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真理の照応理論と収縮主義

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Academic year: 2021

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No.55, pp. 27 - 32, 2005

1.真理の照応理論

真理の照応理論(anaphoric theory of truth) において、「‥は真である」という表現は、そ の使用の文脈で意図されている一群の文トー クンを拾い上げる表現に適用されることによっ て、それら文トークンの持つ内容を照応的に受 け継いだ新たな文を形成する演算子である、と される。たとえば、まず、「雪は白い」という 文があらかじめ話された(ないしは記された) という文脈で、その文を指し示すことが意図さ れている代名詞「それ」に対して、「‥は真で ある」を適用することで形成される、  (1)それは真である という新たな文は、「それ」で指示される「雪 は白い」という文の持つ内容をそのまま受け継 いだ、すなわち、雪が白いことを主張する新た な文である。もとの文からこの新たな文への主 張内容の受け継ぎは、代名詞「それ」がもとの 文を照応的に指示することで成り立っていると 言えるが、この関係を、指示のレベルにとどま るものであると見る必要はない。むしろ新しい 文「それは真である」全体が、「雪は白い」と いう文と照応的な関係にあると言うこともで きよう。この点に着目して、真理の照応理論 は、真理の代用文理論(prosentential theory of truth)と呼ばれることもある。この例の場 合「それは真である」という文全体が「代用 文(prosentence)」である。そして、「‥は真 である」という演算子は、代用文形成演算子 (prosentence-forming operator)と呼ぶことが できる。 代用文には、必ず文を指す代名詞が現れると は限らない。「‥真である」という演算子は、 代名詞が現れない表現に適用されることもあり うる。たとえば、「雪は白い」(あるいは「「雪 は白い」という文」)という表現に適用するこ とで形成される文  (2)「雪は白い」は真である について考えてみよう。この場合、「雪は白い」 という文は、この文(2)と別に話されたり、 書かれたりしているわけではない。しかし、(2) のもつ内容が、「雪は白い」という文の内容を 受け継いでいる、と見ることはできるだろう。 (2)は、「雪は白い」という文が用いられる任 意の文脈においてその文がもつ内容を受け継ぐ ことができる。この意味で(2)は(任意の文 脈において用いられた)「雪は白い」という文 の代用文であると考えることができる。 2.真理に関する収縮主義 真理の照応理論は、いわゆる真理に関する収

斎 藤 浩 文

Deflationism and the Anaphoric Theory of Truth

Hirofumi SAITO

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縮主義(deflationism)のさまざまな立場の一 つとして位置づけられることが多い。収縮主義 の中心的なテーゼは、しばしば、真理性という ものが実質的な性質ではない、というように語 られる。これに対して、ある文が真であるとい うことは、文が何らかの実質的な性質を持つこ とである、と考える立場は、真理に関する実質 主義(substantivism)と呼ばれる。たとえば、 文が真であるとは、その文が世界のあり方と うまく対応しているという性質を持つことであ る、とするのが、実質主義の一種、真理の対応 説である。対応説においては、文やその真理概 念に先立つものとしての世界のあり方について 語ることを確保しておかない限り、真理に関し て十全には語れない、ということになってしま う。しかしながら、文やその真理性を前提せず に世界のあり方について語るということがいか にして可能なのか、全く明らかではない。(*1) このような問題点を回避することが、収縮主 義的な考え方のもっとも大きな動機である。収 縮主義においては、真理というものがいかなる ものであるのかは、  (3)「A」が真であるときそしてそのときに 限りA という図式において述べつくされている、とさ れる。すなわち、(3)という双条件法が成立 するということが、そしてそれのみが、「真で ある」という表現(そして真理概念)の中心的 な特徴であり、他のすべての特徴は、その中心 的な特徴にもとづいている、と考えられるので ある。 このように収縮主義を特徴付けることができ るならば、上の(2)について観察したことは、 照応理論が収縮主義の一種であると結論するの に十分であるように見える。すなわち、照応理 論によれば、任意の文「A」の任意の文脈にお ける使用に対して、  (4)「A」が真である が、「A」の代用文となる。いま、双条件法を 含む「‥ときそしてそのときに限りA」という 主張の文脈を考えると、この文脈で「A」が使 用された場合、  (5)A(の)ときそしてそのときに限りA となるが、これは、論理的真理である。この(最 初の)「A」を、その代用文(4)で置き換え ることによって、代用文が同じ文脈に置かれた ものとして、図式(3)が得られる。図式(3) が成立することは、(5)が論理的真理である ことと、代用文のもつ性質(もとの文と代用文 との関係)のみによって説明できる。したがっ て、論理的真理性、および代用文のもつ性質が 実質的な性質ではないとする限りにおいて、図 式(3)は、真理に関して、何らの実質的な性 質を引き合いに出すことなく、説明できるので ある。 3.収縮主義の問題点 さて、照応理論が収縮主義の一種であるとす ると、収縮主義に対する一般的な批判(すなわ ち、さまざまに異なるヴァージョンの収縮主義 的理論に共通してあてはまる批判)が、照応理 論に対してもあてはまる、ということになるだ ろう。 この点で、考えておく必要があるのは、「‥ は真である」演算子の次のような文における用 法である。  (6)ゲーデルが言ったことは真である 「ゲーデルが言ったこと」という句の内容はい くぶん不明確である。この句はおそらく意味論 的には確定記述句であるとは言えないが、文脈 によって、すなわち語用論的に、その指示対 象が唯一に定まるかもしれない。(実際、その ような場合、文脈の一部を明示化することに よって意味論的確定記述が形成できる。たとえ ば、1931年の1月1日の正午を含む数秒の 時間にゲーデルが何らかの文のトークンを発話 していたとすると、若干補足して「1931年 1月1日正午にゲーデルが言ったこと」とすれ

