2009年度第1学期 入江幸男 学部:哲学講義「観念論を徹底するとどうなるか」
大学院:現代哲学講義「観念論を徹底するとどうなるか」
第七回講義(2009年6月5日)
■Was bisher geschah. 先週の復習と補足
「認識の正当化の内在主義は、観念論になるのか?」
これが、先週の問題だった。現実には、現在の内在主義者のほとんどは観念論を主張 していない。では、理論的に考えるときどうなるだろうか。前回の暫定的結論は、内 在主義は観念論である、ということであった。しかしそこでは、基礎付け主義と整合 主義に分けて検討していなかった。ここでは、それを区別して検討しよう。
●
内在的基礎付け主義と観念論内在主義者が、基礎付け主義を採るとき、基礎的な認識の正当化のレベルでは、外的 対象の実在を前提しないで、信念の正当化を試みることになる。言い換えると、意識 が直接に与えられているものだけに基づいて、信念を正当化を試みることになる。こ れは、観念論での信念の正当化と同じ試みになるだろう。
●内在的整合主義と観念論
内在主義者が、整合主義を採るとき、彼が信念aを正当化しようとすれば、他の信念 との整合性を確認しようとするだろう。そのとき、それらの信念の中に、「知覚に対 応して外界に物が実在する」という信念が含まれているとすると、内在的整合主義に 基づいて、実在論を主張し観念論を拒否することが可能になるだろう。内在的整合主 義では、実在論と観念論の両者が、整合的な主張である限り、どちらも可能である。
しかし、内在的整合主義が、観念論を採用することになるとおもわれる一つの理由が ある。それは、知識の整合主義者は、(常にではないとしても、多くの場合)真理の 整合主義者となるということである。認識の正当化の整合主義は、整合性によって信 念(ないし信念の体系)を、知識である、すなわち正当化された真なる信念である、
とみなすことになるので、それは(常にではないとしても、ほとんどの場合)真理の 整合説(信念ないし信念の体系が真理であるとは、それが整合的であることであると いう主張)を伴うことになるだろう。真理の整合説は、真理の対応説を批判するもの であり、信念が外的な事実との一致によって真になるとは考えない。これは(常にで はないとしても、ほとんどの場合)実在論を否定し、観念論を採ることになるだろう。
Bonjour
は次のように述べている。「整合主義者が、正当化の整合主義的見解にもとづいて信念を受け入れることが、事 実上、真を信じることへ導く可能性が高いと考える理由は何なのか」(前掲訳、64)
「この問題に対する歴史上有名な解答は、正当化の整合主義に加えて、真理の整合説
を採用することで、一種の形而上学的観念論をとることである。ここで私は、そのよ うなどの種類の見解も、端的に受け入れない。これらの見解は、心とその信念から独 立した世界が本当に存在し、その世界を、私達の信念は記述しようとしているのだと いう、直観的に明白な事実を否定するからである。」(前掲訳、64)
つまり、Bonjourによれば、知識の整合説が、真理の整合説と結合するとき、形而上 学的観念論となるのである。ただし
Bonjour
自身は、整合説も採らないし、観念論も 採らない。彼は、実在論者である。ちなみに、Bonjour
によれば、内在的整合主義者 を主張してきたのは、つぎのような人たちである。「古典的な絶対的観念論者たち(ブ
ラッドリー、ボーザンケト、そしてとくにブンランシャード)から論理実証主義の一部 を経て、現代のセラーズ、レッシャー、レーラー、そして私自身にいたる様々な人が、この説を表明し、提案してきた。」(前掲訳
51)
以上のように、内在的基礎付け主義も内在的整合主義も、観念論に親和的であるとい えるだろう。そこで、「内在主義は観念論であるか?」という問に対する答えは、次 のようになる。<内在主義は、必ず観念論になるわけではないが、その一部は観念論 であり、その他の場合にも観念論に親和的である。>
§6 Bonjour
の内在的基礎付け主義とFichte
1、内在的整合主義への批判(1)内在主義の前提
Bonjour
によれば、内在主義は次のような立場であった。「認識的正当化は、信念をもつ人が意識的な反省によって(少なくとも原理的に)
アクセス可能であるような、その人の心の意識状態に内在する要素に依存しけれ ばならない」(前掲訳、
p.5
