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スピノザの合理主義 -自然主義と実在論の綜合-

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スピノザの合理主義

一自然主義と実在論の綜合一

柴  田  健 星雲J tLヽ はじめに 本稿の課題は以下のように要約しうる。スピノザの哲学における「共通概 念」の理論にかんして従来から指摘されている問題点を解明して、この理論 をスピノザ哲学の体系のなかに適切に位置づけ, 「共通概念」によってスピ ノザが理論化しようとした思想を明確にすること,そしてこのことが,スピ ノザ哲学の本質的な意味を理解する上で極めて重要であるという見解を提出 すること。 「共通概念」 (EII40Cor.1)とは,スピノザが『ェチカ』のなかで用いてい る用語であり,それは哲学者たちが「理性」と呼ぶ人間精神の機能を解明す るためのものである。論理学や数学を典型とする,経験から独立した普遍的 な推論を行うのが「理性」の機能であるとすれば,人間精神になぜそのよう な機能が与えられているのか。人間精神は「共通概念」を認識することがで きるからである,というのがスピノザの主張なのである。 「理性の基礎は 〔共通〕概念である」 (EII44Cor.2)。ではこの「共通概念」なるものを人間 精神はいかにして認識することができるのか,これに村するスピノザの説明 が従来から議論を呼び起こしているものなのであるが,問題点そのものの考 察に入る前に, 「共通概念」の理論が抱え込んだその問題点が,どういう性 質のものであるかをやや図式的に傭轍し,それと合わせて,その問題点を解 明することが,スピノザ哲学の本質的な意味を理解することに対して,どう いう意味で役立つかを明示することから始めるべきであろう。この論文が 「スピノザの合理主義」と題されているのは,スピノザの「共通概念」の理

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144 スピノザの合理主義 論を経験主義という枠組みで理解しようとする解釈に対する反論としてであ る。この点は以下の論述のなかで次第に明らかになるであろう。

1 自然主義と実在論

スピノザの哲学,とりわけ以下で主に論じられる知識論のもっている特徴 は,次の二点に要約しうると思われる。第一は自然主義,第二は実在論であ る。自然主義とは,知識の基礎づけを,自然を超越した原理に訴え名ことに よってではなく,自然に内在する原理によって行うという立場を指す。 「共 通概念」という考えは,すべてのものを神-自然に内在するものとして理解 しようとするスピノザの内在性の哲学と深く結びついているのである。特に 問題となるのは普遍者の観念であるが,その基礎づけは,イデア界(プラト ン)によってでもなく,あるいは神の知性(ライプニッツ)や神の意志(デ カルト)に訴えることによってでもなく,ただ自然のなかにあって「すべて のものに共通で,ひとしく部分のなかにも全体のなかにもある」 EII38Pr. ものによってなされる(以下,便宜的に「すべてのものに共通」のものとい う)。 「共通概念」とはこの「すべてのものに共通」のものの概念なのである。 人間精神がそれを認識するには,自然の一部である身体という対象をもたな ければならないとスピノザはいう。こう考えることで,スピノザは人間精神 にかんする彼自身の理論から超自然的な原理の介入を排除していったのであ る。そしてこの徹底した自然主義の主張が実在論というスピノザの知識論の もうひとつの主張と敵齢をきたしてくる。スピノザの実在論とは,普遍者の 観念を経験から帰納された抽象物としてでなく,端的に実在的な対象をもつ ものとして認める立場を指す。この点で,スピノザの知識論はロックのよう な経験主義に対立し,むしろデカルトの生得説に接近している。しかし他方 で,スピノザはそのような観念をデカルトのように身体とは独立に機能する 精神のなかに見出すのではなく,むしろ身体を対象とすることによってもの を認識することを精神の本質と認める彼の自然主義にしたがって,この対象 認識という局面のなかにそのような観念の起源を見出したのである。

