†学校教育専攻 学校教育専修 指導教員:紅林伸幸 原 著 論 文
教室の学校臨床社会学的考察
―― 生徒が生き合う空間の視点から ――
城
京
子
†Kyoko JYO
キーワード:教室,現象学,学校臨床社会学 1 章 問題と目的 生徒の考え方や反応,行動が変わってきてい る。ここ数年来私が強く抱いている感覚である。 この変化に違和感を感じ,また共に学習する中 で感覚の“ズレ”をたびたび感じるようにも なった。「こちらの意図するところが,生徒に 通じない。」「当然だと思っていたことがわかっ てもらえない。」「どうしてだろう。」日常生活 の中で,そう考えることが多くなってきたので ある。 社会が大きく変化し,その影響の渦中にいる 生徒にとって,変化は当然かもしれない。それ では著しい社会変化の影響を受け,一体生徒に はその影響がどのような形で現れているのか。 また,今学校教育はその変化をどう捉え,どの ような教育を行っていくべきであるのか,これ が私の問題意識である。 この生徒の変化について,土井隆義 (2008) は若者の特徴として次のように言う。「最近の 若者は,他人と積極的に関わることで他人を傷 つけてしまうかもしれないことを危惧する,ま た,他人と積極的に関わることで自分が傷つけ られてしまうことを危惧する,対立回避の“優 し い 関 係”の 中 で 暮 ら し て い る。」1)(土 井 2008 年 p. 8) このように,なるべく衝突を避け ようと慎重に人間関係を営んでいるが,互いの 相違点を避ける人間関係は,その場の雰囲気だ けが頼りの揺るぎやすい関係でもある。だから, そこには薄氷を踏むような繊細さで相手の反応 を察知しながら,自分の出方を決めていかなけ ればならない,緊張感が絶えず漂うようになる。 深く関わらない。強く繋がらない。その場その 場の雰囲気や会話を楽しみ,強く自分の意見を 主張することもなく,自分が“浮かない”よう に注意を払っている現代の若者像を,的確に捉 えている。しかし一方で,「やさしい関係」に 注意を払いながらも,言葉は大変乱暴で,相手 を傷つけるような表現も平気で使う場面も目に する。このアンバランスさは次に紹介する傾向 とも重なってくる。 小谷敏 (1998) は若者論の中で,子どもの遊 び集団は,アメリカ社会心理学の巨人たちが示 すように,民主主義の培養基として重要である にもかかわらず,55 年以降に生まれた世代は, 自由に仲間たちと遊びまわることのできる期間 としての“子ども時代”を奪われた世代だとす る。その結果「今の若者は,過剰管理の中で 育ってきた。子どものころから親や学校に世話 を焼かれ続け,定められたレールの上を走るこ とに慣れ切ってしまった若者たち。彼らには “自己決定”の習慣が全く身についていない。」2) (小谷 1998 年 p. 219) と語る。またその特徴 を,傷つくことへの敏感さ (やさしさ),過酷 な現実をジョークにして茶化す習性 (遊戯性), 競争が恒常化している大人社会への嫌悪感 (モラトリアム志向) とし,とりわけ“やさしさ” は互いの自我を傷つけないよう,他者の内面に 踏み込まない閉じた方向へと“構造化”され, 相互の不関与こそが正しい“やさしさ”となり, さまざまな行為の型として若者たちの中で様式 化されていったと主張する。また,今の若者は, 幼稚,未熟であり,その上若者たち自身が,幼 稚・未熟なる自身を恥じる様子もないという。 そしてその原因の一つとして,「親と子がとて も仲がよいことである。…この「ものわかりの 良い両親」,「仲の良い親子」こそ,曲者ではな いのだろうか。ただやみくもに親と子がいがみ あうのが,よいことだとは思わない。しかし, 親の世代への反発は,若者が自立する上でのス プリングボードとなる。今の極端に良好な親子 関係のなかで,若者たちは,そのスプリング ボードを奪われてしまっているのだ。」3)(小谷 1998 年 p. 219, 220) と述べる。そして伝統的 な日本社会のキーワードである共同性について も,有意味な活動は,人々の協同を通してのみ 可能となるのだから,集団は人々の目的達成の ための不可欠の道具であり,集団を欠いた個人 は無力な存在でしかない。こうした発想は「ア メリカの個人主義」の根底には横たわっている。 しかし日本の若者たちは,個の自由や自立性と 両立しうる共同性のイメージを持つことができ なかったと捉えている。その結果,今日本は戦 前の共同体的なものも手放し,新しい共同性を も確立できずにただただ個人の内面へと向かっ ていく個別化への道を,進んでいると分析する。 このような若者が多数を占める現代社会とそ こから起こってくる問題を解決する指標として, 門脇厚司 (2006) は子どもの“社会力”の育成 を掲げている。