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津軽地方の女子教符を考えるその

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津軽地方の女子教符を考えるその 1

A STUDY OF WOMAN'S EDUCA  TION IN TS じ GARUAREA No.l 

日 次 t まじめ t こ

1.沖軽地方の教育の j ぷ吹設をたずねて 1 .   藩政期の教育は

2 .   幕末から学部までの教育 l l . 学説発布後の津軽地方の協

し 東 夷 義 塾 2 。 選 j 池幾久子

3 .   公立小学授の女子教宵 4 . お谷徳子

I l I .  

1 .   津i 日梅子 2 .   高桜宰子

N. 津軽地方の k 子のための高等教育機関

1.弘前女学校 一以下次分…

2 .   限立高

V . 大 T E 時 代 V1.昭和初期 建.戦後 おわりに i まじめに

1 9 8 6 年 4 丹,男女脱出機会均等法が施行されたことに よって,募集や,福利率生,定年 1 ! J 1 ] な ど を i ド心に女子の 持鴻は少しずつ, l 投詩が}みられるが,員己 i 註や持滋などの 出ぬでは依然企業袈 u の対応が出れているということが労働 結 果 分 か っ た。①女性の地位が飛躍的あるいは 活気 I ' i ' J な 転 換 が か え られた勾は 1 9 4 5 年 8 丹 158 の終戦であるとし、われてお り,男女平等の人権を得ることができた。そして 1 9 7 5 年 の矧際婦人年をきっかけは女性の地位はどんどん高まり つつあり,あらゆる人たちが女性,女性と論ずるように な っ て き て い る が , に も か か わ ら ず , 女 性 に 対 す る 離 別.Wii見が説前としている。在、たちの身近においてさえ も見うけられる。そう¥" ?説状の i 十 i で弘たち女性はより 人間として,一人の人務をもつものとして認められるよ

うに努力しているのである。

坪 膚

N .  T s u b o t a  

1 9 8 5 年 1 0 月 2 3 日 " ‑ ' 2 4 日まで東京の有栄町の朝日ホール で『国際シンポジュウム…一悶加工世界をどう変えるか』

が什われた。このテーマを英語でいうと「変っていく世 界における女性」となっており,変革の中で女が翻発さ れるというニ品アンスをもっていると参加者ぉ一人はい っている。②まさに現代の急速に発践してしぺ社会の中 で私たち女性は右往左往しているだけなのだろうか。シ ンボジュウムでは,第一議題「女性の地位 J .第二議題

「差出の摸造 J .第三議題 f 女性原理と男性服理 J ,第 四 議 題 「 家 艇 と 子 ど も い 第 五 品 潤 1 2 1l止紀への戦略 J であった。そして今年,女性学研究会によって全 4 巻の

『 講 座 女 性 学 J が出版され,その中の第三巻のテーマ は Ik は位界を変える J となっている。讃 j おには女性,

女に i 持する本が溢れ,気をつけてみると,週刊誌にも新 出も女性じ I Y J する記事て、壊もれている。東京はは女性の 書いた本(小説や詩,実用詩を除く女性著作全般) 1 5 0 0   点 ( 4 , 5 0 0 時〉だけをおいている護活③ができたという。

る自分のことはほとんど何も理 解していないことに気づいた。女性であるから女性のこ とは全部知っているのは当然と思われるが,女性は女性 しくよ4:.きることで立分のj 誌を必む,その女性らしさと は女性の本質と時,フェミニズム,女性学という営灘の 氾濫の中で,白分を理解するため ι は,いった L 、 H が 必 叫なのだろうか。教育であろうか。

私たちは円、っ,どこでも,設が.fnJなした j というふ うな話し i T いから鋭野して, I 人間とは{司か j を考えな ければならな L 、。私たち女性は親から教鈍から

H

女の子 らしさ"の役訴を期待されている。はたして女らしさを 保持することによって私たちは男議と対等に生きること ができるのだろうか。

教職は一般に数少ない男女同一労働同一裁金を建て前 としている職業であるにもかかわらず,年ャリアを積ん だ男性は管理職や教科主任になり. k1 : 4 : v t . 1

s : 品 川 爪 旧

といった校務分挙が固定{じする鋭舟がある。

小中高でも見うけられる情況である。また高等教育の教 員に関しては,女性の比率は学内の地位が高くなるにつ れて下がること,学閉鎖域や大学のタイプによって偏り があることが明らかにされている。④又,新究梁繍水準

‑ 43‑

(2)

弘蔀学院大学紀要 ~124-'i手 が男女時じ場介,明らかに女盟の方が地位が誌いという

こと⑤が指摘されている。同一賃金で島るはずの教職が このような状記である今,さらに男立差別がないといわ れている国家公務員にも晃正,升絡の差別があるとして 行政主 i ? 誌を要求しているニュースが l 開設新[認に掲

p

哉され ている。⑩)私たちは女悦そのものについて再検討する時 期にきているのではいないだろうか。女性たちが M を考 え , { μ j を欲するのか,女性の身体や心理や社会的態変に 男性と異なる点が見う吟られるとすればそれはが j か。ど うしてそれが起きたのか。私たち女性に t t えはないだろ うか。女性が窮持される社会的投混とは M か 。 2 1 j 同誌を 日前にして私たち女性は考えなければならないこと,し なければ江らないことが 1 1 1 椋しているようじ思うのであ る 。

を向け,女性はいったしイ 1 1 1 を求めてきたのか。女性にとって教育とは{ l l J であったか を考えてみたいと惑うのである。まず第一に津軽地方の 藩政末期境からの女子教官は? 第二に明治初期から r j l 期の特に都合と地方での女子教青の違いをそこに寄った

ら,考えて児たし、と患う。それらの 女性たちを通して,れ分自身が受けてきた教育とどのよ うな違いがあるのかな見て行きたいと忠、う

O

そしてさら には,女性として生きていくためには f りをしなければな らないのか,何が必要なのかな考えたいと思うのである。

1.津軽地方の教曹の息吹きをたずおて

東京と弘前,今ではジェット機で,新幹線で, i 白;瀦パ スであるいは自家用車で, 日川りのできる距離となった が,私は今,タイムトンネルを通って藩政時代から明治 時代へとその時代の教育の様子をよな間見ょうと思う。

1 .   藩政期の教響詩

1 6 2 8   (寛永 5)5 f ,  r 出向」からはム f i i I J と改称され る弘前は,二代日藩主信技によって 1 6 1 1   (謹長 1 6 ) 年に開かれたのである。⑦そのころから 控上においても,事 i J 流においても,交通の慌に恵まれ,

立地条件のすぐれた弘前は津軽地方の政治・経済・文{と の中心であった。すでに京都,大阪,江戸との往来があ り,これらの文化にも接していたので,建築,彰刻,あ るいは詩歌合唱み,学問〈儒学〉を研究する蕃土も少な くなかった。

藩程為信(1 550‑1607) は鰐方諸礼師柿として長谷JIj 奨濃等を召抱えて藩土の礼儀を IEL ,為信自身誌歌道に

も秀れていた。

西代 1 1 審 : = t = . 1 , パ 政 ( 1 646‑1710) は特に 1 1 1 詑素行につい て兵学・儒学な修め,率先して学 n n に助み,津軽平野西 北部の新田開発をはじめとして,完全:検地,四海岸関見 111 の槌柊なと、行政 lúÏの諸~Ijlj 度の整 v1li,さらに拭, 1 6 6 1  

c 童文 6)年には自iI o 方を置し、て, ~藩自記~ v こ記録さ せるなど擁の体揺を整えることに尽力してレる。例えば 諸制度の中には下吾 u の武士の長男や二宮訂以上の者の 子弟は, 1 1 才より弓馬や干し法,読み書きに白熱するよう にし, 1 6 :‑f以上は学問と武芸の稽古を休みなく積むよう に,父兄がよく子弟の教育に心を配らなければならな い。⑧」と規定している。

