芝山巖の現状 : 日台関係史の解釈をめぐって 2
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(2) 釧路論集 -北海道教育大学釧路校研究紀要-第48号(平成28年度) Kushiro Ronshu, - Journal of Hokkaido University of Education at Kushiro - No.48(2016):9-20. 芝山巖の現状 ~日台関係史の解釈をめぐって 2~ 竹 内 康 浩 北海道教育大学釧路校史学研究室. The present state of ZHISHANYAN TAKEUCHI Yasuhiro Department of History, Kushiro Campus, Hokkaido University of Education. はじめに. になる。日本による統治が始まったごく初めの時期であ り、武器を取っての抵抗運動が激しく行われ、これらの人々. 日本が台湾をその領土に組み入れて統治を始めた初期に. はまさにその渦中に投げ込まれたという状況と言えよう。. は、日本に対して抵抗する台湾の人々との間に数多くの事. 殺害された彼らは総督府によって「殉教者」的に扱われ、. 件が起こった。ここで取り上げるのはそのうちの一つで、. 伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」も建てられた。. 芝山巖事件と称されるものである。事件それ自体について. 芝山巖は「教育の聖地」とされ、教員たちは「六氏(のち. は大部の専著も含め多くの論考があり、詳細はそれらに譲. 六士)」と称された(用務員の小林は含めない)。さらには、. ることとするが、私にとっての関心は、その事件がどのよ. 命がけで教育の任務を遂行しようとした「芝山巖精神」な. うに伝えられ、そしてその遺跡がどのような状態にある. るものが唱えられ、彼らの物語は教育現場で語り継がれ、. か、ということである。それはいわゆる歴史認識の問題に. 果ては「六士先生の歌」も作られ歌われたという。. 属する。120年以上前のこの事件に関し、現代の台湾でど. 日本人教師たちを襲撃した台湾武装勢力は百人ほどで. のように理解しかつ反応しているか、その点につき考えて. あったとも言われ、衆寡敵せぬ状況である。当時のこうし. みたい。. た抵抗運動は激しく、日本人教師たちもその危険さについ. 日本と台湾の関係については、良好さが特に強調され. て警告を受けていたが、教育者として、また日本人として. る。日本と中国や韓国の間にしばしば起こる、暴力を伴う. の使命感により、芝山巖にとどまっていたのだという。. ような抗議運動は、少なくともマスコミをにぎわせるほど. 事件の実際のところについては、篠原正巳氏の大著『芝. の大きなものとしては見られないであろう。 「親日的」の. 山巖事件の真相』が資料を博捜して検討を加えており、本. 語が観光宣伝では常套語として用いられ、実際に彼我の交. 事件に関する必読の文献であり、詳細はそれに譲る(2)。. 流は盛んである。しかし、過去に50年間に及ぶ植民地支配. 事実に関する実証面について、篠原氏以上の調査研究をし. という現実があったことは否定しようのない事実であり、. ていないため、私には発言する資格はなく、本稿も事実そ. その間いくつもの抵抗運動があったこともまた否定しえな. れ自体は深く追究はしない。なお、この事件について往時. い。芝山巖事件はまさにその一つである。私は台湾史(な. 語られ歌われもしたと言いながら(3)、これまで必ずしも. いし日本史)の研究者ではなく、ましてこの事件について. 注目はされなかったのであろうか。教育史の方面からの研. 十分な検討をしてきたものでもない。私が台北の士林・芝. 究は進んでいるようであるが、台湾史の書でも触れていな. 山巖を実際に訪れてみてきたものについての情報紹介を中. いし、歴史の辞典でも項目として取り上げられていない. 心に、以下、若干の考察を試みるものである. (4). (1). 。. 。他の抗日運動に比べるならば、あるいは軽視されて. いるとも言えようか。. 芝山巖事件について. 芝山巖事件碑記の検討. まず、事件について簡単ながら記しておく。. 現在、芝山巖にある事件の記録は、芝山巖事件碑記と雨. 事件そのものは、1896年の元旦、楫取道明・関口長太郎・. 農閲覧室内の展示、そして芝山巖事件始末、の三つの掲示. 中島長吉・桂金太郎・井原順之助・平井数馬の教員6名と. 物である。まず、芝山巖事件碑記について述べておこう。. 小林清吉の用務員1名が、台湾人に殺害されたということ. 芝山巖事件碑記は、石に彫られたもので、最上部に篆書. -9-.
