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長明の道と幽玄の論

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長  明

の 道

と  幽

   津   純 (文理学部国語学国文学研究室)

玄 の

Tyomei's Views of j・iiti and Yitgcn

        Zyundd

・Isizu

       I  鴨長明は「無名抄Jr螢玉集」に歌論的見解を遺しており,特に「無名抄」の「近代歌肪事」の 項においては,歌風の歴史的変遷とともに幽玄について述べておって,この点すでに多く注意され ているし,近くはまた久松潜一博士の俊成歌論との関係を中心とした考察「鴨長明歌論考」(西尾実 博士古希記念論文集『中世文学の世界』ならびに『日本歌論史の研究』所収)も見られるが,歌を道とする 見解すなわち歌道論はどのように見られるであろうか,その点をすこしく探求し,さらに幽玄論と の関係についても若干の考察を加えてみたいと思う。  長明はかなり多方面に生きた人のようであり,その生涯についてみる必要もあるが,この方面の 事に関してはすでに諸家によってかなり深く研究されており,特に築瀬一雄博士の「鴨長明の新研 究」『鴨長明全集上下』(冨山房百科文庫)『俊恵及び長明の研究』(碧中洞叢書第三十一・三十二輯),川 瀬一馬博士の『方丈記』(新註国文学叢書)や,冨倉徳次郎博士の『鴨長明』,蓮田善明氏の『鴨長明』 などまとまった研究も公にされているし,近くは細野哲雄氏の新しい調査研究も報告されているの で(「鴨長明伝記考一父長継をめぐってー」『国語と国文学』昭和三十四年二月号),だいたいこれらによるこ ととし,ここには歌論を中心とし,問題を極く限定して扱いたい。  また,直接の資料となる長明の歌論書は「無名抄」と「管玉集」であるが,これらの書について 書誌学的方面の考察を行なうことは略したい。(注 たとえば,「螢玉集」の如き,作者を長明に擬した 轡であろうとする説もあるが,今しばらく長明の著作とする説に従って論をすすめたいのである。)ただその成 立年代,ならびに「方丈記」成立との時期的関係について一言しておくと,長明の生年については 元来諸説があって決定し難い現状であるが,そのうち,仁平三年(1153)説と久寿二年(1155)説と が有力である。歿年については建保四年(1216)説が略ζ定まった説となっているから,仁平三年 生誕説に従えばその年齢は六十四歳となり,久寿二年説に従えば六十二歳となる。 そして『方丈 記』の成ったのは建暦二年(1212)であるから,六十歳もしくは五十八歳に当たるが,これに対し,  「無名抄」「螢玉集」はどうかというと,「無名抄」にづいては,「方丈記」の前に書いたとする説 と,『方丈記』より後に書いたとする説がある。たとえば,川瀬一馬博士などは「方丈記」に次いで 。著作せられたとされるが(「方丈記」解説),岡田希雄氏は承元三・四年説(1209 ・ 1210)(「雀羅草堂雑 記」「国語国文の研究」昭和二年十一月号)を出しておられ,築瀬一雄博士もだいたいこれに従っておら れる(「鴨長明の新研究」)。岡田氏説に対しては久曽神昇博士は日本歌学大系本「長明無名抄」解題に おいて異見を出され,結局,今日のような内容になったのは,建暦元年十月ないし二年三月と見るべ きであろうとされている。この久曽神博士の説も・「方丈記」:との関係から言えば,r方丈記』より 前に書かれたとする説になるが,久松潜一博士もだいたいこれらの説に従えるとし,元来『無名 抄』は次第に書きついだものと見られるから,一二年に限定して見る必要はなく,承元四年(1210) 乃至建暦元年(1211)の年代に主として書かれたものと見てよいとされている(「鴨長明歌論考」)。そ        (1)

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 42      高知大学学術研究報告  第12巻  人文科学  第4号

の辺に穏当な見解か見られるかと思う。「堕玉集」については,久曽神博士は「無名抄よりも更に後

のもので,長明か最晩年に執筆を始めたが,完成に先立って示寂したやうである。従って建保元年

 (又は四年)頃成ったものであらう。」『r日本歌学大系本』解題P.28)とされているが,久松博士は

その根拠になお疑をもたれ,その成立年代は定め難いとされている(「鴨長明歌論考p.