イ三政に続いた代々の議主は,しばしばおそった凶作と,

それにともなう社会不安や藩財政難の 1 1 1 にあっても,国 学 . ' l 需学のほか毘学その他実学な重んじ,議土の教育を 怠ることがなかったので、あるが,その教育も上級滞土や 家 G i : てと対象するところにとどまり,さらに北辺警縮努と いうことからも藩では出来の武芸だけではとうてい開に 台わない情勢に追い込まれていて,

上のために組織的な教育施設としての藩校が必要となっ てきたので、ある。

九代日藩主寧親 (1765‑1832) は,名君とうたわれた 八代日滞主信号jの末鰐養子として 1 7 9 1 (寛政 3) 年 7 月 5 日溝主となった。 t O l 市 親 は } ) ; ¥ : : f i 藩の六代行藩主だった 人で,募出成品勝雄父子に歌合学び,また俳識を好み,

{JI,むを三つも持つほどの人だった。この ~Lj~殺のf\ょにいよ し、よ議校の [ ) I J設にとりかかることになる。 1 7 9 4 (軍政 6) 年用地を追手門詰〈現在の;東奥義熱の校地〉に決め,そ

こじあった土謀、藩土の臆敷は{釦こ移して,学舎の雄第を はじめ,教授陣容の整理や諸説J1I J の規定を急いだ。命こ の蓮校の収官能力は 3 0 0 名程度‑となっていたが,藩校と L  、つでも披初から葉土の子弟…・椴に解 i まされたのではな く,ー誌の藩の上級子弟にかぜられ,藩の幹部家目の葉 成機関となっていたのである。そのために藩校ぷ入れな かった若い藩土たちの向学心は増長され私塾や寺小躍に 通うものが増えたのである。

私熟や寺小培は藩校が 1 7 9 6 (寛政 8 年)に城外に開校 される 2 0 0 年も前の天 I E 年間(1 573‑159 1)審主為信の 時代に紙漉村にすでに移験弘旧議徳が読:説官学を主と して寺子屋を r m It、ていた〈日 とし、う記録 があり,又,点呂寺を開 I U した京総上人(1 6 5 1 ・隣安 4 年〉をはじめとして, 1 曽部たちはい仰だけではなく学問

1

的にも町人や百姓等にも感化を与えている。

安政 f 判明 ( 1 772‑178 1)には,数件の払誌や寺子屋が 見られ,先 ι 述べたように藩校が開設されてからの文 政・天保・弘生年代にはその数が増していったのであ る

44 ‑

(3)

津粧地方む女了‑教育さど考える その 1

弘前市教膏史 23~24JX 弘前における私塾・寺子屋〈日本教詩史資料八?用実による〉

… i 一 五 下 型 ' 1 : . , 師 匠 名

名 称 所 在 地 1 m 業 年 癌 業 年 教 師 数 ' 1 : : . 徒 数 調査{f. 身 教 正 堂 J I I鳩 町 安永元年 I U J 治 5{ r   女 男 1  女 リ J  80  1 8   安段、 6 { F   J E 倫 堂 組 良 I I I J 安 永 3{ I 三 明治 3 午 女 明‑ 80  30  文 政 5 ~年 知京学舎 T

一?ゆ

I  

出 J 安 永 31 f : : 文 久 5 年 男 1  女 男 83  17j天 保 日

幼林学舎 森 I l J T  寛 政1 2 { t ミ 明治 8 年 男 1  男 ! I . . '  

桃 園 常 代 l j ' 町 文 政 7{ f . 天 保1 4 年 男 1  男 女 54  6  天 保1 1 年 松 1 巴 u .   小 人 町 文 政1 1 { j ' . 安 政 6 年 男 85  天 保 3 年 向 学 堂 五 1 ' : [ j 1 U J 文 政1 2 年 明治 5 イ ド 男 1 3   8 7 4    天 探 2 年

東長Ill J 文 政1 2 年 文 久 元 年 男 1  女 男 1 3 3 9 7     弘 北 3 年 主 主 小 人 i 町 天 保 5 年 文 久 2 年 男 2  男 50  文 久 元 年 寄 五 堂 策 前 … 1 . :   玩 f " J   天 保 9 文 久 5 年 男 1  男 女 7 3  

2 1  

》乙ヶUl J 天 保1 21 ド 明治 4 男 男 t . :   180 

2  40  安 政J 比 三

篤 敬 堂 新 l I I J  弘 化 2{ ド 明治 6 年 男 1  女 男 83  嘉 氷 2 年 1 9  

和 徳 町 弘 化 2 年 安 政 3 年 男 1  女 男 85  高永元年 1 1  

諮 問 堂 袋 I D J   安 政 3 ' ド 1 j 河治 8 j 男 1  女 男 6 2   明治 5 年 1 5  

茶 知 町 安 政 4{ ド 男 女 男 70  1 5   安 政 5 年 若 党 府 J 安 紋 6 : 1 1 三 慶 応 3 年 : ' J j  1  女 男 65  文 久 治 年

1 5  

~禁治塾 代 官 町 文 久 2 年 明治 6 ' W 男 1  労 115  明治 3 年 徒 町 文 久 3 年 明治 4 年 男 1  ♂ 男 女 30  慶応光年

1 0  

関 沢 堂 茶 知 町 慶 応 2 男 1 ∞  盛 応 2

思 斉 堂 罵 麓 町 援を応 3 年 明治 9 男 5  男 300  明治 4 年 桃李義塾 慌 森 町 I J J J 治 3 ド 5 号 3  男 9 0   明治 4 向│場舘 上白銀町 明治 5 { f .   明治 6 年 男 5  男 1 1 0   明治 5 年

: : 1 :   中 民 助 県 主 主 挙 蔵 件 調 野 が 場 イ

ゴ ~~ 貞 / ¥   佐 藤 新 蔵 神 渇 ! 弥 柴 陸 栄 場 ヱ │ 熊 井 四 郎 担 ‑ i 設 手

で幻

白 l j l :  

藤 嘉右衛門 f J i .   出 太 t i i   も 司 [ 新 ノ 1

2 / J 又 、 . &   五 ! 理 下 沢 可 ! 弥 横 1 1 1   水 続 山 崎 忠 之 進 議~t 八郎

兼 板 ル え 工 藤 主 主 ぶ 主

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この潔から見ると安永年間 0772‑178 1)に開設され 2 .   幕末から学制までの教育

たJl I 端可の教疋堂や相良昨のiE備堂,百石町の知新学舎 幕 末 ι なって,藩政は捜黙を縮小しながらも;菊学を取 には女子も~又容されているが,その就学の割合は男子の り入れ,やがては英学も必要となって, 1 8 6 9   (明治 2 / 1 ' . )

4 分の 1 から 3 分の 1 にしか満たない法ど少なかった。 7 月,域の東門外にあった津軽直記邸〈現荘文化勺ンタ これは庶民の女子に文字を習わせる必要がほとんど感じ …,堀に耐した角麗敷〉じ英学察を開設した。@英学寮は られなかったこと,さらにはお茶や活け花などの女性の 藩の子弟の i ゃから鑑秀な者約20 名を選び〉学殺を給付し 噌みとしての教義をわざわざ身につけさせる生活上のゆ て入学させた。この英学課の開設の中心となったのは,

とりがなかったものと見受けられる。 福沢諭吉の塾で修学し,英語の学力を身につけてきた藩 土台埼豊作である。彼は弘前で英語を学んだ最初の人物

‑ 45 

(4)

