• 検索結果がありません。

博士学位申請論文審査報告

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "博士学位申請論文審査報告"

Copied!
17
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)早稲田大学大学院政治学研究科. 博士学位申請論文審査報告. 紗華 (Choi Safa). 申請者. 崔. 論文題目. 『朝鮮人学校存廃問題の歴史過程 1945-1957 — グローバル・ヒストリーの視 点から—』. 論文書式. A4 横書。目次 5 頁。本文・脚注 296 頁。史料付録 7 頁。関連年表 4 頁。 文献リスト 30 頁。本文文字数 271,657 文字(邦文)。. 提出前発表会. 2019 年 12 月 21 日. 受理決定日. 2020 年. 審査委員. 主査. 田中 孝彦 早稲田大学政治経済学術院教授. (国際政治史). 副査. 都丸 潤子 早稲田大学政治経済学術院教授. (国際文化交流). 副査. 金. (国際関係論). 1月 7日. 敬黙. 早稲田大学文学学術院教授. 副査 (外) T essa Morris-Suzuki オーストラリア国立大学名誉教授(日本史) 副査 (外) 朴. 正鎮. 津田塾大学学芸学部教授. (国際関係史). 最終口頭試問実施日 2020 年 1 月 22 日. 於早稲田キャンパス 3 号館 809 教室.

(2) 1. 論文の構成 本論文は以下の目次が示すように、序論、第 1 章から第 7 章、そして結論としての終章の全 9 章 からなる。また、本論にあたる 7 つの章は、占領期を取り扱う第 1 部と対日講和から 1957 年まで を取り扱う第 2 部からなる 2 部構成となっている。 序. 章 第 1 節 問題の所在 第 2 節 先行研究の検討と本稿の独自性 第 3 節 本稿の目的と視座 第 4 節 本稿の主要な論点と構成 第 5 節 研究方法 第 6 節 使用した史料と概念の定義. 第 1 部 占領期日本における朝鮮人学校―閉鎖への抵抗と自律性維持への模索― 第 1 章 朝鮮人学校の設立と 1.24 朝鮮人学校閉鎖令 第 1 節 朝鮮の解放と朝鮮人学校の設立 第 2 節 日米両政府の国内管理政策の形成 第 3 節 1.24 学校閉鎖令、朝鮮人学校の私立化 第 2 章 冷戦の激化と朝鮮人学校 第 1 節 山口県下朝鮮人学校に対する管理政策 第 2 節 私立朝鮮人学校に対する国費援助 第 3 節 10.19 学校閉鎖令と国内外の反応 第 3 章 朝鮮人学校の公立化 第 1 節 山口県 第 2 節 岡山県 第 3 節 神奈川県 第 4 節 兵庫県 第 5 節 東京都 第 6 節 大阪府 小括 第 2 部 対日講和条約締結後の朝鮮人学校 ―国際政治との相互作用・北朝鮮との越境的関係の形成― 第 4 章 国際問題から日本の問題へ 第 1 節 対日講和条約の締結と南北朝鮮の 3 加問題 第 2 節 日韓予備会談と在日朝鮮人の教育問題 第 5 章 私立各種学校化への道 第 1 節 対日講和条約締結後の朝鮮人学校政策.

(3) 第 2 節 東京都立朝鮮人学校の実態 第 3 節 日朝共同闘争の展開 第 4 節 在日朝鮮人の就学義務の停止と公立朝鮮人学校廃止の見送り 第 5 節 民戦における闘争方針の見直し 第 6 節 北朝鮮政府と総連の越境的関係の形成 第 7 節 都立朝鮮人学校の廃止決定 第 8 節 私立各種学校という選択 第 6 章 北朝鮮の「平和的統一」政策と対日接近 第 1 節 武力統一から「平和的統一」へ 第 2 節 北朝鮮の「平和的統一」政策 第 3 節 対南革命戦略の転換 第 4 節 北朝鮮政府の対日接近 第 5 節 対日人民外交の展開 第 6 節 在日本朝鮮人総聯合会の結成と朝鮮人学校の再編 第 7 章 北朝鮮からの教育援助費と奨学金 第 1 節 北朝鮮政府の送金の意図 第 2 節 総連の教育費受け入れ運動と日本政府の黙認 第 3 節 日本赤十字社と送金の受け入れ 第 4 節 教育費の用途 小括 終章 第 1 節 本稿のまとめ 第 2 節 グローバル・ヒストリーとしての朝鮮人学校 第 3 節 本稿の意義と課題 付録 年表 参考文献. 2. 論文の概要 本論文は、日本の敗戦後に設立された朝鮮人学校が、現在の状況に置かれるに至った経緯を解明 することを目的として執筆された歴史的実証研究である。研究調査を通じて、日本政府はもとより、 地方自治体、韓国および北朝鮮、アメリカ政府の史料、赤十字国際委員会(以後、ICRC と略す)など の非政府組織の公文書、在日朝鮮人連盟(以後、朝連)、在日朝鮮人聯合会(以後、総連)などの在日朝 鮮人コミュニティにかかわる史料、さらには多くの個人文書といった膨大な史料が渉猟・参照され、 それらの綿密な分析に基づいたマルチ・アーカイバルな手法による労作である。 以下、章立てに沿って、本論文の概要を記す。.