140, 142」)。

かように,長明の生年とか,歌論書『無名抄』『茫玉集』の成立年代についてはなお問題があり,

断定し難いが,『無名抄』はだいたい『方丈記』と同じ時期,長明六十歳に近い頃に,日野山に隠

遁してから主に書かれたと見られるのである。そしてこの点は,その内容となる歌論思想を見てゆ

く上にも注意されると思うのである。

       n  さて,長明は,周知の通り,河合社や ̄ト賀茂社の禰宜として活躍した鴨長継の次男として生ま れ(細野哲雄「鴨長明伝記考」「国語と国文学」昭和三十四年二月号参照),自らも禰宜相続を望んでいたの であるが,壮年時代は和歌ならびに管絃の事に従っている。 そして和歌は六条源家の俊恵に師事 し,管絃は筑州中原有安についており,それぞれ期待を寄せられていたことはr無名抄』に自らも 記しているが,事実,建仁元年頃には和歌所の寄人に召されて,夜昼奉公怠らない有様であったし (「源家長日記」「明月記」),建イ二二年三月二十一日(「明月記」には二十二日)の「三体和歌」の歌合にお いては,良経・慈円・定家・家隆・寂蓮など当時一流の歌人とともに,六人の中に入っているので ある。そしてこの二つの道に対しては,出家して大原山,さらに日野山の奥にこもるようになって からもなお執心をいだいていたことはr方丈記』を見てもわかるのであるが,それではそういう和 歌や音楽,特に和歌について長明はどういう考を持っていたのであろうか,とりわけ和歌を道とす る見解はどのように見られるであろうかというに,見解としてはあまりまとまったものは見られな いように思う。  いったい,『無名抄』は,歌論・歌話・歌人逸話・歌人批評などを,およそ八十項目にわたって 断片的随筆的に書き綴ったもので,体系的な歌論書では無論ない。これに比べると「堅玉集」の方 はややまとまっているが,はじめに最も重要とする歌の姿について述べ,根本となる秀歌のほかに 歌を十の種類に分け,例歌を二首程ずつあげて説明しているのであるが,序文などから見ると,「姿, 詞,意,故実,病,諸難」のうちの第一条のみで終ったものらしく,簡略であり,かつ師俊恵め教 えを書きしるしたものであって,長明の歌論書としてはやはり「無名抄」・が中心となるが,それは 今言ったように体系的なものではない。またその歌話にしても歌人の逸話にしても,歌をよむ上の 作法とか故実など,歌の題詠化,歌合の流行などに伴って起こって。きた知的方面に関することか主 であって,芸道意識か特に鮮明に表白されているとは言えない。というよりむしろ,芸道思想とは 理念的に矛盾するのではないかと思われる言説さえも見られるのである。  たとえば,「せみのを川事」の項で,「石川やせみのを川の清ければ月も流れを尋ねてぞ澄む」の 自歌について,とかくの論難のあったことを述べ,しかもこの歌が『新古今集』に入れられたこと を「生死の余執ともなるばかり嬉しく侍るなり。」と言いながら,結局,「但し,あはれ無益の事か な。」(日本古典文学大系本による。以下同じ。)とも言っているのであって,そういう詠嘆的な言い方の 中にもかなり根強い否定観を見るのである。 この点は,「方丈記」の終わり近く,閑居の気味を述 べながら,「いかy要なき楽しみを述べてあたら時を過ぐさむ。」と言っ七いる気持に近いが,さら に,『方丈記』一篇を蓋うあの強い否定的無常観を「道」の立場からどう見るかということになる と,かなり大きな問題となると思う。  あるいはまた,「近代歌鉢事」の項の中で,「まして歌は心ざしを述べ,耳を悦ばしめん為なれ ば,時の人のもてあそび好まんに過ぎたる事やは侍るべき。」とも言っているが,この言説などは。       (2)

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      長 明 の 道 と 幽 玄 の 論     (石津)      4ろ 直接和歌に・ついての考え方を言った長明の和歌観とも見られるだけに,とりようによっては一層問 題になるのではないかと思う。それは俊成の仏教的な見方とも異なるし,定家の「紅旗征戎非吾事」 と言って芸術を至上とした態度とも異なるものがある。一体に長明の考え方なり態度なりの上には 一方に徹し切れぬものかおり,自己矛盾をはらんでいるということは,多くの人の指摘するところ である力乱和歌とか芸術というものに対する見方考え方の上にもそれは見られるのではないかと思 う。前掲の言説にしても,これを,俊成などと違って/近代的な考え方であると見る見方(福井久 蔵博士「大日本歌学史J p. 71」や,自由で進歩的な長明の歌観を示すものとする説(築瀬一雄博士『鴨 長明の新研究』昭和三十七年版p. 427)もあり,゛そういう見方もできるがノザ方また,これをそのまま        ■       d 丿一つの娯楽観としてとれば,芸道思想とは根本的に相容れないことになるし,無常観と芸道観との 関係をどう見るかも大きな問題になる。しかし,そういう不徹底な弱点は弱点とし,また,無常観 というような人生究極の考え方に横わる矛盾は矛盾としてしばらくおき,「無名抄」あたりの見解 を仔細に検討してゆくと,断片的ながらも,道に関する重要な発言を見ることもできないではな い。また,後の『発心集』においても,音楽や和歌を道としてこれに精進した人の話を掲げている が(巻六「永秀法師数寄の事」「時光茂光数寄天聴に及ぶ事」「宝日上人和歌を詠じて行とする事」など),「歌 と楽と,道異なれど,目出度き事は自ら通へるなるべし。」(無名抄「蘇合姿事」)ともある。そうして この和歌を道とする見解はまたかの幽玄論と密接に結びついてくるとも思うのであって,そういう 点をここに問題としてみたいのであるが,まず道に関する見解から見てゆくことにしたい。

