エネルギー史-ほんぶん.ren
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(2) . 渡部聖 (ワタベ. . . . キヨシ) 氏の略歴は以下の通りである。. 昭和2 (1927) 年12月7日 東京世田谷若林にて出生 昭和26 (1951) 年3月. 東京大学経済学部商業学科卒業. 同年. 大倉商事株式会社 (当時は内外通商㈱) に入社. 4月. 昭和56 (1981) 年6月. 取締役 (人事総務本部長、 その後常務、 専務). 平成元 (1989) 年10月. 代表取締役副社長に昇任. 平成2 (1990) 年4月. 米国大倉商事会社会長を兼任し、 ニューヨークに赴任. 平成4 (1992) 年6月. 取締役退任 (その後、 相談役、 顧問). 平成10 (1998) 年6月. 退社. 平成4年以降. 社史編纂に着手. 平成10年8月. 会社倒産。 その後も大倉商事の歴史を記録に残す作業をすすめる。. 渡部聖氏は平成6 (1994) 年6月に脱稿した 私の見た大倉商事側面史 (社外秘、 側面史 と略称する。) の 「まえがき」 の中で 「しばらくの時を経て、 自分の来し方の軌跡を見ながら、 はた、 とたどり着いたステーションは、 自分の歩いた、 自分の見た、 我が社のことを書いて見よ う。 それが人の役に立てばそれで良し、 例え人の目に留まらなくともそれで良し。 私の経験した こと、 通って来た道を書き留めておくことで、 何がしか、 後輩の会社人生や、 会社の仕事という ものにヒントを与えられればそれで良し。 自分が愛し、 そして愛し続けるであろう我が社の、 私 の目で見た、 私がともに歩んできた歴史を書いて見ようと。」 と、. 側面史. (秘史) を書き始め. た動機を記している。 それを書き終わったころ 「豊川社長より、 我が社125周年を迎えるに当り、 (1998年) 社史を刊 行したいのでその編集に尽力してほしいとの話」 があり、 爾来渡部氏は本格的に大倉商事の資料 蒐集に尽力することになる。. 私の見た大倉商事側面史. 文書から週刊誌の記事まで) があわせて 面史. を書く際に参照した様々な文書 (内部. 側面史資料集 として纏められた。 これによって 側. の記述の裏付けがとれる。 研究者の視線で言わせていただくならば、 当事者でなければ入. 手不可能なもので、 貴重な資料集になっている。 この時に集めた資料が基になって、 渡部氏の思いと熱意のエネルギーによって三冊 大倉史の 断面. 大倉財閥の回顧. 戦後の大倉商事 が纏められた。 この三冊の完結に至るまでの間には、. (1).
(3) 渡部氏が責任者であった大倉商事社史編纂事業は大きな躓きに遭遇せねばならなかった。 平成10 年8月21日にある得るはずもない大倉商事の 「自己破産」 という文字通りの青天の霹靂である。 大倉商事創業125周年を迎えるわずか2か月前の出来事 (悲劇) であった。 渡部聖氏は強い意志 でその後も一人でパソコンとプリンターに向かい続け、 「社史もどき」 (本人のご謙遜の表現をそ のまま借用) を刊行された。 社史編纂のために準備された資料がこのように活用されたのである。 「自分の人生の大部分を送った会社への郷愁」 というエネルギーが、 一人での社史編纂への旅立 ちを促したのであろうか。 最初に取り組まれたのが、 平成10 (1998) 年10月の創立125周年の記念事業として着手された 大倉商事株式会社125年小略史 顧. で準備してきたものを、 再び平成14年になって. 大倉財閥の回. と題を変えて取り組まれ、 同年12月に 「自家版」 として6冊印刷製本された。 明治6. (1873) 年から昭和21 (1946) 年の財閥解体の時期までを記述した. 大倉財閥の回顧. は22章で. 構成され、 624頁にもなる大著である。 自己破産前の前年12月に小冊子として社員に有料で配布 した. 大倉史の断面. も渡部聖氏の筆によるものである。 (筆者はこの小冊子にまだ目を通して. いない。) 大倉財閥の回顧. の続編にあたるのが、 主に戦後の大倉商事のビジネスの実態を知人や友人. の寄稿などに基づき書き上げられた. 戦後の大倉商事. (非売品、 平成18年) である。 戦前の記. 述もあり、 平成18 (2006) 年2月に製本された。 大倉財閥の回顧. (491頁) の中で渡部氏は 「オペーレーション を始めとする財務体質の改. 善、 不良債権の償却、 含み資産の増加、 復配により、 これで大倉商事の危機はまぬがれ発展への 基盤は出来た、 もう大丈夫だろうと安心してニューヨークに赴任した。 しかし時の流れは、 私が 思ったように物事が進むことを許さなかった。」 と副社長時の、 次なる立て直しの責務であった 米国大倉商事を再建すべく旅立ったころの秘めた思いを披露している。 「私が思ったように物事 が進むことを許さなかった」 のは米国から戻り取締役を辞めた後のことであろう。 時期が前後するが、 昭和56 (1981) 年6月の株主総会の後で決定された経営幹部の新任取締役 として渡部聖氏は大倉商事の中枢にかかわった。 戦後の大倉商事 の304頁には 「竹中社長体制 ママ. の発足であり、 この年昭和56年 (1981年) 6月から平成2年 (1990年) 6月まで9年間に亘った。 無配当の時代が長く続き苦しい社長職であったが、 持ち前の明るさで乗り切ったのは見事であっ た。」 と書いている。 竹中体制の新米取締役であり、 財務に精通した渡部氏にとって復配は一つ の目標であったに違いない。 念願どおり、 大倉商事は平成元 (1989) 年6月に8年ぶりに復配し た。. 戦後の大倉商事. (415、 469頁) には、 「平成元年3月31日締めの1988年度決算で配当可能. の収益が見込まれる状況」 であったことが記されている。 平成元年10月1日専務から副社長に昇格した渡部氏は翌年4月1日付で副社長のまま 「米国統 括・米国大倉会長」 となり、 ニューヨークに赴任した。 復配の平成元年から平成10年の間に一体何があったのだろうか、 破産の遠因は何かという問が 渡部氏の書かれた 社史もどき には貫き流れている。 愛情に満ちた会社への熱い想いとともに、 腹立たしかった数々の事件も冷静な筆致で克明に刻まれている。 218頁に 「愛社心のない社員、 自分だけに閉じこもり仕事を隠してしまう社員、 金銭にだらしのない社員は要注意」 と締めくくっ. (2).
(4) ている。 戦後の大倉商事. は東京地方裁判所で閲覧した大倉商事破産関係書類の中から 「申立書」 と. 「債権者にたいする報告書」 が冒頭部分に配置されている。 渡部氏の、 なぜ自己破産に至ったの かを自分が納得するまで調べなければという決意が伝わってくる。 「はじめに」 の中で 「時系列 的に整理したものではなく、 戦後の大倉商事に起きた幾つかの事柄を、 オムニバス的に書き連ら ねた。 主として昔の大倉商事の仲間たちの寄稿によっている」 とあるように鉄鋼、 工作機械、 船 舶輸出などの部門の取引が記載され、 「九州石炭事件」 などの様々な取引事故なども記されてい る。 「側面史」 もちりばめられ、 最後の18章 「復配」 は専務取締役の時の1988年度決算で目途が 立ち、 成し遂げたのであった。 冒頭の平成10年の 「申立書」 と平成元年の 「復配」 のギャップに は渡部氏の思いが凝縮されている。 そのタイムスパンは8年間である。 話を転じよう。 渡部聖氏が九州大学附属図書館に私が編集した 米国司法省戦時経済局対日調 査資料集. に対する問合せのメールが発端になり、 幸いにも小生との接点ができた。 東京出張の. 折に杉並区の渡部邸をお伺いしたところ、 大倉商事に関する著述を拝見させていただき、 借用し コピーさせていただいた。. 戦後の大倉商事. などは残部があり、 貴重な一冊を頂戴した。 大倉. 商事の米国での取引であるが、 「裸にされた貿易商社」 本文にも記述されていうように、 資料が なかったとのことで強い関心を示された。 これ幸いに九州大学記録資料館が刊行している エネ ルギー史研究. に投稿を依頼した。 今回掲載した 「裸にされた貿易商社」 である。 本文をお読み. いただけばわかるが、 大倉商事の社史・歴史に造詣がなければ気づかないことにまで目配りされ ている。 「中央工業株式会社」 (昭和製作所)、 「新中央工業」、 「木本鉄工所」、 「汽車製造株式会社」、 「日本皮革」、 「日本無線」、 「立川飛行機株式会社」 (大倉商事の門野重九郎氏が社長)、 「日本航空 輸送と立川飛行機」 (大倉がロッキード社の代理店であった関係)、 「大日本航空輸送」 「昭和18年3月大倉組総本社設立にあたって投資先」 が 「直系会社」 「傍系会社」 「投資会社」 に仕分けされていたことも記述されている。 渡部氏はこの回想録の中で 「ワールド・トレード・センターにあった大倉商事のオフィスに19 72年から4年間」 働かれたことが記述されているが、 渡部氏はドイツ (デュッセルドルフ)、 ア メリカ (ニューヨーク) に駐在員として13年間海外勤務のご経験が、 この回想録には生かされ、 実務経験がなければ見過ごしてしまうところも拾っている。 米国司法省戦時経済局対日調査資料集. の第一巻と第二巻の大倉商事ニューヨーク支店の取. 引を纏めた表が 「大倉商事取引総括」 として掲げられているが、 陸海軍の軍工廠との取引が大き かったこともよくわかる。 大倉商事の陸海軍工廠との取引高は三井物産、 三菱商事と互角以上に 正々堂々と渡り合っている。 「裸にされた貿易商社」 で丹念に数字が拾われている。 この辺りは 丁寧に読んでいただければと願いたい。 広島修道大学の落合功教授や東京大学社会科学研究所の中村尚史教授 (当時准教授) が米国国 立公文書館Ⅱの接収文書 131資料 .