(3) 竹 内 康 浩 の題字(横書き) 、その下に一行32文字、全16行の文が刻. 字と結びついて「. され、隷書により金象眼が施されている。. 語をなす。. 碑文全体の写真は図1に掲げておいた。また、文章の翻. 一〇-23 ~ 24 碑石は「違難」。篠原氏は「避難」とす. 刻は、各行・列の数字とともに、図2に示してある。ここ. るが、碑石の字は確かに「違難」である。但し意味は「危. では意味を取るために、読み下しを掲げておこう。. うきを避ける」であり、近いと言ってよい。. 」すなわち「立札、標識」の意の熟. 一三・一四 人名を碑石は「揚却俗」「揚傑」に作る。 篠原氏は両名とも姓を「楊」字で表記するが、碑石の字は. 芝山巖事件碑記. 明らかに「揚」である。中国人の姓としては一般的には 「楊」 清光緒二十一年(公元一八九五年)五月、日本、臺灣を. であるが、揚姓もあるにはある(例えば後漢の学者に揚雄. 佔有し、七月、日語傳習所を臺北士林芝山巖之恵濟宮に設. がいる)。しかし、ここに現われる「揚却俗」については. け、其の日本語文を推行するの始めと爲す。我が臺胞、源. 他の文献で姓は「楊」になっており、正しくはそれであろ. は河南に出で、閩・粤より来自す。春秋之義に凛として同. う。本稿でも以下は楊却俗と表記する。なお、揚(楊)却. 化に甘んぜず。翌年元旦、 士林の義民、 謀らずして奮起し、. 俗の「許昌」は河南省許昌県、揚(楊)傑の「壽昌」はあ. 其教職員工楫取道明等七人を殲す。凡そ設施する所は悉く. るいは浙江省のものか、いずれも地名で、彼らの祖先の本. 予め毀棄す。旋りて復た來援の日軍十七人を迎撃し、其一. 貫地に当たると思われる。 一五行目の咸寧は陝西省の地名。. を逸す。義民は則ち僅かに頼乾、創を負うのみ。是れに因 り、日軍、怒りを當地の農民頼昌と士紳潘光松等六人に遷. この碑記は、楊却俗が文を起こし、楊傑が隷書に記した. す。逼供するも獲るもの無く、先後して殺害す。日を嗣ぎ. ものである(最上部の篆書は唐貽湘)。ざっと読んでみた. て、総督府、即ち芝山巖上に碑石を樹立し神社を興建す。. ところ、各句の字数は一定せず、押韻も無いようであり、. 並びに毎年二月一日を定めて祭祀日と爲す。総督以下、各. 散文として書かれていて、ほんの数か所美文調の句が散見. 文教中の人迄で、必ず相い率いて膜拝す。其の後の教育工. するくらいで、漢文によくある大仰な表現は特に目立つほ. 作に没する者は側に附祀し、目して聖地と爲す。誠に以て. どでもない。また、文全体の修辞などは工夫もなく、読み. 我が國の文化、 未だ泯滅すべからず。死事を紀念し、日人、. づらい個所もあり、個人的にはさしたる名文とも言えない. 籍りて以て其の來茲を勵さんとするのみ。惟うに是れ我が. ような印象ではある。. 臺胞の. 義旂にして、終いに日治五十年間、彼れ仆れれ. さらに、私としては、文の流れに不審な点があると思う。. ば此れ起つこと凡そ廿五次、民族の気節、並びに見われ、. 八行目に「誠以我國文化未可泯滅」の句があるが、その前. 厲して復た来りて踵を旋さず。而して臺灣は卒に民國. は「其後之没於教育工作者、附祀於側、目爲聖地」であり、. 三十四年に光復す。斯ち偉と云わんかな。余、光復後の四. その後は「紀念死事、日人籍以勵其來茲焉耳」である。つ. 年より違難して來臺し寄籍す。士林に居民潘光楷・呉文明. まり、「日本側がこの事件をきっかけに、教育関係物故者. 兩先生有り。當年、日語傳習所学生爲り。年は皆耋耄なる. をここに付して祀り、当地を教育の聖地とみなし、殉職者. も、往事を指陳すること歴歴たりて、目前に在るが如し。. を記念して、日本人は当地で職務に精励した」という一続. 忠蹟を緬懐し景仰すること尤も深し。爰に第一届國民大會. きの文脈の真ん中に、「誠以我國文化未可泯滅(まことに. 第二次會議に於いて提經し一致決議す。予、以て褓揚し並. 我が国の文化は滅ぶことなどあり得ないのだ)」という句. びに其事を誌し、用て不朽なるを彰かにす。. が挿入されているのであるのであって、流れを分断するの みならず、いったい何故に「我が国の文化=中華文化は滅. 許昌揚却俗 應撰. ぶことなどあり得ない」と主張するのかがこの流れでは理. 中華民國四十七年歳次戊戌仲冬 壽昌揚 傑 並書. 解できない。「誠以我國文化未可泯滅」という句はさらに あとの「惟是我臺胞之. 咸寧唐貽湘 篆額 士林鎭芝山公園興建委員会立. 義旂」の句には意味的に容易に. つながるので、あるいは位置を間違えたものであろうか。 この件については、篠原氏が引く楊却俗の「記芝山巖事件」. 碑文の翻刻は篠原氏の著書41ページ以降に訳文とともに. (『台湾風物月刊誌』所載)の文(訳文)を参照すると、. 掲載されている。但し、若干のミスもあるので以下、補っ. 似たような意味の句は文脈上ふさわしい位置にあるので、. ておく。頭の数字は、図2に示した行と列の数である。. この芝山巖事件碑記の文の誤り(?)であるかもしれない (5). 。この推測の通り、仮に誤りであるとすると、刻字と. 八-3~6 碑石は 「我國文化」 。 篠原氏は 「我祖国文化」. 金象眼にもやや明瞭を欠くきらいもあり、いささか草卒に. とし、 「祖」の一字が多い。そのため、八行目以下一三行. 建てられた碑であるかもしれない。. 目までに布字の誤りが生じ、各行最末の一字が次行の頭に. この碑記の文中には事実に反することがいくつも書かれ. 置かれている。. ていることを篠原氏は指摘し、事実の検証に努めている. 八-31 碑石は「. (6). 」 。篠原氏は「掲」とするが、次の. - 10 -. 。その検討結果はおそらく正しいのであろうし、また.
