仁う
枕
草
子
鑑
賞
-皇后定子の生涯よ-みる
山
九
七
段
・
百
段
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一
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二
六
二
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註 H この原稿は、昭和四十六年度大阪国文談話会主健の円珠魔土曜講座で、枕草子が とりあげられ'その十1月の講座担当をさせていただいたのが契機とな-、その時 お話いたしました内容を中心に、これに若手日頃の考えをも附与して論文形式にま 註 桝 とめてみたものです。講座では'九七段「御かたがた君達」'六段「大進生昌が家 に」及び七段「上にきぶろふ御猫は」の三段であ-ましたので、当初は'この三段 を使って定子の生涯を物語り風に書き上げようと思って始めたのですが'いざ書き 出すと紙数や区切の無理で'完成はもっての外'九七段をもって一区切りとせざる 註 川 を得ませんでした。そこでこの九七段に'百段・一七九段・二六二段をも関連的に 附加言及Lt定子の生涯の前半の概容を窺いうるようにと心がけました。 さて'枕草子九七段以下の講義を始めるに当って'この草子を' なるべくわか-よく面白く解釈鑑賞いたしたいための方法として' どのような視点をもてばよろしいでしょうか。鑑賞の機軸に何を持 てばよいのか'本当に深い興味に基づ-視点をその作品に持ち得て いるか否かは'作品理解の深浅度'或は古典の現代的意義の評価に さえ影響してくる大切な問題ですが'この点'今迄幾多の秀れた論 文が出されているにも拘らず'今後とも私共なお各人が考えてみね ばならない課題であると思われるのです。 それじゃあ'私達はどんな視点から枕草子に入-こむとよかろう かということですが、そこで私は試みに'今迄の多-の研究者がと ってきている清少を中心に置いて'枕草子を論ずるというや-方で なく'清少を包含している所の一条帝皇后定子の波乱万丈かつ薄幸 の生涯を物語-の中心に据え乍ら'本稿でとりあげた諸段をも含む ところの史実録的段々が'どのような時期に該当するか'史実をも 見つめた目で枕草子を見直した時'どのようにそれらの段々が解さ れて-るか'を在来よ-も詳し-見ていってはどうかと考えます。 枕草子に対する色々な評価や批評が出てお-ますが'皆様はそれ らの評言に比してどのように自分なりの感想をお持ちになるか'元 来'永ら-の間'我々の頭の中には枕の草子即ち随筆文学の雄たるー20-ものとの定評を冠されたままに'頭の中に整頓されてきてまい-ま した。が考えるに枕草子の古典としての価値はこのような面のみに 限るのではない。むしろ'門外漢の我々ではあ-ますが'この際そ れ故にこの立場を逆用して'歴史的評価というもの∼重みに引きづ られず'自由な見方で'各自にとって各々最もこの作品が魅力的に 見える一観的を軸にして味読してみてはどうかと考えます。 私が'この枕草子を読んだ当初に受けた実感をここで白状いたし ますと'当時高校の教科書では'序文の「春は曙'やうやう白-な り行-山ぎはすこしあか-て云々」の序段が掲載され'そうしてこ れを読む限-において'その頭の回転の早い'歯切れのよい絵画的 場面を連鎖的に有する文章の音楽的な響きに魅せられ'特に「日入 りはてて風の音むしの音などはたいふべきにあらず」という春から 秋迄の描写がよかった。だから'このような調子で続-ものという 予想をもって読み始めたところが全-違う。アランの人生論やモン テーニュのエッセイなどを読んだ目でこの文を読むと'最後には必 らずといってよい程'寝入ってしまうといった調子であ-ました。 だからといって源氏物語はよいかというとこれもまたさにあらず で'帯木の巻の女性論をよんでも'陳園な感を抱いたに過ぎません でした。まあ'私ほどひどくなくても'これに似たような思いを皆 様方の中にもお持ちになられた方もおあ-かと存じます。ですか ら'そこでどうすれば'現代の我々がこの枕草子という古典を興味 深く読み進め得るか'改めて鑑賞や解釈や研究な-の方法を、批判 し'考えてみる必要があるのです。今迄に'枕草子の注釈書や解釈 書が実に数多-出されているのですが'まだまだ'無味乾燥な表面 的な語釈や解釈或は評論にとゞまったまゝになってお-'この点' 以後もっと史実その他の究明から入った'生きた解釈や鑑賞が強調 されてもよいと考えます。 大体'文学作品への関心というものは'特に職業としてこれを専 攻しようという意識で最初から入った人は別として'そうでない殆 んどの人が'文学や古典を知ろうと云う気になった最も大きい契機 は'所謂訓話注釈や考証への興味からでな-'現在の人生や現代の 人間生活に'何らかの示唆や慰め、生き抜きや励ましや刺戦を与え られ'それによって私達の思考感情様式や行動に'或変化や改良を 施こして行こうと云う'意識的無意識的要求に基づいている場合が 多いようです。この事実を'私達はもっと古典の解釈の上でも大切 に し て ゆ き た い と 思 う の で す 。 そ れ か ら ' も う 一 つ ' 現 代 ' 数 多 - の大学の文科系の各科目に'女性の数が非常に多-なってさてお-ます。この現状を目前に見て思う事は'女性というものは一般に男 性に比して'特に将来家庭などに入ると行なう用事が雑多で'その 中で持ち得るのは'長く纏った時間ではな-'中断されコマ切れに なった短い時間の連続であって'その中でしか物を考えられない場 合が多い実情であ-ます。そういった女性が古典に親近感をもって 向えるにためは'内部から心を動かされるような視点や観点を'鑑 賞の機軸として保持Lt そこから放射状的に放たれた興味や関心や 探求心を発展させてゆ-というや-方を採らない限-'持続的な興 味を古典作品に対してもってゆ-ことは'仲々困難なことであろう
21 -と思います。 ここに'或時期において或古典に対する評価が落ち着いたとしま す。が'古典の価値や鑑賞態度というものは'以後その落ち着いた 評価の枠内で見るべきものと定められたものではなく'よりその古 典に親しみ'深-味わえるような方法な-テーマを、各自で勇敢に 開拓してゆ-試みも必要で'そうすることが'徴の中に埋もれかけ た古典を現代に再生させうることにもなるのであって'出来るだ け'古典作品のもつ内容を'多角的な面から考え活用するに越した ことはあ-ません。 では翻って'枕の草子を実際に講義するに'右に述べてきたよう な条件をよ-満足させるには'どんな観点を選らべばよいのか'こ こに至って'私は'前述したごと-一条帝中宮-のちに皇后になっ た定子の生涯というものを中軸において'枕草子を見てゆくという や-方を'お奨めしてみたく思うのであります。 御存知の方もわあ-でしょうが'枕草子を書くことを思い立った 契機として'清少の仕えた定子の存在をぬきにすることは出来ませ ん。しかも'この定子の生涯は'中開自家の盛衰と道長の拾頭とい う一大政権の交替期に挟まれた犠牲者として'一篇の小説を地でゆ く'ドラマチックなものであ-ます。彼女の歴史を辿る時'千年と いう時代の差を越え、それが史実であるだけに'それを読む者が女 性であ-'子を持つ母であるならば一層'彼女の運命的ともいえる 悲運につまされて、心から泣き'同情の念で一杯にな-'彼女と共 に浮び出る人物'例えば'夫の一条帝'一条帝の生母詮子'道隆' 道兼'道長'伊周'高階氏一族等々の群像の中にみる人心の趨起性 に撫然とな-'更には'不平も多いつましい自分の生活な-'或は 現在か-生き得てこられている事に'幸せをすら感じてしまうので す。gJ ,つして私は'こうした定子や定子を囲涛する人々の人間像や 運命への史的興味の故に'つま-今迄の殆どの枕草子研究者がとっ てきた清少納言中心の入-方とは逆に'定子や定子を囲鏡するこう いった人々の人間像な-'その背景をなす時代への史的興味の故 に'彼女と運命を共にした清少納言の人間像←作品へと'更に現 代人にとっては幽明の彼方に沈んでいる一条朝前後の後宮やそれが もつサロン的雰囲気を知るために'或は名を知るのみで全-血肉を 附されたこともなかった上達人等の面貌を'少しでも鮮明にさせた い為に'等々と多-の興味を派生させ'枕草子に回帰するような鑑 賞方法の採用を強調したいと思うわけであります。 九 七 段 ︹口訳︺ 中宮定子の御前には御かたがた=お身内の女の方々'貴 公子がた殿上人など人が大変多-お控えになっておられましたの で麻の柱によ-かかって'中宮にお仕えする同僚の女房と物語な どをしていましたところ'中宮が何か物を投げておよこしにな-ま し た の で ' 開 け て み ま す と ' 「 思 ふ べ し や ' い な や 。 人 、 第 一 ならずはいかに」'(「あなたを愛した方がいいのですか'それと もしない方がいいのですか。人が'あなたを第一番に愛するとい うのではない場合には、」)とお書きになっておられました。御前