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柴  田  健 星雲 ノじlヽ 145 さて, 「共通概念」の理論の問題点は,自然主義と実在論をこのように同 時に主張したことから生み出されたものであると考えることができる。すな わち, 「共通概念」とは身体を対象とする認識によって与えられるものであ るにもかかわらず,経験からの抽象物ではなく,端的に実在的な普遍者の観 念であるということになる。言い換えれば,身体をとおして与えられる認識 に何らの抽象もほどこされず普遍者の観念が形成されうるとスピノザは主張 しているのである。例えば,身体をとおして与えられる「白さ」の観念はす べて個々の事物の「白さ」であるとすれば, 「白さ」一般という普遍者の観 念は,それらの事物に共通するものを抽象して得られると考えられる。これ はロックの「抽象観念」の説である。かりにこの例に即していえば,スピノ ザの説はいわば「白さ」一般の観念がそのまま身体をとおして与えられると いう説にはかならない。これだけでも,スピノザの主張が容易に納得し難い ものであることはすでに看取されうるであろう。しかし,自然主義と実在論 を同時に主張することが,スピノザの哲学にとってはじつは本質的なことな のである。自然主義を放棄することは,ただちに内在性の哲学を放棄するこ とを意味し,したがってスピノザ哲学そのものの廃棄につながる以上,知識 論においてもこの立場を外すことはできない。スピノザ自身が次のように述 べている。 「哲学は共通概念を基礎とし,もっぱら自然のみから導き出され ねばならない」 (TTPXIV,GUI,p.179)。では,実在論はどうであろうか。 上の要約にしたがえば,この立場を放棄しえない強力な理由は,見出しえな いかもしれない。むしろ,その自然主義にしたがえば,スピノザは実在論の 方を放棄せざるをえないのではないかとさえ考えられるのである。しかし, 実在論という立場は,自然主義という立場にも増して,スピノザの哲学にとっ ては本質的なものなのである。なぜなら,すべてのものが内在すると考えら れる神-自然とは,スピノザによれば必然的な秩序によって支配されており, そのような自然のなかで,その一部分たる自己の存在を認識することがスピ ノザにとっての倫理的な存在の仕方だったのだから,普遍者の知識が自然そ のものの必然的な秩序を再現するのでなく,人間精神の抽象作用に依存する

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146 スピノザの合理主義 ものであるという立場はスピノザのものではありえない。この意味で,実在 論もまたけっして廃棄することはできないのである。それは,後に問題にす るように,思考と存在の同一性という,スピノザ哲学の最も深い洞察を体現 する立場なのである。 それゆえ,スピノザの哲学を擁護したければ,容易には両立しえないこの 二つの立場が整合する地点を探り当てねばならない。まさにこうした理由に おいて, 「共通概念」の理論は従来からスピノザ解釈の重要な争点となって きたと考えられるのである。この間題には,たんに私の知る限りでも,これ まですでに何人もの専門研究者による解釈があるが,本稿の課題はスピノザ 研究史の検討でなく理論的な考究にあるので,これらの研究すべてを以下で 取り上げて検討するというスタイルはとらないことにする。私は以下でヨベ ルの解釈を特に取り上げて検討し,それを批判するつもりである。ヨベルの 解釈は,スピノザの意図に即してその知識論を理解するという方向をもちな がら,重要な局面でスピノザの真意を取り逃がしているように私には思われ る。私の考えでは,スピノザの知識論における自然主義と実在論の調停とい う問題点にかんして,ヨベルの解釈は人間精神の認識がつねに身体を対象と するという自然主義の側に重点を置きすぎた結果,それが実在論と連結する 地点を見出すことに失敗しているのである。ヨベルは,人間精神を構成する すべての観念が, 「延長」の有限様態として外界との絶えざる相互作用のな かにあり,その限りで持続的にその状態を変化させる身体を対象にしなけれ ばならないというスピノザの主張を強く取って,スピノザ自身が「何ら時間 との関係なしにある永遠の相の下に概念されねばならない」 (EII44Cor.2) とわざわざ断った「共通概念」までも経験的な知識としてしまったのである。 次節で詳しく検討するが,ヨベルの論点は,スピノザが経験的な知識にこっ のレベルを設け,その一方を「共通概念」という普遍者の知識とすることで スピノザの知識論を整合的に解釈しようとするのである。つまり,ヨベルに よればスピノザは普遍者の基礎づけを経験に求めたということになる。しか しこれはスピノザの意図とはかなり食い違うというのが私のヨベル批判の論