       Ⅲ

 それでは,長明の道の論として最も注意されるのは何かというと,結局,和歌に対する心構えと

か態度・姿勢ということを重祖し,修行を重んじている見解であるということになるかと思う。長

明は「初心」という言葉に対して,「境に入る」「境に至る」ということを多く言っている。ここに

言う「境」とは,名人の境地とか道の奥旨をさすものと解されるが,「初心」に対して「境」とか

 「至る」と言っているところに,いかにも歌の道の深遠であって,容易に達し得るものではない

とする考えのあったことがわかる。そこから当然修行稽古を重んずる見解も出てくるのであるか,

 「無名抄」の歌話を見ると,「班は題の心をよく心得べきなり」とか,「続けがらいひから」が大切

であるとか,「晴の爵は必ず人に見せ合すべき也」といった作歌上の心得を挙げているものがかな

りあり,それは稽古の実際における注意としてきかれるか,直接歌道修行についての考えを述べた

話もある。 たとえば,登蓮法師の「ますほの薄」に関する話の如きである。 この話は後の『徒然

草』や『兼載雑談』,心敬の『ささめごと』にも引かれて有名になったものであるか,登蓮法師が,

 「命は我も人も,雨の晴間などをも待つべきものかは。」と言って,雨を冒して,ますほの薄のこ

とを知っているという聖を渡辺という所に尋ねて行ったという話である。 兼好はこの話から,「万

事にかへずしてはーつの大事なるべからず。」とか,「一時の謝怠,即ち一生の謝怠となる。」とい

う意味を汲みとっているか,長明の場合もおそらく同様で,「ますほの薄」に関する事実を知るこ

との重要さとともに,心地修行の一時も忽せにできないことを言っていると思うのである。

 とにかく,このように長明は歌の「境」ということを認め,「修行」をmんじているのであるか,

さらに,その場合,長明か最も注意しているのは,何といっても,歌に対する心構えとか態度を正

すという事ではなかったかと思う。それは修行の第一歩ともいうべき事であるかも知れないか,し

きりに,謙虚な心情をもって歌に対すべきことを言っているのである。 それは,「証得」を戒め,

 「うるはし,き心」を重んじている点に見られる。 たとえば,「証得」については,「歌人不可証得

事」の項に,

  俊恵に和歌の師弟の契結び侍し始めの詞に云 「研はきはめたる故実の侍る也。我を真の師と

      (3)

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44 高知大学学術研究報告  第12巻  人文科学  第4号

瀬まれば,此事違へらるな。 必ず末の世の爵仙。にていますべきうへ‥かやうの契をなさるれ

ば,申し侍る也。1あなかしこあなかしこ,我人に許さるるほどに成り。たりとも,証得して,われ

は気色したる班よみ給ふな。ゆめゆめ有るまじき事也。云々‘」(圏点は筆者)

