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《翻訳》「比較近代化の研究」

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(1)

「比較近代化の研 究J

翻訳》

「比較近代化 の研 究」注

1)

A

Comparative Study

of

Modernization

植松

希久磨

UEhrATSU Klkuma

1、

遅延の制度的障害

すべての発展途上国か らすれ ば、近代化の起動はみな外部か らの挑戦であ り、これは近 代の社会発展が前近代社会の発展 と異なる一つの大 きな契機である。 19世紀の下半期 に、世界の近代化の波に呑 まれ或いはこの波の衝撃を受けた国家はだい たい二つのグループに分 けることができる。ひ とつは西洋のキ リス ト教文明圏に属す る国 家であ り、ドイツ、イタ リア、オース トリア帝国、 ロシア等のグループである。 も うひ と つは、非西洋文明圏の国家で、トル コ、中国、 日本等のグループである。前者のグループ に とつては、それはだいたいにおいて同質文明の伝播であ り、後者に とっては異質文明の 伝播 となるので、そこに異常に激 しい政治闘争や文化衝突が引き起 こされ る。 も う一つ異 なるのは、前者の国家群 は近代資本主義が生み出す国際経済システムネ ッ トワークの中心 的位置に置かれ るのに対 し、後者の国家群の大半が周辺や半周辺の地位に置かれ るとい う 点である。 外国の侵略や挑戦または対外戦争 における失敗等は、常に大変革の動因、或いは推進役 になる。 こ うした例は歴史上枚挙にい とまがない。例 えば、プ ロシア とオース トリアがナ ポ レオンの蹂躙を被つたこと、 ロシアがク リミア戦争で失敗 した こと、トル コがロシアー トル コ戦争で失敗 したこと、日本がアメ リカの黒船の砲撃で鎖国の門戸を開いたこと等は、 すべて各国の改革運動の外部的推進力になつていつたのである。清末にも、中国の改革派 と維新派が常にロシア、トル コ、日本の維新や改革を倣 うべきモデル としていたのである。 中国は阿片戦争のよ うな深刻な挑戦に対 して、す ぐに積 極的な反応 をせず、それ を地方

(2)

埼 玉女子短期大学研 究紀要 第16号

200503

的な問題だ として消極的に対応 した。林則 徐、魏源 はすでに 「師夷制夷」 とい う国防強化 の新 たな対策 を提起 していたが、それは清王朝統治者 にまったく注 目されなかつた。 こ う してまる

20年

を無駄に費や したこと、それが中国の第一の誤 りであつた。太平天国革命運 動 と第二次阿片戦争の打撃の もとで、中国はやつと「師夷制夷」すなわち防御的近代化の 第一歩を踏み出 したのであった。

19世

60年

代初めか ら

90年

代初めまで、清朝政府の「洋 務」 を主事す る官員が r強兵日本」を掲げ、軍事工場、造船所の建設、鉱 山の採掘、外国 人技術師の雇用、洋学者書の翻訳、留学生の派遣等を開始 した。こ うした新 しい措置は「自 強新政」、或いは 「同光新政」 として標傍 され、現在ではそれは 「洋務運動

Jと

称 されて いる。1)また、国際的情勢か らみ ると、この三十年あま りに世界の近代化は第

2の

波に入 つていた。 日本人はこの時期 において奮起 して追い上げを図 り、国家の基本的面貌 を変革 させた。 さらに、国内の状況か らみても、 この時期は形成が安定 してお り (対フランス関 係だけが悪化 していた)、 改革の推進 には非常に有利 な条件が整 っていた。 政府が工業の近代化 を提唱 したことは中国経済史上重要なターニングポイン トであった。 最新式の軍事工業を興 し強化 を図ることは、上か ら下への近代化改革のよく見 られ る形式 の一つである。清末の この 自強運動か らしてみると、 こうした形式のもつとも控 え目な努 力であつた。 この論断には多 くの根拠がある。近代君主制国家が西洋のイ ンパ ク トを受 け て帝国の生存 を守 るために上か ら下への改革用いて活路を探 し求めたのである。普通は軍 事面を抑 えて改革に着手す るのである。それ と同時に教育改革、法律改革・土地改革に着 手 し、困難 に向か う民族の心を喚起す るのであるが、 自強運動はそのよ うなものにはな ら なかつた。清朝政府は全民族の精神 を動員す ることはできなかった。 1、 諸外国は トップダウン方式の改革で中央政府指導の全国的規模のスケール であるのに 対 し、 自強運動はそれ を始めた工場や鉱 山企業は地方 レベル、その地方官や高官 によって 営まれお互いが独立 した機関を形成 し、地域利益のために建設施策を行なったが、総督 は 決定する権限がな く、やや もすれば遅延 した り進行できるてだてもなかった。 2、諸外国の近代化は商業の発展振興に気を配 り、商業化す ることにより工業化 を促 した。 清末の 自強運動の前期 においては農業を振興 し、破壊 された社会秩序 を回復す ることで商 業を発展 させ国家収入 を増大 させ る取 り組みも発展の一つの方向ではあつたが、まだ認識 が不十分であつた。 3、 諸外国の近代化は啓蒙思想が先導 し、特に発展す る国民の教育計画 に注意 し、新 しい 人材 を育成 した。 日本の