(4) 【序章】 序章では、まず、本論文の問題設定とその意義が明らかにされている。 2006 年以降日本政府は、国内での多文化共生の政策方針を打ち出し、多くの外国人学校に対して および地方自治体による教育支援を進めた。しかし、朝鮮人学校はこの支援の対象外に置かれた。 筆者はこの事実に注目する。朝鮮人学校を支援対象外とする理由として、政府および自治体が掲げ たのは、大きくいってつぎの 2 つであった。第 1 に、朝鮮人学校は他の学校とことなり、学校教育 法第一条でさだめられた学校(一条校)としての要件を満たしていないこと。そして、第2に朝鮮人学 校が総連によって運営されており、その総連が北朝鮮政府と強いつながりを持っていることである。 筆者は、この事実を受けて、朝鮮人学校は、なぜ、そしてどのようにして現在の私立各種学校とし て存続することになったのかという問題設定を行う。また、その存続プロセスにおいて、どのよう に北朝鮮政府と朝鮮人学校のつながりが形成されたのかも重要な問題として設定するのである。 これは、朝鮮人学校という一つの学校の存続のみに焦点をあてた、狭小な問題設定であるかのよ うに見えよう。しかし筆者は、この問題を、より広い文脈の中で捉えるべき問題として意義づける。 すなわち、グローバル化が進み、文化的多様性に配慮することがますます重要となっているこの世 界において、植民地支配に起因する日本の「内なる多様性」を構成してきたといえる在日朝鮮人が、 その配慮の枠外に置かれているいびつな状況の淵源をさぐるという、大きな問題の一環として、朝 鮮人学校の問題を意義づけるのである。 その上で、筆者は、研究の対象時期を、朝鮮人学校が設立された 1945 年から、東京都立朝鮮人 学校が私立各種学校となった 1957 年までと設定し、この時期をその後に本格化する私立各種学校 化の初期条件を形成した時期として位置づける。 つぎに筆者は、先行研究の、分析アプローチに重点をおいて、批判的検討を行う。筆者によれば、 先行研究のほとんどが、教育史または教育制度史の分野での研究であり、つぎのような分析の限定 性という問題を抱えている。第1に、多くの先行研究は、朝鮮人学校の存廃問題にかかわる政治的 図式を「日本政府」対「在日朝鮮人運動」という、抑圧者と非抑圧者の間の「二項対立の図式」と して捉え、それ以外の側面については十分な分析がなされていない。第2に、このような二項対立 の図式から解き放たれている例外的ともいえる先行研究においては、地方自治体の役割が重視され ている。しかし、それでもアプローチの限定性は克服できているとはいえないと筆者は論じる。す なわち、朝鮮人学校の存廃問題には、より多くの内外のアクターがかかわっており、特に、韓国や 北朝鮮と日本との国際関係や、その背後にある国際政治の変容も重要な要因となっているにもかか わらず、それらの要因に十分な分析の光が当てられていない点を筆者は問題視するのである。 なお、アプローチ以外の、個別的な歴史的事実をめぐる先行研究批判は、各章において記述され ている。 先行研究の批判的検討に基づき、筆者は自らの独自性として、先行研究の分析の限定性を彫刻す べく新たなアプローチを提示する。それが、グローバル・ヒストリーのアプローチである。まず、 筆者は、朝鮮人学校の存廃問題にかかわったといえるつぎの 6 つのレベルを、自らの分析対象とし て掲げる。すなわち、①国際関係のレベル(冷戦、日韓・日朝関係など)、②越境的(transborder)な レベル(在日朝鮮人と北朝鮮または韓国との関係)、③国家・政府のレベル(それぞれの政府アクター における政策、構想、国内施策)、④ローカル・レベル(日本における地方自治体の関与)、⑤在日朝.

(5) 鮮人コミュニティのレベル(朝連、総連などでの内部分裂や日本共産党などとの関係)、そして⑥非政 府主体のレベル(ICRC, 日赤などの関与)である。筆者は、これらの複数のレベルと、それに関与し ている多様なアクターの活動に注目し、またこれらの諸要素がどのように相互に連動し合って朝鮮 人学校の存廃が決定されていったのか、複合的な分析を行うことを、自らのアプローチとして提示 し、これをグローバル・ヒストリーのアプローチとして意義づける。 ここに本論文の独創性は集約されているといってよい。この新しいアプローチの設定自体が、当 該研究分野においては前例のないものであると同時に、この広範で多角的なアプローチの設定ゆえ に、先行研究が見落としてきた重要な事実の発見が可能になっているからである。 第 1 部 占 領期における朝鮮人学校(1945-1951) 第 1 部(第 1 から 3 章)では、対日占領期における朝鮮人学校の存廃過程が取り扱われる。 【第 1 章 朝鮮人学校の設立と 1.24 朝鮮人学校閉鎖令】 第 1 章での筆者の記述アウトラインは、おおきく以下のようなものである。 日本の敗戦後、朝鮮を離れ日本に在住していた 200 万人の朝鮮人のうち日本に残留した 60 万人 の在日朝鮮人は、自主的に朝鮮人学校を日本各地で設立していった。それらの学校では、民族解放 後、朝鮮人としての民族的自覚を取り戻すために、朝鮮語や朝鮮史の教育が重視され、いわば「植 民地からの解放」を完遂するための実践が試みられた。 しかし、これらの朝鮮人学校は、1946 年秋には朝連の傘下に組み込まれることになる。当時の在 日朝鮮人社会では共産主義への傾倒がみられたが、それを反映して朝連も共産主義的路線を打ち出 していた。その結果、朝鮮人学校の運営や教育内容にもその政治路線が色濃く反映するようになっ ていった。 共産主義色を強めていく在日朝鮮人社会と学校に対し、GHQ と日本政府は管理の手を強めていく。 そこには、植民地からの解放のために民族教育を充実させることで「教育の自主性」を守ろうとす る学校側と、その自主性の発露を管理しようとする GHQ および日本政府との間の相克状況が展開 した。 この相克状況の結果、1948 年 1 月 24 日には、GHQ の指導をうけた文部省による学校の閉鎖命 令が発令された。(1.24 閉鎖令)閉鎖令の発令とその実施は、朝連と国内の多くの朝鮮人学校の反発 をうけ、占領軍および警察隊と学校側の暴力的衝突の事例も多発した。(阪神教育事件など)その結果、 朝鮮人学校の閉鎖は、治安上の課題として強く認識されることになり、暴力的衝突などを回避する ためにも、文部省は朝鮮人学校側と交渉をもち、既存の朝鮮人学校は一定の条件をみたせば私立学 校として維持することを承認し、民族教育もその枠内で行われることとすることで、決着をみた。 筆者は、上記の事態の推移を、日本政府(特に文部省)および GHQ の公文書や、学校の存在する都 道府県の史料、そして回顧録などを駆使し、日米政府間の政策策定過程や学校側の対応の形成過程 に踏み込んで詳細に描写している。 【第 2 章 冷戦の激化と朝鮮人学校】.