と言い,「近年会狼萄事」の項Rニおいても,同じく俊恵の言として,   此比の人々の会に連なりて見れば,まづ会所のしつらひより初めて,人の装束の打解けたるさ   ま,各々気色有様,乱れかはしき事限りなし。いみじう十日,廿日かけて題を出したれどに日   比は何わざをしけるにか,当座にのみ冊を案じてそヽ゛ろに夜を更かし,興をさまし,披講の時   を分かず心々に物語をし,先達にも恥ず,面々に証得したる気色どもは甚しければ,地の班の   さまを知りて讃め譜りする人はなし。云々(圏点は筆者) を挙げでいる。「証得」の語は心敬も『ささめごと』で,歌道七賊の一つにあげているのであるが, 真に体得しでいないのに,得悟したと思いこんでいる意であろう。本来は仏教の方でいう語で,真 理を証し得悟する意であろうか,ここでは,悟ったと自惚れる意であろう。「気色」も同様で,思 い上がったそぷりを見せる意に使われているか,要するに,不遜な態度とか慢心を言うのであり, それをここで戒めているのである。  もっとも,これは俊恵の教えであるか,長明か悛恵を先師としで尊信することは非常なもので,  『堕玉集』にも,「道を知れる事,神仙の類ひといひつべし。」とか,「先師のいましめ,殊におも し。」とある。この「先師尊信」「参師開法」といった態度にも,長明の道に対する考え方の一端を 汲みとることかできるか,「無名抄」に師説を掲げることも多く,「堕玉集」も折々の師の言葉を記 録したものとなっている。その歌風において長明は俊恵から多くの影響を受けているのであるが, 和歌に関する見解においても同様に見られるのである・。そしてそれは,単に機械的追槌的に祖述し たというよりも,長明において是認され受容されて,長明の見解なり思想なりになっていると見て よいのである。一体に中世の歌論書には先人の言葉を引用している場合か多く,あるいはさらに自 分の見解であっても,「或人日」とか「先入申しき」という表現形式をとっている場合もあるよう であって,こ・の点はすでに注意されているのであるか,俊恵と長明の場合もそうで,「無名抄」に おける俊恵と長明の見解は略こ一体的な関係において理解してよく,この「証得」を戒める言説 も,俊恵の見解であって同時に長明の見解でもあると見てよいのである。(注 俊恵の歌論Iについて は,佐々木信綱博士の「日本歌学史」,福井久蔵博士の「大日本歌学史」をはじめ,歌論史関係の論文にその考 察が見られるか,特に隋瀬一雄博士の「鴨長明の新研究J 「俊恵及び長明の研究第一・s」に詳しい論考があ・り,注 章される。)同様の関係は音楽の師筑州との間においても見られるが,筑州の言として,   道を尊ぶには,先づ心をうる,はしく使ふにある也。(圏点は筆者) というのを引いている。 ここに「心をうるはしく」というのは,これに続いて,「今の世の人は皆 しからず。身のほども知らず,心ヽ高く傲り,かまびすしく憤りを結びて,事に触れて誤り多かり。」 とあるところから推して,謙虚な心を言っていると考えられ,証得舌城める気持と同様に考えられ るのである。とにかく,このようにして,長明は,師の俊恵なり筑州。なりの教えとしてであるが,  「証得」とか「心うるはしく」ということを言って,あくまで謙虚な心構えをもって歌に対し稽古      y       ●     7■      ・      ゝ すべきを言っているのである。そして,反対に,証得し慢心したために失を招いた具体例として, 後徳大寺実定について,「そのかみ,前大納言など聞えし時,道を執し人を恥て磨き立てたりし時 のまゝならば,今肩を並ぷる人少からまし。・「我至りたり」とて,この比よまるゝ歌は,少しも思 ひ入れず,・やい已ヽづきなき詞打混ぜたれば,何によりてかは秀研も出で来ん。」(「寄人不可証得事」) と聞かされ,「初心」の大切な事を教えられたとしているのである。また,「荒涼に物を灘ずまじき なり。」(「このもかのもの事」)とか,「すべて思ひ量りもなく人の事を難ずる癖の侍ければ,あとに失 の多くぞありける。」(「基俊僻知事」)と言って,あくまで慎重な態度で歌にのぞむべきをも言ってい        (4)

(5)

       ,長:明の道。と幽玄・の論 。 (石津)      45        − るが,同様の考え方と見られるのである。  以上は「無名抄」において見られる長明の態度論な,いじ修行論の大要である。長呪は,はじめ‘に も言ったように,「道」そのも皿について直接多やは言っていな’いし,「道」についての哲理的見解 も別に見られないが,歌を道として尊んでおり,しかもぞの道は。深遠Iで,あり,そjの「境JKr至る」 こと・は容易ではないのであって,稽古修行が重要であるか,その場合,特に己れを空しうして「初 心」の気持で対すべきであり,゛証得することがあってはならないとしていると見られるのである。 そうすると,それは結局,歌に対する心構えとか心のおり方,ないしはまた,態度・姿勢というこ とを問題にしていることになるかと思う。そこに・は多分に倫理的ない,し宗教的色彩をもう心が考え られるが,しかしそれは,道の論としては実はきわめて重要な問題かと思われる。つまり,そうい う心は,詞に対する心,表現内容としての心とも,風雅心といった美的な心とも違い,いねば,芸 術以前,表現以前の心ではあるか,芸道理念はその根底にこういう倫理的宗教的な心を除外しては 考えられないのである。久保:田淳氏も。「心と詞覚え書」『r国語と国文学』昭和三十六年八月号)におい て,中世宗匠達の重視する心の問題に触れ,謙虚な心から,和歌的雰囲気に身を置くように工夫し, そこから対象そのものに没入し合一してゆくという歌の修行におけ芯心の過程を言い,そういう場 合の心構えは表現以前のも・のであるけれども,表現づ前提となり,あるいは契機となる心の状態で あるとされているか(P. 45∼p.'49) ,たしかに,そういう心ないし心構えか,美的に反省されよあ るいは美的な心と結びついてゆくところ肥高い芸術が生まれ,しかもそれが道,となるとも言えるの であって,和歌なら和歌に対する心構え,なり態度なりは,歌道の理念において重視ぎれなければな らぬ点である。そしてそういう深い心とか心構えを重んずる考え方は,俊成あたりか,ら特に著しく なるのであるが,長明もまlたそういう。心とか心構えを重んじて:いる,と考えられるので,ある。 そIし て,それは,あの「方丈言己」において見られるような,常に;内面へ内面へと向かってやまなかった 長明の志向なり心情なりから見ても当然なことと言えるが,そこに長明の歌這論の骨子もあったと 言えるかと思うのである。  ともあれ,長明の直接道に関して述べている見解を探ると,だいたい以上のように見られるかと 思う。そこjには別に道の理念についての深い哲理的宗教的解明もなく,修行を重んじているに`して も,その精刻な方法論といった点は見られないが,ただ和歌に対する心構えとか態度といった,道 の根本的な問題に眼を向けている点に注目されるのである。そしてそういう態度論なり修行論は, また美論としての幽玄論とも密接に関連して来ると思う,ので,ぞの点を次に見たい。’