90%以

上の居住民は海岸か ら

80キ

ロメー トル以内に居住 してお

(3)

「比較近代化の研究」 り、東京・京都・大阪そ して長崎は

4大

文化の中心を形成 し、全国の人の流れ と商品は こ れ らを集散地 とし全国に広め、明治の時期 には国民教育 を把握す ることに注意 した。 清朝末期の中国は人 口四億 を超 える鎖国大国であつた。伝統思想 と習慣は根強 く改革 を 促進 しよ うとしても思想、世論、人材面の不備か ら改革促進は困難であつた。 4、 自強新政は実際にはただ危機 に直面 し、慌てて対処 し推 し進 めた、小手先の改革で名 実伴わない ものであつた。 ここで近代化の具体的な問題か ら “自強求富

"を

目標 とす る防 衛近代化の構造的弱点を分析す る。まず中国の伝統的政治構造の社会変革に対す る容認能 力 と変革の起動メカニズムの問題について。東方の発展途上国の近代化は、初期段階にお いて国家の政権の強弱が社会変革をす る決定的要素 となる。 これ らの国は資本主義の要素 が希薄で、経済を自ら組織す る能力はまだ備 わつていない。中国の伝統的政治権力構造は、 社会変革の重大な任務 を負 うことができるのであろ うか。 中国の権力構造は一つの巨大な 帝国のピラミッ ド構造である。ピラミッ ド構造の トップは高度 に集 中 した絶対王権であ り、 人 口の多い広大な面積の大帝国には有効な構造である。明清以来、中央集権はよりいつそ う強固にな り、忠告 を退 け皇帝個人に絶対権力 を持 たせて しまった。 こ うしてピラ ミッ ド の先端はます ます細 く極端 に折れやす く独断性 を強 めていつた。 ピラミッ ドの中層は巨大 な文治官僚組織である。それは皇帝に対 し責任 を負 う多重層の構造である。 この官僚シス テムは科挙制度 によつて選 ばれた儒教知識分子か ら構成 されてお り、実際に国家を統括 し ていた。 しか し独立 した責任 を負 うシステムは乏 しく、薙正帝の時代に、軍機処を内閣に とつて代わ らせた。権力 を統括 し、伝統的官僚制度の理性的要素 と自主性は さらに大き く 肖Jられ一つの古い しきた りを踏襲す る官僚政治文化 を形成 した。 ピラ ミッ ドの下層 は比べ ることのできない部厚い土台である。 これ は地主・郷紳が操 つた家族本位 の高度 に分散 し た 自給 自足経済社会である。 この砂をまいたよ うな社会基盤 は中央集権の上台である。 国 土が広 く交通が不便で、国内市場統一に乏 しい この辺境の地では、皇帝・官僚 システムの 権力行使が実際はこの下部組織まで到 らず、 したがつてそれ は相対的な自主性 を備 えた一 つの相 当安定 した閉鎖的 自給 自足システムである。 このよ うに一つの専制政治構造は、社 会変革の能力 と機能を受け入れ ることに限界があるだけでな く、中国伝統文化の中の多 く の近代性に接近 した要素を阻害 した。 中国歴代の治乱の循環 は大体賢明な王朝の統治者 が統治 してい る時期 (多くは開国の段 階

)だ

けが、有効に官僚機 関を動かす ことができ、また上か ら下への改革 を推進す ること ができた。平凡な王朝統治者が国を治めている時期 (長期の段階

)は

ただ官僚機関の惰性

(4)

第 16号 運行 を保つ ことができるだけである。低 レベルのバ ランスを維持 し、政治秩序の高度な安 定 を獲得 した。王朝後期 になると、統治秩序は失われ、改革や官僚システムの腐敗 したメ カニズムを有効 に制上できな くなることによつて下か ら上への造反が起 こり反乱が発生 し たのである。 清王朝専制政統治の脆弱性は満・漢の民族対立にあ り、近代民族主義精神の成長を阻害 した。後期 の統治者 は政治上は後退 し、