)内在的な正当化のためには、我々は、正当化しようとする信念、その他の信念や感覚 などを意識的に反省できなければならない。つまり、内在主義は、<我々が信念やそ の他の心的状態を反省的に捉えることができる>ということを前提としている。
(2)内在的整合主義への批判
内在的整合主義者もまた、信念を信念体系の中での整合性によって正当化しようとす るのならば、それらの信念をもっているというメタ信念が必要である。そして、この メタ信念をその他の信念との整合性によって正当化するためには、またしても、それ らのメタ信念をもっているというメタメタ信念が必要である。こうして無限に反復す ることになる。それゆえに、整合性による信念の正当化は、完了しない、という欠点 を持つ。こうして、内在的整合主義は、<我々が信念やその他の心的状態をもつこと についての信念を持つことができる>ということを前提している。
参考文献:
整合主義に対する批判をここで詳細に吟味することが出来ないが、関心のある方 は、以下を参照のこと。
1、バンジョー&ソウザ『認識的正当化』の第三章
2 、 ‘
The Coherence Theory of Truth’ in Stanford Encyclopedia of Philosophy
こ の 記 事 に よ る と 、
Colin McGinn
(2002)
やThagard
は 、 “that coherence theorists are committed to idealism”と主張して、整合主義を
批判し、整合主義者は、観念論にはならない、と反論しているようである。2、
Bonjour
の内在的基礎付け主義
Bonjour
の考える基礎的信念とは、信念状態についての信念と、感覚についての信 念の2
種類である。彼は、それらの基礎的信念を「構成的気付き」によって正当化す る。(1)「構成的気付き」による基礎的信念の正当化
①
信念についての構成的気付き「私が考えるに、現に生じているどんな信念でも、信念をもつということに本質的な ことは、その信念の内容について、次の相互に関連する二つのことに意識的に気づい ていることである。一つは、命題的内容であり、
[・・・]
。もう一つは、自分のこの命題 内容の抱き方が、「問題にする」とか「疑う」とかでなく、「主張する」だ、という ような、その内容の抱き方である。これら二つの気づき(より正しくは、一つの気づ きの二つの側面)は、決して統覚的でも反省的でもない、と私は考える。これらの気 づきは、当の信念を私が持っているという一階の信念を、現に生じている他の信念や、その他のまったく異なる状態とは異なる、まさにその信念にするという点で、その一 階の信念や思考それ自体を(少なくとも部分的に)構成する。ここでの要点は、現に 生じている信念や思考が、結局のところ、それ自体が意識状態であり、単に第二の独 立した状態を通して意識されるような状態ではないという点、そしてまた、人がどの ような信念を持つときに第一に意識するのは、その命題的、主張的内容だという点で ある。」
(78)
この構成的な気付きは、intrinsicな気付きである。
「ある信念状態が生じているという判断内容を持つ二階の統覚的で反省的な気づきで なく、かつまた、信念とその内容についての何の気づきも含まない純粋に非認知的な 気づきでもないという点である。むしろ基本的なのは、その、信念の命題的、主張的 内容を構成する内的な気づきである。その気づきは、命題的内容の気づきであるが、
そのような命題が信じられていることという主張的な二階の気づきではない。」
(79)
「このような、非統覚的で内容を構成する気付きは、基礎付け主義が伝統的に主張し てきたような意味で(しかし、ほとんどの人がとうに放棄した意味で)、厳密に不可 謬だといえる。ある信念が、他の内容や他の状態とは区別されて、他ならぬその内容 の信念であるのは、内容を構成する「組み込まれた」気付きによる。したがって、こ の気付きは誤りようがない――その気付きがそれについて誤るような独立した事実や 状況が存在しないのだから。」(『認識的正当化』訳
p. 79
)②
「構成的気づき」による「二階のメタ信念」の正当化「この一階の信念や思考がもつ、内的な、命題的内容あるいは主張的内容を構成する 気付きに訴えることで、二階のメタ信念を正当化できるのではないだろうか?」79