-22 -で物語などをするついでにも'「すべて'人に第一に思われなく て は 何 に な -ま し ょ う 。 そ う で な い -ら い な ら ' か え っ て も う 大 層憎-まれ'恵-あしらわれた方がましです。二番目や三番目 に'なんていうのは死んでも嫌です.第一番目であ-たいわ。」 などゝいうと'「法華経(方便品) にある一乗の法のようですね え」などゝ'人々の笑い種になっているようです。 筆や紙などをおよこしになられたので'「九品蓮台の間には、 げばん 下品といふとも」などと書いてさし上げますと'「無下に譲歩し てしまいましたね。いけませんわ。一度断言したことは'そのま ま言い通せばよいのに。(途中で変えた-しないで)。」と仰言い ま す 。 「 で も ' そ れ は ' 相 手 の 人 に も 依 る も の で ご ざ い ま す 」 と'申し上げると'「それがいけないのですよ。第一の人に第一 番に思われようとこそ思うものです」と仰せになられるのも'お もしろい。 こういった会話が'中宮定子と清少納言の間に交わされたのは' 定子や清少の生涯の何時頃のことなのであ-ましょうか。この九七 段の年時に関しては'池田亀鑑氏の「全講枕草子」の九七段︹変 説︺中で「回想の記'事実の年時は明らかでないが'恐らくまだ中 の関白家の権勢が盛であったころ'すなはち'長徳元年(9-5)四月 道隆が黄去する以前のことを回想したものと思われる。」とあ-' 池田亀鑑・岸上慎二校注の岩波古典大系本「枕草子」の補注八六に も'この推定に誤-はないであろうと書かれ'後掲の年表中にも長 徳元年の条に四月以前として掲載されております。即ち'この文中 に描かれた中宮や清少納言像には、若々しく暗い影がないという点 から考えて'定子の父道隆が四三才で死ぬ西暦9-5長徳元年四月以前 の事を回想して書いたものと推測されておられます。がt LかLt ではどういった点に'若々し-暗い影が感じられないと感ずるの か'ということにな-ますと'具体的な説明がなされてお-ません ので'この点を自分な-に補説してみたいと思います。 結論から先さに述べますと'この道隆亮去の長徳元年四月以前と いうご-おおまかな年時を'他の一七九段(=一八四段)と二六二 磨(-二七八段)らと関連して考えて'初宮仕えを正暦四年の初冬 とした時、内容年時を少な-とも翌正暦五年(9-4)中の事と両氏の 説をもう少し減って考えて-よいのではなかろうかT と感じてお-ま す 。 即ち、定子が清少に対して'この九七段申「思ふべしや否や」と 発している質問と同類の言葉が'いづれも枕章子の記述年時の判明 出来得ている段文中、清少の初宮仕えの時期に最も近い1九七段と 二六二段の文中に'同じ-定子によって清少に向って発されている のを見ます。 これを具体的にみる前に'まず清少の初宮仕えの時期は何時だっ たろう^か'との設問にも私な-に答えてお-必要があるでしょう。 古来ある諸説を'ここに表示して眺めてみますとt H 九九〇正暦元年か二年の冬説(以下の文'敬称省略) 山岸徳平「校註枕草子」・塩田良平「日本古典読本枕草子」
- 23 -目 (九九l)正暦二年 冬説 前田家本小白河の冊「みやにはじめて云々」の傍註・金子 元 臣 「 枕 草 子 評 釈 」 大 1 3 冬又は正暦三年二月説梅沢和軒「清少納言と枕草子」 明 4 5 春 説 市川寛「道長をめぐ電人々」国語国文 昭8 日 (九九二)正暦三年 五十嵐力「早稲田大学文学講義 枕の草子評釈」・小沢正 夫「枕草子成立時期についての考察」・永井一孝「枕草紙 新釈」・島野幸次「雄山閣国語国文学講座第一巻」 二月説 有馬賢頼「枕草子の研究」国語国文の研究 昭3・12 冬説 武藤元信「枕草子通釈」 明44 囲 (九九三)正暦四年 初春説 田中重太郎「枕冊子研究」 「清少納言宮仕年代考上・下」 歴史と国文学 昭17・10-日 柿谷雄三「清少納言の生 涯」解釈と鑑賞 昭39・‖ 二月説 岡一男「源氏物語の基礎的研究」 冬説 坂元三郎「清少納言の宮中奉仕年代」東亜之光 明41・7 岸上慎二「清少納言伝記考」 「清少納言の初宮仕の年代に ついて」国語 昭‖・7 池田亀鑑「全講枕草子」 以上の如くでありますが'その推測手が∼-である一七八段中の 記事に窺える -雪の降る厳寒 2或いは初春らしき感(「浅緑な る薄様にえんなる文」の語句に) 3伊周の大納言在任中(正暦三 年八月廿八日に権大納言に任ぜられ'その権大納のまゝで二年経過 して一挙に'正暦五年八月甘八日に内大臣となる)である 4服装 の点から円融院の諒闇申(正暦二年二月一二日崩御よ-同三年二月 二一日周忌) ではないという諸条件に叶った時期であることです。 柿谷雄三氏は前掲「清少納言の生涯-父祖・家庭・結婚・宮仕・主 家 ・ 晩 年 -」 中 に お い て 更 ら に ' 「 ﹃ う す さ こ き そ れ に も よ ら ぬ は なゆゑに﹄の句に春らしい感じがすること」を加えられて'これと 2の春らしさを重視する時'初春説が有力にな-'正暦五年二月の 積善寺経供養を記るす二六二段に'新参らし-思われる点を重視す ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ る時'冬説となろうが'「筆者はあ-まで初宮仕の段(=一七九 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 段)に描かれている事を重-見なければならないとする立場から' ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 春説に左祖したい」と述べておられるのであ-ます。が氏のあげら れ た 「 う す さ こ き そ れ に も よ ら ぬ 花 ( -鼻 ' -し や み を か け る ) 云 々」の歌に'前掲「浅緑なる薄様」という語句と共に'初春らしさ を感受でき得たとしましても'そこから'初宮仕え正暦四年初春説 をわ-だすには'以下のような点から'なお危憶を感じます。 「薄さ濃さ'それによらぬ花」とあるわけですが'では'「薄さ
- 24 濃さによる花」とは何か。勿論'桜ではな-'梅花'就中'紅梅の ことをさすのではないでしょうか。枕の草子中にも「木の花は'濃 さも蒔きも紅梅」と三五段においては木の花の筆頭として書き出さ れてお-'或は'紅梅聾と云う十一月から二月にかけて着用される 色目として'「紅梅いとあまた濃-薄-て」・「紅梅の濃さ蒔き織 物」(二六二段)等の表現が随所に散見いたしてお-ます。又'梅 花そのものは'勅選集などでも春・上の部'即ち一-二月の所謂初 春に詠ぜられて.いる事が多いのですが'冬の部にも古今集などでは 詠ぜられてお-ますから'一概にそれ故春期のものと言い切りも出 来まいかと思います。それに'この歌を詠じたその時点が初宮仕え ヽ ヽ の頃に近いと言うだけで'初宮仕えを早春に決定せしめる論拠とも なりえないように思われます。その上に、以下に掲げるところの' 正暦四年正月 - 三月末迄の一連の史実'及び枕草子百段・二六二 段中の記述らを関連して考察した場合'不都合が感じられてしまう のです。即ちt M 正暦四年正月甘二日 ヽ ヽ ヽ 「辛刻'今日有内宴'未時許参内締盟銅墾仁寿殿御装束如常 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 蔵 人 右 少 将 明 理 出 陣 召 公 卿 ' 内 大 臣 以 下 ' 近 衛 次 将 詣 劉 鯛 ( 尽 か ) ( 雅 信 ) ・ ・ ・ ・ ・ ・ 其 程 公 卿 難 書 豆 ' 在 列 只 十 l 人 而 己 -・ ・ ・ 左 大 臣 ・ ・ ・ -依 腰 下 有所労'令奏事由'不進列謝座--謝酒了、--然後公卿次第 参上著座'次々将参孟露鯛家--次内記参上'先是典侍侯陪 膳 -左 大 臣 起 陸 産 参 上 ' 次 摂 政 -参 上 -大 納 言 伊 周 -( 詮 子 ) ( 定 子 ) 東三条院'中宮為見物'御承香殿」(小右記) 二月甘二日 「冷泉院第四敦道親王'於東三条南院元服--中略 又摂政第 三姫君'於同院西対著裳」(「日本紀路」) ( 厚 子 ) 「今夜冷泉院四親王加元服、摂政二三四娘著裳'南院云々 ( 公 任 ) 甘三日辛巳早朝藤宰相被示送昨日案内、於東対有親王御元服 儀'--中略於寝殿有著裳事'御元服事了'公卿向寝殿章子' 有管絃--中略於対有御元服事'於寝殿有著裳'誠可驚怪事也 以 下 略 」 ( 「 小 右 記 」 ) 東三条南院東対で冷泉院第四皇子敦道親王が元服の式を挙げ' 同時に'同院の寝殿(紀略によると西の対) で'道隆の二女原 子を始め三女'四女の三女兄弟(紀略によると三女のみ)が裳 儀の式を挙行している。 三月甘七日 ( 原 子 ) ( 定 子 ) 「摂政二娘今夜入内'或云'参中宮'為見明後日賭弓'又云' ( 定 子 ) 為備御所参入云々'后宮定有思給欺」(「小右記」)