       w       ●

 長明の幽玄論についてはすでに多く説かれているので,ここに・は道の思想と関連するところに焦

点をしぽって考えたいか,周知の通り,長明は『無名抄』の「近代歌鉢事」の項で幽玄を重んじ,

それは結局,「詞に現れぬ余情,姿に見えぬ景気なるべし。」と説明しているのである。またこうも

言っている。

  一詞に多くの理を脆め,現さずし七深き心ざ七を尽す。見ぬ世の事を面影に浮べ,いやしきを

  借りて優を現し,をろかなるやうにて妙なる理を極むればこそ,心も及ばず詞も足らぬ時,是

  ゛にて思ひを述べ,僅三十一宇が中に天地を勁かす徳を具し,鬼神をも和むる術にては侍れ。

 「堕玉集」でも,幽玄を姿とする歌として,「古今集」の業平の歌,「月やあらぬ春やむかしの春な

らぬ我身一つはもとの身にして」「殴ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさる

かな」をあげ,

  心言葉たしかならず。たとへばみどりの空に遊糸をのぞむが如し。あるにもあらず,なきにも

  あ=らず,かすかにしてさかひにいらざらむ人の得がたきなるべし。(日本歌学大系本による。以下

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 46      高知大学学術研究報告  第12巻  人文科学  第4号   同じ。) と言っている。「古今集」によって幽玄を言っているところに問題はあるか,とにかく,長明の言 う幽玄か,「言外の余情」をさしていることは明らかである。 しかもその余情について,長明は二 つの四諭をあげて説明している。すなわち,   たとへば,秋の夕暮れ空の気色は,色もなく声もなし。いづくにいかなる故あるべしとも覚え   ねど,すゞ`ろに涙こぽるゝごとし。(中略)またよき女の恨めしき事あれど,言葉には現さず深   く忍びたる気色を「さ’よ」などほのぼの見つけたるは,言葉を尽して恨み,袖を絞りて見せん   よりも,心苦しう哀深がるべきかごとし。(r無名抄j) というのである。 すなわちそれは,漂瀞として何とも形容し得ぬ境地であり,しかもあわれ深い 境地であるとするのである。つまり,極度に抑制した表現,さらにいえば,表現せざる表現の境地 ということになる。俊恵か俊成の自讃歌「ゆふされば野辺の秋風身にしみて笥なくなり深草の里」 の「身にしみて」を説明的で無念に思われると言っている(「俊成自讃歌事」「無名抄」)のかやはりそ れであって,極度に表現とか説明を抑制し否定しようとするのである。 そうすると,それはもは や,詞とか姿とか感覚では把え得ない深い心の世界のことを問題としているとも言えるのである。 この点はかつて小西甚―博士も「イ変成の幽玄瓜と止観」(『文学』昭和二十七年二月号)において指摘ざ れ,こういう長明の幽玄観は,俊成の慈鎮和尚自歌合服の「おほかた歌は,必ずしもをかしきよし をいひ,事のことわりを言ひきらむとせざれども,もとより詠歌といひて,たゾ詠みあげたるに も,打ち詠じたるにも,何となく艶にも,幽玄にもきこゆることの有るべし。 よき歌になりぬれ ば,其詞姿のほかに,景気のそひたるやうなることあるにや。」という提唱と照応して,幽玄の真 義を適確にさし示したものと認められるとされている。小西博士は,そこからさらに俊成の幽玄に おける「心」の性格を吟味し,それは,「把握してゆく心が対象のなかにふかく惨透し,対象が把 握してゆく心のなかにしっかり生きて,表現するはたらきと表現されるものとがひとつに融けあっ たことの反映」(同誌p. 13)であると解釈されている。つまりそれは心を澄まして境象のなかに深く 思い入ってゆくことに他ならないのであり,そこに天合止観からの影響か考えられるであろうとさ れているのである。イ変成の幽玄については村田昇氏にも同様の見解が見られるのであって,氏は  「歌道の深さの美」(「中世文芸と仏教」所収)において,俊成の歌道行と摩詞止観行とは相即不離の 関係にあり,そこから玄い幽玄にも到達したと述べておられる。定家の「有心」についても略こ同 様に見ておられるか(P. 22∼p. 27),釘本久春氏ので『幽玄』と「有心」との比較におけるーつの問 題」(「中世文学の世界」所収)もまた俊成幽玄・定家有心が「心」の問題にかかることを言っておら れるのである(P.211∼p. 212)。 とにかく,俊成のいう幽玄が余情を意味し,深い心の世界のこと を問題としているということが注意される。そして,それが宗教的な思想と密接に結びついている ということはまず間違いないと言ってよいと思われるか,長明の重んずる幽玄も,だいたいそうい う余情としての境地であったと見られるのである。  ’いったい,俊成の歌論と長明の歌論との関係はm要な問題で,先にあげた久松博士の。「長明歌論 考」もその点を追求されたものであるが,久松博士は,長明はすでに俊成のr古来風鉢抄』あたり は読んでいたであろうし,その影響を多分に受けているが,幽玄論など『古今集』により所を見い だしているととろに俊成の幽玄論と異なるもめかおり,本質的には俊恵的なものから脱却し得なか ったと見てお。られるのである。たしかに,幽玄の内容を見ても,長明の幽玄は俊成幽玄に比べれば 単純であるし,俊成幽玄におけるような複合美とか静寂美も見られないのであるが,゛俊成的な新風 を「幽玄」と把えたのはむしろ長明あたりからであるし,殊にその普遍性としての余情論になる と,今見てきたように,その志向に等しいものが見られるのである。つまり,いずれも表現を越え た「深い心ざし」を求めるのである。ただ長明の場合,その「心」に,俊成もしくは定家における ような天台止観の「空」の理念を持って来ることができるかどうかは速断できないが,長明にして       (6)