(6) 第 2 章で筆者は、1948 年の国際政治の大局において進んだヨーロッパにおける冷戦の対立激化 とそのアジアへの波及(朝鮮分断、中国内戦における共産党の勝利など)を背景に、朝鮮人学校の立場 が変化していった歴史的経緯を実証的に明らかにしている。 まず、1948 年 8 月 15 日の大韓民国成立と 9 月 9 日の朝鮮民主主義共和国樹立は、北朝鮮政府 への支持を朝連が鮮明に打ち出す契機となった。また、韓国域内での共産主義者排斥の激化は、朝 鮮南部の共産主義者の日本流入を増加させた。この状況に懸念を深めた GHQ と日本政府は、在日 朝鮮人社会に対する管理を強めていく。と同時に、その管理強化の波は、朝鮮人学校にも及んでい った。 筆者は、この経緯について山口県での朝鮮人学校の動向に焦点をあてて詳しく説明を試みている。 山口県は、朝鮮南部の共産主義者が韓国内の弾圧を逃れて日本に流入する窓口となっており、GHQ と日本政府が特に注目していた。そしてそれゆえに、地方自治体としての山口県は、朝鮮人学校へ の対応を迫られたのである。GHQ、文部省、そして山口県庁は、このような文脈の中で、朝鮮人学 校の閉鎖を管理政策の一環として模索するようになっていったが、その経緯について、本省では、 それらの 3 者の間の意見の対立と調整の交渉過程が、詳細に跡づけられている。 1949 年になると、日本国内での共産主義運動はさらに激化した。左派系の在日朝鮮人と日本警察 との衝突事件も頻発するようになり、GHQ と日本政府は、日本共産党と在日朝鮮人との連携に対す る懸念をますます深めるようになった。このような状況に対して GHQ が打ち出したのは、団体等 規正令を日本政府に制定させることだった。(1949 年 4 月)8 月に勃発した韓国系在日朝鮮人と朝連 との間の暴力的衝突事件(下関事件)は、この団体等規正令の制定を強く誘導する結果となり、9 月に は法務省が朝連およびその傘下にあった在日朝鮮民主青年同盟、などを解散させることとなったの である。 この流れを受けて、文部省と法務府は、朝鮮人学校にたいする管理を強めていく。それは具体的 には、朝鮮人学校での教育内容を教育基本法や学校教育法により厳密に沿うものとするものであっ た。そして朝連が設置した学校を初めとして、これらの法律の要件を満たさない朝鮮人学校は閉鎖 に追い込まれたのである。(10.19 閉鎖令) 筆者が重視したのは、この学校閉鎖が朝鮮人学校のみならず、韓国政府からも批判を受けたこ とである。上記の学校閉鎖が韓国政府に事前の相談もなく、一方的に行われたことに韓国政府はい らだちを隠さなかったのである。また、日本の国内では、日韓関係を重視する国会議員からも批判 が相次いだ。いわば、朝鮮人学校への日本の対応は、決して「日本政府」対「朝鮮人学校/在日朝鮮人 社会」といったような単純な二項対立図式で割りきれるものではなく、複雑な様相をていしていた ことが、筆者によって示唆されている。 このように 1948 年から 1949 年の間では、まさに冷戦の展開と朝鮮半島の分断が及ぼした在日 朝鮮人社会への影響、そしてそれが朝鮮人学校の再度の閉鎖へとつながったプロセスが詳細かつ明 解に記述されている。また、朝鮮人学校への日本側の対応が、日韓関係に影響をあたえた点に分析 が加えられている点が、注目される。. 【第 3 章 朝鮮人学校の公立化】.

(7) 本章では、10.19 閉鎖令に対しての朝鮮人学校側の対応と、それに対する各自治体の対応の過程 が、山口県、岡山県、神奈川県、兵庫県、大阪府、そして東京都の事例についての詳細な記述がな されている。本報告書では、このそれぞれの事例をいちいち取り上げることはしないが、学校の閉 鎖が順調に進んだケースがある一方で、混乱の中で閉鎖を見直さねばならなかった事例があり、そ れらが、朝鮮人学校の「公立化」を通じて、学校の閉鎖は行わず公立学校として朝鮮人学校を開設 しつつ、しかし公立ゆえに教育内容や学校経営にたいして規制をかけていくという形をとった事例 があったことも紹介されている。また、神奈川県の事例のように川崎市と横浜市のあいだで対処の 方法が異なったり、東京都の事例に如実にあらわれたように、政府の方針に対して自律性を強く持 って、自治体の主導で公立化がすすめられような事例もあったことが示されている。 このような多様性が生じた理由として筆者は、第 1 に朝連の解散によって、朝鮮人学校側が県や 市町村を越えた統一的な連携を組めなかったこと、第 2 には、学校の閉鎖にともなって必要となっ た既存の公立日本人学校による在日朝鮮人児童の吸収が、教室の不足などによって実施できない場 合があったこと、そして第 3 には、閉鎖によって日本人児童と在日朝鮮人児童の間の衝突が生じ、 それがより大きな衝突へと発展する可能性を回避しようとした自治体があったことを、挙げている。 また朝鮮人学校によっては、そこに勤める日本人教員が朝鮮人学校側を支持し、それが閉鎖の成否 に影響を及ぼした事例も存在することが示されている。 【小括】 筆者は、第 1 部の締めくくりとして、「小括」と題する擬似的な章を用意している。その内容をす べてここで紹介する紙幅はないが、そこで提示されている議論において特に重要と思われるものを ここでは紹介したい。 筆者が強調する第 1 の点は、朝鮮人学校には植民地支配からの解放、または植民地支配の清算を 完遂し朝鮮人としての民族的自覚を取り戻す場としての意味があったということである。第 2 の点 は、このような意味をもっていた朝鮮人学校も、冷戦の開幕によって東西対立の波の中に飲み込ま れたという解釈である。在日朝鮮人社会とそれに内包される朝鮮人学校は朝連の傘下におかれるこ とによって、共産主義的活動の一つの拠点として見なされることになり、冷戦の対立の一環として 管理の対象となっていたことにそれは表れていると、筆者は論ずる。第 3 には、このような状況の 中でも、10.19 閉鎖令に対する韓国政府の批判に配慮し、日韓関係を重視する視点から、朝鮮人学 校への公的支援の必要性を主張する勢力が日本にもいたことである。筆者によれば、これは、対日 講和が目前に迫り、講和後の日韓関係に配慮する必要があった日本の国際的事情が、朝鮮人学校に 対する措置にも影響を及ぼしていたことを如実に示す事例として意義づけられている。最後に、 1949 年に見られた朝鮮人学校の公立化の事例について、筆者はこれの肯定的側面についても言及す る。たとえば後に設立される総連では、この公立化を「民族教育の暗黒時代」と位置づけられるが、 これに対し筆者は、公立化には制限を受けながらも民族教育の可能性を探る努力のひとつの結果と して公立化をみなすとこともできると、重要な指摘を行っている。. 第 2 部 対 日講和条約締結後の朝鮮人学校 (1951-1957).