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柴  田  健  忘 I 点である。 ここで,この議論の争点となるテキストを『ェチカ』から引用しよう。 147 人間精神を構成する観念の対象は身体,すなわち現実存在するある延 長の様態である。そしてそれ以外の何ものでもない(EII13Pr.)。 このように,人間精神を構成する観念はすべて人間身体を対象としてもつと スピノザ自身がいう以上, 「共通概念」の認識にも経験が関与していると見 なければならないというのがヨベルの解釈である。しかし,少なくともスピ ノザにおいては,身体を対象とするということは,経験的であるということ と同じではない。経験的な認識ということを,外界からの刺激を原因として もち,かつ個物を対象として成立する認識という意味にとるなら, 「共通概 念」は何ら経験的な認識ではないのである。 スピノザが「共通概念」として例示するのは「延長」の概念であるが,ス ピノザにおいて, 「延長」の概念は,デカルトにおいてと同様にア・プリオ リなものでなければならなかった。ただしスピノザは,その発生を,デカル トのように超越神からの贈与として理解することはできなかった。ア・プリ オリな知識でさえ,自然という対象から汲み出されうるというのがスピノザ の立場なのであり,われわれはこの立場を的確に理解することによってのみ スピノザの知識論における自然主義と実在論を調停することができる。ヨベ ルはそれに失敗しているのである。以下では, ≪経験≫をキーワードとして 用いてヨベルの解釈をより具体的に検討し,その問題点をあらためて批判し た上で, 「共通概念」の理論をスピノザ哲学の体系のなかに適切に位置づけ るための解釈を探求してみることにする。 2 ヨベル解釈の批判 スピノザの知識論は, 「十全」な観念と「不十全」な観念との区別の上に 成り立っている。この区別は,人間精神を構成する諸観念を二種類に分類し

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148 スピノザの合理主義 たものである。スピノザ自身が,人間精神はこの二種類の観念から構成され ていると明言している。 精神の本質を構成する第一のものは,現実に存在する身体の観念である が,それは他の多くの観念から組織されており,その中のあるものは十全 であり,またあるものは不十全である(EIII3Dem. 。 スピノザは「不十全」な観念にもとづく認識を「表象」と呼び,また「十全」 な観念にもとづく認識を「理性」と「直観知」に分けている。スピノザが 「十全」を二種類に分ける理由にかんして一言しておけば, 「理性の基礎」た る「共通概念」が「すべてのものに共通」で,しかも「個物の本質を構成 しない」 (EII37Pr.)のに対して, 「直観知」は「ものの本質の認識」 EV28Dem.なのである。つまりこれらはその対象にしたがって分類され ており, 「理性」は普遍者, 「直観知」は個物にかんする認識である。 この三種類の認識は,すべて人間精神がなしうるものとして『ェチカ』の なかで語られているのだが,ただたんに人間精神の機能にのみ注目する限り, この区別の意味は明瞭にはならない。むしろ,人間精神がその一部分である と考えられる神の「無限知性」 (EllllCor.)との関係において,この区別の 意味は理解されなければならないのである。 『ェチカ』の形而上学によれば, 神という実体を構成する諸属性は相互に「実在的」 (EIIOSc.)に区別されて おり,相互に影響関係をもたないEI3Pr. 。しかも,それらの属性は神の本 質を表現するという点ですべて同等であって,それゆえに例えば「思惟」の 属性を考察すれば,何ら他の属性の概念の助けを借りずに自然の秩序全体が 理解できる。そしてこのことは「延長」の属性にかんしても同様である EII5Pr.Dem.)。すなわち,神においては思考と存在はまったく同一であり, スピノザはそのことを『ェチカ』のなかで「観念の秩序および連鎖は事物の 秩序および連鎖と同一である」 (EII7Pr.と,極めて簡潔に定式化している。 ただし, 「思惟」という属性には対象認識ということが含まれており, 「延長」