「“社会力”とは人と人とがつな がり社会を作る資質能力のことであり,人間が 社会的な動物として受け継いできた能力である。 しかし,現代は他人とのつながりを嫌う性向が 強まったことで,他者との相互行為の絶対量が 少なくなって,社会の運営に必要な資質能力が 育たなくなっている」4)(門脇 2006 年 p. 59) と述べている。社会力の育成こそが,今後の日 本を導く力だと主張する。 このように,これまで論じられてきた若者論 は,他者との関わりという観点において一つの 方向性を示していると言える。また,戦後の大 きな流れから現代に至る変化に伴って,若者の 心性や行動様式の変遷を考える際には,示唆に 富んだものである。しかし,そのほとんどが学 校や教室という,若者が現実に生活している中 からの報告ではないという問題が存在する。そ してまた,社会や大人からの視点で若者を捉え ているという感も否めず,これまでの若者論で 現在の中学生を理解し,最初に掲げた本論文の 問題意識を探るには,不十分ではないかと思え る。 2 章 先行研究に見る「教室」 本章では,「教室」に関する先行研究につい て考察する。教育や学校についての研究は数多 いにもかかわらず,教室そのものを研究対象と している研究は多くないのが実情である。 そこで,ここでは教室に言及している 3 人の 研究者の論を紹介する。 1 人目は教育社会学の観点から,教室の社会 的な機能に言及している柳治男,2 人目は教育 現場の観点から,最近の生徒の変化や特徴を社 会の変化とともに論じている諏訪哲二,3 人目 は心理学の観点から,教室内で繰り広げられる 生徒と教師・生徒と生徒の関係性や学級集団に ついて言及している近藤邦夫である。 柳以外の 2 人は,教室について論じているわ けではないが,それぞれの生徒についての分析 と,教師―生徒関係についての分析から浮かび 上がる教室の現状を考察することで,その特質 を分析していくことができる。 またそれぞれは研究者の立場,教師の立場, カウンセラーの立場であり,社会学,実践,心 理学と視点の違いがあるが,そのことがかえっ て教室という空間を全体的に捉えることが可能 になると考える。 第 1 節 柳治男の「教室」論 柳は彼の著書「〈学級〉の歴史学」5)の中で次 のように述べている。 現代の学校に見られる「学級」とは,近代特 有の組織である。同じ年齢の児童や生徒によっ て構成され,クラス担任がいて,独立した教室
という空間において,一年間変わることなく学 習し,またいろいろな生活をするという私たち の誰にでもおなじみの風景は,かつて中世には 存在しなかった。 そして柳は,この「学級」という集団の特徴 を,近代に成立した歴史的な意義から捉え,旅 行の時に利用するパックツアーと比較して説明 している。このパックツアーと「学級」とは, どちらも 19 世紀の産業革命が進行するさなか, イギリスにおいて大量に生み出されてきた貧民 を救済し,より善き生活に導こうとする,中産 階級を中心としたキリスト教の慈善活動がその 始まりであるという。 すなわち「学級」とは都市のスラム街に集ま る貧窮児に教育を施して勤勉な生活態度を身に つけさせ,また治安の維持を図るために進めら れた貧民教育の中で,子どもを学校へと組織化 する方法として作り出されてきたわけであり, そのため「学級」は貧困階級に最低の費用で知 識を伝達するための便法として採用された。決 して最善の方法として採択されたのではなかっ たと主張している。 このような理由から作り出された二つ,「学 級」と「パックツアー」の共通の特徴として, 事前制御という仕組みを持つ集団でもあるとし ている。事前制御とは,先回りして事前にすべ ての外乱要因を統制し,後は単純な作業を繰り 返すことによって,目的を達成できる仕組みの ことである。費用と効率という点に主眼を置い て考え出された,この事前制御にもとづいた二 つの集団の具体的な類似点は,「指導するもの と,指導されるもので構成される集団である」, 「期間が限定されて成立する集団である」,「参 加者の選択の自由度が少ない集団である」と言 える。 またさらに柳が述べる「教室」論では,現在 の学校が事前制御という大きな宿命を背負って いる上,公教育という特性上,パックツアーに 比べてさらに多くの制約が加わることとなる。 この派生的に追加されてきた制約のために,学 習する場という機能面について,様々な問題を 抱え,機能不全を起こしていると解釈できる。 事前制御され,自己抑制を求められるだけの このような規律空間に,児童・生徒が耐えられ るはずはない。逆に彼らの立場から,自己抑制 に対する代償充足行動を開始し始めると主張す る。