(5) . . . の中の大倉商事資料 から発掘した貴重な記録も紹介されている。 大倉商事は倒産し消滅したが、 日本経済史を考える上で、 軍事史を考える上で、 「大倉商事」 は日本を代表する企業の一つとして青史に刻まれ続けることには何ら変わることはない。 渡部氏. (3).
(6) の書かれた. 社史もどき. は今後研究者の基礎的な資料として活用され続けるであろう。 また参. 照しなければならない文献としてリストアップされるであろう。 もちろんこの回想録も。 大倉財閥の回顧. の 「あとがきのあとがき」 の言葉を引用して解説をしめくくりとしたい。. 「会社を永遠ならしめるため真面目に任務を尽くすことが実業人の崇高な責務であらねばなら ない。」. (4).
(7) . .
(8) . 目 第一章. 貿易商社の社員だった頃. 第二章. 調査文書第一巻の目次と内容. 第三章. 調査文書第二巻の目次と内容. 第四章. 調査報告書の追加. 第五章. 時代背景. 第六章. 補 挿話1. . . 次 挿話2. ロッキード輸送機輸入をめぐ る訴訟. 付表. 論. 挿話3. 幻のロッキード飛行機. 挿話4. 神田大佐の交わした覚書. 1929年から1941年までの略年表 言葉の意味. 太平洋戦争勃発直前のニュー. 大倉商事の取引総括. ヨークの日本貿易商社. 当時の為替レート. (5).
(9) 第一章. 貿易商社の社員だった頃. 1) 私の履歴 私は昭和2 (1927) 年12月7日、 東京荏原郡世田谷町若林で生まれた。 兄2人姉1人あり、 そ の次の4番目の末っ子だった。 太平洋戦争の始まる前までは、 平穏な幼年時代、 小学校そして中 学校の前半を過ごしたような気がしている。 中学3年生になったとき雨中行軍のため風邪を引き、 こじらせて肋膜炎を起こし1年休学した。 あと1週間の命かと、 医者に見離されたが何とか助かっ た。 医の心得のあった父の必死の看病のおかげだった。 1年遅れて中学3年に復学してからの授 業の期間は短かったように記憶する。 動員、 動員で追いまくられた。 中学校時代の動員は、 延焼 防止のための家屋疎開 (住宅から住民を追い出して綱で引っ張って家をぶっ壊す。 「家屋疎開」 という言葉は当時の独特な語句であった)、 鉄道省大井工機部での戦闘機の板製落下燃料タンク の板削り (ここで多くの友を得た)、 暁船舶工兵部隊の指揮による運河の掘削土木工事 (本土決 戦に備え利根川と江戸川を結ぶ運河掘り) などだった。 B29の空襲は本当に怖かった。 あの不気味な爆音を聞きながら眠くてたまらないわが身を防空 壕に運ぶつらさ、 眠さ。 もうどうにもなれと思っていても焼夷弾の落下するザーッという音を聞 いたら寝てはいられない。 昭和20年には中学校が5年制から4年制に変わり、 4年生と5年生が一緒に卒業した。 卒業し たもののなかなか進学先が決まらない。 旧制高校は1回限りの受験で一発で落ちた。 その年の12 月に満18歳になるので徴兵検査を受けなければならない。 浪人していれば幹部候補生になる資格 はないと脅かされる。 5尺足らずの短躯で一兵卒からしごかれるのはたまらないと思い何処か上 の学校にもぐりこまねばとあせった。 危うく浪人になりそうだったが、 何とか青山学院工業専門 学校に入学できた。 現在有名校としてある青山学院大学は、 当時工業専門学校だった。 特色のあっ た神学部、 文学部英文科、 商業学部などは閉鎖されて理科系の学校になっていた。 航空機科、 発 動機科、 土木建築科の編成だった。 しかし中学校の勤労動員の延長でなかなか青山に登校する機 会はなかった。 6月ごろようやく専門学校生徒となったら又勤労動員。 地方にある兵器工場の寮に入り空腹と 栄養失調に悩まされやせ細り、 食事も受け付けない。 ついに帰宅療養を許されたのが昭和20年8 月だった。 更に小さくなった五尺の身をようやく生家で休めることができた。 そして8月15日、 太平洋戦争の敗戦を迎える。 軍国主義にならされ、 皇国史観に鍛えられた頭の中はその事実をす ぐには受け入れられなかった。 しかし歓喜する同期の学生たちを見て、 人にはいろいろの考え方 があるのだなと悟った。 昭和21年4月になって工業専門学校は青山学院専門学校と改称し文科系が復活する。 (新制大 学に昇格したのは昭和24年4月である。) まだ戦争のつめ跡が強く残っていた昭和23年の東大の入学試験日は、 狙っていた早稲田大学よ り先にあった。 まず手始めに、 模擬試験のつもりで恐る恐る受験してみたら合格し仰天した。 専 門学校生徒は東大の選科にしか入学できなかったが、 この年は本科に入学を許された。 青山学院 専門学校から東大入学は真に珍しいことだといわれたが同期の 「I」 君も合格した。 (学校は全. (6).
