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津軽地方の女子教育を考える その 2

A STUDY OF WOMA 関 ' SEDUCATION IN TSUGARU AR 主 A No.2 

目 次 はじめに

1 . 津軽 l iH)jの教育の怠吹をたずねて 1  .藩故調の教汗ば

2 . 幕末から学制までの教育 I

I

  .学制発布後の津軽地方の教育 1.東奥義塾

2 . 荊池幾久子

3. 公丘小学校の女子教7 1 7 4 . 高谷徳、子

i l l . 学制発布後の都合の教育 1.津田梅 F

2 . 高杉幸子

一以 k 弘前学院大学・短期大学紀室長第 2 4 ザ掲載

坪 庸 子

H i  

Nobuko T s u b o t a  

一本楠を続けるにあたっヌー

N. 津軽地方の女 f のための高等教育機関

2 . 広立高等家政女学校の小山内もと 3 . 県立高等女学校

@  永井JF{好

@  工藤浅吉

φ  長谷川安津子氏 4 網弘前交学校

舎 相 馬 み ど り 氏

j

む箆ざた氏

おわりに

2

・ つ

iM

(2)

弘 前 学 院 総 要 第3 0 号 一本稿を続けるにあたってー

l i i J ワ田.学生発布後の部会の教育の t l l で、忠倉具視大 山とともに京国へ酪学した五人の女 ω f の中の大 I L!捨松は β ! !

U: 飯山 ) 1 1 1j・七郎女(陸軍大将大山巌公酷夫人)と 記述したが、事実は山 J I I 捨松は万延え年(1 8 6 0 ) 2 月 2 4 H 会津藩一千石の家者 U J J I I 尚 n 重到の末娘で、 y J J 三 y i i 芦 : であることが、捨松の杓孫である久野明子誌によって書 かれた F寵 I~品館の貴婦人人:1[1 拾松一日本拐の丸一子樹学 生

J1

t ,こよって明らかとなった。

本丈記取りかかる前にまず、何故会津藩の家者の娘が 青森県上膝の娘として記されることになったのか前述の

?寵鳴館の貴婦人大Ll J 捨松…日本初の女子留学弘 J によ り解明してみたい。

明治 2 年(1 8 6 9 )1 1 灯 、 容 保 〈 会 沖 藩 の 踊 子 脊 人 '

〈当時一歳)をもって松平家再興が許された。これで、会 津戦争後、身分も定まらなかった流識の民会津滞 L たち にも来来へのかすかな器望が持てるようになった。しか し、実離に彼らに長えられた L 地は、4:丹、!設」じの不毛の 地 i 堵興三 }j I j で、嘗ての肥沃の地会津二トヨノ j 石と比べ ると天と地社どの i 患いであった。一 1 1

1

略ーこの新しい対 地は、斗!暫と名付けれれた。現在の青森賂下北部、 1 ‑ 北 部 、 郡と岩手県二戸郡の一部にあたる。地階的 ι 見 ると、斗調藩の領地の真中には七戸落と八戸藩が入り込 んでいて、一つの藩が他藩によって商北三つに分けれれ ている。こうした変則的な領地で閉会津藩土述は新しい 出発を余犠なくされたので、ある。

嬰治 3 年の春から 1 0 月にかけて、東京、諾議代、結後 の高田に別れて謹填生活を送っていた出会沖護士とその 家族連は新し L 、封地ヘ向けて大移動を始めた。その数は 約

4

万七千人、ある者ほ陣路を歩き、ある者は船に乗っ て海から三十南へ護った。

6 月 6日、捨松も母牌衣や姉達それに会沖残留組とそ の家族約二百五ト名と一絡に兄山 J I I 大蔵に引率され:fi松 を出発した。組父重英はすでに謹懐中の明治 2 年の春に 亡くなっている。ほとんどの家挟は会津戦争で家財道具 を失っており、身の周りの物だけを持って能さかで沖川ま で行きそこからは阿繋 ) 1 1 を船で下り、 6 月日日に新潟に 到着した。一摂辻新潟からは政府が移住者たちのために 借り切ったアメリカの該燐蒸気船ヤンシ一号に乗り込ん だ 。 J (①久野明子著『毘鳴館の貴婦人大山捨松一段木部 の女子留学生 p . 4 5 )

r 2 1 呂位、船が睦興湾内の野辺地港に入港1"ると捨設と たち家族は i 貰ちに藩庁の置かれた五戸に向かった。すで に大義(捨松の兄山)(1大蔵〉は藩の権大挙事と L 寸 要 職 についており、幼い藩東容大に代わって藩故を執ってい た。一中略ーこの時期大裁は、名を惜と改めている

G

~ 1

1

*一斗書識の最高責任者としてれらの行為に恥じるこ となし滋にかなった生き方合幕誌に

)J

えそうと[,ll

J

l 、決意 を来したのである。

年が明けた明治 4 年 ( 1 8 7 1)の 2 丹、藩 f れ ま ゐ か ら 田名部へ移され、主??松たちも坂井勝之進という人の家に

t

l 日即こなることになった。藷 ) J ' は曹洞宗の円通 ? i ' に障か れ、ここで斗帯、議の本格的な打政が姶烹ったのである。 J

〈会久野政 jT 著 F 鹿嶋斡の貴婦人大!l

j

捨松 日本拐の k F 留学号 p . 4 5 )

捨松は 11 寂になっていた。見記~は輔の指導 f号として、

白らすすんで、粗衣粗食の l t : . 1 i S を実行していたため、 1 1 1 川 家はかえってよその家賠よりもきりつめた暮らしをしな ければならなかった。… I t t 略…育ちざかりの妹たちに満 足な食事も与えられないことを気にやんだ、浩は、母親と 和議して一番ドの捨松を新館にやることにした。斗!告で、

の地獄のような 1 1 : . 話に比べれば、箱館の拾うがはるかに 人間らしい生訴が送れると与えたからである(③久野 f 若?鹿嶋能の貴婦人大 I I J 捨松一日本初の女子部学 IU p . 4 7 )  

r l O n 半ば過ぎ符室 H を発って、捨松は母親や姉たちに 別れを告げるために田名部に立ち寄った。この時、ほ胞 衣はお臨!のため見愛する殺を遠い異国に旅立たせなけれ ばならない母親の切ない気持を込めて、幼名咲子を「捨 松」と改名している。これがお前との永の別れとなるか も知れない。立はお会Ijを捨てたつもりで迷いアメリカに やるが、お前がお凶のために立採に学問を修めて帰って くる日を毎日心待ちにしてして待っているよ、という気 持をこの;つの字にこめたのであったの(命久野鴇子務