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柴  田  健 旨冨 I tlヽ 149 を対象とする場合には,その「秩序および連鎖」は全宇宙において同一のも のとして保存される「運動と静止の割合」 (Ep.32)として把握されると考え られている。スピノザが「すべてのものに共通」のものとして考えていたの はこれである(EII38Cor.)。とすれば, 「共通概念」にもとづく「理性」と いう認識は,本来は神の思考に属する。また個物の本質はこうした秩序のな かで認識されねばならないとすれば, 「直観知」もやはり神の認識にはかな らない。このように,本来は「無限知性」たる神にこそ相応しい「理性」と 「直観知」が, 「有限知性」たる人間精神にも許されているということ,これ がスピノザの証明しなければならなかったことなのである。 ここでさしあたり次のことを指摘しおく必要がある。もし人間精神に「理 性」と「直観知」が許されているとすれば,とりわけ本稿で問題にしている 「理性」にかんして,その「基礎」たる「共通概念」が人間精神のなかにあ るとすれば,それは神のなかにある「共通概念」と別種のものであるとは考 えられない。スピノザ自身が人間精神を「無限知性の一部分」 (EllllCor., Ep.32)と明言している以上,なおさらそうである。つまりこの点だけから でもすでに,人間精神における「共通概念」の起源を≪経験≫に求めるよう なヨベル流の解釈は退けられているのである。いったい無限な実体である神 がどうやって経験的にものを認識するのであろう。 ヨベルの具体的な批判の前に,もう一点述べておくべき事は,人間精神に 固有の認識である。それが「表象」なのであるが, 「表象」とは人間身体が 外部の物体から刺激されることで生じる身体の持続的な状態変化,スピノザ のいう「変様(affectio)」の観念にもとづく認識にはかならない。いうまで もなく,これが経験的な認識である。しかも,そのような観念にもとづく認 識は,類似と隣接の原理にしたがって作動しており(TTPIV, GUI,p.58), 身体が延長的事物のなかで一定の変様を被る必然性をとらえられない。スピ ノザがこの観念を「不十全」な観念と呼んだのは,ここでは「理性」におい て考えられるような思考の内的秩序が見られないからである。この「不十全」 な観念にもとづく「表象」という認識で人間の日常的生活は営まれている。

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150 塾 即 豊 耶 スピノザの合理主義 言い換えれば,人間の日常的生活を支えているのは経験的ないし実践的知識 であるが,スピノザの考えでは,そこでは思考と存在は一致せず,人間は自 分自身の精神についても自己の外なる自然についても無知であるにとどまる (EII29Sc.)。 「共通概念」がこうした経験知ないし実践知と原理的に区別さ れねばならないということは,すでに明らかであろう。 私は,このような私自身の解釈をもとにヨベルの議論の要点を批判的に検 討してみたい。ヨベルを批判することで,ヨベルを誤解に導いた点こそがス ピノザ哲学の急所であり,またそれだけ理解困難な箇所であるという点を示 唆し,その点にかんする私の解釈を提示していくためである。 ヨベルの解釈がスピノザの知識論を特徴づける自然主義と実在論という二 つの側面のうち,自然主義に力点を置いたものであるということはすでに指 摘しておいた。スピノザの自然主義は,人間精神を構成する諸観念は,つね に現実存在する身体を対象としているというスピノザ自身の主張によって定 式化しうる。その観念は二種類に大別され,ひとつのグループは「不十全」 な観念,もうひとつのグループは「十全」な観念と呼ばれていた。また「十 全」な観念にもとづく認識は「理性」と「直観知」に二分されるが,以下で は「理性」ならびにその「基礎」たる「共通概念」のみを問題にしよう。ヨ ベルは,このように同じく身体を対象としながら種類の異なる観念が人間精 神のなかにある理由を,外界から身体をとおして与えられる「入力情報」の 差異によって説明できると述べている。 私の考えでは,世界からの因果的影響はわれわれに二種類の入力情報, すなわち個別的なものと普遍的なもの,明白なものと暗黙のものを与えて いるということをスピノザは暗示してる(1)。 スピノザ自身が主張するように,人間身体は絶えず外界からの作用にさらさ れ,現実に一定の「変様」を遂げている。その観念は,スピノザによれば, 個別的な事物の観念であり,そのような観念にもとづく思考様式が「表象」

