歌人の西印度経螢亡奴隷勢働力問題
一章史的方法による労彷力気候的適性の入種差に関する研究1和
田俊
二
序 発見者コロンブスの地理的認識の錯誤を今日に伝えて、その名を西印度と呼ばれるこの島懊室聞は発見以来四六〇余年 の久しさに亘る欧人の熱帯経営の歴史をもつている。恐らく欧人の熱帯進出の最古に属する一事例であると云ってよい。 吾々が先に気候馴化論の学史を顧た時、今日︽気候馴化︾と云う、欧米諸国で慣用されているこの語辞が︽気候馴化す アタリ マ テ る︾餌oo嵩∋鉾興と云う語型で生誕したのは一七八O年前後にあり、実は仏人の西印度経営の謄史に結び付くことを明か にしたが、それは更に一七八八年巴里に於いて奴隷貿易並に奴隷制度の廃止を目的とする︽黒人友の会︾ ぐ興㊥ぎく○昌 ムラ テン 閑﹃o信民①昌ユ①﹃ωoゴ≦二。旨①ロがコンドルセーを会長に設立され、翌年には仏領西印度のサン・ドミンゴの混血入代表が巴 里に赴き有色人の権利の主張を為したことと切り離し得ない因果関係を認めることが出来る。細入の熱帯に於ける気候的 適性即ち気候馴化の問題が欧人自からの手で取上げられ検討されるに到ったのは、その後アルヂェリア領有問題を契機と する仏人の気候馴化論の科学的創始にあるとは云え、そのこと自体が欧人の熱帯圏に於ける気候馴化の問題の重要性を示 すものに外ならない。されば仁人の西印度経営にあたって労仇力問題を如何に解決したかは興味ある問題を提示する。 鰍人の西印度脛管と奴隷勢働力問題 一賦入の西印度糎瞥と奴隷勢働力問題 二 今日西印度に見られる人種構造の態様はまさに欧人の西印度経営の歴史的遺産であると云ってよい。吾々はその人種構 造の中に多彩な静振要素を指摘し得るであろう。西印度はかかる多彩な人極要素を包含するが故に、此らの要素につき気 候的適性を検討する洵によき舞台であるとも云い得る。叉各々嬢聞に於いて人種構造の著しい差異がある。キューバ、ポ ート・リコは白人の島であり、ハイチ、ジャマイカは黒入の島であるーーかかる人種構造の相違は、いま試みにキューバ、 ポート・リコが久しく西班牙領であり、ハイチは仏領であり、ジャマイカが英領であった事を輩に考えに入れるならば, 確かに曲譜に基く労智力の気候的適性の一般.的傾向を暗示するものの様でもある。だが吾々はかかる環境論的な解決を急 ぐ前にそれは欧洲各国の植民地経営の過程に於ける感荷力問題の解決方法の如何に懸って結呆した現象ではなかったかと 反問して見る必要がある。前述した各島演の領有閣係を再び藪に考えに入れるならば、欧洲各国の植民地経営の過程に於 いて労霊力閥題解決の政策上の相違もあり得る筈である。その相違にも拘らす欧洲各国の植民地経営か資本主義的経営に あり、資本主義的経営にあっては労彷力の気候的適性の問題はまた車要な労彷力⋮選択の基準でもあるから、労彷力気候的 適性の問題が存在すること自体は否定され得ないところであろう。されば吾々は短兵急な環境論的解決を急ぐことなし に、﹁西印度経営の着帯的過程、就中労富力問題解決の過程を追求するなかに、労彷力気候的適性の問題が如何様に顕現し 作用したかを明かにし、且つ気候的通控の入種差の存在を確かめたいと思う。前述する人骨構造の相違が結果した所以は 然る後に初めて解答されるであろう。 ① 拙稿 氣候馴化論の墨史的背景一三蘭西の講論研,究創始とその目的 蒼根論叢 第二号 ② 笥。⋮銅器貯m里諺”な窪07博島δ∴ゆ㌧乙ロ蕎碧20二一コ山︹δ﹁=〇二曲︵鼠叶﹂Ψo碧ご9ド9’、o昌さ8℃oζ固暮塗δ♪一︶お巴2︸一G。O諮oq●二㏄−一一P スペイン入の西印度経営とその植民的性格
西印度の発見者であり征服者たるスペイン入の目的が直接に採掘の上に、殊に金銀に向けられた事はも早や論証の余地 もない。﹁メキシコ征略以前の最初の三十年の間には、新獲得地﹁西印度一和田註︺の全然価値なきことの嘆息は決して消 えなかった﹂ことは畢寛するにコロンブスの発見地に関する誇大な報告ほどに西印度の貴金薦埋藏が豊富でなかったこと を意味する。 如実、スペイン人の植民者の同的が本来金銀にあった事は植民の定着的効果の上にも事敏くが如き事態を生じた。スペ イン人は鉱物資源の墨黒と同時に新しき鉱山を求めて流浪した。 一五一七年エスパニョーラ島の入ロ減少は増すばかbで その地に残された人々の不安がつのりつ、あ・ることを訴え、翌年サン・ドミンゴ︹エスパ至ーラ島の町一和田註︺の市民は 本国政府の移民政策︹後述︺に厳禁されている外国入の入植、殊にゼノア人や細入の入植許可を頻りに政府に献言した◎ 国王はかかる状態に対処するに、将来性ある植民地農夫の勧誘募集に一群の魅力ある条件を示さなければならなかった。 テイエルラ●フイルメ 7 即ちエスパ三ヨーラ及び 爵2篤霊琶。 ︹中南米のカリブ海雀岸地域の漠然たる呼構一和田註﹂に渡航せんとする者は︹出航準備地た る︺セヴィリアに到達してよりアメリカに上陸する迄の生活維持費と渡航費の無償を約束され、更に土地・道具・種畜・種子及び定植後 、耕作が軌道に乗るまでの一ケ年の食糧をも給せられることにし、且つ二十年間は教會維持費の+分の一税以外は悉く魚信となし、十地は 彼らの耕作したいだけのものを與え、その所有擢と永久相績櫃を認め、磐師・業師も派逡することにより定著的農業移民の翼翼に力を霊 した。而も最後には報償金をさへ最良耕作者に與えることにした。一方カスティリャの町々村々を曾は行脚して農業移民勧誘に努め、彼 らに新蟄見地の素晴しさを設く檬に訓令された。 西印度の農業開発が進捗しなかったのはスペイン入の植民的性格にあることはまた次の事実でも明かである。北米の英 国植民が自からの労彷によリフロンティアを漸次内陸に進めた、あの過程は洵に着実であった。凡そ土地が清掃され耕作 メイオニア カントリ に供せられる開拓地帯にあっては比較的小地積の私有地所有とその私有地獲得への刺戟が土地の最も有利にして経 済的利用を確保する為に必要とされるものであるが、この西領植民地に於いては征服言及び初期の植民が土地を売却する 欧人の西印度脛替と奴隷勢働力問題 三