(4) 芝山巖の現状 その労力は敬重に値するものである。しかしながら、そも. 芝山巖事件 始末特展 (展示の趣旨説明). そもこうした石碑の文章は、ある特定の立場に立って特定 の目的(顕彰、追悼など)のために記すものであって、. 展出日期:95年4月9日起(常設展). 事実を中立的立場で記録しようとしたものではない。その. 展出時間:毎日上午8:00 ~下午5:00. 意味で、碑文に対して過剰に反応する必要は、本来的には. 展覧地點:雨農閲覧室(芝山公園内). ないのである。そもそもかつて日本が建てた学務官僚遭難 之碑の文もあくまでも日本側から見た内容評価として「土. 指導単位:台北市文化局. 匪」の語を用い、それ故に不満を持った臺灣人によって. 主辦単位:臺北市文献委員会. 碑が倒されたのではなかったか。モニュメントの本来的性. 協辦単位:臺北市政府工務局公園路燈工程管理處. 質上、仕方がないさらにはこういうものなのだというよう に考えておくのがよく、むしろこうした視点や主張の差異. 1896年(明治29年)、芝山巖學堂的6名日籍教師遭抗日民. に所謂歴史認識の問題を考える要点があるというべきであ. 衆殺害、史稱「芝山巖事件」、殖民政府在芝山岩上竪立「學. る。. 務官僚遭難之碑」。. あらためてこの碑記の要点をまとめると、事件は台湾人. 1958年(民国47年)國民政府另立「芝山巖事件碑記」 、. 「義民」が起こしたものであること、事件ののち日本は犠. 將芝山巖事件重新定位為因 「不甘同化」 ・ 「義民不謀而奮起」 。. 牲者を祀って教育同化に励んだが台湾人の抵抗は止まな. 「芝山巖事件」反映了臺灣人民反抗殖民統治的凛然正気、. かったこと、抵抗した台湾人を改めて顕彰すること、に尽. 「學務官僚遭難之碑」則見證了殖民主義之統治思惟及統治. きよう。文の主意は、日本人教師殺害事件の詳細の紹介や. 策略;為譲這段歴史能譲後人借鑑、臺北市政府特別擧辦「芝. 事実の再検証ではない。 「土匪」と蔑称された人々の再評. 山巖事件始末特展」、在透過相關史料照片的展出及解讀、. 価であり、逆転しての顕彰である。日本が台湾から去った. 重新認識「芝山巖事件」。. 後の、歴史の点検・再評価、換言すれば「台湾人としての 歴史を取り戻す」 作業の一環、 と位置づけられるであろう。. 芝山巖學堂的開設. この碑文は古文(我々の言う漢文)で書かれ、現代人に とっては中国・台湾・日本を問わず晦渋な文章であり、ま. 甲午之役、清廷戦敗、將臺灣與澎湖割譲日本。1895年(明. して碑の文字は隷書で刻されているのであるから、ここに. 治28年)6月17日、臺灣総督府挙行始政式。殖民政府視日. 来てこの碑文を初めて見、正確に読んで内容を把握できる. 語教育為同化・統治臺灣人的重要手段;翌日、総督府學務. 人は極めて僅少と言うべきであろう。まして後述のように. 部長伊澤修二則於大稲 創立學務部、並設置國語(日語). 現在は「芝山巖事件始末」や「芝山巖事件始末特展」のよ. 學堂。因臺灣人不願接受日語敎育、無人入學。七月下旬、. うな現代文による説明文があるので、芝山巖事件を紹介す. 伊澤修二將學務部遷至芝山巖恵濟宮、並開設芝山巖學堂敎. るものとしての芝山巖事件碑記の役割は事実上ほとんどな. 授日語、但入學人數相當少。. いと言うべきである。 芝山巖事件的由來. 芝山巖事件始末特展についての検討 日據初期、臺灣北部抗日活動仍持続不斷、1896年(明治 芝山巖事件について、文章と写真で詳しく説明している. 29年)元旦、芝山巖學堂6名日籍教師前往台北城參加総督. のが雨農閲覧室内の「芝山巖事件始末特展」である。2006. 府的新年活動、途中與抗日民衆遭遇被殺、殖民政府稱為「六. 年4月9日からの常設展示であり、当地ということもあって. 氏事件」。次日、日軍侵入士林、遷怒士林保良分局主理潘. その内容には期待されるのであるが、実際には閲覧室内の. 光松(潘永清之子)、並以「知情不報」為由將其處死。. 壁にパネルが貼ってあるだけのものである(図3)。その. 「芝山巖事件」對於甫推動的日語敎育、可説是一大打撃、. パネルも、ごく一般的な説明文と、古い写真の複製にキャ. 為譲招募日人來台担任教師的政策不受影響、臺灣総督府將. プションがついたもので、事件について掘り下げるといっ. 6名日籍教師的屍骸遷葬至芝山巖的大樟樹下、並在附近竪. た体のものではない。本稿では、写真部分は明瞭な映像が. 立「學務官僚遭難之碑」、塑造其「為台灣教育犠牲」的形象。. 確保できなかったので、キャプションともども割愛するこ. 此後、芝山巖成為所謂「台灣教育的発源地」。. ととし、パネルの一般的説明文のみを掲げておく。 「芝山巖事件始末特展」は雨農閲覧室の内部を使い、壁. 光復後的芝山巖景象. 面にパネルを貼った展示になっている。まずはじめに展示 の趣旨説明があり、 それを受けて、 「芝山巖学堂的開設」「芝. 台灣光復後、「芝山巖祠」拆除並改建為雨農閲覧室; 「學. 山巖事件的由来」 「光復後的芝山巖景象」 「芝山巖精神的建. 務官僚遭難之碑」 ・ 「臺灣亡教育者招魂碑」 ・ 「故教育者姓名」. 構」の4つのテーマからパネル展示は構成されている。. 碑(目前於雨農閲覧室後方)和「伊澤修二先生紀念碑」均. マ. マ. - 11 -.