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柴  田  健 星雲J Llヽ 151 と呼ばれたのである。身体の「変様」の観念は,スピノザによればすべて 「不十全」なものである。ところが,人間精神のなかにはこのような「不十 全」な観念だけでなく「十全」な観念もあるというのがスピノザの主張であっ た。そこでヨベルは, 「十全」な観念である「共通概念」の対象もやはり身 体の「変様」のなかになければならないと解釈する。ただし,そのなかに 「暗黙」に含まれている,というのである。個別的な事物にかんする情報は, われわれには「明白」な仕方で与えられるが,外界からの影響には物質的世 界を支配する「普遍的」な法則にかんする情報も「暗黙」に含まれており, 人間精神のなかにはその観念がある,それが「共通概念」だとヨベルはいう のである。 ただし,ヨベルによれば, 「共通概念」は始めからそれとして認識される わけではない。経験的には「表象」の基礎たる「不十全」な観念の方が先に 知られる。それは実践にとっては「明白」なのである。しかし他方,われわ れがそうやって「表象」にしたがって生活するあいだ, 「十全」な観念を形 成する情報が「潜在的かつ無意識の情報」として蓄積されており(2)人間精 神はしかるべき時にそれを明白に意識するというのセある。ヨベルは, 「共 通概念」の認識を,経験の積み重ねによる人間精神の「成熟」によって説明 しようとする(3)。しかし,そのような説明は, 「共通概念」がア・プリオリ な知識ではないといっているに等しい。こういう解釈は,スピノザが「合理 主義者のなかで最も経験主義的な方向性をもった思想家」である(4)という見 立てにもとづいていると考えられるのであるが,私はこのような見立ては間 違っていると思う(5)。スピノザこそ「合理主義者のなかで最も合理主義的な 方向性をもった思想家」であるというべきである(6)。 要するにヨベルは,あらゆる認識は身体を対象としていなければならない というスピノザの主張を,あらゆる認識は身体の変様を対象としなければな らないという主張に取り違えている。スピノザの知識論の特徴は,ア・プリ オリな知識でさえ自然のなかにその対象をもち,したがっていわば自然から 汲み上げられなければならないと考えられているという点に存するのである

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152 スピノザの合理主義 が,ヨベルはこの対象認識ということを狭く解し, 「共通概念」には「経験 的な基礎」がなければならないと論じるのである(7)。その結果, 「不十全」 と「十全」の区別を明白な情報と暗黙の情報という,いわば程度の差異に還 元してしまい,なぜア・プリオリな知識が身体を対象としてもたなければな らないのかという,本来は正面から問うべき問題を,いわば誤魔化してしまっ た格好になっているのである。ヨベルの解釈を字義通りにとれば, 「共通概 念」はア・プリオリな知識ではなく,やはり経験的なものと考えざるをえな いが,その解釈がスピノザの真意を取り逃がしていることはいうまでもな い(8)。 「表象」の起源と「理性」の起源は,同じく身体を対象としながら, まったく別の原理によって解明されなければならないのである。じつはヨベ ル自身, 「理性」の対象は「無限様態」において見出される「運動と静止の 割合」を生成させる「法則」であると解釈している(9)。それならば,その起 源を有限様態の相互作用の帰結である「表象」と同じ経験のレベルに見出そ うとすることは,ヨベル自身の解釈のなかですでに整合性を欠いているとい わねばならない。 ヨベルの解釈に対する私の批判は以上である。問わなければならない問い はすでに明らかであろう。それは,延長の有限な様態である身体を対象とす る認識が,どうして「無限様態」へ届くのか,というものでなければならな い。これは経験にかんする問いではありえない。その意味で,この問いにこ そスピノザの合理主義の賭けがある。 『知性改善論』において,スピノザは すでにこの賭けを宣言している。すなわちスピノザは「精神と仝自然との合 一の認識」 (TIE§13)を探求の目的として掲げ,それを「しかるべき場所 で示すであろう」 (ibid.と述べているのである。その場所とはすなわち 『ェチカ』であるが,私は『ェチカ』のテキストに即して,いわばこの賭け の結末を見届けねばならない。