蹴人の西印度脛管と奴隷勢働力問題. 四 ことにより教会領エステートの彪大な発展が急速に実現した。エステートが大なる時は比較的小地積の入念なる耕作を以 て充分な惹牧穫を得ることも禺来、叉大地積の粗放的耕作によっても充分なる牧山を得ることも出来る。従って農業の進 歩への刺戟も殆んどなく、土地は奴隷か半奴隷によって耕作され大地域は殆んど無視された。かかる状態に立ち到ったの も本来スペイン入の植民的性格にあることである。西癌化に於いてスペイン入は農業や貿易よりも更に儲けの多い且つ骨 折の少ない識業を求めた。それは原住印旬人及び黒人の労彷力を以て金銀鉱山を経営するが如く努力を必要としない生活 ③ を求めて海外に出奔するからであった。 農業移民の奨励が本国で努められている時に、西印度では鉱物資源が次第に洞渇を告げつつあった事は鉱山採掘税率の 軽減が施行されたことでも明かな様である。 即ち一五〇〇一〇四年の間に、當時アメリカ唯一の植民地であったエスパニョーラ島よりの請願に基き、−王の甲山所得は元爽︷産出高の 二分の一であったものが三分の一に、次いで四分の一に引下げられて行った。︸五〇四年二月の文書に撰れば五分の納税£鼠簿。が設定 され一五二〇年まで績行された。然るに生蔑費高く、貧鑛産出の地域にては地金の税傘は更に輕減され、同年西印度島影地方では十分の ④ 一に、一五五二年には二十分の一税に引Fげられた。 グワダルキヴイル この外に西印度の鉱物資源の洞渇はスペインへの流入高にも現れた。毎年スペインの西印度貿易港たるO§色巴ρaく詫 カヂイス カーサ●デ●コントラタシオン 或いは09。島Nに入った地金は通商院OΩ。。。曽戯oOo”寓掌。雷。駅ロの財務官の記録によれば一五〇三年︹涌商官設立一和田註︺ よりフィリヅペニ世の治世︹一五五六一九八年︺までは急速に付加しているが、その数字は年により大きな変動があった。 一つは欧洲水域に於ける非スペイン国民の海賊行為と他はアメリカ植民地の盛嚢を示すものであるが、就中西印度からの 王室牧入は通商院設置当時は僅かに三〇〇万ヨ9。鑓三αoωであったが、一五〇五年には二二〇〇万ヨ9。乙く置03一五一二 年には三四〇〇万ヨ舘。﹁9。く己。。。M 一五一八年には四六〇〇万∋弩薗く達09 一五三五年には一億一九〇〇万日帥轟く置。ωに 増大した。然るに一五=ハ年と一五二一年には僅かに=二〇〇万頃母9三鳥09一五一二年には二〇〇万ヨ9。轟く苞。ωを僅
かに上廻る位であった。これは欧洲にて猫仏が交戦し、仏海賊がアゾレス群島に亡婦せる年であったが、西印度では既に 金鉱は没落しつ∼あったので、スペイン人の全勢力はメキシコのアズテック地方征服に向けられていたことを示してい ⑤ ⑧ る。一方スペイン入はメキシコ征服の翌年既に一五二二年には主都メキシコ市近傍の銀坑の採掘を開始している。 鉱物資源の洞渇は同時に西印度没落の過程であった。さればカルロス一世の政府は西印度の中でも比較的大島たるキュ ーバ、エスパニョーラ、ジャマイカ、ボート・リコの今日云う大アンチル諸島の工率に深き関心を懐き特に農業的開発に努 力した。 それはこの古写の土人勢働力の破壌と大陸に開かれた比較的豊饒な大地域の魅力によって、これらの闘乱の人口も富も急速に減少しつ 、あったからである。そこで直挿栽培が奨鋤されし甘干挽割機械製作の熟練工がヵナリ自書よb邊届けられ、一五二〇年には砂穂業設立 に要する資材の思入税を免除した。かかる農業出稼策は一部効を奏し、軸簾栽培はエスパニョーラ島では一五二〇年頃から大規模に始め られ、 一五年を出ですして三〇の砂糖工場が設立された。この島からキューバ及び大陸沿岸地域へも徳⋮播されたが、キューバに於いては ⑦ 術一〇〇年間も右手されなかった。西印度の農産物のうちでは十六、七世紀を通じて甘藤が最も債値あるものであった。 それにも拘らす、スペイン人の金銀追求慾は彼らを西印度に留め置くことが出来なかった。西印度より大陸の富を求め て流浪するもの多く、一五二六年十一同には王は島喚より大陸移佳を禁じ,違犯者は死罪と財産淡牧の刑を以て臨まんと したが、この法令は実施を見ないま、に内容は漸次改められ、一五三四年には西印度の或.る島より他地へ移佳せんとする 者は知事の許可を受ける必要あることを規定し、一五四八年に至っては途に植民地のスペイン人は彼らの好む処に行き且 つ居佳する権利を獲得した。嘗て一〇〇〇家族を有したサン・ドミンゴの町は一五七四年には五〇〇以下となり、サン チャゴ・ヂ・キューバの町は西印度で最良の港を有しており嘗ては前者と同数であったのに、同年には三〇家族に減少して いた。同時代メキシコ市には三〇〇〇、リマ市には二〇〇、ブエブラには五〇〇,パナマには四〇〇、カルタへーナには 二五〇家族の入ロがあったと云う。これによってもスペイン政府の農業奨励策にも拘らす、西印度の没落が鉱山賓源の洞 鰍人の西印度纏管と奴隷勢働力問題 五
殿人の西印度経螢と奴隷勢働力問題 六 ⑧ 渇と同時に始まったことが明かとなるであろう。 要するにスペイン入の植民的性格が本来農業者ではなく探検者であり、征服者であり、金銀探索⋮者であった為に、西印 度の鉱山資源の洞渇と共に新しき魅力を示した大陸の宝庫を求めて流浪して行った。故にスペインの西印度経営に主力が 集中されたのは西印度発見以来メキシコ征略までの束の岡であった。而も西三二経営に主力が集中された時代にあって も、それな大アンチル諸島に限定され、小アンチル諸島は完全に之を逆なかったのはこの島喚には鉱山資源が歓喜してい ることが主なる原因である。 右の如きスペイン人の植民的性格を一麿確証する為には、吾々は彼らのメキシコ経営を見ればよい。なぜならばスペイ シ人は酉印度に求めて足らざるものをメキシコに於いて与えられたからである。ワイベルは云う、海岸に定著しそこから 漸次内陸に向って進行した北米の英国植民とは反対に、スペイン人は海岸地方を越えて内陸高原にその植民活動を開始し テイエルラ・7”ア た。そこでは目。罠凶h門この健康的な気候が、多数の面住の印婚人ロと共に享有することが出来たからだ。就中高原の 鉱物資源は彼らの主要なる関心と見られた。メキシコはフンボルトが名付けた様に︽世界の宝庫︾となり、叉重要なる ⑳ ︽銀の国︾となった程にスペイン入は彼らの関心をこの国の鉱山賓源に向けた。彼らはメキシコに於いても低地の熱帯有 用植物の耕作には非常に些細な関心しか持たなかった様である。そのことは彼らは使用し得べきすべての労彷力を鉱山開 発に向けたと云う事実と関連している。 ﹁酉印度に於ける如く、ただ貴金製の歓如せる場合にのみスペイン人は比較的後 ⑪ 年のことではあるが熱帯有用植物の悪魔へと移行したのだ﹂と見るワイベルの観察は正鵠を得ていると云わねばならぬ。 ①﹄07鴛口国●嘗。艮島識。7卸鐸”国2。岡言茜盤。窪。7陣①︵¢α皿OずΦ昌 の9一昌=二=鐸σq︶陶g貯;⑩b。ご︻o慶.笥。● ② 993話戸8=2受=碧”昌四“時言常三号2塁碍簿江g一白⑦ジく02訟三富聲qひ①h二戸3ぎ夢。.一、一冒50悔酔70出p陽ゴ薦⑭︵這ヨξΣ㈹ρお目Q。讐 ℃℃・ Oの一同Oメ ③\ミこ唱.目ら。一一崔b。●
