Title
源異流と森林生態の相互作用−
―泰民族集団形成の生態的要因についての一考察−同
Author(s)
劉, 剛
Citation
地域研究 = Regional Studies(2): 185-195
Issue Date
2006-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/5545
俸一泰民族集団形成の生態的要因についての-考察
一同源異流と森林生態の相互作用一
劉剛*
Thai-Tai:AnExplorationonanlmportantFactorinEcologicalEthnogenesis
-ThelnterdependenceofForestEcologyandEthnicDiversification-GangLiuこの研究ノートは、俸族の歴史的変遷と環境変化の相互作用によって生まれた結果に着目し、俸族は、「百越」群体の
末商と小乗仏教との結合によって生まれた民族であることを明らかにした。さらに、両者が結合する媒介として働いた
のが、熱帯雨林の森林生態や森林農耕の存在、すなわち俸族の存在の「生命環」であることと試みて考察した。
キーワード:俸一泰群体同源異流漢化佛化森林生態 目次 はじめに 一泰一俸系民族の歴史的背景 二俸族一生態的民族の志向 三仏化や漢化する民族集団 おわりに 付記 参考文献時代以後、この百越集団は分化と統合を繰り返し、今
日のような民族分布の構図となった。本稿の問題提起
は、なぜ「俸」はほかの百越グループ(トン、チワン など)と違うのか、なぜ、同じ「俵」でも、小乗仏教 を信仰するグループと、そうでないグループに分かれたかということだ。具体的にいえば、タイ族はなぜ、
中国の西南部で「俸族」というカテゴリーに収められ
ているのかということである。言い換えれば、なぜ、タイ族は「俵」になったのかということでもある。
Whatis'1Thai(Dai)''?andWhatdoes'1Thai(Dai)川mean? このような問題に対して、いままで学術領域でさまざまな議論が重ねられてきた。本稿では筆者の20年間に
わたる東南アジア北部や中国国内のタイ各地での調査
結果を元に、私見を述べてみたい。現代の俸族の実質的な形成を論じる場合、筆者は、
二つの要因の相乗作用を重視したい。一つは、森林生態系の要因によるもの、もう一つは小乗仏教の受容と
いう要因によるものである。農耕を営んでいる俸族は、
今日の中国西南部で小乗仏教を信仰しているグループと信仰してないグループの二つ分けられ、1950年代以
後、同じ「俵」という文字で表示される。百越の末喬
には、「俵」の他、チワン族やブイ-族、水族、トン
はじめにこの研究ノートは、一昨年12月、国際タイ学会の招き
で中国昆明に行き、現地で開かれたタイ学国際シンポ
ジュウムで発表した時のメモをもとにまとめたものである。この発表は反響を呼び、これまでのタイ学研究
に刺激を与え、なるべく早期の文章化を求められていたが、公私の事情により、機を逸し、早や二年が経っ
てしまった。本稿は今回、「地域研究』第2号の発刊に
合わせ、急遼研究ノートとしてまとめたものである。
中国西南地区の南端に暮らしている俸族は、中国南
部から東南アジア北部にかけて分布しているタイ系民
族諸集団と同じく、昔の「百越」という古代民族グル
ープから分かれたものだと考えられている。中国の秦
*沖縄大学人文学部,902-852I那覇市国場5551iu@okinawa-uac、jp
185垣
「地域研究」2号2006年3月 な越人を間越と酪越などと称している。閏越と酪越 も同じように越人グループの一つであるが、趙佗が南海の郡尉に就任してからは、秦王朝の影響がこの地域
に深く出はじめている。 百越という名称ではあるが、実は南越の各分支を指 している。百越は、春秋戦国の間活躍した呉、越両国 の滅亡に伴い、越人が四方に散らばって移住し、指導 者を失ったことにより、さらに分化して、後世に時代 が変わっていくなかで、有名な群、たとえば句呉、於 越、東欧、閨越、南越、西甑、酪越などへと変容した ものである。しかも、相互の衝突はしばしば起こった。 『史記・南越列伝』によると、趙佗の孫の趙胡が南越の 王になった。春秋・戦国から秦、漢にかけて、東アジ アの大陸部社会の中で、戦禍が途切れることなく続き、 しきりに揺れ動いた。南西地区では、昔の越人の群体 から族群の変動が起こり、それぞれの群体が交差して 接触する過程で、群体の意識を強めて、“僚,,(ラオと いう発音に相当)という新しい群体の呼称が出現した と思われる。具体的な例としては、“僚,,、“鳩僚”など がある。 初期の百越群体、それは実際には一つの生態的意義 での文化的分類で、新石器時代から、中国大陸の南の 地域に移住した人々である。それは、次第に生態環境 の違いによる文化的特徴を具現化し、文献上にも目越 文化の特徴として表出されている。これは文献の上で も記述きれている百越群体の文化的顔あるいは文化的 特徴だと思う。 紀元前400年前後に、これらが、共通の特徴の群体を 持ついくつか地区に住み、文化的な発展の中で、地域 `性の差異によって、政治的統合があり、政治の上の統 合現象が現れた。これがいわゆる“呉',と“越”の国 となった。しかし、この広大な地域の中で、これまで その文化的特徴と完全に一致する政治統合体が現れて いないのも事実である。言い換えれば、文化的概念と しての「百越」は、はるかに政治的意味での“越国,, より幅広い。遺伝学の研究によれば、百越群体は枝分かれの過程