(10) て旧制) 当時の東大経済学部はマル経一本といっても大げさではなく、 学生のマルクスの研究も盛んで あり共産主義運動も盛んであった。 学生運動の渦巻きの中心に入ったことはなかったので運動の イデオロギーや派閥闘争には係わることもなかった。 ただ社会科学研究会に誘われて入会した。 昭和24年、 東京都公安条例施行に反対する東大生のデモ隊が竜岡門から繰り出す、 その中の一員 だった。 当時有楽町にあった都庁にデモをかけた。 やがて警官隊が出動して六尺棒を持って二列 に並び、 その中をポンポンと学生をぶっ飛ばす。 いとも軽く蹴散らされた。. 2) 就 職 大学卒業時の就職は氷河期だった。 社会人になったら何とか海外に出てみたいと言う願望が強 かった。 当時内外通商と名を変えていた大倉商事に入る。 入社してすぐ、 会社の人事課に投書が 来た。 差出人は東大銀杏会とあったと思う。 「今回貴社に入社した渡部は東大の社会科学研究会 に属しており左翼であるから、 貴社に害を及ぼす。 即刻採用を取り消されたい。」 といったよう な文書であったらしい。 人事課長からこのようなことがあったのですか?会社に入って左翼活動 をしないと誓えるなら採用は取り消しませんと申し渡された。 それから70歳まで40数余年この会社に勤めた。 管理部門、 主として財務、 経理部門を歩いた。 小さな会社だから管理部門を歩けば総務、 人事部門もまわることになる。 念願の海外勤務もデュッ セルドルフとニューヨークに足掛け13年駐在した。 ベルリンの壁を目の前にしたAEGのオフィ スで3ヶ月間納期督促のため駐在したこともあった。 戦後すぐ財閥解体によって三井、 三菱が小商社に分かれたとき、 大倉は解体せずに戦前から持 ち越した資本金100万円を保っていた (1000万円を900万円減資)。 しかしその資本を有効に使う 商権の樹立が思うように行かず、 総合商社としての機能を失いつつあった。 解体した後、 資本金 19万5千円のいくつかの小さな会社から再出発し、 ついにはそれら小会社をまとめて大合同を成 し遂げた三井物産、 三菱商事、 戦後初めて商事会社に進出した住友商事また関西五綿 (兼松、 トー メン、 ニチメン、 丸紅、 伊藤忠. 当時の呼称) のごとく、 機械、 自動車、 エネルギー、 電機等. へ向い、 ついには 「ミサイルからラーメンまで」 という開拓精神とエネルギーは、 戦前の財閥意 識から抜けきれぬ大倉には少なかったのではないかと思う。 大倉商事内部で公然と言われていた ことに、 「戦前の大倉は満州から上がる利益と、 投下資本の配当で喰っていけた」 という郷愁の 繰言だった。 実はこの配当によって喰っていたのは持ち株会社の大倉合名であって、 商事部門た る大倉商事は戦前には結構商取引で喰っていたのである。 そういう会社の歴史が知られていない。 戦後の取引も、 機械特に重工業関係の商売では他社に突出しており、 戦後日本製鉄業界の復興 に貢献した製鉄機械の輸入に優れ、 機械の大倉といわれていた。 工作機械の輸入、 航空機関係エ ンジンの輸入、 米国RCA社との関連から宇宙衛星関連の業務などその時代に応じたそれなりの 目覚しい商権もあった。 ビールはサッポロビールと同根のよしみをもって随分と取引させてもらっ たし、 皮革は日本皮革との関連から多量の原皮の輸入でにぎわったこともあった。 その他もろも ろ大小の商権があったが、 金属関連の商売が大きな比重を占め、 そこに偏りすぎた憾みがあった。 長く勤めていて感じたことは、 この会社には社史が無い、 また会社自体としても研究もされて. (7).
(11) いないデメリットだった。 東京経済大学の先生たちが著された 大倉財閥の研究 《大倉財閥研 究会、 昭和57年、 近藤出版社》という刮目すべき大著があるが、 主として中国大陸における商事 の活動に焦点をあてておられる。 また喜八郎個人の伝記を書いたり編纂したりした 鶴彦翁回顧 録. (大倉高等商業学校、 昭和15年). 鶴翁余影. (鶴友会、 昭和4年) 等があるが、 いずれも商. 事会社の歴史そのものに向き合ったものではない。 そこで創立125年を迎える平成10年の事業の 一つとして社史編纂が企てられ、 現役を退いていた筆者が責任者になった。 しかし会社経営その ものが次第に傾き始め、 社史どころでないという情勢になる。 とりあえず研究のほんの一部を 「大倉史の断面」 と言う小冊子にまとめ、 平成9年12月に会社の事業として社員に頒布した。 「会 社の歴史を知り、 この会社に勤めることに誇りを感じた」 と言う反響があり嬉しかった。 ところが創立125年に当たる平成10年8月、 大倉商事は自己破産する。 会社人間一辺倒であっ た私は、 その衝撃からいまだに逃れられない。. 3) 社 史 退職はしたものの時々会社に来て社史研究を続けるため、 ある一室に資料を置いておいたが、 会社はブロックされて簡単に入れない。 そのうち管財人の命令により 「金目にならないものは捨 てよ」 と言うことになったらしく、 私なりに編纂した資料の一部は捨てられた、 と後から聞いた。 (一説によると私の史料ロッカーは東京経済大学に運ばれたというが現在まで見つかっていない。) 大倉組から始まる原史料は東京経済大学の地下倉庫にあったもので、 その史料を借り出して編集 し個別のファイルを作っていた。 そのファイルの一部と未編集の史料の一部が捨てられたもので ある。 若干のものは自宅に持ち帰っていたので、 やりようはあった。 会社はつぶれたが、 手許に残された史料、 社員や に依頼した投稿、 それまでの研究成果な どをまとめて、 曲がりなりにも 「社史もどき」 を個人で作り上げようと考えた。 顧. と. 戦後の大倉商事. 大倉財閥の回. と名づけた合計1000頁ほどをワードで打ち自家版を発行した。 ワード. はブラインドで打てずにキーを見ながらのチョコチョコ打ち。 プリンターが時代物で両面印刷が 出来ず、 いろいろ苦心があった。 前者は6冊だけプリントして製本業者に渡した。 平成14 (2002) 年12月7日75歳の誕生日に出 来上がった。 (あとで東京経済大学の村上勝彦先生のご好意により若干の増刷があった。) 後者は 80歳になる少し前、 平成18 (2006) 年2月に完成した。 よる年波で、 もう自分でプリントできず を渡して業者に依頼し100冊作成した。 この研究の中でどうしても手の届かなかったのは、 米国関係の戦前の取引内容である。 資料が まったくない。 ところが日米開戦と同時に米国当局が在米日本商社の書類を押収した事実があり、 それら文書 (現在司法省資料または 131と呼ばれる) がワシントンの米国国立公文書館 (.
(12).
(13) ) に保存されていると言う話を聞いた。 平成8年か9年のことである。 早速ニュー ヨーク現法の社員に調査させたが、 確かに大倉の資料も存在するとの報告を受け、 すぐにでも出 張して調査したかったが、 会社が許す状況になく、 幻と化した。 (その後の史料調査で、 商社の 資料は太平洋戦争勃発前、 昭和16《1941》年7月の対日資産凍結のとき、 すでに立ち入り検査を 受けていたようだ。. 開戦前夜の在米日本商社. 後掲参照。). (8).
(14) だが驚きがある。 それら文書を丹念に調査している日本の学者グループがあることを、 つい最 近 (2009年秋) 知ったのである。 東京経済大学前学長、 現理事長の村上勝彦先生から教えられた。 九州大学の三輪宗弘教授の努力により、. 米国司法省戦時経済局対日調査資料集 (英文) という. 題名で5巻の書としてまとまっている。 米国は大倉をはじめ日本の在米商社から押収した資料を 基にこの資料集を作成し、 日本の兵器産業が商社を通じてアメリカからいかなる機械を買い、 ど この工場に納めたかを探るものであり、 米国空軍の戦略爆撃目標決定の一助とするものだったよ うだ。 対日ピンポイント爆撃の生みの親であったのかと思われる。 その膨大な資料収集力、 分析 力、 翻訳力には驚く。 こういう国と戦争をしたのかとため息がでる。 幸いにしてこの5巻にわたる報告書は東京経済大学の村上先生が購入しておられ、 お借りする ことが出来た。 この資料は極秘資料とされていたが、 1991 (平成3) 年10月1日解禁されたもの である。 第2回目の米国駐在 (1990年春から1992年春まで) の最中のことであったが、 このこと はまったく知らなかった。 私のこの文書の解読は始まったばかりだが、 一部を見てみよう。 1939 (昭和14) 年に熱海陸軍大佐ミッションが4千万円の予算で 「旋盤」 などの買い付けのた め米国訪問。 大倉260万ドル、 三井230万ドル、 三菱160万ドル、 安宅23万ドルほか計約685万ドル を成約したとある。 ただし、 そのうち出荷したのは250万ドルに過ぎず、 435万ドルはキャンセル された。 納入先は大阪陸軍造兵廠であった。 (第2巻116頁) 1937・38年に岡田・神田陸軍大佐ミッションが相次いで訪米。 航空機エンジンの製造と修理目 的のために新設された陸軍航空本部立川新工場向け機器の買い付け。 大倉180万ドル、 三菱100万 ドル、 三井190万ドル、 安宅12万ドルほか総額515万ドル。 出荷466万ドル。 キャンセル49万ドル。 (第2巻163頁) (キャンセルされた理由は1940年1月、 日米通商航海条約破棄、 失効によるもの であろう。) また日本海軍工廠が1937年から1941年にかけて米国から購入した工作機械、 航空機部品などは 総額2017万ドルであると記録している。 最大の購入は横須賀工廠で600万ドルに及ぶ。 このうち 大倉の納めた金額の大きなものは、 セバスキーP2戦闘機157万3000ドルとその部品30万6000ド ルであり、 その他目立つのはフェアチャイルド社のRC4無線機、 コンパス等であり、 その購入 総額は358万5000ドルに及んでいる。 (第2巻204頁). もうひとつの研究グループは 「北米史料研究会」 であり、 RG131の中から発見された別の史 料に基づく研究である。 国学院大学上山和雄教授を先頭として、 三井、 三菱、 大倉、 安宅の史料 を分析している。 平成21年11月20日に研究の中間発表として、 東京中野の三井文庫にて 「北米に おける大倉組の活動」 と題し、 広島修道大学落合功教授、 東京大学中村尚史准教授によって披露 された。 幸い筆者は傍聴を許された。 その概略を両先生の了解を得たので骨子を紹介しよう。 「1940年前後における大倉商事紐育支店」 (落合報告) 1937 (昭和12) 年から契約高が大幅に増加している。 前年に起きた明治以後最大の組織的軍事反 乱であった2・26事件以降、 急激にアメリカからの軍事品の調達が増加する。 大倉商事からの調 達は、 1937年553万ドル、 1938年980万ドル、 1939年986万ドル、 1940年558万ドルを示す。 同じ年. (9).