(7)

 長 明 の 道 と 幽 玄 の 論     (石津). ---  − 47 も,神祇の家Rニ生まれて仏門杖二入っており,宗教的教養は深かったと考えられる。’第一「方丈庵」 は『維摩経』の「方丈会」に関係があると見られるし,恵心僧都の「往生要集」をば「法華経」と ともに読んでいたことは「方丈記」によって明らか七あって,夫台浄土の思想的影響を強く受けた であろうことは想像きれるのである。長明の信仰生活なり宗教思想なりについては,維摩経との関 係を重視する豊田八十代氏はじめ(「維摩経と方丈記」『国語と国文学』昭和四年二月号),先学も多く論 じておられるが,村田昇氏は長明の浄土信仰とともに禅的背景を重視しておられるし(「長明の禅」 『中世文芸と仏教』所収),極く最近瓜生等勝氏は「方丈記の『不請の阿弥陀仏』考」において,長 明の信仰の基盤として,第一に奈良朝より平安時代へ伝承された諸行往生思想,第二に天台浄土教 の観想的念仏をあげ,要するに,「維摩的禅定生活にあこがれた方丈生活の中にあって,懺法を修 し法華経を読誦し,あるいは常行三昧による口に阿弥陀仏を唱え,心に阿弥陀仏の相好を観ずると いう所謂天台浄土教の信仰であった。」(『解釈』昭和三十八年三月号P.2)と言っておられ,注意され るのであるが,とにかく,長明の余情幽玄というものが,小西博士の言われるように,天台止観の 影響を受けた俊成幽玄同様に深い心ざしを求めているということは言えるのではないかと思う。  それだけにまた,幽玄は,容易には達し得られぬ境地であって,長明も「心なき者」とか「心浅 からん人」の悟り難い事であるとし,また,・   いかにも此肪を心得る事は,骨法ある人の,境に入り,峠を越えて後あるべき事也。其すら猶   し外せば開会にくき事多かり。いはんや,風情足らぬ人の,未だ峯までも登り着かずして推し   量りまねびたる,さるかたはらいた会こと也。(「近代歌肺事」) とも言っているのである。ここに長明の言う「心な舎人」「心浅からん人」の「心」は,ド風情と か風流を解する心」「美的な心」の意味に解せられるが,それにしてもとにかく,そういう心か深 くなければわからない境地であるし,骨法といって,和歌を詠む作法を心得ているだけではやはり 到り得ないのである。それを深め,「境」に入り丁峠」を越えてはじめて到り得るとするのであ る。 そこに精進か必要になってくるわけであるか,それには,前節において見てきたように,己 れを空しうして,謙虚な心で境象の中に深く入ってゆかなければならない,歌が道とならなければ ならないのである。 そこに倫理的ないし宗教的な心も要請されるわけであろうが,ともあれ,長 明の最も重んじた幽玄体は,余情であり,表現を越えた深い心ざしを求める境地であって,いわば 美と人間の複合した境地がのぞまれていると見られる’のである。そこに道と幽玄との密接な関係と いうことも考えられてくるのであるが,その点はさらに,幽玄の特殊美ないしは余情の内容という        ●         i      ・ I  ●      ●点からも考えられるのではないかと思う。

       V

 長明は幽玄を重んじており,その骨子となるものは余惰論であることを言ったか,一方にまた,

淡白清浄の芙を重んじている。これは主として詞のつづけからとか姿の美について言っているので

あるけれども,余情の内容とか幽玄美の特殊性に当たるとも見られるので,その点を最後にすこし

見てみたい。

 長明は『無名抄』に俊恵の言として次のような一節をあげている。匡房卿の「白雲と見ゆるにし

るしみよ・し野の吉野の山の花盛りかも」という歌についての評詞であるが,

  是こそよき班の本とは覚え侍れ。させる秀句もなく,飾れ芯詞もなけれども,姿うるはしく清

  げにいぴ下して,長高くとほしろき也。だとへば; 白き色の異なる匂ひもなけれど,諸の色に

  優れたるがごとし。万の事極まりてかしこきは。あはくすさまじき也。(「俊恵歌襲定事」)

