資料篇
雑誌名 なにわ大阪と本山彦一 : 大正期大阪への貢献と本
山考古室 : 研究成果報告書
ページ 185‑248
発行年 2020‑03‑14
URL http://hdl.handle.net/10112/00020262
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資 料 篇
本山彦一関係年譜 農業博物館案内
関西大学博物館 2011 年度展示会パンフレット
『関西大学博物館蔵 本山コレクションの由来』
関西大学博物館 2017 年度展示会パンフレット
『河内国府遺跡発掘 100 周年』
関西大学博物館彙報『阡陵』関連記事(選)
大阪毎日新聞発掘調査記事大正 7 年 8 月 1 日から 大阪毎日新聞発掘調査記事大正 6 年 10 月 15 日から 大阪毎日新聞大正六年石器時代遺跡調査記事
河内国府遺跡発掘縄文時代頭骨出土状況図
187
資料篇
本山彦一関係年譜(1/3)
188
189
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本山彦一関係年譜(3/3)
(『松陰本山彦一翁』所収年譜を改変・加筆)
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『阡陵』第 1 号 1980 年 5
203
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『阡陵』第 24 号 1991 年 3 月
204
『阡陵』第 46 号 2003 年 3
205
資料篇
『阡陵』第 56 号 2008 年 3 月
206
『阡陵』第 59 号 2009 年 9
207
資料篇
『阡陵』第 60 号 2010 年 3 月
208
『阡陵』第 63 号 2011 年 9
209
資料篇
『阡陵』第 65 号 2012 年 9 月
210
『阡陵』第 66 号 2013 年 3
211
資料篇
『阡陵』第 67 号 2013 年 9 月
212
『阡陵』第 72 号 2016 年 3
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資料篇
『阡陵』第 72 号 2016 年 3 月
214
『阡陵』第 76 号 2018 年 3
215
資料篇
『阡陵』第 77 号 2018 年 9 月
216
『阡陵』第 77 号 2018 年 9
217
資料篇
『阡陵』第 77 号 2018 年 9 月
218
『阡陵』第 79 号 2019 年 9
219
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『阡陵』第 79 号 2019 年 9 月
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『阡陵』第 79 号 2019 年 9
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は似 ても につ かな い粗 製で 一見 古墳 物と は見 えな い其 の穿 孔の 技術 も全 く兩 刳の 石器 時代 物で ある こと は疑 ひな い、 此の 勾玉 を以 て後 世古 墳物 が混 入し たも ので ある と說 をな す人 もあ るが 私は 少く と も前 述の 通り に此 の國 府遺 蹟の 石器 時代 は其 の終 末期 に屬 し一 方原 始時 代に 喰み 合つ て居 るも ので 兩時 代の 兩民 衆は 互に 相往 復し 相交 易し て居 たも ので ある と信 ずる が故 に古 墳物 の形 をし た勾 玉が 混出 して も少 しも 時代 の錯 誤や 抵触 を認 めな い、 殊に 其の 出土 の勾 玉の 小孔 の穿 ち方 は明 瞭に 石器 時 代の 技術 兩刳 の方 法で ある 以上 は此 の物 の出 土は 正に 石器 時代 と古 墳時 代( 言ひ 得べ くん ば) とは 相 喰ひ 合ひ 相接 續時 して 居つ たと いふ 事實 を說 明す る楔 子を なす べき もの であ ると 信ず る、 漢代 品と 思 はる ゝ耳 輪、 それ に銅 銅鏃
、勾 玉、 彌生 式土 器に アイ ヌ式 土器 これ 等の 併出 の事 實を 究め て行 くな れ ば石 器時 代を 金属 器時 代の 連絡 その 中間 に金 石併 用の 時代 のあ つた こと や先 史時 代と 原始 時代 の關 系や 時代 區分
、そ れに 同時 代の 人種
、民 族の 問題 など を解 决す ると いふ 事は 出來 ない まで も解 决に 近 い所 まで 進め るこ とが 出來 やう
、更 に吾 人は 此の 國府 衣縫 遺蹟 の根 本的 調査 を繼 續す る考 へで ある
、 前後 十八 回に 亘つ て私 は第 四回 發掘 調査 の經 過、 遺物 人骨 其他 に關 する 梗概 を叙 說し た、 前に もい ふ 通り 文中 意見 の相 違は 兎も 角、 すべ て事 實上 の事 柄は 田澤 金吾 君の 測定 によ るも ので ある こと を吳 れ 〲も 斷つ て置 く、 意見 は變 る所 があ つて も事 實は 決し て亡 ぶも ので はな い 田澤 氏提 示の 事實 は絕 對的 のも ので ある
、發 掘は 四月 の十 日か ら五 月十 日迄 全一 箇月 で終 つた
、殘 務の 整理 など で尙 一週 間も 費し た、 人骨 を全 部發 掘し 終つ た五 月の 四日 に吾 々一 隊は 死者 に對 する 禮 を重 んじ て恒 例に よる 法要 を營 むこ とゝ なつ た、 本山 社長 は所 要の 爲め に参 列す るこ とは 出來 なか つ たが 發掘 に關 系し た一 切の 人々 人夫 は勿 論、 地主 並に 其の 家族 まで 發掘 現場 に假 仕立 の祭 壇に 筵し て 道明 尼寺 門主 六條 照傅 尼は 若き 尼僧 數名 を引 き具 して 有難 き經 典を 供讀 せら れ村 の檀 那寺 の二 僧は 再び 施餓 鬼を 勤修 した
、四 隣遠 近か らの 參拜 者や 見物 も多 かつ た、 二千 年前 の白 骨は 二千 年後 初め て 佛敎 の久 德に よつ て安 き眠 りに つく こと が出 來た であ らう
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比較 的下 層位 から 發見 され たか らで ある と言 つて 居ら れる が私 共( 田澤 君と 共に
)は 何が 故に 此の 所 謂縄 紋土 器が 原始 的の もの であ ると 言ひ 得る か確 なる 證據 を認 める こと が出 來な いの を遺 憾と する