(8) 第 2 部(第 4 章から第 7 章)では、対日講和条約の締結によって日本国籍を失った在日朝鮮人の教 育の実態がどのように推移したのかに焦点があてられる。その際、筆者が特に重視しているのは、 現在の私立各種学校としての朝鮮人学校の存続は、この時期にその初期条件を見ることができると いう点である。 【第 4 章 国際問題から日本の問題へ】 第 4 章で筆者は、対日講和条約の締結を機に、在日朝鮮人が日本国籍を喪失したとみた日本政府 が、その認識に沿って在日朝鮮人の教育環境の変更を主導的に進めるようになった過程を追う。 まず、対日講和が締結する前の在日朝鮮人の法的地位について、日本政府は、朝鮮半島に対する de facto な日本の主権はうしなわれたとしても、de jure には依然として日本が主権を維持している とし、在日朝鮮人は日本国民であると見なしていた。筆者はこれを日本政府の「主権維持論」と呼 ぶ。しかし対日講和条約の締結によって、de jure にも日本は朝鮮に対する主権を失ったとする「主 権喪失論」へとシフトしていった。したがって、在日朝鮮人は日本国籍を失い、外国籍保持者とみ なされるようになった。 この状況のもと、在日朝鮮人は国籍を失っただけではなく、これまでの権利義務関係にも大きな 変更を被ることになった。在日朝鮮人の就学義務は、その一つである。具体的には就学義務の停止 によって、当時存続していた公立朝鮮人学校の法的地位にも重大な変更が施されることになったの である。在日朝鮮人の就学義務の停止と、それに起因する教育環境の変更は、1951 年 10 月から開 催された日韓予備会談における一つの議題となる。なぜならば、韓国は北朝鮮と同様に、対日講和 条約の締約国として承認されず、それゆえ講和条約でこれらの問題を規定することができなかった からである。 この日韓予備会談では、在日朝鮮人が日本国籍を喪失したのはいつであると見なすかという問題 についての対立はあったものの、特記すべき鋭い意見の対立はなく、結局、韓国側は、在日朝鮮人 の教育環境については日本側に主導権を譲り、日本側の国内的措置に委ねるということになった。 その理由として、筆者は、在日朝鮮人に対して教育にかかわる特別の処遇を韓国側が行うだけの財 政負担能力がなかったと推測している。 このように、講和条約締結後には、朝鮮人学校問題は、在日朝鮮人が日本国籍を喪失することに 伴い、日韓関係の問題、すなわち国際問題としての意味を持つことになったが、日韓予備会談の結 果、それはまた日本の国内問題としての意味合いを強くもつことになったと筆者はいうのである。 【第 5 章 私立各種学校化への道】 第 5 章は、筆者が 2018 年に雑誌『境界研究』第8巻において「東京都立朝鮮人学校の廃止と私 立学校化—居住国と出身社会の狭間で—」と題して発表した論文を、加筆修正したものである。 この章で筆者は、対日講和条約の発効による在日朝鮮人の国籍変更が、彼らの教育環境にどのよ うな変化をもたらしたのか、そしてそれが私立各種学校化へとどのようにつながったのかについて、 詳細な分析を試みている。その際、多くの朝鮮人学校が私立各種学校化のモデルケースとした東京 都立朝鮮人学校の私立各種学校化のプロセスに焦点を当てている。 筆者はまず、対日講和条約の締結と発効は、それによって在日朝鮮人が日本国籍を失ったことに より、日本での就学義務は停止され、また朝鮮人学校は公立学校としての地位も失う契機が現れた.

(9) とする。事実、文部省は講和条約発効後の 1953 年には、就学義務の停止と公立朝鮮人学校の廃止 を、基本方針として確定した。一方、都立朝鮮人学校では、公立化によって民族教育の実施が強く 規制されていたが、生徒は民族教育の充実を強く希求していた。そのため、学内では生徒と日本人 教員の間でさまざまな衝突が繰り広げられた。このことは、公立学校として朝鮮人学校が存在して いることを、政府が治安問題として捉える原因ともなり、文部省や東京都が公立朝鮮人学校の廃止 へと向かう重要な要因となった。 一方、朝連の解散後、1951 年 1 月に日本共産党民族対策部によって結成された在日朝鮮統一民 主戦線(以後、民戦と略す)が、日本共産党の傘下におかれた在日朝鮮人の運動母体となっていた。こ の民戦は、朝鮮人学校での民族教育を日本政府の資金によって維持・拡充するという方針を立てて おり、都立朝鮮人学校が公立学校としての地位を失い私立学校として移管される可能性に、強い懸 念をもっていた。この危機感ゆえに民戦は、日本共産党の指導のもとに、日本各地で私立移管反対 闘争を展開していくことになる。この闘争もまた、文部省の公立朝鮮人学校廃止への動きをより強 いものとした重要な要因だったと筆者は分析している。しかし、文部省の動きは決して機敏ではな かった。文部省は就学義務の停止を実施していくが、公立学校の廃止については日韓関係への配慮 から見送られていたのである。 民戦は、在日朝鮮人の運動母体でありながら、日本共産党の傘下におかれていたため、日本にお ける革命の推進と朝鮮における革命の達成が、その活動目標として設定されていた。民戦内部では そのどちらに重点を置くかをめぐり、前者に重点をおく「日共派」と後者に重点をおく「民族派」 との間で、主導権争いが展開していた。結成当時は、 「日共派」が優位に立っていたが、1952 年 12 月に金日成が日本共産党の主導のもとにおられた民戦の路線を批判したことを契機に「民族派」の 影響力が強まってゆく。また、1954 年 8 月末に北朝鮮政府の南日外相が、在日朝鮮人を北朝鮮の 「海外公民」であるとの宣言を行ったこと、さらには 1955 年 2 月に同じく南日外相が日本との国 交樹立を、北朝鮮の外交目標とするとの声明を発したことにより、民戦内部では日本共産党と袂を 分かち、北朝鮮政府との越境的関係を強化することを重視する「民族派」が、 「日共派」を陵駕するよ うになった。この結果 55 年 3 月には、日本共産党離脱と祖国の統一達成へ在日朝鮮人の力を結集 するために、民族派によって民戦は発展的に解消され総連が結成されるに至った。 この過程で、総連と北朝鮮政府との関係は密接なものとなる。また在日朝鮮人の運動も、民族主 義的な色彩をより強めることになった。そしてこの推移は、在日朝鮮人がその子女の教育において も、民族教育の遂行と充実を目指す傾向をより強いものにしてゆき、既存の民族教育の自由を希求 する朝鮮人学校側の傾向と相まって、都立朝鮮人学校のあり方につよく影響を及ぼしていくことに なる。 一方、文部省と東京都は、都立朝鮮人学校での教育内容に対し、それが共産主義に偏向したもの であるとの認識を 1953 年ごろから強めており、翌年にはこれを是正するために「偏向教育対策」を 打ち出す。文部省と東京都は、教育の中立性を都立朝鮮人学校に強く求め、それに従わない場合に は予算の打ち切りを行うとの強い態度に出たのである。54 年の秋には、これまで見送られていた公 立学校の廃止を実行に移すことが決定されるに至る。 このような廃校圧力に直面した総連と都立朝鮮人学校側は、公立学校としての存続は断念せざる を得ないとの判断を強めた。その時点で彼らに開かれた選択肢は、一条校である私立学校として学.