参考長徳元年「正月十九日,丙寅,関白二娘弼今夜参
育 宵 」 ( 「 小 右 記 」 ) ( 居 貞 親 王 ) 「正月十九日'丙寅今夜関白第二女参東宮」(「日本紀 略 」 ) 道隆の次女原子が内裏に入られたが'これは'中宮の許にいっ たので'明後日の賭弓を共に観るためだとも'或は御所に(女 御として)参られる下準備のためだともいわれ'定子に何か思(4) (5) (6) - 25 -う所あるようである。 三月甘九日 ィ ' ( マ マ ) 「 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 文 殊 召 懸 物 於 后 宮 」 紛 議 ︰ 詣 錆 讐 鯛 諾 蛸 后 」 ( 小 右 記 ) . き よ A つ 射殿(又は射場殿ともいう)'即ち校書殿の東麻の北二間を射 殿というが'ここで行われた賭弓を'定子は見物している。 ロ 、 「二月甘八日'丙成'酉刻主上出御侍所'摂政被侯、蔵人式部 丞輔Pt左中弁扶義、右中弁俊賛同候'依仰'各被別前後射手 等'蔵人式部丞輔声'執筆書分取了・・・・・・次前方人々詣左中弁宿 所'後方人々詣右申弁宿所-予後万人也 前 隆家朝臣'登朝'宣方朝臣'頼硯朝臣'正光朝臣'為任' 明噸朝臣'経房'正清朝臣'相方朝臣'知章'信噸'忠 輔'惟時輔声'備政'陳政'頼光'道忠'伊章忠家 後 芙方'芙成、明理、行成'相芦'適任'景茸'朝経'憲 実'道方'道噸'重家'遠相'通経'理美'行義'方隆' 理兼'惟能'貞光'忠方三月甘九日'丁巳'賭弓前勝云 々 」 ( 「 権 記 」 ) 三月冊日 戊午'巳時東三条南院払地焼亡'摂政家」(「日本紀略」) 「 戊 午 南 院 焼 亡 」 ( 「 権 記 」 ) 正暦五年二月 (例文佃以下S迄は「関白殿'二月甘一日に法典院の積善寺」 二六二段(=二七八)よ-の抜率文。 一 ' 「向などいみじ-化粧じ給ひて'紅梅の御衣ども'おとらじと ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 着給へるに'三の御前は'御匝殿・中姫君よ-もおはきに見え 給ひて'上など聞えむにぞよかめる」 「--西の対の唐廟にさし寄せてなん乗るべきとて'渡殿へあ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ るかぎ-行-ほど'まだうひうひしきほどなる今参りなどはつ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ つましげなるに'西の対に殿の住ませ給へば'宮もそこにおは ヽ ヽ ヽ ヽ しましてまず女房ども車に乗せ給ふを御覧ずとて'御簾のう ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ちに、宮・淑景舎・三四の君・殿の上'その御おとと三所'立 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ち並みおはしまさふ 北 の 方 貴 子 ヽ , 、 , ヽ , , , 、 「上もわた-給へ-'御凡帳ひき寄せて'あたらしうまゐりた ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ る人々には見え給はねばいぶせき心地す」 「いかなればかうなきかとたづぬばか-までは見えざりつる」 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ と 仰 せ ら る る に ' ( 清 少 は ) と も か く も 申 さ ね ば ' も ろ と も に さいはち 莱-たる人'「いとわ-なしや最栗の車に乗りて侍らん人は' いかでか'と-はまゐ-侍らん。これも御厨子がいとほしが-て ' ゆ ず -て 侍 る な -' 晴 か -つ る こ そ わ び し か り つ れ 」 と わ ( 中 宮 ) ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ぶわぷ啓するに「行事する者のいとみしきなり'また'などか ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 1 1 1 1 1 1 1 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ は'心知らざらん人こそはつつまめ'右衛門などいはむかし」 と仰せらる。 「御前にゐさせ給ひて'ものなど聞えさせ給ふ。御いらへなど ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 1 1 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ のあらまほしさを'里なる人などにはっかに見せぼやと見たて まつる。」 「なは'(定子の立派さにうたれ、)かくしもおしはかりまゐら する人はな-やあらんとぞくらをしき」
(J I.)) (13) ・あ、 ・ゆ、 ・れ、ぐ ば、る、 か、つ、し、 つヽ 一一・,T・ 26 に、( 'あ っ、ん く、な ろ、風 ひ、に 添、恥 へヽ 「殿(定子の父道隆)おはしませば'ねYたれの朝顔も'時な らずや御覧ぜんとひき入る」 「串の左右に'大納言殿(定子の兄伊周時に二十一才)・三位 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ の中将(弟隆家時に十六才) 二所して簾うちあげ'下策ひきあ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ げ て 乗 せ 給 ふ 。 -「 そ れ ' そ れ ( 誰 ' 次 は 誰 と ) 」 と 呼 び た ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ てて乗せ給ふにあゆみ出づる心地ぞまことにあさましう'顕証 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ な-といふも世のつねなう」 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 掴 御簾のうちに'そこらの御目どもの中に'宮の御前の見 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ と御覧ぜんばか-'さらにわびしきことなし。汗の ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ -ろひたてたる髪なども'みなあが-やしたらんとおぼゆ。 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ らうじて過ぎ行きたれば'車のもとにはづかしげにきょげなる ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 御さまどもして、(伊周・隆家の)うち笑みて見給ふもうつつ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ならず。されど'倒れてそこまでは行き ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ かおもなきか'思ひたどらるれ」 ヽ ヽ ヽ き ぬ る ぞ ' か し こ き ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ てふくだみ'あやしうなりたらん'色の黒さ赤ささへ見えわか ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ れぬべきはどなるが'いとわびしければふともえ下-ず云々」 ㈹ 長 徳 元 年 二 月 ( 百 段 ) 「正月十日にまゐ-たまひて御文などはしげうかよへど'まだ 御対面はなきを'二月十余日宵の御かたにわた-たまふべき御 消息あればつねよりも御しっらひ心ことにみがきつ-ろひ'女 房など皆用意した-'--中略--まだこなたにて御髪などま ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ゐるほど宮﹃淑景舎は見たてまつ-た-や﹄と問はせたまへ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 私 注 ば'清 ﹃まだ'いかでか。