。 斯う して 發掘 の回 數を 重ね るに 從ひ その 調査 研究 の進 むに つれ て問 題が 混沌 とし 疑問 が百 出し て 益々 判ら なく なつ て來 る、 私共 は唯 事實 有り の儘 を報 告し て識 者の 參考 材料 に資 すれ ば満 足で ある
、 尙例 のA 地域 の東 方竪 壙狀 地域 の何 物で ある かも 推定 せな けれ ばな らぬ 而も 其處 から は完 全な 土器 が多 く出 てそ れが 悉く 赤燒 きと 其他 赭色 をも 交へ るが 黑色 土器 を出 さな いの は何 故で あら うか
、人 骨 と此 區域 の遺 物と は關 係の ある もの か無 いも のか コン ナ問 題も まだ 疑問 とし て? の儘 で將 來に 殘し て置 く、 次に 石器 につ いて 述べ る 大正 7( 19 18
)年 9月 2日 河内 國府 第四 回發 掘調 査( 十六
)發 見の 石器 岩井 雍南 第四 回發 掘に 於い て採 取し 得た 石器 は其 數破 片を も合 すれ ば二 百個 以上 にも 及ん で居 る、 慥な 數は 前述 發掘 經過 の各 條に 於て 述べ たか ら之 を通 算す れば 直ぐ 判る
、其 石器 の石 質は 悉く 前回 同樣 すべ て 二子 石で ある
、( 從前 讃岐 石と いふ こと にな つて 居つ たが 小川 博士 の說 に從 つて 訂正 す、 二子 石と は 卽ち 南河 内と 大和 の境 なる 二子 山を 原產 地と なす
)卽 ち通 常金 石と 稱す る堅 緻な 淸麗 な○ を持 つて 居 るも ので ある
、今 回發 掘に 於て 最も 多く 出し た層 は言 う迄 もな く有 機質 土層 で塲 所か らい ふと 彼の 竪 壙狀 の區 域は 最多 數を 出し て居 る 石鏃 が最 も多 く次 に石 槍の 破片 石○
、石 庖丁 數個
、半 月形
(○
○) 數個 で○ 石二 個、
○○ の石
○○ 石鏃 の形 で最 も多 いの は笹 葉形 のも ので 三角 形、 雁又 狀の もの もま ゝあ つた
、有 柄無 柄共 に存 在し て 居る
、石 器に 就い て特 に記 すべ き事 はな い、 唯か くの 如く 多數 の石 器を 發見 する は他 地方 の遺 跡に は 餘り に多 い例 では ない
、何 故で ある か其 理由 を説 明す るの に私 は前 回卽 ち三 回發 掘報 告に 述べ た通 り 此の 遺蹟 は少 くと も石 器使 用の 終末 期、 卽ち 金石 併用 時代 に營 まれ たも ので ある こと の前 説を 繰り 返 す迄 であ る、 之に 反對 意見 も無 いで はな いが 事實 の示 す所 は左 樣解 釋す るに 何等 の不 都合 も認 めな い もの であ る、 金石 併用 時代 とい へば 今回 發見 され た三 個の 銅鏃 は餘 程有 力な 事實 を○ すも ので ある
、 幅五 分、 剣形 をし た銅 鏃と いへ ば大 抵は 此形 を想 像す るも ので あり
(三 は長 さ九 分五 厘、 幅三 分五 厘、 腐蝕 甚だ しく 全形 は想 像し 得な いが 柄は 極め て長 いも ので 三者 共に 支那 漢代 あた りの 形式 に近 いも ので ある
、而 も僅 に三 本し か出 土せ なか つた 其三 本が 各形 狀を 異に して ゐる 事實 は當 時既 に各 種の 形 式の 銅鏃 が行 はれ て居 つた 程に 迄盛 行し て居 つた 事實 を認 める こと が出 來る
、此 の出 土の 竪壙 狀の 地 域は 勿論 人爲 的變 化で あつ ても 私は 決し て甚 だし き後 の世 に變 化せ しめ たも ので なく
、他 の人 骨等 の 遺蹟 と同 時或 は餘 りに 時代 の距 りが ない 時代 同じ 石器 時代 の遺 蹟で ある と信 ずる が故 に私 は此 の地 域か ら銅 鏃の 出た 事は 此國 府遺 蹟を 金石 併用 時代 の遺 蹟と 認め る上 に有 力な 資料 を提 供し たも ので ある と思 ふ 大正 7( 19 18
)年 9月 3日 河内 國府 第四 回發 掘調 査( 十七
)發 見の 耳飾 り 岩井 雍南
去年 十月 第三 回發 掘に 於て 三組 の耳 飾を 各人 骨の 雙耳 下か ら發 見し て從 前不 明で あつ た此 の種 の 遺物 の用 途を 明示 した 事す ら學 界に 珍し い新 發見 であ つた もの が第 四回 發掘 に於 ては 更に 三組 の耳 飾り と勾 玉管 玉各 一個 宛を も掘 出し た、 耳飾 りは 何れ もA 地域 出土 の人 骨に 伴出 した もの で發 見當 時 の有 り塲 所は 幾分 位置 は崩 れて 居つ ても 當初 雙耳 下に 在つ たも ので ある こと は疑 ひな い、 覆土 の重 力 肉體 の腐 滅等 によ りて 骨其 物が 幾分 位置 を變 ずる に從 つて 自然 に耳 飾り の位 置を も變 へた もの で現 に三 號人 骨に 伴出 した 左耳 下の 分は 顎下 へ位 置を 變へ て居 つた 事な ども それ が爲 めで ある
、第 二號 人 骨に 伴出 した もの は凍 石製 で一 對共 徑約 一寸 五分 左耳 下に あつ たも のは 中央 で兩 折さ れて ある 爲め に兩 端に 更に 小孔 を穿 つて 之を 繼い で使 用し たも のら しい
。第 三號 人骨 に伴 つた もの は軟 玉製 で、 其 顎下 に位 置を 轉じ てあ つた もの は、 色青 班色 其の 形奇 異で 今日 束髪 に用 ふる 一種 の櫛 形( 寫眞 中參 照) をし て居 り幅 一寸 七分
、高 さ同 じく 一寸 七分
、右 耳下 に在 つた もの は色 白色 幅一 寸七 分、 高さ 約一 寸 五分
、更 に第 四號 人骨 片に 伴出 した もの は一 は徑 一寸 六分
(寫 眞下 參照
)同 じく 凍石 製の もの で雙 方 とも 兩折 され 各繼 ぎ目 に小 孔を 穿つ たこ とは 第二 號人 骨伴 出の 一○ に等 しい
、思 ふに 是等 の耳 飾り は 支那 渡來 品で 當時 是等 民族 にと つて は非 常な 貴重 品で あつ たに 相違 ない
、何 分其 質が 脆弱 であ る爲 め に壊 れ易 く不
○兩 折さ れた もの があ つて も之 を放 棄す るこ とを 得せ ず之 に小 孔を 穿つ て更 に使 用し たも ので あら うと 思は れる
、耳 飾り につ いて は第 三回 發掘 記事 に於 て可 なり に細 説し たか ら煩 を厭 う て再 説は せな い、 が之 を支 那漢 代あ たり の渡 來品 とし 以て 之等 から 我が 石器 時代 の年 代を 考定 して 我 石器 時代 は勿 論古 い時 代か らあ つた らう がそ の末 は原 史時 代に も喰 ひ入 つて 居る 從前 考へ られ て居 つた 樣に 古い もの ばか りで なく 比較 的新 しい 時代 に迄 も存 續し
