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明清期における琉球国の“正朔を奉ず”について: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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Author(s)

盧, 経; 帆刈, 浩之(訳)

Citation

沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE

HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 87-92

Issue Date

2016-03-25

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/20487

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明清期における琉球国の“正朔を奉ず”について

中国第一歴史檔案館利用処副処長 盧 経 翻訳:帆刈 浩之 「正朔を奉ず」とは皇帝が新たに頒布した暦を受け取ること、すなわち時の王朝の暦・ 年号を用いることである。明の洪武二年(1369)、明太祖は使節を派遣し、周辺および西 洋諸国に即位の詔を下した。「朕、中国を主め、天下はじめて安らぐ。四夷の未だ知らざ るを恐れ、故に使を遣わし以て諸国に報ず」。それらの国に上奏・進貢を命じ、さらに諸 国の王に詔を下し、『大統暦』および各種の絹織物を賜り、明朝の「正朔」を奉ずるよう 改めさせ、使を遣わし明の朝廷に臣下として進貢するようにさせた (1) 。清の初め、琉球国 は「わが王朝が天下を治めた当初より、正朔を受け」、中国との朝貢関係を明朝から引き 継ぎ、中国の藩属国としての地位も継承した。 「正朔を奉ず」は、明清両朝と周辺各国とが宗藩関係を確立したことの地政学上の目印 となった。 一 明代『大統暦』と琉球国「正朔を奉ず」 明洪武五年(1372)正月、明太祖は使臣楊載を派遣し、琉球国に詔諭を齎した。詔に曰く、 「昔、帝王が天下を治めることは、およそ日・月の照らす所、遠邇あること無く、一視同 仁なり。故に中国が奠安し、四夷のところを得るは、これを臣服するの意あるに非ざるなり。 …朕は臣民に推戴され、皇帝の位につき、天下の号を定めて大明と称し、洪武と建元した。 是を用て外夷に遣使して朕の意を播告せしむ。使者の至る所の蛮夷の酋長、臣を称して入 貢す。惟だ爾琉球、中国の東南に在り遠く海外に処れば未だ報知するに及ばず。茲に特に 遣使し往きて諭せしむ。爾其れ之を知れ」(2)。 同年十二月、「楊載、琉球国に使するに、中山王察度、弟泰期等を遣わして表を奉り、 方物を貢す。詔して察度に『大統暦』及び織金文綺・紗・羅各五匹を賜い、泰期等に文綺・

LU Jing, transl. HOKARI Hiroyuki: On “Respect for the Chinese Calendar” in Ryukyu in the Ming-Qing period (1)『明太祖実録』巻 38、洪武二年正月乙卯。