弘前学院大学紀要第 2 4 与 を といわれている。⑬

1 8 7 0   (明治 3) 年,それまで域舟で綿々と続いていた

「学問所 J (藩校〉は,自黙消滅して,英学盤が拡充さ れた。

1 8 7 1   (明治 4) 年,路、薄置県十こよって,藩校は県の管 轄となり,学費はすべて私費となり,入学資格は広く一 般に解放されることになった。 i 訂藩ヨミ沖軽承昭は i 詰藩主 の 私 塾 と い う 形 で 学 舎 の 存 続 を は か り 漢 学 寮 」 を 域 内に移し, r 英学寮 j を東門の外においた。しかし,域 社が政府の管轄に主主ったので,二つの繋を統合して追手 門 外 の 綾 初 の 議 校 の 地 に 移 し , 弘 諒 漢 英 学 校 J が開設 された。奇襲とこゐが, r 、漢学寮 j は工藤他山の私塾門誌

塾 j としてまもなく向い角〈現在市役所角〉に移転した が,やがてまた,藩授の伝統を継ぐ新しい時代にふさわ しい学校を設立するために「つの寮は統合され,明治 5 年末広「東奥義塾j の創設となる。

I I . 学制発布後の津軽地方の教育

1 .   東奥義塾

1 8 7 2   (拐、治 5) 年 8 J ' l 2 日,学 i l l lJの題宮を笈苦した「太 政官和 { l fJとともに「学制jを公脊し, 8 月 3 誌に様方

した。

太政官公布第二長十四号(被が J I 出議〉

みずか 事 ん お さ げ ふ 容 か ん

人々自ら其身を立て其産を治め其業を高じ

L

んだい とせい

究 之

のゆゑんのものは仰な

まうや事

長するによるなり市て其身を絡め智を開き才芸を長ずる

ます

がく あた が く と う も 品 け

は学にあらざれば能はす足れ学校の設あるゆゑんにして

がくもん か〈もんじよ ひびのみ

Rち ょ う じ よ う と ろ げ ん ぎ よ し よ さ ん 拭 ¥ . , く わ ん の う し よ う ひ 〈 こ う 曹 げ い ほ う 内 つ い

日用常行言語寄算を初め士官農商百工技芸及ひ法律政治

のお

f

こないことばづかいて屯ちいそろばん やくにんひゃく

L

ょうあ念んど

L

よく拡んげいにん

て ん も ん い れ 号 いとな

天文医療等に至る史認凡人の営むところの事学あらさる時

やまし、いやす が〈

ι

なし人能く其才のあるとこ

し業を昌 t こするな得へし

事いほん

の財本とも L 、ふへきものにして

もとで

して i l J ならんや夫の道路に迷ひ鼠

みも 〈い

うしな と ひっItょうふがく

家を破り身を喪うの徒の如きは離党不学よりし

な く す る と も が ち 叩宏りが〈もん位向

あや'l! じ場号ちい

てかかる過ちを生ずるなり答案学校の設ありてより年霊 ること久しといへとも或は其滋を得さるよりして其方局

あや'l! めあて

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多@'ゆえんなり是故に人たるものは学泣すんはあるへか らす之を学ふには宜しく其日を誤るへからす之に依て今

かいせい

も改正し存告じ及

子〉必す品に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事

むら

を期す人の父兄たるもの宜しく

'l!つ 哲弘、;tに あつ

を厚くし其子弟をして必ず学に詑事せしめさるへからざ るものなり(向上の学に至りては其人の機能に任すとい へとも幼童の子弟は労女の別なく小学に従事せしめきる

ものは其父兄の越度たるへき ; ; J O

し国家の為にすと唱 る迄多

しむへ友誠心得へき事

右之通被 1 r r J H l f t 尖条地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ノレ迄不洩 様便宜解釈ヲ

f

t 夫様方法ヲ許可施行事 明治五年ニモ 1 1 J 七月

ヱニ隣ヒ学問 7 5 : 及球

太政官級

加指令をだ~れしよ

この「被抑出書」で先ず在意ずることは,自民平等の 立場から, ~}~ílîIHま全国誌を対象としていること,すなわ ち「必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめんこ とをj 慢す J ~.こ示される「国民皆学j の精神である。また

「え誌の子弟は男女の別なく小学に従事せしめざるもの は其の父兄の越度たるべきこと j と義務教育の徹誌を許 るうとしたことである。

又,新政府の「主謀擁政 I ! 出 1 1 ; J の中に「小学校ヲ設グ / レ と お J の一項があって, 1 8 7 1   (明治 4) 年 7 月の文部省 設主主以来,東京,京都には若干の小学校が設蹴された が,本県では初等教育のこと法全く始めてのことで参考 にするベ者ものがなかった。その内容の差もはげしかっ たので,ぷj 池九郎 ' I V はさまざまな研究工夫を繰らし,後 自の公立学校のそデルのために,省 J I I 恭次長 E ⑬たちと協 力して,準舗をすすめた。 1 日藩主津軽法昭からは,かつ ての蓮授の建物や純設のはか,金五千イ汀の払!供を得て,

県を通じて設立闘を I U していた。 1 8 7 2 (明治 5) 年 l l J ' l 2 7

‑ 46 

(5)

津軽地方の女子教?守~考える その 1 日,文部省から同学許可がおり, 1 8 7 3   (明治 6) 年 2 月 ,

東奥義拠が開校,英文科, t 史学科ーのほかに小学科がおか れ,小学科の g~徒は111T 名が住!市したが,公立学校が設 宣されるにあたって, 1 0 丹には一番小学へ半数をj 去り,

1 月に:二高寸、学校へ残りを j るったため [ h j 1 ド 1 2 月小学科を 涜!トーした。その後公立ノト学授の収容力と

るということから 1 8 7 5 (興治 8) 年 1JJN び小学校が訳 かれ,同年 4 月 ι は小学科女子 nHtJ~設註されて明治 15 1 F まで続けられた。

こ の 東 奥 義 拠 の 女 子 教 育 に あ た っ た の は の 婦 人 たちであった。彼女たちはかつて寺子股や私動じかよ い,男子生徒にまじって修学した人も r [ . 1 にはいるが,ほ とんどは献しい家出教育の I { I で士族の女子として教宵を うけたもの,あるいは主主!芋によるものがちかった。その 舟人たちの{nJ人かは 1 8 7 5 (明治 8) 年 1 0 月 2 日 の 弘 前 教会の設立にも本多諸 ~Qきをたすけ,教会の支えにもな り,そこでキリスト教の理解ととも広新しい生活への意 識にじ i 覚めたのである。

2 .   菊池幾久子

1 8 7 5   (明治 8) 年に開設された東奥義舶の小学科女子

〈 教 n i[j)となった菊池幾久子は, 1 8 1 9   (文政 2) 年 1 2 月,務の重職にあった父奈良荘可の了点耐として まれる。彼女については「護教通信・拐治初年 4 月 1 5

ι 掲載された詔分〈略伝〉によると,父荘司は当時 の執政と施政に認して意晃を異にして正識を守ったため に議政に殉じたといわれる。そのため家禄な没読された が,その時,幾久子 1 4 才,ほと弟とともじ : N ' ) ] を重ね,

その後,深1II j ; 奉行を勤めた菊池新太郎夫人となる。しか し正男二女のほとなった幾久子は 3 6 才で犬と死別してし まう。さらに姑をかかえた家肢の生活は幾久子の一身に 負わされることになる。幾久子 L は武門士道の心得をもっ て男子をきびしく教育,さらには毎夜,子女を集めて赤 強四十七点訟を説き,又論語の要点をわかりやすい言葉 で教え,王国志,大持政談その地義烈忠孝の談話をする ことを民諜とした。自分自身は織機の諮,紡車のかたわ ら応数聞を備え学んだ。それは裁縫,炊事,そうじと家

