論 説
イ ギ リ ス 救 貧 法 政 策 に お け る 家 族 の 承 認
川 田 昇
一二
三
四五 はじめに
エリザベス救貧法における児童の処遇と貧民家族
児童の自助の強調と親子の分離
貧民家族の法的承認
労働力再生産の場としての家族の保護
は じ め に
親権が︑未成年者の監護・教育を中核とする親の職分であり︑その目ざすところが'の福祉の実現にあるとするこ
とは︑今日ほとんど異論をみない︒しかしまた︑このような親権の行使には︑国家の助力を不可欠とすることも承認
されており︑親権に対する国家の関与のあり方ないしはその限界をどこに求めるかが︑今日の親権のあり方を考える
うえで重要な課題となっている︒
私はこれまで︑一九世紀イギリスにおいて︑児童の福祉のために国家が次箒に親権に介入するに至る過程を一八三
四年の新救貧法以米の救貧法政策の展開のなかにさぐってきた︒そこにおいて私は︑新救貧法の運用が軌道にのる一
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八四〇年代に︑困窮こそが唯一の救済原因であり︑それ以外の原因での親権への介入が許されないことを理由に︑児
童に対する保護措琶が中央当局により拒絶されたこと︑しかしその後の児童の福祉に対する関心の高まりのなかで︑
子の福祉実現の妨げとなる親権行使に対する国家的介入が推進されていったことを︑場外救済児童についての教育措
置︑および被救済児童一盤ついての親権剥奪盤の実現過程のなかにみ穣この考察から私は・黒黒の福祉という
困窮以外の原因による国家の親権の介入が救貧法政策上承認されたことが︑イギリスにおいて親権を絶対視する伝統
的観念を崩壊させる力となったという見通しをもつに至ったのである︒すなわち︑一方で︑子の福祉実現の妨げとな
る親権行使に対する国家的介入が︑救貧法の対象とならない一般市民についても拡大され︑他方で︑これと表裏をな
して︑現実には親が子に対して︑﹁自分の好きなようにする﹂ことの保障しか意味しなかった親権の観念を︑子の福
祉を目的とした監護.教育の職務とみる観念に変容せしめたのであり︑以後私は︑そのような過程として︑一九世紀
後半から一九二五年未成年者後見法の成立に至る過程を考察するつもりでいた︒
ところが︑テユーダー朝以来の児童の社会史書として定評のある大著﹁イギリス社会の児童﹂のなかで︑ピソチベ
ックとヒューイットが︑後述のように︑扶養能力のない親の子に徒弟としての奉公を強制する制度としてエリザベス
救貧法に採用された教区徒弟制度(忘蕃ゴ巷只2口8ω三〇)について︑これを一種の親権剥奪制度と位置づけ︑﹁親権
が︑国家の安全および子の福祉と衝突する場合には︑浮浪者や犯罪者の分野と同様に︑親権は無視され︑原理的に︑
国 家 は 児 童 の 適 切 姦 遇 や 訓 練 を 確 保 す ゑ 貝 任 を 受 け い れ た の で あ る ﹂ と 述 べ 夢 え で ・ 私 が 前 に 藁 し た 一 九 世 紀
末の救貧法上の親権剥奪制度を引合いに出して︑将来犯罪者に成長するであろう児童が群をなす場合に︑﹁当局は︑
その問題に対する唯一の現実的解決が︑児童をより安定した生活のなかで育てるという希望のもとに︑親がそれを欲
するかどうかにかかわりなく︑親から子を引離すことである︑と考えるものだ﹂と述べてい糞﹂と垂したのであ
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イギ リス救 貧 法政 策 に お け る家 族 の 承 認
る︒
前述のように︑一九世紀末の親権に対する闘家的介入に今日的な問題の解決への糸口を見出そうとしていた私は︑
絶対主義王制下における類似の制度に︑その質的差異を問うことなくこれを比肩させる右のピソチベックらの見解に
対して不満をもつとともに︑彼らのとりあげた教区徒弟制度における親権剥奪的側面についてその内実を問い直す必
要を感じたのである︒そして結論的には︑エリザベス救貧法においては︑児童の保護すなわちその監護・教育につい
ての責任が親にあることにつぎ︑そもそも救貧法政策上の原理としては確認されていなかったことが︑両者の間に質
的差異を生み出していることに気づいたのである︒前稿において私は︑一九世紀末の親権剥奪制度を︑救貧法政策上
確認されたそのような原理の堅持によっては︑児童の福祉という新しい要請に対応しえないことの反省のうえに形成
されたものとして描いたが︑その際︑右の原理が一八四〇年代に強調されたことを指摘しただけで︑それがいつどの
ようにして救貧法政策のなかにとりいれられたかについて明確にしていなかった︒しかしながら︑そのような原理の
確認こそ︑近代的な親権観念の出発点であり︑その点を不明確のまま放置しておくべきではなかったのである︒
木稿は︑エリザベス救貧法以来の救貧法政策の展開のなかで︑児童の処遇方法の変遷をあとづけ︑児童の監護・教
育の責任が︑いつどのようにして家族ないし親に属するものとされるようになったかを明らかにすることを目的とす
る︒そして本稿の考察の展開をあらかじめいえば︑まずエリザベス救貧法が児童の処遇方法として教区徒弟制度を採
用し︑扶養能力のない親から子を分離する措置をとったが︑これは同法が児童を親とは独自の救済対象としたもので︑
そこには︑その反射的効果として児童に対する家族責任を奨励する︑といった意図は存しなかったことを明らかにす
る(一)︒そして児童あるいは家族に対するこのような態度は︑市民革命以後も一層強められ︑貧民の自助の強調の
もとに︑児童の就労が強化され︑家族結合の無視が徹底されていったことを︑ロックの救貧法改正に関する提案およ
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びその後の労役場建設推進政策のなかにみた(三︑四1)︒ところが︑そのような児童処遇政策が多くの悲惨を生み出
す結果となり︑人道主義の高まりのなかで児童の保護の必要性を人々に自覚させ︑折りからの人口増大傾向のなかで︑