(15) に米国の対日経済制裁に対しどう対処するか苦慮している模様が見て取れる。 大倉名義の別会社 を現地法人として設立して商取引を移すことを考えたり、 ドイツからの買い付けに重点転換する ためニューヨーク支店手持ちの工作機械の注文明細書をベルリン支店に転送したりしている。 (昭和15年12月目賀田支店長より東京本社皆川会長宛て報告書) また在米日本資産の凍結に備えて1940年ごろからアルゼンチンを資金移動先と見定めて準備を 進めるが、 アルゼンチンペソの価値下落による資産の目減りを憂い、 ドル貨での維持が出来ない か腐心している模様が見て取れる。 「大倉組ニューヨーク支店の始動と鉄道用品取引」 (中村報告) ニューヨーク支店の開設は1901 (明治34) 年であり、 開設者はロンドン支店から転任した山田 馬次郎 (当時31歳) である。 開設後6ヶ月もたたぬうちに大きな仕事が舞い込んだ。 北海道庁鉄 道部への機関車6台、 機関車秤量器、 車輪、 車軸などの入札である。 当初ロンドン支店に照会さ れたが適当なメーカーがなくニューヨーク支店に回付されたらしい。 山田が精力的に動き回り、 メーカーの発掘、 値決め等の努力が成功し大倉組が落札した。 この取引の総額は米ドル70 950で あった。 取引の経緯が中村先生によって系統的に読みやすく整理されている。 これらの事実は、 私の企てた社史の編集の際には、 まったくアンテナに引っかかってこなかっ た。 (筆者註:この文章とほとんど同文を2010《平成22》年2月発行の東京大学経済学部内経友 会発行の. 経友. 誌176号に載せた。). こうした新事実がRG131の研究を通じて幾多出てくるであろうことを楽しみにして、 さらに 研究を進めたものが以下の拙文である。. 第二章. 調査文書第一巻の目次と内容. この5巻の書を便宜上 「青本」 と呼ばせていただく。 この書の全体像を知るためには、 まず調査資料集の各巻の目次から入り、 次いでその中にある 大倉商事関連の事項を、 または筆者の関心を引いた事項を特に引き出して抄訳してみようと考え た。 筆者の書き入れた文章は全て (筆者註または筆者) と頭書きがしてある。 それ以外の文章は 原文の和訳ないし抄訳、 意訳である。 なお$貨の表示については、 表を含めて1$以下は切り捨 てた。. 米国司法省戦時経済局対日調査資料集 .
(16).
(17) . 対日調査資料プロジェクト (1991年10月1日に機密扱い解除) .
(18).
(19) . .
(20)
(21)
(22) (以下、 商工会社録と訳す) .
(23) 211944 (青本第一巻). ( 10 ).
(24) 内
(25)
(26) 369
(27) .
(28) . 容. 何が書いてあるか ア: 報告書番号NY369 a) 序言. 青本頁番号 1−2. .
(29)
(30) .
(31) b) 商工会社録 3−61 (会社番号4番から292番) ∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼ ∼∼∼∼∼∼ ∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼ 61−65 付表A
(32)
(33) . . 提出された報告書のリスト
(34) . 総数 117件 このうち92件はN Y286とダブっている. 原資料頁番号 2−3 3−119 ∼∼∼∼∼ −. 三菱エンタープライズ、 南満州鉄 道など9頁に亘り117項目ある。 286 イ: 報告書番号NY286
(35)
(36) . 提出された92件の報告書のリスト
(37)
(38) . . 67−70. 362 ウ: 報告書番号NY362 Ⅰ)
(39)
(40) . ! " # 日本の産業についての報告 71−238 . $ . 1936
(41) 1941%
(42) # 三井物産及び三菱商事機械部を通 . . % じた1936年から1941年にわたる貿 .
(43) % 易取引、 1944年 (昭和19年) 11月
(44) $ 15, 1944 15日作成 &
(45). '. Ⅰ
(46) .
(47) . 第一部 1) 序言 A) 一般 72−73 B) 商取引状況についてのコメ 74−83 ント C) 表についての説明 83−84. なし. 1−861. − $. Ⅱ. " .
(48)
(49) .
(50)
(51) Ⅱ) 三井物産及び三菱商事機械部 85−238 .
(52) . ( . の日本顧客との取引一覧表 ).
(53) 企業番号 1−491. 1−310 (但し74, 76, 77欠頁). &
(54). "*' タイトル上と同じ. 第二部 企業番号. 240−382. 311−596. 492−877. &
(55). "+. タイトル上と同じ. 第三部 企業番号. 878−1238. 383−516. 597−861. ,
(56)
(57)
(58). -. 脚注 会社名索引. 517−518 519−533. a−d − . 筆者:以上が九州大学三輪教授のまとめられた対日調査資料第一巻の目次である。 全て英文の 詳細な記録であり、 わずか数ドルの取引でも米国の調査では全部書き出している。 原資料は上述 したように太平洋戦争勃発時に米国政府が押収した、 在米日本貿易商社の内部資料である。 主た る商社は三井、 三菱、 大倉、 浅野、 安宅である。 (一部 .
(59) 山武商会がある。) 機密であろう内部資料が全部白日の下に晒された。 まさに 「裸にされた貿易商社」 である。 そ れら資料を仔細に分析し、 翻訳し、 解釈し、 纏め上げた米国人の調査力、 分析力には感心するし かない。 この作業によって日本の工業生産力、 戦争遂行能力、 軍事生産設備と場所、 などを調べ 上げ、 対日戦略爆撃の標的を定めたのであろう。 そういう相手に戦争を仕掛けたのだからたまっ たものではない。 「すけそうだら」 と、 「サツマイモ」 で飢えをしのぎ、 「竹やり」 と 「バケツ」 で敵の襲撃に対する備えになると指導され、 東京に生き、 神国日本は神風が吹き、 戦いには最後 に勝つ、 と叩き込まれていた軍国少年だった筆者には、 これら資料の出現は、 ただただ驚きであ. ( 11 ).