!Ji:一切な整然となした上でのことである。女子には学問 は無用で、あり,礼節を修め,家政を~:ることが女性のっ とめであるとされた時勢にあって,幾久子は幼いi 奇から 文学,学問の必要性を悟り,これな学ぼうとしたがその 機会がなかった。そのためにも披女は少しでも文字の書 いているもの,あるいは紙をみつけては4関に入れ,すI~

を惜んで三字三字と暗記し,成に諒その意味や読み 方は弟立たずねて覚えていったのである。初めは長名つ きの草子を読み,次々

~ 4 7  

るにいたったのである。まさじ独学である α

1 8 7 0   (明治 3) 年間諜主がそれぞれの士分に田地を分 与して移住をすすめた時には,幾久子の息子たちはみな 京を出ていたにもかかわらず,本先して決千 j ¥ 独力で東 郡追子野木村に移住, ! l H 止命事還して " 1 r , f i するために近 所の子女を集め執を開いたのである。そして束実義塾小 学科に女子部が関設されると招カ通れて教師を勤めること

7~8 王子, Q . f ら子の教脊じあたったのでまろる。

1 8 7 7   (明治 1 0 ) 年 1 0 月畿久子は 5 9 才の時ジョン・イン グぬから洗礼を受け,取書を読むことを好み, 1 8 8 8  

治2 1)年には弘前教会の締人とともに矯風会~p を作り,

その会長となり教会では婦人部会長,日曜学校の教員合 して自ら地方におけるサ:出し攻普や風俗改良運動など ! : d ' t としての模範をしめしたので、ある。

三人の

J

弘子のうち長男九郎は前述のように明治維新の 際藩政に奔走,策奥義~~を創設し, りん

であり,

初代弘前市長,そして紫議院議長となった。二芳三路は 兄t こ代わってりんご栽 i 官の定義に貢献,弘前市会議員と なる。三三男軍之場はアメリカ留学中で志を中端にして半 世している。幾久子は明治以降のこの地方の良妻賢母の 銑のような女性であった。彼女は 1 8 9 0 (明治 2 3 ) 年長 男九郎が衆議院議民心当選したのを機会に東京へ転}此 1 8 9 3   (明治 2 6 ) 年 3 月四日自宅で永眠, 7 5 才であった。

3 .   公立小学校の女子教育

1 7 9 6   (窯政 8 年議校藷吉揺が説設されてから東灘諜 撃に女子小学部ができるまで,長子、民の子弟はもちろん女 子の就学はみられなかったが,当時は家賠で読み議きを 教えたにすぎなかった。それすらも一般的には機織り,

裁縫をおろそかにするものとして好まれなかったのであ る。幕末,維新後になってようやく私塾や寺小鹿U通学 する女子がみられるようになったので、ある。そこでの教 材は男女刻で, 女子には『競短歌Jl W 女今JlI歌JlJl女大 学 3 等@が用いられた。

1 8 7 3 明治 6) 年 2 月東異義塾にふ学科が離かれ,同 年 1 0 月最初の公立小学校として「一書小学〈舟恕小学,

現朝陽小学校りが開設され,翌年 1 月に f ニ番小学〈狗 徳小学) J が開設され, 4 月には「亀甲小学 J が関投さ れた。

当時の教科はどのようなものがあったのだろうか。教 科書がなく,学制;槻定の教科を教えることはなかなかで きなかったといわれるか,参考までに掲げると,次のよ うな難解なものであった。

教科〈下等小学)綴字,習字,単語,会話

9

読本"修

身,国{本,書爵,文法,察批議生

(6)

弘前学説大学紀要沼24~・

法,地学大意 w 窮 理 学 大 意 体 操 , 唱歌〈当分之を欠く〉

〈上等小学〉下等は加へ,史学大意,幾部学大章、

罫 腐 大 抵 博 物 大 抵 化 学 大 意 , 生 理学大意,土地の情況により,記簿 法,関閥,政体大意、,外部語を方 n ふ

ることを得 教科書(定まれるものなし〉

単語凶,連結図,小学説木,位界国 尽,日本国双,商業技米,西洋事↑青 洋算例題,算比例,天変地異,究理 図解,智識の環,日本地理提要,地 球説略,学問のすすめ,勧菩訓蒙,

格物入門和解,輿地誌略 万国史略,化学芸/11蒙等

〈輪誘苔年史 1 1 7 真〉

そして 1 8 7 4 (明治 7 今 9 丹広 f 白銀小学 j に初めて 女子部が設けられた。 r 自毅女子雲 I U と呼ばれ,弘誌に おける公立学校女子就学の初めである。 w 朝 i 誕百年史』

の 1 1 6 頁には次のように記るされている。

「九月下旬当校に女子部を投く。之より先小学共未 だ女子の入学者を見る ι 査らざりしがど~校職員秋元九 郎氏大いに女子教育の必、裂を明へ膏て女子の就学を勧 誘 し , 還 に 十 五 六 名 の 入 学 者 を 得 て 教 授 す る に 至 れ り。之を弘前公立学校女就学の始とす。(永 I lJ VJ~~ 之丞 氏『弘前 k 子教育沿革の概要』に依る〉

1 8 7 5   (問、治 8) 年 8 丹,弘前広おける女子のみの公立:

小学校が開校される。それは,元寺町議問誌の I B 宅〈警 察署・現桜大通り〉の合英小学校で由鋲小学の女子の一 部(1 0 才 j えとおよび 5 級以上のもの,つまり年長者と高 学年〉を移して開校されたもので,この時秋元九郎氏も 一緒に松任する@。

まだまだ女子には学 l l U は必要がないという風期の中,

合英小学校で開設されたということは,先に述べた「被 抑出番 J の中の「幼;童の子弟は男女の例く小学に従事せ しめ」の精神を具体化したものといえるのではないだろ うか。

合英小学校は特定の学院を持たず,弘前市の共 I

=I

: i J の広 範聞の女子が就学する学校であったが. 1 8 7 8   (別治 1 1 ) 年慣じなると入学者が少なく主って,経営凶難となり施

、ってしまったので,これを維持す るためじ各学区から戸数に比例して,一戸あたり年 4 践 2) 逗 5 るきど拠出させて,かろうじて学校を維持すること ができ,各小学の女子ば存無を言わせず,合英女小学に 較校ざぜられた争奪 r<?~吟むの中に「女子小学ハ尋常小学 教科ノ抱 r c j;;子ノ手議ヲ教フ J ( 第 26 条〉と規定されて

48 

いるので,下等小学の教科以外広手芸〈主として裁経〉

を教育した。

この含英女小学は 1 8 7 8 (明治 1 1 ) 年 1 月 ,

県女子師範学校が設立されてその悶属小学となり,明治 1 8 年 5 丹女子部範学校の賂止とともに廃校となり,在学 していた生徒たちは各小学に転校させられたのである。

1 8 8 2   (明、治 1 5 ) 年にはすでに東奥義塾の小学科女子部 が廃止された。この年, r 朝陽小学 j は「朝│場小学校 j に. r 和徳小学 J は「和徳小学校 J に改称する。それと ともに今までの時常科 1 0 級(1 0 級は最低学年〉から 6 級 までを初等小学とし, 5 級から 1 級 ( 1 級は最高学年,

現荘と反対に学年が滋むごとに級の数が少なくなる〉ま でを中等小学というふうに編成を変えたのである。和穂、

小学校の場合,女生能で初等小学科に綿入したものは約 90 人 , 中等小学科に編入したものはきわめて少なかっ た。②この境立なってもまだまだ女子教育に対して無関 心のものが多く,女子は就学後, 1 . . . . . . . . .   2 年をすませると 学/t u はもう充分だとばかり ι 退学さぜてしまう父兄が多 いのである。つまり L ぐ子は ひととおり文字が読めて,