教師が積極的に学習目的に彼らを誘導しな い限り,何らかの満足を得るために,彼らは自 ら充足感を得るための勝手な,また衝動的な行 動を開始してしまう。 解決策として柳は,事前制御に不可欠な自己 抑制が,明確に学力の獲得として贖えるという 関係の成立を前提とした学級編成の弾力化が大 前提であることはいうまでもないと述べ,学校 行事などのまったく異質の活動を導入し,代替 満足でことを済ますという従来の学級運営から の脱却が,ここで求められているのであると提 言している。 しかし,そもそも柳の考える機能組織として の「学級」が,現実的かという問題がある。柳 はあくまでも「学級」をその発生時の機能から 見ており,現実の教室やそこで実際に生活して いる生徒の目という視点が感じられない。「学 級」を,ある一定の社会的な役割を有した機能 集団としてだけ見るなら,彼の主張する論は説 得力があるが,生徒が実際に一日のうちの多く の時間を生活している空間である。そこには柳 が述べる以上の関係や繋がりや意味が発生して いる。そのような関係性や空間の中で学習が行 われ,様々なことが密接に関わり合いながら進 んでいるのである。その空間的な意味を無視し ては現在の教室は語れないといえる。柳の理論 ではこの点が充分に言及されていない。 この問題に対して,一つの知見を示している のが諏訪哲二である。そこで次に諏訪の展開す る生徒論から,教室という空間を見ていくこと にする。 第 2 節 諏訪哲二の生徒論に見る「教室」 諏訪哲二は,柳が切り捨てようと主張した, 共同体的なものに価値を見出している。高校の 教師という経験をもとに,実際の学校で体験し 実感した感覚から生徒像を捉え,時代の変化と 重ねながら,その特徴を分析しようとするもの である。 諏訪は現代が「市民社会」に突入し,ますま すその流れが進んできていると述べている6)。 「市民社会」とは,「共同体社会」である「農業
社会」をへて,「産業社会」の後にやってくる 社会で,日本では 1980 年頃から「市民社会的 なもの」が力を振るいだして西欧的な超越項 (神) を欠いた日本的な「個」が「共同的な支 え」なしに振りまわされていると主張する。 共同体的な部分が存在しない社会や集団はな い。どのような社会においても「個」は家族や コミュニテイー,会社などという「共同体的な るもの」に支えられて存在しているし,そうい う「共同体的なるもの」の支えなくして「個」 が一人で立っているわけではない。しかし時代 の変化の中で,「共同体的なるもの」という視 点を失った,市民社会的な「個」という考え方 が,子どもの変化に大きな影響をもたらしてい るという。 グローバル化による消費社会がどんどん進み, 日本における国民国家の枠組みや文化を揺るが し,市民社会となった今,子どもも「共同体的 子ども」から「市民社会的子ども」に変わった と言える。諏訪はこの変化を「オレ様化」とい う言葉で表している。 市民社会の中で,「共同体的」な支えのない 「個」である生徒は,学ぼうとしなくなり自分 を変えようとしなくなった,修業をして一人前 の大人になろうとしなくなったとし,「オレ様 化」すなわち,自己をほかの自己 (他人) と比 べて客観化することが難しくなった。自己 (の 感覚) に閉じこもりだしたと言うのだ。 このように「オレ様化」した生徒から見えて くる学級像を整理しておくと,集団が存在する 教室空間にいながら,それぞれが共同的な関わ りを持っていない様子が浮かび上がってくる。 そこでは一人ひとりが自分の世界を生きており, 自分と他人とを客観的に比較したり,全体の中 の自分という視点を持たずに生活している。見 えているのは自分と場面場面で関わる相手だけ であり,教師でも生徒でも関係がない。非常に 直線的な狭いコミュニケーションで,広がりの ない関係しか持てないという構図が見えてくる。 また,自分の行うことと相手からしてもらえる こととの採算がとれているかということを,常 に無意識に計っている姿も伺える。一つの空間 に,個人個人が自分と目の前にいるごく少数の 人間との狭い世界の中で生活している。そのた めに他者の視点からの反省や,振り返り,自己 の姿の確認が難しい。そしてそのような世界が 複数存在するのが教室であるということが,諏 訪の述べる生徒論からわかってくる。 しかし問題なのは,諏訪が,結局教師的な範 疇で子どもを語っており,その範疇を超えてい ない点であろう。「オレ様化」した個の集合体 として教室を捉えていて,そこで日々生活して いる子どもの立場からの論述ではない。確かに 「オレ様化」した生徒がそれぞれの自己を主張 しだしている,しかしそこには「オレ様化」し ている一つの社会が成立しているのも事実であ る。