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ば、この新しい句は確定記述句になる。)この ような場合、その文「A0」を用いて、(6)は、 次のように書き換えられる。  (7)「A0」は真である このとき (8)「A0」が真であるときそしてそのとき に限りA0 は、図式(3)の代入例に過ぎない。 実際には、普通の文脈では「ゲーデルが言っ たこと」という表現が意図しているものは、唯 一の文ではない。むしろ、それは、ゲーデルが ある一定期間(もっとも長い場合はその全生涯 の間)に述べた多くの文の連言、として解する のが自然である。この場合、ゲーデルがその生 涯にいかに多くの主張をなしたとしても、その 総数は有限であるから、それらを「A1」、「A2」、 ‥とすれば、その連言は、「A1かつA2かつ‥ かつAn」となる。したがって、(6)は、 (9)「A1かつA2かつ‥かつAn」が真であ る と置き換えることができ、この真理概念につい ては、やはり図式(3)の代入例、 (10)「A1かつA2かつ‥かつAn」が真であ るときそしてそのときに限り A1かつA2かつ‥かつAn によってカバーされることになる。 やっかいなのは、問題の句を全称量化の概念 を含むものとして読むべき場合もある、という ことである。すなわち、(6)は、 (11)ゲーデルが言ったすべてのことは真で  ある と解すべき場合もありうる。この場合、(11) は、有限の連言の真理性を主張しているわけで はない。したがって、(9)のような書き換え は論理的には正当化されない。 この点をよりはっきりさせるには、次のよう な例を考えてみればよい。 (12)矛盾律(「PでありかつPでない」と いうことはない)のすべての代入例は真であ る 矛盾律の代入例は決して有限個にはとどまらな いから、この例における「矛盾律のすべての代 入例」という句は、連言に置き換えるわけには いかない。したがって、(11)や(12)につい ては、図式(3)によってカバーされないので ある。 グプタ(Gupta(1993))をはじめ多くの論者 は、このような、全称量化概念を含む句に関す る真理概念の問題を、一般化の問題と呼び、そ れが収縮主義にとって致命的な問題であると指 摘している。たしかに、収縮主義が主張するよ うに、図式(3)が、概念的にも説明的にも それに先立つ実質的なものを何ら持たないごく 基本的なものであり、真理概念のすべての特徴 がそこから導き出されるべきであると考える限 り、一般性の問題は深刻な問題であると言わざ るを得ない。「矛盾律のすべての代入例は真で ある」のような文における真理概念は、収縮主 義者にとって不可解な謎を含むものとなってし まう。 4.照応理論は収縮主義的ではない たとえ収縮主義に一定のもっともらしさを認 める立場に立ったとしても、「矛盾律のすべて の代入例は真である」という主張が、そして、 その主張に含まれている真理概念が、不可解な ものとなってしまうということには、大いに抵 抗を感じざるをえない。このような主張は、真 理概念をすでに習得したわれわれにとって、ご くなじみぶかいものである。さらにいえば、そ れは、図式(3)の左辺の任意の代入例などよ りはるかになじみぶかいものなのである。 ここで、比較の対象として最初から「「雪は 白い」は真である」というような人工的な例文