そろばんができるとあとは学問は無JjJという社会人一般 の意、識であったので、ある。

4 .   高麗徳子

1 8 6 8   ( I j )j 治光) / r f : . 1 2 月 日 日 , 弘 前 藩 士 山 田 貞 景 き ょ 夫妻の民女として弘前に生まれた徳子は明治の教育をそ のまま身につけ,そして活躍した女性である。その母き よは明治 1 0 年,本多みよ(本多 h 菅一夫,人) .菊地幾久子 について女性としては主人目の受洗者であり,弘語教会 の幹部の一人として事多露ーの伝道を詰け,また古い背

?立の「お融恐 j を率先してやめた r t ままの白いオガサマ〈夫 人 J の一人であった。そのよう之母をもった鐙子は 9

弘 前女子師範学校 ι 入り,日ごろ,耶蘇の子と友だちにい じめられることから. 1 5 才の春,函館遺愛女学校に転校 する。議愛女学校はその1}:の 2 月に創設されたものの 徒が得易 ι 何られず,学校関係者は弘前に出張,抗者の 家胞を訪 I U J し熱心じ入学を勧誘した。先見の I り j のあった I J i j 親はニれを山 L 、て大いに喜び真先に応じた@とし、う。

1 6 才の 1 2 月すでに l 羽館教会で、牧師をしていた次兄 [ 1 1 回以 之助毒事より洗礼を受ける。 23 才の 9 月従姉妹の中野うめ

r とコ,人遺愛女学校第三 1 1 1 ] 卒 業 ' 4 ミとなる。その墳の遣 いて,英語で会話 をしていたので充分に英語の実力を身につけた。彼 t 虫 k 乙 ど . は おそらく弘言鵠 i 号}において;英英語を自虫 t にこ話せる最 i 初 初 の 女 女 向 { 性 生 だ つたと忠

その後議愛女 学 t j 字詳校の分校として発足した弘蔀女学校の教

(7)

津軽i 詑方の女子教符そ考える その 1 師となった。 2 6 才の時,中郡船沢村出身で早稲部大学の

前身である東京噂門学校の政治科を卒業してね i 郷してし、

た高谷点次郎に嫁ぐ,貞次郎はやがて沖軽銀行以取とし て地方財界人の一人として活躍し,徳子 1 ' 1 身は弘前本将 日会長として活躍する。 45 才の i 時 一 ゐ 人娘初恋を青山学説硯学 L ↓ 1 ~こ失なう。 46;1'の時には日本 赤 1 ‑ 字社の正社員となり,同時に日

婦人会に入会 7 年開話会の評議員として活躍。 58 才 2 月,弘義女学校のJ ls.')1:会が組識され,た 時には理おとなる。その年 7 月夫貞次長告を失なう o その 後ますます事{l:活動に身を挺し, 1 9 3 0  (昭和 15 )年 3 丹 9 日 , 6 1 才でじくなる。その遺言によって容附された金 額,米を詞念:しての寄附等々,その寄附の総額は今日の 金額に見模もると誌を超える巨額にのぼるもので、あった といわれる。

いる。

、ては 1 9 3 0 0 昭和 5) 年 3 月四日弘前教 した追悼文③によったが, 新 内 は

、 て i 苦しみない称賛の言葉を殺って f 刀自は郡路端正中肉小柄の人,組)J封切断ぷて迎智に 勝れ,茶の湯活花在楽等の組味を有レ散に i 清織を尚び室 内の 5 4 2 飾より雌闘の j 西捕に至るまで拠然としてー折、 A し れ ざるものあり,弁c;‑は l 攻て流 i 陽といふじあ b ざれども克 く人な誌て説法!え才幹あり,如何なる総額の名若男女に よ J して人を外らさぬ社交家でありましイニ。六百はぶより

し輪央たる 1 " ] 戸!ゑなる木 も,万出 i 付 1 ! J J ! の功

ならざる質素の生活で特に教育沢教に│対しては多大の興 味な有ぜられ……」高谷徳子はこの時代ぷLi:~,一人の 女性として社会の形成者として持てる能力を発抑しその /

十̲ ' d 1 i を迫>}どした女性であった。

期~辞希Ij発布後の都会の教育

たが, 1 8 7 1   ( 明 治 4) 年 4 月 2 8 日弘前を発ち, 5 月 1 7 日に東京に移った ことによって,弘前域は兵部省 i の管轄となった。ここで 停戦から都会へと日を転じ,都合での女子教育の状況は どうだったかを見ていきたい。

1 8 6 9   (明治 2) 年 3 月 , 将軍の提督として n ¥ L U 泊 r I 珪 は,八隻の艦隊を率いて函館に到着, 5 月に碍;Jf 1 の脱走

!竣が占鎖していた函館を平定する。 1 8 7 0 (明治 3) 年 5

月 間 的 地 内1...:L....JI‑"'.'1f:::、山間

ι

ゎ Lヰ ヤ げ

子教青の必要性について論じる機会を:f!},黒田も森もア メリカ女性が教育があり,社会的地位がおいのを見て鷲 会,女子教育効果を認め,の話、気統合して黒旧が帰国の 後,森との約束に本づいて,女子教育に│立 l する意見書を 政府に提出したり⑩

ト…・故に今,幼般の女子を選び,欧米の開に甜学せ しめんことを欲すj というのがその結論であった。黒 H l の意見は時の i 権力者,外務綿・ぎ H 1 J L 視の賛成を得て,

経費は毘拓{吏長持として,女子の志願者を募ったりその 応芸者の 1 = 1 : 1 から 5 名が選ばれた。

東京府士挟 古 益 正 雄 女 東京!日士焼 津間 仙 k 梅子

(後に女子英学塾(別 r t t 川掛大学)長となる。〉

東京府士挟 上出 l 唆 k 貞子

く上問敏の叔母, ミス・キダーの新潟時代の教え 子 〉

静 i 詩県士族 i 永 井 久 太 部 立 繁 子

c 1 瓦' 1 ~外吉海軍大将夫人〉

青森県土族 1 1 1 ) 1 1 与 七 郎 女 捨 松 (陸平火特大 1 1 1 巌公爵夫人〉

彼 ! l ‑ ・等は 1 8 7 1 (明治 4) 年 1 1 月 1 2 日岩倉 J l 視大使を l E

使とする欧米視娯日 j の一行に託されて米国へ W { 学したの である。

1 .   津話梅子

提子は先に述べた長 j 池幾久子と ぺこ受けた女設である。

揚子の又津田 { I I I は下総金女藩の百三十石どりの淑民生 れたがのちに幕府の徒士山: 1 1 1 家に養子に入った人であ る 。 1 8 5 5 (安政 2) 年:米国総領事タウンゼント・ハリス が幕府に通闘な強要した i 讃,津田仙は江戸に t H て,苦心 して英語を学んだ。 1 8 6 4 (元治元〉年 1 2 月 3 日ニ女梅子 は生まれ,その五年後の 1 8 6 7 (慶応 3) 年正月,イ i l H ま勘 定吟味役小野友五郎の i 随員として来国ワシントンヘ行っ た 。 1 1 1 1 はこの平年の殺からはかりしれない多くのものを 学び,梅子の一生を方向づけることになったのである。 φ

前述のごとく 1 8 7 1 (明治 4) 年告の 4 人の少女と一緒

に留学した梅子は 1 8 8 2 (明治 1 5 ) 年 1 1 年ぶりに山 J I I 捨松

とともにお i 関するが日本語をすっかり忘れてしまってい

た。梅子が米倒で生活している聞に,日本では f 被仰出

苫 u によって女子教育の方針が打ちだされ,促j 援がはか

られていたが,当時の政府が強調したのは,女性側人の

人招や人間性のための教育ではなく,日本;の近代化の発

展のための要員となるべき夫たちを守札その子どもを

育てるための良案賢誌の養成であった。であるから鳴子

が様捕した特にも未だ社会での女性の地位は上っておら

49 ‑

(8)