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紗・羅・襲衣を賜うこと差有り」(3)。頒賜された『大統暦』は『大明洪武六年歳次癸丑大統 暦』である。この後、琉球国の貢使は幾たびか来朝し、琉球国王に『大統暦』が頒賜された。 後には「海道険阻なれば、受暦の使、或いは半載(半年)、一載(一年)にして、はじめ て返る」。「『大統暦』は福建布政使に命じて之を給せしむ」 (4) 。洪武六年(1373)より順治 六年(1649)までの明朝の時代、琉球国は『大統暦』を 276 年間用い続けた。 『大統暦』は元代の郭守敬の『授時暦』の暦法にもとづいて編成されたものであり、『授 時暦』の暦法は中国古代の伝統的暦法の中で最も優秀なものである。『大統暦』は中国古 代文化の重要な構成要素である。『大統暦』の暦と暦譜は帝王から民に「時を授く」もの で、暦注は、陰陽術数文化を体現し、「民生を指導する」。洪武六年(1373)、琉球国は「正 朔を奉じ」、中国の年号・暦を用い、中国と五百年余りの文化交流が始まった。 二 清代『時憲暦』と琉球国の「正朔を奉ず」 『時憲暦』は清代の官暦で、清順治二年(1645)、イエズス会宣教師湯若望(アダム・シャー ル)がドルゴンの命を奉けて、『西洋新法暦書』の暦法に依拠し、編制して頒行した。後に、『御 制暦象考成』『暦象考成後編』などの暦法によって修訂される。新しい暦法は 17 世期中期 から 18 世紀三十年代のヨーロッパ天文学による、日の出・日没、月の満ち欠けの計算、日食・ 月食の予報に関する最新理論や成果、および正確な天文測量資料を吸収し、日食・月食の 予報の精度を上げた。この実測と推算によって編制された『時憲暦』は、明代以来の『大 統暦』が『授時暦』の暦法に従って編制され、明代後期に過ち(日食・月食測量の誤差) が頻発する局面を根本的に改変した。『時憲暦』の頒布は「正朔を改め天下の耳目を新た にし」、清の統治者による政権の正統性と合法性を示した。乾隆朝には乾隆帝の諱の弘暦 を避け、『時憲書』と改称され清末まで用いられた。琉球国は「我が王朝が政権についた 当初より正朔を奉じ、朝鮮・ベトナムとともに版図に内属し、毎年欽天監に時憲書を頒布 させた」 (5) 。清朝は明の制度を継承し、琉球国との宗藩関係を正式に確立した。 宗藩国の国王に頒賜された『時憲書』は漢文の『時憲書』の暦であった。「越南国に頒 発せる時憲書は、毎年臣が部(礼部)より十月朔に広西巡撫に発交し員に委して鎮南関に (3)『明太祖実録』巻 77、洪武五年十二月壬寅。 (4)『明太祖実録』巻 31、正統二年六月癸亥。 (5) 中国第一歴史檔案館蔵、軍機處、録副奏摺 03-7752-046 費錫章摺。(中国第一歴史檔案館編『清代 中琉関係檔案選編』嘉慶期 95、403 頁)

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齎至し祗領せしむ」(6)。朝鮮国は毎年十月に齎諮官を派遣し、礼部に行き、次年度の『時憲書』 を頒給された。琉球国は「地、海外と懸たるに因り、期を剋して往来すること能わず、是 を以て歴来、時憲書は均しく未だ給発せず、…若し時憲書を将て福建巡撫処に存貯し、使 に遇いて発交せば、則ち節候已に過ぎ、頒発するも徒に具文となる。転じて核実の道に非ず。 所有の琉球の応に領すべきの時憲書は竟に頒給すること無用なる可し」(7)。したがって、清 代、琉球に頒給すべき『時憲書』はけっして頒賜されることがなかった。ただ福建の衙門 が印刷した『時憲書』、或いは民間で『時憲書』を仿刻した『通書』が琉球に送られたも のが偶々有るだけである。 順治六年(1649)十一月、琉球国世子尚質、「投誠の表文」(8)を具し、都通事梁廷翰、通 事周盛国、大長揚等の人を遣わし、詔撫使謝必振を護送し回国させた。琉球国は「正朔を 奉じ」、清朝の『時憲暦』の年号に改めた。同治十一年(1872)七月、琉球国、使者を派し、 日本へ赴かせ、「賀表」を上り、明治天皇の新政府成立を慶賀した。賀表の文末では「同 治十一年」という清朝皇帝の称号を使用し、さらに「琉球国中山王」と称した。日本政府 はこれに対して大いに不満を持ち、使者に書き直しを要求した。日本外務省の意を受けて、 使者は賀表の内容と形式を書き直しただけでなく、「琉球国中山王」の 6 文字から「国」と「中 山王」を取り除いた。さらに期日を記す箇所の前に日本の年号「明治五年」を書き加えた。 その後、光緒五年(1879)、日本側は明治天皇による尚泰を琉球藩王に冊封する詔書を琉 球の使者に渡し、琉球王国は日本の版図に編入され、日本統治下の一つの藩となり、中琉 宗藩関係は否定され、光緒元年(1875)、日本政府は琉球が清朝に朝貢することを明文で 禁止した (9) 。順治六年(1649)から光緒五年(1879)まで清代『時憲書』の年号は琉球で 230 年にわたり用いられた。 三 『大統暦』『時憲暦』の琉球国における使用 『大統暦』『時憲暦』の内容は暦譜と暦注という二つの部分に分けられる。清代の『時憲暦』 を、明代の『大統暦』と比較すると、暦の学理(暦譜)の内容が増えたが、暦注(吉日の選択) の部分は『大統暦』の暦注内容を踏襲している。 『時憲書』の暦譜に書かれた各項の内容(日付の使用)は、まず大小都市の節気総目が (6) 中国第一歴史檔案館蔵、軍機處、録副奏摺 03-7752-047 恭阿拉摺。(中国第一歴史檔案館編『清代 中琉関係檔案選編』嘉慶期 97、405 頁) (7) 中国第一歴史檔案館蔵、軍機處、上諭檔 嘉慶十四年五月初四日。 (8)『歴代宝案』校訂本第一冊(沖縄県教育委員会、1992 年)693 頁。 (9) 何慈毅『明清時期琉球日本関係史』154-158 頁、江蘇古籍出版社、2000 年。