、廣 い日 本の 國土 内で は或 る地 方で は 原史 或は 有史
(換 言す れば 銅器 或は 鐵器 使用 の) の狀 態に ある 民族 が住 み、 或る 地方 では 尚石 器使 用 狀態 であ るも のが 混ん がら がつ て居 つた と推 定し た説 に對 して 反對 説が ない でも なか つた
、け れど も 第四 回發 掘の 結果 に○ して 之を 改む べき 必要 を認 めな い殊 に私 は日 支の 交通 の最 初を 支那 では 漢代 と信 ずる が故 に此 耳飾 りを 漢代 なる 事を 改め る必 要も ない 許り か某 論者 の如 く支 那漢 代で ある なれ ば金 屬器 もあ るか ら耳 飾り の小 孔( 兩折 の繼 ぎ合 せの 處に 在る 孔) の如 きも 今少 しく 精巧 な孔 が穿 け られ さう なも のだ とい ふ意 見を も少 しも 顧み る必 要が ない
、何 とな れば 耳飾 其物 は漢 代で あつ ても 其 の小 孔は 此の 民族 の卽 ち石 器時 代の 文化 に在 る民 族が 實際 使用 に當 つて 壊れ た爲 めに 自ら 穿つ た孔 であ るか ら此 の穿 孔の 技術 は漢 代の 技術 とは 何等 關す る所 でな いか らで ある
、殊 に第 四回 發掘 に於 て 勾玉 と管 玉と の發 見は 先史 原史 兩時 代を 結び つけ る上 に有 力な 材料 を得 たも ので あつ
た
大正 7( 19 18
)年 9月 5日 河内 國府 第四 回發 掘調 査( 十八
=完
)発 見の 玉類
=法 要 井雍 南 青玉 製の 一寸 六分 とい ふ大 勾玉 は同 じく 第四 回發 掘に 於て 例の 竪壙 狀の 地域 の中 層か ら發 見し 長 一寸 餘徑 三分 の管 玉は 其の 地域 の西 有機 土層 から 發見 され たの であ つた 事は 前述 の通 りで ある
、勾 玉 は丁 字頭 で其 の輪 廓は 全く 原始 時代 卽ち 往々 古墳 墓か ら發 見す るも のゝ 形に 似て 居る が、 其の 頭に 施 され た小 孔の 穿け 方が 全く 異な つて 古墳 墓出 土の 玉の 孔の 樣に 片刳 では なく
、之 れに は耳 飾續 綴の 爲 めに 施さ れた 小孔 同樣 に兩 面か ら刳 つて 穿つ た卽 ち兩 刳つ ての 穿け かた であ る、 管玉 は勾 玉の 技術 と
223
資料篇
體埋 葬の 狀態 から いふ と、 凡て 屈葬 の形 式を とり 多く 東方 を枕 とし 第十 六號 一體 の俯 臥を を除 く他 は 悉く 仰臥 して 居る 今次 の發 掘地 域は 其の 地層 の浅 かつ た爲 めに 腐蝕 する もの 多く 十九 體の 人骨 の中 略形 の測 定し 得ら れる もの は約 九體 に過 ぎな いが 前回 發掘 の二 十一 體の 例か ら推 して 此の 事実 は否 むわ けに はゆ かな い、 そし て石 塚ら しき もの を伴 ふも の約 三體
、耳 飾を 備ふ もの 三體
、前 回の 樣に 土 器を 頭に 被つ て居 つた もの はな かつ た迄 も第 三號 人骨 の如 くア イヌ 式土 器を 胸邊 に置 ける もの ゝ如 き珍 例が あり 其他 土器 石器 を伴 出す るも の數 體の 多き に及 んで 居る
、第 五號 及第 十四 號人 骨の 如く 人 骨の 一部 が折 斷さ れ缺 損し
、第 一號 人骨 の如 く四 肢一 束と して 埋葬 され ある の事 實は 什慶 いふ もの か 私は 思ふ に、 之れ だけ の多 數の 人骨 を埋 設す るの は決 して 一時 或は 短か い時 間に 行は れた もの では な くか なり に長 い時 間を 要し て居 る、 卽ち その 埋葬 の地 層に 深淺 があ り一 體の 上層 に更 に一 體を 埋葬 せ るが 如き 事實 は一 度埋 葬し てか ら後 更に 埋葬 した 事實 を示 して 居る もの であ る、 人骨 の一 部が 折斷 さ れ或 は一 束に 束ね られ てあ る事 など は一 度埋 葬し た後 の時 代に 更に 埋葬 すべ き必 要上 墓穴 を掘 鑿す る際 にそ の鋤 鍬に かゝ つて 折斷 され 或は 發掘 され た爲 めに 之を 一束 とし て邪 魔に なら ぬ場 所へ 埋め 直し たも のと 解○ し得 るも ので ある と信 じて 居る 而し て今 次發 掘區 域に 就き て言 はゞ 其の 人骨 の存 在の 多い 部分 は地 域の 東邊 及北 邊地 層の 深い 部 分で あつ て南 及西 する に從 つて 其の 數を 減ず る傾 向が 見え る而 も東 邊が 地層 の厚 深な る關 係か 腐蝕 缺損 せる もの が少 く西 邊所 在の もの 殊に 西南 邊第 四號 人骨 の如 き頭 蓋の 一部 と耳 飾を 存せ しの みで ある
、骨 其物 に就 いて 直觀 さる ゝ所 はす べて の骨 組が 頑丈 で背 高く 扁平 なる 脛骨 と、 上下 兩齒 の咀 嚼 面が 兩面 とも 平均 に摩 滅さ れあ る事 實は 石器 時代 住民 の特 徴を 持つ て居 るも ので ある
、人 骨の 研究 は 大串 博士 の調 査の 結果 を發 表す る筈 で吾 人の 素人 考へ を加 へな い。 大正 7( 19 18
)年 8月 28 日 河内 國府 第四 回發 掘調 査( 十四
)發 見の 土器 槪括 岩井 雍南 發掘 作業 の經 過遺 物出 土の 狀態 を說 き發 見人 骨の 槪括 的記 事の 次ぎ には 是非 共出 土の 土器 に就 い ての 槪観 を記 さね ばな らぬ
、發 見土 器の 數量 や形 狀は 大體 前述 各條 項に 就い て纏 めて 見れ ば判 るこ と であ るが 主と して 堆土 層か ら出 る祝 部土 器は 別と して 其他 の主 要土 器を 其質 から 分類 する なれ ば赤 燒、 赭色
、黑 燒の 三種 に區 別す るこ とが 出來 る、 赤燒 には 多く 文樣 を施 さず 赭色 黑燒 には 殆ど 文樣 が 施し てあ ると いつ てよ い、 黑色 のも のに はま ゝ文 樣の ない もの もあ る、 一切 殆ど 文樣 を見 ない 赤燒 土 器に も先 づ二 種類 ある 一は 其の 面疎 雜で ある もの と一 は其 面滑 澤で 篦つ けを して 居る もの もあ る、 形は 高杯
、茶 碗形
、竈 等が 重な るも ので
、有 機層 の上 層並 に彼 のA 地域 東方 竪壙 狀の 地域 中累 々と 層を なせ る部 分は 殆ど 之 れの みで あつ たと いつ てよ い完 全に 存し て居 つた 土器 も殆 ど之 れの みで ある
、此 の疎 面、 滑澤 の二 種 は畢 竟時 代の 差異 が使 用途 の差 異か
