,事 業は興すが金の点では抜けていたようである. 東南アジアのマングロープ林内を利用したウシエ ピの養殖を模索しておられたが,西表島でも林内に 水路をつくりエピ養殖ができないかと. 1970 年に 石垣島の川平の沖縄県水産試験場八重山支場に私を 訪ねてこられた. 西表島のマングロープは国の天然 記念物に指定されるので,開発ができないことを告 げた覚えがある. 川平の民宿に泊まられたので. 70 度近い与那国 の花酒をお上げすると,角瓶の半分以上を飲まれ, 世界でもまれな名酒であると評されていた. 先生の 酒豪あるいは酒仙ぶりを目の当たりに見ることがで きた. 最後に口直しといってオリオンビールを一本 飲まれ,翌朝は 5 時頃起きられて, 川平湾の砂浜を 享年 70 歳の人生 藤永元作の墓所は,八王子郊外の多摩丘陵を背に した景勝の上川霊園にある. 墓碑銘 生涯をくるまえびの研究に捧げ全世界のくるま えび養殖の創業とその発展に尽淳 その功により昭和 38 年紫綬褒章 昭和 48 年勲三 等瑞宝章授与 同年死去とともに正五位を追賜さ る 法名 突意院釈禅慧大居士 また. 1982 年に,秋穂町花香の瀬戸内海水産開 発株式会社の養殖場内に「くるまえび養殖事業発祥 の地

J

の顕彰碑と「えび塚

J

が建立された 碑の裏 面には「この事業の創始者故藤永先生の偉業を讃え て砕を建立し以て後生の道標に資す」と刻まれてい る. 圃 おわりに アジアにおける3 名のエピ類養殖のパイオニアに ついて,履歴や業績およびエピソードなどを述べて きたが,物事の発明発見には基礎的調査研究の労苦 をへて,インスピレーションが湧くような気がし た 未知のものを知ってしまえば,そんなもので あったかと容易く考えがちであるが,知るまでが大 変な努力と苦労が伴う. ご三方の生き方や栄光への 道のりが理解できたら幸いである. 沖縄には天然クルマエピは生息していないが,九 州等から親エピを導入して養殖し,生産高は 2003 年 で 全 国 ( 1.924t) の約 3 5 % (644 t) を生産されて 日本ーである. 一時期,ウイルスが数カ所の養殖場 で蔓延しエピが死滅したが,久米島にある沖縄県海 洋深層水研究所で,ゴカイ類等を餌に清浄な深層海 水で飼育し,ウイルスフリーの親エピ養成に成功し た その後は,順調に生産をあげている. 近年,世 界的な景気の低迷で生産が低下しつつあるようであ る. エピ類養殖成功のうらには,パイオニア達の地道 な基礎的研究や挫折に負けない飽くなきチャレンジ 精神があって達成されたと思える 冒頭に書いた 119

(8)

「飲水思源

J

を再 度 熟知 した い ものだ . 文 献

Hudinaga, M ., 1942. Reproduction, development and rearing of Penaeus japonicus Bate. Japanese Joumal of Zoolo-gy, 10: 305-422 ( 財) ロータリ ー米 山記念奨学会ニユ ース. 2010. 台 湾の学友が「総統科学賞」を受賞 ハイライ トよ ねやま 120 号 (h町 川 20.29.183.83/ワp= 1587) マーシー ・ニ コル ・ワイルダー. 2007 エピ養殖につ いて 東京大学農学部公開セミナー第33 回.

I

農 学を創った人 ,農学が創ったもの

J.

講演 要旨集, pp. 8- 13, (www.a.u-tokyo.ac.jp/seminarI33-yousisyu

120

I

Can

r20 (2011)

pdf) J酉 向 昇 . 1987 え び 学 の 人 び と . い さ な 啓 房 , 東 京. 236 pp. 真 道 重 明. 1999 水 産雑 記 (その2) 林 紹 文氏 と林 書 顔 氏 の 想 い 出 (http://hom e.att.ne.jp//grape/shindo/ sUlsa品htm) 真道重明. 2003. 1957 年 の中国水産界 の状 況 とその後 の 交 流 で 得 た 多 くの知 己 (http: //ho m e.att. ne.jp/ grap/shindo/china57htm)

Shokita, S. 1984. Larval development of P enaeus ( Me/icertus) lalisulcatus Kishinouye (Decapoda,

Natantia, Penaeidae) reared in the laboratory. Galaxea,

3: 37-55

Z

嘉展. 1999. 水産養殖先鋒!妻一久. 遠哲科皐教育基 金曾,台北. 214 pp

参照

関連したドキュメント

Birdwhistell)は、カメラフィル ムを使用した研究を行い、キネシクス(Kinesics 動作学)と非言語コミュニケーションにつ いて研究を行いました。 1952 年に「Introduction

大学で理科教育を研究していたが「現場で子ども

れていた事から︑愛知県甲種医学校で使用したと見ら 第二篇骨学︑甲︑﹁頭蓋腔﹂には次の様に記載され

8月9日, 10日にオープンキャンパスを開催 し, 本学類の企画に千名近い高校生が参 加しました。在学生が大学生活や学類で

このように,先行研究において日・中両母語話

専攻の枠を越えて自由な教育と研究を行える よう,教官は自然科学研究科棟に居住して学

医薬保健学域 College of Medical,Pharmaceutical and Health Sciences 薬学類 薬学類6年生が卒業研究を発表!.

プログラムに参加したどの生徒も週末になると大