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アダム・スミスと人間の科学

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Ⅰ.第 3 段階のアダム・スミス・ルネサンス

 アダム・スミス・ルネサンス,すなわち現代におけ るスミス復活は,今や第 3 段階を迎えている。第 1 段 階は 1976 年(『国富論』刊行 200 年,ニクソンショッ クとオイルショック),第 2 段階は 1991 年(社会主義 体制・ソ連邦の崩壊,冷戦体制の終焉,グローバリ ゼーションの席巻)を中心にする。これらにはそれぞ れに特有の政治的経済的社会的歴史的な背景が存在し, その文脈のもとでスミスへの関心が高まる。  第3段階は,国際的には2008年(リーマンショック とそれに続く経済的停滞,財政・金融不安,格差), とくに日本では 2011 年(3.11)を契機とする。この結 果,第 3 段階のスミス・ルネサンスは,経済学を越え て,彼の思想体系のすべての領域での新しい潮流とし て理解する必要がある。1)  2011 年 3 月 11 日の東日本大地震・巨大津波,そし て東京電力福島第 1 原子力発電所の核爆発による大惨 事は収束していない。未だに放射能(漏れ)を制御で きない。被災者の救済,被災地の復興も進んでいない。 被害の全容がつかめず,確定できず,今後の予測も不 安定である。したがってその対策も事後的,弥縫的と なり,カタストロフィーといえる事態を惹起している。  経済,社会,政治そして学術の世界で,既存の権威 にもとづく体系や枠組み,そして価値観が根本的に問 い直されるべきである,という認識が広まっている。 経済学の世界も例外でない。経済学の「専門性」や 「科学性」を高めると称して追及されてきたその「精 緻化」の作業の中で,「想定外」の事態が出現し,こ れらの手法が人間の社会と生活の総体的,総合的な認 識を妨げる,という大きな限界を顕在化させている。  こうした事態に対応して,成長主義,GDP 志向か らの脱皮を目指して,そもそも経済学の課題とは何か, その解明のための妥当な手法とはいかなる性質を持つ か,という課題が議論され始めている(スティグリッ ツ,セン,フィトゥシ『暮らしの質を測る:経済成長 率を超える幸福度指標の提案』福島清彦訳,金融財政 事情研究会,2012 年,ほか)。そして,こうした問題 の解明には,経済学の人間化と総合化がキーワードと なって,とくにアダム・スミスとケインズがよく取り 上げられる(中谷武雄「「新しい知」のあり方を探 る:経済学研究の観点から」後藤宣代他『カタストロ フィーの経済思想:震災・原発・フクシマ』昭和堂, 2014 年,第 5 章)。  既存の経済学やその理論にもとづく経済政策の手法 やあり方に大きな反省を迫る流れは,日本の経済学史 研究にも生じ,その結果の 1 つとして,経済学史学会 編『古典で読み解く経済思想』(ミネルヴァ書房, 2012 年)が出版された。「震災復興は人間復興であ る」として,アダム・スミス回帰が,人間学としての 経済学(の復活)と,思想体系の全体的,総合的把握, すなわち総合知(専門知の学際的統合)の 2 つをキー ワードに,主張されている(中谷武雄「アダム・スミ スと現代」『経済教育』32,2013 年)。この 2 語は欧米 においてもスミス・ルネサンスのキーワードである (三好宏治「スミス・ルネサンスの再解釈」『神戸学院 大学経済学論集』43-1・2,2011 年 9 月)。  中谷(2013)では,経済学史学会を中心にしたので, 本稿ではマスコミやジャーナリズムの世界に触れる。 『朝日新聞』2012 年 8 月 7 日,「文化の扉」は「はじめ てのアダム・スミス」(高久潤)と題して,「見えざる 手」をキーワードとするが,『道徳感情論』と『国富 論』の双方をふまえることが重要である,とスミスの 読み直しを論じている。見直しの背景に,グリーンス パンと温家宝の 2 人の事例が紹介されている。2)  グリーンスパンは,その役職上での実績に対してエ ディンバラ大学から名誉博士号を授与され,スミスの 生誕地で記念スピーチ(第 14 回アダム・スミス記念 講義)を残した(Greenspan,Alan,AdamSmith,At

アダム・スミスと人間の科学

Economic EducationThe Journal of No.33, September, 2014 Adam Smith and Science of Human Nature