(5) 竹 内 康 浩 遭毀損。. 開始 ?開啓士林文化是的文昌祠如何定位?本特展在透過. 民國48年政府另立「芝山巖事件碑記」 、將芝山巖事件重. 相關史料照片的展出及解讀、重新認識「芝山巖事件」 。. 新定位為因「不甘同化」 ・ 「義民不謀而奮起」 、潘光松等人 因日軍「遷怒」 ・ 「追供無獲」而遭殺害。民國84年、時値士 林國民小學創校一百周年、部份地方人士竟將6位日籍教師. 以上が、雨農閲覧室内の展示にある説明文である。民国. 墳墓重新整修、並竪立「六氏先生之墓」石碑、足見殖民統. 95年すなわち2006年4月9日から始まった、ほぼ常設展に近. 治之遺毒迄今猶未滌清。. い長い展示である(2016年末も継続中)。2015年の11月に 私が訪れた際には、閲覧室内には、本の書写中の人と新聞. 「芝山巖事件」在殖民政府的操作下、成為日籍教師「為. を読む人の二人しかいなかった。いずれも特にこの展示に. 台灣教育犠牲」的事件、而抗日民衆則被貶抑為「土匪」。. は関心が無いようであった。. 殖民政府透過塑造日本人「為臺灣教育犠牲」的形象、以取 得台灣民衆対殖民教育的服從。另一方面、在芝山巖上先後. この「芝山巖事件始末特展」が何を目的としたものであ. 竪立「學務官僚遭難之碑」 ・ 「臺灣亡教育者招魂碑」 ・「故教. るかは、趣旨説明に明記されている。. 育者姓名」等紀念碑、隨著「芝山巖祠」的完工、此一形象 的建構更趨完整、 芝山巖至此成為所謂「台灣教育的聖地」。. 「芝山巖事件」反映了臺灣人民反抗殖民統治的凛然正. 透過不斷的參拝儀式及將芝山巖事件編入《台灣國語讀本》. 気、「學務官僚遭難之碑」則見證了殖民主義之統治思惟. 等、將台灣人教育成為「忠君愛國」的日本國民。. 及統治策略;為譲這段歴史能譲後人借鑑、台北市政府特. 光復迄今已逾六十年、 「芝山巖事件」受難之台灣人仍然. 別挙辦「芝山巖事件始末特展」、在透過相關史料照片的. 沈冤未雪、甚至其後人於今仍受「土匪」之名所擾。而芝山. 展出及解讀、重新認識「芝山巖事件」。. 巖内日人所立相關紀念碑、歴來所引起之争論亦顯見、擺脱. 「芝山巖事件」は、臺灣人が植民地統治に断固抵抗し. 殖民史觀、重見台灣人觀點之工作猶待努力。因此、本展還. た気概を表わしたものであり、「学務官僚遭難之碑」は. 原「芝山巖事件」真相之企圖、不過是為了完成在重建台灣. 植民地主義の統治思想と方策の証拠である。この事件を. 人民最基本的尊厳時、一件應做而遅遅未做的事。. 後世の人に参考としてもらうため、台北市政府は特に 「芝 山巖事件全経過特別展」を開催し、関係資料と写真の解. 芝山巖精神的建構. 説展示によって、あらためて「芝山巖事件」を理解しよ うとするものである。. 1905年(明治38年)由台灣教職員所組成「台灣教育會」 先後在芝山巖上修築「臺灣亡教育者招魂碑」 ・ 「故教育者姓. 事件そのものと事件を記したモニュメントは、日本によ. 名」碑・ 「伊澤修二先生紀念碑」 。1930年(昭和5年)「芝山. る植民地支配に由来するものであり、その思想と施策を明. 巖祠」完工、在殖民政府的操作下、芝山巖成為所謂「台灣. 瞭に示すものである。一方、事件は植民地統治に反抗した. 教育的聖地」 、並將在台去世的日籍教師標榜為「為台灣教. 台湾人の決然たる意思表明である。事件についてあらため. 育犠牲奉献」 。. て見直し、後世の鑑としたい。これがこの展示の趣旨であ. 殖民政府透過紀念碑、 「芝山巖祠」的建立、及參拝儀式. る。. 的擧行、成功地將「芝山巖事件」轉化成「為台灣教育犠牲. したがって、この展示を催行した台北市文化局と台北市. 奉献」 ・ 「忠君愛國」的芝山巖精神、更籍由參拝儀式、將臺. 文献委員会の視点ははっきりしている。. 灣人教育成為忠誠的日本國民。. ①台湾人の立場から事件を認識・評価し、台湾側の行 動を正当と認める. 芝山巖恵濟宮建於1752年(清乾隆17年) 、奉祀開漳聖王. ②日本の統治は「植民地支配」であり、不当不正なも. 陳元光、成為士林地区漳州移民的信仰中心。1840年(清道. のである. 光20年)士紳潘永清在廟旁建文昌祠、 開辦義塾、 教育子弟、. 特に②は日本による植民地支配を否定的に評価するもの. 人才輩出、文風大盛、芝山巖成為士林文化的発祥地。. であり、殺害された楫取ら7名の日本人が実際にどういう. 1895年、日本據臺、廢文昌祠、改設『芝山巖學堂』、推. 人であったかは問題にしていない。日本人であるが故にそ. 行日語教育。時臺灣北部武装抗日不斷、 1896年 (明治29年). れだけで彼らは否定されるのである。そして50年間に渡っ. 元旦、 「芝山巖學堂」6名日籍教師遭抗日民衆殺害、史稱. た日本による教育も否定される。「光復後的芝山巖景象」. 「芝山巖事件」 。為譲甫推行日語教育不受影響、殖民政府. に次のように言うのは注目される。. 在芝山巖竪立「學務官僚遭難之碑」 、 碑文中抗日民衆以「土 匪」稱之。面對臺灣歴史、應該以臺灣的觀點重新検視、6. 民國84年、時値士林國民小學創校一百周年、部份地方. 位日籍教師是為日本人犠牲?還是為臺灣人犠牲?抗日民衆. 人士竟將6位日籍教師墳墓重新整修、並竪立「六氏先生. 是「土匪」?還是「義士」?臺灣的教育是從「芝山巖學堂」. 之墓」石碑、足見殖民統治之遺毒迄今猶未滌清。. - 12 -.