3 思考と存在

スピノザの『ェチカ』の問題はどこまでも人間精神という有限な存在者に

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柴  田  健 星霜乙PC 153 ある。ただし,有限な存在者が有限である限りでもっている認識(表象)と, それが無限な思考の一項である限りでもっている認識(理性)との区別が, 守 スピノザの論理の中枢をなしているという点を重視しなければならない。 「共通概念」によって, 「表象」という人間的認識の地平から離脱し,自然の 実在的秩序を思考の内に再現する「自動機械」 (TIE§85)たること,これ が実在論と自然主義をひとつの体系のなかにまとめ上げたスピノザの知識論 の行き着く主張である。つまり私の解釈によれば,有限な精神に「仝自然」 の秩序にかんする知識が内蔵されているという主張がスピノザの真意である。 そしてそのような「自動機械」としての精神の生のなかに,スピノザは人間 の真の幸福を見ていたのである。以下では,このような論理を『ェチカ』の テキストから読みとらなければならない。そこで『ェチカ』第二部定理38と その証明を全文引用しよう。 定理 すべてのものに共通で,ひとしく部分のなかにも全体のなかにもある ものは,十全にしか概念されることができない。 証明 Aがすべての物体に共通であり,ひとしく部分のなかにも全体のな かにもあるものだとしよう。私はAが十全にしか概念されることが できないという。なぜなら,その観念は(この部の定理7の系により), 神が人間身体の観念をもつ限りにおいても,人間身体と外部の物体の 物体の本性をともども部分的に含むような(この部の定理16, 25なら びに27により)身体の変様の観念をもつ限りにおいても,必然的に神 のなかで十全であるであろう。すなわち(この部の定理12ならびに13 により),この観念は,神が人間精神を構成する限りにおいて,ある いは神が人間精神のなかに生じる観念をもつ限りにおいて,必然的に 神のなかで十全であるであろう。それゆえ精神は(この部の定理11の 系により), Aを必然的に十全に知覚する。そしてこのことは,精神 が自己自身を知覚する限りにおいても,自己の身体あるいは外部の何 らかの物体を知覚する限りにおいても同じであり,またAは他の仕

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154 スピノザの合理主義 方では概念されることができないのである。  E-D スピノザはここで人間精神による「共通概念」の認識の可能性を証明してい るのであるが,この「証明」を理解するためには『ェチカ』独特の用語法に 留意しておく必要がある。この証明のなかでは神を主語にする二つの種類の 言い回しが対比的に使用されており,そのひとつは「無限知性」としての神 を指し,もうひとつは人間精神として考えられる限りの神を指している。前 者を(a),後者を(b)としてテキストからその言い回し抜き書きすると次のよう になる。 (a) 「神が人間身体の観念をもつ限りにおいて」 (b) 「神が身体の変様の観念をもつ限りにおいて」 「神が人間精神を構成する限りにおいて」 「神が人間精神のなかに生じる観念をもつ限りにおいて」 (a)の言い回しが「無限知性」としての神を指すということは,この箇所が 『ェチカ』第二部定理7系の参照を求めていることから明らかである。その 系では, 「神の無限の本性から現実的に(formaliter)帰結することはすべて, 神の観念からそれと同一の秩序と同一の連鎖にしたがって神のなかに表現的 に(objective)帰結する」とある。 (b)の言い回しには多少のバリエーションがあり, 「人間精神を構成する」 という箇所は「人間精神の本質を構成する」あるいは「人間精神の本性によっ て説明される」となる場合もあるが(EllllCor. ,その意味は基本的に同一 である。つまり端的にいえばこれらの言い回しはすべて,現実に存在する人 間精神を意味しているのだが,ただそれを,人間精神とはじつは神という無 限な思惟の有限な様態であるというスピノザ自身の形而上学の枠のなかで, 神を主語に置いて厳密にいい直しているのである。 この対比に着目しなければならない。 (a)の場合には,認識の主体は「無限 知性」としての神だというのだから, 「人間身体」は「無限様態」の連鎖の なかで認識されていると考えられる。ところが(b)の場合には,認識の主体は