、其 問題 は判 明せ ずと も單 に赤 燒と いつ ても 先づ 此の 二種 別あ る こと を認 めね ばな らぬ
、次 ぎに 赭色 をし た土 器は 悉く 有紋 で渦 紋波 線、 鋸齒 線、
○紋
、刷 毛目 紋等 線 文樣 であ る、 此の 文樣 の種 類に 就い ては 可成 精細 に第 三回 發掘 記事 中に も記 載し 京大 報告 書に も載 つ て居 るか ら煩 を厭 うて 再記 せぬ
、形 から いふ と大 形壷 か皿 の口 縁部 が一 番多 く出 た、 例の 竪壙 狀の 地
域の 有機 層中 或は 無紋 赤燒 土器 と混 じた り或 は其 の上 層か ら出 土し た。 所が 不思 議に も是 等赤 色、 赭 色の 兩種 の土 器は 決し て人 骨存 在近 接の 地か らは 出な い 換言 すれ ば是 等の 土器 は人 骨に 伴出 せな い、 人骨 と伴 出す るも のは 黑色 土器 で併 も京 大報 告書 の所 謂原 始縄 紋と 稱す る、 蓆紋 とい はう か縄 文と いは うか 或は 又齒 朶の 葉を 捺し た樣 なも の又 は爪 形を 捺 した 樣な 地紋 に、 肩の 部に 稍太 き直 線模 樣を 施し てあ るも のな どで ある
、こ れは 前三 回の 發掘 に於 て も人 骨に 伴出 する 土器 は悉 くこ れで 赤燒
、赭 色の 如き は全 く伴 出せ ない
、殊 に今 回第 三號 人骨 の胸 部 に置 かれ てあ つた 土器 の如 きは 全く 完全 で其 の形 深鉢 形を なし 最も 珍と すべ きは 口縁 に前 後二 箇所 に耳 が出 て居 る事 であ つて
(寫 眞參 照) 此の 耳は アイ ヌ式 土器 の特 徴で 赤燒 赭色 等の 所謂 彌生 式土 器 には 此の 特徴 が全 く存 せな い 斯う して 槪括 して 見る と出 土の 土器 には 少く とも 二つ の質 の違 つた 土器 があ るこ とに 氣が つく
、卽 ち、 赤燒 きと 赭色 との 通常 彌生 式と 名づ くる 系統 の土 器と
、こ れと は全 く文 樣の 性質 も違 つた
、殊 に 人骨 の附 近に のみ 存す る或 は人 骨と 伴出 する とい ふ出 土狀 態の 全く 異例 のも ので 而も それ がア イヌ 系統 に近 いと 思は るゝ 形狀 特質 を持 つた 土器 と此 二種 類が ある
、茲 で大 なる 疑問 に逢 着す る、 卽ち
、 一つ の遺 蹟に 二つ 以上 の異 つた 樣式 を備 ふる 土器 の出 土す るこ とは 此の 遺蹟 には 種類 の異 つた 二つ 以上 の人 種が 並存 して 居つ たも ので ある か或 は此 の土 器の 形式 特質 の差 異は 人種 の相 違で も何 でも なく て畢 竟其 の差 異は 使用 の時 代の 差と 解す べき かと いふ 問題 であ る土 器と して 古瓦 や土 の錘 の事 は煩 を厭 ひて 細說 せな い。 大正 7( 19 18
)年 9月 1日 河内 國府 第四 回發 掘調 査( 十五
)土 器と 人種 岩井 雍南 如上 の疑 問が 起つ たと すれ ば先 づ其 の所 謂彌 生式 土器 と黑 色土 器の 出土 狀態 を層 位的 に十 分検 索 せね ばな らぬ が兩 樣の 土器 は前 述の 如く 層位 に之 を解 決す べき だけ の○ 左を 得な い卽 ち同 じ層 位か ら兩 方共 出土 する 唯其 の所 在塲 所が 一は 人骨 の周 圍近 接の 塲所 に限 り、 一は 人骨 存在 地點 と遠 い所 か ら出 るだ けで 地層 は共 に有 機土 層で ある
、で ある とす れば 少く とも 層位 の示 す處 は此 の兩 樣の 土器 に は年 代の 差が ある もの では なく 同じ 平面 上に 兩樣 同時 に使 用さ れて 居つ たも のと いふ より 外は ない 然ら ば同 一平 面上 に、 所謂 彌生 式土 器を 使用 した 一人 種と 黑色 でア イヌ 式に 近い 土器 を使 用し た一 種 族と が併 存し て居 つた ので あろ うか
、二 種の 人種 が併 存し て居 つた とす れば 彌生 式土 器が 餘り に多 く 他の 遺物 の餘 りに 僅少 で人 骨附 近の 黑燒 土器 のみ であ る事 實を 什麼 解釋 すべ きか
。此 の黑 燒の 所謂 縄 紋土 器殊 に第 三號 人骨 に件 出せ る完 形の 耳あ る土 器の 如き 若し 關東 や東 北の 石器 時代 の遺 蹟か ら出 たな れば 誰し も之 をア イヌ の遺 物と して 疑ふ もの はあ るま い、 然ら ば此 の土 器を 併出 する 人骨 はア イ ヌで ある かと いへ ば鈴 木京 大敎 授は 小金 井博 士に 反し て必 ずし も現 在ア イヌ と近 似の もの でな いと いひ
、數 十體 の多 きを 自ら 發掘 し現 に研 究中 の大 串博 士の 說も――
勿論 まだ 斷定 では ない が――
アイ ヌら しく ない と言 はれ て居 る、 濱田 京大 敎授 の如 きは かく の如 く二 樣以 上の 種類 の土 器が 併出 した と して も、
○○ 彌生 式土 器と いふ も亦 アイ ヌ式 土器 とい ふも 元は 同じ く人 骨に 伴出 する 原始 縄紋 土器 か ら出 たも ので 二樣 其源 を一 に發 して 居る
、此 の人 骨と 伴出 する 土器 を原 始的 のも のと する 理由 の一 は
224
人骨 四體
、耳 飾三 組、 石○ 約十 個、 石匙 一個
、石 槍一 個、 管玉 一個
、石
○若 千、 土錘 一個
、宣 和通 貨一 枚、 カワ ラケ 數枚
、赤 燒坏 十数 枚、 祝部 破片 若干 古瓦
(平 瓦、 丸瓦
、巴 瓦) 若干
、赤 色、 赭色
、 黑色 土器 若干 これ から
(B
)地 域の 發掘 にか ゝる
(B
)地 域は A地 域の 西部 その 北邊 に接 續し て北 へ十 八尺
、其 の西 端は A地 域の 西端 と一 直線 に交 はり それ から 東へ 三十 四尺 餘、 卽ち 三十 四尺 に十 八尺 約十 七坪 の 地域 で( A)
(B
)地 域を 合し ての 地形 は丁 度曲 尺形 でA 地域 は其 の長 徑と なり B地 域は 其の 短徑 とな るわ けで ある
。( 地域 は( 四) 揭載 地域 平面 圖参 照) 大正 7( 19 18
)年 8月 19 日 河内 國府 第四 回發 掘調 査( 十一
)B 地域 の發 掘と 人骨 岩井 雍南
(B