?昆鳴館の貴婦人大 ILi捨松一日本初の女子留学生~ P  5 7 )  

久野明子廷は『鹿鳴館の貴婦人大山捨松一日本初の女 子関学生 2 の中で感壊深げに次ぎのように諮っている。

「新しい時代の説明けにあたって明治致府が打ち出した 北海道関拡 i 攻策のために、 U I 川家の兄妹二人は会津藩に 生まれたがために速く離れたブメリカ留学生として渡る 連命をたどることになったのである。 J (③久野明子著

『鹿鳴館の貴婦人大山捨松一自本初の女子留学生Ji p .   4 3 )  

委参考・のために、後にわが国初の女子留学生となり、大

山公爵夫人となった U I 川咲 : r の幼小の頃のこと合記 L た 。

捨松関人の生活を見るだけで、私たちは鴇治初期のわが

罰の状況を組問見ることがで、きたのではないだろうか。

(3)

津軽地方の;女子教育を考える その 2

I V . 津軽地方のための高等教育機関

大山檎松たち五人が渡米したころ、 i 授にアメリカから も婦人宣教隣たちが続々やってきたが、そのことについ ては、関東学院大学経済学部助教慢の小桧Ll I ノレイ氏が

『アメリカ婦人宣教師一来日の背景とその影響』の t r

J

で 、 次のような欝き出しで追及しておられる。「明治初期、

バイブルとト宇裂をたずさえてアメリカから太平洋を 渡った…群の淑女たちがし、た。彼女たち婦人立教師に よって種蒔かれた近代的女子教育の芽は、読本人企性の 問で雪:かに稔り、現在までその影響は及んでいる。

彼 k たちは伺故、持のために故国を離れ、仰を呂本に もたらそうとしたのか。 J 舎『アメリカ婦人宣教師一来 の背紫とその影響 i 東京大学出版会 1 9 9 2 年版カノくー) そしてまた、ここ津軽でも女子教育の芽が育っている ことは u i l i d l のとおりであるが、

弘龍女学校、黙立弘前女子高等女学校のほかにもう:つ、

女性によって創設された学校のあることを

d

忘れて誌なら ない。

その一つはかの有名な柴母やす氏によって創設された 弘前車!J洋裁縫女学校舎現荘の柴田学園であり、もう一つ は小山舟もと氏が剰設した弘前家事裁縫専修所、後の私 立弘前高等家政虫学校である。

1 .   私立拡鶴和洋裁縫学校の葉部やす

大正 1 2 年 2 月訪日設立認可が決まり、私立弘前和洋裁 語学校として出発した。

この学校の館設者柴罰やすは「明治 1 4 年(1 8 8 1 ) 1 月 1 司、父今村儀三路、母ひざの長女として、東津軽郡青 蘇大字安方町?こ 1 : . まれた。(⑦船水鶏著 r ここに人あり

き柴部やす{:ti~

p. 

3) 

f 路藩麗燕〈明治 4年〉後の握乱が治まった、この壊、

公選議員拡よる第一回県会〈周辺年 35D が開かれたり、

学校や病院、銀行などもつぎつき開設されて、ょうやく 文暁開花の曙を追えていた。青森に際庁が蹴かれてから、

にわかに活況を畏し、また北語道開拓に停ってこの港か ら渡道ずる移住者がふえたので、一段とにぎやかさを加 えていた。鳴時やすの父儀三郎は安方Il! J で酒造業を営ん でいた。母のひざは南了主義(帯家は代々慌を業とし、「元 応丸」という家伝薬を製造販売していた〉の娘で島る。

一中略一娘ひきが l 月元母に長女を生んだと鰐くと南 f 主主は非常に喜び、をは浦安の安方に生〈あ〉れて久しく 安吟くもあれ j と祝の散を寄せ、 f やす J と命名してくれ たとしづ。〈 φ 船水溝著『ここに人ありき 柴田やす低』

p .   4) このように誕生したやす女史がどのようにして学 校を創設するに埜ったかに関しての持組辻前述の F ここ に人為りき 柴田やす伝 J に書かれてあるが、「やす女

史が 2 6 才になって神田橋に島った東京清家事科教員訟修 所に入'字、さらに築地外出語学校の洋裁部 E こ通って洋裁 を修得し、東京舟の教民検定試験に取りかかり、その後、

東京府管内の小学校裁縫科正教員の資格を取ってから較 檎釘〈均時)の志村小学校に訓導として勤めることに なった。志村小学校に勤めるまでの問にも東京実業女学 校技芸部に通っていたと L ヴ。くや船水清著 F ここに人 ありき 柴田やす伝~ p  . 1 4 " ‑1 6 ) このようにしてやす女 史は家庭の事埼もあったが、非常な向学心民総えていた。

さらに女史は「青蘇に帰り、県内の小学校裁縫科正教員 の免許を受け、やがて自分の母校である新町小学校に勤 め 、 ‑ r t

1

圏各一青森の大火後は浦町小学校?こ勤め、今境辻

;文部省の被定に合格して中等学校家政科被服教員免許状 を取得し、青議出公立女子実業補習学校〈現青森高中央 高校の前身〉に勤めた。この学校でのやす女史は、東京 で学んだ新しい技術を生かして裁縫、家事、手などを 生徒に教え、その熱心な指導ぶりは同僚たちにも尊敬さ れたほどで為った

ω

J (@鉛水清著?ここに人ありき 柴 出やす伝 p . 1 7 " ‑ 1 8 )

やす女史はこれでもかこれでもかと襲 L 、かかる逆境を きりおけ、生家今村家がもともと弘前の出であることも あって、「大正 3 年 l 月にそれまで勤めていた青森の女 子実業構習学校を辞職して、 一家は弘館主こ移り、取りあ えず、鍛冶釘に借家をかりて住んだ。 J (砂船水靖著『こ こに入ありき 柴田やす伝~ p  . 1 9 ) 弘欝 t こ移り住んだや す女史は「どこか自分の経験を生かして若い人たちに教 えたいと考えていることを当時の熱立弘前高等女学校の 教鞭をとっていた永山撤之丞、杉山轟之進〈この二入は 高山文堂とともに和洋裁経学校の「立山先生 j といわれ、