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あり、次に太歳干支、五行納音【1】、歳徳歳合【2】、幾日得辛【3】、幾龍治水【4】、年神九宮方 位図がある。各地方(藩属国も含む)の日の出・昼夜の時間、節気の時間。次に月ごとに 日付を記し、月の大小・干支を建て、下に節気が交替する時刻を注す。天道、天徳、月厭、 月煞、月徳、月合、月空など諸神の宜しき方向、および月の六候・日の躔宮、次に月の九宮。 日付の上に朔望の時刻および伏日・社日を標記し、下に干支・納音・紀宿・建除、土王用 事日節気【5】日の出・入昼夜の時刻を注す。物事を行う(日時の吉凶)。後ろに年号を列記し、 男女九宮の下に吉凶などの日、嫁娶周道図、五姓修宅を列記した(10)。 『時憲書』では、暦譜に「都城順天府節気時刻」「各省太陽出入昼夜時刻」「各省節気時刻」 などの項目が増加した。琉球国は「分野するに、康煕五十八年、仰ぎて聖祖仁皇帝の八品 官を遣り、前往して測量せしむるを蒙り、呉越と同度に星躔(めぐ)り、牛女の次に倶に 醜宮に在り、則ち其の刻度・節候は当に閩浙等の省と甚だしくは相い懸てず。琉球の星度・ 節候を将て朝鮮・越南の例に照らして一体に列入す」(11)。嘉慶十五年(1810)の『時憲書』より、 琉球の星度・節候、「旨を奉じて列入」せられ、「久遠に垂れん」 (12) 。「福建・琉球、正月初 六日、九月初五日、日の出:卯正一刻三分;日の入り:酉初二刻十二分;昼刻:四十五刻 九分、夜刻:五刻三分…」。「琉球驚蟄、酉初二刻七分;春分戌初刻一分;清明夜子初二刻 四分…」(13)。 『大統暦』『時憲書』の使用で、人々は暦や暦譜によって年月日時を記録した。太陽・ 月の運行規律,日の出・日の入り、月の朔望を把握した。二十四節気は暦を通じて琉球に 伝播し、其の立春・春分…は季節の変化を表し、小暑・大暑・処暑…は気温の昇降を示 し、雨水・穀雨…は降水や霧などの現象を表している。驚蟄・清明…は物候と農作業を表す。 こうした節候の時刻を把握することで自然の規律に従い、日常生活の計画を立てることが でき、農事の労働指導を誤ることがない。暦の使用は、琉球国の「節朔を知らず、月の満 ち欠けを見て時を知り、草が枯れるのを見て歳を数える」という局面を変えた。現在の沖 縄の民間社会ではまだ旧暦にしたがって、「中元節」「中秋節」「重陽節」が過ごされている。 『時憲書』暦の暦注(選択)部分は:四大吉時、年月九宮、伏日、社日、土王用事、嫁 娶周道図、人神所在、五姓修宅、用事(吉凶日時)、頒行された『時憲書』は 37 事にわたる。「祭 祀、上表章、上官、入学、冠帯、婚姻の日取り、親友と会う、嫁取り、養子入れ、旅立ち、 (10)『欽定大清会典』巻 77、2 ~ 3 頁。 (11) 中国第一歴史檔案館蔵、軍機處、録副奏摺 03-7752-046 費錫章摺。 (12) 中国第一歴史檔案館蔵、軍機處、上諭檔 嘉慶十四年五月初四日。 (13) 中国第一歴史檔案館図書資料室蔵『大清咸豊二年歳次壬子時憲書』各省太陽出入昼夜時刻表、各省節 気時刻表。