Nakatani, Takeo

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theAdamSmithMemorialLectures,Kircaldy,Scot-land,February6,2005.村井明彦(資料紹介)「グリー ンスパンの記念講義「アダム・スミス」の翻訳と解 説」京都大学経済学会:経済論叢別冊『調査と研究』 38,2012 年 10 月)。マネタリストのグリーンスパンが, スミスを「自由市場主義者」としてスコットランドで 称賛する構図は,マーガレット・サッチャーが自らの 新自由主義的改革(サッチャリズム)に立ちはだかる スコットランド勢力を前に,「自由企業経済」の唱道 者としてスミスを引き合いに出すのと変化はないかも しれない(『サッチャー回想録』石塚雅彦訳,日本経 済新聞社,1993 年,下巻,207 頁)。3)  中国の温家宝首相(当時)の『道徳感情論』への言 及が興味深い。田中修「資本主義と倫理について:世 界経済危機を契機に」(『ファイナンス』2009 年 7 月) は,彼がイギリスを訪問した際に,『ファイナンシャ ル・タイムズ』のインタヴュー(2009 年 2 月 1 日)で, 「各自が自由・平等の条件下で全面的な発展を得る社 会」を目指して,スミス『道徳感情論』を愛読してい ると述べたこと,また帰国後中国国民にも,スミスは 「見えざる手」を,市場と道徳の関連で 2 回述べてい ると紹介し,スミスの理解には『道徳感情論』を視野 に入れる重要性を主張している,と紹介している4) (1-3:中国経済と「道徳感情論」)。  中国の指導者が,高度経済成長を謳歌しつつも,そ の陰りも考慮していることの表明として,公平な社会 や人間の発達の実現の観点から,『道徳感情論』に言 及している。中国が「国家主導型」の経済成長の管 理・統制路線を目指す動きは,市場の外部からの働き かけによって理想を追求する試みとして,ジョヴァン ニ・アリギ『北京のアダム・スミス:21 世紀の諸系 譜』(中山智香子監訳,作品社,2011 年)などでも注 目されている。しかし現実の大気汚染の深刻化の 1 つ をみても,説得力には欠けると思われる。  スミスの自由主義経済の活力論を援用しつつ,『道 徳感情論』も踏まえなければならないという主張は, 『国富論』の理解にとって『道徳感情論』を前提に置 かなければならないという指摘を越えて,彼の思想体 系全般に目を配るという流れと,その結果,(スミス) 経済学における人間の要素への注目が脚光を浴びる, という 2 つの流れを顕在化させる(堂目卓生『アダ ム・スミス:『道徳感情論』と『国富論』の世界』中 公新書 1936,2008 年,およびその後の業績も参照)。  スミスの経済思想の背景にある「人間の科学」への 関心と,柔軟な,学際的な,総合的な思考様式という 2 つの特徴は,実は,若きスミスのアカデミックキャ リアの出発点となる,エディンバラで 1748 〜 51 年に かけて行った公開講義での思索,その内容,ないし 「初期スミス」に内在しているといえる。

Ⅱ.「初期スミス」と 18 世紀における人間

の本性に関する研究

1.アダム・スミスのエディンバラ講義  スミスのエディンバラ講義には,その全容も詳細も 不確定の部分が残っている。スミスの死の直前に遺言 に従い,彼の草稿類の大半は焼却され,直筆の資料類 は失われた。しかし後にスミス著作集に収められる, 『修辞学・文学講義』と『法学講義』の学生の筆記に よる講義録の発見や,遺稿集『哲学論文集』に収録さ れる哲学史と(模倣)芸術に関するスミスの手による 手稿類と,数は少ないが残された書簡類から,おおよ その内容は推定することができる。同時期の,ウィリ アム・ハリントン詩集『折々の詩』の編集,その後の 「ジョンスン『英語辞典』書評」や「言語起源論」な どの仕事を含めて,若き日のスミスの思想体系の構想 や問題関心の輪郭,すなわち初期スミス(像)を描く ことは可能である。  それは,オクスフォード大学の留学の最大の成果で ある古典学への造詣とそれにもとづく人間論を,感覚 論,認識論,言語論,コミュニケーション論などを基 盤に,人間本性と,人間社会の特徴を通じての人間論 を, 社 会 性(sociality) や 社 交 性(sociability) を キーワードに発展させようとした。これは,当時の学 術界や思想界(スコットランド啓蒙と(フランス)啓 蒙思想)と共有のものでもある。人間とは何か,その 本性にもとづく社会とは何か,それを当時に入口に到 達しつつあった商業社会=文明社会(=市民社会)と して,歴史的にも,比較文明社会論としても展開しよ うとする構想であった(吉田傑俊「アダム・スミスの 市民社会論:HumanNature と NaturalOrder の連関 性を中心として」『社会志林』50-3,2004 年 1 月)。  初期スミスは,彼の思想体系の出発点であり,基盤 でもあるから重視すべきである。それだけでなく,彼 がアンシクロペディストとも称されように,多くの テーマを同時並行的に講義として展開するその課題意 識と,視野に取り込まれている対象領域の広さと「模 倣芸術」論を晩年に完成させようとしてしばらくの中 断を経て再着手したことなど,個別テーマに絞って研 究を遂行する際の学際的な視点,そして既存の体系や 方法に縛られない,国祭的な成果を自由に取り入れ,