1796年

、嘉慶帝が即位 してか ら、相次いで弱腰な 君主が現れた、特に最後の何人かは幼年で即位 した。 このように、自強運動の成否に関わ る

30年

間、政権は実際には慈稽大 后 (西大皇后

)の

手中にあった。彼女は政治上一歩引い て安逸 をむ さぼっていたが、満人の小天下と自分の権限を守ることをたくらみ、補佐を し ている軍事大臣でも全面的に政策を決定する権力 と機会はなく、地方長官などは さらにい うまでもなかった。清末の時期、王朝の軍事・政治の権限は中央から地方へ と移 り始め、 体制の改革 に触れ ることは敢 えて誰 も関わろうとは しなかった。鉄道建設について例をあ げると、李鴻章は

1874年

に変訴に訴 え、変訴 も賛成 したが誰 も支持 しようとは しなかっ た。二人の皇太后にも上申 したが、国家の大計を決めることはできなかつた。 もし重大な 方策 を決 める場合 は長期的に引き仲ばされていった。 このように後退 した内向きの硬直 し た制度構造の発展は、更に社会の変化を受け入れ る能力が失われていった。政治構造 と、 近代化 を追及す る目標がはっき りとした行動は、あま りにもつ りあわなかった。政治構造 の衰退は中国近代化の動き出 しが緩慢な主要原因である。

"

実際の ところ、中国の近代化が動きだ したのは西洋の第二代工業国家に比べてさほど遅 れてはいなかった。

60年

代に始まつた軍需産業、工業、鉱業、交通、などの各種建設は実 際には中国の工業化の始ま りであ り、有名な江南製造局の創立 (1865年

)は

明治維新 より も早かつた。 しか し、その進展は非常に緩慢で効率的な経済の組織がなかった。 これは西 洋では経済領域の問題であった。中国では先ず、政治領域の問題 となった。中国近代企業 の発展は官営か ら官民合弁企業、或いは政府が管理 した民間企業まで、これは伝統的手段 によつて新型の企業を経営す ることであ り、また後発の近代化建設 をす る国家が歩んでき た道でもある。 日本の明治維新の時代の企業も官営か ら民営へ となっていった。 これは徳 川幕府末期 に起 こした西洋式軍事工業の装備 のや り方を継承 したものである。 しか し、明 治政府 は官営の工業 を創設 したの と同時に職業選択、居住移転の 自由を促進 し、私有財産 権 を尊重 した。地税の改革、民間企業に貸与す る資金な ど、官営工業を守ると同時に民間 企業を保護 した。官営が民営に及ばないことを発見すると速やかに官営を民営に移 してい

(5)

「比較 近代化 の研 究」 つた。そ して大企業の資本家には特権 をもつて保護 し、貴族・武士が政商へ と変わ り、後 に財閥資本 になるように育成 した。 当時中国はこのよ うにはな らず、国家は経済振興の全 般的配慮に欠 け、工業化推進 の組織 もな く私有財産権 を守 る法律的措置 もなかつた。官営 企業の弊害が大々的に暴露 されている時でも、時宜にかなつた改革や民営への転換 もでき なかつた。李鴻章はかつて手紙の中で、 「知つていなが ら役にも立たず、止めることもで きず、すでに浪費が多すぎて表向きを維持す るしかな く、それでもなお浪費は続 く」 と言 つている。3)また著名 な啓蒙思想家の厳複は、時弊 を深 く理解 し、

30年

の 自強運動 に対 し ても深刻 な反省があつた と述べ、

30年

余 りの失策の主な原因は制度上の障害にあることを 述べた。4)このように中国近代化 の次の機会には制度変革の闘争に集 中す ることであつた が、 しか しこれは難 しい転換であ り、内外の条件や特殊な変化が長引かせていつた。 2、

歪み と断絶

中国は上か ら下への変革 を実現す る貴重な機会 を逃 した後、今世紀初頭か ら

40年

代末ま で、近代化は曲折 と困難 を極める段階に入 つた。その特徴 は近代化の歪み と断絶である。 今世紀最初の十数年の間に、中国には以下に述べるよ うな若干 の重大な変化が現れた。