(10) 校を再編するか、一条校としての支援を得ることはできないものの教育内容に対する文部省からの 規制が弱く民族教育の自由を担保することが可能な「私立各種学校」への道をたどるか、の二つであ った。上に述べたように、既存の都立朝鮮人学校において脈々と息づいていた民族教育充実への希 求と、民戦の解散から総連結成までの推移のなかで再確認されてきた民族教育の強化をさらに目指 す機運の存在がここで重要な役割を果たすことになる。加えて、南日北朝鮮外相による「海外公民宣 言」によって触発された朝鮮人学校側は、この越境的関係強化の影響をうけて、民族教育の自由をよ り享受できるこの選択肢へと強く傾斜した。その結果、1955 年 3 月、都立朝鮮人学校側(PTA 連合 会)は東京都教育庁に対し、私立各種学校としての東京朝鮮学園設立の認可を申請した。東京都は4 月 1 日にこれを認可し、ここに都立朝鮮人学校は廃止され私立各種学校として再出発することとな ったのである。 筆者が特に強調するのは、都立朝鮮人学校の場合、文部省や東京都から公立学校廃校の圧力を受 けていながらも、民族教育の自由を求める民族的アイデンティティの自覚を最も重要な要因として、 むしろ自発的に私立各種学校への道を、朝鮮人学校側が選択したことである。筆者はここに従来の 研究が見落としていた局面を見いだす。都立朝鮮人学校側から見たとき、この選択は単に日本政府 や自治体からの抑圧に屈したことを必ずしも意味せず、学校側の自主的かつ積極的な選択だったと の解釈が可能だというのが、筆者の主張である。 【第 6 章 北朝鮮の「平和的統一」政策と対日接近】 この章では、前章で触れられた北朝鮮政府の対在日朝鮮人態度の変化が、なぜどのように生成さ れたのかについて、綿密な実証的歴史分析と緻密な推論が展開されている。 本章における筆者の主張はつぎのように集約することができよう。第 1 に、1950 年 6 月 25 日に 勃発した朝鮮戦争は、北朝鮮政府による軍事的手段による朝鮮統一の試みであったが、それが失敗 に終わったことから、北朝鮮政府は、武力によらない統一という意味で「平和的統一」を目標に掲 げた政策への移行を試みた。第 2 に、この「平和的統一」政策は、当初は南朝鮮の内部の革命勢力を 支援することを通じての朝鮮統一を目指すものだったが、そのような勢力が南での弾圧を通じて弱 体化されたことにより、南出身者がおおかった在日朝鮮人との越境的つながりを強めることで、彼 らを通じて南での革命を推進しようとするものとなった。第 3 にこのような政策の変更の大局的な 背景には、50 年代中葉に表れた「雪解け」と呼ばれる緊張緩和へ向かう冷戦の変容があった。この変 容の中で、中ソ両国は対日関係改善を図るようになり、北朝鮮政府もこの動向を無視することはで きなくなり、日本との関係においても融和的な性格を強めていった。第 4 に、北朝鮮政府の対日政 策の転換は、当時、中ソ両国が展開していた「人民外交」—西側人民との強化された関係を外交資源と して利用する外交—の路線に沿ったものだったが、その「平和的統一」政策は上記のように、朝鮮統 一とそのための革命の推進といった要素を強く持つ点で、独自性を持つものだった。 筆者は、以上のように集約される対日政策転換を北朝鮮政府が行い、その帰結として、前章で述 べた 54 年の「海外公民宣言」や 55 年の南日声明が在日朝鮮人にむけて発せられたと分析する。ま た、冷戦構造のもとで日韓関係を重視する日本との公式な国交樹立は困難であった北朝鮮政府にと っては、在日朝鮮人の存在こそが、 「平和的統一」政策を遂行するための重要な外交資源だったと筆 者は論ずる。そして、このような文脈の中に、総連の結成と朝鮮人学校の再編をいちづけることで、.

(11) 朝鮮人学校も「平和的統一」政策遂行のための人材育成を目的とした教育機関として、北朝鮮側に よって位置づけられたとする。 冷戦国際政治の変容という大局的要因が、上にのべたような経路をたどって、北朝鮮政府による 在日朝鮮人への関与を強めさせたこと、そしてそのことが、朝鮮人学校という「海外公民」の育成 機関に対する北朝鮮政府の肩入れにつながっていったとする筆者の議論は説得的であると同時に、 斬新なものであるといえる。 【第 7 章 北朝鮮からの教育援助費と奨学金】 私立各種学校としての存続の道を選んだ都立朝鮮人学校は、いまひとつの死活的な問題に直面し ていた。それは、私立化したことによって日本政府からの教育費支援を受ける道が途絶し、自らの 手で学校の運営資金を捻出しなければならなくなったことである。もとより在日朝鮮人の多くは貧 困に喘いでおり、私立各種学校として再出発した朝鮮人学校の運営は財政的に困難を極めるものだ った。 本章では、このような背景のもと、1957 年 4 月に北朝鮮政府から総連に教育援助費と奨学金が 送られた経緯について、新たに発掘された史料に基づく説明がなされている。財政的困難に直面し ていた私立各種学校化した朝鮮人学校に対するこの送金は、学校存続にとって死活的なものであり、 朝鮮人学校のそれ以降の存続可能性を決定づけた要素として、実に重要な意味をもった。しかし、 朝鮮戦争の戦後復興に注力すべき時期に、なぜ多額の送金が在日朝鮮人にむけてなされたのか。ま た、北朝鮮政府からのこのような財政援助が、共産主義教育を強化する可能性があった朝鮮人学校 にむけて行われることを、日本政府はなぜ黙認したのか。筆者はこのような問いへの解答を本章で 試みる。 筆者によれば、北朝鮮政府からの送金がなぜ行われたかについての先行研究は、大まかにいって、 ①送金の事実のみ記述されているもの、②北朝鮮政府が在日朝鮮人社会をコントロールためだった とするもの、③北朝鮮政府が韓国との体制間競争において、資金援助を通じて優位にたとうとした とするものがある。これに対し、筆者は前章で明らかにされたように、北朝鮮政府が「平和的統一」 政策の遂行のための人材育成に資する重要な在外機関として朝鮮人学校を位置づけていたことが、 この送金の重要な目的であったと論ずる。これは斬新かつ説得的な分析である。 日本政府はこの送金の計画について、国交のない北朝鮮からの送金を公式に受け入れることは拒 否したが、送金を阻止しようとはせず黙認した。その背景には、韓国との関係を重視する日本政府 としては、国交のない北朝鮮からの送金を公式に支持することが困難であったことが示されている。 その一方で、当時岸信介首相が述べたように、在日朝鮮人の学費不足をまかなう目的での送金を妨 げる理由を政府は持たないというのも、日本政府の立場だった。すなわち、日本政府は、送金にた いして公式に関与することは回避するが、送金自体には反対しないという立場をとったのである。 ここで筆者が注目したのは、北朝鮮政府が、送金受領の窓口として日本赤十字社を利用すること を試みたことと、送金の実施に際して赤十字国際委員会(ICRC)を介在させるルートを、日本政府が 提示していたことである。国交のない両国にとって、公式な送金ができない状況を打開するために は、このような非政府主体の介在ルートの存在は極めて重要だった。やや極端にいえば、このよう な迂回ルートがなければ、北朝鮮からの送金は実現しない可能性もあったのである。筆者は、日本.