私語i学院大学紀要第24'~;'

ず,家躍での女註地位もまだ認められておらず,女子1:が

1 動く場も拓かれていなかったのである。そ心で梅子は,

かつて渡米の燃に

A

緒だった伊藤時文の家に住み込み英 語教師兼通訳を勤め,その後, 1 8 8 5   (明治 1 8 ) 年 9 月か ら伊藤の来日介で慎族女学校(学問院の女子部)の教捜補 となり,会話と汁:文を教えた o 3 . v  

1 8 8 9   (明治 2 2 ) 年華族学校に勤務して 4 年 L L 校長西 村茂樹の貯意によって再定留学の機会を持た。その時 ι

端子は女性のための高等教育のj 誌が自分の進むべき道で あることを諮り,その挙結のためは 2 年の約京の f l l 学を

3 午にのばして,募金活動などをした。

1 8 9 2   (明治 2 5 ) 年 帰 国 し 女 学 校 に 後i 説 そ の l l ! j

から 1 9 0 0 (明治3 3 )年 t こ女子英学熱を創立するまでの 8 年間,彼 k悶は華族女学校と女子 ir;j~~・側;向学校で英語教nr1î を統けたのである。その f l J l 彼女は日本女性に関するいく つかの論文〈英文)を発表し,あるいは[万悶婦人述 f T 大会 j の呂本代表となるなど活問している。

構子が女子英学塾の開校式の式時の中で, r 真の教青 には物質上の設館以上に教師の資格と熱心と,学生の研 究が大切で、あること,哀の教腎は学設の i f t 認を主に従っ

々の扱いをしなければならないから人数を鼓ること,英 語塾の主な目的の一つは,時;来英語教師の免許状をとり たし、学生のために確かな指 i 整合争えたし、ことと述べ,

さらに学生たちに向って r~請の専門家になろうと骨折 るにつけても,何事にも役。:つ婦人となるに必要な,ほ かの事柄を謀略にしてはなりません。円満な婦人,すな わち a l l ‑ r o u n dwoman となるように心がけなければなり ません。……fnJ事によらず,あまり日立たないように,

、つもしとやかで,議遜で.   , ¥ 、んぎんであって現きたい。

こう L 、う態震は決して研究の高い践的と鏑突するもので

られましょうし,

もできましょう o@J 梅:子がこのような思いで創守設した英 語躯は多くの後継者に恵まれ之梅子自身の活躍によっ まで成長したのであるが,梅 I 二 は 1 9 2 9   (昭和 4) 年 8 月 1 6 日鎌倉の別抗で亡くなったの

私はこの津 I J j 端子の式辞な読んで,私たちは白分が女 廷であり,あくまでも謙議でありいんぎんであることに よって女性本来の使命を発見できると患うのである。戦 後の教育はあまりじも男投合意識すぎ,男性に対抗して ものごとを考えすぎたのではなし、だろうか。

2 .   高杉幸子

弘前学誌の百年史な編纂するために私たちは資料集め に奔走したが,身近なダンボーノレのl tから次々と卦設な 資料が現われた。その中の若葉幼稚閑の入国願書の中に

5 0  

明治 37 年 4 丹 1 8 詞{十点杉!A丸{呆護者の鶴?こは高杉宰予 とあった。 I r 王手芸::長男先生は弘 J I iJ学誌の第 2 0 代院長・校主主 である。内杉辛子と星野こう初めのうちはどうしてもお i j ひ、つかなかったが, ミス・キダーが創設したフェリスの

みった

歴史の 1 1 : 1 にブ思リス和英 ! x 学校教顕星野光多という名が たびたび出てくるのに興味な持った。星野こうは E 長野光 多の妹であった。そして高杉英男院長の父栄治郎 i むと乱 i i 婚して高杉章子となったのである。

星野兄妹の付るいは 1 8 4 0 (天保1 1 ) 年 2 Y.l1Oお丙椛出 1 8 5 6 友丘 3)年星野宗七に嫁ぎ,明治 初年に次男光めと 3 ザ j又吉を作って議浜に移住し,その {北西群馬教会(日本々リスト教詔高崎教会〉の牧仰と なった光多のすすめで, 1 8 8 4   (明治 1 7 ) 年 3 月槙浜市住 占町教会(拙路教会〉でも利 w 治牧師より受洗。その年

4 ¥ : ; 1 如こ失敗した犬京七とともに郷里沼lUに%}ったが,地 境の ' 1 ' にも│以りない神の

J

臨みがあるのを知ったるいは信 仰 に 燃 え 史 伝j 肢に!助みその影響でー挟 8 0 有余人がキ

リスト教{読者じなった毒事とし、う

O

このよろに信持深いほの長女としてこうは 1 8 7 2 (明治 5) 年 8 丹に誕生,明治 1 5 年,兄光多のすすめでブぷ 1 )

ス女学校じ入る。 1 0 : 才で、あった。

1 8 8 2   (明治 1 5 ) 年のブェリスは, ミス・キダー〈ロー ゼ、ィ・ミラー夫人〉に変って 3 1 才の青年宣教街,ユ…ジ ン・ S ・プース⑩が校長として就 f 壬,学JtiJの弟姉をし,

その規則欝が作成,1:悶配布された。それには学f,;~~県相 が整備・明文化され修業年限も定められた。さらにその 中には女子教宵の f l ,'l''.lとフェリス教育の│羽連がもられて

、 る 。 哲 静

f女子教育ハ宮家ノ手I~来ヲ進ム;!?ニ於テ大ニ )J アリ議シ教訂 ヌ蒙ジタ/し婦女ハ其家ノ男子ニ伴ナブニ当ワテハ n u チ 好 良 梓

…ゴ 第二: 1 こ r 女子教会 ノ、 m 潔高成/社会ニ欠 い ザ り し j 定ニ於テハ其社会ノ状態必ズ線路ナレパナリ

…足ノ~Ilキ地ニイテハ男女ヲ合スノレニ ~HlrJ l 門的ナケレパナ リ J ~n三に f女 γ 教 fJハ又出ノ揃ナリ……子女議i陶ハ{悲観ノ リ然レパJlI

J

チ之レガ責任タ/レ l l i キ有ょニ非ズヤ @J 家庭はおいて男子の良き伴侶になるために教漣が必要 であり,教育のレベルが男女の関係,社会の 1 1 M 色合決定 し,将米国家を担う子女の教育を可る母親の虫記を強調 し女子の教青を説いている。

こうして学問が定められ,すでに全議程を修了したと みなされる者には卒業試験が行なわれ,これに合格して 正式応第一自の卒業生となったのが,若松綾子〈本名,

大川かし子〉 町、公子 J の鶏訳者である。

ブ広リスに入ったこうは,先輩の長谷川みね(星野光

(9)

j 章軽地方の女子教育そ考える その 1 多夫人〉と仲良くなり海岸教会に j 島、 1 8 8 5 (明治 1 7 )

年 1 1 月 9 詩みねと共に綿密信牧鵠より受法。この年,先 に述べたように父京七の泉野 i 部活は商運なく財のすべて を失って,郷照に引き上げてしまったので,こうはみね と同乙ブェリスの寮 ι 入り組肢をともにした。当時は 1 1 ~ 徒が少なかったので,みねより 3 才年下のこうだったが 同級生のような間柄となった。のみねとこうは本科を卒 業後,さらに進学。みねが 1 8 8 9 (I~J 治22) 年,こうは~!