(1)国

家の分裂の危機 と八カ国連合軍による侵略が中国人民の政治的民族主義 と経済的 民族主義を覚醒 させた。

(2)近

代産業の発展テンポが段階的に早め られた。特に鉄道 の敷設 は重要な経済的、政 治的、文化的意義 を有 していた。

(3)個

人資本によつて設立 された企業が官営企業 に取つて代わつたほか、海外華商の国 内投資が促進 され、外国に対す る競争力の強化が 目指 された。

(4)1905年

に科挙が廃止 され、教育革命 が起 こされた。

(5)軍

事制度が改革 され、武科 の廃上、新軍の設立が行なわれた。

(6)外

交部、商部、郵博部等の新機構が創設 されたほか、各省 に諮議局が、北京に資政 院がそれぞれ設置 された。また、 「憲法大綱

Jが

公布 され、立憲君主制への準備 のテンポ が早められた。

(7)新

興の庶民 レベルの知識階層 と留学生が政治 活動に参加す るようになつた。

(8)立

憲派 と対立す る急進 的革命派が台頭 し、反清武装勢力による決起が起 こされ、帝

(6)

埼 玉女子短期 大学研究紀要 第16号

200503

制の転覆 と共和制の誕生が もた らされた。 以上は中国がま さに社会変革の新 しい起点に深 く進んでいった ことを示 している。 この 十年間の変化、特に社会変化は阿片戦争以来の半世紀に及ぶ変化 をはるかに凌 ぐものであ った。 この十年間の変化は

20世

紀 を交差す る時の、当時の特別に深刻 な情勢によって引き起 こ されたものであ り、それは中国人民の異常に強烈な反応 を巻 き起 こしていったのである。

19世

紀の半ば以来、イギ リスは 「自由貿易」による拡張政策を実行 していたが、東アジア 地域では平和的な方法により、その 「無形帝国

Jの

拡張が とられた。 当時、その他の西洋 の国家は自己の産業化 と国内問題に忙 しく、そのため列強の東アジア地域における競争は、 商業的拡張つま り市場 をめ ぐる競争が主であった。だが

19世

紀末になると、情勢が大いに 変化 し、フランス、ドイツ、 ロシア等の後発の新興国が成長す ると、新たな植民地の争奪 をめ ぐる角逐が強まっていった。その結果、いまだ分裂 されていなかったアフ リカ、没落 したオスマ ン帝国や中国が帝国主義 による争奪の主要な対象 とされ るようになつた。 この よ うに、東アジア地域の国際関係 は一挙 に列強の競争の場へ と一変 していった。 中国が直 面 した情勢 は三度 に及ぶ阿片戦争の時期 に比べてもそれ よりはるかに厳 しい状況であつた。

1895年

か ら

1905年

の十年間に、戊戌維新 と義和団の乱の二つの国内事件 を入れな くても、 中国は連続 して四度の大きな打撃を受けている。つま り、 日清戦争

(19841985年

)、 西 洋列強の中国に行 なった領土略奪 と勢力範囲拡大の大規模な活動、 (1987‐

1898年

)、 人 力国連合軍による北京での大略奪 (1900年)、 日露の中国の東北地域の制圧権 をめぐる戦 争 (1904‐

1905年

)力 `それである。その どれ もが中国に与えた損害は大き く阿片戦争の規 模 を上回 るものである。国権 の喪失や国家的屈辱 は後 を絶たず、沿海 と国内河川の港は外 国の管理下に置かれ、不平等条約の開港場は

1870年

15で

あったのが

1900年

には40 へ と増カロした。こうして最後には、中国は西洋の産業国と日本 との共同管轄による半植民 地へ と陥落 していった。ある西洋の歴史家は上述の幾度 にも及ぶ中国の受 けた屈辱につい て以下のよ うな評価 を してい る。 「世界の歴史において、中国の十分の一の領土 と人 口を 有す る国家であっても、中国が

1897年

11月 か ら

1898年

5月 までのこの六カ月の間に受 けたあのよ うな一連の屈辱 を受 けた国はない。我 々は更にこう言葉 を付けカロえたい。行政 上あのよ うに公認 された諸弊害の改革において、また、多 くの優 良で強靱 な民族 が住む極 めて豊かな土地上での全ての資源の組織 において、このような無能ぶ りを発揮 した国は ど こにもない。」5)このモース

(H B Morse)の

評価 の中でも提起 されている世界の歴史上

(7)