児童を家族の保護下に帰属させるべきだとする考えを生み出すが︑これが資本主義的生産様式の発展に伴う低賃金体
制確立の要請と結びついて︑子の保護は親が自らの責任においてなすべぎだとする政策として現われたこと︑しかし︑
対仏戦争時の﹁飢餓と革命の二重の恐怖﹂の状況のもとで︑親に委ねたはずの子に対する責任が再び国家によって引
受けられるものの︑今や子を監護し教育することが家族の中心的な役割であることの認識は動かしがたくなったこと
を︑ギルバート法からスピーナムランド体制の確立の過程においてあとづけた(四2.五)︒以後これが再度親の責任
に転嫁され︑そこに子の監護・教育が親の権利であり義務であって︑国家がこれに干渉すべきでないことが︑新救貧
法の成立の前後の期間を通じて救貧法政策上の原理として確立されることになるが︑その過程についての考察は次稿
にゆずることにした︒
本稿は︑資料的にも︑また考察すべき対象範囲の点でも不十分であり︑後の補訂を多く要するものとなった︒しか
し︑本稿で述べた親子政策の流れはほぼ大過なきものとひそかに自負している︒今後の補訂のためにも︑大方のご叱
正を期待する次第である︒
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76注(1)川田昇﹁一九世紀イギリス救貧法における児童の教育措置と親権﹂磯野誠一古稀・社会変動と法‑法学と歴史学の接点
﹁イギリス救貧法における親権剣奪制度の成立﹂神奈川法学一六巻二・三号(一九八一年)︒
(2)一く団ココ畠9鼻俸ζo﹁oq帥﹁o什出o≦一30三罷﹁o昌貯図うoQ一一菩ωoo一糞どくo一ト,㊤Q︒(一㊤$)・
(3)一げ箆二,一〇9 (一九八一年)︑同
イギ リス救 貧法政 策 に おけ る家 族 の承 認
ニ エ リ ザ ベ ス 救 貧 法 に お け る 児 童 の 処 遇 と 貧 民 家 族
ー エ リ ザ ベ ス 救 貧 法 の 基 本 原 理
エハ9年のエリザベス救貧法(霧鑓99き℃8﹃[碧誌も︒望N.ρb︒)は︑一九四八年に警法が全面的な歪を受けるまでの間︑その薬法として存続芒められた︒同法から天=西年の新警法に至る警法肇における児童の処遇の変遷とそのことを通じてうかがわれる欝家楚対する政慈度の変化をあとづけ乏さきだち・まず同法が右の問題に関してどのよう窺定をおいていたかをみることにしよう︒もっとも後にみるように・同法の規定はきわめて曖昧であり︑だからこそ各時代の状況や→ズに応じた救貧立法の制定や警行政の遂行を馨し差といいうるが︑しかし右の規定の検討を通じて︑そこにおける立馨の意思を可能なかぎり明確にしておくことは本稿にとって必要であろう︒
同法は︑その笙条鷹いて︑二名の治安判事(甘ω識o霧oh停o℃$8)が各教区(℃婁)か皇山名の貧民監欝(︒<...︑︒)を任命すべきことを規定したうえで︑既存の教区袋である教会欝(︒ぎ・ぴ 臥寵)と養民監督官が︑三名以上硲安判事の鰻︑心のもとに︑いつでもL芒うる命令︑すなわち彼らに認められる震妻にドぢし関し次のように規定する︒すなわち︑
ω﹁禦馨し馨できるとは考えられないすべての児童を仕事に禁せ︑また自立する手磐もたず・生計を立つべき通常の職業をもたない既婚・禾婚のすべての人を仕事に就かせる﹂こと︑
②﹁適当と考︑巻れる+分な金額をもって︑すべての住民︑教区牧師︑その他鋳して課税し・またすべての土地.家屋の占薯︑聖俗の+分の一税取響︑炭鉱または販売用下募所薯に対して課税することによそ﹂
CST) 7?
次のものを調達すること︑すなわち︑
ω﹁亜麻・大麻羊毛︑糸︑鉄その他の必要な製品および原料で︑貧髪仕謹就けるために奨.の︑︑杁いスト.
クヒ
曾 肢 体 不 畠 者 ・ 虚 響 ︑ 老 齢 者 ︑ 薯 そ の 他 の 葦 ︑ 貧 困 か つ 働 く こ と の で き な い 謹 対 し 必 巽 救 済 を 与
えるための︑また児童を徒弟に出すための︑十分な金額﹂
である・そしてこれを要約整理すれば︑蔑監讐らが芒うるのは︑篁に︑親に扶養能力のないすべての児童お
よび生業をもたないすべての貧民に対して就労を強制することであり︑第二に︑教区民に対して︑人親および財産
税の形で警税を課税して︑①箆の就労に必覆条ックの調達︑②労働罷力者の救済︑③徒弟の斡旋という三
つの目的に当てることなのである︒さらにこのこと姦民の処遇という面からみれば︑同法は︑児童︑成人の区別な
くすべての者に対して就労姦制することを原則としていたこと︑ただし︑芳で労働無能力者の存在を承認して︑
これに整税からの直鞍済を与え苞﹂とを許し︑他方で協能力ある貧民および児童秘)ついて︑警税からの畜
において・前者にはストックの調達にさ・仕事の創出︑後者すなわち児童に縫弟の斡旋︑という醤をと登﹂とを
定めたものということができる︒そして︑右の徒弟の斡籍健ついては︑同法五条が貧民監讐らが冤童が役に
立つ意われる場合に・二名の治安判事の同意によって︑男児は二四歳まで︑菟は三歳または婚姻時まで︑徒弟
を義務づけることができる﹂と規定しているのである︒
以上の規定からすると三リザベス警法における児童の処遇の原則は︑これを仕蓬就けることであり︑そのよ
うな就労強制の対象となるのは︑親に扶籠力がない児童であって︑またとくに徒弟の斡獲ついての児童自身の資
格として・蔑監餐らの判断で︑﹁児童が役に立つ患われる場食ということが案されているのである︒右に
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児童を仕事に就かせる︑芝と︑児童に徒弟を斡旋することとは︑二者択一的な盤なのか・後者が前者の具体的盤
と考︑鴛れていたのかは明らかではない︒しかし後述のように︑テユ麦崩の労働政策の蒙原理を確立した立法
とされる一五六三年の職人規制法(↓ロΦ・︒什き榊①︒hぎ一島︒︒﹃・︒・切閏冨ρ轟)が︑三歳から六〇撃でのすべての人々に就労を強制した(oロ章勺)う・毛︑徒弟を三歳未満の者の普遍的就労形態としている(ω.謬こととの関導みると・
少なくとも立法者においては︑徒弟の斡旋は︑児童を仕謹就かせることの具体的推置と考えられていたものと解し