御車よせの日(岩瀬文庫本は'傍点 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 部分「積善寺供養の日」とあ-)'ただ御うしろばかりをなむ' ヽ ヽ ヽ ヽ はっかに﹄ときこゆれば'「その柱と犀風とのもとによ-て' わがうしろよりみそかに見よ。いとをかしげなる君ぞ」とのた ま は す る に ' う れ し く ゆ か し さ ま さ -て ' い つ し か と 思 ふ 。 以 下 略 」 以 上 ( ) 内 は 私 に 補 し た さ て の ち は ' 髪 あ し か ら む 人 も か こ ち べ し 。 あ さ ま し う い つ く しう(荘厳で)なはいかで'かかる御前に馴れ仕うまつるらん と'わが串もかしこうぞおぼゆる。」 ㈹ 大門のもとに高麗・唐土の楽して'獅子・狛犬(こまいぬ)杏 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ど-舞ひ'乱声の音'鼓の声にものもおぼえず。こは'生きて ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ の仏の国などに采にけるにやあらんと'空に響きあがるやうに お ぼ ゆ 。 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ㈹ 「 乗 -つ る 所 だ に ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ しあかう東証なる ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ し -) あ -つ る を ' い ま す こ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ た-つる髪も'唐衣の中に さて'右の例文中'まず史実から考えてみましょう。初宮仕え' 正暦四年初春説を仮-に採択いたしますと'「正暦四年の初春」の 範囲に入ると考えられます所の同年正月∼三月末迄の一連の史実を 辿ってみますと'まず、 吊の記事よ-'正月甘三日には'仁寿殿に於て'定子の夫当時十 四才に当られる一条帝と'定子の父で四十一才になった摂政藤原道 隆と彼の嫡男で定子の兄に当る二十一才の大納言伊周らを始め左・ 右・内大臣列席の下に行われた内宴を'定子と'一条帝生母東三条
- 27 院詫子が'仁寿殿のすぐ後方の承番殿から見物していることがわ か-ます.佃に'翌二月甘二日には'道隆の第である東三条南院に 於て'同じ日に'同時に'東の対の御殿では'先帝冷泉院と道隆の 姉に当る冷泉院女御超子-あの九八二年天元五年正月庚申の夜'脇 息にもたれたままで'当時二才になったばか-のこの敦道親王らを 残して頓死した兼家の愛娘 - との間に生まれた第三皇子敦道親王 (今時十三才) の御元服式が取-行われ'しかも寝殿(-小右記' 日本紀略は西の対とする。西の対は枕・二六二段によると道隆の住 んだ舎であったらしい) では'道隆の三人の姫君達即ち'定子の次 妹で'この二年後に'敦道親王の兄で後に三条帝となる居貞東宮 (敦道と同母)女御となる淑景舎原子 (この時十三㌧ 四才'大鏡 没年記事と権記長保四年死'とから算出)'敦道親王の室となる三 の君'この翌年九九四年二月には既に御匝殿になっている四の君 (大日本史料正暦三年十二月七日の箇所に掲げた」伏見宮御記 録」中に引用の「小右記」の記事に'「十二月七日丙寅'中宮 還給内裏権大納言伊周'右衛門督琵鯛叙正三位'右申弁源扶 義叙正四位下宮亮'近江守橘忠望叙従四位上謂宵酢蛸'左近少 将隆家叙正五位下瀬政敵位藤原頼子叙正四位下 れが或は四の君か'未考'後考をまつ。) 摂 政 と あ り ' こ 掛 等の着裳式が挙行されて'実資はこのことを誠に驚-べき怪事だと 評してお-ます.佃は'この着裳式の一ケ月後に、次女原子が'明 後日の賭弓を見るためか、或は女御として後宮に入るための下準備 の為にかtJとにかぐ入内された、と実資が言っているのでありま す.印では、佃において小右記が述べたように'二日後の甘九日 に'賭弓の会が催されていることがわか-ます。この史料は'今迄 とりあげて論じられた例を見ませんが'その内容からみて少な-と も'大系・全書南本の年表に「内宴」や「万燈会」を記載する-ら いなら'同様に取-上げて着目されるべき記事であると考えます。 即ち佃は'この記事からわか-ますように'この当時十八才の中宮 定子も'夫の一条帝や、父の摂政道隆、それに当時は二十八才で権 大納言でしかなかった道長や'彼よ-八才年少なのに道長につづい て権大納言になっている二十才の伊周'伊周の伯父で道長や道隆の 異母兄ゆえ'冊九才になるのに参議でしかない遺綱、以下大勢の公 卿殿上人等と共に、この南殿前の射場殿で行われた懸賞品つき競射 大会を見物なさってお-'しかも定子は懸賞品として'女装束を提 供なさっていることがわか-ます。「権記」の二月甘八日の条によ る と ' 用 の ロ ' 文 に み る ご と -一 ケ 月 の 練 習 期 間 を お い て ' こ の 日 の為に人選なされた前方の射手の筆頭者として'彼女や伊周の同母 弟・若冠十五才の隆家が出場していることがわか-'同じ-隆家と 同じ前方射手の中には'母・高階貴子の兄弟で'積善寺供養の折に は'余は満足と「ここら空を仰ぎ胸をそら」Lt又後年伊周・隆家 流詞事件の折には'二条第に閉じ寵って定子等と共に泣いた伯父 高階明噸や信噸'それに後方射手としては'同じ-伯父の高階明理 や道順'それに清少にとっても'最も関係の深い藤原芙方や'二十 註 糾 二才の藤原行成等の顔ぶれが揃っていたことがわか-ます。そうし てこの日の勝方は隆家らの前方であ-ました。定子ら一家は'この
28 -競 技 を ' き っ と 興 奮 裡 に 眺 め た こ と で あ -ま し ょ う 。 そ し て 、 「 小 右記」の二日前の記事が取-消されてもいない所をみると'定子と 共に'里の東三条から来ていた'十三㌧四才の淑景舎原子も、父や 兄や姉らと共にまた観覧したことと考えられます。もし'清少がこ の春のしかも'酷寒の頃に宮仕えを初めていたものであるならば' 初宮仕えの時からすでに'一七九段で白から言うごとく「あへなき まで御前ゆるされ」'届に帰る間もな-度々召されている彼女、又 積善寺供養の日にも'わざ - 見物し易いように、彼女よ-もずっ と身分の高い既に着席していた上東'一人は定子の祖父兼家の同母 弟の娘'もう一人は右大臣時平の孫娘で'宰相の君と呼ばれていた いわばお姫様方であるわけだが'この一人に「宰相は彼方に行き て'人共の居たる処にて見よ」と迄命じて'清少用に席を配慮して -れた定子'或は'淑景舎との会見日にも'彼女をまだはっき-と 見たことがないと答えるや'きっそ-自分の後から覗いてみるがよ いと'同じ-特別な配慮を与えるほどの定子なのであったから'こ の時も'侍女として列席させないというようなことはなかったであ -ましょうし、もし清少が列席していたならば'まだ見知らぬ「里 人心地」の彼女が'今迄述べた詮子や中宮定子らが打ち揃って'宮 中の内宴を承香殿へ出御されて見物なされた一月廿日頃の模様も' 或は又'定子の御妹姫が一度に行なった二月下旬の着裳式に関する 何らの記述も'或は'定子の父や兄や道長らが臨席Lf定子の弟や 彼女に近侍した四人の母方の伯父等に加うるに行成や美方や経房 ら-特に美方などは'あの「小白河といふ所は」(三五段)やそれ にへ初冬出仕説に従うと'その初出仕をした月と見なされる十一月 に行われたと考えられている(当段の史実年時に就ては未考'今は 勘註に従う)豊明節会の文「宮の五節いださせ給ふに」中にきっそ く登場しだしているのを見る-これら人物が射手であった三月下旬 の賭弓の宴についても'何一つ語-触れる所がなく 正暦四年中 の'定子に関係ありと目される行事で'枕草子中に記述されている のは'この初冬の行事に位置する「宮の五節いださせ給ふに」(八 六段)のみであること.加うるに、小右記々事佃によ-'少な-と も賭弓日迄は三日間滞在Lt更に例文佃によれば'この賭弓の翌晩 には'東三条南院摂政家即ち道隆の家が火事によ-「払地焼亡」し てしまっているのですから'もし'淑景舎の滞在が賭弓の宴後も' たった一日でも延期していたとすれば'この火事に遭遇して'余計 滞在期間が延びたこともあるかと推測できますLtこう言う風に淑 景会の滞在が長びけば長び-だけ'清少は淑景舎を拝見し得る機会 があったことになるのであ-ますがt LかLt実際は'淑景舎を始 めて見たのは'積善寺供養日の当日である、と百段「淑景舎東宮に まゐりたまふほどのこと」中でいってお-ます。 この百段のくだ-は'淑景舎が'居貞東宮(後の三条帝)妃とし て入内Lt淑景舎に住み始めてから一ケ月後に'同じ-'後宮殿舎 の一つである登花殿に住む姉・一条帝中宮定子を'そこに訪門会見 した日のことを記述したものであ-ます。淑景舎原子は'この時十 四'五才'姉の定子は二十才(権記によると十九才)'この対面の 時に来合わせた人物は'四十三才の関白道隆'道隆の妻貴子'あの