(60) り、 また戦後商事会社に勤務した経験から興味は尽き果てることがない。 それにしても日本の商社の活動にも驚く。 この日本の貿易商社の企業形態、 取引回路は米国人 にとって理解のしがたいものだったのかもしれない。 以下筆者は、 この膨大な記録の中から関心のある項目を選び、 邦訳を行った。 一旦逐語訳をし たのち、 読みやすい日本語にするため意訳した箇所もある。 ア: 報告書番号 369. 青本2頁. 日本ファイル調査事業に関する特別報告書及び商工会社録 [これらの報告書は司法省戦時経済局の監督の下に戦争局、 司法局、 経済諜報室、 海外経済行政 室のメンバーによって作成された。 1944年12月21日] (筆者註:各報告書の表紙は全てこれと同文. ただし日付は別). a) 序言 (下線筆者) 日本ファイル調査事業は最近終了した。 この最終報告書は、 調査によって明らかにされた日本の工業会社の商工会社録である。 また個 別の報告書の目録も記載されている。 日本ファイルの調査は、 数個の政府機関の協働によってなされ、 その目的は日本の在米主要貿 易商社の資料から経済的情報をうるためである。 それらの貿易商社は、 日本産業が原材料と製造 機器を、 1941年の戦争勃発前に買い付けるに際しての基本的なチャネルであった。 この調査はアメリカ製機械が日本に据え付けられる重要な船積みを追跡することに注意を集中 した。 それは日本の産業と兵器の保有力に光を当てるためであった。 117件のレポートのうち8件は一般的な工業情報を扱い (中略) 109件は関係する日本産業によっ て買い付けられた製造機械に関する報告である。 この109の文書は、 2000もの関係企業によって 購入された6億ドルに上る機械の内容を報告している。 108の報告は米国内での機械の買い付け を扱い、 日本国内での買い付けを扱っているのは1件に過ぎない。 (中略) (筆者註:米国の関係 官庁名の羅列は略す。) このプロジェクトは一年半続き、 30人のファイル調査官と助手がピーク時に働いた。 そして 4500頁に及ぶ報告書が作成された。 日本資料研究プロジェクトによって発表されたレポートの大 部分は日本の戦争遂行能力についての証拠または指標を示している。 これらのレポートにリスト アップされた機械の総体から、 会社の生産品の性質や、 グレード、 キャパシティを見積もること ができる。 このレポートは会社が平時用と戦時用の生産の切り換え、 日本の産業能力の確立と拡 大、 工業立地の地理的集約などについて光を照らしている。 (中略) この報告は購入商品の明細、 生産社名、 商品価格を示している。 さらに日本の各工場の位置、 製品、 従業員数やさまざまな工 業会社の資本構成について触れている。 日本の貿易商社のファイルの調査は、 主要な日本の産業会社が米国以外の国からも、 また日本 内地においても、 工作機械及び諸機械類の購入を貿易商社を通じて行ったことを明らかにした。 日本語で書かれた100以上の商業文は、 日本と満州における三井物産と三菱商事の活動を述べて. ( 12 ).
(61) いる。 これら文書は英訳され特別レポート (362) のデータとなった。 すなわち1936年から 1941年まで日本企業による機械類及び工作機械の、 米国以外の国及び日本国内での購入記録を示 すものである。 (下線は筆者による。) b) (商工会社録) 関連する日本産業の商工会社録 以下の日本商工会社録は日本ファイル調査作業による107のレポートから抽出され、 1937年か ら1941年までに米国において、 これらの企業が購入した機械類の情報を提供している。 会社録は 会社の産業別業態、 所在地、 製造品、 生産規模、 機械発注の要約、 さらに資本関係を示している。 (中略) 登録は日本名によるアルフアベット順で並べられ、 その後に英文の呼称も付してある。 (中略) これらレポートの完全なリストはニューヨーク及びワシントンのメンバーによって付表 に記 述されている。 (筆者はこの会社商工録から任意に取り出した数個の会社の例を紹介したい。 ただし以下に述 べてある会社の所在地の表記は調査しきれずに当て字としたのもあると思う。 市町村の合併・消 滅などにより現在の住所表記とも相当に違うと思われる。 2010年1月記。). 番号41 :古河電気工業 産業:電機品、 アルミ製品 場所:日光工場;栃木県上都賀郡日光町清滝500. など列挙している. 機器:特定の出荷先指定なしにアメリカに注文 商社は、 三井、 三菱、 及び大倉 プレス2台、 ミリングマシン1台、 モーター1台、 ケラーマシン1台、 鉄ロール4、 グリッド・キャスティング・マシン2台 機器:出荷先指定なく日本国内及びドイツに注文 ハイ・コールドミル3台、 ローラーとロール、 プレス4台 コールドローリングミル、
(62) ガス製造器、 フォージングマシン 子会社:( ) 日本金属工業 A) 門司工場 産業:メタルアロイ 場所:福岡県門司市大里町4392 製品: B) 日光工場 産業:アルミ、 銅、 航空機電気部品 場所:栃木県. 上都賀郡. 日光町. 機器:米国より出荷、 三井物産経由. 4ハイ. ミル. (以下買い付け機器を細かく列挙してあるが省略). ( 13 ). 2台などなど.
(63) 番号43 :播磨造船所株式会社 場所:神戸造船所 産業:1937年1月計画ないし実施中の97 600トンの船舶建造 従業員:1936年1月現在. 2 982人. 機器:大倉商事を通じて米国に発注:多量の高速ドリル及び . ハイスピードドリル 番号67 :海軍 A) 海軍軍需部. (省略). B) 海軍艦政本部 産業:武器 場所:東京 機器:米国より買い付け、 三菱、 三井、 安宅、 大倉を通して契約。 航空機用マイクロホン. 4. ランプ. 240個など. C) 海軍 神戸 産業:武器 場所:神戸 機器:三菱、 三井、 安宅、 大倉を通じて 旋盤 5 ミリングマシン 3 グライダー. 11. ギャーマシン. ドリリングマシン 14. D) 海軍航空技術廠. 5. など. 横須賀. 三井、 安宅、 大倉を通してミリングマシン他の買い付け E) 海軍航空本部 F) 海軍航空廠. (省略) 横須賀. 産業:武器・航空機 場所:横須賀 機器:米国よりの出荷は、 旋盤33、 ミリングマシン59 グライダー. 45. G−J) 各地の海軍工廠. ギヤーマシン. 9. ドリリングマシン5など. 広、 呉、 佐世保、 横須賀. K) 海軍燃料廠 徳山 L). 同. 四日市. (筆者註: と
(64) は判読不能。 なおこの分類は報告書番号NY301の分類と必ずしも一致 していない。). 番号:76. 川崎航空機工業 産業:航空機. ( 14 ).
(65) ランキング:日本における3大航空機の一貫生産工場のひとつ 場所:神戸工場 林田区和田山通り 明治通り. 1丁目6の2. 2丁目6. 各務原工場 岐阜県稲葉郡蘇原村 和坂工場 (筆者註:原文 :ただし の説もあり。 現在の 明石工場) 兵庫県明石郡林崎村和坂 製品: エンジン、 ロッキード14 3航空機、
(66) エンジン500. 600 、. 12シリンダー、 タイプ水冷 製品数:1942年. 1050機の飛行機、 2000個のエンジン. 機器:三井、 三菱、 大倉、 安宅を通じ米国より80ドリリング&ボーリングマシン、 10 旋盤、 32ミリングマシン、 20 ラッピングマシン、 1 スクリュウマシン、 10 ハイドロラップ、 1 ハイドロパワーユニット、 2 ジェネレーター、 1 ユニバーサルデイックシンカーなど 番号:194. 大倉鉱業 (
(67) ) 青本44頁 米国より芝浦エンジニアに上記2ホットロールドスチールフランジを船積。 他に報告書番号204、 38頁がある。. (筆者註:大倉鉱業は炭鉱業の会社であったが、 大倉の同族会社であり、 戦争末期大倉合名会社 ((持ち株会社)) が解散した時に持ち株会社機能を引き継いだ。 戦後は財閥指定後 「中央建物」 と名前を変えて不動産会社となり、 現在も大倉組の発祥の土地、 銀座二丁目の大倉ビルに居を構 え、 不動産業を堅実に営み、 大倉喜八郎の曾孫大倉喜彦氏が社長で采配を振るっている。). 番号:18. 中央工業株式会社 (昭和製作所として知られている) 青本頁5 産業:航空機、 武器 所在:東京. 大森区堤端町232. 東京. 王子区稲月西町5−1. 東京北多摩郡国分寺村本田新田 埼玉県北足立郡新倉村. 試射トンネル. 松籠4500. (筆者註:新倉村は昭和18年白子村と合併し大和町が成立した際消滅した。 現 在和光市の一部) 製品:航空機及び武器部品、 機関銃、 航空機用ジェネレーター・モーター 親会社. 大倉商事. 購入:1937. 1941年. ミリングマシン. 20台、 グラインダー16台、 旋盤1台、 ジェネレーター. 2台. (筆者註:この会社については以上の他に、 詳しい報告書番号 246が存在 ( 15 ).