てよいように思われる︒そうだとしたら︑エリザベス救貧法は︑児童の処遇に関しては︑親に扶養能力のない児童に
ついて︑右の職人規制法におけゑ般的な就労強制年齢である三歳に満たないとぎでも︑貧民監督官らの裁量により﹁役に立つと思われる場ム・﹂はいつでも︑警税からの支出において徒弟先姦旋し︑就労を強制するという趣旨を規定したものと思われるのである︒
後述のように︑徒弟制度は奉公先の親方の住居に住込みで徒弟の就労を図るものであるから︑以上のような児童の処遇は︑救貧税からの支出があるという意味で児募救済ではあそも︑建前上はそれによって児童は・親から独立
して︑自ら生計を維持することを強制されることでしかないのである︒それ故︑他面︑徒弟強禦親の立場からみると︑子の分離謹であって︑前述したピンチベックらの見解のように扶養能力のない親からの親権の剥奪措置のようにみられるとしても︑その措擢︑建前上親の扶輩荏を国が肩代りするためのものではなかったのであ裾このことは︑子は働く能力のあるかぎり独立して自ら生計を立つべきだとする前提があり︑し奈って親による労働能力あ
る 子 の 扶 養 は 藁 段 任 で は な く ︑ た だ 扶 講 力 が 親 に あ る か ぎ り で 子 の 独 立 を 奏 上 三 磐 で 延 期 さ せ て い る だ け 励
であるから︑親の扶養能力の欠如は当然に子の独立の要請姦在化させ︑そこに公的な援助の必要があるとすれば・(それは子の独立の実現に助力を与えることでしかないと考えられていたことを示すように思われるのである︒79そうだとすれば三リザベス警法は︑箆の家族ことに親子の結合について︑これ羅持し強化すべぎであると‑・
か・子の処遇について親の荏を奨励するとかの意図をまった看しなかった︑というべぎように田心われるのであ.Q.鋤
もっとも三リザベス贅法は・その第七条において︑﹁老讐︑薯︑肢体不畠者︑虚弱者︑その他働くこと(
のできない蔑の父・祖父・母・祖婁よび子は︑+分の能力をもつ場合に︑治安判事の査定する方法および割ム.で︑
自らの費嬰もって・そのよう餐困な人々を救済し︑扶養しなければならない﹂として︑是の直系親蕎の蓑
義務を規定しており・この規定を︑﹁貧民の財政的援助は︑家族がその成員に対する責任を裂ける血︑憲のあること
を条件とすべきである﹂という原理を確認したものと位置づけ︑置ザベス警法は︑貧民の家族の維持と緩責任
の誘を目ざしていたとする見蟹存在畜㌍しかしながら︑右の規定において扶養さるべきμ佃は︑ユ削記第菱お
いて警税からの霧救済の対象とされていサ⇔労働無能力者であって︑右規定は︑そこにおいて扶養霧者とされる
親族間の一般的扶嚢務を定めているのではないのである︒しかも右の扶嚢務も︑後に判例法上次第に羅にざ戚
ていくように・右に扶養さるべき者が現実に警税からの裏救噂受けたときに︑靖︑の費用償還ないし漿の救
済の責任盆をなすべきものとして強制されうるものなのであって︑仮りに︑右の労働無能力者のなかに就労鵠の
対象となりえない児童を含むと解しうるとしても︑少なくとも︑現に生活共同を有する親の子に対する扶嚢務の強
禦想定されているとは考え難いのであ瓠ごたがって︑右の規定は警税の負轟婆晶として一定の親族をい
わ 婆 的 務 の 爾 と し て 簿 け よ う と す る も の と 物 こ と は で き て も ︑ 生 活 共 同 体 と し て の 家 族 内 部 の 主貝 任 の
高揚を図ろうとするものではなかったというべきであろう︒
もちろん・前述のように・児童の就労強制穎の扶養能力の欠如を要件としているよ乏︑親の孟対する扶養を
当然のこととし・したがって︑幼少等により妻上就労強制を芒︑髪い児童の舞は︑親に対する就労強禦いし
イ ギ リス救 貧法政 策 に おけ る家 族 の承 認
直嚢済によそ仕給される手当によそまかなわれるものと考えられていた患われるから・そのかぎりでは・公
的救済による家族の維持が容認されていたともいうことができる︒しかし︑そのよう豪族の存続も・児童の就労強
制の原則のもとに︑﹁児童が役に立つと思われる場合﹂というきわめて曖昧な華による貧民監督官らの裁量に委ね
られ︑しかもその際二名の治安判事の同意こそ求めたものの︑習身の同意とか右措擢対する親の不服の申立手続
とかに関して何らの定めもおかれなかったことに示されるように︑親の責任の自覚を悶う機会すら考えられていなかったのであって︑右のことをもって貧民の家族結合を強化するとか︑それを保護するとかの意図繕びつけることができず︑それ締にラザベス警法が︑生活蕎体としての家禁存在することを事実'として認めていたことを意味するにすぎなかったというべきなのである︒
以上みたように︑エリザベス警法において︑児童は就労強制の大原則のもとで独自の救済対象としてとらえられ・
少なくとも警法政策上は︑その処遇を家族ないし親の責任に帰せらるべき存在としては考えられていなかったので
ある︒では︑そのような態度は︑どのよう善景のもとに︑どのような意図をもって形成されたのか・以下この点について考察をすすめることにしよう︒
2児童の就労強制と教区徒弟の目的
児童を含めて国民に就労を強制することは︑すでに蓋六三年の職人揚法により確立されたテェ麦‑朝の鶴政策原理であ.た︒同繧︑見るべき生計手磐もたない三歳から六〇歳までのすべての人々に・婆判事の裁定による賃金での就労を霧︑つけるとともに︑三歳未満の者は徒弟として就労すべさ﹂ととして・中世のギルド制度のもとで発芒︑ギルド衰退後も主として小親方により霧せしめられた徒霜野︑児童の普認勢形態に森
Sl (81)
えさせたのであ葡前述のエリザベス救貧法がこれを受けて制定艶cれたことは明らかである︒舘
しかしながら・職人規制法は︑岡田与好教授がつとに康したように︑コ.稽︹"失業︺を追磐︑繋を難さ
勧
せ・凶作のとぎも・豊作のときも︑被螺に務餐金を与えるL(同法前文).︺と︑すなわち︑塁労働力の確保
を忠に労働力の配分を試みた立法であ輪wそれは﹁業義集調としつつ︑慣習と伝統の墨守の走︑碓ムの全