やす k 史の絶大な協方者となる〉に相談した。一中略一 これを聞いて二人の先生は、あなたほどの技能をもって いるのに、今東また学校の先生をする必要はなし、から、

すぐに私塾を開いた方がよい、と泣を揃えてすすめた。

当時弘前には県立弘前高等女学校と私立の弘前女学校の 二つの女子中等教育施設があったが、これらの女学校を 卒業しても、普通学科は脱として、家事や裁縫のような、

家寵比入ってから、すぐに役立つ棄事をにおいてはなお不 充分であったら、そのためさらに裁縫塾に通って花鍛修 業をするものが多かった。二人の先生は、邑分らは現に 県立;女学校で教えている身であるが、いつも女子には もっと実学が必要だと痛感しており、世間でもそれを望 んでいるが、あなたが私撃を開くことは、その要望に答 えるものであり、もっとも瀦在者であると激励した。 J

(議船水槽箸?ここに入ありき 柴田やす伝 J J p . 2 0 ) こ のようなさき時の状況から考えてやす女史は決心したので ある。そこで、まず、鍛冶町の借家丹軒下に「和洋裁縫乎

‑29‑

(4)

弘前学院紀重要 第 3 0 号

芸教授 j の看棋を下げた。 J (母船水 j 害 事 f

W

ここに人あり へ渡り、明治 3 7 年北海道庁立札幌高等女学校から故郷へ き 柴陪やす伝~ p . 2 2 ) これが後の柴田学濯のそもそも !撮り、弘館高女の家事・裁縫の教諭として 1 3 年間勤務し

の始まりである。 たのである。なお、弘拙家政高等女学校は、第二次大戦

やす女史は大正 1 2 1 手の開校当時の状況について、次の 後 の 新 学 制 で 鷹 ケ 鰭 女 子 高 等 学 校 と な り 〈 中 学 校 も 桝 ように記している。 霊堂入昭和 3 1 年 3 月 2 0E I   ~.こ最後の卒業生 20 名を送って関

『当時社会の文運はようやく進み、国家の教脊も目安 校した J (⑮荒井清明蓉 F 近代津軽を彩った人々 16‑ 小 しに際昌におもむきまして、馬民ひとしく文教の窓沢に 山内もと 1 9 9 2 年 6JH8 日、開興新報より〉

浴することのできる時代でありましたが、ただその機撰 この弘前家事裁縄専修所は「女子の職業又は家政に必 が 十 分 社 会 の 喪 望 に 添 う こ と が で き な か っ た う ら み が 須なる和沖裁縫および諸種の技芸と学科とを綬け、其の あったのであります。殊に女子の龍命である家政教青方 教授内容を実践せしめ、職業婦人;或は家庭婦人として其 師においては、いっそうその感を灘くしたのであります。 の本務を全ふせしむるに充分なる実際的技術および品性 当時は家事裁織と串しまして、非常に軽視され、勤労を も f 養成する J ことを百的に掲げている(損保第一条)月 いやしめ、知的方面のみ重視された時代でありました。 8日午前 9時から会場式がおこなわれ、 6 0名の新人生が しかるに女子はどうしてもその実野生活に即した、実技 あったJ @ 荒井請明著『近代津斡を彰った人々 17‑ 小 と勤労が必要で ありますので、ここ ι 教育即生活"の lÜ 内もと~ 1 9 9 2 1 : r  6 月 2 5 H I 理 興 新 報 よ り と あ る が 、 も 日揮を定め、私の母校である東京府家事科教員伝習所の との心情をあらわすものとして「昭和 1 4 年発行の「鷹械 学則を参照し、地方の実需に鑑み、女子に必須なる裁縫 随筆~.こ「四月の識に浮かんだ事J と題して帯構してい 家事を主とし、育児禽生に重点を置くところの各草委学校 る。その 1 ' 1 " ' で「才色双鞄とか、才棒、兼備とかいふ言葉が として、大正 1 2 年 2 月日目、県の認可を得、百名の定員 あって、婦人に対しては最高の讃辞である。しかし讃辞 をもって設立したので、す。 9 船水清箸?ここに人ありき を受ける人は百人t こ幾人あろうか(中略〉才徳はその人 柴簡やす訟 ) 1 p . 3 1 )   の精神静養的努力でどんな人でも容易に才語、の莱を番へ その後、弘龍和洋裁織女学校は娘の今村敏女史、孫の ることができることと思ふ。私は生能に対し、いつもこ 誠太郎氏がが受け継合ぎ、柴田学園という幼稚園、高校、 の事を説いている ( r t : ' 傷者)学構だけが鍵れて一般的な精 専門学校、短期大学、大学会 t 含む総合学屈として櫛かし 神教養がなくては、才だけあっても、徳が完全に問書き い発織を遂げているのである。 れることと思ふ。〈中略)私注文化を愛する。女の身だし なみもまた、文化の一つの標識であろう。設に私は学箭

2 . 私立高等寂政女学校の小山内もと と精神教養の荷立を尊重する。精神文化のレベルを高め

「私立弘前高等家政女学校は大正 1 5 年 1 月 1 3 誌に県怠 ること、社会を~.撞の婦人で溝たすこと若き日本の捷命 弘前高等女学校(現弘前中央高校)を退職した小山内も はここにもあると思ふ。 J (ゆ荒井溶明箸 F 近代、津軽を とによって!弓1f: 4 月山道町の向

2

告に弘前家事裁縫専修所 彩った人々 17 一小山内もと下~ 1 9 9 2 年 6 月 2 5 日韓奥 として鴇かれたむ盟年(昭和 2 年)には校舎を建てて家 新報より〉がある。この文章は小山内もとが計頃よそット 政女学校を設立した。これは和洋裁織女学校とほんど持 ーとしたものではなかっただろうか。

様で、和裁を主に家事一般を教え二市内のみならず郡部 「もと女史経営のこの学校は昭和 1 5 年記紙漉町丹市富 の女子宮集めたので、「和洋 j と「家政 j と呼ばれて両校 田小学校勝に校舎を移し、いよいよ発腕するかに見えた 併立すること拡なった。 J (@船本清著『ここに人ありき が、その年のうちに校主唐作撤世に学校を上げて譲捜し 柴田やす依 p . 4 0 ) て弘喜立を去っていった。 J ( 惨 事 ミ ; 水 j 宵著 F ここに人ありき

「小山内もとは明治 9 年 7 月初日弘前士族の家(笹森 柴田やす伝 J J p . 7 8 )  

町の今家)十こ換まれ、明治 2 4 年 l 丹に上京し、苦学力旬 以 j 二二三人の女性が明治期、大正期に多くの同難にもめ して弘立共立女子職業学校裁縫縞物本科(現政の共立女 げず、女子のための教育機関を創設したことを述べてき 子大学の蔀身〉に入学して、明治 2 6 年 8 月 1 0 日じ侍校平 たが、次ぎに賂立の女学校で大きな翰きをした永井夜好、