(6) 芝山巖の現状 民国84年(1995年)はちょうど士林小学校創立100周. 訂毎年的2月1日爲例祭日)、以及將芝山巖建構成為「臺灣. 年に当たり、一部の地域の人が6人の日本人教師の墓を. 教育的発揚地」・「臺灣教育的聖地」、以期將臺灣人教育成. 立て直し、 あわせて「六氏先生之墓」の石碑を立てたが、. 為「忠君愛國」的日本國民。. そのことから植民地統治の遺した害毒が今も洗い流され ていないことが見て取れる。. 光復之後、「學務官僚遭難之碑」等紀念碑遭棄置、 「芝 山巖祠」拆除並改建為「雨農閲覧室」、所在基地則修建為「芝. 殺された日本人教師を偲び悼むことは植民地統治教育に. 山公園」。民國47年政府另立「芝山巖事件碑記」、將芝山巖. よって形成された悪しきもの、という見方である。犠牲者. 事件重新定位為因「不甘同化」・「義民不謀而奮起」 。目前. への哀悼という心情は問題とされず、政治的立場による評. 所見之「學務官僚遭難之碑」、係民國90年參酌老照片復舊。. 価で断罪されていることが明瞭である。 先に見た「芝山巖事件碑記」と同様、この展示において. 「芝山巖事件」反映了臺灣人民反抗殖民統治的凛然正. も、事件そのものの詳細の紹介や検討はなされず、日本の. 氣、「學務官僚遭難之碑」則見證了殖民主義之統治思惟及. 文教政策と台湾人の抵抗についていかに評価するかが問題. 統治策略;為譲這段歴史能譲後人借鑑、臺北市政府特別擧. とされている。この展示の主意が台湾人的立場に立った歴. 辦「芝山巖事件始末特展」於雨農閲覧室長期展出、並立此. 史の再評価の試みであることは明らかである。. 誌於碑前、以期擺脱殖民者史觀・重現臺灣人風骨。 臺北市政府謹誌. 「芝山巖事件始末」の検討. 中華民國95年6月. 「芝山巖事件始末」は、 「学務官僚遭難之碑」の基部に据. この文の趣旨は末尾に明記されており、訳せば以下のと. え付けられた金属プレートの説明文である。内容は芝山巖. おりである。. 事件とその後の日本が行った施策、そして光復後の状況に ついてのごく簡単な説明である。そこに、現存する史蹟の. 「芝山巖事件」は、臺灣人が植民地統治に断固抵抗し. 位置図が載せられている。 「学務官僚遭難之碑」は日本敗. た気概を表わしたものであり、「学務官僚遭難之碑」は. 戦後に倒されてしまったが、それが2001年に復元され、さ. 植民地主義の統治思想と方策の証拠である。この事件を. らにその5年後にこの金属プレートが設置されたというこ. 後世の人に参考としてもらうため、台北市政府は特に 「芝. とになる。. 山巖事件全経過特別展」を雨農閲覧室に於いて長期にわ. 金属プレートは図4に示した。ここではその文章部分を. たって展示し、あわせてこの文を碑前に立て、植民地主. 下に掲げておく。. 義者の史観から脱却し、臺灣人の気骨を再び現わすこと を期待するものである。. 1895年、日本拠臺、6月17日、臺灣総督府挙行始政式; 創立學務部;7月下旬、. この金属プレートの説明文は、「芝山巖事件始末特展」. 學務部遷至芝山巖恵濟宮、 並廢文昌祠、 改設 「芝山巖學堂」、. 開催に連動して設けられた(展示開始の二か月後である). 推行殖民政府視為統治及同化臺灣人重要手段的日語教育。. ものであることがわかる。そのため、「芝山巖事件始末特. 翌日、學務部長伊澤修二於大稲. 展」の説明文と同文もあり(引用とみなしてもよいが) 、 時臺灣北部武装抗日不斷、為譲日人無法歡度在臺的第. 視点も同じである。「芝山巖事件始末特展」の方はいつか. 一個陽暦新年、 北部義軍於1895年除夕全面「反攻臺北城」。. 終了する時点もあろうから、同じ視点に立つこのプレート. 1896年(明治29年)元旦、 「芝山巖學堂」6名日籍教師遭抗. を設けることで「芝山巖事件」についての現代的説明文を. 日民衆殺害、史称「芝山巖事件」 。為譲甫推行日語教育不. 長く残そうという意図であろう。. 受影響、殖民政府在芝山巖竪立「學務官僚遭難之碑」;石. 表題は「芝山巖事件始末」となっているけれども、これ. 碑正面為日本内閣総理大臣伊藤博文題字、碑後文字將殺害. までに掲げた資料と同様、日本人教師殺害事件そのものに. 日籍教師的抗日民衆以「土匪」稱之。. ついては極めて簡単に言うのみであり、むしろここで確認 されているのは、殺害事件後に日本が芝山巖を特別な地に. 此後、殖民政府不斷擴建相關設施、包括祭祀場(今涼. 祭り上げ教育政策を推進していったことであり、そして光. 亭前方空地) ・參道(今雨農路) ・相關道路及磴道(今百二. 復後に日本時代の遺物を取り除いて代わりに新たな碑石を. )、並續建「故教育者姓名碑」 ・ 「臺灣亡教育者招魂碑」。. 設けて事件の再評価を試みたということである。事件その. 1930年、又建「芝山巖祠」 、將6名日籍教師及其他在臺死亡. ものへの関心よりかは、その政治的な意義・利用こそが問. 的教師合祀其中、 以塑造日本人「為臺灣教育犠牲」的形象。. 題とされていると思われる。. 殖民政府並透過對上述設施精心規劃的參拝儀式(1898年起. - 13 -.
(7) 竹 内 康 浩. 破砕された碑について. てきた民への表彰と同じ発想に基づくものであり、その程 度の理解にとどめておいてよい。. 芝山巖事件そのものとは直接の関係はないが、この場所. そのほぼ半世紀後に催された「芝山巖事件始末特展」 は、. を訪れるとどうしても目につくある状況について、最後に. 「学務官僚遭難之碑」と「芝山巖事件碑記」に見られる正. 紹介しておきたい。. 反対の価値評価の文を踏まえて成り立っている。しかし双. 雨農閲覧室の裏手に「故教育者姓名」なる碑が二枚立っ. 方の主張を客観的に検証するのではなく、あくまでも台灣. ている(図5) 。まさに人名だけが刻された碑で、左の碑. の立場から事件を再評価しようとする意図は明白である。. は表に一列10名で上下に四列の計40名、裏には一列10名で. 前述のように、1995年に「六氏先生之墓」を建てたことは. 三列及び5名の計35名の姓名が見える。右の碑は表に一列. 植民地教育の遺した害毒とまで断ずるのであるから、日本. 10名で上下に四列の計40名、裏には一列10名で5列の計50. のしたことはもとより日本一般(国・人)に対して同情を. 