(68) するので三輪教授にお願いして国立国会図書館憲政資料室所蔵の米国戦略爆 撃調査団のマイクロフィルムから取り出していただいた。 9頁の目録表には 記載されていないものだが、 以下に掲載する。) 報告書番号 246 中央工業株式会社による米国製工作機械の購入報告書 1943年12月16日 Ⅰ) 序言 中央工業、 またの名を昭和製作所として知られるが、 1928年に資本金100万円を以て大倉 商事によって設立された。 主たる製品は航空機部品、 兵器、 機関銃、 航空機用ゼネラルモー ターである。 主として海軍、 陸軍、 陸軍航空学校向けであった。 (筆者註:昭和11年=1936年9月の大倉商事役員会記録に、 昭和製作所、 南部銃製造所、 大 成工業の合併承認の記録がある。 三社の合併により生まれた会社が中央工業である。) 1937年に生産量を飛躍的に増大しその資本金を1000万円に増加し数箇所の新工場を増設した。 工場は以下の場所にある。 1) 東京. 大森区. 堤端町232. 2) 東京. 王子区. 稲月西町5丁目. 3) 東京. 北多摩郡. 国分寺村本田新田. 4) 埼玉県北足立郡新倉村松籠4500 1937年1月1日から1941年初頭にいたるまで、 中央工業は米国から僅かの工作機械を買 い付けるのみであったが、 全て大倉商事によって取り扱われた。 (三井物産取り扱いの もの若干あり) この期間にはドイツと英国に照会が出され、 多量の工作機械が両国から輸入されたと思 われる。 このことはアメリカからの買い付けが少なかったことの説明になる。 この報告書は27 . 、
(69)
(70) にある外国人財産管理所に保管されてい る日本の一流貿易商社のファイルの中から見つけられたものである。. Ⅱ) ソース (原資料) 航空年鑑. ( .
(71) . 1937年、 1938年、 1939年版). 帝国銀行会社要録. 1940年11月版 (筆者註:原文:
(72) . . ! " ! . . #. 1940、 青本二巻345頁にも . この本の名前あり). Ⅲ) 機械類の明細 1937年から1941年にかけて中央工業が買い付けた機械の種類、 数量は以下の通りである。 (筆 者註:機械の仕様は略す) ミリングマシン (シンシナテイー、 カーニートレッカーなどから買い付け) 20台. ( 16 ).
(73) グラインダー (トンプソン、 シンシナテイーなどから買い付け) 16台 旋盤. (フラット&シトニーから買い付け). 1台. ジエネレーター (エレクトリック・エキプメント社から買い付け). 2台. (筆者註:全部が船積されたわけではない。 大倉商事経由発注した注文の総表には船積 分とキャンセル分が区分してある。) Ⅳ) 船積みされた注文:75 202ドル (明細省略) Ⅴ) キャンセルされた注文:19 954ドル (明細省略) Ⅵ) 大倉商事見積依頼分 シンシナテイー・ミリングマシンなど51台 (明細省略) Ⅶ) ベルリンに照会 1) ハーバート・リンダー、 ベルリンに対するボーリングマシンの照会 (1939年8月22日付ベルリンから東京への手紙による) (詳細省略) 2) .
(74) ベルリンに対して8件の照会 ライフル用ブローチングマシン. 穴を仕上げるための工具など. ( .
(75) . .
(76) ) (1939年5月29日付ベルリンから東京への手紙による) 3) 1937年9月17日付けベルリンより東京への手紙によれば 「 . . 」 の 成約あり。 メーカーは . Ⅷ) 三井オーダー. ミリングマシンなど. $ 38 304−. Ⅸ) 三井照会. ハイドローリックプレスなど12件. $169 910−. 筆者註: 中央工業についての解説: 中央工業株式会社は大倉商事の完全子会社であり、 戦前は兵器の製造を専門としていた。 大森 に主工場を持ち新倉 (現在の和光市近辺) や国分寺などに広大な土地を持っていた。 戦後国分寺 の土地は、 大倉喜八郎の創立した大倉高等商業学校が建っていた赤坂葵町の土地と交換され学校 の所有地となった。 したがって大倉高商当時の名称大倉経済専門学校は、 赤坂から国分寺に移転 し現在の東京経済大学となっている。 昭和15年3月に中央工業の代表取締役となった大倉商事取締役の皆川多三郎が就任挨拶を兼ね て大倉商事ニューヨーク支店長目賀田重芳にあてた手紙がある。 候文で読み憎いので現代語で要 約する。 (広島専修大学落合教授の発掘資料) 「中央工業の組織は;①大森工場 類、. ②南部工場. 爆撃兵器、 砲碩兵器、 航空兵器、 各種電機兵器、 通信器. 機銃、 拳銃、 擲弾筒、 教練銃、 航空機関銃、 ③王子工場. 銃砲部品、 同上用検査具、 工具④新倉工場. 信管部品、. 戦車用機銃、 航空機関銃製造といった配置であり、. 今後の経営について苦慮するが、 他の軍需工場のように極端に多量生産の設備を避けて、 斬新有 効な新兵器の研究製作に重点を置きたい。 したがって米国において発明された新兵器の図面、 写 真、 文献などをことごとく自分宛に送ってほしい。 4つの工場のどこかで試作させて軍に働きか けたい。」 この努力がどのように実ったのかは資料がなく、 跡付けられない。. ( 17 ).
(77) 敗戦後は新中央工業となったが、 生産物の変換に成功せず結局会社倒産に追い込まれ、 全ての 財産を失って整理会社となり消滅した。 筆者は昭和26 (1951) 年入社して2年ほどたったとき、 会計課勤務となり、 新中央工業と取引する大倉商事内国課の会計係りとなったので売掛金の回収 や、 資金援助の一端に苦労したことを覚えている。 まだ新米のぺいぺいであったので大きなこと は分からなかったが、 あちらこちらの土地を売ってしまい、 最後には破産消滅した。 石炭事件に も劣らぬ経営問題であった。 ついでに書いておくと、 同じ内国課の取引先に東京通信工業という会社があり代金を支払わな い、 支払がものすごく遅延するという厄介な会社であった。 こんな会社との取り引きなどやめて しまえ!と担当者にクレームしたことがある。 苦節数十年、 その会社が 「ソニー」 という名前で 世界的企業となるとは思いもしなかった。. イ: 報告書番号NY286. 青本67頁. 日本ファイル調査事業によって提出されたレポートについて. 以下に列挙されているレポートは、 米国に駐在する主要な日本の貿易商社のファイルの調査に よって生まれてきたものである。 その貿易商社とは、 三菱商事、 三井物産、 大倉商事、 安宅産業 であり、 すべてニューヨークにある。 (後略) (筆者註:この章にはレポート番号186を始めとして、 92件の報告書が列挙されている。 全てN Y369の付表と重複しているが、 付表には更に25件の報告書が追加され、 全部で117件の報告書と なっている。 いずれも報告書番号、 納入先、 報告書の頁数、 報告書の作成者、 日付の記載がある。 一例をあげれば、 「報告書番号269、 中島飛行機、 120頁、 P Fメイヤー、 2/20/44」 の如く である。). ウ: 報告書番号NY362. 青本71頁. 三井と三菱の機械部を通じて行われた1936年から1941年にかけての日本の産業と貿易商 社の活動 (筆者註:この報告書 362は第一巻の71頁から534頁までを占めている。 三井物産及び三菱商 事機械部を通じて1936年から1941年、 いわば太平洋戦争準備期に、 米国以外で買い付けた機械類 の報告であり、 買い付けた企業の解説である。 青本第一巻の実に3分の2を占めている。 519頁 から534頁までには取り上げた1 238社のリストがある。 筆者が関心を持った部分だけ邦訳する。). 第一部 Ⅰ 序言 A) 一般 B) 商取引状況についてのコメント C) 表の説明. ( 18 ).
(78) A). 一般. 日本の産業が、 戦争の準備と遂行のために取得した機械と部品は、 エージェント即ち有能な世 界的に根を張った日本の貿易商社を通じて買い付けたものである。 そのうち最大の、 そして最も 重要な二つの会社は三井物産会社と三菱商事会社である。 この二つの貿易商社の日本国内、 国外の様々なオフィスの機械部を通じて、 日本の産業界は工 作機械、 一般機械類、 エンジニアリングと工業設備の大部分を、 1936年から1941年を通じて確保 していた。 ニューヨークの三井と三菱の機械部の商取引行動は、 日本ファイル研究プロジェクトのレポー トの中で突出している。 (しかし) それらのレポートは米国における日本の産業の購買行動に限 られていた。 資料調査の仕事が進むにつれ、 三井と三菱のニューヨーク・オフィスのファイルの中に沢山の ビジネス・ステートメントとレターがあることが分かった。 日本語で書かれたこれらの書類は翻 訳された。 (そして) これらのステーとメントは、 三井と三菱のニューヨーク以外のさまざまな オフィスの機械部によって1936年から1941年の間に作成されたことが分かった。 (中略) 日本及び満州の両社のオフィスで作られたステートメントは、 1000以上の日本の企業、 政府機 関、 個人と法人との商取引を示している。 取引の明細は取引先の名前 (買った人または売った人)、 購入または販売された品目、 さらにそれらの生産者を含んでいる。 そこで三井と三菱は第三者の ために売る、 もしくは第三者のために買うと言う 「エージェント」 であったということが納得で きる ( .