科轍物本科を卒業し、裁鑓補習科も移アし、帰郷して 2 9 L 藤浅吉、県立女学校を卒業後新しい女子のための専門 年 3 月 1 1 自に(弘前市立弘喜 r t 高等小学校准訓噂となった 学校を創設した長谷 ) 1 1 安津子女史のことについて述べ

n

q o  

(5)

津軽地 } j の女子教育を考える その 2

3 .   県立高等女学校

永井直好と工藤浅吉の活躍ぶりは陣興新報に連載され た荒井議税務『近代津軒を彩った人々』から見ていきた

し、

告,'k井直好

I  ~完治 36{十三 11 月 26 1J討けで、開校 2 年半後の第一 高等女学校 ( 4 2 年に弘前高等女学校と改称。現長の 弘 前 1 '

1

央高等 i 学校の前身。〉以下 f 弘 自 立 j

H

明記〉

の第

a

代校長t こ住きされ、 1 2 j ‑ j に東京かち長時した のが 3 5 才の永井自立 f である。以来大正 14 年 3 ) j   3 1  

1 1 付で、 58l をもって退職するまで、 3 たに足掛け 2 3

年 、 満 2 1 年達ヶ j j  にわたって校長を務めた。学校の (離任)式は 4 月 8 日に行われ、 2 4 日に午後を 休校とした全校生と、教職員主ど多数の人々に られて離弘した。…中略一送別会の結で、石郷附 r U

長は「永井先生には、本市に於げる高等女学校長;と して、今 F 1 まで比織にある事;己に 2 3 年 、 j t 関守:心鋭 意地克女 f 司教育の I l l t:¥与を以て共畿に明られ、爾来ィ卒 業生を I H せし事;己に千閉じ i 余 名 の 多 数 に よ り 、 ( ' 1 , 

略〉立 J r 斯 2 0 余年の久しきにはり、前jも同一学校のt:

脳者として、終始 ~j竜巻も鍵志の色なく女子教青を 以て畢生の痩命とするが如きは、饗するに先牛の威 容を;の燃らしむる処にして、他に熟ど其類例なかる如 く、実に景敬措かざる怨でございます(以ド絡 ) J と 惜別の挨拶を述べている J (@菜井鴻明箸『近代津 軽を彩った人々 5- 永井直好~ 1 9 9 2 年 3 月 1 9 日除 輿新報より〉永井出:好は"当時の女子中等教育に点献 した男性の一人であった。鎮の鋤きは次ぎのような ものである。

[永井直好著?を後の 3 7 年 3 月に第一部修業式が行 われ、 3 6 1 '

1

が卒業した。そして 4 月から就業年寂…

年の靖野科が開設された ( 4 2 年 3 月で、路Jt:。昭 4

に研究科、持 1 7 年に捕明科が設官をされるが、これは

: i

i U 種のもの) r 校 友 会 誌j の 創 刊 は 昭 和 1 7 年 1 2 月 末 であり、弘高 k は漸く発援の幕礎が確立した… 1 1

I

選 者 一第一回卒業式でぶ井校長は f 良妻賢母たるは難し、

回してよ L の 難 き を 知 る も の f 号 、 良 妻 賢 母 た る を え ん 。 j という趣旨の tJlIぷをしている。補普科は小学 校女子教員の有)]な供給掠であった(明治 1 8 年に保 女子師範学校が箆止され、 青蘇市に県立古悶森 1 尚氏ーと 校舎を共有して復活するのは!可 4 4 1 f . である。〉

5 年 1 月 1 6 口の i 弘能新聞 J に「弘喜立" ' t 1 j : . 気質j と L み 永 井 校 長 の 談 話 が 掲 載 さ れ て い る 。 そ の

r

f :

l

で「一、最も質実沈静、いずれかといへばあま りはでざが無き過ぎ¥多少時勢に遅れていし設いか とj 忍われる位である。報装なども笠って繋素で識に

‑31 

結構である。これは土地の関係もあらうが、要する

"般的に質朴で多少消轍期の素質あるためだらう と忠ふ。やわ略〉当地の立学生は、自分の意忘を充分 発去しえない額きがある。指導のしかたでは発表し 得るようになる。誠に指導しやすい ) j である。質:史 認鰭にして家庭主義の指導をする考へである j と述 べている。…中略一永井校長がかなり強力に県に畿 きかけたものに五年制の噂人が島るの大正 9 年 7 ) J   t こ「高等1;:学校令 j が改正されて、第九条t こ i 高等 女学校/就業年限ハ五隣年瓦ハ澗簡年トス j となっ たのである。去、高女本業生の中には、 上級学校ヘ進 む機備として、忍や弘前 k 学校〈聖愛高校の自Ij身) の締間科へ進む者があったのである

o

(命荒井ニ靖明 著『近代津粧を彩った人々 ?一永井商好~ 1 9 9 2 年

4 月 9[ 1 際興新報より) 事

会 工 藤 浅 宙

ぷJi : l 立好が校長の時の[弘高女は、運動会や汗集 会などで市民にも親しまれたが、ぎたスポ…ツでも j 忠球や卓球・開と競技など県下女子スポーツ界の先 述として名をはせた。 J (⑫荒井清明著『近代津軽を 彩った人々 7 ー 永 井 好 1 9 9 2 年 4 月陣奥新報

り) 了度その頃、…藤浅吉が県立弘前高等女学校

?こ赴任している

ο

!明治 24年に〈糠龍村一尾上町〉八幡~れこ生まれ た工藤浅吉は、県立師範学校本か第一部を卒業して、

南津軽郡・中津軽郡の各小学校に勤務した後、大1E

1 2 年 : 2 月に際立弘前高等女学校(弘前中央高校の前 身)教諭となった。以来昭事fJ 2 6 年 3 月に退任する設 で ( 2 5 年間月校長事務取扱、 2 6 年第ト四代校長) 2 8  

年の炭きにわたって勤務した。その感、体腎を担当 し、スキー・テニス・陸上競技・バスケットボーん などを指導して県一下の大会を数多く制朝した。特に スキーとテょエスは、全国大会で何 i 支も機勝して弘前 高女と本県 k 子スポ…ツの名声を高めた。一中割各一 工藤議吉の指導のもとに弘高 k が最初に頭角を表し たのはテニス部である。大正 1 3 年 9 月 1 4 日に県下女 子総球倶楽部大会〈会場は県在青森高次〉が開催さ れた。参加i 校は青高女と弘高女、市立女子実業学校 (青森中央高校の前身)の五校に過ぎなかったが、

(県女子師範学校は棄権)、弘高女が初擾勝を飾っ たのである。 J (毒事荒井靖明著 f 近 代 津 軽 を 彩 っ た 人々 27‑ 工藤浅 1 告 9 2 年 1 1 月 1 2 日陸奥新報より〉