「比較近代化の研究J における二つの『 ない』は、当時の中国が絶体絶命の危機 に瀕 していた状況の深刻 さを示 してお り、まさにこ うした情勢が中国をして改良 と革命 の間に追い込み、最終的に革命の 道 を選択 させ たのである。 こ うして、衝撃が大きければ大きいほ ど、反応 もますます大 き くなるのである。 この選択は人民の意志によつて変化 した客観的情勢が生み出 したもので はなかつた。 旧王朝体制下の改革が王lllを覆す革命へ と変化す るのは、器物次元の変革が 制度次元の変革に変化す るとい うことである。 この革命は歴史上の農民の決起 とは異なっ てお り、それは 日本式の上か ら下への改革が中国で推進す ることができないために、フラ ンス革命に倣つた暴力革命 であつた。革命 は社会の変革を促進す る最 も急進的なや り方で あるが、革命が社会 を変革す る実際的効果 と変革の方向は、革命家の主観的願望で決まる ものでなく、各種 の主観的、客観的条件によつて決定 され るものである。革命の旧制度 に 対す る打撃 と破壊の程度は、既存の制度の構造が既 に どれだけ陳腐な もの となつているか どうかにより、また、革命 が代表す る新興の経済力が既 に どれだけ成熟 してい るのかに よ って決 まるのである。 「

20世

紀に交差す る時期 に、改革か ら革命へ と変化 した国家は、中国以外にも、ロシア、 トル コ、メキシヨ等がある。ロシアはツァー リ皇帝の統治による農奴制国家で、19世紀 60 年代 には農奴制 を廃上 し、

90年

代には西洋の財政的援助 を受けて近代経済が大いに発展す ると共に、軍事帝国主義へ と転換を始 めた。 ロシア革命は強力な組織的指導力 を有 してお り、革命後、ロシア経済は一時的に深刻な動揺 を経験 したが、後に社会主義近代化の新 し い道 をすみやかに歩んでいつた。トル コは19世紀初頭か ら近代西洋 との接触の窓 口を開い てお り、連続 して数回の 「西洋化

Jの

改革を実行 した。

20世

紀の初めには、青年 トル コ党 の党員が長期間の間争 を通 じてオスマンの君主制に終止符 を打ち、外国の干渉に反対す る 短い戦争 を経た後、いちはや く経済発展の道 に進んでいった。メキシヨは革命前において、 すでに「改革戦争Jを実行 してお り、また外国資本に頼つた経済成長 を経験 していた。1910 年の革命では多 くの農民が土地革命 を発動、実行 していたので、

1917年

の新憲法 と後の資 産階級の改革に対す る障害 をすでに取 り払つていた。以上の二つの革命はみな改革 と革命 の間の一定のつなが りを示 してお り、深刻 な政治的権威の危機や近代的発展の長期的な断 絶は引き起 こしていない。 辛亥革命 は成功 しなかつた改革運動 (自強運動

)を

先導 とし、失敗 した改革運動に対す る逆反応であつた といえる。つま りそこでは、明 らかな経済的成長のよりどころがな く、 強大な民衆の動員 もな く、また強力な組織的革命の指導体制 も確立 されなかつた。清王朝

(8)

埼 玉女子 短期 大学研 究紀要 第 16号

200503

は社会の極端な腐朽 により、一撃のもと突然崩壊 したもので、そ うした崩壊 による構造解 体は、西洋の内発的近代化内部の多元的構造の分散性 とはことなつている。清王朝の崩壊 は、高度 に集 中化 された一元的構造の崩壊であ り、こ うした崩壊は既存構造の機能に混乱 をもた らすだけで、大小 さま ざまな伝統的な権力の中心へ と分裂 し、国家は混乱 と麻痺状 態に陥 ることになる。 また、解体へ と向か う旧来の構造は近代的発展への転換に対 して 自 発的に適応す ることはない。 このよ うに、専制王朝の解体は深刻な政治的権威の危機 をも た らし、その結果、大小の軍閥が政権を分 け合い、地方割拠の局面が出現す るようになる。 こ うした状況は

19世

紀のラテンアメ リカの独立革命後に出現 した長期の政治的混乱の局 面に似てい るところがあると言 えよう。統一的近代民族が形成出来ず、安定 した政治的中 心がない状況では、社会内部 に存在す る発展の潜在力を広範囲に有効に動員す ることは不 可能 とな り、それがまた停滞 を近代的発展へ と転換す ることを不可能に して しま う結果 と なる。 これは各国の近代化 における一つの基本的経験である。 このよ うに革命 による近代 化の効果には多 くの可変的な要因の影響 を受けることになる。近代化 に必要な変革の要因 を大量に集 まった地域 においてこそ革命 は近代的特徴 を有す るようになるのであ り、伝統 社会 を近代化 させ る一つの急進的方式 とな りえるのである。 こ うした要因が十分 でない、 あるいは成熟 していない地域では、近代化の過程が先 に引き仲ばされ ることになる。 清末の改革の失敗、変法の失敗によ り帝国主義の侵略が苛烈 となる状況の中で辛亥革命 は爆発 し、先 に述べた よ うな先天的弱点が出現 した。専制王朝の崩壊は近代的発展の要因 を解放す る点では有利 であったが、一方で中央集権の解体後に出現 した権力は、実際には 旧来の構造に寄生す る外国勢力 にとつて都合 の良い ものでもあつた。封建勢力や新たな軍 閥勢力は時機 を伺い勢力地盤 を拡大 し、名 ばか りの 「共和」や 「民主

