• 検索結果がありません。

教育人間学における動向と課題

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "教育人間学における動向と課題"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

静岡大学教育学部研究報告 (人文・ 社会科学篇)第43号 (1993.3)165〜 176

教育人 間学 における動向 と課題

―― 状態性か ら関係性への視座転換を中心 に して 一一

Bewegungen und Aufgaben der Paedagogischen Anthropologie

―――― Perspektive Umwandlung der Zustaendlichkeit zum Verhaeltnis  ――――

高 橋 洸 治 Kotti TAKAHAS肛

(平4年10月 12日受理)

1。 教 育 人 間学 にお ける問題 点 の 明確 化― ― 主題構 成 へ の接近― ―

教育人間学 は、教育に対 しての「基礎科学」ない し「 目標科学」 とな り得 るのであろうか。

この問いへの回答 は、現在のところ、否定的 とは言わないまで も消極的なものに留まっている。

その理由としては、基本的に、二つのことが指摘 される。一つは、教育人間学そのものにおけ る未熟 さ、貧困 さである。 もう一つは、教育人間学 とは異なる別の思考様式を有する諸科学が 教育を基礎づけるものとして前面 に出てきているという事実である。

後者 は、教育人間学へのいわば外在的な批判である。 とくに経験科学的な教育科学 は、人間 の社会組織的な被規定性を強調 し、教育を「社会化」理論で十分に説明 しつ くす ことができる とみな してお り、そ うした思考様式 は今 日支配的なものとなっている。「近年、教育学的思考 にとって もまた、社会学的、政治経済的な方位づけの著 しい強化が認め られるのであり、その 結果 として人間学的基礎づけが必然的に少 し後退 して しまっている」。①実際には、

B.ゲ

ルナー が指摘す るような<少

>で

はないと思われる。経験科学 はもはや人間存在の独特な在 り方 に ついての問題を提起することな く、人間学的な問題へのまなざしを閉ざして「社会」へ避難 し て しまっている観がある。そこで、問われな くてはな らないのは、教育の「社会化」理論が も つ問題点を明 らかにすることである。教育人間学 は、人間を「世界内存在」ないし「世界関係 存在」 と捉えることにより、教育の「社会 (学)化」を限定 し、人間の「人間化」過程の側面 を補完するという役割を引き受 けることにおいて、その存在意義を もつ ことになる。

先の回答の最初の理由は、教育人間学へのいわば内在的な批判 に基づ くものであるも教育人 間学を「学」 として確立 し、その「学的な内容」の充実を図 る構想を、手法的に分類すれば、

三つに区分 される。すなわち哲学的に方位づけられたもの、統合的に方位づけられたもの、そ して人間像的に方位づけられたものに区分 される。

二番 目の、人間像 に関わるものは、教育人間学を もろもろの人間像の綜合化 として構想 して いる。 これは、人間学を<人間像学>とみなす もので、模範的な人間像の提示 により「教育 目 標」 に貢献 しうるという認識に基づいている。 しか し、「 人間像 ―人間学」 とい う用語 の使用 を批判するK.ディーネル トは、「教育科学の枠内における人間学 の役割 は、 ……人間像 を準 備することではない」② と指摘 している。多種多様な諸人間像の比較的な考察 は、人間学 の主

′ U

(2)

要な主題 と言える世界内存在の確認 に対 して積極的な寄与を しない。綜合 された人間像の典型 に基づ き新 しい人間の育成を企図するよりも、 この「世界」 との関わ りにおいて人間はいかに 形成 されるのかを追究することの方が一層有意義なことといえよう。尚、人間学の方法原理で ある「 開かれた問題の原理」 は、人間像 と関わるが、 ここでは言及 しない。

二番 目の、統合的な教育人間学 は、諸科学 における人間に関する資料 (データ

)を

整理・ 加 工 して、教育に寄与する統合的な科学 として自らを構築することを指向 している。その際、生 物学的一、心理学的一、社会学的人間科学等のいわゆる諸領域人間科学 と教育人間学 との関係 について、「垂直的」 と「平行的」 との二様の捉え方がある。例えば、J.デルボラフは、 そ の見解を換える前 には、諸領域人間科学の成果およびその視点が上記の順 に下か ら積み重ね ら れ、それ らの頂点 に教育人間学 とその視点が位置す るとし、それに対 してH。 ロー トは、 諸領 域人間科学を横並 びにし、それ らの資料を教育人間学が一定の視点か ら取捨選択 して統合す る

ことになる、 と捉えている。

そうした統合的な教育人間学 に対 して、次のような異議が出されている。教育科学 は、諸領 域人間科学の思考様式、それ らの成果を有意義 に使いこなす ことがで きていない。 また、多様 な諸領域人間科学 は、それぞれ固有な解釈図式で人間把促を しているために、人間への目をか えってさえぎることになっている。 この点 は、人間学 の方法原理 の一 つで ある「 オルガノ ン (機)原理」の問題性を示唆するものであるが、詳細 は後で触れ られる。要す るに、 この人 間学 においては、人間存在の固有性 についての把握が、具体的には、前の教育人間学 において