「オレ様化」したそれぞれの子どもたちが 複雑に関係しながら生活しているのが現実の教 室であり,諏訪の理論では個々の子どもに焦点 は合っているが,関係性という視点が弱いとい える。 そこで,諏訪が取り上げられなかった関係性 というものに注目して教室を分析している近藤 の研究を取り上げることで,教室について別の 側面を描き出し,全体像を捉えたいと考える。 第 3 節 近藤邦夫による教師と生徒の関係性 に見る「教室」 自身が臨床心理士として教育相談に携わる立 場である近藤邦夫は,子どものかかえる問題や 病理,親や家族のシステムがかかえるそれと, しだいにその背後にある「学校」や「学級」や 「教師」が,子どもの問題に深くかかわるもの として実感を伴って見えてきたという7)。そし て,学校という場と深く関連して生ずる子ども の問題を,①子どもと教師や学級や学校との関 係との問題として,あるいは学級や学校のシス テムそのものの問題として捉え,②問題が生じ たときの介入の対象を,子どもと教師や学校と の関係,あるいは教師のあり方や学級や学校の システムそのものに広げていくことが,学校臨 床心理学の重要な課題になると述べ,その観点 から分析研究を進めている。 近藤は,子どもにとって最も重要な準拠集団 である学級がどのようなシステムを有し,その 中で子どもがどのような位置を与えられるかや, また子どもの変化を促す変化エージェントとし ての友人仲間の力が,子どもの適応に計り知れ
ない影響を与えると述べ,学級経営やその結果 形成される学級集団が,子どもの変化と成長に もっとも大きな意味を持つと主張している。 そして学級経営で教師が特定の目標に向かっ て子どもを導いていく過程,すなわち「大人が 子どもを (その文化特有の) 特定の人間的なあ り方に馴染ませていく」日常的な働きかけや方 向づけを「儀式化」という言葉で説明している。 この「儀式化」には「教師からの儀式化」と 「子ども間での儀式化」の二つがあり,一つの 学級に所属するということは,このように,そ の学級独自の「教師からの儀式化」と「子ども 間での儀式化」にさらされることであると近藤 は述べてる。学級を構成する教師と子どもの価 値と行動様式は,その学級独自の規範や価値の 体系を生み出し,その集団独自の「要請特性」 となって個々の成員に,その要請特性に沿った 行動の再編成を迫る。それまでの生育史の中で この要請特性と適合 (match) する行動様式を 培ってきた子どもは,自分を生き生きと発揮で きる居場所を見出すが,これと適合しない (mismatch) 行動様式を培ってきた子どもは混 乱し戸惑い,反抗するか,退避するか,あるい は学級の要請特性に適合するように,自らの行 動様式を再体制化するかの厳し選択を迫られる ことになる。 そもそも学校という所は,少数ないし一人の 教員が,多数の生徒たちを相手にし,彼ら (生 徒たち) がもともと必ずしも好んででいない学 習活動へと導かねばならない。その状況が教員 の特別の権威と,教員による生徒に対する統制 とを不可避にしていると近藤は見る。教師―生 徒関係の現実的な一側面は,(集団規律の確立 をめぐる)「権威」と「統制」という観点から 定義されうるものであるとする。 しかし,生徒への有効な統制を可能にするこ の「権威」は日々の教室場面で,ことあるごと に傷つけられ,脅かされ,失墜させられる。し かも,教師の「権威」をバックアップする社会 的風土が失われ,学校や教師のスケープゴート 化さえ進む昨今の社会的状況では,教師の安定 した権威の確立はますます困難になっていくこ とが予想される。このように学校や教師に対す る社会的な指示や支援が乏しくなっているにも かかわらず,子どもに対する儀式化の役割が学 校や教師に過剰に付託されるという現在の状況 が,学校や教師の抱える困難さに拍車をかけて いることは言うまでのないと論じている。 このように,近藤の理論では,子どもにとっ て教師や学級というものの存在がどのように負 担になり,また回復や成長に関わる促進的な役 割でもあるということが,エリクソンらの論理 を交えながら現状に即して説明されていて,現 場の教師にとって大変示唆に富むものである。 特に教師が教室で行う儀式化の理論,また教師 という役割が与える子どもに対する負担,教師 自身が背負うこととなる困難さが,その仕組や 現在の社会的状況に関わって明らかにされてお り,学校や教師が教育活動を行う際に,考えて おかなければならない視点,陥りやすい失敗の 構造がよく理解できる。 しかしその仕組みが分かったとしても,その 失敗を回避できるかどうかは別問題である。