このようにして始められたテニス辻昭和に入ってか らも益々実力を発罪することになったのである。

藤主主古は一方では明治 M 年に日本に紹介されたスや

ーをあらゆるチャンスを科用して修得し、[永井校

(6)

弘 前 学 腕 紀 要 第3 0 号 長にスキーの指噂を中し!品、永井校長はこれを許可

し 、 学 校 の 費 用 で 五 尺 八 寸 の ス キ ‑8 台 、 校 友 会 費 で 1 2 f r を 購 入 し た 。 そ し て 大 正 1 2 年 1 2 月 2 7 日から 3

H ! 問 、 I U 制 弘 前 高 等 学 校 の 裏 、 桜 林 の 出 へ 続 く 丘 で 、 生 誌 2 0 人がお加して講習母会が関{喜:ざれた。これ が 本 県 に お け る 女 r スキー講習考会の最初といわれる。

指 導 に は r 議浅出?と竹林葬次郎(人 ' j U 2 年 1 2 月に、

本 杖 ス キ ー 〈 ノ ル ウ ェ ー 式 ) を 修 得 し て い る ) が 内たり、永)!:校長は 3 日間;冬空のもと拳観 L たとし う。⑫庇井清明さを『近代沖車去を彩った人々 28‑r

議 浅 吉 1 9 9 2 年 1 1 凡 睦 興 新 報 よ り 〉 そ の 後 ス や ー 対して賛否両論が戦わされたが、 I l ' 藤:浅丘は、 f そ

成~長を頼り tこスキーを十円 j持し、弘女のスキーへの立 気と情熱にがj 激 さ れ て 、 や が て 県 ド の 各 高 k もスキ ー を ど l r y:り入れることになったのである。 J ( 2 4 ; ' 記 ) 1 寸 r 1 J J  .t;:近代沖軒を彩った人奇 28‑

j'

藤 浅 古 s1 9 9 2  

年 l 1 )j I 堵興新報より) r 蝶 没 ム の 指 導 に よ り 弘 I ; ' ; j y "

は 全 同 制 覇 合 な し 、 校 内 に ス ロ ー プ を 作 り 、 体 行 段~~ニスキーな取り入れるようになったので為る。

工藤浅 i i ! の kf 体 育 の 版 本 に つ い て は ス キ ー の 指 呼 を受けた、

1/)11

与の占森来高校丹内 j F 一 誌 が 代 1 1 制作〉

k  子 { * i ' 1 の根本はIr t~上体の健全育成にああ」と I~~fll の初めに!l, { ! t f A v こ 初 め て ブ ル マ を は か せ 段 業 を った。 u 光 に 吋 た っ て n が 流 れ る く ら い じ 怜 を 動 か す こ と … こ れ が 先 1 ' :,の期念で、あった。これを徹)式 てやるの議がや!といおうとも七じたことを行う日 怠の人であった。 / ; t . :n こ競技スキーを始めてやらせ た の も 浅 点 先 生 で し た 。 そ し て 全 I ペ榎勝を I J Y : .し送げ ました。(後略) J故 人 を 偲 ん で い る 、 I r:長率浅は 本県女子体育の発脱とスキ炉の発誕のJrl.;礎を作り、

それる f 育てたのである。 J (侮坑井出砂J~司( i r j[  f l . : : r l t 幌 合室長った人々 30‑ [勝浅 1 9 9 2 1 手 1 2 J J 4  H  r 浮興 新制より)

⑧  授谷) 1 1 安津子氏

2 ド 9 ) J 26 日、長谷川'~狩子氏は柴 lti やす k 史の i 女 CJJJt1 美梅 f) として生まれ、昭和 15 年 if,~

立 弘 前 女 学 校 の 第 2 7 l t . ! I ' t として小業している。

期 に は 品 作 弘 前 学 院 短 期 よ 学 の 非 常 勤 講 師 を 務 め ら れ た 交 藤 た え 先 生 が L 、らっしゃる。)さらに I f l 部 東 京 女 子 専 門 学 校 卒 業 後 、 柴 出 や す k 史 が 経 常 ず る 弘 前和洋裁女学校教論として勤務。

長谷川安津子先生につし、て、平成;t年(1 9 8 9 年)

1 2 月 2 5 ~1 の陳奥新報、 F文化合育む人』というコラ ム 織 に 『 一 広 い 視 野 の 人 間 育 成 J 服 飾 教 育 家 と し て 紹介してあるので、引用させていただく。

長 谷 川 安 津 子 さ ん は 終 戦 i 直後の昭和 2 0 年 1 0 月 、 I U

q o  

!津市軍医中尉の犬、長持 ) 1 1 重 虫I S さんの復員を機会に、

[白銀学園 j の 能 身 ろ が ね 洋 裁 学 院 l を開設し た。そのきっかけば、「洋裁をみ;絡的に習いたい j と いう娘さんたちの~望で決心した。「発起当時は、

わ ず か t ' 人 足 ら ず で し た j とい i 想する。

それまでは、立流教育持の僚出やすさんが暴挙常す る弘前和洋裁女学校教諭と L て動務。 洋 裁 i 患

j

点料で 洋 裁 と 家 事 を 教 え て L 、 た 。 長 谷 ) 1 1 さんは、東 J 江女 専 門 学 校 長 学 I j 1 か ら 作 設 が 仲 立 で 、 校 長 に 、 卒 業 後 も 学 校 に 桟 っ て 欲 し い と 強 く 民 望 さ れ て

L

、たが、;下 裁速成科の新設で、帰郷することになった。

昭 和 2 7 年 に 新 校 丹 念 建 設 し 、 翌 2 8 年 に は 県 下 初 の 学校法人君、 I I J

1 1 年に…調 i 3 開設ての校丹念新築、

学校経常は順調に発投を逃げたのである。そして、

51

1

ドに咋鯵学校法制定に伴って、 ~,~第一りのヒYI"J 学校と L て 認 I J J ¥ 場イ : 1 にレたっている。

N の紫行 i や す さ ん i ぺ掠、託行)1 1 さ ん は 女 性 学 校 併 話として、また教 f f 兵ーとして擾れた ) J I 誌を発計If L た 。 哨つの粋には支わず、林\)ぶい説野から、時 í\;'~I:

を先取り Lてきた。 JVt 吋1 1 与は、戦後の出乱期であ り、物資も欠乏していた。そこで咋裁の指特には、

まず

Il

, ' . { f 合科JlJしたりフォームを取り入れた。イ 1 : に 柴 I I I , ; ' ; j校 体 t i f t g でブ

y

ッ シ ョ ン シ ョ ー し た が 、 jえれ )11 きんはチラシ合子に、婦人会の人たちに 1~IJl J t こ l u l ったの ‑ 1 1 ' 聞各一