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反映させる柔軟な姿勢という特徴を具えている。5)  この性質の確認は,スミス・ルネサンスの第 3 段階 を形成する契機でもある。  今後はさらに,初期スミスはスミス研究の独自の対 象領域を構成する,という課題意識が必要となろう。 「エディンバラ講義こそスミスの「処女作」と位置づ けるべきものである」(山﨑怜(2005)36 頁)。若き日 のスミスは,人間の科学,人間の本性の研究という観 点から自らの思索活動の体系構想を抱き,様々な分野 に幅広く学術的関心を払っていた。人間学を前提とす るがゆえに,初期スミスは豊饒性に富む。それゆえに, その後の研究の展開・発展との関係だけでなく,それ 自体としても独自に考察の対象となすべきものである。  「スミスは修辞学の講義で,修辞学が感性ある人間 本性と強力な関係をもっていることを間違いなくはっ きりさせた。彼はまた,引き続きエディンバラで行 なったとわれわれが信じてよい哲学史と法学について の 2 つの連続講義で,ヒュームが『人間本性論』の序 文でしている主張を身をもって示した。それらの連続 講義についての情報はいくつかの点で,ヒュームが 『人間本性論』で公言していた「人間の科学」の研究 計画に基づいてスミスが考察をすすめていたことを暗 示している。」(I.S. ロス『アダム・スミス伝』篠原久 他訳,シュプリンガー・フェアラーク東京,2000 年, 109 頁)  エディンバラ講義は,スミスがヒューマニスト(人 間本性=ヒューマンネイチャーの科学に関する研究 者)であることを示している。エディンバラ講義は, 言葉,文字や文体による意思表示と交流,人間関係が 形成する社会,その精神的側面と物質的側面などを視 野に収めていた。それらが後に論理学,道徳哲学,倫 理学,法学,そして財の交換法則を探求する経済学に 発展する彼の研究の基盤を形成している。スミスは人 間の科学として考察を独自にまとめるには至らなかっ たが,『道徳感情論』も『国富論』も人間の本性との 関係から叙述が始まっていることは注目に値する。 2.共感と人間の本性  『道徳感情論』の冒頭の段落で,人間本性(human nature)という用語・言葉が 2 度も顔を出す。第 1 部 第1編第1章「共感について」は,「人間というものは, いかに利己的であるように見えようと,その本性の中 には,他人の運命に関心をもち,……」で始まり,憐 みや同情の「この感情は,人間本性が持つ他のすべて の根源的な激情と同様に」という 1 節を含んでいる (TMSI.i.1.)。そして第 1 章は,「人間の本性における 最も重要な原理である死への恐怖」という言葉を使用 して,それが「人間の不正義に対する強力な抑制力」 として作用し,「社会を守り保護する」という文章で 終わっている(TMSI.i.13.)。  共感の原理は,想像力を媒介に(感情移入),全く 見知らぬ他人でも同じ感情を抱いていることを知る喜 びが,人間の行動基準(善悪の判断)の形成に関与し, こうして人間として発達し,高貴な人格が獲得される とともに,社会秩序が形成され,繁栄に向かうことを 明らかにする。このコミュニケーション,感情の交流 と後には言語による媒介(契約関係)にスミスは着目 して,社会の形成と発展を説明した。人間関係として の契約関係は,(商業)社会を維持し発展させていく うえでは不可欠であるが,周知のように,社会(=国 家)の形成原理としては採用されない。 3.デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』  18 世紀の啓蒙思想においても,人間(本性)とそ れにもとづく社会の形成と発展の研究は,1 つの中心 的なテーマであった。スミスの友でありまた師でも あったデイヴィッド・ヒューム『人間本性論』6)がそ の 1 つの頂点を形成する。本書は,人間の本性の恒久 性と普遍性を研究課題とし,歴史発展と国際比較,そ して両者を結合した観点から論述を進める構想であり, 人間の科学の最初の意図的な企てである。彼はその研 究の緊急性を次のように表明した。  「すべての学は多かれ少なかれ人間の本性[人性] に関係があり,外見はいかに人性から離れた学がある にせよ,それらもやはり何らかの経路を通って人性へ 帰って来るものである。数学・自然学・自然宗教[強 調は原文]すらある程度まで「人間」学に依存する。 そのわけは,これらの学が人間の管轄下にあって,人 間の力能・機能によって真偽を判定されるからである。 もし私たちが人間知性の広さと力とを限りなく知り, 推理に当たって用いる観念やそのさい営む作用の本性 を解明し得たとすれば,これらの学がどのように変化 し進歩するか,これを語ることは到底できない。」(岩 波文庫 I-21 頁)  その分析手法として,副題「実験的方法を精神的主 題に導入する 1 つの試み」が示すように,人間の本性 の考察に自然科学の手法を導入,適応することが,本 書の最大の特徴で,先駆的な試みとして評価される根 拠である。ニュートン力学の方法を人間の精神的な課 題に適応し,人間精神が経験的に営む世界の観察を通