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有せる可能性最も多き階級を包含したから、この禁止令の強行は事実上困難であり不可能であった。実際十六世紀末葉、 十七世紀には彼らはアメリカ植民地に於いて増加の一途を辿った。殊に一五八○年にフィリツベニ世に依る葡萄牙合併 後、一六四〇年葡萄牙の分離独立に至る聞は、葡人は許可の有無に拘らす、三音アメリカ植民地への入国は殆んど困難を 体験しなかった。スペイン本国に於ける一六二五−四〇年の聞に葡系白太人の絶滅を期する等等な政策は、リマ及びメキ シコにも反映し異端糺間所の活動となり、根絶されたけれども、全体から見れば非スペイン的要素は僅少であった。 要するにスペイン政府はアメリカ移民に難し、信仰と政治の統一と血統の純正とを建前として、スペイン独占主義を堅 持し、その為には移民厳選主義を探った。さればスペインは人当僅か七、八百万︵一五〇〇年には約七百万と云わる︶の 小国を以て・とにかく古羅馬帝国新上の広汎なる版図を三世紀の久しきに亘って支配し得%とは云え・スペイン国民があ の広大な領土に供給し植民することが可能であったのであれば、かかる独占主義的原則は有利であったかもしれないが、 新領土への供給、植民の事業は明かに彼らの力を超越した結果、多くの方面に於いて悲惨なるものが招来された。 西領西印度に於ける静働力問題 かくしてアメリカ植民地に渡航せる限定された数のスペイン入は自から征服考となり叉支配者として君臨し、労彷力を 原住者の搾取に期待せざるを得なかった。なぜならば限定された数のスペイン入自からの労彷力によってする時、如何程 の生産を挙げ得たことかを思えば充分であろう。従って原導者労彷力が西印度に於いて、更にメキシコに於いて、延いて は全スペイン領アメリカ植民地に於いて如何に重要な生産条件であったかは自から明かとなるであろう。 この事実に関する琿解を確かむる為に、吾々は薮で再び北米の英国植民との比較を為すことにしよう。スペイン人が新 世界の発見者であり、ロ:マ法王の新発見地分割教書に基き、ブラジルを除外する南北アメリカ大陸に対し、彼らの当時 の地理的視野の及び得た範囲に於いて、スペイン人は先占特権を有していπことは云う迄もない。然るに今日アメリカ合 隊人の西印度経螢と奴隷勢働力問題﹁ 九
欧人の西印度経螢と奴隷勢働力間題 一〇 衆国となれる北米の気候温和なる土地も、叉南米にて今日最高交明の発展せるラ・プラ懸河流域の気候温和なる土地も敢 ゆ て見捨てて久しぐ之を顧みなかったのは何故であるか。もとよりスペイン入の直接目的とせる賀至芸の埋藏に於いて欲如 し、埋土プランテーションに対する自然的条件がこれら爾淵帯地方にあっては丙印度或いは中南米熱帯地方と比較すると き、、劣っていると云う二つの点は動かし難き理由ではあっても、英人はその北米温帯に於いて夙くヴァージニア、宝一・ イングランド爾植民地を開拓したではないか。これは自からの馳駆力によって開拓せんとする植民と、自からは労彷せす 原住者の労彷力の搾取に期待する植民との椙違に基くものではないだろうか。事実﹁英人にあっては温帯地方に対し英人 ⑦ 自からの労傍によってその土地を高価なものに為す事を唯一の頼みとして﹂、この爾植民地を開いたのである。叉本国出 奔の動機に於いて宗教的圧迫により母国に容れられざる者が新世界に彼らの精神的自由を求め、其処に彼らの理想の天地 を開拓すべく永佳の目的を以て出奔したのである。されば彼らは海岸に定著し原葉者を内陸に駆逐して土地を奪い、自か ら耕して植民増加するにつれて漸次内野ヘフロンティアを押進めて行った。かかる場合原佐者が少数であったことは彼ら を奥地に駆逐し自から耕作すべき土地を獲得する上に却って好都合であった。然るに自から労号せす原住者塁壁力の搾取 に期待する植民にあっては曝気者が少数であるか或いは野蛮に過ぎて利用し得ないことは極めて不利であることは云うま でもない。スペイン人がブラジルを除く爾米に先占特権を有し乍ら合衆国の土地或いは南米ラ・ブラタ河流域を顧みなか ったのも貴金属の欠如やブランチ竃ションに対する自然条件の劣性の為だけではなく、原住空運革製の利用価偵の問題が あったからだと襲えられる。北米に於ける彼らの少数に加え南米温幣にあっては野蛮にして利用困難であったことは次の 恥くである。一五一六年置スティーーや王室の派造せる征服者はラ・プラタ河口にて惨殺され部下は恐れて帰国してしまっ た。その地の土人は好戦的にして敵対行為甚しくスペインの植民地開設は十七世紀以降漸次発展した。叉小アンチル諸島 が久しく自称西領であるに過ぎなかったのも、同様にこの島喚が貴金屡を歓如し大部分が森林に被われ且つ森林を本拠と
する勇敢なるカライブ族の敵対行動の為に途にスペイン人により植民地は開設されないままに、十七世紀後半に至りやつ と英・仏・オランダ入によって植民された。 ・従ってスペイン本国人命の絶対数が少なかったことに加えて植民地独占主義に基く厳重な移民政策がスペインの限定さ れた植民しか西印度に迂り得なかったことは、植民地経営に原住印櫓門労重力が如何に重要な生産条件であったかを示す ものに外ならないO
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出理一鐸ぴq“弓雷二〇簿昼⊆堵磐償帥瓢。β冨け毛ゆg融勺鉱口碧畠田隔戸。旨覧︻霧℃℃●一bO匂◎. \ミ“ごやμOド \ミ概ごでや⑩c◎一HO一・ ㌧簿ミご眉やH鼠−山O駅● 田中耕太郎 ラテンアメリカ史 上巻 ;二頁 bpμ”Ω母畠琴叫嵐=員。噂弓げ。>三〇嵩02ρ菊。三二︺=o頓韓﹀剛︼冨8受︸単巳馳巴・”日呂ρΨ遷● 鴨07簿巨β出.Uぢマ言7己Ωoず脚融﹁”内06三国応og。07[o露ρh 訟。Oρ 穴魯ユ訟9℃℃o﹃四﹀霧一①島一一昌㈹︿o昌国霞。℃隣2碧も島。=図一〇剛口。昌﹀暮三2”訟.G。Q−Q。一・ 三 西領西印度に於ける印画人労画角とその気候的適性 印旬人勢働者紫質と彊制勢働制度 スペイン入の植民的性格並に本国政府の移民政策によって、西印度経営には原住印百人の労節骨が必須の生産条件であ った。然るに印忍人は気候選良にして常に曲る種の牧穫があり、凶作に備う必要もない環境に生活する為に自已の土地を 耕作する事に依り、自己の単純な慾望を満すことが出来た。然もそれ以上を求むる野望なく利己心歓如し境遇を改善して 財を蓄積する考えもなき自然民族であった。されば本来労彷の報酬としての賃銀と云う観念は彼らの体心内に存在せざる 敏人の西印度樫管と奴隷勢働力問題 一一鰍人の西二度経管と奴隷勢働力問題 =一 外来のものであったし、金は彼らにとっては何の意咲も持たなかったから、彼らの自由意志による公正な賃銀の為の労彷 を求むることは至難のことに驕した。従って彼らの群棲力を植民地経営に利用せんが為には彼らに何らかの二言を加えな ければならなかった。かかる理由から男。層色け凶B凶Φ暮。ω及び国ロ8Bδ包器と称せられる強制労兵制度が夙に西印度に ① 於いて確立された。 本国政府は当初より印堅人をカスティリャ王室の臣民とし自由民として遇したから、西印度の植民江ちが彼らを奴隷と する事に常に反対した。然るに印旬入の労初者素質が前記の如くであったが為に、彼らを奴隷的な取扱いを受けざるを得 ない状態に置かれ、その結果フェルナンド王治世七年聞にエスパニョーラの印聞入の状態は悲惨の度を加え、労功時間の延 長は電蓄に於けるより遠隔の鉱山に於いて甚しかった。