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柴  田  健 星芸J tLヽ 155 有限な人間精神であって,それが人間身体を認識するということは,他の有 限な諸物体との相互作用の結果としての「変様」の観念をもつということに はかならない。それゆえ, 『エチカ』第二部定理11の系では,この限りにお いて人間精神はものを「不十全に知覚する」と明言されている。しかし, 「無限様態」のなかにある「人間身体」と,相互作用のなかで変様し続ける 「人間身体」は存在として同一である。それゆえ「無限知性」による「人間 身体」についての思考は,人間精神という有限な知性のなかにも保存されて いなければならない。そういう生得の思考が人間精神には与えられていると この証明は述べているのである。この「証明」の骨格を形づくる「神が人間 身体の観念をもつ限りにおいても,.‥ 身体の変様の観念をもつ限りにおい ても」という対比が意味しているのは, 「無限知性」のなかにあるものが, 人間精神という有限な知性のなかに保存されているということなのである。 ライプニッツにおいて明瞭に見られる神と人間精神の同型性の思想が,超越 的原理によってでなく,自然主義的原理によって述べられていることがここ に認められよう。 ところで,このように人間精神にア・プリオリに与えられているものは, 個々の具体的な「運動と静止の割合」の概念ではない。むしろ「延長」にお ける「割合(proportio)」の概念という普遍者であると考えられる。換言す れば,諸事物の存在が比例関係において把接されうるというア・プリオリな 思考である。上の証明で, 「十全」な観念の対象をスピノザがAという任意 の対象として設定したのはそのためである(10)。また,スピノザは『短論文』 『知性改善論』 『ェチカ』と一貫して,認識の分類を説明する際に比例計算の 例を出しているのだが,その例がこの解釈を確証する重要な手がかりになる。 1:2=3:xのⅩを求めるためには三つの手段があるとスピノザはいう。 ただ経験則によるか(表象),比例法則の適用によるか(理性),それとも比 例関係そのものの洞察によるか(直観)である EII40Sc.2)。どのやり方で もⅩ=6であるが,理性の場合において重要なのは,具体的な数を操作する 以前に,比例関係a:b=c:dが普遍的に妥当するという理解がなければな

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156 スピノザの合理主義 らないという点である。そしてこの点の理解はけっして経験からくるのでは ない。そうでなければ, 「理性」が「表象」と区別される理由がない。それ は諸存在を「運動と静止の割合」としてとらえる「無限知性」の思考からく るのである。ただ,その思考が人間精神という有限な知性において行使され る際には経験との関係が問われなければならない。経験から生じる観念は, 「人間身体の本性」と「外部の物体の本性」を「含む」 (EII16Pr.)ような人 間身体の-状態の観念であり, 「不十全」なものでしかないが, 「理性」はそ のような状態を生み出した「関係」に向けられる。身体の変様の観念は「不 十全」でも,この「関係」の観念は「十全」たりうるのである。このように, 人間の「理性」は経験を待って現実的に行使される(ll)。しかしこのことを, 経験から生じるということに取り違えてはならない。 このように,人間精神を構成する観念が「人間身体」を対象とするからと いって,それらがすべて経験的なものというわけではない。この点にかんす る議論の発端となったテキストをここでいまいちど引用しておこう.。 精神の本質を構成する第一のものは,現実に存在する身体の観念である が,それは他の多くの観念から組織されており,その中のあるものは十全 であり,またあるものは不十全である EIII3Dem. 。 この定理の含意はいまやいくらか明瞭になったはずである。現実に存在する 人間身体は外部の環境との相互作用のなかにあり,それによって人間精神に 「不十全」な観念が帰結したとしても,それとは別に, 「運動と静止の割合」 についての「十全」な観念が人間精神のなかにはある,とこの定理はいって いる。つまり現実存在する人間精神には身体の個々の状態についての「不十 全」な観念は不可避的に生じるが,同時に「関係」すなわち「運動と静止の 割合」にかんしては「十全」な観念があるといっているのである(12)。重要な 点は,こうした「十全」な観念があるのは,人間精神のなかに事物相互の 「関係」にかんするア・プリオリな思考が内蔵されているからであるという

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柴  田  健 星雲 ノじlヽ 157 点である13。 このように, 「共通概念」とは,ヨベルのいうように経験を起源とするの ではなく,むしろ経験の構造を洞察する思考としてある。そしてそのような 洞察が成立するとき,神においてと同様,われわれの思考はその存在に一致 するはずである。ものを知る事がそのまま生きる事であるような認識の境地 がそこにある。しかしさらにその先に,存在することが享楽に他ならない真 の境地をスピノザは見出した。本稿では詳細を追求できなかったが,それが 「直観知」である(14)。 おわりに 「共通概念」にかんする私の解釈は以上である。スピノザの哲学における その理論的役割に触れて,この論文を閉じることにしよう。 「共通概念」の 役割は,合理主義のなかに経験主義的な要素を持ち込むことにあるのではな く,自然主義的実在論としての合理主義をうち立てることにあったと結論し なければならない。しかし最も重要なことは,思考と存在の同一性-それこ そが最高の幸福をもたらす-が有限な精神において現実的に成立する根拠が この理論によって提示されたという点であろう。スピノザがその主著を『ェ チカ』と名付けた理由もここに求められると考えられるのである。 文献