Jを

実行 したことは 近代化の実を切 り捨てるものであった。国外の新・ 旧の帝国主義は政権の非望を抱 く者 を 支持することを餌に、時機 を伺い中国での特権の拡大 を図つた。また、 「共和」 とい う名 を支持す るふ りを し、中国に対 して半植 民地の統治の実 を強化 させていつた。清王朝が解 体 し1949年には中国は再度革命の勝利の前にあったが、その間の約

40年

間は、中国の近 代化の過程の特殊性は近代化 と半植民地化 (半周辺化

)の

過程 との相互交錯 にあった。 こ のよ うに、中国の近代化の過程は歪められ、時には 「断絶」 といった現象 まで出現 したの である。 中国の近代化が歪め られ るとい うのは、半植民地の環境の中で近代的な発展に必要な一 切 の政治的、経済的、文化的な改革が、全て独立 した主権国家社会 におけるよ うに正常に

(9)

「比較近代化 の研究」 行なわれないので、帝政の東縛か ら解放 された多 くの発展につなが る潜在的要因がかえつ て不平等条約 システムの重い東縛 を受け、それ らの潜在的要因が利用 され発揮 され ること が非常に難 しくなる状態 を指す。 このため、そこでは成長が緩慢な従属的発展が強いられ るようになる。また、そ うした従属的発展の最 も突出 した点をあげればそれは以下の三点 になるだろ う。

(1)中

国は完全に世界資本主義経済システムに包摂 (組み込まれ

)さ

れ、その周辺部に なつた。 こ うした状況のもと、外国資本の強制的浸透は中国の経済発展 を、「産業化 した 西洋 (日本)」 と「農業の中国」といつた発展パターンのもとで進 めていつた。その結果、 中国では主に農産物や鉱 山物 といつた第一次産品の輸出による貿易(1936年の農産物の輸 出は総輸出額の

483%を

占めた

)が

発展 し、外国の管理を受けた従属的経済が形成 されて い った。また、 日本に略奪 された台湾、東北地域、河北地域では若千の従属的産業が発展 したが、 日本 と「競合

Jす

る産業の拡大は禁止 された。

(2)中

国の近代産業は沿海条約開港都 市を中心に してお り、主に軽工業が中心で、外資 企業 とのはざまのなかでかろ うじて生存 と発展が可能であつた。 さらに、外国人は直接投 資や工場建設以外に、巨大な銀行 、外国貿易企業、運航システム等を通 じて中国経済をコ ン トロール していつた。今世紀の初頭だけでも、つま り中国の利権の回収運動 と第一次世 界大戦前後には、二度の経済成長が中国にもた らされたが、それは外国による中国への圧 制が少 なくなつた結果であ り、ば らば らに初期的な輸入代替化による産業イヒが行なわれた にす ぎなかつた。外国資本 と経営技術が中国の廉価 な労働力 と結合 し、合弁経営による近 代的半植民地経済が形成 され るだけで、従属的経済成長がもた らされ るだけであつた。

(3)広

大な農村が商品経済システムに巻 き込まれていつた。外国の商品が中国農村の伝 統的手工業を瓦壊 させ る力は想像 されたほ どではないに して も、それによつて、小農階層 の分化 と貧困が激化す る一方、旧来の経済構造はなん ら変化 しなかつたので、資本主義化 による困難は深刻 なもの となつた。6)実際、中国で試行 された各種の農村再建実験で失敗 しなかつたものはなく、農村の破産は社会動乱の根源 となつていつた。 いわゆる近代化の 「断絶」現象は、特殊 な要因による深刻な影響を被 ることで、政治 、 経済、社会の正常な発展の連続性が断ち切 られ ることを指 している。特に持続的経済成長 が断ち切 られ ることは、近代化の過程 に大きな影響 を及ぼ し、反近代化 といつた後退現象 を引き起 こす ことす らある。中国の具体的状況か ら論ず るな らば、それは主に 日本の帝国 主義の台頭 とその変貌 による対中侵略政策が中国の近代化 に与えた深刻な妨害、打撃、破

(10)

埼玉女子短期大学研究紀要 第16号 2CK15 03 壊がそ うであった。阿片戦争以後、西洋列強は中国に対 してあらゆるや り方で侵略を行 な ったが、それ らは主に中国における経済的利益の拡大 (ロシアを除 く