校 法 人

1

' i

J

似乍協 i 匂 q n J 学 校

l

は羽イ

1:

、 n . 和裁 とも本科、 n r l i 範科、伝令部

l

範幸千のほか、モデリスト

i 生成科のじ手利の総什服飾専門校。またカルチャー として、ブレックス o 下・事 1 ) 、

アートフラワ一、む物語付け、ノパ《ソコ〉

の手科?コ……スを開講講 i 1 しがている

c

長谷Jl I さんは I ¥Ij:料のノ《ソコンコースは、将の コンビュータ一時代を予知して設けたもの。 訳出{)社 険コースも、犬が出来lXでめり、事務品、'f'i'護者品に し て も 大 変 な 作 業 で あ る と こ ろ か ら 始 め た

α

就 職 率 ば 1 0 0 % 、 県 内 外 で 出 版 し て い る J と 語 っ て

L

、 み の 内銀スピリヅト"がある。それは n ・和裁などを 通 し て 、 専 門 的 技 街 を 身 に つ け さ せ 、 伸 び や か な 感 性 で 広 い 説 野 を 持 つ 人 材 内 成 を 目 指 し て い る 。 家 定 婦 人 、 ま た 職 業 婦 人 と し て の 人 格 形 成 が 未 米 像 の 革 本 県 念 で あ る 。 そ の た め 、 持 代 の ニ ー ズ を 撤 感 に と ら え 、 学 園 の 環 境 と 教 育 内 容 を 常 に リ フ レ ッ シ ュ す る こ と に 勤 め て い る 。 時 代 性 の 見 極 め を 伺 よ り も 大 切 に い 実 行 す る 力 を つ け さ せ て L 、 る 。

平 成 元 年 度 か ら は 校 長 織 を 次 女 の 万 利 子 さ ん に 譲

り、理事長として専念している。後継の万利子さん

(7)

津緑地方の女子教育を考える その 2 は、筑波大学卒業後、米間のニ品 沼ークで研務し

て?靖国。校長補佐として、;長谷市さんの片総となっ てきた。

ふ 弘 前 女 学 校

長谷 ) 1 1 さんはこれまで全日本線装学校連合会から 服飾教脊功労賞、場団法人衣鰻研振興会から衣競功 労堂、さらに黙五等瑞一宝笈を受賞している。長谷川 さん段 f 今後は、弘の期

J

想とする生活、食事を行司、

花を飾り、一家だんらん、磯雅に暮らしたい。だが 白銀学揺は、私が創設したもので、生涯愛校心は変 わらなし、 J 戦 後 の 津 軽 に 服 飾 文 化 " の 花 を 裂 か せた長谷川さん。時代の移り変わりで幾多の苦労を 重ね、今日の礎を築づいた。その鰐立の精神は、校 長の万利子さんにしっかりと受けつがれている

o

その万利 f 校長先牛の活鰹ぶりが次のように報じ られていたの「この 1 1 月 1 3F 3   ( 1 9 9 3 年 入 学 校 法 人 4 0 周年を記念してファッションショーを開いた。 同校 は昭和 2 0 年、;主ろがね洋意見学院として開校。 2 8 年に 県内初の専門学校長二人となり、現荘はファッション 科、きものクチュー;!"‑科、モヂリスト科、高等科な どで洋裁・和裁を指嘩している。このショーは例年、

生徒の作品を披識する目的で開かれている。今年も 1 2 0 人の生誌が個'性島ふれるブァッションで号場、

作品はいずれも着物や古いコートなどを着などを再 利用したものである。また法人化 4 0 周年の今年は青 森ヒパの防虫始果を施した新素材の作品も披露され 注目を集めていたり j  ( 窃 1 9 9 3 年 1 1 月 1 4 日鐙興新報よ

轄に記さなければならないのは、毎年のファッ ションショーによって衣殺をリブォ…ムするという リフォーム j という汚葉をこの地に定着させたの は長谷町安津子先生であるということである。

次に大正期、昭和初期 ι 弘前立・学校で学び、現在もお 元気でその道を極めていらっしゃるお二人の卒業生の

[(1]

想録によって i 当時の磯子を探ってみたい。

‑33 …  ぐ

む 樟馬みどり民の場合 i . 略歴

明治 4 4 年 1 0 月 1 6 日張。

大 I E 1 4 i f . 4 丹私立弘前女学校入学。

昭和 5 年 3 月私

昭和 8 年 4月東京女子氏学専門学校入学。

昭和 1 1 年 3 月東京女子医学専門学校卒業。

昭和 1 1 年 4 月東京消生会芝病錠眼科へ入詩。

昭和 1 4 年 1 2 丹東京消生会芝病院退職。

昭和 1 5 年弘前市に誤科院続開業今日に至る。

平成 4 年 1 1 月 3 日(文化の日)

5 0 年間の学校厩としての功載を讃えられ勲五 等短瑞宝輩を授与される。

.弘前女学校に入学した動機

私は初め県立高等立与で校に受験致しましたが、

台格できませんしたので、弘前女学校に入学させ ていただいた次第です。

,イ?在学中の弘前女学校について

当時は弘前市外の町村からの入学者は殆ど寄稿 者

守t こ入ることになっておりましたので、私も入学 と同時十こ入合致しました。

ギリスト教は弘にとって全く無知なもので島り、

校長のラッセノレ先生初めミスパイラ一等外人の先 1 1 : ) j にもなんとなく餅染めないで、当分の問途感い を感じておりましたが、厳しい中にも心霊長かく熱 心など指導に依り次第に校風にも欝

11

れ、毎朝の礼 拝も心の安らぎとなるようになりました。

寄宿は臼曜の午前は必ず教会の礼拝:に出席し、

上級生になると午後は下町方面の日曜学校へ行っ て子供達に型書のお話をしてくることにも楽しみ と喜びを感ずるようになってきまし,た。

そして又寄指生はクリスマスイブに隣の両派舘 へのキャンドルサーピスでラッセル先生からお菓

子等を[説いてくることも楽しみの一つでした。

学校でも寄指舎でも上級生も下級生もやさしい 先生万に守られて一つの家族のようじ本当に楽し い毎日でした。立学校時代は私にとって…番心安 らかな持だったと患います。

i v . 卒業後の進路について

卒業後は東京女子低学専門学校 ι 進みました。

私の父が陸部でしたので私は小さい時から甑舗 になるよう義務づけられていたようです。

ことも又若手宿舎生活です。ここは日本全頭、

中国等からも来ておりましたので、田舎者で裁の

小さな夜、は初めはなんとなく鈍遅れがしておりま

(8)