成員を特奪分ないし繋に固定化する・﹂とによって﹂中世的秩序高復.維持するという観念か畠芒たという
饗 い 鯵 錨 離 つう糠 裂 咽轡 縫 磯 .鞭 露 磨 蕪 鶴 誰 細撤
人︒増加による穫的な労働力の過剰︑羊毛を中心とする都市の商工業の発達が生み出した塑凡な失堂而題等により︑
大衆の窮乏化が黒髭する状況のな恥︑葉の警法による浮浪の抑圧︑職人規制法による単な勾就労摘等の
諸施築・中世的秩序の回復にとぞ限界のφ⇔ことの皇のもとに制定をみたものであ鮪そして一五七二年婆
法(竃国寓N・ρα)が・警税の強制課税と贅行政組織の紫化を試みた.取初璽"法として︑国家が無努琵のみ
驚 噌 継 簾 翫 ビ擁 ほ聴 鋭鐘 終 協 聾 へ毅 鍛 欝
の就憲制の原則については︑職人現製におけるそれとは異なった独自の出︑心義寛出すことが必要となろう︒
エリザベス警法が・箆に勢姦制しようとしたのは︑笹に︑同法がスト.クの提供によって仕事編出し
てまでそれを図ろうとしたことに現われているように︑箆の就雷体からもたらされ羨のような効果に牲習した
からであろう・すなわち︑失業碧困が︑経済的条件よりむしろ個人の選択によゑ︑心惰の結果であ酔.ナる当時の支
配的な考秀のもとに・就労によって葦に勤勉の習慣を身につけ嵩ト参豊︑薗したものであった︒同法が勢で︑
イギ リス救 貧法 政策 に おけ る家 族 の 承認
従前の警法と同様︑依然として仕事の拒否者の懲治監(芽①ゴ8ω①o暁8塔g江8)への収容を規定する(.・・軽)のも・そうした個人的な矯正が︑問題解決の唯一の方法と考えられていたことを小すであろう・児童の就労強制も同様に・児童章期に就労させ︑職業的訓練と勤勉の習慣を獲得させることを意図したものということがで難・そしてすでに職人規制法によりいわば扇民的制度Lとされていた徒弟制度が︑そのよう奮的に適合的であったところから・
これを救貧児竜のためにアレソジしたのである︒
他方︑エリザベス警法の就労強制は︑欝の警を公的責任として裂けた国家が︑この方法によってその費用
を最少限に抑.見ようとする意図があったこ鞍否定できないであろう.すなわち︑貧民に対占らの生計の資旨らの労働によって得ることを求めたのであった︒就労を得られない場合のスしクの提供は・貧民にこれを加工させ・その出来高に応じて賃金を与︑兄︑警官票その製品を売捌くという方法として藁されたといわれ馨児童のための徒弟の斡旋も同じく救葛用の節減が音心図されたといぞもよかろう︒もっとも︑前述のように・同法のもとでは・児童を徒弟に出す時期は︑貧民讐寡の裁量に委ねられ︑事実上自来可能な児童も徒弟に出される可能性を有していた︒.あ.﹂とは︑立法者が︑韓できない親に代って︑教区内の親方となるべ薯に対して子の舞塞託する
一種の委託収養制度(ぴ︒鋤.飢一昌‑q,︒ロ脅・︒団・︒榊.ヨ)としても︑徒弟制度を機能させようと意図していたことを一小すであろう・エリザベス警法は︑教髪警行政の末羅構として位置つげ︑その誉に当らせ奈・それは宗教蟹位としての教区が︑封葎制の崩填後蕎体の暑生鍾おける要の地位を占めていたことに習し・そ.﹂に存続していた組
鞭 鍵 藻 罎 難 ド咽 凋歎 錘 麟 繍 欝 鄭罧 蠣 購 この∵
ができ.Φ︒しかし同法においては︑そのような児薯︑就労強制という建前のもとに徒弟に出されるのであって・自紹立の可能性がどうであれ・徒弟に出す,︺とによりいわば自立が犠されるのであり︑それはまさに児童の藁琉による別
救 讐 艘 ﹂ 耀 鶴 即 は ・ 殺 養 で き な い 児 童 に つ い て ・ 緯 饗 }﹂ れ に 欝 訓 練 菱 駕
勉の習慣を控つけさせることを最大の目的として︑児募就労強禦図ろうとしていたのであり︑その晶にとっ
て徒霜度釜合的であったし︑また同時にそれが児募扶養に役立ち︑そ設救篇の畜の節減につながったか
ら・この制度を箆家族の救済のためにアレソジしたものということがでぎ・︒︒そしてこの徒弟斡旋の糞が︑疲
に教区徒弟制度暴喜琶叶婆・)と呼ばれるものに外ならない︒このような教区徒弟の制度の採用が︑﹄削述の
ように・箆の家族蓉の無視の態度につながることになったとしても︑倉しばしば指摘されてい.⇔よ聖︑当時
のイギリスでは・噛の如何喬わず護熟の子を他人の家庭に預けることが慣行として広く行われて誘︑︑羨者
において・箆の子を親から爺して就労させることについて︑ほとんど疾しさ姦じなかったであ鞍し︑貧民の
側においても・子を可鰻かぎり早い時期に働きに出すことは当然︑と考︑κら染いたと田心われるから︑救霧の支
出において子の徒弟斡婆受けることは︑峯通り馨として受け鴨られたと田心われるのである.こうしてエリザ
ベス警法は・蒙族よりも共同体の方に生活の中心がおかれていたL中世的秩序を志向することがで発のである︒
注
鋸 篇 影 鞍 鞭 醗 勲縫 襲 罷 薙 ).語 齢麺 蕪 撃 爺 の救 墓 の改 正‑ ー
乏おける近代的地方制度成立に関する一考察lL国家学会雑誌七一巻亘り九頁(一九κ七年))︒
(6)なお・エηザベス警法笙義長い一文からなるもので︑その轟の仕方は︑.﹂れをぢあぜる論逆よってそれぞれ若糞なるが︑
私なりに整理をすれば本文のようになろう︒
イ ギ リス救 貧 法政 策 に おげ る家 族 の承 認
(7)徒弟の斡旋のために何故救貧税からの支出を要するかは不明だが︑後述のように︑親方に対するプレミアムの支払のためと思われる︒もっ
ともそれが中世の徒弟制度にならったものか︑徒弟の押つけに対する昆返りとして位置づけられていたかは明らかではない︒
(8)前述のような徒弟斡旋制・度のもとでは︑慣行上ないし職人規制法上適当とされてきた徒弟就労年齢よりも早い時期に︑児童が徒弟として送
り出されるのであるから︑実際上は︑親方となるべぎ者にその児蹴の扶養を肩代りさせるという機能が︑この制度に対して併せて期待されて
いたと考えられるが︑しかし︑碓前上は︑それはあくまで児竜の就労強制のための措置であり︑これにより児童の独立が図られるのである︒
(9)¢尊葭揃︒乙壁﹄8﹁貯﹃Φ房⁝︒・︒︒蕊℃皇2陶民酔冨.身︒囲㊦︒hu8腎讐雪.・騨ミ(§ご.