その結果彼らの死亡率は上昇し、出生率は下落し、労勿力の不足 を来してスペイン人は西印度の未征服地方より新たに印衿芯奴隷を輸入しなければならなかった。女王イサベラの夢野エ カ も も も セ も ね も も も も も へ も た も も スパニョ!うの入戸は七分の六を減じた。 ﹁それは印旬入が過大且つ不慣れの労彷に堪えなかったことの外に、白人との 接燭の結果、その疾病に感染し抵抗力を歓き死亡したのにも因る﹂︵傍点−,和田︶と云う。 縛ゆトロメ●デ●ラス・カーサス 岩層入奴隷の悲惨の境遇を座視し得す彼らの保護に販起せるはドミニカン修道士で、就中切9。詳。δ監ユ①ごωO曽。。霧は 印旬人救済運動を起し、﹁一五一七年本国に帰りエスパニ。ーラ島在国スペイン人一人につき引入奴隷一ダースを輸入する も し へ も も へ も も も も も し も セ も セ も も へ も へ も も も 特権を与えよとカルロス一世に献議した。疑いもなく志望入よりも黒人の方が鉱山労彷に堪えると云う理由に基いてい ③ た。蓋し鉱山労伽は前者の数を急速に減少せしめつ、あったからだ。﹂︵傍点i和田︶.ラス・四書サスの四十年以上に及ぶ 崇高な活動にも拘らす、時期既に遅く印浪人は酉印度に関する限り事実上絶滅していたと云ってよかった。 印旬人奪働力絶滅とその氣候的適性 印旬人奴隷制度に於けるスペイン人の惨虐性と,黒人奴隷制度に於ける英人のそれとは、いつれも制度それ自体のもつ
惨趨性と切り離し得ないものであったが故に、溢者いつれが苛酷でありいつれが寛大であるかを論ずることは出来ぬであ ろう。然るに屡々西班牙人なる旧教徒の野壷行為は印旬人の︽絶滅V乏云う動かし難き事実に依って強調されすぎる傾向 がないであろうか。これに関し、トウィンビ!教授は新教徒白人は旧教徒が為せる以上の惨虐を以て有色の℃ず讐ωユロ。族 ︹往昔猶太人の敵なりし人種を云うが、ここではこの語を比喩的に用い、白人以外の非キリスト教徒を指す一和田註︺を絶滅したと曰う ㊤ ⑤ 提言を為し、又ω貯蔵9昌団臼。即5ω紳。ロは一八世紀に於ける和蘭新教徒の残忍なる蛮行の数々の例証を挙げている。かかる 新教徒の事例を顧みても、カトリック国民の西士人の適期性がブ・テスタントの歴史家に依って誇張されていることは確 かである。前述のラス・カーサスは深き慈悲心より精嚢入保護の目的で著せる閏凶ω8﹁冨O①ロ興9。一鮎①冨ω一”画。。。の如き はスペインに嫉妬反感をいだける新教徒により盛んに逆宣伝に利用せられたが、それは広大なる植民地と莫大なる富を有 せしスペインに落する列強の嫉妬と、カトリック教国スペインに対するプロテスタント諸国民の反感とに由来するものに 外なら中、他国民が印度、コンゴー、ギネア海岸、北米等で犯した罪悪と比較して特に甚しいと云う訳ではない。要する に西印度は島填なるが故に、島嗅は本土に比して人ロに於いても限度あるが故に、その八絶滅︾が急速に現れたので、 ︽絶滅︾がスペイン人の惨虞性を事の外誇張される材料を他国民に与えたのではないか。これは英人が濠洲南岸のタスマ ニア島の土人を絶滅せしめたことに依り、彼らの惨虐性が誇大に考えられるのと同断であろうと思う。 されば吾々は西印度の印旬入絶滅理由をその強制労彷制度と切り離し得ない惨虐性の観点のみを強調する前に、印旬人 畜仇力の気候的適性の問題も亦彼らの絶滅に深き関係をもつのではないかと云う一つの設問を薮に提起することにしよ う。 それはコロンブスが西印度発見当初、この島の富に関する誇大な報道を齎らしたにも拘らす、東印度の香料と云う儲け 多き貿易晶も此処では得られす、金銀探索慾も究局に於いてアメリカ本土部分︹メキシコ、及びペルーを意味す一和田註︺の 欧人の西印度経菅と奴隷勢働力問題 一三
隊人の西印度脛瞥と奴隷勢働力問題 一四 領有に於いて初めて酬いられたとすれば、スペイン入が西印度発見にかけた夢が余りに大であっただけに、西印度の惨め さの故に彼らが現実に喫した落鮒の程は疑う予地がない。さればコロンブスは当初西印度のカリブ土人を本国に邊り之を 奴隷として売買することに想到した。当時スペイン商人が酉印度へ家畜を供給しその代償として土人の奴隷を彼らに与え んとした。かかる方法に依って異教徒たる印旬人を改宗させ奴隷輸入税がスペイン国家歳入を富ませ、且つ西印度植民は 無料で家畜の供給を受けることが可能となると云う計書であった。彼は一四九四年に土人との戦争による西印度土人捕虜 カ も カ む も セ も も も も も も し う 五〇〇名以上を本国に逸り、奴隷として売却することを勧めた。然るに女王イサベラは土人の柔和にして篤厚なる性質並 に教λ易き性質ある事を聞くに及び、 一度許可せる売却許可を留保させ、審理せしめた結果、売却に関する法的根拠につ き神学者の意見が一致を見なかった為に、途に西印度の故国に途還せしめ、爾後故国に於ける取扱いを虐待にあらす懐柔 う の 政策を探るべきを命じたことがある。パ傍点f和田︶勿論本国に於ける田紳人奴隷売買の実現を見なかった理由は神学者の 意見を思出せるカトリック王の人道主義に漸くものである事書ら、前述の如く彼らの性質が奴隷として不適であることを 本国に於いてスペイン人が最初に看破したこと自体が彼らの奴隷売買を実現せしめなかった動機であることは薮に重要な 意義をもつ。 前述の如く当初西印度の富の惨めさに落堕したスペイン人は﹁西印度ではただその比較的稠密な人ロのみが真面目に老 ヘ セ も も も も も も も も セ も も も も も し カ も も も も し も カ カ セ も も 慮されたにすぎない。併し乍ら印旬人は肉体的に余りにも薄弱にして且つ精神的には余りにも敏感であるので到底役立つ 酷な貿易品︹ここで貿易品とは和田の櫨つた鐸書では東印度の土入栽培にかかる香料の如きを云うのか、或いは貿易商品としての印旬人 奴隷の肉体・指すのか・爾様・解せ・れ・が﹄剛後の文書よb讐塾すものと老え・・和田書を提供し得なかった・﹂⑧︵傍輩和 田︶かかる飯盛人食馬力の肉体的価値評価はブラジルに於ける印旬人云云力の実際的使用の結果からも明かにされる。そ こでは西印度に於ける如く絶滅しなかつ江ので印綿人煙功力は奴隷狩りを以て供給することか永い聞可能であったにも拘