)地 域約 十七 坪の 區域 も( A) 地域 同樣 先表 土か ら取 除き 堆土 層か ら有 機質 を含 んだ 黑土 層と を順 序に 掘下 て行 つた が此 各地 層が 各淺 く薄 くて 表土 下一 尺内 外で 基底 部の 砂利 層に 達す る、 併し な がら 矢張 A地 域と 同樣 に西 及南 する に隨 ひ薄 く、 東及 北す るに 從つ て厚 く特 に有 機土 層に 於て 其の 著 しき を見 るが 其の 西端 と東 端と の差 と雖 も僅 に數 寸し かな い、 平均 厚さ 七寸 の堆 土層 には 遺物 の混 入 する こと 極め て○ く僅 に祝 部土 器片 及赤 燒、 赭色
、黑 色土 器片
(有 紋無 紋兩 樣あ り) 及古 瓦の 破片 と 共に 二三 の石 鏃を 發見 した ばか りで ある
、石 層原 石も 亦僅 少で あつ た、 けれ ども 有機 土質 の黑 土層 に 至る と僅 に地 表下 七八 寸の 所か ら續 々と して 人骨 が發 見さ れ、 殆ど 其の 應接 に○ ない 位で 無慮 十五 體 を算 した
、A 地域 の發 見の 人骨 の番 號か ら發 見の 順序 によ つて 通號 を附 する
、第 五號 人骨 はB 地域 の 東邊 に接 して 南邊 卽ち A地 域の 北邊
)か ら四 尺八 寸表 土下 一尺 四寸 の所 から 發見 され た、 什麼 いふ も のか 此の 人骨 は胸 部以 下一 直線 に切 斷さ れ、 自○ を缺 いて 骨片 すら 發見 せな い、 而も 胸部 以上 は頭 蓋 迄極 めて 完全 で一 小傷 さへ ない 周圍 の有 機質 土中 には 粘土 を混 じ其 の中 から 祝部 破片
、赤 燒土 器の 把 手、 出雲 石破 片を 掘出 した
、第 六號 人骨 は東 端よ り九 尺南 邊よ り七 尺四 寸に して 表土 下僅 に七 寸に し て發 見さ れ、 頭蓋 骨は 堆土 に出 であ りし 爲め に破 壊缺 損し 以下 手足 共に 稍腐 蝕し つゝ も其 の形 狀を 存 在し 手足 を曲 げ仰 臥し て居 た周 圍の 土中 から 土器 の小 破片 を發 見し た、 第七 號人 骨は 地域 の略 東北 隅、 表土 下一 尺の 所に 存し
、頭 を東 に體 を斜 に東 向け 手足 を曲 げて 仰臥 して 居つ た、 其の 上部 で黑 色素 紋 の土 器大 破片 を發 見し たこ れを 全形 に復 原す れば 高約 一尺 六寸 口徑 約二 尺の 尻細 の坩 形土 器と 見ら れる
。 大正 7( 19 18
)年 8月 24 日 河内 國府 第四 回發 掘調 査( 十二
)累 々た る人 骨 岩井 雍南 B地 域第
(八
)號 人骨 は西 より 二十 三尺 南邊 より 四尺 の所 表土 下八 寸、 餘に 淺き が故 に多 く腐 蝕し て下 肢骨 其他 一部 分を 殘存 して 居る のみ であ り第
(九
)號 人骨 は東 より 十五 尺北 邊に 接し て表 土下 一 尺十 二寸 の所 に體 の上 半以 下を 殘存 せる も腐 蝕甚 だし く其 埋沒 狀態 さへ 知れ ない 第( 十) 號人 骨は 東 邊よ り十 七尺 五寸 北よ り六 尺表 土下 一尺 二三 寸の 所に 在つ て稍 深か りし 爲め 頭蓋 の上 半を 缺損 せる ばか りで 其他 は略 完存 して 居る
、手 を胸 に合 掌し
、脚 を曲 して 仰臥 して 居る こと 他の 例と 同じ もの で
土器 二個 を伴 出し た、 此の 人骨 は左 手が 右手 より 長い 事を 特徴 とす る、 第( 十一
)號 人骨 は東 より 二 十尺
、此 より 十二 尺表 土よ り一 尺の 所に 頭蓋 破片 及其 他の 骨片 を存 在し 居る ばか りで 石鏃 二個 土器 小 破片 二個 を併 出し た第
(十 二) 號人 骨は 東よ り二 十五 尺餘
、北 より 四尺 表土 下一 尺の 地點 に手 足を 曲 して 仰臥 して 居る 儘で 殘存 し頭 蓋を 缺い て居 る、 第( 十三
)號 人骨 は丁 度十 二號 人骨 の北 方卽 ち北 邊 に接 して 存在 し其 の所 在の 地層 深か りし 爲め に右 手を 缺損 して 居る ばか りで 略完 全に 存在 して 居つ た、 手を 腹に 置き 足を 曲し 頭を 東に 仰臥 して 居る 第( 十四
)號 人骨 は六 號人 骨に 接し て稍 南東 寄り に 埋葬 され 表土 下二 尺の 深さ に在 り頭 部は 第五 號人 骨の 下體 と共 に掘 取ら れた もの ゝ如 く一 つも 存在 せな い胸 部以 下完 全に 存在 して 居る
、同 じく 手足 を曲 して 仰臥 して 居る
、但 し此 の人 骨の 胸部 より 上 には 礫石 夥し く存 在し 足の 附近 其他 から 石鏃 三個 破片 八個 土器 小破 片六 個を 發見 した
、第
(十 五) 號 人骨 は東 より 二十 二尺 七寸 第十 一号 號人 骨の 西南 方約 三尺 の所 に在 り表 土下 一尺 二寸 ばか り、 腐蝕 せ る骨 片一 塊を して 居る
、土 器破 片併 出、 此の 附近 に古 瓦破 片を 混じ て居 た、 第( 十六
)號 人骨 十二 號 人骨 の東 に接 して 表土 下八 寸又 胸骨 以下 缺損 し頭 蓋も 後半 を缺 き居 れる が不 思議 な事 には 多數 人骨 中唯 僅に 此れ のみ 一體 が俯 むき に臥 て居 る事 であ る、 第( 十七
)號 人骨 は十 號人 骨の 北地 域の 北邊 に 接し て置 かれ 表土 下僅 かに 九寸 頭蓋 の大 部分 を缺 き手 足其 他稍 完全
、手 足を 曲げ て體 の上 部に 置き 頭 を南 に北 面し て仰 臥し て居 た、 第( 十八
)號 人骨 は十 七號 人骨 の南
、十 號人 骨と の中 間に 同じ く表 土 下八 寸の 所に 唯僅 に骨 片一 塊を なし て居 たば かり であ る第
(十 九) 號人 骨は 七號 人骨 の南 に接 して 表 土地 下一 尺七 寸以 下の 所に 埋め られ
、骨 盤の 一部 及足 の一 端は 後世 掘り 取ら れた もの ゝ如 く、 骨片 其 の附 近に 位置 を變 じ且 缺損 せる 所あ れと も骨 は極 めて 頑丈 にて 下肢 骨の 如き 一見 馬骨 の如 き感 があ る、 頭を 東に 體を 稍西 北に 向け 手を 胸邊 に合 掌し 脚を 前に 屈し て仰 臥す
、胸 上に は一 尺大 の扁 平な る 自然 石( 花崗 岩) 其他 頭蓋 骨及 胸上 に大 小の 自然 石を 多く 存し て居 た、 土器 破片 一個 伴出
、其 他四 五 箇所 から 腐蝕 せる 小骨 片を 發見 した が纏 まつ たも ので ない から 番號 には 加え ぬこ とに した
、人 骨の 發 見は 以上 の如 くA B兩 地域 を通 じて 其數 約十 九體 を算 出す るこ とゝ なつ た。 發掘 の經 過其 の實 際に 關 する 記事 は大 要如 上で ある これ から それ が槪 括的 記述 に移 る。 大正 7( 19 18
)年 8月 26 日 河内 國府 第四 回發 掘調 査( 十三