名の姓名が見える。合計すると、左の碑は表裏で計75名、. 寄せることすら否定する、徹底した姿勢である。. 右の碑は表裏で計90名、左右あわせて165名に上る。. 「芝山巖事件始末」は上記「芝山巖事件始末特展」を受. この二枚の碑の横に位置する木の根もとに、 「故教育者. けた(二か月後)ものであって、立場や趣旨は同じであり、. 姓名」碑の破片が放置されている(図6) 。字が刻されて. 植民地主義史観からの脱却と台湾人の気骨の宣揚が、文末. いるものは6片あり、読めるところでは美和元一・森武三・. に明言されている。さらにさかのぼって「芝山巖事件碑記」. 富田仙太郎といった名がある. (7). 。この6片では碑一枚と. についても、事件を同化に甘んじなかった義民の行動とす. ならない(欠け部分あり)ので、もとあった場所で破壊さ. る新しい位置づけをしたものと評している。. れて部分的にこちらに投げ捨てられたものかと想像する。. 以上三点の文章は、いずれも日本が立ち退いた後、台湾. 学務官僚遭難之碑もかつては倒されたとのことである. 人の立場から事件を再評価したものであり、殊に後二点は. が、この「故教育者姓名」碑については石の大きさや厚さ. 台北市が関わっており、公式な政治的文書として位置づけ. が「手ごろ」であったためか、破壊されるに至ったと思わ. られる。そういう立場もあり、植民地支配への否定的な姿. れる。放置されている姿はやはり無残と言うべく、見る者. 勢を持つことはもとより、殺害された日本人教師への同情. をして惻愴せしむるものがある(日本人だけの感想かもし. は一切ないばかりか、同情を寄せる人への峻拒すら感じら. れないが) 。. れる文書になっている。こうした「公式見解」からは、台 湾に対しては日本人であることは「原罪」であるかのよう な論調が感じられる。. まとめ 芝山巖の現状. 本稿の始めに略記したように、事件そのものは大勢の武 装民が少数の文民を平時に殺害したもので、その行動と心. 以上、2015年に二度にわたって私自身が芝山巖を訪れた. 情に共感することは、現代人としては(まして日本人であ. 際の情報を紹介してきた。最後に、石碑や展示パネルの文. れば)困難をおぼえるように思う。殺害された人々にとっ. 章について若干考察を行い、また芝山巖の現状に関して一. て悲劇であることは言うまでもなく、そしてそのような行. 言しておきたい。. 動に出なければならなかった台湾人にとっても悲劇であ. 現在、芝山公園内の芝山巖事件に関する資料としては、. る。しかしそうした事件の悲劇性を捨象し、台湾の政治的. 「学務官僚遭難之碑」 (1896年) 、 「芝山巖事件碑記」(1958. 公式見解としては上記のようにならざるを得ないのであろ. 年)、 「芝山巖事件始末特展」 (2006年4月) 、 「芝山巖事件始. う。思えば、死亡した教師らを顕彰し芝山巖を「教育の聖. 末」(2006年6月)の4種の文章がある。このうち「学務官. 地」に祭り上げたかつての日本側の姿勢も似たようなもの. 僚遭難之碑」については日本側が建てたものであり私の問. であると言える。犠牲者を利用してその後の文教政策を推. 題意識からは外れるので本稿では触れていない。ここまで. 進しようとした政治的立場の表明こそが、「学務官僚遭難. は残る三種の文章について内容を紹介し、若干のコメント. 之碑」でもあれば「芝山巖精神」でもある。. を付しておいた。. 芝山巖事件を客観的に見ようとするのであれば、まずこ. 年代的に古い「芝山巖事件碑記」は、まさしく伝統的な. うした政治的言説から脱却することが必要である。そし. モニュメントの作法に則って書かれている。事実を直書す. て、「芝山巖事件碑記」を典型とする、伝統的な「正史」. ることが目的ではなく、関係する人物たちに対して善悪な. 意識からの脱却もまた必要である。中国に於いて歴代編纂. どの評価を込め、殊にここでは台湾側の人物を顕彰するこ. されてきた「正史」は、王朝側の立場に立って事実や人物. とが趣旨となっている。すなわち、かつて「学務官僚遭難. に対し善悪正誤の評価を込めて、それを明瞭に示す語を用. 之碑」に於いて日本側から「土匪」と蔑称された台湾人を. い、時には事実を歪めてまでもその評価を前面に出した叙. 「義民」として名誉回復し、抗日の姿勢をむしろ讃え宣揚. 述をしてきたのであった(8)。芝山巖事件についても、日. しようとする意図が明白である。 「芝山巖事件碑記」のこ. 本人教師を殺害した台湾人につき「土匪」「義民」といっ. ういう立場については、伝統的に王朝が中心となって行っ. た正反対の評価があるが、これなどまさしく洪秀全をめぐ. - 14 -.
(8) 芝山巖の現状 る『清史稿』と『清史』の評価と同じである(9)。これが. された「アジア文化体験実習」の成果も含まれる。また、. 歴史認識の問題なのであって、こうした正史的発想を引き. 本稿の副題を「日台関係史の解釈をめぐって 2」とした。. ずる限り、違う立場の者が共通理解に至って一致した見解. その一は、竹内康浩「日台関係史の解釈をめぐって ―烏. にまとまることはない。当時、日本に対する政治的な抵抗. 山頭水庫風景区の解説展示から―」『史流』第46号、2016. 運動があった一方、一般的存在として強盗殺人をはたらく. 年3月、として公にしている。. 犯罪者としての「土匪」も存在したのであり、芝山巖事件. 2 篠原正巳『芝山巌事件の真相』和鳴会、2001年。以下、. の犯人は実はいずれであるのかよくわからない。学堂が荒. 本文において篠原氏の見解に言及するときは、この著によ. らされ物品が持ち出されたとの情報によれば、まさに犯罪. る。事件の経過については、台湾教育会編『台湾教育沿革. 集団による暴力事件であったのかもしれない。そのあたり. 誌』(1939年)の「第二編 学事行政 第九節 学務部員. の実証をしないまま、 日本に抵抗したということだけで「土. の遭難」に往時における情報整理と事件理解をよく示しつ. 匪」が「義民」に“格上げ”されるのであれば、もはや歴. つ、まとめられている。本事件を扱った専著には、張雁雲 「芝. 