らす、既に十六世紀に於いて黒人奴隷の楡入による置換が為されるに到ったのは畢寛するに﹁印旬入は自由な放浪生活に ⑨ 慣れ精神的及び身体的に繊溺である故に、労勿者として非常に貴重なものでなかった﹂ことにあり、黒入一人の労彷能率 は印旬入四人のそれに匹敵すると評価されたからである。これらを以て鑑みても、西印度の印書人の︽絶滅︾が単なるス ペイン入の虐待に基くばかりではなく、彼らの労彷力の熱帯気候への適性に歓くる処があったことを知り得るであろう。 吾々が指摘したかかる事実を一層確信せしめるものは他地域に関する傍証的事例である。印旬報は現在、南北アメリカ 大陸の全緯度に亘って広い分布をしているが、統計によれば爾回帰線外に遣古せるものは杢印旬人口の僅かに七%にすざ ない。残余のものは熱帯圏内に居住するが、更にこの人種の地理的分布を吟味すれば、彼らの八○%以上が熱帯高地に居 佳して、そこでは概ね[蚊高度の精神的肉体的活力を保持している。然るに熱幣低地に於いては、数も少なく肉体的能率も ⑩ 低いと云われる。これは恐らく時代に拘らざる印面入の一般的傾向と見倣してよいであろう。 併し乍ら熱帯低地に於いて印愚人の少数を示す右の統計は現代のものであり、厳密には植民地時代にあっても少数であ ったことを示すものとは受取り難い、なぜならばスペイン人の印旬入奴隷制度の惨虐性による絶滅を織り込んだ数字であ るからだと云う反問は蓋し当然としなければならぬ。吾々はこの反問を否定する為には印旬人奴隷制度と聯かの関係もな きメキシコの低地の例と、印風面奴隷制度と深甚なる関係をもつたメキシコ高地の例を顧みればよい。前章で見た如くス ペぞン入は自から労彷する植民的性格を有せざるが故に原佳皆労彷力の存在は生産に必須の条件であった。然るにメキ シコ低地にあっては、本来労功力不足せる為にスペイン人は低地のプランテーシ.ン忍野を顧みなかった。彼らはここで ⑪ は黒人奴隷の輸入によって重石力不足を補うことさへしなかったとワイ。ヘルが述べている処でも明かであろう。従ってメ キシコ低地では奴隷制度とは柳かの関係もなく本来少数であったのである。かかる状態は現在にも持続されている。一方 メキシコ高地に於いては植民地時代の印旬人奴隷制度とは切り離し得ない深甚なる関係にあったにも拘らす、ここでは亘 激人の西印度経欝と奴隷勢働力問題 一五
敏人の酉印度経螢と奴隷勢働力問題 噌六 大なる腐心べ口の為に現在人ロはマルサス的過剰である。而して農業国と云われるメキシコが現在食糧楡入を以て必要量 の四分の一を補うているのは、低地の農業的開発の可能性はその土地生産力に於いても充分存在するに拘らす、低地労 ⑳ 彷力不足に帰因して開発不可能であることは先に論じたところである。 吾々が薮で西印度の印偏人を論ずるに当り、熱帯魚地域の事例を援用し西印度印血気を測る傍証的事例とすることが許 されてよい所以は、印土入と云うアメリカ原住者が悉く同質体型に騒する一人種より成ると云う入績学的通史が認容され るが故である。と同時に、先に挙げた諸事例がいつれも熱帯と云う糎の大地域内部に於ける事蒙であるからでもある。彼 らの人種起源がアジアだとすることも動かない通読である。ただ異論の多い彼らのアメリカ流入経路は藪で問題とならな い。さればアメリカ大陸定著に当って、彼らのうちで熱帯高地に新しき故郷を見出した者は本来の気候的適性に基いて気 候馴化を容易に完成し、低地に定著したものはそこでは気候馴化を充分に完成し得なかったと考えられる。ザッパーは云 う﹂ ﹁重三入が幾千年もの永い熱帯滞留にも拘らす、尚も完全に酷暑気候には順応を示しておらない﹂と云う彼の結論 は、吾々がかくて指摘した歴史的諸事例を以ても確証し得るであろう。倫労園地の高距位遣の変更に基く気候馴化所謂 国玉。ロ曽犀竃凶3白墨昏倒。ロの問題はアンデス山腹のインカ帝国の忌寸人に於いてその被害の著しき例を見るが、インカ帝国 ⑬ の立法中にかかる高距気候馴化の被害よりインカ人を保護せんとする法律あることも先に見たが、西印度の低地印旬入が ⑭ エスパニョーラ島の高地にある金鉱の労功に際してもこれと同様、高距気候馴化の困難の為に被害が甚しかったことも指 摘しなければならぬであろう。 ①掬稿メキシコ経濟に於ける勢働力問題彦根論叢第一一号に詳細論述す。 ② 田申耕太郎 ラテンアメリカ史上雀 一四五−唄五八頁 ③匂。百国‘冒7q尋昌“O。ω。ぼ。犀8偶2幹宣く22暮畠似。﹁=蜜σq訂︻8コ口・μO俸.
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﹀.㍉.弓。強冨Φ”﹀頓貯身鼠嵩一・・陣。蔓Lbロ鎚9二℃も。♪門口‘卜。=ート。雄. 碧﹃臨碧qむぎ舞8⋮“、7。2護﹃〇一口筈。2¢≦5、oΣPぎ二〇五日箪ρ題・=Oi己卸 田中耕太郎 前掲書 ︸五九頁 ぎσq言3鋤・9●ρ頴・ざ○。i一露● ズ⇔け7p﹃一言て卑①騒2戸”終2乙。﹁7冥。諮2一二冨島2#o℃ぎ冨︼副℃一p三擢。冒三蕊島箋伸曽肉ミ§箭裏芸ミ節日ぎ﹂♪ 潟ド︵伊藤兆司繹︶二八四 一二八五頁 用. B[。弓㏄窪︵前掲謬︶三三=一頁 内帥ニコロ壱℃。コ99島。Ω﹃。5飼窪﹂。弓﹀ご^︷ぎ暮凶㏄註。塁窪・屯^。凶け計醗護①舅冨♂9鳶矯、’Nミ鴇ミミま●。。。。︾一㊤G。日賦●こ。⑩09 嗣﹂8≦、亀邑二︶︻①三沸け㏄。︸ 駄峠煮8鵬旨9ぎ一5︵費巴。二8騎蜜。ムげ。・・嚇窮ミ倍,・N馬跨忘義凝ヨ.。。諮竈も3Po慶・含bっ● 拙稿 メキシコ輕濟に於ける勢働力問題 拙稿︵前揚︶ 閑9二訟9毛。二こげ2=α︸”。困︼㏄。三島ε茜ぎ⊆≧一互85轟嘗。冥㎝。冨口扇ρ・・ψg一丁。・9偽3Nミ魯竃屋“ヒロユ・捧一〇。。㊤”訟・9 四 西印度に於けるプランテーションと黒雨労群薄 プラン予ーシヨン立地問題に於ける累人勢働力とその氣候的適性 ぺーテルゼン女史はプランテーション立地問題の究明に於いて指摘しているように、 最も困難であり且つ立地に最も重 要な外題となったのは労強力の問題であると云うは確かに正しい所論であると思う。なぜならば算入はプランテーション の企業家たり得ても、白人は熱帯圏内に於ける労初島としてはその気候的適性に依って一応拒否されるが故である。従っ て労彷力問跡の解決策は黒人奴隷労功力に侯たねばならなかった。この事はプランテーションの発展過程を顧みれば直ち に明かとなる。 ’ 鰍入の西印度纏楚と奴隷勢働力問題 唱七激人の西印度経菅と奴隷勢働力問題 一八 その初期発展は地中悔滑岸にあった。十四、五世紀に欧洲上流家庭の砂糖需要の高騰と共に甘薫栽培と砂糖貿易に従事 せるイタリャ諸都市は異常な繁榮を見た。これを羨望せる西麗人が彼らの発見にかかるカナリー島やマヂイラ島やサン・ トーメの諸島嗅へ移植した。これらの諸島喚ではすぺての立地条件は満足させられたが、その解決に最も困難であったの は労功力問題であった。就中サン・トーメ島は﹁療属にして誰一人として赴かんと思う者なし、よって奴隷としてユダヤ 人=一〇〇名以上を逡つたが現在︹一五三二年一和田註︺彼らの内五〇一六〇名以上は生き残っていない。﹂即ち不健康な熱 帯気候中に於ける過激な重労彷に堪え切れながつた為に、一四九二年に邊られた彼らが一五三二年の頃にはかくの如く減 少したのである。ユダヤ人奴隷の外に、このサン・トー遊士では一四八○年の発見より聞もない頃から既に黒入奴隷一五 ② ○乃至三〇〇〇名を使用する栽植者がいたことも明かである。かように白人鞍鼻力を以てしては不可能なる労仇環境に於 ける労彷力として篠入の奴隷霊長力を以て行うプランテーションの初期形態がこの島で形成されたと云ってよい。 