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して,人間の条件=本性であると考えられていた理性, 感情,道徳(そして計画としてはさらに政治,趣味) を分析対象とし,全 5 編構成で,人間の感情に規定さ れたその行動動機と様式の重要性を強調する。人間精 神の学問,すなわち道徳哲学に自然科学の方法を適用 して見せることにより,この領域が十分に科学的な考 察の対象となり,その発展の重要性を示すことが盛り 込まれている。  自然科学と区別して分析する対象である道徳哲学も, さらに細分化できる。「これら 4 種の学,すなわち論 理学・道徳学・文芸批評・政治学は,何らかの点で私 たちが識らずに過ごせるもの,あるいは人間の心の進 歩に資するかまたは心を飾る助けとなるものを,ほと んど残らず包括している。」(岩波文庫 I-22 頁)  ヒュームは,観察の対象を理性の領域にとどめるこ となく道徳や政治分野にまで拡大し,人間社会の道徳 性(良俗)は理性によってではなく,感情によって, すなわち共通の感情(共感)の確認が行動や人格の評 価の基準になることによって形成されることを明らか にした。しかし当時この研究はあまり注目されなかっ た。その結果,政治,趣味に関する論述が実現される ことはなかった。「印刷機から死んで生まれた」と著 者を嘆かしめた。7)  しかしヒュームの考えはスミスに大きな影響を与え, 受け継がれ,更に精緻化される。ハチスン,ヒューム そしてスミスはイギリスの経験主義哲学を構成し,市 民社会の形成の原理を共感に求めた。すなわち人間相 互の感情の交流と一致の確認による是認の成立が基準 となり,道徳率が確定されていく。理性から感情へ, そしてスミスでは自らの胸中に宿る公平な観察者の概 念が決定的に重要となる。  スミス『国富論』の理解にも,こうした観点が必要 であることが,日本経済学会編『日本経済学会 75 年 史:回顧と展望』(有費閣,2010 年)においても確認 されている。第 IV 部:展望編 2「経済学の基礎として の人間研究:学史的考察」において,第 9 章「報告 経済学の基礎としての人間研究:学史的考察」(堂目 卓生)が以下の目次で問題提議をなしている。⑴ は じめに:経済学と人間研究の関係,⑵ 人間研究の提 唱者としてのヒューム(『人間本性論』と『政治経済 論集』),⑶スミスの『道徳感情論』と『国富論』,⑷ スミス以降における人間研究と経済学:ベンサムから ロビンズまで(1. ベンサム 2. ジョン・スチュアー ト・ミル 3.マーシャル 4.ケインズ 5.ロビンズ), ⑸おわりに,である。  ヒュームは人間研究の提唱者,スミスは人間研究に もとづく経済学の樹立者,と位置づけられている。堂 目(2008)以来のスミス回帰,ないし経済学の人間化 と総合知の提唱が反映されている。