族などが存在している。「Whatis"Thai(Dai)'7andWhatdoesmThai(Dai)"mean?」という問題を論じる場合、「俵」
のアイデンティティを最も強く主張する集団のなかで も、雲南省辺縁部に分布する一群が、非常に典型的に 「俵」の文化的特徴を持つものとして注目される。こ の地域は東南アジア北部に近いこともあるが、-番重 要なのは、小乗仏教を信仰しているというポイントで ある。また、この小乗仏教を信仰しているグループと 信仰してないグループで一番目立つ違いは、その生活 の場が森林生態(森林の生活様式)に囲まれているか どうかで、それを左右しているということである。つ まり、森林生態が衰退させられればきせられるほど、 漢民族の農耕スタイル、「精耕細作」(入念に耕作する こと)に近づき、漢文化化され、漢民族の農耕スタイ ルに変容するのである。逆に、豊かな森林生態や森林 農耕(森林のもつ生態学的機能に基づく農耕)の状態 にあれば、精神世界としての小乗仏教の奥義を受け止 めやすくなる。もし、1950年代以後、新中国の誕生と いうなどのような外部からの強い介入による「撹乱」 がなかったとしたら、「俸族」という民族的形成のプ ロセスは森林生態環境に囲まれたまま、日常生活の中 で森林農耕を営み、小乗仏教を精神生活の中心にすえ て、民族形成や民族結成などを進めていった可能性も ある。この研究ノートは、以上のような観点から、タ イー俵研究に、新たな提言を試みるものである。 一.泰一俸系民族の史的背景について 1.百越‐僚‐泰-俸族の史的変遷のプロセス 紀元前221年頃、秦始皇は戦国時代に存在した6カ国 を併呑して、史上初の統一帝国である秦を創建した。 その後、楊越を攻略して平定し、その地に桂林、南海、象郡を行政単位とし設置し、罪を犯した庶民をそれら
の地方に移住きせ、彼らを越の人々と約13年にわたり 雑居させた。そのことが、古代の族群の分化と結合を 生ぜしめた。これは『史記・南越列伝第五十三』に、 「秦時已並天下,略定楊越,置桂林、南海、象郡,以諦民,與越雑虚十三歳。」と記きれているおり、このよう
186でi折江省を中心とする東越と、版納を中心とする西越 の二つに次第に分かれている。“最新の遺伝子人類学の 研究によって提供された材料では、染色体DNAは民族 の分類に対して精密な分析を行うことができる。その
資料の主な成分分析によって百越民族の系統的な遺伝
の構造は三つの特徴を示す。百越と接触した人間集団のなかには、百越の遺伝子のタイプを受け入れた集団
がある。しかし、遺伝子の研究者はこの結論に対して、
かなり慎重だが、本稿において討議する対象としては、
主にこの意味での“西越”のことをいう。一方、言語文化の上で百越に同化した別の文化系統
に属する民族を百越の遺伝子的研究の対象にすべきで ない。(これがまた史的研究の中、民族の“同源異流” に対して“異源同流,,の原則を指す。筆者注)。実際には、このような研究範囲としては、さらに四川、重慶
地区を含むことができる(王:2004)。この点について、歴史的資料の証拠がある。「新唐
書・南蛮伝下』の記述により、南平僚と呼ばれる集団
は、今日の四川省の武隆県、南川県から責11,|省の桐梓県、正安県、道真県、務川県のあたりに居住していた。
この一帯は河谷と平地であり、その地は“瘡痩”(マラ
リア)が多い。山には毒草があり、沙風やマムシがい る。,,“人々は高床式の住居に住み、階段で出入りして いる。それを乾欄と言う。婦人は二枚の布をあわせて、 その中から首を通す、それを「通桾」(貫頭衣)と言う。”"その王は朱氏と言い、剣蒻王と言う。,,“また烏武僚と
いう集団があり、その地域には瘡気の毒が多く、その
毒に当たった者は薬を飲むことができない。そのため自ら前歯を抜いておくのである。,,以上の記述から、彼
らがすでに漢文化に溶けこみ始めていたことが見て取
れる。“貞観三年(紀元629年)、自ら使節を派遣して金品を捧げ、その地は楡州(重慶)に属した,,(尤中,1998)。
もし、資料が述べている事柄は今日の俸族に置き換え
ることが可能なほど、その生活の習俗が今日の俸族と
まったく同じである。 2.俸族の文化の位置付け泰一俸族は形成や発展の過程のなかで、ほかの民族
グループを融合し、多種の人種や民族の成分を融け合わせることがあった。つまり、それは複合、重畳的構
造が存在したということである。それでは、泰一俸族
(注2)の民族的境界線はどこにあるのだろうか?中国 の1950年代の調査と認定によって、いわゆるチワン・トン語支の群体の中で、雲南省に分布しているThai,
Daiの部分は俸族という名称で呼ぶこととなった。こ れは主に自らの意志による自称をもとに、社会や歴史 の情況と結び付けて作り出した-つの政策的判断であ る。しかし、俸族の内部は、宗教と生態の文化などの 方面から考察してみるなら、その複雑な生業の状態と 民族の特徴は明らかである。例えば、小乗仏教または上座部仏教を信奉している地域あるいはグループと、
それを信奉しない地域あるいは、グループがある。ま た、おもに水稲の耕作を従事するグループと陸稲などの畑の農耕を生業の中心とするグループや地域がある。
経典的俸文は、主に今日、思茅地区にある孟連県
の俸族の支系である“俸艮”によく使用されている文字で記述した、仏教の経典を記録した文字であ
る。俸族の出身である研究者は経典的俸文を使用す