賭弓のあった翌々年八月に、二十二才の若さで上席の大納言朝光や 済時や道長ら三人を飛び越え'権大納言から1挙に内大臣にまでな った伊周'伊周の異母兄で二十五才'権大納言の道頼'伊周の弟十 七才三位中将隆家'道隆六男少将周頼'伊周の長男で三才になる幼 い松君(道雅)'それに十六才になられる一条帝も加わっての'中 開自家一家が登花殿に勢揃いした団輿の一日だったわけで'定子は この会見の時わずか一月半後に道隆の死が訪ずれ'父の人を楽しく させる「さるがう言」をもはやき-事も出来な-なるなどゝ'予測 もしなかったことであ-ましょう。この夜定子が帝の夜のお召に昇 殿する道すがらも「殿のさるがふ言にいみじう笑ひて'ほとほとう ち橋よりも落ち」そうであったと記してお-ます。しかし'史実は このような草子中の記述とは異-'道隆は'既にこの一月ほど以前 から'特に健康状態がすぐれず'正月二日の東三条院朝親行幸にも 又東宮と定子とが行った二宮大饗にも'病のため不参加で'五日の 叙位'十三日の願召除目をも簾中で行ってお-'二月には'既に五 日に関白を辞職する表を上表してお-'彼女らとのこの会見のあと 八日後にも'再び二度目の辞表提出を行っていることが諸記録によ ってわか-ます。とすると、道隆は'この時も決して健康状態のす ぐれた状態ではなかった'だからこそ'大げさにならないよう、暁 方に'妻との同車で他の公卿達にも知れぬよう'こっそ-とやって きたのでしょう。そうしますと'この段は'健康状態のすぐれぬこ とを自覚した道隆が'或はこれがひょっとすると定子らに会う最後 になるかもしれないと云う一抹の恐れを内心に秘めながら'楽しい 冗談言を一日中言って'娘達を喜ばせていたのかもしれないと云う ような'枕草子には表らわきれていない面も考えられ'悲しい道隆 の親心をこの文から窺えさえ出来てまいるのです。こういった会見 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 日の朝'髪などをお椀かせにな-乍ら'「淑景舎は見たてまつ-し ヽ や」と定子は清少に尋ねました。そうすると彼女は山「まだいかで ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ か。積善寺供養の日(朝日古典全書底本陽明文庫本は「御車よせの ヽ 日」とある) たゞ御うしろばか-をなむ'はっかに」と答えたわけ です。この傍点箇所を'古典大系本は'「お見上げしたことがあ-ま すか」と訳してお-ます。この訳で'積善寺供養の日という本文を 採用した場合は'何ら矛盾は出てまい-ませんが'御車よせの目と いう本文を採用した場合'この訳では非常な内部矛盾を犯すことに なってしまうでしょう。即ち'清少は例文の・佃で見たように'淑 ヽ ヽ 景舎をその後姿や透影ばか-ではあったが見たことがあるにも抱ら ず'定子に問われたとき'「どうしてお見申しあげることなどござ いましたでしょう。東宮様に御入内の日に御後姿だけを'それも はっかにお見申し上げたゞけでございます」と答えたことになる。 一方定子だって'積善寺供養の日にわざ-ト席を掠らえてやったく らいだLt清少の書いた積善寺供養日の文を読んでいたりしたら尚 更のこと'三の君は二の君や四の君よ-も大きい云々と語っている 文を憶えているだろうから'今更「淑景舎をお見上げしたことがあ -ま す か 」 と 問 う の も ぴ っ た -こ な い 。 こ う 考 え て く る と ' 定 子 の 上記質問を'双方に矛盾せぬ訳とするためには'過去「き」の解釈 が問題で'「夜中ばか-にわたらせたまひしかば云々」にみるごと
- 30 --'淑景舎の登花殿への渡御は'昨夜の夜中ばか-の頃に終了して いるのであるから'そのお出迎えの折にでも'「淑景舎を'もう見 申しあげましたか」と問うたのだと考えてみるのが適当でなかろう ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ か 。 だ か ら こ そ ' 清 少 は ' 「 ま だ ' い か で か 」 と 云 う よ う に 答 え て いるのである。そうして陽明文庫本々文を自己矛盾せず解釈するに ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ は'その後も「私が'最近淑景舎様を見申し上げたと言うのは云 々」と云う風なことわ-書きを附与せねば'意味の通りにくい文で あ-'この点陽明本々文は採用しかねる。 ヽ ヽ ヽ 尚'解釈上の問題点として'未定考のまゝになっている「三位の ヽ 君'宮の御裳をぬがせたまへ云々」(二六二段)の「三位の君」と は誰かについても附言してみたい。岩波大系本でも'その頭註に ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ は'「三位の中将をさすか。但し'隆家がこの役に奉仕するのは不 ヽ 審。能困本「三四君」'前田本「三君」。」とある。即ち'三位の君 を隆家だと考えるから'この時'弓箭を博した男子に向って中宮の 御裳をおぬがせ申しあげなさいと命じたことになるから'本文全体 がいかにも不審と言う考えが出て来るのである。その通りで'この ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 少し前文には「大納言二所(伊周と道頼のこと)三位の中将(隆家 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ の こ と ) は ' 陣 に 仕 う ま つ -給 へ る ま ∼ に 、 調 度 負 て い と つ き づ き しぅ'をかしうておはす'殿上人'四位・五位こちた-うち連れ' 御供にさぶらひて並みゐた-」と明記されている通-'中宮の御座 所には居ない。今'御周囲に居るのは'「皆'御裳・御唐衣」を着 ておられるお姫様方(女兄弟ばか-でなく'近仕する身分の高いお 姫楼上東も含め)ばか-で'一番年少の四の君の御匝殿迄ちゃんと 正式の礼装をこらして控えている'その他には'殿の上(=道隆の 北の方)だけで'北の方は'二裳の上に小社をぞ着」た'略儀な私 的な礼装でおいでになっている。そこへ'道隆がきて「いやあ'お 姫様方'絵にかいたような御様子でいらっしゃいますな。それに' 今一人のお方も(常とは違ってめかしこまれ、今日は)人並みな御 様子にお見受けしますわい」と'例のさるがうごと皇百いながら' ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 貴子に向って「三位の君'宮の御裳ぬがせ給へ」と言ったのであ る。去る正暦元年十月五日に'従四位下女御だった定子が'先帝円 融帝の中宮であられた連子を皇后という名称に変え'一条帝の中宮 におなりになったのであるが'そのあと同月二十六日には'今まで 従五位上であった高階貴子は'后母であるため'正三位に赦された のであった。つま-'道隆が言った「三位の君」とは'自分の妻で かつ定子の生母である正三位高階貴子のことであ-'そうすると続 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ く 「三位の君'御裳ぬがせたまへ'この中の主君には'我が君 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ (定子のこと)こそおはしませ'勧桟敷の前に陣屋据ゑさせ給へ る'おぼろげのことかは」の文が'何ら無理なもしかも傍点の部 分が生きて'「この中の主人は私じゃない'我々の娘定子こそ'主 君でいらっしゃるのだ」と面白-解釈出来て-るわけである。諸本 にへこの箇所の異同あるのは'この道隆の妻は'常に「うへ」とか 「殿のうへ」と清少によってよばれているため'及び'三位になっ ていることに気づかなかったために起因するであろう。尚'この箇 所は'能因本の「三・四の君」や前田本の「三君」よ-も'岩瀬本 々文によった方が適当であろう。後年の道長が言った「宮の御てて