(10)大沢真理欝︑新救貧法掘のインパクトー.二αq葺齢o﹁①鵠鳳︑な主軸としてー}社会科学研究三五巻三摩四〇頁以下(一九八三年)︒山本
笑子﹁英法における扶養義務について﹂法学論叢五九巻五号九二頁以下(一九五⁝. 年)︒
(11)もっとも︑後のブラックストーンの﹁英法釈義﹂は︑親の子に対する扶養義務が自然法上の義務であることを強調しながらも︑エリザベス救
貧法第七条の規定が︑生活共同をもつ親のfに対する扶養義務を強制していることを前提にしつつ︑しかし﹁何人も︑fが幼少︑疾病または
事故による場合を含めて労働無能力者でかつ働くことがでぎないときでないかぎり︑その子のために扶養をなす義務を負わない︒⁝⁝注意深
く勤勉を奨励してきたわが国の法政策からみて︑それは︑安易で怠惰にふける怠け者の子どもの扶養を父親に強制することはないのである﹂
と述べている(≦崖幣ヨしd冨6評︒・8嵩ρOoヨ臼Φ纂鋤甑霧o昌芸oピ鋤毛oh国ごαq訂5鼻しσぎ一︑℃ワ幽ω頓凍・(嵩象))が︑そのような解釈は︑後
述のように子の処遇の責任を家族に負わせることが救貧法政策上も承認されるよらにた{た時代の産物というべぎもののように思われる︒
(12)大沢氏は︑同条の扶養義務に関するコモン・ロー裁判所の判例を詳細に検討したうえで︑喝親族扶養義務においては︑超歴史的な扶養共同
体たる家族が当然の大前提として存在し国家はただその義務を強制するにすぎないというよりは︑救貧法が公的救済(それも労働無能力者救
済のみ)の一機関として﹃家族﹄そのものを作り愚していると琿解すべぎなのではないか﹂という﹁疑問﹂を提起している(大沢・前掲四三
頁)︒
(13)幻oo@げ臼︒圃α﹀・bd轟ざ切o団ドpげo霞き篇﹀娼震Φ翼智o畢帯箪やは(一ゆ=)
(14)ピンチベックらは︑同法によって﹁ギルドの発逮させた中世的な徒弟制度が︑国民的制度に変容させられたしとしている︒(℃ぎ07げΦo"
節国oぞ搾#o,o搾りP器心)︒なお︑トレヴェリアン(藤原浩・松浦高嶺訳)︑イギリス社会史1・一六ご頁(一九七一年)も同じ指摘をす
る︒
(15)岡田与好・イギリス初期労働立法の歴史的展開‑賃労働史序説‑ー増補版九五頁以下(⁝九七〇年)︒
(16)岡田・前掲一四一頁︒
(17)同法の労働統制は完全な家父長主義的なシステムであり︑自由な労働は存在せず︑就労を強制される者は︑仕事のタイプとか腿主について
の選択は許されず︑闘定された賃金︑労働時間など客当事者の意思では決定でぎない労働条件のもとで働くことが義務づけられた︒その意味
(85) 85
で︑労働者は未だ﹁半農奴(ooΦヨ一︒ωΦ一く圃一①)﹂とみなされていた(岡田・前掲一一八頁)のである︒
(18)柚如ooげロ白︒叶Φ昌じdδΦぎ男⇔ヨ陣一曳ピロ≦印⇔飢9Φ℃oo﹁(旨閃.国帥5鳥冨﹃①山二∩oロ茸皆螺訟o謬ぎ﹀ヨΦ﹁搾坦ロ国厨8二︑‑窯o﹂α)O桓O(おO吟
一⑩Φ9一り刈一)︑岡田・前掲一一二頁︒
(19)一ぴ箆こ℃.一〇〇.
(20)小山路男・イギリス救貧法史論三一頁(一九六二年)︑樫原朗・イギリス祉会保障の史的研究1‑1救貧法の成立から国民保険の実施まで
ーご一頁(一九七三年)︒
(21)救貧法の起源については︑一般にはヘンリ八世時代の立法に求められ︑ことに一五三六年法(N刈=ΦP<一口.o.卜︒㎝)が︑後のエリザベス救
貧法の基木原則を︑救貧税の徴収以外はすべて︑崩芽的なかたちで含んでいたものとして︑注目されている(小出・前掲二九ー三〇頁︑樫原・
前掲一九頁参照)︒しかし︑一五七二年法が︑従来の救貧法の態度を転換させたことも承認されているから︑本文のような表現も許されよう︒
右の転換につぎ︑ブルースは﹁エリザベス朝の人ろへのとった政策および運用における偉大な進歩は︑懲罰措置だけでは十分でないこと︑社会
はより不幸な入々とその家族のために何23かの責任を引き受けざるを碍ないということ︑しかも引き受けるだけでなく実行しなければならな
いことを不承不承ながら︑徐凌に敏認していったところにある︒それ以前の法令も︑すべての人に慈善の義務を負わせてはいたが︑エリザベ
ス朝の入々は︑現実主義で水割りした理想主義の精神をもって︑一五七二年︑一五七六年︑⁝五九八年と段階を追って︑初めて貧民の扶養の
ための適切な地方機構を設置したのである﹂と述べている(モーリス・ブルース(秋田成就訳)・福祉国家への歩みーイギリスの辿った途ー
四五頁(一九八四年))︒
(22)$⇔しdδΦぎoや甑叶こ".器・
(23)ピンチベックらは︑救貧法の採用した徒弟制度が救貧費用の節約のための委託収養(びo帥﹃価①山09)にすぎなかったとする見解に対して︑
特にこのことを強調する(勺ヨ∩ゴσoo評俸頃Φ芝津戸ob.o搾二℃℃墨鱒ω驚h)とともに︑﹁ナユーダー朝の政策の複雑な構造の底流をなすのは︑
貧困︑浮浪︑非行などは︑訓練機構の導入と︑テユーダー的自活の理懇(曄Φ↓鼠Φユ山Φ巴9ω9h‑の暮唱o簿)からの逸脱者の処罰とによっ
て一代かぎりで払拭でぎるという信念であった﹂(一飢α二〇・ωO︒︒)と述べている︒
(24)冨コじdδΦぎoP6ゆけこO・卜⇔曽
(25)子囲9
(26)赤木・前掲一〇頁
(27)℃ぎO﹃げΦo犀陣国㊦ぞ騨ρoPo帥沖こO,錺噂一〇一.ぴ帥毛﹃oコo①Qo8嵩9↓70聞働ヨ一一ざωΦ国卿コ鳥竃m轟富堕Φぎ国コ四訂ロ畠一帆8ー嶺OPP
一〇刈(一⑩ミ)坤庸帥コω.嵩3︑づ︑oo鼻O窪冠﹁Φコぎ6鋤喉2子①O①<巴o"ヨ①暮oh9Φω①﹁︿一〇①8﹁3①飢①O﹁フ.oαOず二9ωaΦ飢二〇.一〇
(一零Q︒)噛なお︑その証左としてしばしば引用されるのが︑一五世紀末葉の一イタリァ人のイギリス旅行記中の次の一節である︒﹁イギリス
(86) 86
イ ギ リス救 貧 法政 策 に おけ る家 族 の承 認
人が愛情を欠くことは︑特に自分の子どもたちに対する態度に現われている︒子どもが七歳ないし九歳になるまでは家庭においておくが︑一
般には後の七年から九年間は︑男児も女児も︑他入の象で奉公をさせるために送り出し︑そこに拘束しておくのである︒そして彼らは徒弟と
呼ばれ︑その閥ほとんどすべての召使の佳事を果し︑この非運から免れる者はほとんどいない︒というのは︑金持ちであるかどうかには関わ
りなく︑あらゆる人が︑自分の子を他人の家へ送りこみ︑その代り︑赤の他人の子どもを自分の家に受けいれるからである︒そしてこの苛酷
さの理由を調べてみると︑彼らは︑子どもたちがよりよい作法を修鴛することになるからだと答えるのである﹂と(O¢o欝飢ぼ℃貯6びげ①o犀