る文字について言及する時、次のように指摘している。
"過去そして未来のある時期までの間に、経典的俸文
が使用する文字はそれぞれの俸族の支系の間で文化交
流の手段ときれ、同時に、まだ国内と国外の各俸族
(泰、樟)の間にある文化交流の手段とされるだろう。
もしいつか、経典的俸文が使用する文字が消滅したら、
各I泰族(泰、揮族)の間をつなぐものもなくなってし
まうだろう(劉,2004)。 俸族は、歴史上で愼(雲南の略称)族と同じではなく、越族とも異なる。その民族性の境界は、宗教つ
まり小乗仏教文化圏の拡大如何によって左右されてい
る。実のところ、今日のいわゆる“俸族',という概念
は、1950年代以後、民族識別工作が生み出した政策民
族の産物である。文化の面から見ると、俸族は小乗仏
教の文化受容と漢民族の儒学文化受容のような二つ顔
187厩霊フニ、
「地域研究」2号2006年3月 を持つことが観察できるが、つまり、仏教を信奉す る俸族と、仏教を信じない俸族、トン族、布衣族、 水族、チワン族などに分かれるのである。その古層は まだ今日の四川省と重慶地区の漢民族の中にも、いく つかの文化的要素として残っている。『史記・西南夷列 伝」には、百越族の群が南西に分布していたという記 述もある。この記述によると、百越のこの地区での分 布や構図は、東に酪越、西甑、西に愼越と樟に分け られる。前者は主に広西西部、雲南東部、ベトナムの 北部に分布し、後者は主に雲南とラオス、ミャンマー とタイ北部に分布している。 化の民族性帰属は、漢儒文化化や仏教文化化をどのよ うに受容しているかによって理解されると思われる。 言い換えれば、俸族文化の民族'性帰属は、それが漢儒 文化化を選んだのか、それとも仏教文化化を選んでい るのかによって、よりよい理解ができる。この両者の 中間的存在こそ、広範域に分布しているいわゆる漢俸 (旱)族である。これらの旱俸族あるいは漢俸族は、 徳宏の地区の漢俸族あるいは旱俸族よりは、明らか に文化的、生態的面で上位に位置づけられ、俸族の集 住しているもう一つの地区である徳宏州、漢俸族は生 活あるいは生存環境は明らかにその他の漢俸族より比 較的良好だ。例えば、分布する地域が集中しているこ とや土地が肥沃で、交通の便が良いなど、「天時地利」 の要素で他より優位にあるのである。 では、具体的に言って、彼らのどこが老漢族より優 れているか。タイ族の人々は、酒養力の強い森林農耕 に培われる上、良好な生業の条件をバックに、農地の 一部を用いて時間と精力を活用して、自分の基本的な 消費財である農産物を十分生産することができる。そ れで彼らは、ある程度ゆとりのある生活様式の中で、 比較的短い時間で精力的な生産活動を行ない、自ら周 囲の漢族と一線を画して区別する。だからこそ、かれ らは自分が周辺の漢民族より優れていると思っている のである。つまり、私達は上述の事実によって俸族の 分類に対して問題を提起することができる。そして、 漢(旱)俸族の存在はいくつかの問題を説明する資料 となる。 それでは、この文化は具体的に言って、何を示唆す るのか?筆者は、俸族のこの“文化”が、今日の中国 西南部とタイの北部にある東南アジア大陸部地区の高 原の盆地と河谷の地帯で形成する生態の複合文化と小 乗仏教は生む生態性文化を結び付けて、そしてそこか ら導き出される族群の境界線と考えている。 二.俸族一民族の生態的志向 1.俸族の民族性を考察する時、ある事実に気がつ く。それは俸族にとって、民族`性を維持する主要な手 段とは、その宗教的特徴を維持するということに他な らないということである。つまり、その民族性の変容 とは、宗教的な特徴の変容に他ならない。今日、俸族 の集住的な地区である中国雲南省の西双版納に住む俸 族の社会では、潤槍江(メコンの上流)の南と北の俸 族はそれぞれ文化的志向の上で、すでにある程度差異 がある。それゆえ二者は異なっている存在として見え てくる。なぜこのようなことになるのであろうか。そ の背景はi勵倉江以北の生態地理的環境により明らかな 変化が生じているからである。潤槍江以北の俸族は潤 槍江以南の俸族のように仏陀に高い敬意を示さず、同 時に、漢族の農耕の方式も南に比べて彼らの生活の奥 に深く入り込んでおり、俸族の生態文化を特徴づけて いる森林農耕の色も比較的減少している。言い換えれ ば、俸族の文化が森林的農耕の文化から“入念に耕作 する,,漢族の農耕の文化に向かって移行し出すことに より、生活様式の変化が必然的にその民族性に変化を きたしたという現れとも考えられる。歴史上発生した 少人数の族群がしばしば漢民族に吸収されてなくなっ た事例がなぜ珍しくないのか、その原因はここにこそ あると筆者は考える。 俸族の文化の変容と受容を考える場合、俸族の文 2.中国の史籍の記載よると、紀元5世紀前後、雲 南東部とラオスなどに分布していた“白衣”は、白衣 決死隊,,を組織し、南詔の王権に対抗するほどの勢力 188を有した。唐の安南都護府(この事が奨緯「蛮書j4巻
にみえる)に対抗して活動する余地もあった。俸文の
史籍『ilib史」の記載によると、紀元1180年(宋淳煕7
年)、俸族の中に-人の大首領の帖雅真が現れ、彼が
全西双版納の30数箇所の盆地を統一して、俸族を主体
に、景洪を中心とする“景竜正殿国”を作り上げてい る。詔法王(一般的に中原の歴代の皇帝をさす)を共 主にして、詔朧法菩提桁(南宋時期の大理国王だった段興智のこと)を受け入れ、彼からトラの金印を受け、