(12) 政府にとっても送金を黙認することができたひとつの重要な要因を、この ICRC の介在ルートの存 在に求めている。 このように迂回ルートの設定を通じて、教育支援費の送金は実施へと向かったが、最終的には異 なるルートを通じて行われた。それは北朝鮮から中国にまず送金が行われ、当時中国とすでに国交 をもっていたイギリスの銀行に資金が移され、その銀行から日本の銀行へと移されるというルート だった。とはいえ、ICRC のような非政府組織の存在は、この送金の実現可能性を、日本政府や北 朝鮮政府といった政府組織に認識させる役割を果たしたといえ、筆者はここに非政府主体が関与す る脱国家的次元の要因が働いていた事実を見いだし、その重要性を指摘している。 【終章】 終章では、第 1 部と第 2 部にわたって描写された歴史的経緯が、序章で提示された 6 つのレベル ごとに再編されて提示される。紙幅の関係上、ここではその要約は省略するが、それぞれのレベル の間にどのような連動性があったかについても整理され、朝鮮人学校の存廃プロセスが、グローバ ル・ヒストリーとして展開していたことが説得的に提示されている。 終章の最後には、史料的制約、特に北朝鮮政府の公文書が使用できないことに起因する制約など のために本論文が深い実証分析を実施できなかった点などが、課題としてあげられている。また、 私立各種学校化が全国的に進展する 1957 年以降についての分析を今後続けていくとの、将来計画 を述べて、筆者は本論文を締めくくっている。. 3. 研究の意義と評価 2020 年 1 月 22 日に行われた最終口頭試問および最終判定会議では、政治学研究科の「博士学位 申請論文(課程)の質向上および不正防止に関する内規」の第 2 項(2)審査体制 4)博士学位申請論文審 査基準に示されている基準照らし合わせつつ、本論文の最終評価を行った。その結果、本論文は① 第二次世界大戦後の朝鮮人学校の存廃についての歴史研究として学術的に顕著な貢献をなす論文で あること、②多くの新たな事実の発掘がなされており、また極めて斬新かつ妥当な視角から分析が 行われた独創的な知見を提示したものであること、③それらの知見は先行研究にたいする的確な批 判的検討に基づいたものであること、④妥当なリサーチクエスチョンが設定され、それに対する解 答を一貫して探求した一体性のある論文であること、⑤妥当な分量を備えた論文であること。そし て⑥いくつかの部分的修正を経たうえではあるが、十分な出版可能性を備えたものであることが、 審査員全員一致で確認された。 以下、最終口述試験および判定会議において確認された本研究の重要な学術的貢献と意義につい て述べる。 (1) 問題設定の独自性とその意義 本論文の一つの顕著な独自性は、朝鮮人学校が現在の私立各種学校として存続するにいたった経 緯を歴史的に明らかにすることの必要性を唱え、戦後占領期における朝鮮人学校の設立と閉鎖から、 対日講和以降私立各種学校として存続していくに至る 1957 年までの歴史的過程はどのようなもの.