)を

目的 としたもの であつた。 日本 は中国の隣国であるが、 日本 は最初で最後の東アジア地域の帝国主義国 と して 自己の経済的利益の拡大を図るだけでな く、中国の独 占を企てた。また、 日本は中国 の領土 と資源 を略奪 して海外の産業基地 を設立 し、中国市場を独 占した。 日本 は明治維新 の時期 に西洋の 「富国強兵」に学び、東アジアに 「新たな西洋国家を建てる」 とい う目標 を抱 くよ うになつた。 日本の著名 な啓蒙思想家である福沢諭吉の 「脱亜論」はアジアを離 脱 し、西洋文明 と進退 を共にす るとい うものである。彼 はまた露骨にもこ う述べている。 「シナ と朝鮮をもてなす としても、隣国だからといつて特別に遠慮す ることはない。西洋 人が彼 らをもてな しているように処すればよいのだ」。7)明治維新以来、 日本 は十年 ごと に征服 を行なってお り、それ らがすべて中国にとって災難でもあつた。近代世界の各国の 中で、 日本のよ うに 「殖産工業」 と植 民地拡張 とを直接結びつけ、隣国を対象 に して貪 る よ うに連続 して侵略戦争 を発動 し、それ によつて近代化 を推進す るといつた例はほ とん ど ないであろ う。

20世

紀以後、日本は 日英同盟のバ ックア ップの もとで、一挙 に東アジア国際関係 の主要 な役割 を担 うよ うになった。 こうした国際情勢が形成 され るよ うになると、近代 中国が直 面す る国際環境はさらに悪化の一途をた どるよ うになっていった。

20世

紀の最初の三十年 において、中国の近代化に対す るいかなる努力 も困難 を極 めるよ うにな り、最後には 日本 の侵略戦争によって完全に 「断絶」 させ られていつた。 3、

歴 史 の啓示

(1)第

二世界の低開発国が近代的産業社会 に転換 するのは困難 な道程であ り、今 日で も 順調 な道程 とはなつていないのである。伝統的社会文化構造が強固な国家であれ ばあるほ どその道程は困難 となつてい く。 また、大国の近代化への転換 は小国 よりも難 しくなる。 しか し、この場合、 日本は例外である。 日本 は当初最 も早 く近代化 を成 し遂げた非西洋国 家であつたが、その近代化の過程は不均衡 で、他国の犠牲の うえにな され、また東アジア 地域の近代化 を遅 らせ るとい う特殊な歴史的条件のもとで実現 されたものであった。故に、 日本 を 「成功

Jの

「見本

Jと

す ることはできない (日本 は後に外来の関与のもとで第

2の

(11)

「比較 近代化 の研 究」 近代化 を強制的に実行 している)。 中国近代化の過程 を研究す る場合、他国 と相互比較す ることは可能であるが、西欧あるいは 日本の近代化 を基準 として用いることは出来ない。 「近代化の挑戦に直面 し、 日本を成功の見本 とし、中国を失敗の典型 とするのは、明 らか に愚かなことである」。3,この ように、軽率に若干の小国の近代化の経験 をもつて中国の 近代化をみるのは、必ず しもふ さわ しい ことではあ りえないのである。

(2)中

国の人 口は世界の他のいかなる国家 よりも多 く、歴史的な伝統における発展の連 続性 も他のいかなる国家 よ りも長い。また、過去百年に経験 した内憂外患についても他 の いかなる国家をも凌 ぐものであった。 こ うした一切が中国の近代化への大転換 を長期の、 困難かつ曲折に満 ちた もの としていったのである。中国の近代化のテ ンポは大変 に遅 く、

20世

紀の

30年

代のは じめになつても、中国近代化の若干の側面は

19世

紀80‐

90年

代の 日 本や ロシア とさほ ど変わ らない ものであ り、なかにはその レベル にさえも至 らない もの も あつた。 こうした状況は中国が

70年

もの歳月を費や しても、それは他国が

30年

の歳月 を 費や して到達す る レベル にす ぎない ことを示 している。 日本や ロシアは中国のよ うに外来 の干渉や侵略 を被 った ことはないが、中国は、アフ リカ分割、オスマン帝国の解体、イン ドの亡国、エ ジプ トの植 民地化 といつた近代の悲劇 に打ち勝たなければな らず、そ うした 状況の中、なん とか 自己の悠久で、独立 した文明を支 えていた。事実、中国が半値民地に 転落す る過程 において、いかなる外国 も完全に中国を征服す ることはなかつた。 これは中 国人民の圧迫に対す る驚 くべ き忍耐 と反抗力を示 してお り、また華夏文明の濃厚 な精神力、 及びその農業社会にひめられている内在的活力 を示す ものである。