Ⅲ.アダム・スミスにおける人間研究

1.「法学講義」における人間論  スミスはヒュームから多くを学んだ。「初期スミス」 の念頭におかれた研究体系は,ヒュームの人間の科学 の研究構想をその基礎に持っていた。エディンバラで の「法学講義」では,人間論やその欲望論が顔を出し ている。『国富論』では省略されるが,若きスミスは, 「法学講義」でその繊細さと豊かさを特徴とする人間 の精神の感受性や,適度な変化,変容を秘めた相似性 の追求を含めて模倣性を好む人間の本性が,社会形成 に導く基本原理であり,これが動物との違いであると 指摘している。  「この地球上のすべての動物の内で,人間は物の実 質に何の影響も与えない,あるいは自然の必要を満た す時に,何の特別な有利さも与えない相違点というも のに関心を払う唯一の動物である……。/色,形,異 型性もしくは稀少性,そして模倣というこれら 4 つの 区別が,その他の点では等しいものの,あらゆる微細 な,そしてより思慮深い人にとってはとるに足らない わずかな区別と選好の基礎であるように見える。それ らを追求することが,他のすべての動物よりも人々に より多くの悩みと当惑を与え,それらを満足させるた めに無数の技術(art:芸術)が作り出されてきた。 {そしてそれら[無数の技術]の実行は,便宜には関 係せず,そしてしばしばそれらのものが供給される目 的とは逆の衣食住に関する習慣に人びとを導く。それ らの習慣は必ずしも常に安楽,健康,便宜そして温か さに適するとは限らない仕方で,衣,食,住を与える。 ─}。たしかに飲み食い,衣,住という欲求を満た すために,ほとんどすべての技術と科学は創り出され 改良されてきた。」(LJAvi.13-16.『アダム・スミス 『法学講義 A ノート』Police 編を読む』67-69 頁)  人間精神の繊細な感受性は,「色,形,異型性もし くは稀少性,そして模倣」という相違点に自然に関心 を払う。その区別の追及が人間の思索の対象となり, その結果アート(技術と芸術)が発展する。これが人 間社会の特徴をなすが,これは豊かさや幸せを実現し ようとする意図でもって展開されるのではなく,差異 を確認するという(感覚的な)喜び,という人間の本

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性に内在する精神的な特徴を契機に,自然に,本能的 に遂行されるとスミスは指摘している。8)  ここで,「目的とは逆の習慣」という言葉で,その 後の「見えざる手」や「意図せざる結果」というレト リックの文脈で語られていることも興味深い。「安楽, 健康,便宜,快適」など,世間で理性の働きによる常 識,前提とされている考えではなく,人間の本性が自 然に,本能的に発揮されることによる結果が主張され ている。その後の「レッセ・フェール(自由放任)」 につながる考えも表明されているといえよう。 2.『国富論』における分業と人間の本性  『国富論』の冒頭で展開される分業論も,人間本性 に関わってそこに宿る交換性向から説明される。分業 は『国富論』の端緒範疇であり,スミスと分業は不可 分である。分業の起源を説明するさいに,人間本性に 関わって議論が展開されることは,『道徳感情論』で の冒頭「共感」論の構図を想起させる。興味深いのは, 人間本性の本源的な原理研究は,『国富論』の研究主 題ではないと断っていることである。「法学講義」で 言及された人間の精神の繊細さの議論が,『国富論』 では省略される経緯をたどるのと同じ扱いである。  「これほど多くの利益を生み出す分業は,それが生 み出す全般的な富裕を予想し,意図する人間の叡智の 結果ではない。それは,そのような広範な有用性など は考慮に入れていない人間本性のある性向,すなわち ある物を他の物と取引し,交易し,交換する性向の, 極めて緩慢で漸次的ではあるが必然的な結果なのであ る。/その性向が人間の本性の中にある,それ以上は 説明できないような本源的な原理の 1 つであるか,そ れとも,この方が一層確からしく思われるが,考えた り話したりする能力の必然的な結果であるのか,その ことは私たちの当面の研究主題には入らない。それは すべての人間に共通で,他のどんな動物にも見られな いものであって,動物たちはこの種類の契約も,他の どんな契約も知らないように思われる。」(WNI.ii.1-2.岩波文庫 I-37 頁。強調は引用者)  分業は,その利益を推察する人間の叡智の働きの結 果ではなく,人間の本性にある交換性向の結果である。 そして分業の結果,交換が発生する。しかし(社会 的)分業,すなわち 1 つの特定生産物の生産に従事す るには,自分の生産物と他の必需品との交換の可能性 が見通せていなければならないから,交換の場すなわ ち市場が前提されていなければならない。市場では, 相互の自己利益の実現,確保という観点から,契約関 係(の認識)が存在していることが想定される。契約 (関係)は,相互の説得によって,両当事者の合意の 上に成立する。契約は交換を支える基盤である。  交換性向は,人間の「考えたり話したりする能力の 結果」としてのみ言及され,詳しい説明はされないが, 「法学講義」では人間の説得性向・本能として,コ ミュニケーション論を媒介に言及される。「交換性向 のほんとうの基礎は,人間本性の中であのように支配 的な説得性向である。説得するために何かの議論が起 こされる時には,それが適切な効果を持つことが常に 期待される。……そしてもしも説得しようとしている 相手が彼と同じ考えをしていることがわかれば,彼は 非常に喜ぶであろう。したがって私たちは大いに説得 能力を養成すべきであり,実際に私たちは意図しない でそうしているのである。人間の全生涯が説得能力の 養成に費やされるのだから,その結果物を交換するた めに必要な方法が取得されるにちがいない。」(LJB 221-222.岩波文庫 282 頁。TMSUII.iv.25. も参照)  説得とは,コミュニケーションの力であって,言葉 の交換によって,自分の感情,意志,そして意見を伝 え,相手の同意を得て,仲間(相手,人)を自分の思 い通りに行動させようとする方法である。人間の社会 的な本性は,他人を説得し,共感を得ようとする人間 の本性の説得性向に現れていて,それは共感という人 間の能力を前提としている。これは商業社会において 自己利益を実現する,生きる術を発揮する手段として も重要である。  動物とは異なり,「人は仲間からの助力をほとんど 常に必要としており,しかもそれを彼らの慈悲心だけ から期待しても無駄である。自分の有利になるように 彼らの自愛心に働きかけ,自分が彼らに求めることを 自分のためにしてくれることが彼ら自身の利益になる のだ,ということを彼らに示すことの方が有効だろう。 他人に何らかの種類の取引を持ちかける者は,誰でも そうしようとする。私の欲しいそれを下さい,そうす ればあなたの欲しいこれをあげましょう,というのが すべてのそのような申し出の意味であり,私たちが自 分たちの必要とする好意の圧倒的な大部分を互いに手 に入れるのは,このようにしてである。私たちが食事 を期待するのは肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心からでな く,彼ら自身の利害関心からである。私たちが呼びか けるのは彼らの人類愛に対してではなく自愛心に対し てであり,私たちが彼らに語るのは私たち自身の必要 についてではなく,彼らの利益についてである。乞食 以外は誰も主として同胞市民の慈悲心に頼ろうとはし