-地方の領主として指名された。帖雅真が位に登る時、帖雅景洪および孟交(交趾、ベトナム)、藺那
(泰北)、蘭掌(ラオス)などの首領はすぺて祝賀に来
て、非常に盛大で且つ厳かな滴水儀礼式典を行い、熱
烈に祝ったとされている。確かに、この地区内にある盆地に住む住民の多くは、
自分が“タイ族”だと認識している。さて、Whatis ''Thai(Dai)i'?andWhatdoesmThai(Dai)"mean?筆者はいわゆる“タイ族,,が名称を同じくしてはいるが、実際
には仏陀を信じる部族と信じない部族の二者に分けられると考えている。しかし、今日外部の人々の印象で
は、西双版納のタイ族(水俸族、小俸族、俵11lb)の
ように、俸族はすべて仏陀の信者であると理解されて
いる。が、実はそうではない。タイー俸族群体の人々 は、何世紀もの発展を経て、紀元10世紀以後、これらの小さい盆地の中で、次第に足下を固め、統合と発展
の過程で繁栄の徴候が現れたのである。紀元1238年タ
イ王国が形成され、タイ人による国家の歴史が始まっ
た。そのほかのタイの「群体」は確かにこの時期の前
後に、徐々に移り変わる-つの過程を経験したと考え
られる。(何,2004;39-56,段:2004:57-61;苑:1991-3,
1989増刊;播,2001-1、)つまり、タイの「群体」はこ
の地区で、過去を受けとめ未来を開く文化的適応を行
ったのだ。『史記・南越列伝』によると、始皇帝の頃、
50万余りの秦の兵が南下し、越人と8年間交戦した。
秦はやっとこの地区を統合して、嶺南地域には桂林、
南海、象郡を設けている。では、我々は今日のタイ族の中に、仏教を信じない
人々がいることをどのように理解すればいいのだろう か?現在の蒼梧、郁林、合浦、交趾、九真、南海、日 南などの広東に居住する「群体」は、仏教を信じない群体に分類されている。つまり、僚人の群体を有する
この地域の「群体」が、中原文化の地方に隣接してい るため、漢人の群体に多く接触した結果である。『新唐書・南蛮伝下」の記載によると、顕慶3年頃、今の桂
林一帯の羅、實生僚多胡桑を酋長とする一族が中央政府に帰服している。また、同書には、今の四川省宜賓、
濾州一帯の葛僚は、酋長を王に尊び、号は“婆能',を
名乗り、区域への送迎には皆で旗を掲げたという記載
もある。これは、今日の俸族の言葉でいう「ポラン」
に相当する。意味は首長である。出入りにはすでに漢 族のように旗を揚げて、名称を付けているところから 見ても、この頃すでに漢民族化への兆候が現れている ことが分かる。周知のように、中国の南方地域では、昔から瘡気が
強く、かつて中央の政権の統合の天然的障害であり、
漢文化浸透の南限ともなった。漢の陸買が南越に着い
たとき、南越の王である趙氏は特にそれに恐縮し、天
子に向って手紙を書いて謝った。曰く:“蛮夷である
大長、臣である佗の私は、昔、南越が漢の高後に隔離
し差別され、私はひそかに長沙の王がよく議言を呈す る臣下であるものだと疑って、またその遥か遠い地方で、高後が趙佗の宗族を殺し尽くし、祖先の墓を掘り
起こして焼却してしまったことを聞き、そのため自暴
自棄になって、長沙の辺境の地区を侵犯した(『史記.
南越列伝第53』により)。前述のように、そこは“潭瘻',
(マラリア)の地である。『史記・索隠」によれば、そ
の他の列伝中に、南方の人はその性格が「陸梁」(強暴
や横暴の意味)であるため、その地の人々を「陸梁」
と言うとある。これにより分かるのは、辺境地域の潭
気は確かに漢文化の浸透の障害になるということだ。
どのように漢文化がその地域までに影響させ、その地
の環境に適応して広く開拓するかが常に歴史的課題で
もあった。泰一俸系民族の分布と構図からみて、インドのアシ
189C訴霊フニーロ
「地域研究」2号2006年3月 俗文化の要素からチワン族、タイ族、俸族、老族(ラ オス)、揮族(ミャンマー)の間に血縁の関係がある ことを証明する豊富な根拠を示していることである。 (苑,2000;1-14;苑,2004:20-29;鄭,2004:38)。彼ら は仏教に近いため、俸族、タイ(泰)族、老族、揮族を 形成してきて、漢文化に近づき、融合してチワン族、 トン族、布衣族などの民族を形成したのだ、と筆者は 考えている。 サムに生活しているタイ(俸族)族群のその出自は、 中国国内の徳宏地区のタイ族からの枝分かれしたもの のようである。しかし、それは現地のその他の二つ の俸族、つまり“俸那”と“俵i肋”とも文化の面で異 なっている。これはとても興味深いことである。実は、 中国国内の俸族の“俸那,,支系が出所である可能性 もあるのだ。『俸漢大字典』によると、Ahom(阿洪) について次のように記載している。“阿含人は、仏暦 1700年(紀元1157年)頃、インドアッサム邦に移動 (移籍)した大泰族の一つである,,。彼らは約700年前に 中国の元代に相当する時期、今日の徳宏州瑞麗県に存 在していた“孟卯国”から移って行き、しかも、紀元 1230年(仏暦1773年頃)から紀元1820年(仏暦2383年) までイギリスの植民者が到来するまで、その地域で伝 統的な生活を維持していた。 俸族の物語「谷魂のおじいきん」は、俸族の先賢 の文化と仏教の文化が接触して適応する過程を反映し たものと言い伝えられている。また、「谷魂のおじいき ん-俵・仏の文化交流の成功的合作』という論文の中 でも、俸族と仏教との融合について語られている。