(3)中

国の近代化への過程は複雑な内外要因の相互作用の影響 を受けてお り、それが深 刻な矛盾の過程 を生み出 していつた。西洋の政治発展論の有名 な言葉 に、「近代性 は安定 性を生み、近代化は不安定性 を生む」9)とい うのがある。中国の近代化は数千年の安定 し た小農経済 と安定 した封建専制の統治 を打破 しな くてはな らなかつたが、旧秩序の完全な 解体は激 しい社会的動乱を引き起 こし、まった く新 しい安定 した中心を探 し出す ことが困 難であつた。いかなる国家の産業化 と持続的経済成長 も、安定 した環境がな くては実現が 困難である。帝制が解体 して後、長期の模索の過程 を経過 したが、中華人民共和国の成立 によって、中国はや つ と自己の強大で安定 した政治的中心を確立 し、独立 し統一 された近 代的民族国家 を打ち立てることが出来たのである。 このよ うに して、ようや く人民のなか にひめ られていた潜在力や経済の急速な発展に必要な条件が発揮 され るようになつたので ある。

(12)

(4)中

国近代化の過程は閉鎖的な状態 を打ち破 り、徐々に近代的世界 を認識 し、そ して 近代的世界に進んで行 くことであつた。 中国の ように前近代の発展段階において、はるか に先進的国家であっても、いったん閉鎖的になると外来の新 しい要因を吸収す る能力を喪 失す ることにな り、それが盲 目的な」卜外 を呼び起 こし、世界の発展の潮流か ら取 り残 され ることになる。 こうして、停滞によつて落伍 し、落伍 したことで叩かれるようになる。ま た、独立 した自主性 を喪失 した中での門戸開放は完全な外来の要因による支配を受けるこ とにな り、 自己の自主的な選択能力を喪失す ることにな り、最後には従属国か半植民地に 転落 して しま う。 この一世紀の間に、中国は「閉鎖 一開放―再開鎖 ―再開放」の曲折 した 道 を歩んでお り、その双方の経験は十分に研究するに値す るものである。

(5)国

際環境の特質 と中国の歴史の特質は、中国の近代化が選択 した形式 とコースに影 響 を与えることはあつて も、それによって中国の近代的発展 に必要な社会経済的条件が変 え られることはない。阿片戦争後の百年間において、発展の格差は縮小 どころかむ しろ拡 大 した。 また、発展が後れ るほど成功 を焦 るよ うになる。康有為は 「変法が三年続けば 自 立す ることができる」 と考えていた。孫文は革命後十年の建設で西洋 と「肩を並べる」 こ とができると予測 していた。 これ らは全て速成的方法を通 じて直線式の発展 を 目指 した も のであ り、それはあたかも田畑 を耕す農夫のロバが産業化の鉄甲馬に飛躍す るような もの で、中国の実際的国情に適 していない。外国の近代化の発展モデル をそのまま導入 して も それだけでは成功はおぼつかないのであ り、中国は 自己の実践 を通 じて、あ りとあらゆる 試行錯誤 を経験 しなが ら、自己の発展の道 を模索 して行かなければならないのである。

1)

本翻訳 は、羅栄渠著 (中国早期現代化的延誤〉―― 一項比較現代化研究 《近代史研究》1991年

1期 The Delayed Early Modern■ zatlon ln Ch■na 1860 1949(1991)の 第二節、第四節、第五節 の抄訳である。

原注1)al広京 《関於晩清 自強運動的幾点意見》 《近代 中国史研究通訊》1987 第4期台北

原注2)(Gllbert Rozlnan,The MOdemlzatlo■ of ChlnD《中国的現代化》 中訳本 上海人民出版社1989

年版P274

原注

3)《

李文忠公 全集 》朋良函稿、巻12、 “被 王補帆 中丞"

(13)

「比較近代化 の研 究J

原注 5)H B Mbrse,Far EasLn lntematonal ReLtlon3 中訳本、下冊 1976年 商務印版P412 原注

6)陳

慶徳 「論中国近代農村商品経済低層次拡散の歴史的性格」、『 近代史研究J、 1989年 1期

原注

7)許

介麟『 近代 日本論』1987年 、台北版

P5

原注

8)バ

ー リン トン・ ムア、『 民主 と専制の社会的起源』中訳本 1987年 華夏出版社P183 原注

9)ハ

ンチン トン、『 変動する社会の政治秩序』中訳本 1989年 上海訳文出版社P45

参照

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