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ない。……/私たちが自分たちの必要としているよう な相互の援助の大部分を互いに受け取るのは,話し合 いや交換や購買によってであるように,本来分業を生 むのも,この取引するという同じ性向なのである。」 (WNI.ii.2-3.I-38-39 頁)  当事者の双方は,自らの利益を獲得しようとする意 図でもって相手に提案し,共に同感して,物の交換が 成立する。互いに相手を説得することに成功して共感 関係が成立する。その基盤の上で交換が実現する。所 有権の交換は相互の同感(共感状態)のうえに成立す る。モノの交換を言葉の交換が補完する(契約関係の 成立)。この交換の連鎖が自律的に成立することに よって,社会システムの 1 部が形成される。これが経 済学の独自の対象となる。  「社会は,様々な人々の間で,様々な商人の間での ように,それの効用についての感覚から,相互の愛情 や愛着が何もなくても,それは世話(goodoffices) をある一致した評価にもとづいて損得勘定で交換する ことによって,依然として維持されうる。」(TMS II.ii.3.2.岩波文庫上 222-223 頁)  相手を説得して,自分の世話と見知らぬ人の世話を 交換することによって成立する社会が存在する。商業 社会たる市民社会は,自己利益を追求する独立した個 人と,交換過程の円滑な連鎖による独自の経済社会の 存在によって成立する。人間の交換性向が説得を通じ て自己利益を実現する場は,いわば「売り手よし,買 い手よし,そして社会よし」の市場である,というこ とが重要である。9)慎慮の徳の重要性が主張できる根 拠がここにある。 3.アダム・スミスの人間の科学論  スミスの 2 つの主要著作において,双方の書き出し で人間の本性に関連させて,共感と分業が論じられて いる。しかしスミスは人間本性論,すなわち人間の科 学そのものを正面から取り上げる姿勢を示していない。 当時の人間の科学(人間の本性の分析)は,ホッブズ, ロックやヒュームの枠組みではいまだに抽象的で,そ の目的を達成するには十分には成熟していないとスミ スは考えていたのであろう。  理性が真偽の違いを指摘したのと同じやり方で正邪 の違いを指摘したという「この見解は,いくつかの点 では真実であるとはいえ,他の点ではかなり性急で あったが,人間本性についての抽象科学がまだその幼 年期にあったにすぎず,人間精神の様々な能力のはっ きり区別された諸職務と諸権力が注意深く検討されず, 両者が相互に区別されていなかった時には,一層容易 に受け入れられた。」(TMSVII.iii.2.5.下 344-345 頁)  人間本性についての科学は,人間の精神の様々な能 力を,その職能と効果について区別を明確にし,具体 的に分析しない限りは十分には発展しない。理性中心 の分析に流れては,学問の体系は簡単化されすぎる。 数少ない原理で演繹される状態が望ましいが,それに よって多様性が犠牲にされては元も子もない。学の体 系にも「分類と配置」の観点が必要である。理性の観 点とともに,感情の観点をいかに組み込むか,という 課題に彼は取り組んだ。  「諸物体の働きを説明する場合には,作用原因を目 的原因から区別することをやり損ねることは決してな いが,精神の働きを説明するさいには,この 2 つの 違ったものごとをよく相互に混同しがちになる。洗練 され,啓蒙された理性が,私たちに勧めるであろう諸 目的を,私たちが生まれつきの諸原理に導かれて推進 する時,それをする私たちの諸感情と諸行為を,それ らの作用原因に対してのように,その理性に帰してし まい,本当は神(God)の知恵であるものを人間の知 恵であると想像する傾向が非常に強い。表面的にみれ ば,この原因はそれに帰属させられている諸効果を生 み出すのに十分であるように思われるし,人間本性の 体系は,そのすべての違った働きが,このやり方で単 一の原理から引き出されるならば,一層簡単で快適な ものであるように思われている。」(TMSII.ii.3.5. 上 226-227 頁)  スミスの時代,人間の本性に関する研究は,理解力 の分析を中心に体系化されようとしていた。ロック以 来の伝統を受けて,ヒューム『人間本性論』でさえも, 先ず理性論から始まり,次に感情論,道徳論へと展開 された。しかしスミスは理性論にはかかわらず,感情 論と道徳論を一体化して,「社会感情論」として『道 徳感情論』を世に問うた。グラーズゴウ大学で職をえ たことは,道徳哲学講座教授として講義を担当し,そ の傍らで研究を発展させるうえで,彼の関心や重点に 影響を及ぼしたであろう。当時の大学の講義体系や学 術体系の中に納まっている道徳哲学という明確な枠組 みを持った対象に入り込むことによって,人間の科学 への関心は拡散し,全般的な課題対象としては関心は 薄れた。アダム・ファーガスン『市民社会史』(1767 年)は,第 1 章「人間性の一般的特質について(Of theGeneralCharacteristicsofHumanNature)」を開 陳した上で,2 章以降,未開民族から始めて,技術の 発展史を展開する。