そ れは対立から和睦までの両者の閲ぎあいの過程を示し ている(劉,2004:127)。 宗教の祭祀は俸一泰民族集団の生活の中で、きわめ て重要な位置と作用を占めている(器11992)。たとえ ば水、森林と稲作の関係に対する深い認識には、哲学 的な考えや思考のような意味合いが色濃いと強く感じ た経験を思い出す。筆者はかつて1980年代後半、紅河、 思茅、文山などほとんどの俸族地域を踏破し、潤槍江 の東に分布している俸族の村で、俸族の生活環境を 調査研究したことがある。また、言語の基本語彙、人 の体質から住宅、飲食、地名、“天,,への敬服、詩歌の 韻律、音楽、月食の伝説、遺骨の体質的測量、移動・ 移住、住居、新房儀礼などを調査した研究者や、“都額 (ある種の水怪の物語(人)),,への信仰、首領が始める 春の祭農の習わし、銅鼓の使用、芦笙を吹<、ビンロ ウジ、男女が川で一緒に入浴することを指摘した研究 者もいる。これらの研究の成果の一つが、敬牛など民 3.中国雲南省紅河川に分布している俸族のほとん どは、小乗仏教を信仰していない。流域の俸族に関し ては、前述したように、筆者は1985年頃、実地調査を したことがある。また、今から4年前、関連する研究 成果を発表してもいる。(鄭,2002)。以上を帰納すると、 以下のようにまとめられえる。 紅河の上流域、俸族の比較的集中している新平県で は、俸族の大多数は花腰俸族であるが、緑春県の騎 馬露にも俸族が住んでいるが、この地を代表する俸 族は、花腰俸族である。紅河の上流には、主に俸 瀧、俸鰯、俸雅族と自称している三つの支系がある。 中、下流地区では、それぞれ俸端、俵iIb、俸尤、俸 栗、俸郎、俸涼などの俸族グループがある。このよ うな俸族は花腰俸と違ってさまざまの名前を付け加 えている。例えば、黒俸、紅俸、白俸などである。 殆どの俸族が居住する“士掌房”は鐸族のものとほ ぼ一致している。その“土掌房”は葬族にとって典型 的な住居の造りであり、紅河流域内外の舞族とは基本 的に同じである。彼らは俸族より更に前に紅何の流域 で定住していたのかもしれない。現地の俸族が葬族文 化の影響を受けていても不思議ではない。上流域の俸 族は漠砂郷と腰街郷に分布している。その自名称はそ の文化と関係する。つまり、“+,,とは、この地域 の俸族の言葉で“漢人”の意味であり、だから、彼ら がほかの民族に“漢(旱)俸族,,とも称されている。こ の地方の俸人が歴史の上でかつて漢族と解け合ったこ との現れでもある。金平県の猛拉露の俸族の中でも 類似する伝説がある。傑物(水俸族)、俸郎(黒俸族) 190伝統文化のシンボルである祭りのことを例にとって みたい。新平県の漠砂鎮にある俸族の伝統的祭りであ る花街祭は、すでに1991年2月27日に復活し、そのほ かの地区の花街祭もその前後に復活した。それを機に、 現在すでに現地の花腰俸族にとって一年の中で、いち ばん盛大な祝日になった。それらは現地にある観光開 発によって現れた伝統復興の現象で、決して彼らの民 族性の自然的強化ではないと思う。 以外、すべて花腰俸族と称している。“-F”はつまり 漢族を指す。流域の中、下流の地区で、先ほど述べた ようにそれぞれ俵端、俵ilij、俸尤、俸栗、俸 郎、俸涼などの俸族グループが存在している。彼ら は、歯を黒くして、居住にも土の券士で築く平らな屋 根を使う。あるいは三階建ての“士掌房”によく住む。 周知のように、紅河流域は多民族が雑居する地帯で ある。その主な民族はハニ族、葬族、漢族、白族、ラ フ族、チワン族、ミャオ族などがある。俸族はこの地 帯で人口の最も少なく、分散しているグループである。 流域上流の新平、元江の二つの県を例にとると、新平 県の葬族の人口は116,416人で、総人口の47.3%・俸族 の人口は38,594人で、15.896を。漢族の人口は75,816人 で、308%、その他は姶尼族や拉帖族などである。元 江県では、ハニ族の人口は65,096人で、3896.鐸族は 37,196人で、ZL996o俸族の人口は20,051人で、1296を 占める。漢族の人口は39,334人で、23%だ。現地の俸 族の住居は“士掌房”と呼ばれる。紅河上流の花腰俸 族はその他の地区の俸族と同じように、恋愛するのは 自由である。この一帯の俸族は元来、乾燥且つ暑い河 谷の熱区に居住する習」慣があるので、男女の青年の恋 愛時期や結婚は、比較的早い。16歳、17歳になると結 婚するのは普通のことである。さらに早い年齢で互い に“泡帽”や“泡哨”(男女が遊び戯れるの意)ができ、 各種の祝日に恋愛することができる。ここの最も典型 的なのは「遇花街」(祭り市へ行く)である。昔、同 じ俸族でも、違う支系の間では、婚姻を結ばなかった ので、大多数は一つの村落の中で、婚姻を結ぶのであ る。毎年春に全村人はガジュマルの木の下で、盛大で 厳かな祭祀活動を行い、ブタや牛を殺す。これを称し て竜に祭るという。天上の神に、天候が11頂調で、五穀 豊穣であるように祈るのである。春節(旧暦の正月)、 彼らは歯を染めたり、刺青をする習わしがある。今日 も多くの人、特に若者たちのなかでは、学校で教育を 受け、仕事に従事し、中国語を話すことができても、 依然民族の言語は原地タイ族の日常生活の中で主要な 言語として使われているのである。 4まとめていうと、このようにいくつか情況を見て きた私達は、以下の判断をすることができる。俸族は、 ひとつの漢文化化と仏教文化化の間に介在している存 在である。言い換えると、俸族の民族的特徴は、一つ の基本的な事実に根ざしている。