も指摘 されたように、人間の世界内存在への顧慮が不十分なのである。

哲学的に方位づけられた教育人間学 における問題点 は、 いわゆる「人間学的な考察法」に関 わるものであり、その意味では、教育人間学一般の問題点が ここに収飲 していると言えよう。

教育人間学 は、基本的に、人間を「教育 を必要 とす る動物 animal educandum」 として捉 え、

そ こか ら人間学的な事柄への観点を引き出そ うとしている。例え動物を人間 と置 き換えて も、

単 なる教育一、学習必要性か ら、人間的な特徴の核心 に触れる把握が得 られることは保証 され ていない。結論的にいえば、人間が「世界」の中で生 きている存在であるとの確認のうえで、

そ こか ら帰結する一定の教育必要性が提示 されない限 り、人間学的な意味は掌握 され得ないの である。

哲学的人間学の方法 は、O.F。 ボルノーによって「 四つの方法的根本原理」 としてまとめ られている。彼はその方法を基礎づけるに当たって、「・…"客 観的な態度で宇宙 か ら出発 し、

ついでその枠組みの中で人間をもまた理解す る」 ことを しないで、「先験的な認識の立場か ら、

原則的に、人間 自身か ら出発す る」 ということを確認 している。すなわち、「 第一次 的 に人間 か ら出発 して、人間を人間自身か ら理解す るのであって、人間を人間以外の存在 との……比較 か ら理解 しない」、 ということである。

けれども、「人間を人間自身か ら解明す るとい うことは、結局のところ古代哲学 の思考方法 であり、……近代において初めて……完全に打破 されている」0のである。だか らこそ、 と言 うのは適切ではないが、ボルノーは、内省法・ 内観法による人間の素朴な自己理解を否定 して、

「 オルガノン(機)原理」を取 るのである。直接的な自己省察の方法ではな く、人間が産 み 出 した文化的客観態を媒介に して人間が自分を知 るという方法 はW.ディル タイに由来するも のである。 しか し、個々の文化的な客観態 はオルガノンとして、人間その ものへの指示を、人 間存在の本質的な特徴への指示をもた らす ものであろうか。 それが問題である。

(3)

教育人間学における動向と課題

文化的客観態を重視す るとして も、それは人間自身がその内的な本質直観か ら産み出 した も のであって、そこには基本的に人間の自己中心性が前提 されている。そのことは、「 オルガノ ン原理」を発展 させたH.プレスナーの理解 と対立す るものである。 プ レスナーの人間学的な 思想 において、今 日新ためてその意義を検討するに価することは、「 人間の脱=中心的な地位」

についての見解である。人間自身を、そ して人間の自我を中心 に した人間理解の限界を押 さえ ていたプ レスナーの見解をボルノーは一定の方向に偏向させているのである。具体的に言え│よ

ボルノーはディルタイ学派の思考様式を保守することに徹 したと思われる。

要す るに、 ここにおいて も、人間の世界内存在を考慮することが要請 されるのである。それ との関わ りにおいて、人間の「脱=中心性 (Exzentrizitaet)」 の意味が確認 され るのである。

そ してまた人間学的方法の「開かれた問題の原理」の意味を、それに関連する「人間の開放畑 の意味を捉え直す ことが可能 となるのである。

これまで、教育人間学における問題点の主要な ものを概観 してきた。その際の基本的な観点 は、すでに明示 されているように、人間の世界内存在 におかれている。 この観点 は、先に触れ た「脱=中心性」の観点 と緊密 に連関 している。その連関において出て くるのは、「 世界開放 性」である。人間がその「世界開放性」 という特徴の下に、「世界」 において「 脱

=中

心的な 地位」を得て生 きる時、人間は「歴史」 をもつ ことになるのである。 プレスナーは次のように 記 している。「人間は彼の活動 においてけっして完全 に自己を認識できない。認識で きるのは、

彼の前方を走 るか彼の背後につ きまとう彼の影だけであり……。だか らこそ人間は歴史をもつ。

人間は歴史をつ くリーーそ して歴史が人間をつ くる」⑤ と。

この指摘により、教育人間学の問題点が もう一つ付加 される。それは、「 歴史性」 につ いて の考察が不十分である、 という点である。人間にとって歴史は、当然のこととして前 もって与 え られているので、取 り立てて言及するに及ばないのか も知れない。 しか しそれよりも実際上 は、歴史の問題 は例の「社会学化」傾向1の中に埋没 させ られて しま って いる、 と言 えよ う。

「歴史性」 は、単 なる社会的な変遷 とみなされ、 その本来の意味の確認がな され な くな って し まったのである。それに して も、歴史を重視す るディルタイの後継者たちの教育人間学 におい て何故「歴史性」が人間の本質特徴 として もっと深 く追究 され、その人間形成的、教育的な意 味が強調 されなか ったのであろうか。その原因に関 して、W.ブラウンは次のようにみている。

確かにデ ィルタイは歴史を重視 したが、 しか し彼 は「歴史性」を心理学化することにより、そ の存在的、存在論的な意味を捉えなか ったのである。⑥ だか ら、「 歴史性」 の人間学的な意味 への展開を妨げることになったのである。 この点の解明 も重要な課題である。