31 -/ I . ノ 一 ▲ . I . . _ ︰ . . ︰ ) . I . ∼ . / 1 . . . . 1 . . _ ■ ■ にて'まろわろからず'まろが娘にて宵わろからず云々」の言を連 想させるような遺隆の言葉ではあ-ませんか。これに続-「陣屋据 ゑさせ給へる云々」の部分訳も'「近衛の陣屋を設けておられると は'並大抵のことか。」(大系本頭注'金子元臣枕草子評釈及び池田 亀鑑全講枕草子とも同文。) との訳出では未だ意を尽し得ず'「中 宮様の御桟敷の前に'近衛の陣屋を附設させてお出でになられるな ど'余人に許されることであ-ましょうか。君寵の並大抵でないこ とが拝され'ほんとうにあ-がたいことです」等'これは試解に過 ぎませんが'心情の何辺にあるかわかるような解釈が望まれます。 きて'話を初昏仕え年時の推定にもどしてみましょう.前掲例文 佃・㈹・㈹・個の四つの文を読んでの共通した性質は'まだ今参り から間もないことを想わせるような表現の仕方'自己が今参り(節 参者) であるが故に'以下の文に記されたような事態が起ったので あることを語ろうとする心の動きT が見えることである。即ち例文 榊は'定子の生母がこちらにお見えになられたのに、清女も今参り 故'余計見たいと思う心が強いに拘らず'凡帳を引き寄せて了わ れ'新参者達の前には姿をお見せにならない'今参-故期待を外さ れた憂密さをのべた文であ-'例文㈹は、今参-故'後の清少の態 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 度とはまるっき-違って'到着の遅れた理由の弁解を控えている様 子'及びその清少の心を汲んで他の女房が代弁をLt 更に定子迄 も'今参りでない人がもっと気をつけてやるべき事だと'古参の女 房に注告をする件-で'暗に清少の今参-であるが政にとらねばな らなかった態度を'よ-察しいたわ-をかけている点が覗える。㈹ は'清少の今参-者の初心さ故に抱いた'新鮮で強烈な感激-それ を他人に分与したい心-あの初宮仕えl七九段中の「--かぎりな -めでたしと、見知らぬ里人ごこちには'かかる人こそは世におは しましけれと'おどろかるるまでぞ見まゐらする。」というのと' 非常に似た感懐の持ち方である。個は'道隆のお住みになっておら れる西の対の御殿の唐麻に'串をさし寄せられて'そこから各自が 乗車することになったので'全員渡-廊下にぞろ - と出かけて行 -のだが'古参の者はすっか-慣れ切った様子で遠慮もなく話など かわしたら先に立って歩いて行-のに'新参の者は気がひげで'遠 慮しっゝ人の後から従いてゆ-'そして'心中では'行く手の御殿 の御簾の中に中宮様や淑景舎様以下が立ち並んでいられることに恐 れをなし'ことに「そこらの御目どもの中に宮の御前(中宮定子) の見苦しと御覧ぜん限-さらにわびしきことなし」と'自分の容貌 全体を距離をもって眺められることに'得もいわれぬ恥しさを感 じ'弱-きっているのである。さて'先に進む前に'以上の例文か ら得たことを'一まずまとめてみますと'次のようになります。 一㌧正暦四年初春の出仕説とすれば'同四年一月-三月迄の間 (例文い-捕)で'定子に何らかの関係があった'それ故清 少の関与も十分考え得るような宮中行事や事件を史実によっ て拾い上げてみたのだったが'何らそれらに就ての記述が認 め得られないこと。 註 何 二 、 敵 景 合 の 著 裳 ( 1 3 . 淑景舎臨時の入内 西暦 1 4才カ) (九九三)正暦四年二月甘二日 (九九三)正暦四年三月甘七日
-32 -道隆の積善寺供養列席 (九九四)正暦五年二月廿日
(
柵
裂
欄
,
謁
絹
諾
詣
謂
紹
期
間
は
)
淑景舎東宮居貞へ参る (九九五)長徳元年正月十九日 姉・中宮定子と会見 (九九五)長徳元年二月 そうして'第一類本中の陽明文庫本々文のみを例外として' あと第一類本'第二類本を問わず、共通の本文によれば'清 少が'淑貴会を見たのは'積善寺供養日の折'「御うしろば かり'はっかに」見たにすぎないといっていること。陽明文 庫本々文によると'積善寺供養の折に見ているにもかかわら ず'東宮への入内日に後姿をみたと'一そう淑景舎をみた時 期が下ってしまう。(私註'清少の後姿だけだというのをそ の通りに受けとると'例文桐・S・㈹中で淑景舎らをみてい る箇所も大体後姿ばか-で'㈹は簾中からこちらをみている のがわかっただけでどれも'はっき-とみつめたことはなか ったわけであると解しておいてよかろう。) 三'定子の二条宮への遷御は'この時が始めてではな-'「日本 紀略」や「百練抄」によると' 正暦三年の十一月二七日から翌月十二月七日迄'即ち'この 清少も伴われた積善寺供養日よ-も'一年数カ月前に'既に 新造二条宵へ出向き'約十日滞在されているのであるが'二 六二段文中には以前に二条宮に来たことがあるような描写の 所が一つもない。 四'数々の記録類(1本朝世紀'2百練抄'3日本紀略'4扶桑 略記'5本朝文粋'6門葵記) に書き留められへその年月日 まで明瞭に記録されている積善寺供養の記述が'一七九段の ヽ ヽ ヽ 初宮赴えの頃の清少と定子の心理と'非常によ-似ているこ 1 ( 一 七 九 段 ) ( 二 六 二 段 ) と 。 ‖ わ れ を ば 思 ふ や -わ れ を ば い か ゞ み る -思 ふ べ し や ( 九 七 段 ) 否や'の一連の共通な定子のよぴかけも'この宮仕え間もな い頃の同一気分の連儀的時期の一日とみてよいのではなかろ 2 うかと思われるLt兜さの例文中'未だ言い及んでいない 的・㈹・的の文とこれから吟味する一七九段に於て'わず か一段の文中で'①定子や定子の父道隆'定子の兄弟伊周や 隆家らに自分の容貌を極度に見られまいと恥じる初心な清少 の姿が措かれてお-ますが、④この段よ-は後の'正暦五年 (九九四) の夏の一日を描いた二九五段(-三二二) には' 既に伊周へのそのような極端な蓋恥心はなくなってお-' かな-慣れてきている態度で伊周と話をかわした-、夜の御 殿から退出する時'伊周に送っていたゞいた-している。③ 先に佃・㈹・㈹・個の例文でみたように'二六二殿中には' 「まだ初々しきほどなる今参-のほど」以下三箇所に迄'清 少は自ら'今参-でまだ間もないことを語ってお-ます。 以上のような諸点を綜合的に考えて'清少の初宮仕えは'正暦四 年初春説と初冬説とのいづれかとすれば'私は、四年の初冬の方を 考えた方が妥当性があると思うのであ-ます。 以上'長-なってしまいましたが'一応'正暦四年初冬初宮仕え という視点に立った上で'これから'一七九段・二六二段・九七段33 -を考えてまい-ましょう。 きて皆様に御注意いたゞきたいのは'先の初宮仕え年時考察の折 も少々触れましたのですが'この九七段の定子の清少に向って発さ れた'「思ふべしや否や」と同類の質問が'今見てきました所の' 二六二段中とt l七九段の初宮仕えの段中にも存在しているという ことです。初宮仕えの時期を正暦四年初冬と設定いたしますと'二 六二段積善寺供養日は'それから約四ケ月後の出来事を叙した文で あります。この正暦四年初冬(九九三) - 同五年二月廿日という 一筋の起・着点に'「我をば思ふや」 - 「我をばいかゞ見る」と いう定子の言葉が表われています。そうして九七段に於ては'今度 (私があなたを) は「思ふべきや否や」と云う定子の言葉が見られるわけです。この 九七段の定子の言葉が'先の二段との関係に於てどの辺に位置づけ させたらよいか'九七段の記述内容の年時を考える時'この一七九 段と二六二段とを結ぶ言葉は'参考にする価値があると思われま す 。 一七九段に浮び出ている清少の自画像は'後になってからは'堂 々と貴公子や殿上人'或は定子とも受け答えしている宮仕えに慣れ 切った頃の彼女からは'全-予想外な'純情な清少の姿が映し出さ れていて、彼女の奥深-に秘められていた一自画像1人間的な面が 生々とで∼お-'この段を読むことによって'読者が今迄清少とい う女性に感じていた潜入感を減殺することにもなろうか'と思われ るほどの好文です。 「宮にはじめてまゐ-たるころ'もののはづかしきことの数知 らず'涙も落ちぬぺければ'夜々まゐ-て三尺の御凡帳のうしろ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ にさぶらふに、絵など取-いでて見せさせ給ふを'手にてもえさ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ し出づまじう'わ-なし。」 「高杯にまゐらせたる御殿池なれば(-高杯を逆に返してその 底に燈明皿をおいて池を入れたので'低-'それだけ近々と置か れた燈火だったから)'髪の筋などもなかなか昼よ-も顕証に見 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ えてまばゆけれど'念じて見などす。