)世 界の 珍例 岩井 雍南
(B
)地 域發 掘に 費し た十 日間 は殆 ど人 骨の 發掘 採取 に費 した 樣な 形で あつ た、 A、 B兩 地域 通じ て十 九體 の人 骨そ れに 大正 六年 六月 京都 大學 の第 一回 發掘 から 通算 する と茲 に四 十體 の人 骨を 發見 した わけ であ る、 近時 石器 時代 遺蹟 發掘 研究 が進 歩し て同 時代 の人 骨の 發掘 調査 さる ゝも のも 少く は ない が同 遺蹟 とし て有 名な 肥後 轟で も最 近去 七月 末三 體の 人骨 を同 じく 大串 博士 の手 によ って 發掘 され た備 中津 雲の 貝塚 の如 きも 前後 數回 の發 見を 通算 する もそ の五 分の 一の 人骨 を發 掘し て居 らね
、 海内 のみ なら ず、 海外 に於 ても 石器 時代 の人 骨を かく 迄多 數に 發掘 した 事は 余體 寡聞 未だ 嘗て 之を 聞い たこ とが ない 蓋し 世界 の珍 例と して 今や 考古 學人 類學 の石 器時 代の 研究 は此 の微 少な る衣 縫遺 蹟五 畝十 一歩 の地 域に 集注 され て居 る感 があ る、 私共 は最 初よ り此 の發 掘に 携は つた こと を衷 心愉 快 とす る、 今第 四發 掘に よつ て得 た十 九體 の人 骨を 通觀 する に其 の詳 細な る研 究は 大串 博士 に俟 つが 大
225
資料篇
後述 する 筈で
ある
大正 7( 19 18
)年 8月 9日 河内 國府 第四 回發 掘調 査( 八) 有機 土層 の遺 物 岩井 雍南 相當 の日 子を 費し A地 域東 部の 竪壙 狀の 箇所 の基 底部 迄も 檢索 し終 つて それ より 以西 の有 機物 を 含ん だ黑 土層 を發 掘す るこ とゝ なつ た此 の部 A地 域の 平面 四分 の三 に相 當す る( 竪壙 狀の 箇所 は略 四 分の 一に 相當 する
)一 體地 域の 西す るに 從つ て堆 土層 も薄 くな る樣 に有 機層 もま た淺 く薄 くな る、 西 端で 一尺 の厚 さを 示し 東端 卽ち 竪壙 の西 端部 分附 近で は其 の厚 さ一 尺五 六寸 であ る、 其の 層下 は自 然 に東 方に 傾斜 した 基底 部の 砂利 粘土 層と なる わけ であ る、 遺物 の出 土狀 態か らい ふと 一般 に其 の數 を 減少 し石 器土 層古 瓦等 極め て寥 々た るも ので ある が不 思議 にも 南邊 より 四尺 五寸 東端
(A 地域 の) か ら三 十四 尺の 所で 赤燒 の坏 徑約 四寸 のも のが 完全 三個 破片 約三 個分 が相 重な つて 表土 下五 寸乃 至七 寸の 所に 存在 して 居つ た、 尚同 樣の 土器 はこ れよ り稍 東南 の部 分か ら十 數枚 累々 と重 なつ て表 土下 五 寸か ら一 尺三 寸の 間に 存し 其の 周圍 徑三 四尺 の間 には 恰も ケー ルン の如 く自 然石 徑五 寸位 のも ので 圍ん で居 た、 それ ばか りで はな い、 赤燒 坏出 土の 塲所 より 更に 西數 尺南 邊に 接し て表 土下 一尺 の深 さ の所 に徑 二寸 の赤 燒皿
(俗 に土 器と いふ もの
)完 全な もの 四枚 破片 二三 枚分 又相 累な りて 其の 周圍 及 底部 には 礫石 を以 て○
○し てあ つた
、そ して 其の 間の 土壤 中か ら宣 和通 寶一 枚を 發見 した― 勿論 摩滅 甚だ しく 明瞭 には 讀め ない がお ほろ けな がら 想像 がつ く、 宣和 通寶 は支 那北 宋徽 宗皇 帝の 宣和 元年
、 我鳥 羽天 皇の 元栄 二年$'
に當 る― 更に 有機 土質 を掘 り下 げて いく と彼 の竪 壙樣 の箇 所の 西壁 から 西方 約八 尺迄 の所 は斜 に砂 利層 をな し、 底に 自然 石徑 一尺 以下 のも のを 以て 敷き 詰め 其の 上部 は 悉く 粘土 に有 機質 土を 混じ たも のを 以て
○め 上げ て居 る、 勿論 此の 土狀 の中 から は遺 物の 何物 をも 見 出さ なか つた
、此 の地 狀の 變化 の決 して 偶然 のも ので はな く、 竪壙 同樣 人工 的の もの であ るこ とは 實 際を 見た 人に は容 易に 想像 され る事 で恰 も其 の基 底の 形狀 は竪 壙の 底部 に向 つて 傾斜 した 小石 段を なし て居 る第 四回 發掘 地域
(四 回登 載) 平面 圖の 點斜 線は 其の 平面 を示 し同 じく 斷面 圖に は其 のセ ク ショ ンを 示し てい る 此の 傾斜 面に 接し た部 分、 尙ほ 精細 にい へば 前記 赤燒 杯や 土器 宣和 通寶 を發 掘し た附 近か ら又 復骨 約三 體を 掘り 當て たの であ つた
、私 共は 此の 發見 の順 序に 從つ て一 號二 號と 番號 を附 して 行く こと ゝ した
、A 地域 B地 域の 兩地 域を 發掘 し終 つた 時に はそ の數 十九 號に 及ん だそ の何 れも 人骨 は有 機土 層 中基 底部 に接 して 埋没 され て居
る。
大正 7( 19 18
)年 8月 17 日 河内 國府 第四 回發 掘調 査( 九) A地 域の 人骨 岩井 雍南
(A
)地 域の 第( 一) 號人 骨は 地域 の東 端よ り四 十二 尺五 寸北 邊よ り一 尺七 寸乃 至二 尺五 寸の 間表 土下 僅に 一尺 八寸 の有 機土 中に 埋沒 さあ れて あつ た、 手足 の骨 を一 束と して 埋て あつ たば かり で附 近 から 黑色 の土 器片 の一 個を 發見 した
、第 二號 人骨 は一 號人 骨と 略同 線上 南邊 に接 して 表土 より 一尺 二 寸、 有機 土と 基底 砂利 層と の間 に埋 めら れ頭 蓋を 東に
、體 を北 西に 四肢 を曲 して 仰臥 して 居た
、人 骨
の周 圍は 礫石 を以 て圍 み殊 に頭 蓋の 附近 に著 しく 其胸 上に は四 寸大 の片 麻岩 の一 破片 を置 いて あつ た 殊に 珍と すべ きは 右左 兩耳 下か ら凍 石製 の耳 輪一 ト組 を發 見し 頭蓋 の附 近よ りは 黑色 土器 破片 大小 六個 と、 頭蓋 に一 個と 足の 附近 より 二個 との 石鏃 を發 見し た事 であ つた
、第 三號 人骨 は前 記數 枚の 土 器と 宣和 通寶 を發 見し た層 下( 表土 下一 尺二 寸) に二 號人 骨と 略同 樣の 姿態 をな し稍 體を 西向 けに し て仰 臥し た、 胸部 の左 右に 五六 寸の 花崗 岩の 扁平 なる 自然 石を 置き 其の 胸上 には 口徑 五寸 高さ 四寸 七 分底 徑二 寸七 分の アイ ヌ式 の耳 を有 する 鉢形 土器――