弘 前 学 誌 記 喪 第 3 0 号 し T こ 。

心細さもあって近くにあった教会に日醸毎通っ ておりました。

友子罷専もどうやら無事本業できまして、すぐ 東京赤鳴にある済生会荊続眼科に入局させて頂き 研移すること f こなりました。ここでも又やさしい 先生方に教えて国きました。まだまだ鮪強した かったのですが、父の皇室舗で昭和 1 4 年 1 2 月に退職 することになりました。

次の年 1 5 年 3 丹 K 弘前市に小さな眼科医読を興 業いたしましたが、その後は結婚、出産、戦争そ して子供の一人の不期、の死亡等いろいろな背しみ、

悲しみ、にも遭いましたが、女学校時代に心に刻 まれたキリスト教の教えは何時も心の支えになっ ていたと思います。

女学校と時東京拡ての勉学中又、戦争中等の問、

全く掠速になっておりましたが、終戦後女学校は 弘語学説型愛高等学校となり、私は再び校友会の 幹事としてお世話になることになりました。その 中一時学校の理事にもならせて環きましたが、弘 前学院大学が新設されると同時に理事はやめさせ て頂きました。

そしてその後は型愛高等学校の誤科の校医とし て撃をめさせて頂いてきました。女学校入学以来本 当に長い関お世話t こなって参りました。

私ももう八十二才にもなりましたが神様からの お召しがあるまで神隷のご態を勤めさせて頂きた いと願っております。ありがとうございました

α

0 9 9 3 .  1 0 .  2 0 )  

山鹿さた氏 ( 1 8 顧問〉の場合

i . 略歴

大正 2 年 8 月 2 8 日生。

(北津軽郡板隣町土井 1 7 5 番地坪田方〉

昭和 2 年 4 月 1 日弘前女学校入学。

培和 7 年 4 J l   1 日青山学院神学部入学。

昭和昨年 4 月 l 日から昭和 1 3 年 8 月まで、箆出 教会婦人長道師。(結婚のため送職)

昭和 2 5 年 4 丹 1 日サムヱノレ保育瞬勤務。

昭和 5 2 年 1 0 月 1 S ダピデ探背闘に興動、現1'‑:0こ 予 絞 る 。

ダピデ保育摺調提となる。

i i . 弘前女学校入学の動機

生みの母〈その当時再婚して荘東京)が弘前女 学校の〈卒業〉中退生で信者だったので祖母に育 てられている私を安じてキリスト教の学校に入学 させるよう拐望したので。

i i i . 弘前女学校のを活について

i

一誌で表せばキリスト教的雰囲気が学校全体

ι 編ぎり、少女の薄茶を叶えてくれる快適なもの であった。

b. 勉強は離しく、特に型書の授業は毎日で、次 は英語だった。英語の襲業一日 7 時間という[]

が 2 日もあり、他の臼は毎訂 2 時間はあったと 授、し、ます。本業年の五年生は県認可(文部省ま で関わるのかわかりませんでしたが〉の「小学 校専科正教員一英語ーの免状が与えられる試験 が学校で打われ、希望者は当時のお金で三円を 添えて受験したものです。県庁より試験官が来 校し終告かけたのでした。

c  .成績に重きを置いた事は次の事でもわかりま す。と訪うのは、オルガンを学校で習いたいも のはヂ均点 8 5 点以上とされていた事です。凶洋 の先生が校長他 2 、 3 名はおられ生徒に対して は厳しかったと記矯しています。

d. 一五、授業以外江「自由 j な諮問気が濃く業 しさが一杯だった

o

e.  i:云道精神も盛んで、観桜会 現・桜祭り の 期間中の銘静伝滋の記;援に毎夜出かけて、讃美 歌と奨励・証しの奉仕をした。また部土曜 Eと 日曜告に市内 1 0 数鋼所に教会学校を開き、 Y W の先生、生徒が数名づっ出かけたのです。

その日のために金曜日の放課後、模擬教会学 校が実施され、先生方がと主誌となり、生徒が教 会学校での可会・お話・讃賛歌等を練鳴したの です。毎週欠かさず行われたのです。

i v . 卒業後の進路は?

入学時の 7 月受洗した私は、学校生活の中でお 道者むなるべき,思いが徐々に育てられて、同級生 3 人と青山学院神学部を希望した。(私はその中 で、学校教部になる師範科を選んだ〉。

V. 現ぞと~...云々

大変感議している。若しもやリスト教を知るこ とがなかったら私は人生の裏道官歩く人間となっ ていたと患う。

現在乳幼児保育に打ち込む生活が与えられてい

るのも弘前女学校に入学を許された御蔭と感謝せ

ずにいられません。この道一筋の捗みも 5 3 年 H と

なり、感無量です。 0 9 9 3 . 1 0 . 1 8 受)

出差是きた先生は弘前学院の初代校主である山車克

次郎先生の子息素先企とご結欝、素先生が弘前学院

の宗教主事・型脅科の教諭、さらには弘語学説大学

の教授をしておいでの約 3 0 年間は元次長 5 先生が鰐設

(9)

津軽地方の女子教育を考える その 2

された私立託児麗〈現サムエル、ダビデ保育詞)を はキリスト教による人絡形成とリベラノレ・ア ツ〈静通 支えてこられ、現在誌素先生がサムエル保育掘の闘 の大学の一般教育科目を総えた学際的な教養学問の窓 長、きた先牛がダピデ掠湾関の関長として活躍して 味〉を中心にした国際教議離を育てることにあるから、