「しかし、「組み込まれた」気付きの不可謬性は、それが正当化する統覚的なメタ信 念まではおよばない。自分自身の信念を統覚的に誤って理解すること、すなわち、一 階の信念を構成する構成的ないし「組み込まれた」気付きに含まれる内容を正確に反 映しない二階の信念をもつことは、少なくとも可能である。」(
80
)しかし、「この誤謬の可能性があるからといって、二階のメタ信念が一階の構成的な 気付きによって十分に正当化される、ということを否定することにはならないだろ う。」80
Bonjour
の場合、経験の「構成的気付き」は不可謬である。ただし、「構成的気付き」の内容を命題にしたメタ信念は可謬的である。
③
感覚内容についての構成的気付き「感覚内容を構成する気付きは、正当化を必要とせず、それに関する誤りが存在しな いという意味で、不可謬である。」(『認識的正当化』訳
p. 86
)④
構成的気付きによる観察信念の正当化この場合にも、構成的気付きは不可謬であるが、その内容を命題にしたものは可謬的 である。
⑤
信念の場合と感覚の場合の違い信念の構成的気付きによるメタ信念の正当化と、感覚の構成的気付きによる観察信念 の正当化は、本質的に異なるものである。前者の気付きの内容は、概念的なものであ る。しかし、後者の気付きの内容は、非概念的なものである。それゆえに、後者の場 合、気付きの内容を概念化する作業が必要になる。
(2)内在的基礎付け主義に対する以前の
Bonjour
による批判は、克服できているの か?Bonjour
はC. I.
ルイス、リチャード・ファマトンによる観察信念の基礎付けが、つぎ の三つの要素からなるという。①
感覚的経験②
基礎的信念③
その一致についての「直接把握」あるいは「直接の見知り」Bonjour
は、この③によって②を正当化することは出来ないと批判した。これに対して、Bonjourはつぎの二つの要素を考える。
①構成的な気付きが組み込まれた感覚 ②観察信念
①
が②を直接に正当化する。①と②の関係は、因果的関係でも、論理的関係でもなく、「記述的関係」であるという。この
Bonjour
の議論は、ファマトンの議論よりも説得 力があるように思われる。なぜなら、ファマトンの議論では、③の気付きの正当化を 説明する必要があることが難点であったが、Bonjourの議論では、そのような必要は 無いからである。(しかし、次に述べるように、まだ十分な議論であるとは思えな い。)(3)セラーズによる「所与の神話」批判
・Wilfrid Sellars, Empiricism and the Philosophy of Mind with an Introduction by Richard Roty and a study Guide by Robert Brandom
・セラーズ『経験論と心の哲学』浜野研三訳、岩波書店
・セラーズ『経験論と心の哲学』中才敏郎訳、勁草書房
セラーズは、直接に与えられている所与についての直接的な知が可能であるという主 張を「所与の神話」と呼んで批判する。「多くのもの――感覚内容、物理的対象、普 遍、命題、実在的結合、第一原理、さらには所与性そのものさえ――が「所与」と言 われてきた。」(p.14、浜野訳
3
、中才訳122)
次に述べるセンスデータ(感覚与 件)はその一例にすぎない。「古典的な感覚与件説――私がこの形容詞を強調しておく理由は、それ以外の「異端 的な」感覚与件説をも考慮に入れなければならないからである――は、以下のような 3つの命題からなる不整合な3つ組に直面する。
A
xが赤い感覚内容sを感覚することは、X
はsが赤いことを非推論的に知って いることをともなう。B 感覚内容を感覚する能力は、習得されたものではない。
C
xはφ
であるという形式の事実を知る能力は、習得されたものである。A
とB
は一緒になると非C
を伴う。B
かつC
は非A
を厳密含意し、A
かつC
は非B
を 厳密含意する。」(p.21、浜野訳13、中才訳、131)
つまり、この3つのうちのどれかを放棄しなければならない。しかし、Bを放棄する わけにはいかないだろう。もし
C
を放棄すると、「sが赤い」という信念を直接的に 得ることになる。しかし、そのような言語的な知について、学習のプロセスなしに直 接に知ることが可能であるとは考えられない。もしA