壊れ てあ つた のを 後に 接合 すれ ば完 全な 形と なつ た――
を置 き頭 蓋の 左右 は黑 色土 器破 片大 小十 個を 以て 覆ひ それ のみ なら ず左 右耳 下に は形 の 異つ た一 對の 軟玉 製耳 輪を 配し てあ つた
、第
(四
)號 人骨 は、 A地 域の 西端 道路 から 五尺 七寸 表土 下 僅に 八寸 の塲 所に 頭蓋 の一 部の 骨片 が黑 色土 器と 凍石 製一 對の 耳輪 と伴 出し たば かり であ つた
、尤 も 黑色 土器 は元 頭蓋 を蓋 うて 居つ たと 見○ て其 の破 片は 大小 十六 個の 多數 であ つた
、尙 此の 西端 有機 土 質中 より 土錘 一個 を發 見し たこ とも 遺物 の上 から 面白 い事 實で ある
。
大正 7( 19 18
)年 8月 18 日 河内 國府 第四 回發 掘調 査( 十) 再び 地層 地の 變化 岩井 雍南 人骨 發見 の塲 所の 周圍 及そ れよ り西 方の 地域 の有 機土 層及 基底 部な どを 尚精 細に 捜索 して 見る と 第一 號人 骨の 東約 一間
、北 邊よ り二 尺の 塲所 表土 下二 尺の 深さ から 長一 寸餘 徑三 分と いふ 可成 大き な 管玉 を發 見し た、 其他 人骨 の無 い部 分卽 ちA 地域 の西 方は 其の 西端 に至 る迄 遺物 の存 在は 極め て僅 少 で古 瓦祝 部土 器赤 燒赭 色、 黑色 土器 の破 片及 石器 等が 混出 した
、前 邊の 如く 西す るに 從つ て有 機層 が 薄い ばか りで なく 其の 厚薄 が所 によ つて 一樣 でな い、 そし て多 く砂 礫を 混じ て居 る、 且什 麽い ふも の か或 は規 則的 に或 は不 規則 に徑 二尺 五六 寸の 小穴 が此 の部 分( A地 域の 西部
)○
○に 六箇 所ば かり
、 基底 砂利 層へ 深さ 一尺 ばか りに 掘り 下げ られ てあ るこ とで ある
、勿 論そ の小 孔に は有 機土 が塡 もれ て あり 其の 土中 から 二三 の遺 物を 採集 した
、西 端第
(四
)號 人骨 を掘 つた 附近 から 土○ 一個 を検 出し た、 此の 小孔 は無 論人 為的 のも ので ある こと は言 ふ迄 もな いが 何故 に作 られ たも ので あら うか
、第 三回 發 掘記 事中 にも 言つ た如 く或 は京 都大 學考 古學 敎室 の報 告書 にも 記さ れて ゐる 如く
、此 の附 近が 河内 國 府或 は國 分寺 の所 在地 であ つた か什 麽か は別 問題 とし ても 附近 に熊 田碑 とい ふが あり
、其 の礎 石に は 立派 な所 謂伽 藍石 を其 の儘 使用 して 居り
、此 の發 掘地 から も奈 良平 安朝 と思 はれ る古 瓦を 混出 する こ とか ら考 へて も寺 址或 は建 造物 の有 た事 を想 像す るこ とは 決し て無 理な 推測 では ない
、殊 に發 掘地 域 の西 部に 至る に從 つて 地層 の狀 態に も遺 物の 出土 の狀 態に も後 世攪 拌さ れて 居る こと を認 めら れる ので ある から 此の 附近 に一 大建 造物 の存 在せ し事 を許 容し 得る
、此 の小 孔、 並に 之か ら接
○し たB 地 域に も三 箇所 ばか りあ る此 の小 孔は 或は 思ふ に柱 の礎 石を 埋め る爲 めに 穿掘 した 其の 地形 跡で はあ るま いか A地 域の 發掘 は前 後約 二十 日を 費し て全 く○
○○
○○ の○
○ま でを も完 了し て田 澤氏 の嚴 密な る 測定 と記 録と を残 し人 骨は 大串 中川 兩氏 によ つて 現に 整理 研究 中で ある
、此 の區 域( 卽ち 竪壙 狀地 域 を除 き其 の以 西) から 發見 した 遺物 を纏 めて 見る と左 の通 りで ある
。
226
に存 する がそ の壁 面は 略垂 直に 近い
(前 回發 掘田 澤君 の記 録に よる
)、 東壁 は約 十五 度の 角度 をな し て内 方( 卽ち 西方
)に 傾斜 し、 西壁 は稍 斜面 をな して 東壁 が砂 利層 から 成れ ると 異つ て粘 土に 少量 の 有機 質黑 土を 混じ たも のか ら出 來て 居る
、南 壁は 發掘 未了 の區 域に 属す るが 故に 之を 知る こと が出 來 ぬ これ によ つて 其の 平面 を見 ると 南方 が什 慶い ふ形 にな るか 未定 であ るが 旣に 發掘 を終 つた 東西 北の 三面 は西 及北 の二 面は 一直 線を なし
、束 面の み彎 曲し て其 の平 面全 形は 略梯 形と 見る こと が出 來る
、 斯う いふ 形が 偶然 に出 來る もの でな く殊 に其 の東 及北 壁の 如き 截然 と削 り取 られ て居 るが 如き 斷面 は人 爲を 俣た ねば 出來 るも ので はな い、 此の 壙の 深さ を究 め其 の平 面形 狀を 究む べく 有機 土を 採掘 す る時 日が 意外 に多 數に 上つ てA 地域 發掘 二十 日間 の日 子中 其の 一週 間は 此の 部の 檢索 に費 した 樣な 勘定 であ つた
、而 して 其の 人爲 壙内 有機 十層 中か ら如 何な る遺 物が 拾ひ 出さ れた か、 其の 現塲 を一 見 した 人は いづ れも 驚異 の眼 を以 て注 視さ れた もの であ つた 此の 壙の 上層
(卽 ち有 機土 の上 層) には 徑五 寸内 外の 河原 石を 多數 に混 在し
、赤 燒の 彌生 式土 器の 破片 が夥 しく 混じ て居 つた が石 器は 其數 土器 片に 比し て必 ずし も多 くは ない
、堆 土層 下一 尺八 寸( 表 十下 約三 尺) に達 する と驚 くば かり の無 數の 赤燒 彌生 式及 赭色 で各 種の 紋樣 を施 した 所謂 彌生 式土 器 の破 片が 殆ど 土器 層を なし て存 在し て居 る、 其の 土器 層と いふ べき 中か ら完 全な る壺 形赭 色彌 生式 土 器に 鉢形
(底 部に 小孔 ある もの 及無 きも の) 同樣 土器 數個 を拾 出し た、 併し て同 線上 北邊 から 三尺 東 徑畔 から 十尺
(A 地域 の東 端か ら七 尺の 所) の箇 所か ら完 全な る銅 鏃一 個を
(前 回( 四) 地域 平面 圖 参照
)發 見し
、更 に此 の附 近の 土を 掘上 げて 積み 置い た土 中を 検索 して 更に 一個 の完 存せ る銅 鏃を 拾 ひ出 した 當時 發掘 隊一 同の 喜悦 は殆 ど有 頂點 に達 して 昨年 第三 回發 掘の 際銅 鏃を 検出 して 喜ん だ當 時の 比で はな かつ た、 此の 層線 以下 に至 ると 木炭 屑並 びに 木の 炭化 せる もの が多 數に 混入 せる を認 め る、 此の 一種 の竪 壙を 人爲 的の もの とす る理 由は 之れ にも 因る