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を持ち出すのは、フェアではないだろう。むし ろ、「‥は真である」、あるいは「‥は正しい」、 さらには、「なるほど‥(は正しいの)ではあ るが、‥(It is true that..., but...)」、等々といっ た表現が、実際の言語使用の場面でどのように 用いられているかを見ることを手がかりとすべ きかもしれない。いま発話の場面に限って考え ると、次のようなことが観察できるであろう。 ・「‥は正しい」「たしかに‥だ」などといっ た表現は、たいていの場合、その使用に先立っ て(たいてい別の話者によって)発話された 文について、(なにごとかを)述べている。 たとえば、「「雪は白い」は真である」」のよ うな、先立つ実際の発話がない場合は、むし ろまれである。 ・その際、先立って発話された文を拾い上げ る句が、全称量化概念を含む場合(たとえば 「彼のすべての発言が正しい」や「あなたの 言うことがすべて正しいとは限らない」)に おいても、そうでない場合(たとえば(前の 発言を受けての)「そりゃそうだ」)において も、話者が、先立って発話された文を取り上 げることを意図しているという点において、 違いがないように見える。 真理概念を(基本的には「‥は真である」と いう形で)含む表現についてのこのような観察 は、照応理論が言うところの「代用文形成」と いう働きこそが真理概念にとって中心的なもの であることを示唆している。 収縮主義において主張されるように、図式 (3)がある意味で基本的であるということは、 たしかにわれわれの直観の一部に含まれてい る。そして、それこそがまさに、収縮主義のもっ ともらしさの源である。しかし、他方で、その 直観に忠実であろうとする限り、一般性の問題 は、解決しがたいアポリアとなってわれわれの 前に立ちはだかる。これは、結局は図式(3) がいかなる意味においても基本的である、とは 言いえないことを示している。 これに対し、われわれの観察は、照応理論に おける代用文形成が、真理概念にとって、また 別のある意味で基本的であるということを示し ているように見える。(11)や(12)における「‥ は真である」の代用文形成演算子としての働き は、例文(2)におけるその働きと全く同様で ある。与えられた文脈の中で、先に述べられた ことを再認したうえで、その内容に対して肯定 する(ないしは否定する)ことは、われわれの 言語行為において重要な位置を占めている。さ らに、照応理論は、真理概念による代用文形成 の働きにもとづいて、図式(3)の正当化を行 うこともできるのである。 このように考えてくると、先に見た、照応理 論における図式(3)の正当化の議論は、照応 理論を収縮主義の中に位置づけるものとして見 られるべきではない、ということになるであろ う。その観点から、先の正当化の過程をもう一 度検討しておこう。照応理論において、図式(3) を導くために、まず、任意の文「A」につい て、(5)が論理的真理であることが確認され た。そして、真理概念を含む「「A」は真である」 が、(5)の左辺に現れる「A」の代用文とし て用いることができることが、図式(3)の成 立の根拠とされた。この正当化の過程において は、論理的真理性の概念、および、代用文とも との文の間の照応の概念が役割を演じており、 照応理論が収縮主義的であると言いうるために は、それらの概念が実質的なものでないことが 必要であった。したがって、照応理論を収縮主 義的でないものとして解する道は、照応関係に 関わる性質を実質的な性質としてとらえること の可能性を開くものとなる。 このことは、照応理論における代用文形成が、 いかなる意味において基本的であるということ が許されるのか、という問いに答えることでも ある。おそらくそれは、照応関係に関わる性質 を、われわれの言語使用に関する、より広い理 論の中に位置づけることによって答えられるべ き問いであろう。(*2) 5.真理の照応理論と証明論的意味理論 ランスは、Lance(1997) において、照応理論 が与える、真理概念を含む表現のもつ内容の説