いとつめたきころなれば' ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ きし出でさせたまへる御手のはっかに見ゆるが'いみじうにほひ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ たる薄紅梅なるはかぎ-な-めでたしと'見知らぬ里人ごこちに ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ は'かかる人こそ世におはしましけれと'おどろかるるまでぞま ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ もりまいらする。」 低い高杯に移された燈火の下に'髪の毛筋などが昼間よりも'一 本 一 本 ' は っ き -と 見 え る の で ' 目 の -ら み そ う な ま ば ゆ さ を 感 じ るのだが'そこをぐっと堪えて拝見すると'大そう冷たい頃のこと とて'さし出しなされた袖口から'中宮様のお手がわづかにお見え になっているが'そのお指が匂おうような薄い紅梅なので'「何と まあ素晴らしいことか。」未だ宮中に上ったことのなかった里人心 には'「こんな素晴しい人が'世の中にはおいでになるものなんだ なあ」と目の覚めるような思いで'中宮様をじっと見守るのであり ました。そうこうする中に'夜も次第に明け初めて釆ました。と彼 女は途端に'あの醜い容貌を恥じて'夜中に久米路に橋をかけたと ひ と こ と ぬ し 云う伝説の1言命さながら'定子に顔-それほどきれいでもなく' 昨夜来の御前伺候で疲れもLt剥げてきてもいるであろう顔-を見
34 -せまいと気が気でな-、局に逃げ帰ってしまいます。女官どもが 「早-この格子を開けよ」と命ずる声を耳にしながらも執劫に僻伏 し 続 け て い た の に ' き っ そ -戸 を 開 け 散 ら し て ' ほ っ と 一 息 つ い て '戸外の積る雪に見入る彼女。が'一息入れるか入れぬ間に'もう お呼び出しがかか-'それも再三再四あるので'この局の主(ある じ。活少は古参の女房の許で行儀見習い中だった。往時も'他人の 部屋にともに起居しては指図をうける習わしがあったのです)も' 「 見 苦 し 。 さ の み や は こ も -た ら む と す る 。 あ へ な き ま で ' お 前 ゆ る さ れ た る は ' さ お ぼ し め す や う こ そ あ ら め 。 思 ふ に た が ふ は ' に -さものぞ」(「見苦しいですよ。そんな風にこもってばか-いよう とするのは伸々に許され難い御前伺候を'こうあっけないまでにお 許しになられたというのも'それ程あなたをお気に入ったからでこ そ あ -ま し ょ r う 。 御 好 意 に さ か ら う こ と は ' 憎 ら し い こ と で す 。 さ あ ' 早 -' 早 -」 ) と つ た ゞ 急 が し に 急 が す の で ' ど う し て よ い や らわからない心地だがT とにか-再び参上する。こんな清少の目に は'反対に'古参のゆった-と落ち着いて長-火鉢に手をかざし乍 ら隙な-居並んでいる人々'或は'お手紙の取-次ぎに立った-坐 った-しながら、何やら言っては声を出して笑っている人々の姿 の'いかにも遠慮なげであることが'実に羨やましく'一体何時に な る と 自 分 も ' 「 さ や う に ま じ ら ひ な ら む と 思 ふ き へ ぞ つ つ ま し さ」と嘆息されるのであった。 この日は'定子の兄の伊周と'続いて弟の隆家までもやって来ら れた。すると清少は' 「いかでお-なむと恩へど'さらにえふとも身じろかねば'い ますこし奥に引き入-て、さすがにゆかしきなめ-'御凡帳の ほころびよ-はっかに見入れた-」(以下一七九段よ-抜琴) 「大納言の--御直衣'指貫の紫--雪に映えていみじうを か し 。 「 -物 忌 に 侍 -つ れ ど ' 雪 の い た -降 -侍 -つ れ 中宮 ばおぼつかさになむ」 「﹃道もなし﹄と思ひつるに'いかで (どんなにしてこられましたの)」とぞ御答へある。うち笑 ひたまひて「﹃あはれと﹄もや (私がきたことを)御覧ずる ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ と (思っ) て」などのたまふ (お兄妹の)御あ-さまども' ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ これよ-なにごとかはまさらむ。物語にいみじう口にまかせ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ て言ひたるに違わざめ-とおぼゆ」 「 御 帳 の う し ろ な る は た れ そ 」 -な ど の た ま ふ に -よ そ に見や-てまゐ-つるだにはづかしか-つるに (凡帳ごし に) さし向かひきこえたるここらうつつともおぼえず。行幸 など見るを-'串のかたにいささかも見おこせたまへば'下 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 簾引きふたぎて'透影もやと扇をきしか-す(程であるの) ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ に'(今こう向き合って坐られては)'なほいとわが心なが ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ら ' お は け な -( -自 分 な が ら 厚 か ま し -) ' い か で 立 ち い ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ でにしかと汗あえていみじき」 「(顔をかくすために) ささげたる扇をさへ (伊周が)取-たまへるに'振-かくべき髪のおぼえさへあやしからむと思 ふ に ' す べ て さ る け し き ( そ う 思 う 内 心 ) も こ そ は ( 伊 周 に ) 見 ゆ ら め ' ( わ か っ て し ま っ た こ と だ ろ う ) 0 -( 肩 の
-35 -雨 代-に今度は顔に)袖をおしあててうつぶしゐたる云々」 「 一 と こ ろ ( で き へ ' 困 惑 し き っ て い た ) と こ ろ だ に あ る に ' -お な じ 直 衣 の 人 ( 隆 家 ) ま ゐ -た ま ひ て -殿 上 の ぅへ (噂話)など申したまふを(定子の傍でともに) 聞く ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 1 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ は、なは変化のもの'天人などの下-来るにやと'おぼえし をさぶらひ馴れ'日ごろ過ぐれば'いとさしもあらぬわざに こそはあ-けれ。」 等々の蓋恥感や感激に捉らわれてしまうのであった。この㈹・幽 ・糾・幽・鍋という例文の中には'二六二段中よ-の抜粋例文㈹・ ㈹・的・個と読みあわせると'どんなに彼等に対してこの二つの段 の時分は'我が容貌を恥じ'顔を見られる事を極端におそれ'伊周 や隆家や定子らを讃美する気持の強かったことか'知-すぎるほど 知ることができましょう。 そうして'この文の次に'定子の清少に対する「我をば思うや」 との質問が発せられているのです。 「ものなどおはせられて、宮﹃われをば思ふや﹄と問はせ給ふ。」 そこで清少は、「﹃いかがは﹄ ﹃どうして中宮様をお思い(愛し) 申 し 上 げ な い よ う な こ と が ご ざ い ま し ょ う 。 も う -\ ' 心 の 底 か ら お思い申し上げてお-ます﹄」と申しあげた時'台盤所(女房の詰 所 ) の 方 で ' 「 -し ゃ ん 」 と 誰 か 大 き い -し や み を 放 っ た の で ' 定 子 は 「 あ な ' 心 憂 。 そ ら 言 を い ふ な -け -。 よ し よ し 。 ( 「 あ ゝ ' 心 憂いこと。あなたは嘘を言ったのですわね。いいわ'いいわよ。」) といって奥に入ってしまわれたというのです。日頃'定子をお思い している心を何とか訴えたいと希求していた清少に'この問いは絶 好 の チ ャ ン ス だ っ た が ' い ら ざ る -し や み の 邪 魔 だ て で ' 嘘 を つ い たように-わざとであるにしろ思われてしまって実に心外で'腹が 立 つ 。 私 じ ゃ な く 「 鼻 の 方 こ そ ' そ ら 言 を し た -と 思 ふ 。 