例 えば,教師が求める儀式化と子どもが馴染んで きた家族集団のものとのマッチングやそこから 発生する問題という視点において,家庭との関 係を無視できないとなれば,家庭との関係性と いう観点での考察が必要になってくると感じる が,そのような言及は見られない。 そこで 2 章では,これらの疑問点を補い新た な知見を得るために,中学生に質問紙調査を行 い,実際の教室での世界がどのようなものであ るのか,あるいはどのような世界を築きたいと 思っているのかという事を検証する。またそれ らの結果をもとに,教室とはどのような場であ るのか,教師や生徒同士の関係はどのように作 用し合っているのかを考察することで,現在の 教室の現状をまとめ今後の指標を探っていきた い。 3 章 質問紙調査の結果から 第 1 節 生徒が見る「教室」世界 本章では,滋賀県南部の一公立中学校で, 2009 年 2 月に行った質問紙調査の結果をもと に,分析や考察を行う。調査の対象は以下の通 りである。内容は,学校や教室でどのように生 活しているか,教室についてどのようなイメー
ジを抱いているか,家と教室との違いをどのよ うに捉えているかといった事柄を問うものであ る。 質問紙調査の項目の中で,実際の教室につい て,どのようなイメージを持っているのかを調 べるため,Q6「あなたは,教室には次のこと があてはまると思いますか」という質問を行い, さらに性別とのクロス集計を行った。結果は次 の通りである。(表 2-1-4) このように,質問紙調査の Q6,「あなたは, 教室には次のことがどのくらいあてはまると思 いますか」という質問に対して,「あてはまる」 と答えた内容として多かったのが,“友人と過 ごすところ”80% 台,“勉強するところ”“友 人を作るところ”70% 台,“遊ぶところ”“生 活するところ”60% 台,という結果が出てお りどの回答の値も男女ともに同じくらいで,数 値の高い順序も同じであった。この結果から, 学校本来の持っている学習の場という考え方は もちろんあるが,生徒にとってはそのような感 覚よりも,友人との関わりの場という感覚が非 常に強いことがわかる。また“遊ぶところ”と 捉えている生徒が 6 割を超え,“生活するとこ ろ”と感じている生徒と同程度の値であった。 教室とは,自分の進路や将来のために学習する 場ではあるが,それと同時に生活の場となって いて,その生活に欠かせない存在として友人の 占める位置は大きいと感じていると言える。 さらに,質問紙調査の Q11,「教室内の物や 配置を変えたり,自分なりに工夫できるとした ら,あなたは自分の教室をどんなふうに変えた いですか。自由に記入してください。」という 質問の回答を KJ 法で分類し,ラベリングを 行った。その結果,最も多かったのが,『ス ペースを増やす・カーテンを明るくする・床, 壁などをきれいにする・植物を置く・教室の向 きを変える』などの精神的な快適さを求めるグ ループでこれを”精神的快適さ”を求めるグ ループとした。以下,“生活上の快適さ”“娯楽 の場”“居心地の良い人間関係”“学習する場” というようにグループ化できると考えた。 こうして見てみると,当然のことながら快適 な学校生活を求めていることが浮かび上がって くるが,その快適さも自分の家と同じような, リラックスできる精神的快適さや生活上の快適 さ,娯楽といった感覚が目立つ。“居心地の良 い人間関係”を求めるグループにしてもあくま でキーワードは“居心地の良さ”であって,そ こから何かを得ようとか,人間関係を広げよう といった発展的なものは感じられない。対照的 に,学校本来の学習という観点から教室の意味 を捉えている生徒が,“学習する場”を求める グループであろう。このような生徒にとっては, 193 88 105 回答者数 ( 1 年) 男子 女子 合計 78.2 58.5 68.2 68.4 73.4 83.9 52.9 42.9 31.6 31.1 17.9 42.4 32.5 84.1 48.9 68.2 68.1 77.3 87.5 53.4 36.4 17.2 30.7 18.2 44.3 34.5 > > 73.3 66.7 68.3 68.6 70.2 80.8 52.4 48.6 43.7 31.4 17.7 40.8 30.8 勉強するところ 休むところ 生活するところ 遊ぶところ 友人を作るところ 友人と過ごすところ 安心できるところ きゅうくつなところ 戦場 できるだけ長い時間過ごしたいところ 何かいやなことがあったら慰めてくれるところ 清潔にしておきたいところ ありのままの自分でいられるところ 男子 女子 全体 値は「あてはまる」(「あてはまる」+「まああてはまる」) の合計 (%) 不等号はカイ二乗検定の結果 .5% 未満水準で有意差のあるものにつけた 表 2-1-4 「あなたは,教室には次のことがあてはまると思いますか」×「男女」