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明が、真理を言語と実在の間の何らかの関係と とらえるような、実在論的(自然主義的、表象 主義的)な真理の理論と相容れないものではな い、と主張している。これは、「より広い理論」 として、実在論的な真理の理論や、実在論的な 真理条件意味理論をとることも可能である、と いう指摘だと考えられる。たしかに、「A」と いう発話と、「「A」は真である」という発話と の関係について、後者が前者の代用文であり、 後者の内容が前者の内容を照応関係によって受 け継いでいる、と説明することは、両者の内容 がともに実在のなんらかの側面を描き出そう とするものであり、また両者の真理が描き出さ れたものが実際に成立していることに存してい る、と述べることと決して矛盾はしない。しか し、照応理論のポイントは、むしろそのような 実在論的な描像とは独立に、真理概念について 語ることにあるのは明らかである。 それでは、照応理論は、どのような「より広 い理論」の中に位置づけられるべきなのであろ うか。この問いへの一つの回答の候補として考 えられるのは、実在論的な描像とは独立に言語 表現の意味について語ろうとする試みである、 証明論的な意味理論である。 ここで証明論的な意味理論という名称で意図 されているのは、一般的には、言語表現の意味 がそれら表現の使用によって定まるという、後 期ウィトゲンシュタインに由来するアイディア にもとづく理論である。その一つの具体化の方 向としては、論理定項を導入したり除去したり する推論規則によって、その論理定項の意味が 規定されているとみる考え方がある。この考え 方によれば、ある論理式について、関連する論 理定項を律する推論規則を組み合わせることに よって生成される証明は、その論理式の意味内 容を反映していることになる。 たとえば、連言を導入する規則について見て みよう。 A B     A∧B この規則を二回繰り返して適用した次の証明 は、論理式「A∧B∧C」の意味内容を反映し たものである。 A B      A∧B C       A∧B∧C このような考え方が有効なのは、単に論理学 や数学の場面だけにはとどまらない。なんらか の主張をする、それも独断的にではなく、根拠 -理由をもってそうするという「論証」のプロ セスを考えれば、それが「証明」のプロセスを 一般化したものとしてとらえられるのは明らか である。 さて、真理概念が関わる場面について、この 証明論的意味理論は、どのように語るべきなの であろうか。ここでその問題を論ずることはで きないが、考察を始める際に留意すべきだと思 われることがらを指摘して、本稿を閉じること にしたい。 証明論的意味理論において、真理概念を含む 表現の使用について語ろうとするときに、まず 次のような推論規則を考えるのは自然であるよ うに思われる。   A        Aが真である これは、「‥が真である」という表現の意味を 部分的に規定している(導入)規則であると考 えられる。上下を逆にした(除去)規則とあわ せれば、これらは、ちょうど図式(3)に対応 する内容を持つことになる。 しかし、ここで注意すべきなのは、われわれ が上で確認した、照応理論における図式(3) の位置づけである。収縮主義とは異なり、照応 理論では、図式(3)がいかなる意味におい ても基本的なものであるとは主張されない。む しろより基本的なのは、真理概念を含む表現の 持つ代用文形成という働きであった。最終的に 推論規則のような形で定式化できるかどうかは

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ともかくとして、真理概念を含む表現(「‥が 真である」など)の使用に着目することによっ て、それをとらえることが必要であると考えら れる。(*3) 注 (*1) もちろん、収縮主義をとらない立場が必ず この対応を認めなければならないわけではな い。対応説のほかに実質主義として位置づけら れるものに、真理の斉合説、真理の実用説など がある。いずれも真理概念よりも概念的にも説 明的にも先立つ他の概念にコミットすることに なる。 (*2) ブ ラ ン ド ム の Brandom(1994) や Brandom(2000) における試みは、この点に関 わるものであると考えられる。その当否をここ で論じる余裕はないが、本稿第5節では、照応 関係をそれらの試みとは異なる文脈に位置づけ ることを提案する。 (*3) ブランドムは、Brandom(1984) において すでに、照応理論が、文の真理というレベルだ けではなく、文の構成要素である語の指示のレ ベルにまで、適用可能であることを主張してい る。一般に照応関係を担うのが典型的には代名 詞であることを考えれば、これは全く自然であ るが、この洞察は、意味理論の構成においても 重要性を持つと考えられる。 文献 A r m o u r - G a r b , B . a n d B e a l l , J . ( 2 0 0 5 ) "Deflationism: Basics" in B. Armour-Garb and J. Beall, eds., Deflationary Truth, Open Court. Brandom, R. (1984) "Reference Explained Away", Journal of Philosophy 81, 469-492. Brandom, R. (1994) Making It Explicit,

Harvard.

Brandom, R. (2000) Articulating Reasons,

Harvard.

Gupta, A. (1993) "A Critique of Deflationism",

Philosophical Topics 21, 57-81.

Lance, M. (1997) "The Significance of Anaphoric Theory of Truth and Reference" in E. Villanueva, ed., Truth. Philosophical Issue 8, Ridgeview.

参照

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