これが更に新しく発見された西印度へ一五一九年にスペイン人によってカナリ酉島より移植され、ブラジルへはポルト ガル人によって一五三一年にマヂイラ島より移植された。新大陸は地中海やアフリカ西岸の諸島嘆に比べると有利な気候 と良好な交通関係更に広大な室間と云うすべての栽植立地の諸条件を満足させた。 然るに此処でも困難なのは労心力問題.であった。なぜなら女訓は稀薄であり且つ西印度に於いては土入は間もなく絶滅 してしまった。そこで既にアフリカ西岸島喚で探用され乳方法が再び用いられアフリカ黒入を強制労傍に引き入れたので ある。﹁たとえ、このことは熱帯の労歪力問題の残忍極まる解決策であるとはいえ、何という天才的なことであろう!﹂ とワイベルは感嘆する。而してスペイン・は法王の新発見地分割教書に基きアフリカ海岸に植民地を開設することが許され なかったから、アフリカ黒人をスペイン領植民地に供給する験直を許した他国人の仲介を経て供給されねばならなかっ た。この特権を﹀ωω冨葺。と称し、オランダ入から仏人に譲渡され、ユトレヒト条約の後英人に譲渡された。
ぺーテルゼン女史は﹁奴隷制度時代には︹勢働力移動は自由であるが、栽植地域の土地は固定したものであるが故に、一和田註︺ ④ 室間指向のものであったが、自由労彷制の実施とともにそれは労仇指向のものとなった﹂と云う事は正しい。併し乍ら奴 隷制度の時代には栽植地域が室闇指向性のものである事を強調するあまり、西印度に於けるスペイン人の室閣占有につき 次の如き叙述をなしたことには疑義がある。 ﹁スペイン人は近世初期の植民政策を特徴すけるところの幼稚な.利己弍義を以ても凡ゆる士地を軍に政治的に止まらす更に私法的に所 有した。土着佳民にとっては.その結果は洵に悲しむべきものであった。というのは彼らの故郷は島である故自由な退路が全くなかったか ⑤ ら。西印度の栽植上の室間は黒熱の土地所有者を根絶し、原佳民を鐵滅することによって作られたのである﹂と。 併し前章述べた如く彼らは自から労思する植民でなかったが故に、原住民の労営力を求めて、大アンチルの比較的大き な島のみを占有したのではなかったろうか。勿論原算者の存在は限定された数のものであったにせよ、彼らの存在が前提 となってレパルチミエントスやエンコミエンダスの強制労彷制度の施行が出来たのだ。それが奴隷制度と彼らの気候的適 性の飲如の為に死滅するに到ったのであって、土地占有には印環入を臓滅する必要は殊更になく、彼らの存在こそ当初ス ペイン入の経営の必須条件であったことを論証した筆者の考えと女史の考えとは歪然背馳する。然るに女史のこの叙述は 別の個所で女史が﹁鉱山や砂金の洗鉱が採算に合わぬものとして放棄されたところのハイチ島︹エスパニョーラ︺はその一 部がスペイン領からフランスの手に移った。今やこの島は十八世紀に於ける主なる栽植地域として予想外の繁榮に達し, た。﹂と述べる叙述と矛盾しはしないだろうか。スペイン人が栽植の為に原住者を臓滅してまでその土地を占有して.置 き、鉱山資源の洞渇によってハイチを西半だけにせよ放棄したとは考えられぬであろう。スペイン人の放棄はハイチ西半 に限らなかった。ジャマイカ島もキューバ島も鉱山資源の歓如により久しく顧みられなかった。事実スペイン入は当初鉱山 にその経営が集中され、その結果土人は絶滅するに到り、鉱物の洞渇とともにこれを放葉せざるを得なかった。この価値 鰍人の西印度経管と奴隷勢働力問題 一九
歓人の西印度経螢と奴隷勢働力問題 二〇 のない西印度の利用方法を考えた時に、そこにプランテーションを導入したのだ。併しスペイン入の農業経営は英仏入の それに比してその発展は微々たるものであったのは、彼らの植民的性格による。ジャマイカ島のプランテーションの発展 もスペイン人の放棄せるを英人か占拠して後に、これをプランテーション地域に大発展せしめたことには異論のないとこ ろである。 これらの事実は黒人奴隷の輸入の上にも現れる。 ﹁黒人輪入はスペイン領アメリカでは、英・仏・蘭の植民地の如く大 規模でなかった。フンボルトによればスペイン領アメリカに於ける黒入は全入ロの二十分の一を超ゆることなく、スペイ ン領有時代にあっては総計七、八十万人にして、 一八六〇年のサウス・カμラ躍ナ州に居佳せる数よりも少なかった。こ の少数であった理由は勿論栽植者企業家若しくは政府の偉大なる博愛性に帰因するのではなく、專らスペイン人の経営力 ⑦ の薄弱なる為である。﹂而して西領キューバが今日の如き世界的甘簾栽培地域に発展したのは十九世紀初頭、西領アメリカ 植民地の独立と奴隷制度の廃止後にある。 印非人労彷者素質と比較するに、印思入が精神的並に肉体的に繊弱なるが故に、熱帯低地の労尽力としては非常に責重 なるものでなかったので、十六世紀からアフリカ黒人が奴隷として輸入されることになった。黒人一人の労彷能率は印旬 人四人のそれに匹敵すると評価された。︵既出︶併し乍らアフリカ黒人も亦三旬入と同様に低文化段階にある無智無慾な る自然民族であり、彼らと欧洲文明の賓本主義的利潤追求の意慾との喰い違いは開局に於いて奴隷制度という形態を発展 せしめざるを得なかった。だが彼ら樽入が奴隷制度の下に於いて体力と熱帯気候への適応性とに恵まれる点に於いては印 里人と相違するのみならす、如何なる入選の労彷力と難も黒人のそれを凌駕し得るところではない。而して支配者の手中 にあっては意志なき能率的な機械と化した彼らの労彷力こそは倫理的立場を問わぬならば経済的には輝かしき実績を挙げ ることが出来たのである。
黒人夢働者素質と奴隷制度康止の影響 奴隷制度という不自然な強制制度の下に亡師は体力と熱帯気候への通性に恵まれることにより意志なき能率的な機械と 化したとは云え、一旦この制度が廃止されるや彼らは黒人等張者素質の本然の姿を心おきなく露呈すること︾なった。 ﹁西印度諸島の経済的蓮命は奴隷問題を以て尽きた﹂と云われるのも奴隷制度廃止が与える影響の重大さを示すものに外 ならない。 自由黒人はプランテーションに於ける賃銀がたとえ如何に高くても、叉多くの土地がどこで得られようとも彼らは本来 の原始生活を営む方を好んだ。チゾームに彼らの本来の生活を描写せしむれば次の如くである。 ﹁彼らの国では自己の家の位置を森の中に定めるならば騒々しさから困ることもなく、その家はその附近の資材を以て一日で建てる ことも出面、開墾でもすれば玉黍蜀は年三回作も可能である。併し栽培された作物をオームや動物が好んで乱すから子供の力でそれを護 り得る以上には栽培しない。バナナは種子から八ケ月もすれば實が成熟する。その後は入念な降等をしなくても年々隠亡がある。一種の 馬鈴薯は成長が早く旦つ頑丈である。甘蕪は噌度栽培されたら常に牧穫がある。彼らの周園に成熟するこれらの物と附近の河が彼らに供 給する魚と森で捕⋮える野生動物の肉を當てにすることが出來るから、それで幸福なのだ。彼らが金を必要とするのは塩,ラム酒、耀草し 衣服、燐寸,届物を購入する時だけである。金は若干豊かな隣傍の入の爲に働けばよいし、又魚を干物にして市場に出すか、彼らの必要 以上に土地産物を作れば金と交換出來るのだ﹂と。 奴隷制度廃止はその土地の事情によって影響は種々の形をとって現われた。即ち労握力を直ちに自由労彷力に切換え得 る場合、及び小アンチルのバーバドス島やトリニダード島の如く未墾地少なく入口稠密にして黒人が栽植地を離れては生 活し得ない場合には、彼らは引続さ自由労彷制の下に於いても賃銀労功をしなければならなかった。然るに大アンチルの 英領ジャマイカ島や仏領ハイチ島の如き未墾地多き島にあっては、前述の彼らの労仇者素質により、彼らは原野に入り込 み原始生活を始めた為にその打撃は甚大なものがあった。例えばジ†マイカにては年々輸出額は一八三ニー一八三六年の 欧人の西印度経膏と奴隷勢働力問題 一二