1 8 9 0  ( 2 3 ) 年それぞれ 7 月広高等科在卒業。 母校の教師 となる。 みね 20 才 , こう 1 8 才の:若さであった。:Ji:.多は 1 8 9 9   (明治 3 2 ) 年 1 0 月までの 8 年余,こうは 1 8 9 6 (明治 2 9 ) 年 3 月までの 6 年弱,ブ広リスの教部 i を : t i J J める。ミ うは 1 8 9 6 (明治 2 9 ) 年 5 月 2 1 話,当時東奨義塾教諭だっ た高杉栄次長 r)@ と弘前で結婚, 1 8 9 7 く明治 3 0 ) 年 9 月に 夫栄次長 Z が青山学説教援として東京に移ると同時にこう は主主!Ll:女・学校奉職 1 年 6 ヶ月,その!日 1 明治 30 年中等学 ヲ F 付与サノレ,

コレ女子ニテハ当時第ニ番註ノ合栴ナリキ @J と優秀な 教師 i であった。その後,明治 3 2 年 4 月犬栄次郎が札幌農 学校に招かれ札幌に移り,そのゴドニ兜として英男先生が 生れたのであるが,栄次郎が再度渡米中の明治 36 年,こ うと子供たちは夫の郷県弘前にゆ ' I I } り,心うはミッション スクール弘前女学校(よ込弘前学抗愛高等学校)でミセ ス・アレキサンダー校長のもとで教践として 3 年半,女 1 9 3 8   (昭和 1 3 )年 1 月急性狭 67~ であった。

こうの妹あい辻 1 8 8 4 (明治 1 7 ) 年 9 ) 1 1 2 註 I J : : . れ , 1 8 9 7   年 1 月 1 2 才のとき小務担、議牧部より都墨の 1 8 9 9   (明治 3 2 ) 年 4 月ブ品リスじ入学,光多 の家から通学する。 6 ヶ丹後の 1 0 月

となったため,寮に入り,ブェリス時代の 5 年間は海岸 教会に通った。 1 9 0 4 (明治 3 7 ) 年 9 丹より女子英学齢に 学び,米国プリンマー・カレッジに臨学,母校の教 l 戒に 立ち,のちに津田梅子の後を榔~ ¥,、で,日 t 旧総大学の動 5 え として 2 5 年間女子教育に励んだのである。

教育の機会均等が明確にされた明治初期,作投 i 綿子が 儲学という日本で最初の外国で学問するという機会に恵

、 と し 、 治爵後の梅子にはそれにふさわし

らが斑恕とする教

ずここ とも一つの踏出であるが,兄星野光 1 tという強い支えが あり,周囲の人々に恵まれ(兄嫁となった長会主川みね,

ブ広リスの校長ブースなど〉横浜にいながらにして当時

の最高の教背を受け,卒業後の就職も母校であり,転 i 肘 のたびにも仕事が与えられた。家庭的にも恵まれ,高杉 慎二子は当時のな:tt としては最も充実したI~.~ 方をしたの ではなし、かと問、うので、ある。

W 駒津軽地方の女子のための教育機関

小学校の数が徐々 ιt 詳し,その中に就学する1:;.:: y . の 数 もふえてきて,その子どもたちのための主・子の教員が必 要となり,女子のための高等教育機関,ょうする ι I f f

の教誌を義成するための機関〈学校〉の設置が平念、に必 要とえまってきた。

1 8 7 7   (明治 1 0 ) 年1 2 丹5 日 青 森 ! f i 1 , 令I L l l l1秀典法, 議 3 7 9 号をもって次のような通,遣を申している。

「今般弘樹へ仮ユ女子師範学校ヲ設置シ学則ノ犠ハ当

この場合,女子師範はあくまでも仮に設けられるもの であることを強調し,学費一切は自費であること, 4 0 名 だけを募集することとして, 1 8 7 8   (明治 1 1 ) 年 1 月,弘 前市元寺町はあった合英小学校に設躍されることになっ た。これは当時としては全国的にも早い時期の開設であ る。@そして校長は金沢出身で東京師範学校を卒業した 子師範学校は修業期聞が 2 年で った。 40 名の募集にかかわらず, 2 4   名が入学,そのうち 2 級から 1 級に進むものはその半数 にも議たなかったのである。これは女子の就学の訴さを 如実にあらわしている。

1 8 8 0   (明治 1 3 ) 年度の学事年報には「女子部範生徒ノ、

35 人,卒業スルモノ 1 1 人ニシテ本校ニ在裂 l スルモノ 7 人 他其ハ各都ユ派出セシム 7 月中弘龍合英小学校ヲ廃シテ

A ,;:校ノ附属ト為ス @J とある。

ようやく女子師和学校が設院されたものの明治 1 3 年 5 月 2 5 日に聞かれた i 青森県会では 1 : 1:;.:子の教育は小学校だ けでよい⑬」としづ蕊見が出たり,女子師範学校の廃止 論がでて,一般社会ではあまり歓迎されなかったようで ある。なぜならば,入学しても 1 ) 臨調に進級することがで き立かったり,さらじは県の討政難も影響してきて,つ いに 1 8 8 4 ( ザ J i 告 1 7 ) 年 1 1 丹には弘前締範分校が魔止さ れ , 1 8 8 5   (明治 1 8 ) 年 5 ) 1 8 日には青森祭会の決議によ って1;..・子部範学校の雑誌:も法定してしまったのである。

その後, 1 9 1 1   (明治 4 4 ) 年 4 月

i 註されるまで,

まったのである。

この就学卒のほ下は,明治初期には士挟の子女たちも 目覚め進学を志望する者が多かったが,士族の生活が逼

伊 ︒

(10)

柴田やす』 陸奥新報社

。大木英二著『弘前教会話年小史』

弘前教会

O 円地文子科,i

f 人 物 日 本 の 女 性 史 第 1 2 { t

教青・文学の禦明 J 集英社 昭和田午・版

0 1 ; : 段学研究会編 f 講座 女性学 1 女のイメージ』

『講海女性学 2  女たちのいま j

『講座女性学 3  女は世界をかえる』

f 講控 ! J : 性学 4  女の日で見る』

動 草 書 場

O ジ思イン ローランド マーティン著 村 井 実 経 訳

rkt l:にとって教育とはなんで、あったか』

一教育忠 ι ! 家たちの会話一 東洋館出版社

。ポール トゥノレニェ箸 山口賞訳 Irl,rj~主であること J ヨルダン社 新 聞

O r 場奥薪報

昭和初年版 1 9 8 3 年版

1 9 8 4 年版

第24~手

弘前学院大学紀要

i e するにしたがって,学びたくても学べない者が移くな ったことと, 川方ではlllJ家の子女の向学への;意識が今ひ とつ盛り上がらなかったことによるものと忠われる。

このような弘艇の教育状況の中にあっても,てと;族の:子 女の中には向学心の盛んなもの,あるいは教育に対して 熱心な組たちがし、て,海を j 波って函館の遺愛女学校に学 ぶものが H l てきたのである。

そこで 1 8 8 6 (明治 1 9 1 , j ' ‑ )長谷川誠三や本多嬬ペ事の働 きかけ ι よって,副館の遺愛女学校〈当時は米議!女学校〉

の分校の形で女学校が創設されることになる。この女学 校,すなわち現在の弘前学院の前身である弘前女学校は 県立の高等女学校が弘前に設置されるまで、弘前における

;唯一の k 子教宵の機関となったのである。(1 9 8 7 . 1 0 . 3 )

1 9 8 7 1 : ド 瓶 1 9 8 1 年版 引用文蘇・参考文~:

