( ) 内対米比率 アメリカ
隻数 トン数 隻数 トン数
真珠湾攻撃直前 237 1001000
(696%)
345 1439000
真珠湾攻撃直後 236 1000000
(761%)
341 1313000 1942年5月
ミッドウェイ海戦前
235 1100000 (748%)
368 1471000 1942年6月7日
ミッドウエイ海戦後
230 1004000 (693%)
366 1449000 1942年7月末ガダルカナル戦前 232 1030000
(646%)
393 1595000 1943年2月8日
ガダルカナル撤退時
212 1007000 (556%)
457 1810000
1944年1月末 208 996000
(350%)
661 2850000 1944年5月末
マリアナ沖海戦前
186 982000 (308%)
734 3183000 1944年6月21日
マリアナ海戦後
182 902000 (283%)
734 3183000 1944年9月
フィリッピン戦前
165 879000 (250%)
791 3522000 空母:太平洋戦争中日本海軍が投入した空母総数は27隻 (改装空母を含む)
アメリカ合衆国は110隻 (護衛空母を含む)
「ニューヨークで迎えた十二月八日
たしか昭和十四年十月だったと思うが、 私は三菱商事のニューヨーク支店長として、 アメリカ ヘ渡った。 (中略)
開戦か否かは七分三分
戦争になるか、 ならぬかということは、 比率からいけば、 私は七分ぐらい戦争になるかなと思 い、 三分ぐらいは戦争しないですむかなと思い、 あるいは六分四分かという程度で、 やはり戦争 になるぞという感じが強かった。
それはなぜかというと、 戦争前にわれわれは軍需品をどんどん買つていた。 つまり飛行機用の ガソリンだとか、 あるいはスクラップなどをどんどん買つておった。 三菱だけでも、 毎日たくさ んの船を満載で出すという状態だったが、 三井またしかり、 大倉しかりで、 あの当時の商売は面 白いというくらい、 どしどし買っていたのが、 アメリカ側では経済的にだんだん圧力をかけてき た。
たとえば、 そういうふうな軍需品の輸出を一挙に禁止すれば喧嘩になるため、 その前提として 輸出許可制度にした。 つまり、
このスクラップは、 売買契約が成立しているから船に積ましてくれ
と、 許可申請をする。 ところが、 これを許可しない。 要するに許可制度というのは、 実際的には 許可しない不許可制度になっていた。 そういうふうに民間貿易もどんどん締めつけてきた。 そう して忘れもしない、 昭和十六年の七月二十六日だったと思うが、 ついに資産凍結をやり、 三井・
三菱も相当な金額を押さえられた。
この資産凍結にあって、 これはとても大変だと思った。
周知のように十二月八日 (現地は七日) は開戦の日だが、 われわれがいよいよ戦争避けがたし ということを感じたのは、 七月二十六日の資産凍結であり、 それ以後は仕事もできないし、 ニッ チもサッチもいかなくなった。
それまではものはどんどん買うし、 金も払ったが、 資産凍結令が出ると同時に、 われわれの会 社へコントローラーという形で、 二十数人の人を連れてやってきて、 帳簿類を全部調べ、 金は全 部押さえ、 わずかな額だけ給与するだけで、 非常に不自由を感じた。
こうして四囲の情勢より判断して、 もうこれはいかんと思った。
間一髪で開戦の報
(前略) 東京 (本社) ではいよいよ戦争になると思ってか、
他社に考慮することなく、 世間をはばかる必要はないから、 すぐ帰ってこい
といってきた。 その点は、 本社の社長、 重役に感謝しなければならない。 しかし私は、 東京から しきりに 「帰れ、 帰れ」 といってきても、 とうとう頑張りとおすつもりでいたが、 いよいよ情勢 が悪化してきたため、 三井にも 帰ろうじゃないか。と相談して、 たしか七日日曜日、 私は自 宅に副部長とか、 その他の幹部を呼び、 帰国の支度をしようじゃないかということで、 荷造りを していたときに、 開戦の報を聞いた。 (中略)
当時、 私は郊外の大きな家をひきあげて、 市内のアパートに住んでいた。 一人の副部長が、 な にげなしにラジオのスイッチを入れたところ パールハーバーなになにと放送している。 副部
長はビックリして、
支店長、 戦争やってますよ という。 私は
いや、 そんな馬鹿な、 戦争なんかやらんだろう、 なにか君の聞き間違いだろう といったが、
いや、 本当ですよ。 ハワイを攻撃したらしい という。 なるほど下へ降りてみると、 ラジオが 怒気満々の放送をやっている。
戦争になれば、 日本人は必ずつかまると思っていたから、 これはいかん、 大変だぞ、 なにかし なければいかんと思った。 金はないはずだが、 そこがアメリカのカラクリで、 われわれは十日ご ろに発つべく、 ある製造会社へ行って相当に大きな金額を借りうけていた。 この点、 いま考える とアメリカ人にも、 なかなかいいところがあった。
ということで、 その金を借りて秘密書類と一緒に会社の金庫に入れておいた。 それを取ってき た途端に、 支店を封鎖された。
ホールド・アップで連行される
その日 (7日) は、 夜までアメリカ側はつかまえにこない。 これはどういうわけだろうと考え ながらラジオを聞いていると、 ニューヨーク市長が、 「日本人は危ないから外へ出ちゃいかん。