要するに、俸族は悠 久な歴史の由来を持つ民族集団で、その血縁に基づい ている民族の群体は広範に中国大陸の南部と東南アジ アの北部に分布している。また、その近隣の族群は中 国で、チワン、トン、黎、水、布依、給姥など、東南 アジアでは、ベトナム、ラオス、ミャンマー、タイ、 インドなどの国に分布し、同種あるいは類似する言語 を使う集団が存在する。中国の1950年代の調査と認定 によって、いわゆるチワンートン語族に属する群体の 中で、雲南省に分布しているThaiandDaiの部分は俸 族と決められた。重要なことは、それが彼ら自らの意 志で決めたことであり、社会や歴史の情況を結び付け ることによってなされた-つの総合的な判断であると いうことである。 以上はまた、以下のようにもまとめられる。一つ は俸族は、漢儒文化と仏陀文化の間に介在している存 在であるということであるが、このような見方だけで は不十分で、依然として俸族は俸族である形成的構 造を解読することはまだできていない。さらに、俸族 は水に近い生活をするだけではなく、また、佛を崇拝 して、小乗仏教を信仰している。霊とか魂を信じて、 自己修練や、自省などの文化慣習の特徴が存在するこ となどからいうと、小乗仏教を信じている俸族は、自 律や自己救済を提唱しているが、普世的(大乗仏教の 191
厩戸、
「地域研究」2号2006年3月 の文化と社会の姿は優れている感じがある。また、版納の俸族を二つに分けて観察することができる。潤瘡
江の北側の俸族は漢族に接近し、漢文化化きれる傾向 が明らかに強いし、潤槍江の南側の俸族と比べて文化 の変化の傾向や志向はだいぶ違う。その変化の背景に は、潤槍江以北の生態環境の状況が明らかに変化し、 潤槍江以北の俸族は潤槍江以南の俸族のように、仏 陀にあまり尊敬を払わず、同様に、漢族の農耕的方式 も比較的深く入り込んで、タイ族の生態文化の色も順 次減っているという状況がある。 宗旨)な民族的性格を持っていない。これは、彼らが 百越集団の末喬であるほかのグループとは区別きれる 民族境界線のひとつである。彼らが歴史的由来や移住 のプロセスの中、同じグループ内部でも外部環境要素 の影響(たとえば、生態的、社会文化的)によって再 分化された。その一つの象徴は、小乗仏教を信じる部 分と信じない部分という差異が生じたことである。こ のような区別が生まれた原因は、主に内的でその群体 の生活文化様式にある。つまり、俸族は良好な森林生 態環境と熱帯雨林気候の酒養や加護により、自ら百越 の末喬として小乗仏教と出会って生まれた新しい民族 グループとなったということである。これにより、彼 らがほかの百越集団の末喬と区別きれるのである。 2.筆者は、民族の識別より前に、俸族は、ほぼ文化 の方面で一種の漢文化化への道を選択し、ダイナミッ クな移行や変化の過程の中にあると考えている。言い 換えると、俸族の文化の民族性帰属はいずれ漢文化化 や仏教文化化のどちらかに帰着しなければならない。 これは俸族の民族統合や文化理解にとって非常に意義 のあることと理解する。例えば、今の俸族、その漢文 化化の傾向は非常に明らかで、民族識別などの原因で、 その民族名称の入れ替わりが随意に変更ができないけ れども、民族のダイナミック'性は決して消えてはいな い。中国社会の巨大な変遷に従って絶えず調整して適 応している。例えば、仏陀の寺の僧侶における単一言語の教育からバイリンガル教育への学習過程の出現、
居住する形式の変化、服装の変化、用材の変化、生活
習`慣の変化、価値観の変化などである。俸族は一つの生態的性格を持つ民族集団で、俸族
の文化は一つの生態的要素と社会、文化的要素の結合
の産物である。 政治や政策の範祷から見ると、俸族は確定している。 しかし文化と生態などの伝統の要素から見ると、俸族 は変化の中にある。 三.仏化あるいは漢化する民族集団 1.私達が俸族の民族'性を考察して分かるのは、タ イ族にとってその民族性を維持する一つの主要な手段 あるいは方式は、その宗教の特徴を維持することに他 ならず、宗教的特徴の変化が起これば、民族'性も変容 するという事実である。俸族に関していえば、その生 態`性にある変化が発生する時にも、民族性に変化が生 じている。例えばその生活様式にあって、文化の要素 が環境の要素を主導するとき、彼らは小乗仏教に親和 感を持ち、水の近くで生活し、乾欄に居住して、仏像 に水をかけて、財物を仏に捧げて、お経をあげて瞑想 する。もし生態環境に巨大な変化が発生するならば、 漢族文化に融合、吸収され、漢文化化現象が現れる。 これを歴史的視点で見ると、中国国内では仏陀を信じ ない?族地域が生まれるという変化と、横の方向で見る と、建国の後、版納のタイ族の社会的変遷、特に潤槍 江以北(普紋地域など)のタイ族内部の社会的変遷を みることができる。前者は、水に近いところで生活し ているが、仏教と縁が薄くなりつつ、しかも漢族生活文化に近くなるため、その文化の特徴は漢文化化きれ
たといえるだろう。後者の場合、潤槍江両岸の版納俸族を例にとると、水に近いし、十分な水源を持ち、森
林生態に囲まれ、仏教と縁ができて、そこでその俸族3.版納は生態的要素が比較的優位を占めるのに対
して、徳宏地域では漢文化化が優位を占めるので、その他の俸族も漢文化化への傾向は著しい。その間に介
在して且つ分布するのは、範囲も広い漢俸族や(旱)俸
192族の民族集団である。これらの漢俸族は版納や徳宏