。( 寫眞 は竪 壙の 西壁 附近 と田 澤君 の 測定
) 大正 7( 19 18
)年 8月 7日 河内 國府 第四 回發 掘調 査( 六) 累々 たる 完全 な土 器 岩井 雍南 大體 衣縫 遺蹟 の有 機土 層か らは かな りに 多く の土 器片
、石 器を 發見 する けれ ども
、此 の人 爲的 に作 られ た竪 壙内 の有 機土 層の 如く 夥し く土 器層 をな すが 如き は全 く平 衡を 破つ て居 る、 除外 例で ある
、 所が この 土器 破片 層ば かり では ない
、こ の層 より 下五 寸に して 所々 に完 全な る赤 焼彌 生式 土器 が累 々 とし て重 なり 合つ て居 る――
永く 地中 に埋 沒さ れ水 を吸 収し
、さ なき だに 脆弱 な素 焼土 器と して 土中 に在 る間 は完 形を 保つ て居 つて も掘 上げ る際 或は 掘上 げて 見る と○ 裂を 生じ て壊 れる
。こ れを 補綴 す れば 完全 な形 を整 へる けれ ども 其の 數擧 げて 數ふ るこ とが 出來 ない 位に 多數 であ つた
、何 れも 赤焼 質 のも ので 假り に形 によ つて 分類 する と壺
、高 坏、 茶碗 形( 現代 式の 朝顔 茶碗 形) の三 種に 區別 する こ とが 出來 る、 その 茶碗 形の もの には 如何 なる もの に使 用し たも のか 底に 小孔 のあ るも のも あれ ばこ れ の無 いも のも ゐる
、更 に八 寸及 一尺
(表 土下 四尺 三寸 及四 尺五 寸) の兩 箇所 から 一は 六角 形に 磨削 さ れ、 一は 唯單 に長 方形 に磨 削さ れた 二個 の砥 石を 發見 し、 同四 尺五 寸線 には 葦の 炭化 せる
(大 さ二 寸
五分 位) もの を存 して 居た
、更 に不 思議 な事 實は 表土 下五 尺に 及び 此邊 より 二尺 南、 A地 域の 東端 よ り十 五尺 六寸 西の 壙内 に於 て長 さ一 寸六 分一 厘と いふ 大形 の丁 字頭 勾玉 一個 と、 此の 箇所 近接 東數 寸 の處 から 又完 全な る銅 鏃一 個を 發見 し、 其下 層三 寸に 獸骨 の腐 蝕せ る小 片を 出し た、 これ ら多 數の 赤 焼無 紋土 器以 外に 壙内 所々 から 有紋 赭色 大形 土器 の破 片( 主と して 口邊 の破 片多 し) を掘 出し た、 大 なる もの は口 徑一 尺或 は二 尺に 及ぶ もの もあ り、 紋様 は多 く圓 及波 線か ら構 成さ れて 居る
、殊 に珍 と すべ きは 昨年 十月 第三 回發 掘に 於て 同じ 此の 竪壙 北接 の部 分か ら發 見し た赭 色有 紋大 形土 器の 破片 と數 尺の 距離 ある 塲所 で今 回の 發見 した 其の 種の 破片 とを 試み に合 して 見る と甘 く結 合し たと いふ 様な 面白 い事 實も あつ た、 更に 掘下 げ行 くに 表土 下更 に五 尺五 寸乃 至六 尺の 層中 から は更 に〳 〵完 全 なる 赤焼 土器 が又 候累 々と して 堆積 され ある に逢 着し 之を 缺損 せぬ 樣に 採掘 する には 非常 の時 間と 細密 なる 注意 とを 以て した
、而 して 表土 下六 尺五 寸餘 にし て辛 うじ て基 底部 砂利 層に 達し 之れ から 以 下何 等の 遺物 一物 をも 發見 せな い。 漸く にし てこ の人 工的 竪壙 の發 掘を 終つ たわ けで ある がこ の壙 内 の有 機土 層中 には 他の 有機 土層 のそ れに 反し て河 原石 を混 入せ るこ と尠 から ず殊 に上 層及 下底 に其 の夥 しき を認 める
、何 故で ある か、 石器 の發 見は 上層 には 多く 存在 して 居つ たが 下る に從 ひ其 の數 を 減ず る 大正 7( 19 18
)年 8月 8日 河内 國府 第四 回發 掘調 査( 七) 竪壙 は何 か 岩井 雍南 今此 の竪 壙か ら發 見さ れた 遺物 を擧 げれ ば 打製 石斧 一個
、石 鏃三 十一 個、 石槍 十八 個、 石庖 丁四 個、 半月 形石 器( 鍬形
?) 四個
、石 錐三 個、 原石
(二 子石
)石 屑多 數、 銅鏃 三個
、勾 玉一 個、 木炭 若干
、炭 化せ る○ 一本
、赤 燒土 器完 全十 數個
、 同破 片無 數( 接合 して 略完 全な るも のあ り)
、赭 色有 紋土 器( 主と して 口頭 部)
、祝 部土 器( 上部 に て僅 少) 砥石 二個
、出 雲石 破片 數個
、獸 骨片 少量 かく の如 く多 數で ある が人 骨ら しき もの は零 細の 一片 すら 發見 せな かつ たこ とも 他の 有機 層に 對 して 異例 とせ なけ れば なら ぬ、 此の 一種 の竪 壙狀 の地 域が 偶然 の結 果と して 出來 たも ので はな く人 工 的に 故意 に出 來た もの であ るこ とは 疑は ない まで も然 らば 何故 にか ゝる 地域 を作 つた ので あら うか
、 果し て此 の地 域は 此の 衣縫 遺蹟 を營 んだ 當時 の民 衆の 手に よつ て作 られ たも ので あら うか
、此 の壙 か ら出 た各 種の 遺物 は果 して 他の 部分 から
(同 じ衣 縫遺 蹟中 の) 出る 遺物 と同 時同 種類 のも ので あら う か、 換言 すれ ば是 等遺 物は 衣縫 遺蹟 を營 んだ 民衆 の使 用し て居 つた 卽ち 石器 時代 の遺 物で あら うか
、 左樣 であ ると すれ ば勾 玉や 銅鏃 と石 器と の脈 絡系 統を 考へ ねば なら ぬば かり でな くそ の土 器に も少 くと も有 紋無 紋の 二形 式が ある
、そ れら の關 係相 違を も或 程度 まで は究 めね ばな るま い、 果し て左 樣 でな いと すれ ば、 何故 に、 何時 代に
、誰 の手 で、 此の 壙狀 もの が作 られ 遺物 其物 にど れだ けの 差異 が ある か、 此の 壙狀 遺蹟 と他 衣縫 遺蹟 との 關係 等畢 竟年 代の 差か 人種 の相 違か とい ふ樣 なこ とも 明か に せな けれ ばな るま い、 がこ れは 少く とも 此近 接の 土地 をせ めて 一筆 の土 地だ けで も發 掘を 完了 した 後 でな けれ ば事 實に 近い 説明 をな すだ けの 材料 をも 得ら れぬ わけ であ る、 私は 田澤 君の 記録 に基 いて 唯 單に その 地狀 や遺 物の 有り の儘 を報 告す るに 止め る、 土器 石器 其他 の遺 物に つい ての 説明 は稍 詳細 に