史の再評価ですらあり得ないと言わざるを得ない。なお、. 山巖事件研究與詮釈的演変歴程」(国立台北教育大学台湾. 別な例であるが、台湾における歴史教科書である国立編訳. 文化研究所学位論文、2013年)があり、本文は未見ながら、. 館『国民中学 認識台湾(歴史篇) 』は、日本統治時代に. ネット情報によれば事件に関する参考文献として248種も. 衛生条件が改善し遵法精神が形成されたなど、日本の統治. の論著が挙げられている。なお、事件とその後、及び現在. に関してプラスの要素があったことを叙述する点で単なる. については片倉佳史氏の『観光コースでない台湾』 (高文. 反日から脱却した姿勢がうかがえるものである。しかし、. 研、2005年)の芝山公園の項、及び「教育の聖地・芝山巖. それでも「各地の義民の武装抗日」や「抗日義軍」という. を歩く」(『交流』№830 2010年5月)が簡にして要を得た. 語が用いられており、 「義」という評価をすることなしに. 叙述になっており、参考になる。. 歴史叙述はできないのである。さらに、碑の破壊のような. 3 戴國煇氏の「伊沢修二と後藤新平」(『台湾と台湾人』. 暴挙も実行・放置されるような状況では、まともな対話も. 研文出版、1979年、所収。初出は1972年)は、冒頭、 「現. 理解も期待できない(10)。なお、碑の破壊は、反日の心情. 在四十代以上の台湾有識者に、伊沢修二で何を想起する. を持つ個人の行動によるものとは限らない。日本が去った. かと問えば大半はおそらく芝山巖と答え、後藤新平につ. 直後、1946年3月7日には台湾省行政長官公署民政処訓令. いては辣腕民政長官と答えるであろう。ここでいう芝山巖. として「奉令拆毀日偽及漢奸建築碑塔等紀念物転令遵辦」. とは、日本の台湾植民教育がはじめて行われたところであ. が、さらに1952年には省政府令として「日拠時期遺留之以. り、のち同地近くで六人の教員がゲリラに殺された『芝山. 日文題字之橋梁或建築物及年号応塗毀、不得遺留日拠時代. 巖事件』で知られる。」と述べる。. 之任何字様」が出され、日本統治の象徴に対する破壊活動. 4 事件のほぼ十年後の竹越與三郎『臺灣統治志』 (博文. が政府の方針で進められている。神社の撤去が行われたこ. 館、1905年)は、「第四章 過去の台湾」のうちに「其七. とはよく知られていよう。こうした政府の姿勢はその後も. 土匪掃蕩の始末」を設け、「越へて(明治)二十九年一. 続き、1972年の日台断交を受けて、1974年には内政部函と. 月一日には、台北の陳秋菊、新竹の胡阿錦等、土匪を糾合. して「清除台湾日拠時代表現日本帝国主義優越感之殖民統. して台北を襲ふ。其他深坑、士林、滬尾、枋橋、錫口、瑞芳、. 。これは政府によ. 金包里、海山口、宜蘭の羅東等、皆土匪の襲撃を受け、北. る公式な「歴史の支配」であると言ってよい。こうした(政. 方大に擾る。」なる文を記す。ここに士林の名は出てくる. 治的な)破壊の動きと、一方における古蹟保存事業とにつ. が、特にそれ以上の説明はない。吉川弘文館の『国史大辞. (11). 治紀念遺跡要点」が出されてもいる. 。. 典』は霧社事件の項目は立て、また台湾抗日運動の項目が. 以上、私が訪れた芝山巖の現状は、このような意味で、. あり苗栗事件や西来庵事件には言及するが、芝山巖事件に. 台湾内部に向けられ、かつ伝統的な発想に基づいて構成さ. は触れない。近年翻訳された周婉窈『図説 台湾の歴史』 (平. れた「後ろ向き」の意識の表れと言えよう。歴史の持つ意. 凡社、初版2007年、増補版2013年)も西来庵事件と霧社蜂. 味と歴史叙述の持つ難しさを、あらためて痛感するもので. 起については言及するが、芝山巖事件には触れない。思. ある。. うに、芝山巖事件を抗日運動として見るならば、同時期に. いて、本稿では検討が出来なかった。今後に期したい. (12). 起こった数多ある運動の一つに過ぎず、のちに起こるさら. 注. に大規模な事件ほどの重要性はないということであろう。 文教政策上から見た場合には芝山巖事件はその重要性を増. 1 本調査は、 平成27年度北海道教育大学学長戦略経費(学. し、近年の小熊英二 『〈日本人〉の境界』 (新曜社、1998年). 術研究推進経費)教員海外派遣経費「台湾に残る日本統治. 及び楊孟哲『日本統治時代の台湾美術教育』(同時代社、. 期の遺跡の調査と教材化」によって行われたものである。. 2006年)は芝山巖事件について簡単ながら言及している。. 採択につき、関係各位に謝意を表するものである。また、. 5 篠原氏が引用紹介する、楊却俗「記芝山巖事件」 ( 『台. 平成27年度、北海道教育大学教育学部釧路校において開設. 湾風物月刊誌』1954年3月号掲載)では、事件の梗概を記. - 15 -.
(9) 竹 内 康 浩 したのち、文末近くに次のように言う。. 2000年11月に中国、安徽省歙建拓林村に建てた。ところが. 台湾が日本に属して五十年、台湾同胞の抵抗事件は平. 2005年1月に、南京師範大学の教師などが王. 均二年に一回起こった。その中で日本が最も重視し、神. だ墓碑などを斧で削るという出来事が発生したのである。. 化したのがこの芝山巖事件である。日本が極力奴隷化教. その教師は、王. 育を実施したことにより、多数の台湾同胞が事件の真相. べているようである(上田信『シナ海域 蜃気楼王国の興. を知らず、知っても論評を避けたのがこの芝山巖事件で. 亡』講談社、2013年)。気に入らない歴史は抹消するとい. ある。これを我が民族文化史の観点から論ずれば、台湾. うのは、やはり貧困な意識というほかあるまい。. は海外僻遠の地にあり、異国に割譲されたものの住民は. 11 林会承『台湾文化資産保存史綱』遠流出版事業股份. なお祖国の文化を愛し、競って仇敵に刃向かった。異国. 有限公司、2011年、第三章 戦後初期的雑沓與重建。な. の統治者をして片時も気を緩めることを許さず、わが中. お、最近台湾で積極的な植民地時代史の掘り起こしについ. 華文化が長く消滅せずに済んだのも、この芝山巖事件の. ては、林初梅「学校という記憶の場 ―植民地台湾の時代. 故である。このことを記さないわけにはいかない。