とある。『螢玉集』にも略こ同様の文か見られるか,そこでは,       ’

  此歌深き心もこもらず,‘異る秀句もなく,かざれる詞も見えねど,たゞ`清げにうるはしく,と

      (7)

(8)

 48      高知大学学術研究報告  第12巻  人文科学  第4号   ゞこほる所もなくいひくだせる,諸々の姿の中に優れたる体なり。例へぱ,五色の中に白色を   第一とするか如し。殊なるにほひなけれど,清くうるはしくて万の色に優れたるなり。彼君子   の交りをつねにたとふるも,きはまりてかしこきは,あはくすさまじき故なるべし。 と言っている。ここに「姿うるはし」と言ったのは「端正の美」・であり,「きよげにいひくだす」 は自然で素直ですっきりした詞のつづけからと見られる。。「長高くとほじろし」はだいたい,率直 で自然なことであり,崇高とか壮大な美をさすと一般に見られているか,久保田淳氏は日本古典文 学大系本「無名抄」の補注で,原義はともあれ,ここで長明は,「とほしろし」に「白し」の意を 認め,やや繊細なものを感じていたとも言えるとしておられる(「歌論集J p. 252」。また,「すさまじ」 と言ったのは,格別の面白味のない淡白さを言ったものであろう。 そうして,「螢玉集」で「彼君 子の交り云々」と言っているのは,明らかに,『礼記』表記篇の「君子之接如水,小人之交如醍, 君子淡以成,小人甘以壌。」とか,「荘子」山木篇の「君子之交,淡若水,小人之交,甘若醍。」に よったことか知られる。 そうすると,ここで長明か重んじている美は,自然で飾りのない美であ り,「白」とか「水」によって象徴される無色無味の淡白清純な美であったと見られるのである。 前田妙子氏も「長高様の系統」の中で,長明歌論のこの部分に触れ,「その(注白色の)美的価値は, 何気なく淡々とした清げに合致してゐる歌に於て認めてゐる。」(「和歌十体論研究J p. 67」としてお られるか,「させる秀句もなく,飾れる詞もなけれども,姿うるはしく清げにいひ下して,」という ところには,後の為家が『詠歌一体』において,「詞なだらかにいひくだし,きよげなるは姿のよ きなり。」とか,「いかにも歌がらのぬけあがりてきよらかにきこゆるはよきなり。」と言って表現 の平淡を重んじている見解に通うものかあるかとも思うのである。つまりそれはーつの平淡美論で あると言ってよいかと思うのである。  いったい,長明の美論を検すると,それは必ずしも単純ではなく,多くの美をも認めている。た とえば,詞の「艶」とか心の「理」ということを重んじ,「心にも理深く,詞にも艶極ま」つたと ころに余情の徳が自らに備わるとも言っている。また,姿については「花麗」とか「うるはし」と いう美を言っている。 これらの美と幽玄余情との関係を解明した論に谷岡武城氏の「鴨長明の歌 論」(「愛媛国文研究」第三号,昭和二十九年三月)などもあって注意されるが,「淡く清し」とか「平淡」 の美も長明においてきわめて重要に考えられていたと見てよいのではないかと思う。  俊恵は『後鳥羽院御口伝』に「おだしき様」と評せられたように,おだやかな,穏健な歌を詠ん だ歌人であるが,その歌論においても,技巧的なわざとらしさを退け,自然で素直な淡々とした姿 を重んじているのであるが,長明もこれを受けて,自然な平淡さを重んじたと見られる。前掲の引 用のほかにも,   能書の書ける〔仮名のし〕文字のごとし。させるヽ点を加へ,筆を振へる所もなけれど,只安ら   かにこと少なにて,しかも妙なり。(「俊恵歌解定書」) とか,   わざと求めたるやうに見ゆるは,歌にとりて失とすべし。(同) ともある。先にあげた「螢玉集」の評詞も,秀歌(優れたる体)としてのそれであって,俊恵なり 長明なりが,いかに淡々として飾らない美を重んじていたかがわかる。長明の実際の歌を見ると, 当時の一般的傾向によるものではあるか,かなり修辞上の技巧も用いられている。しかし,歌論と しては,ともかく,「あはく」「安らか」で「清げ」な歌を重んじているとは言えるのである。 し かもそれを,「白色」とか「水」をもって象徴している点を注意した,いと思う。水とか永の美につ いては,よく知られているように,後の心敬もこれを認め,「げに水程感情深く清涼なるものなし。」  「秋の水ときけば心も冷えて清々たり。氷ばかり艶なるはなし。」(「ひとりごと」)と言っているし, 禅竹にも,「流るるをもて体とし,無味をもて命とする」水をもって能楽芙を説く「永味論」かあ るのである。もっとも,俊恵的長明の白色・水味の論が,心敬・禅竹的な平淡美論にまで到ってい       (8)