(13) だったのかという問いを立てたことにある。いわば、朝鮮人学校の現状の淵源を歴史的に明らかに するという問題設定である。 周知のように、在日朝鮮人学校(以後、朝鮮人学校と略す)の日本国内での地位に関わる問題につい ての議論は、近年多くなされているが、その議論は、現在の朝鮮人学校にたいする日本政府の取り 扱いに対して、それを非難して朝鮮人学校を翼賛する議論であるか、逆に朝鮮人学校に非難し反発 する議論であるかのどちらかであるという二極分化の様相を呈している。しかし上記のように、本 研究において筆者は、二極分化された論争から距離を保ち、一次史料を可能な限り渉猟し駆使した 客観的な歴史的事実の理解に立脚して、より建設的で有意義な議論を行うために不可欠な前提作業 を行ったと言える。この点が、本論文の重要な学術的貢献の一つであると高く評価された。 (2) 分析アプローチの新規性と独自性 最も高く評価できる本論文の意義の一つとして、審査員が一致して評価したのは、本論文が提示 した分析アプローチの新しさとその妥当性である。 筆者が序章で指摘しているように、朝鮮人学校の存廃に関する従来の歴史研究は、そのアプロー チは限定的であった。先行研究の多くは、「日本政府」対「朝鮮人学校/在日朝鮮人」という、抑圧す る者とされる者の闘争という「二項対立図式」に大きく規定されてきた。また、これも筆者の指摘 するように、日本政府のみならず地方自治体にも眼を向けて分析を加える研究者も近年はあらわれ ており、朝鮮人学校の存廃問題についての歴史研究のアプローチは、二項対立図式の束縛から離れ つつある。 しかし、筆者は朝鮮人学校の存廃にかかわる歴史過程は、より多様なアクターが関与し、多層的 に展開した過程であるとみた。その上で、以下の 6 つの分析レベルを設定し、それらが相互に連動 しあう複合的な説明に挑んだ。その 6 つとは、概要にも記したが、①国際関係のレベル、②越境的 レベル、③国家政府の分析レベル、④ローカルなレベル、⑤在日朝鮮人コミュニティのレベル、そ して⑥非政府主体のレベルである。 そもそも、朝鮮半島事情の影響を受けるアクターは、当然日朝関係および日韓関係の動向の影響 を受けるものであり、日朝関係や日韓関係は、冷戦という大局的な国際政治の開始から、1950 年代 中葉の「雪解け」とよばれる緊張緩和傾向のあらわれまでの変容過程からも、影響を受けるもので ある。さらには、朝鮮人学校を直接運営する在日朝鮮人の活動は、その越境性ゆえに北朝鮮政府と の特殊関係からの影響を逃れることはできない。また、在日朝鮮人が形成するコミュニティ内部で の分裂や再編の動向は、朝鮮人学校の存廃に大きく関わることも見逃すことはできない。また、従 来の研究が注目してきた二項対立的次元や地方自治体といったローカルな主体の関与する次元も、 無視することは到底できない。そして、国交を欠いた日朝関係においては、なんらかのバックチャ ンネルか非政府主体の関与も想定しなければならないといえよう。このように、筆者が立てた上述 の 6 つの分析レベルの設定は妥当であると審査員は評価した。 加えてこれのそれぞれのレベルを、単に個別的に分析するのではなく、朝鮮人学校の存続プロセ スの歴史的叙述の中に組み込むことによって、それらがどのように交錯していたのかについての分 析にも、本論文は成功していると評価された。 以上のように、筆者が設定した視座とアプローチは、先行研究における視座の限定性から脱却し、.

(14) 現在、その存在感をとみに増してきているグローバル・ヒストリーの視点を積極的に導入したもの として、従来の朝鮮人学校の歴史研究の枠を大きく乗り越える、斬新な分析アプーチからの研究と して、審査員一同から高い評価を受けた。 (3) 重要な事実の発掘 本論文においては、いままで十分に明らかにされてこなかった歴史的事実の分析および発見が多 く見られ、それらについても高い評価が与えられた。そのうち、特筆すべきは、つぎの二点である。 第一に、1957 年に北朝鮮政府が行った、朝鮮人学校への教育費送金のプロセスが明らかにされた 点である。これまで、この送金自体の存在は知られてきたが、その経緯、日本政府の対応、ICRC などの非政府組織の関与のあり方、その背景にあった大局的な国際関係の変化(「雪解け」)との連動 性、などについては、十分な分析が行われてこなかった。これに対し、本論文は、後述するように 新しい史料の発掘などを通じて、上記の諸点について詳細な分析を加えることに成功している。よ り具体的には、日本政府が送金自体にたいしては、北朝鮮からのものであるにもかかわらず、黙認 の姿勢を貫いていた事実、その黙認の背景には非政府主体である ICRC を経由して送金の実現が可 能であるとの考慮があった事実、しかし最終的にはより明確な政府迂回の方法がとられたこと、な どが明らかにされた。これらの事実の発見は、朝鮮人学校の歴史研究に重要な一石を投じるものと して、審査員全員の高い評価を得た。 第二に、本論文全体を通じて明らかになったのは、朝鮮人学校の存廃過程が、単なる日本政府と 朝鮮人学校の対立という「二項対立」図式に沿って展開したと言い切れるものではなく、また地方自 治体と朝鮮人学校の対立図式に沿って展開したと言い切ることもできないという事実である。筆者 は、特に東京都立朝鮮人学校の私立各種学校化のプロセスを分析する中で、朝鮮の民族教育を自由 に行っていくことを重視した朝鮮人学校側が、その自由をより担保できる学校形態として、自発的 に私立各種学校化へと向かっていった局面があったことを指摘する。この指摘の新規性も、審査員 から高い評価を受けた。 (4) 客観的歴史分析のための一次史料の渉猟と発掘 より客観的で実証的な歴史分析を行うために筆者が行った、一次史料の渉猟と発掘の成果も高く 評価された。本研究のために筆者が利用した一次史料は、以下のように多岐にわたりかつマルチア ーカイバルである。 それらの数は膨大であるため、ここでは一部の紹介にとどめるが、日本国内の史料については、 日本外務省、公安調査庁、最高検察庁、総務省の公刊済み文書にくわえ、開示請求を通じて、日本 外務省の日朝関係にかかわるいくつもの新しい文書*が筆者によって発掘され、文部省の史料も同様 に見いだされている。これら日本政府の史料に加えて、東京都をはじめとする地方自治体(神奈川県、 岡山県、山口県、横浜市、川崎市、下関市、尼崎市)による行政文書や議会議事録なども利用されて いる。 また海外の史料としては、アメリカ政府およびイギリス政府の多くの公刊文書が参照されている。 また旧ソ連政府文書についても、1955 年当時の朝鮮民主主義共和国駐在ソ連大使であったイワノフ 大使の公式日誌が参照され、本研究による重要な発見事実である北朝鮮政府から朝鮮人学校への教.