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 『道徳感情論』の課題は,著者自らが第 4 版から付 け加えたサブタイトル「人々がまず彼らの隣人たちの, そして次に自分自身の行動と性格に関して,自然に判 断を下すさいの諸原理の分析のための 1 試論」が適格 に示す。TMS では初版以来,第 7 部(第 6 版)「道徳 哲学の諸体系について」の第 1 編「道徳的諸感情の理 論において検討されるべき諸問題について」で,課題 が 2 つあげられる(TMSVII.i.2.)。「称賛に値する人 間の性格の基本をなす徳の性質」と「人間の精神が推 奨(ないし抑制)する行動の原理」の解明である。そ の解明の歴史的,社会的手法を含めて学術的に言い直 せば,「道徳感情の本性と起源の解明」になろう。  スミスの課題は,人間の科学の研究において,人間 の徳の性質と行動の基準から,市民社会の構成と発展 の原理を導き出すことであった。彼は自然哲学,道徳 哲学そして論理学という古典古代からの伝統的な学問 体系にもとづいて,道徳哲学に集中し,その 1 分野 (現代でいう倫理学)を『道徳感情論』として出版し た。道徳哲学は自然哲学と同様に学問体系の一翼をな すが,(理性ではなく)感情に規定されて行動し,思 考する人間を扱うがゆえに,自然哲学とは異なる独自 の方法と体系化が必要であるとスミスは主張した(中 谷2014)。  歴史的発展に伴い(「4 段階説」)人間の徳も行動も 変化するように見える。社会的な環境(の変化)も影 響を及ぼす。しかもそれらは(社会)感情による,人 間の本能から導き出される。スミスの念頭からは,人 間の科学のこうした性質と特徴が消え去ることがな かったのであろう。10) 註 1) 経済学史学会は約 10 年の周期でスミス研究のサーベイを 行 っ て い る。『 経 済 学 史 研 究 』53-1,2011 年 7 月, 同 52-1,2010 年 7 月を参照。日本では,21 世紀になって, 『法学講義』,『道徳感情論』と『国富論』の新訳刊行が続 いている。 2) 「2005 年,米国の中央銀行にあたる連邦準備制度理事会 (FRB)のアラン・グリーンスパン議長(当時)はスミス の生地を訪れ,「現在の世界の発展に寄与した巨人」とた たえた。自由な市場が成長と安定をもたらすことを証明 したという理由だ。中国の温家宝首相も 09 年,英紙の取 材に愛読書として「道徳感情論」をあげ,社会の安定に は,市場と道徳の領域での「見えざる手」が必要との考 えをスミスが残した言葉で説いた。」 3) 現代のスミス研究における政策論争的,イデオロギー的 背景の評価については,新村聡『経済学の成立』(御茶の 水書房,1994 年)における『富と徳』(未来社,1991 年) の分析視角に対する,田中秀夫『啓蒙の射程と思想家の 旅』(未来社,2013 年)174 頁,注(12)での言及も参照。 4) ただし道徳の問題,すなわち倫理学を取り扱っていると 言われる TMS における「見えざる手」の使用は,政治経 済学的な文脈においてである。D.D. ラフィル『アダム・ スミスの道徳哲学:公平な観察者』(生越利昭・松本哲人 訳,昭和堂,2009 年)131 頁参照。 5) スミスは生涯をかけて法学の研究書の出版に取り組んだ。 正義論,人権論が彼の思想体系の通底奏音である。中谷 (2013),30 頁,注 7)で言及した,山﨑『アダム・スミ ス』(イギリス思想叢書 6,研究社,2005 年)69 頁,田中 正司『アダム・スミスの認識論管見』(社会評論社,2013 年)47 頁なども参照。