“娯楽の場”にしようとしている生徒の言動と は相容れないものがあることが想像できる。 教室という一つの空間の中で,その教室を生 活の場とし,居心地の良い快適な空間に意味を 見いだしている生徒と,学習の場として,規律 ある落ち着いた空間に意味を見いだしている生 徒,それぞれの生徒が持つ世界の違いが教室の 混乱を生じさせ,本来学習の場として共通の意 味を持っていた (持たせていた?) はずのもの に変化を起こしているのが現状であるように思 う。それは,生活の場として考える生徒が増加 し,今の教室の潮流を形作っていこうとしてい るからではないかと感じる。 第 2 節 「教室」の捉え方と生徒の特性 第 1 節では,生徒にとって「教室」とはどの ような場所であるのかという事を検証した。第 2 節では,その捉え方と生徒の特性との関連を 考察する。その中で,最も顕著に特性を表して いたのが,1 節で述べた,Q6 の質問「あなた は,教室には次のことがどのぐらい当てはまる と思いますか」と,友人の有無であった。クロ ス集計の結果が次の通りである。 表 2-3-3 の結果から,「休むところ」「生活 するところ」「遊ぶところ」「友人を作るとこ ろ」「友人と過ごすところ」「安心できるとこ ろ」「きゅうくつなところ」「できるだけ長い時 間過ごしたいところ」「何かイヤなことがあっ たら慰めてくれるところ」「ありのままの自分 でいられるところ」,という多数の項目で有意 差が認められた。「友人がたくさんいる」ほど, 教室は友人と関わる場という意識が強く,さら に自分を慰めてくれたり,リラックスして生活 することができる場であり,それゆえ長い時間 いたいという考え持っていることがわかる。そ して当然のことではあるが,反対に,「友人が 少ない」と答えた生徒の方が教室を窮屈だと感 じていることもわかった。また,男女で別々に クロス集計を行ったところ,有意差の認められ た項目から男女の比較を見ると,男子は友人の 存在に休息や遊びといった,生活に密着する行 動面での存在と捉えているのに対して,女子は 安心・慰め・受容といった精神的な存在と捉え ていることがわかる。 すなわち生徒にとって,教室の生活では友人 の存在が大きな意味を持っており,友人がたく さんいる生徒ほど安心して過ごすことができて いる。また友人がたくさんいるほど,友人との 関わりを深めながら,その中でリラックスして 生活するところという捉え方をしていると言え る。さらにそのような捉え方の中でも,男子に ついては友人と共に,休息したり遊んだりする ところという思いが強く,女子については,友 人がいることで安心して生活したり,何かあっ たら慰めてもらえ,精神的に支えられるところ という思いが強い。一方,友人が少ない生徒に 70.9 45.5 52.7 49.1 61.8 72.7 32.7 58.2 30.9 14.6 5.6 34.6 20.4 > > > > > > < > > > 81.3 63.4 75.2 75.9 79.0 89.5 62.1 35.6 29.8 38.1 22.7 45.5 37.6 勉強するところ 休むところ 生活するところ 遊ぶところ 友人を作るところ 友人と過ごすところ 安心できるところ きゅうくつなところ 戦場 できるだけ長い時間過ごしたいとこ 何かイヤなことがあったら慰めてくれるところ 清潔にしておきたいところ ありのままの自分でいられるところ たくさんいる 少しいる 値は「あてはまる」(「あてはまる」+「まああてはまる」) の合計 (%) 不等号はカイ二乗検定の結果 .5% 水準で有意差のあったものにつけた 表 2-3-3 「あなたは,教室には次のことがどのくらいあてはまると思いますか」×「クラスに友人が…」
とっては教室は窮屈で過ごしにくいところだと 捉えているといえる。 次に,「教室」の捉え方との関連として特徴 的な事柄が,「家」での過ごし方,捉え方で あった。ここでは次のような作業を行った。質 問紙調査の Q9「あなたにとって,家は,次の ことにどれくらいあてはまりますか」という質 問 項 目 の 回 答 を,1「あ て は ま る」 =3 点,2 「まああてはまる」=2 点,3「あまりあてはま らない」=1 点,4「あてはまらない」=0 点,と して得点化し,Q9 の回答を因子分析にかけ, その因子項目の A,B,C,D,E,F,H の結 果について,先ほど述べた点数化の合計を行っ た。そして,その点数を,最低〜14 点までが 1, 15 点〜18 点までを 2,19 点〜最高までを 3 と して「いい家得点」と名付けた。 