(46. からの連続性に注目して―」(『言語文化研究』39号、2013. ~ 47ページ). 年)が芝山巖事件にも触れつつ、調査を踏まえた重要な視. の名を刻ん. は売国奴であることをその理由として述. 中華文化の不滅さを述べた部分が、この文中では文脈上. 点を提供している。. 適切な位置にあることは明らかである。 「芝山巖事件碑記」. 12 「芝山巖事件碑記」末尾に言及される第一届国民大. の文の不審なることは、これと比較すれば明白であろう。. 会第二次會議なる会議について今回は全く検討出来なかっ. 6 篠原氏、 注2、 前掲書、 「第五章 六氏遭難の真相」が、. たのは遺憾である。その内容性格如何で、この石碑(碑記). 他の資料を広く集め、また現地の人の証言も拾い、詳しく. の建立事業も影響を受けた可能性があるからである。事件. 論じている。なお、襲撃した側の人数については正確なと. に関する具体性すら欠いた文章の中に、わざわざ第一届国. ころは定かではないにしても、百人単位の集団ではあった. 民大会第二次會議で一致決議されたという一文を入れるこ. らしい。殺害された日本人は斬首され、首はさらしものに. との意味は何であろうか。. されたらしい。惨殺というほかない。一方で、日本による 「報復」も酸鼻を極め、この一月に芝山巖も含めて二十名 余の日本人が死亡したのに対し、1500名ほどの台湾人が殺. ※図は全て竹内の撮影による(2015年10月及び11月). 害されたという(小熊氏、注4、前掲書、95ページ)。. ※※原文紹介に当たっては、極力字体(正字体)をそのま. 7 美和・森・富田の三氏については、篠原氏、注2、前. ま写したが、ソフトの都合上、一部に常用の字体が混じっ. 掲書、 「第十章 六氏の志を継ぐ創始期の教師たち」に掲. ている. げる講習所講習員としてその名が見える。 8 こうした「正史」的発想については、 竹内康浩『 「正史」 はいかに書かれてきたか』大修館書店、2002年、に詳述し ておいた。 9 洪秀全は言うまでもなく太平天国の指導者であった人 物。『清史稿』は清朝の正史に準ずるもので、清朝滅亡後 まもなく編纂が開始されたが、関係したメンバーは清史館 館長の趙爾巽をはじめ、すべて清朝に仕えた人々であり、 清朝の立場にたった叙述がなされている。一方、1961年、 台湾(中華民国)の国防研究院が中華民国開国50年記念事 業として出版した『清史』は、 『清史稿』の記事によりつ つも特定の人物の評価に変更を加える作業を行っている。 その評価変更に極端な事例があり、洪秀全はまさにその典 型である。彼は、 『清史稿』においては「賊」 「寇」と蔑称 されているが、 『清史』では「民族革命領袖」 「革命英雄」 として絶賛されている。倒された清朝の側に立つか、倒し た中華民国の側に立つかで、かくも極端な違いが生ずるの である。詳細は、注8、竹内前掲書の「第4章 記録する 側の論理 2 『反乱者』をどう見るか」を参照されたい。 10 本件とは直接関係はないが、近年の一つの例を紹介 しよう。16世紀に日中にまたがって活動した人物に王 いる。長崎県五島出身の者が王. が. の功績をたたえる碑を、. - 16 -.
(10) 芝山巖の現状. 図1 芝山巖事件碑記 碑文部位. - 17 -.
(11) 竹 内 康 浩. 図2 芝山巖事件碑記. 一. 於 臺 北 士 林 芝 山 巖 之 恵 濟 宮 爲 其 推 行 日 本 語 文 之 始 我 臺 胞 源 出 河 南 来 自 閩. 清 光 緒 二 十 一 年( 公 元 一 八 九 五 年 )五 月 日 本 佔 有 臺 灣 七 月 設 日 語 傳 習 所. 1 2 3 4 5 6 7 8 9. 二. 傑. 許 昌 揚 却 俗. 壽 昌 揚. 咸 寧 唐 貽 湘. 應 撰. 並 書. 篆 額. 士 林 鎭 芝 山 公 園 興 建 委 員 会 立. . 厲 復 不 旋 踵 而 臺 灣. 粤 凛 於 春 秋 之 義 不 甘 同 化 翌 年 元 旦 士 林 義 民 不 謀 而 奮 起 殲 其 教 職 員 工 楫 取. . 三. 32. 道 明 等 七 人 凡 所 設 施 悉 予 毀 棄 旋 復 迎 撃 來 援 日 軍 十 七 人 逸 其 一 義 民 則 僅 頼. 31. 四. 30. 乾 負 創 因 是 日 軍 遷 怒 當 地 農 民 頼 昌 與 士 紳 潘 光 松 等 六 人 逼 供 無 獲 先 後 殺 害. 29. 五. 28. 嗣 日 総 督 府 即 於 芝 山 巖 上 樹 立 碑 石 興 建 神 社 並 定 毎 年 二 月 一 日 爲 祭 祀 日 総. 27. 六. 26. 督 以 下 迄 各 文 教 中 人 必 相 率 膜 拝 其 後 之 没 於 教 育 工 作 者 附 祀 於 側 目 爲 聖 地. 25. 七. 24. 誠 以 我 國 文 化 未 可 泯 滅 紀 念 死 事 日 人 籍 以 勵 其 來 茲 焉 耳 惟 是 我 臺 胞 之. 23. 八. 22. 義 旂 終 日 治 五 十 年 間 彼 仆 此 起 凡 廿 五 次 民 族 気 節 並 見. 21. 九. 20. 卒 於 民 國 三 十 四 年 光 復 斯 云 偉 矣 余 自 光 復 後 之 四 年 違 難 來 臺 寄 籍 士 林 有 居. 19. 一〇. 18. 民 潘 光 楷 呉 文 明 兩 先 生 爲 當 年 日 語 傳 習 所 学 生 年 皆 耋 耄 指 陳 往 事 歴 歴 如 在. 17. 一一. 16. 目 前 緬 懐 忠 蹟 景 仰 尤 深 爰 於 第 一 届 国 民 大 会 第 二 次 會 議 提 經 一 致 決 議 予 以. 15. 一二. 14. 褓 揚 並 誌 其 事 用 彰 不 朽. 13. 一三. 12. 中 華 民 國 四 十 七 年 歳 次 戊 戌 仲 冬. 11. 一四 一五 一六. - 18 -. 10.
(12) 芝山巖の現状. 図3 雨農閲覧室内の様子. 図4 芝山巖事件始末. - 19 -.
(13) 竹 内 康 浩. 図5 故教育者姓名碑. 図6 故教育者姓名碑の破壊されたもの. - 20 -.
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