の俸族より生態環境や社会文化などの側面からする
と、比較的下位にいる。例えば、徳宏州の俸族は分布
地域が集中し、土地は肥沃で、などの優位に立ってい る。 俸族自身は一つの生態環境に優遇きれて、文化的品位のかなり高い民族で、彼らは伝統の上で漢族を必ず
しも重視するとは限らず、もちろん彼らが周囲のいわ
ゆる古い漢族に対して言う“ホホテーン,,(俸族がそ
の周囲の山上に居住する漢族を卑下して使う言葉)とい
う言葉は、一つの例である。それでは、彼らのどこが
老漢族より優越しているのか。調査研究の後で発見し
たことは、彼らは生態環境の方面でまだ豊かな地位に
あるということである。これは宗教に限らず、文化お
よび生活習慣の上で、さらには民族の精神、価値観、
男女の関係、“ジェンダー,,(文化的性差の意識)など多
くの角度からすぺて優位を感じ取ることができる。彼
らはいつも小乗仏教の“清潔な身が遁世する”の思想
に助けを借りてその周囲の山地の民族を統合し、それ
ぞれの地方の平安を求める。しかし、同時に農耕文化の背後にいる巨大な漢民族と比較して、俸族は小さい
民族で、勢いの弱い族群である。だから、漢族の政治
的勢力が全部で力を合わせて到来した時、彼らは一定
の選択をし、その結果、漢文化化の傾向が現れてきた。
これは思茅、紅河、文山など俸族の社会と文化の変遷
中で容易に見て取れる。西双版納と徳宏といった国内
の俸族が大勢で集住している土地でしばしば見られることである。私達はタイ族の分類することを通して問
題を見つけることができる。例えば、漢俸族や旱俸
族の存在はいろいろな問題を解き明かしているといっ たように。 からの異源同流という結合があったと言わなければならない。この中のいわゆる“文化”は決定的な作用を
果たすことができた。それでは、このいわゆる“文化,,
とは具体的に何を指すのであろうか。筆者は、俸族のこのいわゆる“文化”は、百越末高
としての俸族が、中国西南部とタイの北部、いわゆる東南アジアの大陸部地区の高原にある盆地と、河谷の
地帯に適応して生み出した生態的文化と、小乗仏教文
化とが結合して形成された個性がある俸族文化と考え
る。ここから俸族文化の性格や族群辺界(ethnic boundaries)を特定したい。俸族もまさにこのような 原理に基づいてその歴史の過程の新しい展開をみせて いる。前に述ぺたように、中国の史籍は紀元5世紀前後、
雲南東部とラオスの接合部に分布している“白衣,,を 記述している。彼らによって構成された“白衣決死軍”が南詔の王権に対抗することができた勢力で、共同し
て唐の安南都護府(この事が奨緯「蛮書』4巻にみえ
る)に対抗する勇気があったことで知られている。紀
元10世紀の元代まで、その際の俸族の活動範囲では、 "南西の蛮、百夷(タイのこと)は一番盛んで、北は吐蕃に接し、南は交趾(ベトナム)を突く。風習は恐ら
く同じだ(元李京『雲南志略」)"・榛文字で記録きれた史籍『ilitl史』は次のように語る。紀元1180年(宋淳
煕7年)、俸族の中に1人の大首領帖雅真が現れた。
彼は全西双版納の3Oあまりの部族を統一して、俸族を
主体として、景洪を中心した“景竜金殿国,,をつくり
あげた。かれらが詔法王(中原の歴代の皇帝をさす)
を共通の王とし、詔朧法菩提行(南宋時期、大理国主
段興智のこと)を受け入れ、彼からトラの金印を賜り、
一地方の領主として指名された。’'1日雅真には4人の子
がいて、長男の老恩榴は、藺那景線に封ぜられ、次男
の岩扁は猛交に封ぜられ、3男の伊季栂は藺掌に封ぜ
られ、4男の桑凱拐は父王の土地と位を継承した。こ
のことは、紀元の12世紀前後から、タイの群体はある
いは大きく発展したことを示している。そこでは、小
乗仏教を背景とする政治的統合が重要な役割を果たし
4.今までのところ、俸族の研究を通して究明した
のは、俸族の民族を結ぶ群体は一つの人種あるいは血縁の集合ではなく、一つの文化的意義での存在である。
結論的に、彼らが6,000万人の規模を形成する過程の中
で、内側からの同源異流という分化があり、また、外
193Ci;T霊フニ、
研究ノート 「地域研究」2号2006年3月 ていると考えられる。 らを「族群」とは称さず、「群体」と称している。これは彼ら が単に英語ethnicgroupという言葉が意味するものと単純にイ コールな存在ではないと筆者が認識しているためで、あえて 「群体」という言葉を使用することで、筆者独自の彼らに対す る認識を表現している。 むすび 本稿では、俸族の歴史的変遷と環境変化の相互作用 に着目し、俸族は、「百越」群体の末喬であり、小乗 仏教思想の受容によって生まれた民族であることを明 らかにした。この両者の結合の媒介となったのが、熱 帯雨林の森林生態や森林農耕の存在、すなわち俸族の 存在の「生命環』に他ならないという点について考察 してみた。 参考文献 陶雲逵,1940年代I車裏撮夷的生命環」出版社不明 謝遠章,1989,「泰-俵古文化中的華夏影響及其意義」J東南亜』 (雲南省社會科學院東南亜研究所,昆明)1989(1):16-18. 謝遠章,1990,「再論泰一俸古文化中的華夏影響及其意義」,『東南 亜』(雲南省社會科學院東南亜研究所,昆明)1990(3):17-18. 張荷,1991,「呉越文化』遼寧教育出版社,藩陽. 眺荷生,1946,『水搬夷風土記』雲南人民出版社(2003年重印本), 昆明. 黄惠I昆1992,「從越人到泰人』雲南民族出版社,昆明. 泰漢大辮典編輯組,1994,「泰漢大群典』商務印書館,北京. 