そして,教室の捉え方との関係を見るため, 質問紙調査 Q6「あなたは,教室には次のこと がどのくらいあてはまると思いますか」という 項目の回答と,「いい家得点」を T 検定で比較 した。なお,「いい家得点」は 2 を除外し 1 と 3 のみで見た。結果が次の通りである。(表 2-4-4) 「いい家得点が低い」生徒の方が,高い生徒 よりも,「遊ぶところ」「できるだけ長い時間過 ごしたいところ」「何かイヤなことがあったら 慰めてくれるところ」「ありのままの自分でい られるところ」という質問項目で「あてはま る」と答えた生徒が多く,有意差が認められた。 家の居心地が良くない生徒の方が教室を“遊ぶ ところ”と認識し,“できるだけ長い時間過ご したい”と感じていることになる。さらに「何 かイヤなことあったら慰めてくれるところ」 「ありのままの自分でいられるところ」という, 心のよりどころともいえる項目でも有意に高く, 家が居場所になっていないから教室に居場所を 求めていると考えられる。ただ,「友人を作る とところ」「友人と過ごすところ」という質問 項目にに関しては差が見られないので,友人と の関係においてそう思っているというよりも, 家で楽しめないまたくつろげないぶんを,学校 という場所で補いたいと思っているように読み 取れる。 4 章 中学生にとっての教室 質問紙調査の結果から,教室をどのように捉 えているかというと,学習の場であると同時に, 友人との交わりの中で,遊んだり生活するとこ ろという意識が強いこともわかった。「友人と 過ごすところ」あるいは「友人を作るところ」 という回答は,「学習するところ」という回答 と同様にずいぶん多くなっている。友人の存在 が非常に重要なものになっていることが明らか である。一方「できるだけ長い時間過ごした い」や「ありのままの自分でいられる」という 66.7 64.7 64.7 78.0 79.0 82.0 56.9 42.0 36.0 43.1 21.6 23.5 45.1 > < < < > < 79.4 51.5 60.3 54.4 76.5 85.3 48.5 50.0 30.9 25.5 16.4 57.4 25.0 勉強するところ 休むところ 生活するとこと 遊ぶところ 友人を作るところ 友人と過ごすところ 安心できるところ きゅうくつなところ 戦場 できるだけ長い時間過ごしたいところ 何かイヤなことがあったら慰めてくれるところ 清潔にしておきたいところ ありのままの自分でいられるところ いい家得点高い いい家得点低い 値は「あてはまる」(「あてはまる」+「まああてはまる」) の合計 (%) 不等号はカイ二乗検定に結果 .5% 水準で有意差のあるものにつけた 表 2-4-4 「あなたは,教室には次のことがどのくらいあてはまると思いますか」×「いい家得点」
項目では 3 割ほどの生徒しか賛同していない。 友人と楽しく過ごしてはいるが,ありのままの 自分を晒すことなく互いに探り合って生活して いる様子が伝わってくる。また,友人の存在が, 教室の捉え方に大きく影響しているという結果 も得られた。生活の場,休息の場,安心できる 場,遊びの場,慰められる場,自己開示できる 場という多数の項目において,友人がいるかど うかで違いが現れた。また,男子にとってその 友人というのは,休息や遊びという生活に密着 した存在と捉えているのに対して,女子は安心, 慰め,受容という精神的支えともいえる存在と 捉えていることもわかってきた。 家庭生活と教室の捉え方との関係については, 家での居心地が良い生徒とあまり良くない生徒 との比較を行った。その結果「生活するとこ ろ」「友人を作り,過ごすところ」という捉え 方に関してはあまり違いはなかったが,「遊ぶ ところ」「長い時間過ごしたいところ」「何かイ ヤなことがあったら慰めてくれるところ」「あ りのままの自分でいられるところ」という多く の項目で,居心地が良くない生徒の方が「あて はまる」と答えた率が高かった。このことから, 家が居場所になっていない生徒にとって,家で 満たされない欲求を学校で叶えようとしている ことが明らかになった。 ここまで,生徒たちが実際の教室というもの を,どのように捉えているのか述べてきた。で は実際の教室とは別に,生徒は教室という空間 をどういう場所にしたがっているのかという点 についても,質問紙調査の結果から読み取るこ とができた。学校が本来が持っている「学習の 場」としたい生徒も,多数いることがわかった。 一方それを上回る生徒が,「精神的に快適な場」 「生活上快適な場」「娯楽の場」「居心地の良い 人間関係の場」「休息の場」というような“生 活の場”にしたがっていることが判明した。こ れは,上で見た実際の教室の捉え方と通じると ころでもある。