欧人の西印度経管と奴隷鱒働力問題 二二
聞では篤して約三〇〇万養葺なるに・天測〒四六年の期間には二〇〇万の豊凝以下に減少したし⑲殊に仏
領サン・ドミンゴ︵ハイチ︶の如きは純黒入社会であった為に、完全なる経済的瓦解を招き、十八世紀に於いて最大の繁 ⑩⑭ 榮を見たこの島の栽植中心地としての地位は、キューバへ移行して行った。 キューバでは実に直ちに自由労亡者に而して 白人労春画にさえ切り換えることが出来たからである。従って奴隷制度廃止後に於ける労彷力問題は全人種概して対等の 労彷条件の下に労彷を為すに到っては、各人種の気候的適性の差異は一段と明確となり、これを緯る一声興味ある問題を 展開すること∼なる。@@@@O@@@@@o
5①O≦、巴︸×縄”℃﹃O言O日Φ二①﹃目・2回︹プくぎ富OプP、掌臓OO鵬﹃Pで︸犠O”門門00謄一P=”一つじ9し9吻︵伊藤寒星謬︶ 六五百八 ≦げ︻ぴ①︻ 鵡剛揚識 六八頁 ≦、9二5一 晶剛掲誰陣 六八頁 丙9・臣鋤ユ塁℃窪2器三謬p巳93冥◎三。=二昌α2営。覧ψ島。ロ℃㌶昌零騎窪 、三巴夢俸・前掲謬三三一頁 肥。滞屋㊦口 前揚諜 三一七頁 ㌧象⑦凄昌 前掲課 二七七頁 角。閏§目臨●U㎞Φ守一〇7こQoゲ餅審円”︸︵⊆oロす蒔①㏄o露。霞Φ℃h訟謄OQ。・ ¢6ρO︸回ポ70ぎF”=包戸9︶oo岸one9巳昌。宕す一︵δo鵬当量プさG。巴.同・9乙9ご一〇ゴ.マboもφ・ O︸旨︸δH三噂。︾職ト嚇℃唱・騨G。一GQO・ ㌧簿。議窪 前掲謬 二七七頁 矢H内原忠雄 植H民及び植民政策 四一六頁 五 酉印度に於ける白八密命力とその気候的適性 他の何れの人種にも優れて熱帯気候的適性を本来もつている黒人は良き奴隷労勿力を漸落したが、奴隷制度が廃止され自由労彷制の下にあっては彼らはその本然の労誉者素質に立ち還った結果、熱帯労彷の不足と云う困難な問題が惹起され た。西印度に於ける白人労仇力の気候的適性如何が問題化するのはこの時に馬することは木壁芯交に述べたところである が、実際上その対策として﹁熱帯の気候状態に適性を有し、継続性あり且つ進んで彷かんとする労掛者素質を有する労彷 ゆ 力の供給を海外に仰ぐを余儀なくされた﹂と云う事は明かに白人世界力の熱帯に於ける不通格を前提としているもの、様 に解し得られる。 蔽で吾々が熱帯に於ける白入甲山力の問題に繋れる⋮場合ザッパーの考えに基いて、白入を寒国的白櫛と暖国的白人とに 区別して考察する必要がある。なぜならば雨者はいすれも白人と難も気候的適性の上に甚しい差異があることが後に明か にされるからである。西印度史上に於いて白入労彷力の当該地域への導入は黒人奴隷制度廃止以前既に古い時代にあっ た。吾々は先ず塞国的白雲に関する歴史的事例を次に述べるが、いすれも失敗の歴史であることが明かとなるであろう。 その最も古さものは印旬人望彷力の絶滅の結果、代牌労勿力として黒人奴隷の思入と同時に一方では英領、仏領西印度 では白人労勿力の輸入も行われた、所謂白人農奴ぴ。β島−ω豪く勾馨ωがそれである。これは本国に於ける罪入を通常一定期 間西印度の栽植者の下へ奴隷として輪平するもので、英国のブリストル港及び仏国のヂィエッブ及びサン・マロ港より積出 された。彼らの多くは政治犯で本国にとっては危険.分子の隔離の目的と植民地の必要な労彷力供給の目的を一挙にして期 待し得る制度であった。併し黒人奴隷と比較するに臼人農奴は熱帯の太陽下に労仇するに適しないのみならす、通常労彷 期間が数年間に限定されている為に栽植者にとっては前者ほどに価値がなかった。英領バーバドス島で黒人一人二〇一二 五傍であった時に自へ農奴の積荷は早着職工の場合を除けば一〇膀であったと云われる。熱帯栽植に従事する白書労勿者、 の運命は恐しきものであったに相違ないけれど、彼らは生存さえすれば究局に於いて自由の身分を獲得し得るものであっ ② たとルカスは言う。 鰍人の西印度経管と奴隷勢鋤力問題 二三
欧人の西山肥汁螢と奴隷勢働力問題 二四 次に、十七世紀に数十年続行された契約移民ぎ山Φ旨9﹁巴。・暴く麟曇のと呼ばれる制度があって、本国に於いて募集し使 用主が渡航費を堅塁し、食糧供給の代りに煙草三〇〇封度と云う僅かな支払いを移民は受けて三面年間の労農に従事する 義務を負うた。期闇満了後自由の身分となり小家屋と小土地を得たのである。この制度の下に英領、仏領酉印度へは盛ん に白露労功力が輸入され、それに恐い当時儲多かった煙草栽培が盛行され、それは小企業にて実施されたので自由移民も ③ 続いて起つた。 これは史上室前の塞国的白人の熱帯気候馴化の試みであった。その結果多数の塞国的白人が小アンチル諸島に比較的 良く慣れて長い期間辛棒もした。切蓋碧団盛≦鋤巳のは一六七〇年にバーバドス島だけでも五感の白人が居号した事を報告 し、 団辞。ド。。σ舞はスント・クリストーファ島に武器を探るに堪える白人が一万居佳したと主張する。数字には誇張があ む ることは云うまでもないが、兎に角白入が戸外労仇にも拘らす比較的良好に持ち耐えた事を示している。 然るにこれらの玉高に於ける前述の良好な状態は久しく継続しなかった。白人は幾世代も経ぬうちに著しく減少を示し 始めた。大アンチルのジャマイカ島に於いても開拓当時︹=ハ五五年︶人口数に於いて優位にあった白入は漸次急速な減少 傾向を示した。英国は黒人入口の増加を支うる余り白人減少防止法を施行して白人人世に対する黒人を一定率に保持せ布 と試みたけれども、一六九五年には酷使と疾病により白人労高力は大いに払底するに到った。この噌い不安な西印度の報 告が故国に齎らされるや英人は多くはアメリカ本土に赴き、酉印度に於ける白人労心力の補充と云う希望は断πれるに到 つたQプライスは西印度に於、ける北欧労金者の気候馴化の美事な失敗だと云う。 かかる寒国的白人の熱帯気候馴化の失敗の前例は黒人奴隷制度の廃止による熱帯労彷力補充を問題化し、一方に於いて は白入の﹁熱帯気候馴化﹂という語辞の創造によっても知られる如き、 ﹁気候馴化﹂への科学的認識を初めて覚醒せし め、他方に於いてはルカスの述べる如く﹁適当なる黒甜力供給を海外に仰ぐ﹂︵既出︶ という対策を採るを余儀なくされ