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移転、安眠、沐浴、剃頭、病気療養、着物の裁断、家屋の建築、柱を立て梁を上げる、紡 織、新規事業、売買契約、交易、不動産購入や仕入、産室準備、水路を開き井戸を掘るこ と、食品加工具の設置、大掃除、道路舗装、家屋撤去、樹木伐採、害虫駆除、狩猟、種まき、 放牧、埋葬時のくわ入れ、安葬、出葬」 (14) 。 暦注(選択)内容:源は「上古の聖人、天地陰陽の理を窮め、五行生剋の源を測り、以 て生旺扶助を宜となし、刑・非・破・害を忌となす」。暦の中の注によると、「亦た民、趨 避の義を知る」とある。 清代の『時憲書』の暦注には「惟だ明季以来、旧暦に沿習して行う」とある。明代の『大 統暦』にある行事禁忌の補注を踏襲している (15) 。『時憲暦』の暦は、「各々、日直の神、其 の義例に循い、其の軽重を権(はか)り、其の宜と不宜とを分けて注す。宜なれば注を並 べて時を用い、兼ねて座問(理由)を注し」、物事を行う時に、その時刻を調べる。清代 琉球国国王は冊封され王となるを謝した後、暦を用いて吉日を択び、先祖に告げて冊封に 感謝した。「七月二十六日冊封の礼成り、中山世曾孫、尚敬はじめ中山王と称して吉を択 び祖廟に告ぐ」(16)。 明清時期、琉球国は「正朔を奉じて」『大統暦』『時憲書』を使用し、中国と琉球王国の 文化交流と社会発展を促進し、「其の土俗・民情、実にすでに駸駸と日に上がる」(17)。 『大統暦』『時憲書』の琉球における使用は、農耕文明、社会文化、民俗習慣など様々 な側面から、当時の琉球王朝時期の文化・歴史発展の特徴を解明し、この時期の琉球文化 の形成と中琉友好交流史を理解する上で頼りになる歴史実物資料・情報を提供してくれる ものである。 (14)『欽定協紀辨方書』巻 11。 (15)『大明万暦三十四年歳次丙午大統暦』、『明代大統暦日彙編』(四)北京図書館出版社、2007 年。中国第 一歴史檔案館図書資料室蔵『大清康煕五年歳次丙午時憲暦』。 (16) 故宮博物院蔵『冊封琉球図』冊、謝封図。 (17) 中国第一歴史檔案館蔵、軍機處、録副奏摺 03-7752-046 費錫章摺。 【訳注】 【1】五行納音:六十干支を陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用して、木・火・土・金・水の五行に分類し、 さらに形容詞を付けて 30 に分類したもの。生れ年の納音によってその人の運命を判断する。五行の音 律(宮・商・角・緻・羽)をそれぞれの干支の音値に分類して考え出されたもので、木・火・土・金・ 水の「はたらき」で事物が変化・変動する時、音律が伴うとし、その音律を納めるという意味で「納音」 と名づけた。 【2】歳徳歳合:歳徳は、その年の福徳を司る歳徳神のこと。十干で決まる歳徳神の在する方角に向かって 事を行えば、万事に吉とされる。 【3】幾日得辛:春節後、最初の十二支の「辛」までの日数で占う。旧暦正月九日に当たれば、「九日得辛」 といい、数字が多いほど、金銭が増えるとされた。 【4】幾龍治水:春節後、最初の十干の「辰」までの日数で占う。旧暦正月五日に当たれば、「五龍治水」といい、 龍の数字が多いほど雨量も多いとされた。 【5】土王用事日:暦書の 3,6,9,12 の月に注が付けられた日。習慣上、この日に土を掘る(工事を始める) ことは禁忌とされた。

(7)

※本稿は 2015 年 11 月 13 日(金)、平成 27 年度沖縄県歴代宝案編集委員会において、中国第一歴 史檔案館の盧経利用処副処長が行った報告「明清琉球国奉正朔略述」の翻訳である。

参照

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