いらっしゃる。さらにさた先生は長年わたり弘前学 期待されるところも大きい。 J とおっしゃっている。

説校友会の副会長を務めておられる。 このように女子への教育に寵する~-えが変化してきて いるが、ニニで再び大正期に炭って一つのコニピソードを

おわりに 紹介して本稿を終わりとしたい。大正 1 2 年に弘前実科補

刊本の k 子教??は明治の初期からこれまで f 良妻賢 静女学校を卒業後、尾と町金旧小学校の代用教員を勤め、

母 j を H 的として教育がなされてきたが、今宮では細川 昭和 2 1 年茶道連州流弘前文部長、 4 8 年茶道遠分 i 流家元顧 内龍のメンバ に文部大盟あ松良子、国務大臣〈経済余 問 、 5 3 年華道遠州派東北総家警となられたよ村コト女史 画長官・総合交通対策担当〉久保田真前、出務大臣〈環 が昭和 6 1 年熟文化賞を受賞されたが、木村コト女史が書 境庁長官・地球環境問題お当〉広中和歌 f の三人が入額 カ通れた『コト様の昔語り』に「再興した東奥義塾 t こ新民 していることからもわかるように女'性も政界にも進出す を吹きこもうと、当時の塾長笹森鱗造先生は、アメリカ る l 時代となったので、ある

o

だから、女性もどんどん揖欝 ・オハイオ州立大学を卒業した宣教師を、二年の約束で 化社会の 1 f T でも活襲できるキャリァウ…マンを育成する 弘間前に招いた。名はル…テー。 高木武夫先生やアイグル ことが教育の必須の諜鰭となるのではないだろうか。 ハート夫妻、若い斉楽家のシャクロック先生と共じ、経 東洋英手 n 女学院大学がぞ1)年制大学(社会科学部)を聞 は昼で、夜は 7 時から夜学校を開講したの法昭和 1 2 年の 校するにあって胤談合をして L 、た様子が 1 9 8 9 年 l 月 18H ころだった。

の神奈川新開に載っていたが、その中のお二人の言葉を 女生能は角み呉服庖の官 ) 1 1 さださん、下土手町今泉書 引崩したい。Je本学の学長で当時東洋英和 k 学院院長で 胞の今泉まさ子さん、中上手時の果物!丙桁井千代さん、

あられた田島告之先生は「私立学校には、変わってなら そして季刊の同人雑誌「欝明 j に、歌人として出るよう ないものと、変わるべきものと、一二つ島ると思う。 東停 になった虎谷(木村〉コト。後は新しい教育に熱意を燃 英和 l 女学院は 1 8 例年、東京・六本木鳥居板の地にカナ やす若者たちでいっぱし、になった。一中略…このほかに ダの婦人宣教師ミス・カートメルによって創設され、 主主は、ノし…テー夫姿が住む下白銀町の西洋館を訪れ、賄 1 9 8 4 年比百周年を迎えた。東洋英和は従来、女子教苛の い人夫婦と一緒に小学校{丘学年の日本譜と、英語の交換 名門校といわれ、高校、短大以下の教育の充実を函って 授業をした。朝から晩まで、ルーテーさんが患に聖書の きた。否賜年を機に変わるべきものとして国際化時代の 講義を、怠からルーテー;夫議警に日本語をというように、

2 1 世紀に烏けて、女子教?ぎにも本格的に力をいれていこ 夫妻がアメリカヘ帰るまでの土年開続けた。一中略…い う、という大きな柱を主主てた。一中略ーその第一陣とし よいよ夫妻がアメリカヘ帰る日近づき、私は保遊婦とし て、短大が 1 9 8 6 年に六本木から移転した。それに伴い短 て渡ること合議まれたが、高木先生が大反対した。私は、

大も従来の保湾、英文科の二学科の他に、保際教護科も 真心があれば鉢ひとつでどこへでもいけると考えた。

新設し、知大の充実を一花;達成した。そしていよいよ、 と惑かれている。茶道と華道の純日本的な教育を受けら 四年制大学の設置になった。横浜を中心にした地域社会 れたコトさまから宣教師の先生の活躍ぶりを伺うとは窓 に役立つ大学にしたい。…中略一東洋栄採は今まで幼稚 外で島ったが、津軽地方の友子教育を追究する 3 義者に 障から短大までだったが、これで一貫教育が完成する。 とってはとてもお考になることであった。本稿を記すに これは短にエスカレーターシステムのメリットだけでな あたって、引用を許して下さった荒井清明先生、船本靖 く、キリスト教精神に基づく一つの変わらぬ教育理念で 先生、資重なご家族だけのご本である r コト様の昔語 人間教育ができる、ということに最大の意味がある

o

J  り J をお譲り下さった木村 3 誌のみなさま、お忙しい中を といわれている。又学長の朝食孝古先生は「今度できる アンケートにお答え下さった先中方に紙彊をお借りして 例年制 k 子大の内容、特徴は J という需いに対して「私 浮く御礼申し上げます。 0993.1 1 . 1 5 ) 学は建学の精神を尊麓しなければならないが、国際化時

代のニーズにもこたえねばならない。従来の良幾賢母型 教育から、園内や外国で活寵する交性の宵成を密らねば ならない。一中略一女性の社会選出

引用・参考文献(合新鶴〕

1 .   土 n e l 震予編『自菊』否罵年記念母

フェリス女学説山猫会発行 昭和 4 5 年版 2

 

久野明子著『鹿鳴館の貴婦人大山捨松一日本初の女子議学 生 』 中央公論社 1 9 8 8 若手販 3 .   青木生子著 f 明日の女子教育を考える一女子大学長のそ予轍

ph

U 

4 3

 

(10)

弘 前 学 説 紀 要 第 3 0 母

から J 講按社 1 9 9 0 年版

4 .   福島恒雄著 f 藤密匡伝一我が属最初の商人牧鮪… 3

藤田監訟記刊行会 昭 和 4 1 年 版 5 .   大木英二著『弘前教会百年小史 J

日本キリスト教照弘前教会 1 9 8 3 年 版 6 .   本多繁著『米躍のプ口タンテイズムと日本人 J

丸善株式会社仙台支出 平成 3 年 版 7 .   船水清幸 f W ここに人ありき 柴聞やす伝』

柴田学麗 昭和 6 1 年 版 8 .   船水溶著 F ここに人ありき 第 一 巻 山 鹿 元 次 郎 J

陸爽新報社 昭和 4 5 年 販 9 .   船水溶著 f 脊森娠の写真事始 J

北方新社 昭和 5 2 年 続 1 0 . 荒井清明著『弘前今管』 北方新社 1985~年版 社 荒井清明著『続弘前今昔j 北方新社 1 9 8 7 年 綾 1 2 . 荒井清明著『近代津軽を彩った人々一永井政計』

障奥新報連載 1 9 9 2 年 3 丹 1 3 . 策弁清明事事『近代津軽音ピ彩った人々一小山内むと』

陸奥新報漣載 1 9 9 2 年 6 月 1 4 . 荒井清明著『近代津軽金

f

彰った人々一工藤浅吉 J

陸奥新報連載 1 9 9 2 年 1 2 月 1 5 . 木村コト箸 r コトざまの1f語り J 昭 和 6 2 年 版

1 6 . 小槽山ルイ著 f アメリカ婦人宣教師』一来日の後最とその 影 響 東京大学出版会 1 9 9 2 年 瓶 1 7 ヘ f 文化を青む人・広い視野の人興形成 J

障奥新報 1 錦 9

1

f

1 2 月1 5 日

参照

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