た。かくて英領西印度の栽植者が注目した主要なる労仇供給地域はアフリカと支那と東印度とであった。一八三五一一八 七五年の間に於けるアフリカ人、東印度人支那人の輸入総数は二二二、○○○であった。この内自由アフリカ人は約三三、 ○○○、支那入約一七、○○○、東印度人一七二、○OOであった。一八七六一一八八九年には印度人が西印度へ導入され た数は一〇六、七六六で僅かに三二、八四五が印度に帰還しただけである。彼らは通常五力年契約の苦力で、故国よりの渡 ⑥ 航並に帰航の保証を得て契約年聞中だけ労彷するものであった。 英領ジャマイカ島に於いては奴隷廃止後の労自力補充の為に重織的心入たる独乙人の入植を考え、彼らを独乙に於いて 募集し、 一八三四一四一年には一〇〇〇名以上の独記入が渡航し、各地に定著したが、その内最大のものは0っΦ鉱oa ↓o≦βであった。二六二名の独乙人が島の中央部の海抜僅か三〇〇一四〇〇米のこの植民地に入植したのは一八三六年一 月であったが同年七月に生残つたのは一五七名だけである。彼らの中から更に再移思せるものもあっ忙が一八四一年一月 一日には一〇七名に減少しπ。これは黄熱病と鈎虫病の狽獄の為である。医学の未発達時代に自然が如何に鋭き淘汰を行 ったかはこの数を見ればわかる。彼らは他の世界と接燭を断ち、小農として細々と生活を営み黒人との混血を避けて血統 の純正を保持した。然るにこの地理的隔離性にも拘らす、彼らは長淵語を忘却してしまったことは后述の如く看渦され得﹁ ない意義をもつている。一八四一年に一〇七名が一四五エーカーを耕作せるに、 一九三〇年には約五〇〇名が一〇〇〇エ ーカーを耕作している。入植当時死亡数は出生数を遙かに越えたのに、漸次人口増加を見たことは戸外労彷にも拘らす且 つ自然環境は熱帯圏にて海抜僅か三〇〇1四〇〇米の低地であるに拘らす寒国的入種群の代表的な独乙人が完全に気候馴 化していることを示す著しい事例である。 シーフォード・タウン独乙植民地の例は更に喜雨クインズランドの英入や、ブラジルのエスビリツ・サント州の独人の 成功に類型を求めることが出来る。而してその自然環境は熱帯圏にあるがいすれの場合にも熱帯縁辺地域の事例であるこ 鰍人の西印度糎瞥と奴隷勢働力問題 ご五
敏人の西印度経螢と奴隷勢働力問題 二六 とに於いて共通する。従って隣接の温帯の冬季には寒冷なる気団の流入に曝露されており、気温は少ながらす低下する地 域であるか、或いは西印度の如く貿易風の恒常的影響を受ける地域である。従って熱帯圏にあってもかくの如き好適な環 境条件を有する地域に於いては寒国的白人が気候馴化を可能とし彼らの労戦力も熱帯気候的適性を有つといってよいであ ろう。 併し乍ら至急的にはシーフォー.トタウンの独寒入が如何に気候馴化し労彷力気候的適性を有していようとも、彼らは文 化的には本質的に退化せる状態にあると云う事は︷九三〇年に独乙語を完全に忘却し且つニグロの生活水準に低下してい ることをザッパーが指摘する。かかる事例との類似現象を吾々はバハマ諸島に於ける英人に見る事が出来る。いまバハマ の英人と加奈陀オンタリオ州の英人とを比較してみるに、前者は暑熱で且つ単調な熱帯気候であり、後者は枇界的にも最 良の気候地域である。然るに園地の移民はいすれも英国出身で入種も同一である。合衆国独立に際して英本国への忠誠を 誓って合衆国を去った点も同一である。だが今日加奈陀の勤王党の英人子孫は国政を牛耳っているのに対し、バハマの英 藍碧王党の子孫は英帝国中でも最も無能無力な者となり交盲の者が多い。此らの例証より鑑みるに、寒国人種群が熱帯気 候馴化にあたり、肉体的にこれを完成し得た時には、彼らは文化的退化を避けることが出来なかったと云う点に於いてシ ーフォード・タウンの独人の事例と一致を見るのである。されば塞国導入種群の熱帯気候馴化に当り、肉体的に之を完成 すれば随俘現象として文化的退化を避け得ないという一命題を得た。それが正しいか否かを更に検討しなければならぬ。 いま濠洲クインズランドに於、ける英人は肉体的に之を完成し而も裏皮的には柳かも退化していないと云う事実は先に述べ た命題とは明かに背馳する。供し乍らクインズランドの英人の文化水準の高度維持が如何にして可能であるかを検する に、クインズランド甘蕪栽培地にあってぱ白濠主義の下に有色労耐力との競争を人工的に排除し、且つは濠洲政府の砂糖 保護関視によって甘簾企業に高利潤と高賃銀を保証する可能性を創り出すことに依って初めて英人の熱帯気候馴化の輿瞼
が可能とされていると云ってよい。恐らくかかる高利潤と高賃銀は政府の保護関視が廃止され、世界経済の自由競争とも なれば直ちに下落しその為に図入労彷居住地は消滅してしまうかもしれない。だからクインズランドの実験は濠洲の経済 ⑩ 政策のみが可能にして来たのであるから所詮それは帆綱栽培植物と評価されなければならない。されば前掲の吾々の命題 に対しクインズランドの導入の事例が背馳して寧ろ当然であろう。従って自由労彷制の下に於ける労功市場に於いて政府 の何らの保護政策の援護もなく地理的には黒豚社会から隔離された環境に於いて、聞接的には黒人その他の有色労彷力と の競争に伍して術且つ寒国的心入労彷力にして脱落させる場合はシーフォード・タウンの独肉入やバハマ島の英人の如く ・atユーバ島に於ける人種比傘% 調査年次 白人種(支那人elte)有色人種(l Arkび混血働 1775 正792 1817 1827 1841 J861 1877 1887 1899 1907 1919 56.2 56.4 45.0 442 41.5 56.8 67.8 67.6 67.9 70.3 72.3*, *支沸人を含か弘十支那人を含む。 43.8 43.6 55.0 55.8 58.5 43.2 32.2 32.4 32.エ 29.7 27.7十 Bernards : Races in Latin The NTegro in Relation to Other Anierica に撫る。 漱人の西印度経管と奴隷勢働力問題 早瀬現塚として文化的退化を示すと云う事例の方が寧ろ自然の様椙 であるとしなければならぬ。然るにジ†マイカ島の英人の漸次的減 少は直接的に黒人労勿力との競争に伍して敗北せる事例を示すもの に外ならない。 然るに暖国的白人にあっては寒国的白人の場合とは著しい差異が ある。いま暖国的白人の代表的なるスペイン入の領有下に久しくあ ったキューバ島を見るに、黒人奴隷制度廃止される一八八○年まで に約一〇〇万の黒人奴隷が輸入されたと見積られる。然るにキュー バ島に於ける白人と黒人の人ロ比率に於いては概ね常に白人数の方 ⑲ が優位を示している。︵上掲表蓼照︶ それはこの島では奴隷制度時代にハイチやジャマイカ島程にプラ ンテーションが発展しなかったことによる。黒人は数の上から優勢 二七