俸踏①零坤ρo算6圃榊二唱・卜⇔q)︒岡し文章は︑アリエス(フィリップ・アリエス(杉山光信・杉山恵美子訳)・︿子供﹀の誕生ーアンシアン・
レジーム期の子供と家族生活iー三四マi二頁(一九八〇年))︑タッカー(護・旨↓9犀Φジ︑↓ゴ06窪冠口ω守αqぎ諏貯頓mコ鳥閏鼠叫累や
けΦ窒島雪匙ω帥韓①窪蔓Oo瓢言曙国品瀞ぴO藁αぎ︒α.貯=︒旨臼竃窪︒・Φ①飢こ↓7Φ簗︒︒ε蔓︒hO霞鼻89㍗・︒㎝o(§蒔)なども引
用する︒
(28)勺躍凸7げΦoκ俸鵠oぞ諦計o層・oF畢掌一〇囲なお︑ピンチペックらは﹁子ども噺壁い時期に家族環境から去らせることが︑すべての社会階
層において共通のやり方だった︒したがって︑その点では︑法の保護のもとに人ってくる貧民の子どもは︑元来︑他の社会階層の子どもと非
常に異った扱いを受けたのではなかった︒もっとも︑一六世紀の立法によって確立されたこのパ4ーンは︑他の階級では親子の分離がほとん
ど廃止された後の世紀において︑貧民の子どもたちに対し苫いしれぬ悲惨をひき起したのであるが﹂と述べている︒
(29)ストーンによれば︑最下層の児章は︑ヒ歳から一四歳の問に家庭を去り︑家事奉公人︑日雇労働者︑徒弟等として働き出し︑どの場合も︑
家庭よりもむしろ親方の家に住込んだとされる(ωε器℃oP甑ρ℃﹂O刈)︒
(30)団Φ団毒890,n一け二や中
三 児 童 の 自 助 の 強 調 と 親 子 の 分 離
1教区徒弟制度の変容
中世のギルド制度のもとでの徒弟は︑典型的には︑徒弟の側から親方に対しプレミアムを支払ったうえで︑徒弟契
約書(一コ胤①bh需﹁の)にもとついて︑徒弟を通常七年間︑親方の住居に住み込ませ︑衣食と低い賃金を仕給しながら就
労させるもので︑徒弟期間中︑親方は徒弟に対し︑職業的訓練を与え︑徒弟は正直かつ従順に親方に服従することが
(31)約束された︒エリザベス救貧法が想定していた教区徒弟もこれと同様であり︑ただ︑徒弟契約が貧民監督官らと親方
(87) 87
(32)との間で締結され︑プレミアムが救貧︑税から支払われ︑そして徒弟期間がより長期であった点が異っていた︒しかし︑
中世にこのような徒弟制度が良好に機能しえたのは︑そのために不可欠な条件とされる十分な監視︑訓練の提供︑将
(33)来の就職が︑強固なギルド組織によって︑確保されていたからだといわれ︑はじめからそのような条件に対する配慮
を欠き︑単にその形態だけを受けついだ教区徒弟制度は︑早晩形骸化される運命をもっていたということができる︒
(34)もっとも一六四〇年ごろまでは︑救貧法自体が枢密院を主体として強力に実施され︑枢密院はとりわけ教区徒弟制
度に対して強い関心を向け︑治安判事にこの問題についての詳細な報告書の提出を求めるなどの措置をとっていたと(35)(むされる︒しかし︑児童を早い年齢から徒弟に出すといっても︑親からの抵抗も少なくなかったし︑親方もその受入れ
を喜ばなかったから︑必ずしも容易なことではなかった︒しかも児童の職業的訓練という理想にかなった良い親方を
(37)見出すことも困難であった︒このため︑エリザベス救貧法の前記第五条にいわゆる﹁児童が役に立つと思われる場
合﹂という文言も︑法解釈上は七歳が適当とされながらも︑実務上は︑当初から一〇歳以上の児童が徒弟の対象とな
(駆)っていたといわれる︒しかし一六二〇年代の不況は︑労働力自体の需要を低下させ︑徒弟の受入れ先を狭めたばかり
(3)でなく︑成人労働者の大量の失業を生み出すことによって仕事の創出による就労強制の限界をも露呈させたから︑い
きおい救貧税からの直接救済が増大傾向となり︑これを抑えるために︑かえって徒弟斡旋が強化され︑教区徒弟の対
象となる児童の年齢を引きさげる傾向を実務にもたらすことになった︒すなわち︑右の﹁児童が役に立つと思われる
場合﹂という文言は︑児童の年齢や能力を意味するのではなく︑いわば親方となるべき者の選択の基準のように実
(}{4)務上は解されるようになり︑貧民監督官らは︑商人︑ジェントルマン︑牧師など児童を扶養でぎる余裕のありそうな
納税者に対し︑これを引ぎとって役に立てることができるはずだとして︑あたかも救貧税の課税の一方法のごとく
に︑徒弟の強制割当てを実施し︑しばしば児童に教えるべき職業をもたない者に対してさえ︑その受け入れを拒否す
Css) 88
イギ リス救 貧法 政 策 に}Jけ る家 族 の承 認
(41)ることを許さなかったといわれる︒こうして︑早くも一六三〇年代には︑エリザベス救貧法がこの制度に託した児童
に職業的訓練を与えるという理想は無視されはじめることになり︑それは単なる救貧税の節減のための委託収養制度
(42)としての機能を前面に出すことになったのである︒そしてこのことは︑﹁農家に徒弟に出された幼い少年や︑家事奉
(43)公人として出された幼い少女たちが︑しばしば︑土地や台所に付偶した安価な労働力として搾取される﹂存在と化し
ていくことを意味したのであった︒
ところで︑一六世紀末から一七世紀にかけて︑羊毛業を中心として當を蓄えたブルジョワジーは︑次第にその勢力
を拡大し︑その力を背景とした救貧行政一般に対する彼らのイ泓ガ救貧行政のなかに︑すでに中央の統制に離背す
(4弓)る傾向をもたらしつつあったが︑市民革命による枢密院の統制の喪失がそれを決定づけ︑もはや王制復古によっても
(45)後戻りしない強固な地方主義的救貧行政を確立させた︒しかも︑一六六二年に制定をみた定住法(↓帯も︒9二ΦヨΦ簿
﹀︒戸一ω俸竃9費ρ這)が︑いわばその法的確認を与えることになるのである︒すなわち同法は︑市民革命による混
(4)乱から生じた浮浪民の特定教区への集中を阻止するため︑教区に来住した浮浪民を治安判事が︑最近の少なくとも四
〇日間合法的に定住した教区への送還を命ずることができる旨を規定したが︑それが︑各教区は教区に定住する貧民
に対してのみ救済責任を負うことを︑一般的に明確化することになったからである︒しかし同時に︑同法は︑逆に
送還されることなく四〇日間ある教区に定住した者は︑その教区の定住権を取得するという原則をも生み出すことに
(47)なり︑同法が定住の方法の一つとして徒弟をあげ︑さらに一六九一年の改正定住法(ω芝算馳ン貯辱・ρ一一)が︑徒弟契
約書と居住により合法的に定住権が与えられることを明記したところから︑各教区は︑貧民の児童について︑将来に
わたってその負担を免れるべく︑労働力の需要のある他教区に徒弟に出すという措置を盛んに行うようになったので