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158 スピノザの合理主義

Spinoza, Ethica [略号‥E], Gebhardt (ed), Spinoza Opera, Heidelberg, 1925, vol. II *定理その他の参照箇所は以下の略号を用いて示す 定理  Propositio‥Pr. 証明   Demonstratio:Dem. 系    Corollarium:Cor. 注解   Scholium:Sc. 補助定理 Lemma:Lem.

Tractatus de intellectus emendatione [略号:TIE], Gebhardt, vol. II Tractatus theologico-politicus [略号:TTP], Gebhardt, vol. Ill

Epistlae [略号:Ep.], Gebhardt, vol. IV

Yovel, Y., Spinoza and other heretics I: The Marrano of Reason, Princeton UP, 1989 The Infinite Mode and Natural Laws in Spinoza/'in Yovel(ed.), Spinoza by 2000, vol.1: God and Nature Spinoza's Metaphysics, Brill, 1991

``The Seconde Kind of Knowledge and Removal of Error," in Yovel(ed.), Spinoza by 2000, vol.ll 注 (1) [Yovel (1994)] p.99 (2) ibid. (3) ibid, p.98 (4) ibid, p.97 (5)このような経験主義的な解釈を最も徹底して押し進めたのは[Deleuze] pp.252-267 (6)私は「共通概念」の理論をスピノザの「合理主義」の「真の基礎」とみなすアル キエに同意したい。 Cf. [Alquie] p.191 (7) [Yovel (1994)] p.98 (8)この点にかんしてはベネットやハンアシヤーの見方が正しい。 「〔理性による〕推 論は外部環境からの入力情報を使用しないがゆえに,‥.」。 [Bennett] p.182. 「外 部環境との相互作用から自由であるこの能動的かつ反省的思考〔理性〕は,‥.」。 [Hampshire] p.7 (9) [Yovel (1991)] pp.87-89 do)傍証としてさらに二つのテキストを指摘する。 「われわれは諸事物の配置ならび に連鎖そのもの,つまりは諸事物が実際にはどんなふうに配置され連結されてい るかを全然知らない」 (TTPIV, GUI,p.45)。 「あなたは,自然の各部分がどのよ うにその全体と調和し,またどのように残りの諸部分と連結するかの認識に関す

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柴  田  健 星雲I Llヽ 159 る問題について,私の意見をお求めになっていますが,.‥。実際どんなふうにそ れらの部分が連結し,また各部分がその全体と調和するかは私も知らない.‥。 事実,これを知るには全自然とそのすべての部分とを知らなければならないでしょ う」。 (Ep.XXXII, GIV, pp.169-170)。 (ll)この点にスピノザ知識論の独創性を見出すのは[河井] pp.142-143 (W ラッセルは,普遍にかんする古典的な議論が「性質」の普遍(ラッセルによれば 「形容詞」と「名詞」によって表される)のみを問題にし,それに対してラッセ ルが真の普遍と考える「関係」という普遍(ラッセルによれば「動詞」と「前置 詞」によって表される)についての考察を怠ってきたと述べ,その代表的哲学者 としてスピノザの名を挙げているが,これは間違っている。 [Russell]p.54.ラッ セルの批判はロックにはあてはまってもスピノザにはあてはまらない。スピノザ は, 「性質」にかんする普遍と「関係」にかんする普遍を区別し,後者のみを真 の普遍としたのである。そして前者に関しては,ロックの「抽象観念」に近い説 明をしているのである(EII40SC.1)。 (13 スピノザの数学思想がデカルトよりもホップスの影響下にある点を強調するのは [Gueroult (1968)] pp.25-33, [Gueroult (1974)] pp.482-486.逆に比例論を中核に したデカルトの「普遍数学」の発展としてスピノザの知識論を理解するのは [Brunschvicg] pp.140-141, 150.後者を重視すべきである。なおデカルトの比例論 の哲学史的な意義については[小林] pp.18-28を参照。 価 「直観知」にかんするヨベルの解釈は[Yovel (1989)]pp.164-171

参照

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