(15) 育費送金プロセスにかかわる、重要な情報を得ている。なお、この教育費送金には、ICRC(赤十字 国際委員会)および British Red Cross(英国赤十字社)などが関与していたが、その詳細なプロセスも、 筆者自身が当地におもむき、収集した史料から発見されたのである。韓国政府の未公刊史料および 公刊史料も広範に参照されていることは言うまでもない。さらには、 「木田文庫」のようにこれまで 研究者による調査が及んでいなかった重要な個人文書の発掘も行われている。 このように、自らの歴史分析に実証性と客観性を与えようとするこのような努力は、他の当該分 野の研究において強く注目されるべきであり、史料の発掘および利用面においても本論文は非常に 高く評価できるとされた。 (5) 本論文の学術的インプリケーションの多角性 本論文は、朝鮮人学校が戦後初期にたどった存廃の軌跡をたどり、それらが私立各種学校化を通 じて、現在の朝鮮人学校のあり方の原型が作られていく歴史をつまびらかにしたものである。いわ ば、朝鮮人学校史研究としての意義をもっとも明確に持つ。しかし、同時に、本論文は視角を変え てみたときに、つぎのような多角的なインプリケーションを持っている。 第一に、ディアスポラとしての在日朝鮮人研究に一定の貢献をなすものであることが挙げられる。 戦後、一種のディアスポラとなった在日朝鮮人がどのようにして民族的アイデンティティを維持し ようとしていたか、この論点についての学術的議論を進めていくうえで、本論文が示した歴史記述 は重要な素材となる。第二に、日本の植民地責任をどうみるか、という論点に関わる学術的議論に とっても重要な意味を、本論文は持つであろう。植民地責任問題とは、日本の敗戦による植民地支 配からの解放後、日本政府は国籍や教育などの分野で、在日朝鮮人社会の植民地支配からの解放に どのように取り組んできたのかという問題である。在日朝鮮人の教育のあり方に対する日本政府の 対応の歴史的分析を行った本論文には、この問題にアプローチする際に、不可欠の知見を提供する といえる。これは第三に、同様に朝鮮の脱植民地化研究の分野においても、本論文が意義深い位置 づけがなされうることを意味する。戦後の朝鮮の独立、朝鮮の分断国家建設過程、そして在日朝鮮 人の教育の自律化といった各事象の相互連動性に着目した本論文は、まさに朝鮮半島の脱植民地化 プロセスの重要な局面に、歴史分析のメスを入れているからである。 すでに述べたように、本論文は、先入観を排し可能な限り客観的かつ実証的な歴史分析を目指し たものである。その研究姿勢こそが、このような多様な学術的文脈で本論文が一定の貢献をなしう るという学術的インプリケーションの多角性を生み出したといえよう。 (6) 総合的評価 審査員一同は、上記(1)〜(5)に述べたように、本論文の学術的価値について、これを当該研究分野 において、顕著で重要な貢献をなすものと判定した。その際、審査員からは、本論文は、使用可能 な史料的制約や時間的制約などの現時点での制限の枠内において最大限執筆可能な優れた論文であ ると評価し、今後この研究分野において「必読文献」とされるだけの水準に達していると判断した。. 4. 本論文の課題 上記 3.のように、審査員一同は、本論文を博士号学位を授与するに値するものと判定した。また、.

(16) 本論文を土台とした出版も十分に可能であるとの判定をくだした。しかし、出版を行う際には、以 下に示すような点について修正や付加的分析を行うことが望ましいとの課題も指摘され、また今後 の研究の深化と進展のためにいくつかの提案もなされた。 (1) 冷戦の「雪解け」期に表れた、北朝鮮政府の外交政策の転換として「平和的統一」政策が打ち出 されたことを筆者は強調しているが、この「平和的統一」が持っているレトリックとしての性格 についてより明確に言及することが可能ではないか。 (2) 北朝鮮政府が 50 年代中葉に日本の朝鮮人学校に肩入れするようになった理由として、韓国との 体制間競争の側面および北朝鮮の経済政策の変更も影響を及ぼしている可能性があり、その点に ついても分析をくわえられるのではないか。 (3) 本論文には、朝鮮民族のディアスポラ研究としてのインプリケーションがある。それに鑑みたと き、日本の朝鮮人学校の史的展開に加えて、中国の朝鮮族、ロシアの高麗人、そしてインドネシ アやマレーシアにおける朝鮮人が、どのような教育状況に置かれたかについて調査をする価値が あると思われる。 (4) 戦後朝鮮人学校の歴史研究の文脈では従来「前史」として取り扱われていた時代に、深く詳しい 分析を試みたものとしても本論文は評価できる。それゆえ、将来的には、本論文での分析視点を 保ちつつ、この論文の対象時期以降の歴史的展開題としての「北送問題」(在日朝鮮人帰還問題) や朝鮮大学校の成立発展過程についての歴史研究へと発展させていくことが期待される。 (5) 本論文中、用語の混乱や不統一が散見される。特に、北朝鮮、南朝鮮、南部朝鮮、などの用語に は、出版に際して十分な配慮が必要である。 (6) 本論文では、日本社会が朝鮮人学校にどのように対応したのか、部分的に紹介されてはいるが、 将来的にはこの点を拡充して日本社会と朝鮮人社会の間の一種の脱国家的スペースを分析レベ ルに付け加えることができるのではないか。 (7) 本論文では多角的複合的な要因分析がなされているが、その一方で、多様な要因間の交錯・連動 状況が、時系列的な歴史記述の中に織り込まれていることから、読みとりにくさを感じる読者も いると思われる。歴史記述の中に、適切な伏線を張るなどすることによって、読者は要因間の交 錯・連動状況をより明確に把握することが可能になると思われる。 なお、上に述べた指摘は、出版時になされることが望ましい修正点・留意点や、本論文の研究を将 来的にさらに彫りの深いものとしていくための論点などの将来的課題を示したものであり、それら は本論文が博士号学位の授与に値する学術的価値を認めた上での審査員からのアドバイスである。 したがって、これらの課題の指摘は、本論文の学術的価値を損なうものではないことを前提になさ れたものであることを強調しておく。. 5. 結論 上に示されたように、本審査委員会は、崔紗華氏による博士学位申請論文『朝鮮人学校存廃問題 の歴史過程 1945-1957 —グローバル・ヒストリーの視点から—』について、これを博士論文が満た すべき基準をすべて充足していると判断し、申請者の崔紗華氏に博士(政治学)の学位を授与するに値.

(17) すると、全員一致で判定した。 審査委員. 主査. 田中 孝彦. 早稲田大学政治経済学術院教授. 副査. 都丸 潤子. 早稲田大学政治経済学術院教授. 副査. 金. 早稲田大学文学学術院教授. 副査. T essa Morris-Suzuki. 敬黙. オーストラリア国立大学名誉教授 副査. 朴. 正鎮. 津田塾大学学芸学部教授.

(18)

参照

関連したドキュメント

パー」 ,

もっとも、本論文に問題がないわけではない。とくに、本論文で検討した内容を日本

話教育実践を分析、検証している。このような二つの会話教育実践では、学習者の支援の

2点目として,それを踏まえて,日本語の助詞「ネ」にほぼ対応するタイ語の“NA”の伝

申請者の調査によれば、こうした方言地域出身の日本語学習者においては、n音と

インターネット調査会社に登録した 40-60 歳代の男女を対象とした横断研究を実施した(研 究Ⅰ) .インセンティブに関する主な調査項目として、運動の条件を 1

次章以降で論じられる「計画生育政策」およびその結果生み出された「 80 後」世代の もつ特性がより理解できるようになっている。第3章では、まず、 「

さらに、国際的平面でみると、医薬伝統的知識は複数の国に併存しており、上記のバラン