ある︒ウェッブにょれぽ︑当時徒弟先の選択の条件として︑親方の資質や能力よりも︑むしろ親方が他教区に居住す
C$9)
89
(注4)るということが︑しばしば最優先されたという︒
こうした地方主義的救貧行政のもとにおける成人貧民を含めた貧民の救済についての教︑区間での責任の押しつけあ
(引)(r")いは︑しばしば教区間の訴訟事件にまで発展したといわれ︑また︑他教区への徒弟の押しつけ自体も次第に困難にな
ったものと思われる︒そのためか︑一六九七年には︑すでに前記一六六二年法で導入されていた証明書制度︑すなわ
ち貧民が雇用のある他教区へ移動しようとする場合に︑もとの教区から証明書(OΦ﹃け一団O餌叶Φ)を発行して︑その貧民が
救済を必要とするときは︑もとの教区が責任を負うという制度を一般化するための措狸を規定すると同時に︑教︑区徒
弟についても︑教区内での徒弟の割当てに際し︑これを拒否する者に一〇ポンドの罰金を課す旨の規定を置く立法
(Q◎卿㊤ゼ<一一蛉一一押6.ωO)が試みられるに至ったのである︒
以上のように︑教・区徒弟制度は︑一七世紀の末までには︑これによって児童に職業を学ばせるというテユーダー的
理想が完全に後退させられ︑教区のやっかい者を始末する手段としてのみ位置づけられるようになっていたのである︒
(90) 94
2ロックの提案と児童の自助
他方︑すでに市民革命以前から︑貧困を罪悪視するブルジョワジーの間で︑貧民の救済について︑単に無差別な慈
恵を与える代りに︑貧民を国富の源泉として利用する方法として生かすべきだとする雌45え方が生れていた︒救貧法史
上﹁貧民の有利な雇用(9①嘗︒節答δ①ヨ覧o団ヨ①昌けoh9①℃oo﹁)論﹂と呼ばれるもので︑小山教授によれば︑一貧民の
雇用が直接に利潤獲得に結びつくとする貧民労働の搾取説から︑無為の貧民がたとえ少しでも商品をつくれば貧民救
済費の無駄が救われるとする考え方にいたるまで︑彼らの見解はさまざまに分かれていた︒けれども︑これらの論者
が一致して主張したことは︑貧民の雇用によって貧民救済という社会的負担を減少しうるし︑またそうしなければな
イ ギ リス救 貧 法政 策 に お け る家 族 の承 認
(51)らないということであった﹂とされる︒こうした考え方を代表するものの一つとして︑かのジョソ・ロックQ︒ぎ
ピ8搾︒)が︑一六九七年に商務委員会(叶げΦじ口O鋤コμO{,門﹃餌良⑳)に対し一委員として提出した救貧法改正に関する報告潟
(52)をあげることができる︒彼はその中で貧民の児童の処遇に関しても一つの提案を行っており︑以下右の考え方が児童
に関してもどのように及ぼされたかを︑右のロックの提案のなかにみることにしよう︒
ロックは︑覇時の貧民の児童についての問題点を︑﹁労働者(冨ぴo霞ヨmq需o覧Φ)の予どもたちが︑通常教区の重荷
となり︑怠惰の中で扶養されているのが普通であって︑彼らの労働力が︑一二歳ないし一四歳までは︑公共にとって
無駄となっている﹂ことにあるととらえている︒そしてこの問題を最も効果的に解決するには︑各教区に﹁労働学校
(ジ︑o藁ヨ餉qω魯8一)﹂を設立し︑自らの生活のために働かず︑教区から給付を受ける両親と暮らす三歳から一四歳未満
のすべての子どもに対し︑この学校への収容を義務づけることである︑と提案する︒ここでロックの考える労働学校
は︑児童を親から分離する収容施設であり︑児童はここに収容されることにより﹁より良い秩序のなかで育てられ︑
よりよい扶養を受け︑幼児期から仕事に馴じむし︑これらのことが︑児童たちを︑後々の人生のすべての事柄につい
てまじめで勤勉にする﹂という効果があがるとみる︒そしてこの労働学校を﹁わが王国の利益にとってより効果的な
ものにするため﹂には︑紡績︑メリヤス編︑羊毛などの工場の一部門をそこにおいて受けもつことであるとし︑さら
には︑そこでの児童の稼ぎをパンに当てることにより教区の負担が軽減されるとするのである︒また教区徒弟につい
ても︑収容児童を︑各ハソドレッドの手仕事職人に対し︑何らの対価なしに引受けることを義務づけるべきだとして︑
プレ︑︑︑アムの廃止を提案するが︑徒弟期間を︑その希望する年齢から二三歳までとすれば︑親方はその期間の長いこ
とで十分償われるはずだとする︒さらに年価二五ポソド以上の土地保有者に︑収容児童を︑右と同じ条件で任意に農
業徒弟にとることを認めるが︑これらの方法によっても一四歳までに徒弟にとられなかった収容児童は︑毎年のハン
C91) 91
ドレッド会議で︑ジェソトルマソ︑ヨーマソ︑ファーマーに︑その保有地面積の大きい順に割当てるものとするので
ある︒以上がロックの提案の要旨であった︒
右のロックの提案は︑前述のように︑教区徒弟制度が︑児童の職業的訓練という目的を後退させ︑教区内での委託
収養的な運用が図られるようになる一方で︑働ける児童の需要のある他教区への押しつけも限界に直面し︑再び教区
内に罰金を以って強制せざるを得なくなっていた状況のなかで提起されたものである︒ロックが︑児童は一二歳ない
し一四歳まで︑教区からの手当てを受ける両親と暮らすのが普通であるとするのも決して誇張ではない当時の実情で
あった︒彼はそのような実情を︑エリザベス救貧法が児童の就労強制の手段として教区徒弟のみに依存し︑その強制
の時期も貧民監督官らの裁量に委ねていたことに原因を見出し︑教区徒弟の年齢を当時の慣行から一定の客観性をも
って確定できる一四歳ないし需要する側の要望に合わせることにょり︑教区徒弟制度の円滑な運用に可能性を開くと
ともに︑それ以下の年齢の児童についての扶養と職業的訓練という目的を︑いかにもロックらしく学校制度によって
実現しようとしたのである︒
しかし︑右提案における児童の職業的訓練には︑社会的秩序の安定に力点をおいたエリザベス救貧法が当面期待し
なかったその経済的効用の観点が強く打出されていることは明らかである︒提案のなかでロックは︑労働学校による
児童に対する養育や訓練の面での福祉的向上の効果を指摘はするものの︑彼の主要な関心は﹁公共にとって無駄とな
っている﹂児童の労働力を︑学校制度を通じて結集し︑これを産業のために活用して︑その稼ぎ出すものを以って救
貧税の支出の削減を図るということにおかれていたのであった︒それはまさに︑前述の貧民の有利な雇用論の児童へ
の適用であった︒ロックが右の提案のなかで︑三歳の児童がその生計に足るものを稼ぎ出すとは考えられないが︑収
容の全期間を通じてみれば︑結局教区の費用の負担はない︑と述べるように︑児童の労働学校での就労は︑いわば現
Cg2} 9?