この結果からは,共同体として の生活の場というよりも,個人がリラックスし て過ごせる生活の場という色彩が濃く浮かび上 がってくる。学校本来の役目であった,伝統的 な共同体としての意義を求めなくなっている現 状が伺える。学校文化が持っている目的と,生 徒が望んでいる教室の意味との乖離が広がって きているのが現実であるように思える。 お わ り に 以上,質問紙調査で明らかになったことを述 べてきた。この結果からは,生徒のそれぞれが 教室を自分の世界として捉え,学校が本来持っ ている学習の場という機能的な捉え方よりも, 快適な生活空間としていることがわかってきた。 今や生徒にとって「教室」は,個人個人が快適 に過ごせる生活空間として捉えられるように なっている。この結果を受けて,学校が,また 私たち教育に携わる者達が,この事実をどのよ うに考えるかという事が必要になってくるだろ う。今までの学校文化が保有していた価値観や 目的とは相容れない世界が,そこに存在するよ うになっているのだ。学校はこの事実を冷静に また客観的に受け入れ,分析し,その上で今学 校はどのような場所として必要になっているの かということを考えていく必要がある。 例えば,あくまで基礎学力の育成のための場 として,機能的な意義を追求する。そしてその ために必要となる手立てを最優先で考える。学 校は多くの矛盾する考えをかかえて身動きがで きない状況にあることが多い。どの考えも一理 あり切り捨てられないでいるのが現状ではない だろうか。そして生徒は学習よりも快適な生活 空間を望んでいる。学校は生徒のその望みをど こまで許容すべきであるのかよく精査しなけれ ばならない。その上で,生活の一部として学習 があるのではなく,学習のために生活の一部を 共にするという学校の目的をはっきりさせ,そ の目的のために弊害となるような事柄はできる だけ避けることである。学校内の仕組みや取り 組み,行事も基礎学力の育成を中心に考え直し, 目的と取り組みをシンプルにわかりやすくする ことも必要であろう。しかしそうした場合,生 徒に対して今まで学校が担ってきた基礎学力以 外の学習の場が必要になってくることは見逃せ ない。その部分を果たして社会教育やあるいは 社会の仕組みで補うことができるのかというこ とは,大きな課題である。 そう考えると,結論として,学校とは生徒が
社会で自立した大人になるための,社会的基礎 力を養うということが目的であると認識するべ きなのかもしれない。すなわち,以前は学校を 含めて家庭や社会等さまざまな場面で行われて いたが,現在では不可能になりつつある多様な 関わりの学習の場として,学校が中心的な役割 を担うのである。そのためにはいろんな角度か らの研究と分析が必要となるであろうし,その 研究を踏まえて,どの時期にどのような力をつ け,そのためのどのような学習が必要か,生徒 の発達段階に応じた取り組みを,学習として位 置づけなければならない。生徒が望んでいる, 自分たちだけに快適な個人化した「教室」空間 ではなく,この目的のために,世界の重なり合 いぶつかり合いが学習となり得るような,学習 空間に変えていかなくてはならないのである。 そのためには,この目的が重要な学習であると いう社会からの容認と支援が必要だ。学校は社 会教育では成し得ない学習を担っていくのだと いう覚悟と,学校がそのような場であるという 社会からの容認を得る方法を探っていかなけれ ばならない。個人化した「教室」を,自分とは 違う他者をも意識する場とし,その他者の視点 も取り入れて,皆で共に生きる術を探る学習空 間とする。例えば,個人で学ぶ機会の多い学習 形態を少し変え,一つの目的や内容に向かって 複数の生徒が共に学習し,その過程で,上に述 べたようなスキルを養う学習を考える。このよ うな学習を積み重ねることが,社会で自立して いける生徒の育成につながるではないだろうか。 学校以外にそのような場所が見いだせない以上, 学校がまさにそういう場であるという共通理解 をしてくことが,学校に課せられた大きな役割 であると感じる。 参考文献 1 ) 土井隆義 2008「友だち地獄」筑摩書房 2 ) 小谷 敏 1998「若者たちの変貌―世代をめぐ る社会学的物語―」世界思想社 3 ) 小谷 敏 1998「若者たちの変貌―世代をめぐ る社会学的物語―」世界思想社 4 ) 門脇厚司 2006「社会力再興―つながる力で教 育再建―」学事出版 5 ) 柳 治男 2005「〈学級〉の歴史学―自明視さ れた空間を疑う―」講談社 6 ) 諏訪哲二 2005「オレ様化する子どもたち」中 央公論新社 7 ) 近藤邦夫 1994「教師と子どもの関係づくり― 学校臨床心理学―」東京大学出版会