朱徳普,1996,『俸族神霊崇拝筧樅』雲南民族出版社,昆明. 尤中,1998,『中華民族發展史く四〉(列印稿)j雲南大學橘案學 系,昆明. 播其旭,2001,「從地名比較看壯族與泰族由同源走向異流」「廣西 民族研究j第1期:84-90. 列努・威差卒,1996,『阿洪人的歴史:阿洪栂蘭基」AmarinPrinting andPublishingPublicCompanyLimited,泰國曼谷. 李輝,2004,「百越遺傳結構的一元二分跡象」『廣西民族研究」I 2002年第4期:97-100 局耀文・羅美珍,2001,『俸族方言研究』民族出版社,北京 紅河|洽尼族鐸族自治洲民族事務委員會(編川1989J雲南省紅河 崎尼族鍵族自治州民族志』雲南大學出版社,昆明. 李榮夢,1983,『雲南水資源及其開發利用」雲南人民出版社,昆明. 王國祥,2000,「新平南城文化生態資源調査』目印本,昆明. 新平鐸族俸族自治縣民族事務委員會(編),19921新平葬族俸族 自治縣民族志」雲南民族出版社,昆明. 新平鐸族俸族自治縣縣誌洲公室(編),1986,『新平鐸族俸族目治 縣概況』雲南民族出版社,昆明. 元江陪尼族隷族俸族自治縣民族事務委員會縣誌瀕公室(編), 1991J元陽蛤尼族葬族俸族自治縣民族志』雲南大學出版社, 昆明. 鄭曉雲,1997,「社會鐘遷中的俸族文化」『中國社會科學」第5 期:112-115. 鄭曉雲,2002,「紅河上勝花腰俸的文化與當代愛遷」『国立民族学 博物館研究報告』(日本)26(3):1-6 政協新平葬族俸族自治縣委員會(編),2000,『新平葬族俸族自治縣 文史資料選』第10輯,政協新平舞族俸族白治縣委員會.新下. 劉剛,1995,『發展的選樺一社會愛遷途程中的雲南民族集圃』雲 南民族出版社. 謝辞 筆者が民族研究の仕事に従事して、あっという間に20年あまり が過ぎた。本文は研究メモという形ではあるが、目的は俸族の形 成と発展変化についての一つの新しい認識を示すことにある。 1980年代半ば、緑春県の騎馬填の花腰俸の調査をしたとき、 当時の県長李先尤氏にお世話になった。遅ればせながらこの機会 を借りて感謝の意を表したい。また、先日、中国西南地域の民族 学会の長老、馬曜先生が他界された。先生の教えを胸に、更に精 進したいと心に誓っている。 本稿の執筆にあたっては、沖縄大学地域研究所の比嘉政夫先生、 中村和雄先生、宮城洋子さんに、ご迷惑をかけてしまった。お詫 びを申し上げる。また、同僚の渡邉ゆきこ先生には、日本語原稿 の最終チェックをお願いした。心からお礼を申し上げる。 日本語原稿については、友人である金城恵紀氏に感謝の気持ち を申し上げたい。氏の助けがなければ、この難解な文章が日本語 として陽の目を見ることは、なかっただろう。 注 (1)俸族と泰族は、歴史的・文化的に同源的あるいは同元的と も言える群体だ。しかし、近代以降、近代国家の成立により、 彼らは国境線をまたがって存在するようになってしまった。 新中国成立後、民族識別の名の下に民族名を付され、本来ひ とつだったものから分かれ出たように見えている。それがTai andThaiに相当する''俸族"なのである。本稿で、この文化圏に ある群体を歴史的・文化的な意味で考察する際、”俸一泰"と 表記するのは、両者にそういう経緯があるためである。筆者 はこの両者が、政治や行政な側面で区分されるべきではない と考えている。 (2)筆者は叩俸族川がまさに'政策民族伽層面の意味で定義された ことにより、できた産物だと考えている。つまり、文化的な 意味で見れば、俵や泰とはともに同じ"群体"であり、歴史的 には、一つの文化的・社会的存在だった。また、本稿では彼 194劉剛1996,「統合された国家におけるタイ族文化の機能および 社会の影響」「民族学調査研究」(昆明雲南民族研究所)第 4期:76-82. 劉岡11997,「前漢から後漢時代にかけての西南地域における農 耕化と政治統合」『中国民族史研究」(雲南大学出版社)第1 輯:197-207. 劉剛,2000,「照葉樹林文化論と中国西南民族研究一日中比較的視 点から」『沖縄大学地域研究所年報」14:33-39. 劉剛,2001,「共生のしくみ-ダイ族の集住空間及びピーロン関 係Ⅲ琉球・アジアの民俗と歴史』(比嘉政夫教授退官記念論 集)161-172,容樹書林出版,那覇,沖縄。 劉剛,2003,「雲南空格人調査一以曼鰯約村空格人為例』「民族 研究」(北京)第2期:44-50 劉剛,2003,「景頗族文化史』,雲南民族出版社,昆明。 益山樹生・劉剛,2000,「西双版納州水タイ族の祭祀活動と植物」 以下、『2004年俸-泰民族と文化国際シンポジウム論文集」 からの論文を参考のために載せる。 賀聖達,2004J泰俸民族的歴史文化發展和麺臨的挑戦:一 個宏観比較』 劉椎,2004,『俵‐泰民族多元複合的民族文化特徴與民族形 成』 範宏貴,2004,『従習俗看壯、俵、泰、老、禅族的親縁關係』 何平,2004,「走出俸一泰民族士著説的誤逼一關干俸一泰 民族起源與遷徒的再考察」 楊光遠,2004,『阿薩蝸邦阿洪俵人同俵、泰族的干支紀年表 示法』 張公理,2004,「從俸泰月价名穂看文化影響」 王國祥,2004,棊江話中的僚語底層遺存:壯俸老泰諸族同源 新證(之一) 高立士,2004,「"版納泰”與“蘭那泰,,歴史文化比較研究』 『沖縄大学地域研究所所報』21:1-13. 劉剛,20041漢化與佛化?-俸族民族性取向的愛化」 195