みんな自分の家へ帰っていなさい。 そうしないと、 人命の保障はしませんぞ」 と、 さかんに放送 している。 それがたしか六時ごろの放送だった。 しかし今から考えると、
自分の家へ帰っていなさい と市長がいったのは、 一種のトリックであったかも知れない。
日本人を自宅に集めておいて、 いっぺんに逮捕抑留しようとの腹だったらしく、 夜の十二時ごろ にサッとやって来た。
私は、 もちろんスパイ活動をやったわけではないし全然悪いことはしてないが、 やはり各会社 の支店長、 ことに三井・三菱という大物を見ておったのだろう、 十二時というのが一番最初で、
日本でいう刑事がすぐ乗り込んできた。
ダッダッと大きな男が二階へ上がってきて、 「手を上げろ」 と、 私がピストルかなにか持って いると思ったのか、 身体検査をやり、 お前をこれからすぐつれて行く という。
私は ちょっと待ってくれ、 一体何日ぐらいおるようになるか と聞いた。 二、 三日ぐらいだ ろうと思うけれども、 それはわからん」 ということで、 結局つれて行かれた。
判決は デンジャラス・ピープル
そうして、 日本でいう裁判所のようなところにつれて行かれて、 すぐ尋問をやられた。 前後の 写真をとったり、 胸に番号札をっけさせたり、 その他いろんなことをやって、 イミグレーシヨン・
オフィスといって、 いわゆるパスポート等を持たないものを人れる一種の牢獄へ入れられたが、
そのとき一緒につかまったのが百四、 五十人ぐらいいた。
ここにしばらくいる間に、 ヒヤリング (調書をとること) をやったが、 そのとき、
君は森島 (当時の総領事) さんとゴルフやつただけか、 ゴルフだけではなかろう、 何か打ち合 わせしたのか 野村大使のところによく行っていたが、 なにしていたか ということをきかれ た。 そういうことからみると、 私は以前からつけねらわれていたことになる。 また、 軍需品を、
どんどん日本へ入れておったじゃないか
それが何で悪い。 平和のときに商売するのはあたり前じゃないか と、 やりあったものだっ
た。 緒局、 判決はみなデンジャラス・ピープル (危険入物) ……。 そして二月十一日、 まず第一 番に三井・三菱、 その他大会社の支店長クラス二十一人がつれて行かれ、 キャンプ・アプトンヘ 入れられたのだった。
そこで四月までキャンプ生活をして、 また南の方へ移された。 キャンプでの抑留生活は、 割合 に好待遇だったが、 やはり精神的には苦労した。」 (昭和三十三年一月号) (下線は筆者による。)
挿話2. ロッキード輸送機輸入をめぐる訴訟。 (広島修道大学落合功教授の発掘資料)
落合教授の米国公文書館の精査によって、 大倉商事の戦争直前の資料が発掘された。 その資料 によってロッキード143型輸送機25機の成約、 輸入について、 裁判問題があったことが分か る。 その概略を記録しておくのも、 日本の貿易商社の活動の一端を示すので興味深いと思う。 原 資料は長いので要約した。
昭和13年1月7日付けで大倉商事株式会社ニューヨーク支店 ( 30、 、) から 「本社重役席宛発電」 と言う表題の便箋に手書きの文書が見つ かった。 おそらく発電文そのものではなく、 コンファメーシヨンであろう。 それによると大略次 のストーリーが浮かんでくる。 「 」 内は原文である。
この取引に関連して、 サンフランシスコ三菱商事の取引先であるクリミンスなる人物が、 この 注文が出来たのは過去自分が努力した結果であるとして、 ロッキード社に285000ドルの報酬を 要求した。 ロツキード社はこれを拒絶し、 過去にクリミンスに出したオファーを取り消し、 大倉 商事と代理店契約を結ぶことを同人が承諾している以上支払の義務はないという。 ク氏は 「米国 軍艦沈没による国際関係悪化に乗じ12月15日羅府裁判所にロッキードを訴訟した」。 大倉ニュー ヨークはまったく関係ない話であるが、 もし新聞種になって障害が起こりこの契約が履行できな くなること、 また大倉の利益などが軍に知られる事を嫌い、 困った立場に置かれたわけであった。
神田一行 (買い付けを推進した事実上の納入先の陸軍の代表者神田大佐一行) は20台の納入が不 可能になることを憂慮して大倉にロッキードと交渉して早く事を収めよという。 一方三菱商事サ ンフランシスコ支店長竹内某氏はニューヨークに来訪し原告と深き付き合いであるにもかかわら ず、 知人ではないと偽り陸軍のためになるよう動くといっている。 実は示談に持ち込み10万ドル の和解金を唱えているようである。 (下線は筆者による。)
1月5日は宣誓証言 () の日であるが陸軍と協力してこの日の延期を先方弁護士と 交渉したところ三菱、 大倉が5000ドル支払えば二週間延期に応ずるという。 このことが裁判所に 知れ、 原告の恐喝であるとして宣誓証言の日を1月26日まで延期する命令を出したような状況で ある。
大倉の作戦としては、
1. 1月26日までにクリミンスと三菱の密接な関係を立証する。
2. 軍に依頼して三菱にクリミンスを押さえさせる。
3. 裁判を20台の飛行機納入まで延期させる。
4. 仲裁にかけ、 20台が完納できるようまた、 契約内容非公表に終わるよう努力する。
したがって東京サイドにては三菱の専務取締役に話して、 三菱がクリミンスを押さえなければ、