(79) . )。 (中略). ビジネス・ステートメントの集大成及びこのプロジェクトのレポートは、 日本の戦争遂行能力 の証拠または指標となる。 ここにある様々なレポートにリストアップされた機器の全てから、 ま たリストアップされた会社から購入され、 またはその会社によって販売された機器のリストから、 なにを生産したか、 生産に使用された器具は何か、 またある場合には生産率を推し量ることが出 来る。 (中略). B) 商取引条件についてのコメント 筆者註:この項では三井物産の6ヶ月毎の決算報告書に付されていたビジネス・ステートメン トが英訳されて細かく書かれている。 その主要部門のみを邦訳して書き出すことにする。 全体の 流れがよくわかる。. ○. 1936年4月1日から9月30日まで (1937年会計年度上半期) 2月26日の軍の反乱による金融への影響は終息した。 利下げにより沢山の新しい仕事がスター トし、 政治における突発事件からビジネスへの影響は次第に回復しつつある。 一般機械取引は大幅に減少したが、 一方国内航空機生産の増大、 自動車及び重工業の拡大に より工作機械取引は活発である。. ○. 1936年10月1日から1937年3月31日まで (1937年会計年度下半期) 国防充実の政府計画により、 軍需産業は活況を呈した。. ( 19 ).
(80) 電力および重工業は増税および産業規制にかかわらず拡張されまた新設された。 (中略) この期間に輸入外貨規制が強化されたにもかかわらず、 買い手は原材料の値上がりと製造業 者の受注一杯のため、 輸入品に目を向けている。 1933年の外国為替規制法が1937年から強化されたのに伴い、 輸入には全品目ライセンスが必 要となった。 (中略) 陸軍航空本部が1937年4月1日に発表したところによると、 政府と契約する際、 製造業者の エージェントとして商業的にかかわることは認められなくなった。 これは大変な損失であり我々 は多くの製造業者、 例えば中島飛行機、 東京計器、 湯浅蓄電器、 萱場製作所を失うことになっ た。 (中略) 自動車、 航空機、 軍需品、 電機産業の新設または拡張によって工作機械取引は活発である。 我々にとっては一流の工作機械を輸入しうる黄金時代であり、 遅滞なく米国にスタッフを送り 込み全ての需要を満たす買い付けを行い、 満足をうることに成功した。 ○. 1937年4月1日から9月30日まで (1938年会計年度上半期) 政府の方針によって軍需産業は拡大して、 産業界は全国的に活況を呈している。 今期の半ばより外貨規制はますます強まり、 国防に必要なもの以外に対する輸入許可証の取 得は困難となっている。. ○. 1937年10月1日から1938年3月31日まで (1938年会計年度下半期) 長引く戦争によって政府は、 外貨交換と様々な原材料の割り当てを強めている。 したがって 輸入外貨を確保するのが困難になっている。 原材料の不足、 価格の高騰、 納品の遅れなどによっ て、 国内生産品の確保も難しくなってきた。 (中略) 満州国においては外貨規制が1937年10月8日から実施された。 陸軍向け、 また一般向けの完成された外国製の航空機とその付属品の注文は今期急激に増加 した。 種々の重工業の発展に伴い電力の需要が増加した。 したがって石炭および水力発電所の建設 の計画が多くなり発電用スチームエンジンなどの数多くの取引が成立した。 東洋バブコックと緊密な関係を築くことができ、 単独エージェントの契約を結んだ。 電気モーター、 トランスフォーマーの大きな需要があるが芝浦と藤倉は軍需に追われ、 鉄や 銅の不足によって需要に応じきれない。. ○. 1938年4月1日から1938年9月30日まで (1939年会計年度前半期) 全ての日本の製造業者は機械製造のための資材の確保に苦しんでおり、 またキャパシテイを 超えた注文のために、 タイムリーに必要な商品を獲得できないトラブルに会っている。 商業協 定によってドイツおよびイタリア産の商品輸入にバーターシステムを採用した。 (中略) 我々は鉄道車両の注文を取ろうとしたが、 製造会社が多忙のため困難であった。 割当制のた め苦労したが、 あるアメリカ製品を確保して満州鉄道を助けた。 過去4年航空機取引は新しいレコードを達成した。 日本飛行機、 満州飛行機は部品の膨大な 需要があったが、 主たるサプライヤーの中島飛行機は軍需に応ずるため民間需要には手が回ら. ( 20 ).
(81) なかった。 ○. 1938年10月1日から1939年3月31日まで (1939年会計年度後半) 政府の増産計画と満州国の新5カ年計画は順調に推移している。 (中略) 戦時経済規制すなわち資本制限 ( . .
(82) )、 原材料割当、 為替規制が次第にきつ くなり国内企業、 輸入業者は困難な時期を迎えている。 (中略) 圧延機とプレス工業は鉄と軽金属の生産の増加計画により活発である。 (中略) 工作機械の大部分は海外から輸入されている。 厳格な為替規制にかかわらず売り上げは増大 している。 軍需品の大きな需要のため鉄製品の価格は非常に高騰している。 航空機製造の生産拡大は陸 軍と民間企業の協同によって順調に推移している。 11月からのアメリカの軍需品輸出禁止によ り、 (筆者:モラルエンバーゴのこと) 日本向け飛行機の完成した機体、 モーター、 プロペラ の輸出が止まってしまった。. ○. 1939年4月1日から1939年9月30日まで (1940年会計年度前半) 今期の半ばに日米間の通商条約は破棄された。 ヨーロッパにおける戦争によってドイツから の購入は難しくなった。 そこで米国会社への切り換えが必要だが通商協定の破棄の影響を心配 している。 今期の売り上げは2億5500万円と新記録となった。 航空機材料と完成品については大量の契 約を得た。 すなわちアメリカ製の飛行機の機体材料を昭和飛行機に、 そしてエンジンと機体と を中島飛行機に納入した。 外国製工作機械に対する国内の需要は非常に増大している。 しかしながら7月の日米通商協 定の破棄により、 また9月の戦争勃発が商取引に大きな影響をあたえている。 米国に注文が殺 到するが、 納期は長く、 製造業者は値段を上げ、 前払い金を要求し、 ある場合には契約のキャ ンセルに対して違約金を要求する。 我々はドイツ製品より米国製品の買い付けに集中していた のは幸運だった。. ○. 1939年10月1日から1940年3月31日まで (1940年会計年度後半) 前期末のヨーロッパにおけるドイツ、 フランス・英国間の戦争の勃発によって全ての重工業 は戦時体制におかれた。 過剰な注文を抱えた日本の製造業者は価格、 取引規制に悩み、 電力、 労働力、 原材料の不足 に悩んでいる。 戦時産業に絶対に必要な各種の工作機械の取り扱いは非常に増加した。 わが社はアメリカ製 品を第一に取り扱うという方針を持っていたので、 注文が殺到している。 ヨーロッパの政府は買い付けミッションをアメリカに送り商品を高値でも買い付けようとし ている。 そのことはアメリカマーケットをかく乱している。 そのような中で、 わが社は長期に わたる製造業者との良好な付き合いのおかげで製品を確保し得ている。 加えて日本海軍の買い 付けミッションのアメリカ派遣に我々のスタッフを随行させた。 (筆者註:昭和14年の10月から15年の春ごろでも、 日本の帝国海軍がアメリカに機械資材買 い付け使節団を送ることができる情勢だった。). ( 21 ).