(9)

       長’y明 の・道 と 幽 玄・の 論    (石津)        49

-るかにはなお問題があるし,むしろぞれは,:為家からこ二条家に受けつがれたr古今集』・による平淡

美論に近い`と見。る,べきであ。るかと思うか,しかし,\それ斌「ただごと」の平明でなく,深いもの

を蔵している境地であ。る,ことは,       ノ

  やすきやうにて極めて難し。一文字も違ひ・なば怪しの腰折れになりぬべし。いかにも境に至ら

  ずしてよみ咄で難き。さまな呪(「俊恵歌剱定事」)ブ    レノ  犬  パニ ……

=とか,●丿丿 I●/        ,J●       ≒ ”       ト’  こ●

‘ 只安,らかに,こと少なにて,しかも妙なり。(同5,  ゴ       ノ

と言‘らてい・るととろからも考えられるのであり,兼好の丁淡さ)「やすさ」,心敬・禅竹の水味にお

ける汀枯淡」ドあるいはさらに芭蕉の「・さぴ」「軽み」へ連なる美を長明も重んじ七いたとは言える

かと思うめである。長明め素白清浄な美かに心敬の如海人によ・つて庶幾せられるものへと展開すぺ

き美であったことは,冨倉徳次郎博士も早く認めておられる点であるし(「無名抄を読む」「鴨長明」所

収p. 176),村田昇氏も長明の理想とした艶は心敬の艶に通じる性質のものであるとしておられる

が(「長明の禅」Γφ世文芸と仏教』所収p.

263),それは,幽玄余情論からの当然の発展でもあったと

思うのである。

 ともあれ,こうして,長明は余情としての幽玄を唱えるとともに,詞のつづけがらとか姿におけ

る自然平淡の美を言って,これを非常に重んじているのである。そして,そういう幽玄とか余情と

いうものは,深い心ざしを求めながら,言葉の飾りを否定し,表現を極度に抑制することであった

し,平淡といっても,それは深い情調を蔵して,題材や表現における平明自然を重んじているもの

であったのである。そうすると,そこには,『方丈言己』によって示されている「方丈」とか「草庵」,

ないしはまた「独居」「閑居」の精神にも通ずるものがあるかとも思われる。「方丈記」と「無名抄」

とは,はじめにも述べたように,略ζ同じ時期に書かれたものであるか,両者から受ける感じには

かなり隔ったものがあり,時にはむしろ矛盾をさえ感じさせられる点がある。それは両書の内容な

り性質なりの相違によることであるかもしれないか,上述のように観てくると,美の理想とか,物

の考え方という根源的な点にぢいては,やはり,必ずしも矛盾するとは言えないのであり,その点

注意されるかと思う。ここに「方丈」「草庵」「独居」「閑居」の精神に深く立ち入ることはしない

が,仏教的な「空」とか「寂」の観念に共鳴するものを多分にもっていると考えられ,そういう精

神自体「道」の観念とは密接な関係にあると思われるし,特に「閑」とか「閑適」の精神か「道」

の思想の重要な構造契機となることはかつて考えたこともあるが(拙著『中世の文学と芸道』参照),

それはともかくとして,長明は,・『古今集』により,俊恵の流れを汲みなから,一方に中世的な幽

玄とか平淡の美を重んじているのであり,しかもそれは,心なき者とか心浅からん人の悟り難い境

地であるとして,謙虚にして真摯な精進を要めているのである。そこにそういう美の境地かまた道

の意識ときわめて密接な関係にあることを知るのである。

      VI

 以上,わたくしは,『無名抄』を中心として長明の歌道に関する見解を探り,また,その幽玄論

と関係する点についてもすこしく考えてみたのである。 はじめにも述べたように,『無名抄』は,

体系的な歌論書ではなく,むしろ随筆性の勝ったもので,その歌論的見解にしても,断片的にしか

見られないのであるが,道の論にしても無論同様であって,まとまった鮮明な見解は直接には見ら

れない。それはただ歌に対する心構えとか,修行について断片的に述べている言説の上に探られる

に過ぎないのである。

 しかし,そういう心構えとか修行ということは,道の論としては最も基本的な問題であって,・長

明かそういう方而の事に眼を向けている点はやはり注意されるのである。そして,そういう態度論

      (9.)

(10)

 50         高知大学学術研究昶告  第12巻  人文科学  第4号

        − −−−

なり修行論は,幽玄論とむ密接に関係してくると思われるか,これを逆に言う'と,深い心の世界を

求める余情幽玄論とか平淡論の思潮は,宗教的な道の観念・を生み出してゆくのであって,そういう

美論を併せ見ることによって,長明の芸道論も―眉はっきりしてくるのではないかと思う'。やはり

長明の歌論において,中世的な道の論は注意されると思うのであるo         ''

(10)

(昭和38年9月25日受理)

参照

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