6) Hume,David,A Treatise of Human Nature, Being an At︲ tempt to Introduce the Experimental Method of Reasoning into Moral Subjects, 1739-40(『人性論』大槻春彦訳,岩 波文庫 I 〜 IV,1948 〜 52 年)。訳文には適宜手を加えた。 7) こうした事態は,学界や宗教界からの大きな批判を反映 している。グラーズゴウでは恩師ハチスンによってスミ スに推奨された『人間本性論』は,オクスフォードでは 悪書であり,禁書であった。オクスフォード留学中に, 本書を熟読中のスミスが監督官に発見され,厳しく叱責 されたことは,マカロック『スミス伝』(1855 年)以来の 周知のエピソードである。ロス(2000)84-85 頁。水田洋 『アダム・スミス:自由主義とは何か』(講談社学術文庫 1280,1997 年)12 頁では,スミスがスネル奨学生として, 将来牧師になることを条件に留学していたから,叱責の 厳しさが増したのであろうと推測している。 8) ほぼ同趣旨で,もう 1 つの『法学講義ノート』ででも言 及されている。LJB208-209.岩波文庫 266-267 頁。 9) 「交換とは,同感,説得性向,交換性向,そして自愛心と いう人間の能力や性質にもとづいておこなわれる互恵的 な行為である。そして市場とは,多数の人間が参加して 世話の交換を行う場である。したがって市場は本来互恵 の場であって,競争の場ではない。」(堂目(2008)164 頁) 10)「諸個人の間に配分される幸運と不運は,人間の力の及ぶ 事柄でない。私たちは,受けるに値しない幸運と受ける に値しない不運を受け取るしかない存在なのだ。そうで あるならば,私たちは幸運の中で傲慢になることなく, また不運の中で絶望することなく,自分を平静な状態に 引き戻してくれる強さが自分の中にあることを信じて生 きていかなければならない。私は,スミスが到達したこ のような境地こそ,現代の私たちひとりひとりに遺され た最も貴重な財産であると思う」(堂目(2008)285 頁: 最後から 2 つ目のパラグラフ)。これはややペシミス ティックであろう。Berry,J.Christopher,AdamSmith’s “ScienceofHumanNature”(History of Political Econo︲ my44-3,2012Fall)のように,社会発展(富裕化)と人 間発達(人格形成・完成)という積極面も考慮すべきで あろう。 付記  小論は,経済教育学会第 29 回大会(2013 年 9 月 29 日, 滋賀大学教育学部)第 5 分科会:経済学と経済教育,で の報告にもとづく。参加者のコメントと議論に感謝しま す。また小論は,日本学術振興会アジア研究教育拠点事 業「人間の持続的発達に関する経済学的研究」の支援を 受けている。

参照

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