イ ギ リス救 貧 法政 策 に おけ る家 族 の承 認
在の自助のために必要なことなのであって︑将来のための職業的訓練は︑あくまでその副次的効果にすぎなかったの
である︒まさにロックの提案は︑救貧税の支出の削減という目的のために︑児童の自助を強調し︑教区徒弟制度の運
用の妨げとなっていた幼児をその対象から切離すとともに︑労働学校の設慨によって︑その切離された児童の就労を
確実にするというものであり︑それはエリザベス救貧法における児童の就労強制の原則の徹底をはかるものに外なら
なかったのである︒
他方︑彼の提案する労働学校は︑前述のように︑児童が三歳以上になると家族から分離され収容される施設であり︑
労働学校による就労強制の徹底は︑エリザベス救貧法における親fの分離措聡の建前を徹底するものでもあった︒そ
してそのような親子の分離の効用についてロヅクは︑﹁母親が︑家庭内での彼らの世話や扶養のめんどうの大部分を
軽減され︑もっと働くのが自由になる﹂と述べる︒同様に当時の救貧法の運用においては︑たくさんの子どもがいる
ことが︑貧困な男たちに教区からの給付に対する権利を与えているが︑彼の考えでは︑﹁健康な夫婦は︑普通の労働
によって︑自分たちと二人の子どもを扶養することができる﹂はずであり︑一家族に三歳未満の子どもが三人以上い
ることは稀れだから︑三歳以上の児童を労働学校に収容すれば︑夫婦は自らを健全に維持でき︑手当ても不要になる
と述べるのである︒このように︑親子の分離は︑児童自身の自助を図るばかりではなく︑親の自助の妨げを除去する
ものとしても意味づけられており︑救貧税からの支出の削減という大目的のもとに︑貧民の家族結合はほとんど無視
されていたことは明らかである︒
以去ようなpックの業は︑当時においてはかなりの皆を集め︑枢密院の採択まで経たよう嚥ひとり・ック鋤
のみのものではなく︑その当時を袋し︑それ以降を支配する芝方に立つものだったのであ菊(
93
注(31)ゆ触"窃q.OPO搾二℃やα識.
(32)ピンチベックらによれば︑徒弟受けいれのヂレミアムとして︑親方に対し通常二〜三ポンドが支払われていた(曳h回07げ06搾卿=Φ≦潔r
o唱■O騨こb幽吋ωΦ)︒
(33)プラグは︑﹁その名に値いする徒弟制度﹂は次の三つの条件を満たしていかければならないとする︒す左わち︑第一は︑徒弟が早くとも一
八歳に達す"42までは︑その行動蛤よび肉体的発達について十分な監督を受けることである︒﹁人はその年︑齢以前には︑自己のマスターになり
えず︑ある程度まで年長者のコントロールのもとにとどまるべき﹂だからである︒第二に︑徒弟制度が︑十分な訓練の機会を提供するもので
あること︒その訓練は︑一般的なそれと︑特殊的なそれ︑つまり市民となるための訓練と労働者になるためのそれの双方でなければならない︒
最後に︑それが成人労働者の序列の一角に向けて開かれていること︒それに向けてこそ適切な準備がなされうるのであり︑また永久の就業に
対する合理的な見込みが立ってこそ︑善良た資質が得られるからであス・︑とする(じσ憎簿α亀・o℃・o一けこb・N)︒
(34)小山・前掲五一頁︒ウェッブは︑コ瓶九〇年から一六四〇年の閣に︑それ以前の︑あるいはそれ以降でも一八三四年の救貧法委員会の設
置までは︑イギリス史にはみられなかったような︑枢鰹院等の中央政府の部局から発せられた︑ほとんど絶︑見問のない一連の文書︑指令︑命
令類が存在している﹂ことを指摘している(ω己昌3・卿ゆα舞ユ8ノぐoげσ・圃コ轡q一陣昏勺oo﹁目9芝ロ一ω8﹃団・℃﹃一・や日︒︒)︒
(35)℃∬OげげΦ0搾卿団Φ毒騨戸oや6騨こ層・噂鵯・
(36)囲ぼ鳥こ一).卜︒らPピンチベックらは吉た︑教区徒弟の規定は﹁子を扶養することも︑子の訓練を十分用意することもできず︑子が過度の負担
となっている親の子﹂を対象としていたか︑貧民監瞥官らは︑実際にはそのようにすることには乗気ではなかったし︑親に対し家族手当︑が支
給されていないかぎり︑権限行使に自らを奮い立たせることもなかったとしている(Hσこ二灼・吋ω刈)︒
(37)守鼠二,Nω8
(38)國げ達こ噂・漣O.
(39)小山・前掲五五頁︒小山教授によれぽ︑この時期︑輸出は三分の一に減少し︑羊毛価格は下り︑織元は破産に瀕して︑失業は拡大したが︑
従来の救貧法では対応しえず︑その対策としては︑織元の解雇を禁ずるにとどまったという︒
8コゆ﹁OΦぎOや唇O搾こ唱・鱒メ
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4544
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ノヘ ノヘ ノヘ ノへ
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℃冒OぽσΦO需卸笛①毛津計O".Oヰニや.㈹蒔bo.
圃げ置b
Hび己.
小山・前掲五七頁︒
ウェッブは︑﹁一七世紀前半の全国的行政ヒヱラルキーは︑市民戦争の混乱の中に終焉し︑救貧法に関するかぎり︑中央政府による不活動