」 「 大 体 ' 私 は ' 常 日 頃 か ら ' -し や み は ' 気 に く わ な い も の と 思 う の で ' 出 か か っ た 時 で さ え ' 堪 え る よ う に し て い る く ら い な の に ( -こ んな大事な折に'人からされるなんて'なんて憎くらしい」と思っ た け れ ど 「 ま だ う ひ う ひ う ひ し げ れ ば ' と も か -も 啓 し か へ さ で 」 局に帰ってきた。とそこへ'浅緑の薄手の烏の子紙に書かれた優雅 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ な文(「艶なる文」というのを「意味深そうな手紙」︹大系本︺と註 しているが'か-書き直さぬばならないほどの理由も'歌の内容を 考えてもなさそうに思う)が届けられた。あげてみると「いかにし ていかにしらまし偽-を空にただすの神なか-せば。」(どうしてど のようにして貴女の言葉の真偽を乱すことができましょうか'もし 偽-を乱す'乱す神(賀茂神社の神)が空においでにならなかった ならば)とあるので'清少が「﹃うすき濃さそれにもよらぬはなゆ ゑに憂き身のほどを見るぞわびしき。﹄式の神もおのづから。いと か し こ し 。 」 ( 薄 -演 -と -ど -に 美 し い 紅 梅 の 花 ' な ら ぬ 鼻 = く し ゃ み の お か げ で ' 嘘 を つ い た な ど ∼ お っ し ゃ ら れ ' つ ら い 目 を 見 たことが陀びしゅうございます。人の善悪を監視するという式の神 も ' そ の う ち 自 づ と お わ か -下 さ る こ と で ご ざ い ま し ょ う 。 わ ざ -\お文を賜-もったいないかぎ-でございます。)と返事をさし 上 げ た 。
-36 定子の「我をば思ふや」という問いに対する清少の答は'他人に ヽ ヽ 大-しやみを放たれた為に'けちがついて'大失敗に終るという可 笑しな一場面があったのであ-'だから'反対に'いつか必ず挽回 したいと彼女は思ったにらがいあ-ません。 こ の よ う な ' 期 せ ず し て 起 っ て し ま っ た ユ ー モ ラ ス な 失 敗 の 一 日 から'一・二ケ月経って'積善寺供養の日がやってきました。枕草 子申からは'何ら窺えませんが'この日'関白道隆の御願寺である しやくぜんじ 積善寺に集った人々の顔ぶれを'本朝世紀から拾って眺めてみま すと次のようでありました。 故円融帝女御で一条帝の生母であ久一条帝即位と共に皇太后の 位につかれた冊三才の詮子'一条帝中宮定子'「為尊親王'敦道親 重 信 道 兼 王,右大臣'内大臣'大納言朝光'同済時'権大納言道長'中納言 鋲光、同懐忠'同時光、同実資、参議平惟仲'公任'誠信'弁・少 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 納言'列記'史皆参'自余四位五位不可勝計」とあ-'これに加う るに関白道隆'権大納言伊周'伊周の異母兄中納言道頼等と'中納 言・参議で数名を除き'殆ど当時の公卿・上達人の顔揃れが宮廷外 に出揃った盛儀であ-ました。二六二段の文によると'女院側の串 は唐草以下十五台'中宮側は'定子の乗った葱花撃(れん)の外に 二十台合計一撃二十五台という女車の数であ-ました。まず女院の 御車に付き添って、多数の公卿以下人々が供奉Lt次で一番後から 出御した葱花肇が'二条大路に体列を撃見て待機する串列前を通過 するのをまって'これら女房達の串は1斉に楯をあげ'みど-に霞 むうらゝかな朝の中を、積善寺に向って出発したのでした。そうし て女院がまず辰の一刻、午前八時頃に先着なきったあと'順次に女 こ ま い ぬ ら ん 房達の串は'「高麗・唐土の楽して'獅子・狛犬をど-舞ひ'乱 じよ[つ 声の音」の響きにものもおぼえぬ-らいに興奮する清少をものせ て大門を通過して行きました。 清少が桟敷へ参上すると'定子は未だ'御裳や唐衣を着た姿のま ゝで待って-れていました。「くれないの御衣どもよろしからんや えびぞめ は。中に唐綾の柳の御衣'葡萄染の五重がさねの織物に赤色の唐の ぢ ず か ら ぞ う が ん 御衣'地摺-の唐の薄物に、象眼重ねたる御裳などを奉-て'もの の 色 な ど は ' さ ら に な べ て の に は 似 る べ き や う も な し 」 と い っ た 目 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ も綾な姿で清少の御前に立たれて'そうしてこの時「我をばいかが ヽ ヽ 見 る 」 ( 私 を ど う 感 じ ま す か ) と ' お 問 い に な っ た の で し た 。 こ の 時清少は'「大変御立派でいらっしゃいます」などゝお答え申しは したものゝ「言に出でては世のつねにのみこそ」'と書き留臥てお ります。この積善寺供養日の定子の問いは'清少の初宮仕えの頃' くしゃみをされたことのある日から、多分二 二ケ月内のことでし よ^つ。 ㌢て,次に年時の不明な九七段の言葉が見直されてまい-ます。 ここには'「御方々'君たち'上人など'御前にいとおぼ-」伺候 している中で'麻の柱に覚-か∼って'他の女房と物語-などして いる清少'或は「御前にて物語-などするついでにも」、同じ思わ れるのなら、第一番でないとなんになり.MLょうかなど∼,意見を 述べ始め'物慣れてきた清少の姿が見うけられます。あの「いつの 世にか'さやうに交らひならんと思ふさへぞつつましさ」と述懐し
37 -ていた本人が'今は他の女房と屈託なさそうに話を始め'「絵に書 きたるをこそかかることは見しに'うつつにはまだ知らぬを夢のこ こらぞする」と見申し上げた'当の定子の御前で物語-等をして' 序に'人から思われるのなら第一番でないと'二番や三番では死ん でも嫌だなど∼'持前の気性を表わし始めてさてお-ますLt 「い かで下-なむと恩へど'さらにえふとも」身じろぎさえ出来なかっ た彼女が、麻の柱に覚れて-つろいだ姿をみせてお-ます。それ に'彼女が定子の御前で'第一番に思われていたいなどゝ倣顔とも 言える放言をしている所から'清少が切に'定子に一番に思われた いと希っている心'及びその希望が可能な状態であることを暗示し ているようでありますLt定子の方も'「第一の人に文一に思はれ む」と恩へと清少を励ましている言葉の裡に'暗に清少を第一に思 召されているらしい趣きを推察できます。定子と清少は'意心伝心 とでもいおうか'お互いに最初の対面の時から心の通じるのもがあ ったのです。他の中宮様と侍女との間では持てなかったような。注 目すべきは'春三月'積善寺供養から一ケ月程経過後'清少が物忌 みの為に宮中から多分初外出した頃の文と目される「三月ばか-物 忌しに」(二八四段=三〇一段) の記事です。宮中退出たった二日 目というに'中宮定子から清少へ 「いかにして過ぎにし方を過ぐし けむ暮しわづらふ昨日今日かな」(あなたが未だ私の許に出仕して なぞいなかった今迄をば'一体どのようにして過ごしてきたのでし ょうか'お前が退出してからというもの長い春の一日を退屈でもて わづらっている昨日今日です)という歌を'宰相の君の「(あなた の居ない)今日しも千年の心ちするを暁だにと-(お帰-になって 下さい)」との言葉も添えて贈られて参-ました。この歌からも' 清少は三月頃'もう中宮にどのように深-思われていたかを知る事 が出来ましょう。このようなあ-がたい主人の歌に対して'清少の 返歌は「雲の上に暮らしかねける春の日を所がらともながめつるか な」と'宮中で退屈で暮らしかねたと言う程の長い春日を'私は又 場所柄のせいだと思っていたと言う内容のもので'右の定子の言葉 にもう一つ迎合的ではない歌でしたから'参上した所'「昨日の返 し'暮しかねける'いとにくし。」と皆が清少の返歌を憎んだこと だった旨'定子から話し聞かされています。このような清少の返歌 の仕方からも'宮仕えに慣れ出してきている彼女を見ることができ ますLt この二八四段よ-も数週間位後の一日を描いた二一段(= 二五段)「清涼殿の丑寅の隅云々」に始まる'一条帝と定子の幸福 な「千年もあらまはしき」状態を「年ふれば齢は老いぬしかはあれ ヽ ヽ ヽ ど君をし見れば物思いもなし」と即詠して御意を得たという段で も ' 「 よ そ に 見 や -て ま ゐ -つ る だ に は づ か し か -つ る に い と あ さ ま し う ' き し 向 か ひ き こ え た る こ こ ら う つ つ と も お ぼ え ず -い さ さかも見おこせたまへば'下簾引きふたぎて'透影もやと扇をきし かくすに--いかで立ち出でにしかと汗あえていみじ」と思われた 伊周'女房どもが冗談を言う伊周に対して「いささかもはづかしと も思ひたらず聞え返し'そら言などのたまふは'--目もあやにあ さましきまであいなう」'傍で聞くだけで面ぞ赤らむと言っていた 伊周'恥しきで身動きも出来ず'凡帳に隠れ'扇で顔をか-Lt扇