(83) ○. 1940年4月1日から1940年9月30日まで. (1941年会計年度前半). (ヨーロッパの) 戦争はドイツに有利に進んでいるが中立国の港から出荷するドイツ製品は オランダの占領とイタリアの参戦により完全にストップした。 シベリア経由も、 ルートの未完 成、 バルキーカーゴーを運ぶ運送トラックの不足で不可能である。 英国品の出荷も、 ドイツ軍 爆撃による生産阻害、 潜水艦の攻撃、 微妙な日英関係のため非常に難しい。 したがって機械の輸入はアメリカ一国に頼らざるを得ない。 しかしアメリカは工作機械、 製 鉄機械、 部品の輸出を禁止した。 既契約の商品の入手も、 政府の介入により、 購買に対する干 渉、 信用状の開設に対する制限、 その他日本への輸出を差し止める様々な制限により困難となっ た。 芝浦とアメリカのユナイテッド・エンジニアリングによって組成された芝浦共同工業は、 国 内のローラー生産を開始した。 しかし我々は日米関係の悪化によって、 エンジニアたちがアメ リカに呼び戻されることを心配している。 工作機械の購入は、 ヨーロッパにおける戦争の勃発によりドイツからアメリカに移された。 我々は工作機械はアメリカから買うという会社の (従来からの) ポリシーによって極めて多忙 である。 しかしアメリカ政府が軍備拡張のため工作機械の買い付けに優先権を持っており、 そ のため注文停止や、 既存契約の出荷や船積みにトラブルを生じている。 前期の終わりに三井工作機械会社設立のため、 東京オフィスの工作機械のチーフをアメリカ に送り、 アメリカ・ノートン社と契約を締結し必要な機械を購入させた。 飛行機のスピード能力を極秘に保つため、 陸軍は航空機の購入について一切の仲介を排除す るようになった。. 筆者註:この1940《昭和15》年9月の報告で、 ビジネス・レポートは終わっている。 九州大学記録資料館の. 石炭研究資料叢書. (28号、 2007年3月) に、 三菱商事ニユーヨーク. 支店事業報告書第47期 (昭和15年10月から昭和16年3月まで) が収録されているので、 その後の 日米貿易を一覧しておこう。 「第一: 一般経済事情 北欧諸国ヲ併呑シ仏国ヲ屈伏セシメタル独逸ハ、 バルカン、 北アフリカ戦線ニ於テ苦戦ヲ続ケ居 リタル友邦伊太利ヲ助ケ、 同戦線ニ進出シテ一挙ニ其ノ頽勢ヲ挽回スルヤ、 英国ハ遂ニ今次大戦 ノ勝敗ハイツニ米国ノ援助如何ニアリト悲鳴ヲ挙グルニ至レリ。 米国ハ之ニ応ジテ、 対英貸与法ノ具体化、 自国々防強化計画実現ニ拍車ヲ掛ケタルタメ、 国内産 業界ハ軍需品工業ヲ筆頭ニ目覚シク進展セリ。 其ノ実績ヲ観ルニ今期ニ入リ国防関係産業ニ対ス ル政府支出ハ十月二億八千四百万弗、 十一月三億六千五百万弗、 十二月四億七千万弗ト累進的増 加ヲ示シ、 本年ニ入リテハ一ヶ月平均支出七億五千万弗、 咋年六月以降ノ政府契約高百二十五億 弗ニ達セリト云フ。 国防ニ関係ナキ産業モ之ニ付随シテ活況ヲ呈シ、 就働数ニ於テハ五十万以上 ノ増加ヲ示シ居リ。 二月中ノ全産業生産高ハ前年同期ニ比シ二割五分、 就働数ハ農業関係ヲ除キ 実ニ二百五十万人ノ激増ヲ示セリ。 (中略). ( 22 ).
(84) 然ルニ、 当支店取引ハ以下取引実績ノ項ニ於テ詳記スルガ如ク、 米国対日輸出品中、 目ボシキモ ノハ殆ンド例外ナク禁輸若シクハ許可制ノ憂目ニ遭ヒタル為、 手モ足モ出ヌ状態ニ追込マレ、 日 本ヨリノ輸入品モ対日悪感情激化等ニ禍セラレテ成績香バシカラズ。 当店トシテハ未曾有ノ難局 ニ直面スルニ至レリ。 尚国際情勢ハ益々悪化ノ一路ヲ辿リ当店ノ前途ハ一難去ラザルニ百難ヲ予 想セラルルガ如キ逆境ニ在リ。 此間ニ処シ周到ナル注意ヲ以テ処置ヲ誤ラズ最善を尽シテ吾社ノ 利益擁護ニ努力セシ事ヲ期シ居ル次第ナリ。」. (筆者:日米戦争勃発の直前、 敵国となる国にて、 頻発する商談の破棄への対応、 既契約の船 済みへの努力、 周囲の米国人などの冷たい目、 迫り来る生活の恐怖、 帰国への望み薄く肉体的に も精神的にも極限状態にあったと思われる。 その中にあって会社を思う商社マンのこの悲壮な文 書には頭が下がる。). さて報告書番号NY362の2, 3の例を挙げてみよう。 1) 9. 秋田木材株式会社 取引会社. 購入先. 日付. 物産大阪. 8/37. 数量. 製品. 金額. A. 販売 三池製作所. 30. ボルトウオシャー. ¥30. 2) 12. 尼崎製鉄 A 購買 三菱重工業. 商事大阪. 10/38. 4. ターボベンチレーション. ¥330 728. (筆者註:取引会社とは売った、 または買った相手先の会社名。 1) の例は物産大阪を仲介者 として秋田木材からウオッシャーを三池炭鉱に納入した。 金額は30円。 2) の例は三菱商事大阪 を仲介者として三菱重工からベンチレーションを買って尼崎製鉄に納入した取引で金額は 330 728円であると理解される。 この章の報告書によって紹介された1238社のうち大倉商事関係 のもののみ紹介する。). 番号. 764. 大倉土木 (註:現在の大成建設) 青本362頁から363頁. 三井物産東京経由加藤製作所より購入 KSTタイプ. 5トン. ギヤーシステム・ガスロコモテイブ. ¥34 500. 番号 765 大倉商事 三菱商事奉天経由. 日本電池より購入. ネガテイブプレート 三菱商事奉天経由. など. ¥64 247. オットー、 ドクター、 Cアンドカンパニーより購入. オットー・コーク・オーブンプラント 三菱商事奉天経由. ¥4 719 428. ポーリッヒ・アーゲーより購入. ( 23 ).
(85) 石炭処理装置. ¥1 345 925. (筆者註:このような取引内容の記述が綿綿と続いている。). C) 表の説明 (前略) 顧客は1 238社あり、 その名前は二つの貿易商社 (三井と三菱) のニューヨーク・オフィ スに在ったファイルから集められた。 (後略). Ⅱ. 三井・三菱機械部の日本顧客との取引表. (筆者註:取引した会社名、 購入先または販売先、 日付、 数量、 製品、 価格を記載している。 こ の章は日本を中心とした国内取引の詳細を列挙しているので、 価格は円の表示である。 アメリカ との取引ではない。) 第二部. 企業番号492から877まで. 青本240頁から382頁. 省略. 第三部. 企業番号878から1 238まで. 青本383頁から516頁 省略. (第一巻終わり). 第三章. 調査文書第二巻の目次と内容 米国司法省戦時経済局対日調査資料集 (青本第二巻) 内. 容. 何が書いてあるか 「 」 内は青本第二巻の目次. 青本頁番号. 本体頁番号. . 360 2−61 ア: 報告書番号NY360
(86) 「1935年から41年における日本企 1935 1941 588 業588社による米国からの工業製 品購入に関するレポート」 . 231944. ! 阿部鉄工所を1番とし588番に湯 浅電池をあげている。 "
(87) 順に企 業名を列挙。 各社の所在地、 購入 品目、 買い付けた貿易商社名、 生 産企業を記載している。 以前のレポートに乗せなかった少 量の購入、 1937年以前に購入した ものなど追加。 ファイルで見つかった付随的イン フォメーシヨンもあり。. 1−123. 63 . 351 イ: 報告書番号NY351
(88) # $ 「米国安全保障の脅威としての日 % & '
(89) 本商社の米国国内における石油事 ' 業に関する極秘メモ」 31 1944 ! . 66 $ ( 12 パート1 1940年9月12日石油関連情報の輸 1940 出禁止後. −. ( 24 ). 1.
(90) . .
(91) . 12 パート2 .
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