O 前野喜代治著

『みちのく双書第四集青森鯨教育史

青森路文化財提 z 護協会 上 』 キリスト教 J

昭和 3 2 年臨 和沢文議著 l 昭和6 0 年 9 月 2 1 詩 昭和 6 1 年 1 1 月 2 2 臼

NO.46  NO.100  昭和50 年 10 月 2 4 日

昭和 6 2 ド イ 1 0 月 2 6 日 昭和 62{nO 月 2 9 日

。朝日 j 薪謝 昭和 3 8 年版

昭和 5 0 年抜 明治議 J

昭和 3 9 年頴

W f i L . 前 r 1J史藩致縞』弘前市

『弘能市史 明治・大正』弘前市

0 11'弘前布教育史上巻j

。千葉定夫箸

弘前 m 立和徳小学校

。千葉寿犬著 雑 誌

O ブヱリス女学院資料京 f あゆみ J 1 9 8 3 .   NO.11 ,  N o .  1 2  

昭和50王子)~虻

沿 1 j ' L 史

斑都レジデンス 410 号

i 主

昭和 6 2 1 , F 1 0 丹 2 6 日 朝日新語 j 。

イワン・リ…チ民(米・文 I Y J 批評家・墜史家〉

昭和 60{nO 月 2 4 日 朝日薪1lt 1 。 リーブノレ・ド・ファム J

東京都渋谷拡 4‑28‑5

〈お加野芳正著 心に j  f お塩│日正街地

I 婦人研究者のライフサイクル調査研究を中心に」

( 1 9 6 4 )  

①  昭和 4 9 { ド ! 挺

『制限百年史』

。校史編纂委員会

昭和 5 5 { F I t M φ 

u;Ì遺愛七ト五周年史~ J 昆愛女子高等学校

。育n L j 学説編 F 青[11 九十年史 J 青山学院

。ブェリス女学院 1 0 0 年編集委員長

『フェリス女学院 1 0 0 年史』ブ広リス女学説 1 9 7 0 年版 昭平U 3 5 年版 昭和 4 0 { f 抜

さむ朝吉野 f 岡 昭 和 6 2 年 1 0 月 2 9 日

⑦ 弘 前 r lJ史藩政婦 4 4 8 賞 。 多 弘 語 r m 史 藩 政 編 4 4 9 頁 。 (

号 1 6 6 9   (寛文 9 年蝦夷の i 告で「アイヌ」の暴動が超 f!!,その鋲圧に乎こずっていた松前藩を支接のため,

津戦藩から家者杉山八衛以下 5 0 0 名をど派捜した。これ が津軽藩の渡海出兵の最初である。

北辺警備の重要な任務を担わされ.負担は大きかった。

一階奥新報 1 9 8 7 . 1 0 . 3 1 . 古文書こぼれ話 3 0 一 弘蔀市史蕃政主婦 4 9 0 頁 。

弘 前 市 教 育 史 上 巻 1 1 頁 。 弘前市教青史 2 0 真 。 弘前車教育史 9 3 頁 。

。と同じ。

八十年史県立弘前中央高校

。ブ広リス女学説 1 1 0

『フ点リス女学誌 1 1 0 年小史』ブェリス女学誌 1 9 8 5 年版 1 9 2 7 年版

o  r l f i L . i I I J女学校歴史 J J 弘能女学校

。八十期年記ゑ誌編集委員会

1 1 J 。 認

90900 ⑮ 

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弘語学院 1 9 6 7 年版 1 9 7 6 年 ! 坂

昭和 4 3 年販 昭和初年版

。弘前学院九十年史編集委員会

『弘前学院九十年史j 弘前学院

O 弘前図書館総

『郷土の先人を語る 2  菊池九郎 J 弘龍市立問書館

f 部士の先人を語る 6  本多庸一』 弘前市立盟書館

。船水清審

『ここに人ありき 3 

(11)

その 1

弘前護士のIf l o 東奥義鎮でインク。と本多膚ーの教え を受ける。明治 1 3 午,神学校入学,卒業して存地を{云

i E ,明治2 2 { 1 ' ‑ か ら

1

f t 1  J  1 学院神学部教舵。

叶 I t q 理の近代化とキリスト教 NO.46 

i 埼 興 新 報 昭 和60 年 9 丹2 1B)  i l t 轄地) j の久子教育を考える

弘前市教育史 1 6 6 ' " " ‑ ' 1 6 7 ど L 1 8 4 7   (弘北 4) 王子 ~1926 太;正 15) 1869 (明治 2)年 7

により!主党X i i へ留学,そこで今く を結び, I ムーい見識をそなえ

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制と l i i J じ 。

遺愛七十五年史 日以。

教育・文学の禦│り J i { l t lU梅子 J 1 5 ) . ' i " o 

@と│司じ 28 氏 。

@と I l r ] じ 3 6 f i o

@と i 寸じ 36 J i : 。

ブェリス女学院資料右「あゆみ 1983

「足野光多と Eugene S .   B ∞ t h ,  1859‑1931 

ラトガーズ大学でパチュラー及びマスタ…・オプ・

アーツの学位をうけ,さらにニ九一プランズウィク神 学校で学んで卒業と . 1 言語寺に米誌,土地,校舎の拡大は 勿論, 41 年詩にわたって夫人とともにブ広リスの育成 に尽した。

母 f ブェリス女学説 1 1 0 ' q シ j 、 史 J 32A 。 場曾と[ri j じ 3 6 ' " " ‑ ' 3 7 点 。

時 「あゆみ J 1983 年1 1号

星野達雄著「星野光多とその J 矢 ( l ) J 

@ r 句杉栄次郎 慶応 3 年弘前年れ, 1 9 才の時東奥義艶 を卒業後渡米,デポ一大学に学び卒業後ボストン大 学,ハーバード大学で・苦学を続け ~lt}l:m後,東奥義識の 教諭となる。

0 1))骨と同じ。

ゆ 弘 前 市 教 育 史 上 巻 398 ょ L

輔 副 と I 斗じ 4 7 1 頁 。 ゆ ゆ と i 斗じ 400 頁 。 ゆ ゆ と [ I I ‑ j じ 407 頁 。 母 ~~),七義弟から派遣され,藩己主の消滅後

て英学の指導にあたってし、た。

(弘前 r f i 教 史 上 1 0 6 1 ' 0

Ó:~ 1848 (嘉永元)年弘前にと l れ , 1 9 1 2  (明治4 5 ) 1f63  l'で亡くなる。藩校稽 II n'rf~ で学ぶ。 1870 ( 1 リ j 治 3) イ 1 ' ‑ 揃瓜に/吐き, S. R. ブラウン熱で県副在学ぶ。東興諸 都耕民となる。青 1 1 I 学院院此として 1 7 年 I 1 f J 肋務。

( 郷 L の1¥:.人をえ l i る「本今 ゆ J o h nI n g   ( 1 840

1 9 2 0 )  

アメリカ・メソディスト i Z L 持教会牧i':!l i o インデ 婦のアスベリ一大学を卒業後, I 時引に人り なる。その後キリスト教伝 i 立を才、し,宣教島 i f とし

1 I 国伝送かちの帰国途 1 "

く 1 8 7 4 ) 0 ~j主主九尽に通えられ, 弘前の東奥義識の教 となり,本多嘉ーと協力して, i ム し , 弘 前 教 会 発 肢の j お話を築いた(1 8 7 5 ) 0 (東奥義塾再建十年史(1 9 3 1)による〉。

1886 (明治19)1 1'‑,京国から禁酒宣伝の准説はが.:1ぐ したのを機に矢 l~h かじ子が会長となって 1 み: J た門 教員長人矯風会」が組織される。

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仰 朝向百年 h 民 史 1 た '11 口 7工 瓦 i 。

ゆ和徳小学校沿中:史 I~j 治結 ゆ ゆ と 同 じ 1 0 5 頁 。

ゆ 「教界時報Il H 手 I J 5  1 j 三 5 月 1 6 f : : J 第2001 り ゆ I l H I J 寅之助(1 8 6 1 ・文久元年 " ‑ ' 1 9 2 8 ・ │ 肝 不U3

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参照

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