を放棄すると、「sが赤い」は 学習によって得られることになる。しかし、非概念的な内容である感覚内容について、どのようしてそれを概念と関係付けることができるのか説明できない。
ソウザは、「所与の神話」批判を次のように説明している。
「ある基礎的状態
F
では、何らかの命題のかたちをとる内容を肯定するか、肯定しな いかのいずれかである。もし肯定するならば、そのこと自体の正当化を必要とする。もし肯定しないのであれば、どうしてそれが正当化を供給できるのかを理解するのが 困難となる。」(『認識的正当化』上枝訳
286)
セラーズがこの批判から引き出す結論は、つぎのような内在的整合主義である。
「本質的な点は、ある出来事または状態を、<知っている>という出来事または状態 として特徴付ける際、われわれはその出来事または状態の経験的記述を与えているの ではない、ということである。われわれはそれを、理由の論理空間、つまり、人が述 べている事柄を正当化し、正当化できるという論理空間の中においているのであ る。」(
p.76
、浜野訳85
、中才訳207
)(下線強調は入江)(4)
Bonjour
は、セラーズによる「所与の神話」批判を克服できるだろうか。Bonjour
の議論は、セラーズの「所与の神話」批判を克服できていない。Bonjourは、セラーズが指摘したように、感覚が非概念的で言明は概念的である、ということを認 めているので、①と②が論理的な関係でないことを認める。もし、①と②が論理的な 関係でないのならば、①は②を正当化できないはずである。Bonjourは、①と②の関 係を「記述的な関係」として説明しようとする。
「ある感覚経験の特定の内容自体が、すでに論じた意味で、非概念的なものであるこ とを認めるとしても、その非概念的内容が、他の種類の非概念的現象と同様に、様々 な詳細さと正確さで、概念的に記述されるということは可能である。そして、それを 否定するどんな理由も、この前提からは出てこない。たしかに、非概念的内容と概念 的記述の関係は、デイヴィドソンの言葉を借りれば、厳密に論理的なものでなく、推 論、無矛盾、矛盾など、二つの命題間に存在する関係をまったく含まないかもしれな い。しかし、明らかにそれは、単なる因果的な関係でもない。言ってみれば、それは 記述的関係であり、概念的記述と、その記述の対象である非概念的対象との一致の正 確さや不正確さに関する関係である。記述の正確さの査定や評価は、推論の論理的な 査定や評価と同じではないかが、単なる因果関係には当てはまらないような、規範的 なものであり、広い意味で、論理的なものである。」
「記述的関係」という概念について、これ以上の説明が無いので、Bonjourの説明が 成功しているとはおもえない。
(5)
Fichte
と、Bonjour
およびSellars
との関係●
フィヒテの知的直観と、Bonjour
の感性的直観の構成的気付きとの異同。彼は、「知識学第二序論」で彼は次のように言う。
<知的直観は、感性的直観と常に結びついている。>
「この直観
[
知的直観]
は決して単独では意識の完全な働きとして現れることはない。感性的直観も同様に、単独では現れることもないし、意識を完成させることもない。
これら二つの直観は概念的に把握されなければならない。さらに、これだけではなく、
知的直観は常に感性的直観と結びついている。行為の対象に対する客観を概念的に把 握される感性的直観において見出すことなしには、あるいは産出しようとするものに ついて同じように概念的に把握される像を描くことなしには、私は自分自身を行為す るものとして見出すことは出来ない。そうでなければ、私は自分が何を産出しようと しているのかを一体どのようにして知るのであろうか。」(
SWI, 464
、全集訳7巻、下線強調は入江)
<感性的直観も、知的直観と結びついている>
「感性的直観にしても知的直観と結びついてのみ可能である。なぜなら、私の表象と なるべきものは全て私に関係付けられねばならないのだが、私と言う意識は知的直観 からのみ生ずるからである。」(SWI, 464、全集訳7巻、下線強調は入江)
フィヒテによれば、知的直観は、感性的直観にその一部として内在しているのではな いが、しかし、知的直観と結合しなければ意識されることがない、と考えられている 。 したがって、感性的直観が意識されているときには、知的直観がつねに伴っているこ とになる。この点では、Bonjourのいう「構成的気づき」と同じである。しかし、フ ィヒテの知的直観は、主観
-
客観であった。その点で、構成的気付きとはことなる。●
フィヒテは、セラーズを克服できるかもしれない。フィヒテは、直観と概念の関係について次のように言う。
<知的直観と感性的直観と概念の三つが結合して表象が可能になる。>
「単なる自己意識は、それだけで完全な意識を形成するものではなく、それによって 始めて完全な意識が可能になるような不可欠の構成要素に過ぎない、と。それでは、
いったい感性的直観が意識を形成するのであろうか。いったい感性的直観とは、それ によってはじめて表象が表象になるものとは別のものなのだろうか。概念なき直観は まさしく盲目である。
[・・・]
それでは、概念が表象を形成するのであろうか。直観なき概念はまさしく空虚である。自己意識、感性的直観、概念は、それぞれが分離してい るときにはいずれも表象ではなく、それによって表象が可能になるものにすぎな い。」(
SWI, 474
、全集訳7巻227
、下線強調は入江)フィヒテは、カントの「内容なき思想は空虚であり、直観なき概念は盲目である」
(Kant, Kritik der reinen Vernunft, A51=B75)という主張を継承して、感性的直観 が意識されているときには常に概念が伴っていることを主張している。ここでいう
「自己意識」はこの直後に「直観」と言い換えられていて、文脈から知的直観である とわかる。Sellarsや
Bonjour
とは違って、フィヒテは、信念が概念的であるのに対 して、感性的な経験が非概念的である、とは考えていない。感性的直観そのものは概 念とは区別されるが、感性的直観が意識されて表象となるときには、つねに知的直観 と概念という二つのものと結合していると考えるからである。フィヒテは、知的直観 と感性的直観と概念の三つが結合して表象の意識が可能になると考えている。この引 用部分だけでは、論証にならないが、これを論証できれば、セラーズの「所与の神 話」批判を克服して、感性的直観の内容についての信念を正当化できるだろう。(6)もう一つの問題「信念を構成する気付きによるメタ信念の正当化は、成功して いるのか?」
これが成功しているとすると、すべての信念について、私がそれを考えている、とい う二階のメタ信念が、正当化されて、基礎的な知識として与えられることになる。私 が考えているということが最も確実な知識であり、その他の知識は、それから構成さ れる必要がある。とすると、この立場は、観念論に近いものになるだろう。このよう にして基礎付けられた経験的な知識を確保できたとしても、そこから日常的な知識や 科学理論を正当化するという困難な課題がまだ残されている。
この正当化が成功するためには、一階の信念と二階の信念の中に取り込まれたその内 容が同じであることが、保証されなければならない。(これについては、後に議論し たい。)
(7)まとめ
内在的基礎付け主義が成功するためには、次のような課題を克服しなければならない。
課題1:内在主義を採用する限り、「信念状態についてのメタ信念の正当化」を説明 することが不可欠の課題となる。
課題2:内在主義的基礎付け主義が可能であるためには、「感覚経験の内容について の信念の正当化」を説明することが不可欠の課題となる。
課題3:内在主義は、仮に整合主義を採らないとしても、信念体系の整合性を、必要
条件として要求する。なぜなら、信念間の矛盾を認めると、何でもありの懐疑 主義になってしまうからである。これは整合性についての明示的な論理学的説 明を要求するだろう。つまり、内在主義を採用する限り、「一定の論理法則の 正当化」を説明することが不可欠の課題になる。
課題4:基礎付け主義は、基礎的な信念の存在を認めるが、その基礎的な信念は、他 の信念とは独立に真理であることや、知識であることが保証されなければなら ない。この主張は、文の意味は、それが属する理論の全体の中で確定するとい う、意味の全体論と矛盾する。したがって、意味の全体論(クワイン)を批判 しなければならない。
課題3、課題4について
Bonjour
がどのように考えていたか。フィヒテならばどのよ うに考えるか。これらについては、次回説明します。今週のミニレポートの課題
「セラーズの「所与の神話」批判に賛成か、反対か、を述べて、次にその理由を述べ てください。」