以上、教育人間学 における基本的な諸問題が提起 された。それ らの克服のためには何よりも まず「 開かれた問題」 について捉え直す必要がある。人間を開かれた存在 とみなす ことの意味 とその問題点を明 らかに しな くてはな らない。その問題点 は、人間の「開放性」を「世界開放 性」へ と展開、発展 させることによって克服 されるものと推測 されるのである。 それゆえ、次 の考察主題 として、「 開かれた問題」(「開放性」)から「世界開放性」への転回の必要性 とその 意義について解明することが浮上 して くる。 そのことは言 うまで もな く、単なる「開放性」に 基づ く人間理解を、「世界」へ開かれた人間理解へ と発展 させ ることの必要性 を論証 す ること で もある。

167

(4)

2。 人 間把握 の再検討 [主I]:「開 か れ た問題 」 か ら「 世 界 開放性」 ヘ

教育人間学が抱える諸問題 は多種多様ではあるが、それ らはやはり哲学的人間学における方 法原理の問題性 に起因するものである。 ボルノーによって定式化 された方法原理 は、周知の如

く、次の4つである。①

①人間学的還元の原理 :客 観的精神の形成物 (文

)を

、その発生の「創造的場」 としての 人間 (の本性

)か

ら理解 しようとすること。

② オルガノン原理 :① とは逆 に、人間が作 り上げた客観的形成物か ら、(それを道具・ 思考 の機関 として)人間を理解 しようとすること。

③人間的生の個別諸現象の人間学的解釈の原理 :人 間の生の事実における特殊な現象 σじ←

喜 び・ 羞恥等)が、そのうちで有意味かつ必然的な項 (部)と して理解 されるためには、

人間全体の本質 はどのようなものでなければな らないのか、 と問 うこと。

④開かれた問い (問

)の

原理:この原理 は個別研究に先立つすべての体系化を拒否す る。

新たに取 り出された現象 は、すべて人間の全体理解 に対 して何 らかの予見 され得ない新 し いものを提供する。 それゆえ問題設定 は、新 しい発見に対 して原則的に開かれていなけれ ばな らない。従 って、人間の閉 じられた像 (完結的人間像

)は

決 して存在 しない。

これ らのうち第3の原理 は、 ボルノーがキルケゴールの不安の解明に関連 して公式化 したも ので、彼 自身はこれを「 もっとも普遍的な方法原理」 と称 している。 これ以外の諸原理 は、す べてプレスナーに依拠 してボルノーがまとめたものである。そこで問題 となるのは、両者の間 <ず

>で

ある。 プレスナーの企図に依存 しつつ も、それをボルノーなりに発展 させ公式化 す る際に、前者における重要な視点を見過 ごしたことにより、それがその後の教育人間学 にお ける問題点の起因 となり得 ることが、十分に考え られるか らである。

両者間のずれの最 も基本的な もの1ま「 開かれた問題の原理」 に関 してであ る。 ボルノーは それを、上記のように捉えている。すなわち彼 は、「 開かれた問題」を決 して回答 し得 ない問 題、 また回答が未決定のままにされるような問題 としては捉えていない。彼 はそれを、その研 究 において新 しい予期 しないことが見えて くるような問題 として、 しか も得 られた結果によっ て問題提起そのものが遡及的に変更 されるものとして捉えている。その捉え方に関 して、 ブラ ウンは、「 まった く明 らかに、 プ レスナーは、『 開かれた問題』の原理がそのように理解 される ことを知 ろうとは思わなかったであろう」③ とま旨摘 している。

プ レスナーか ら見れば、「 開かれた問題」 はいわば学問論の、そ してその方法論 の水準 に留 まっているのである。それゆえこの「 開かれた問題」 に留 まっている限 り、人間存在の本質に 突 きすすむ ことはできないのである。 た しかに彼 は、人間についての閉 じられた像 は存在 しな いという点ではボルノーと一致 している。 けれども「両者 は『 開かれた問題』 としての人間の 解釈 において矛盾 している」0のである。 ボルノーは、人間を原則的に理解可能 な存在 として 捉えている。それに対 してプレスナーは、人間を「 隠れた る人 間 (HomO absconditus)」

して捉え、「 開かれた問題」を人間の本質的な秘匿性0隠蔽性 と結 びつけているのである。

人間の隠蔽性 に関 して重要なことは、それが「 開かれた問題」すなわち人間の単なる「開放 性」 に関係づ けられているのではな く、む しろ根本的には「世界開放性」 と関連 しているとい う点である。「 人間が自分 自身に対 して隠されていること一一 ホモ・ アブスコンディトゥスーー は、人間の世界開放性 と重なっている。人間は彼の諸活動においてけつして完全 に自己を認識 できない」。(0人間がその活動 において自己を理解できないということは、活動 の基盤 で もあ

(5)

教育人間学における動向と課題 169

り、またその成果で もある文化を通 して も自己自身を完全には理解できないということを意味 している。要するに世界に開かれ、世界 との関わ りにおいて、世界のなかに位置づけられるこ とこそ人間存在の事実 として確認することが必要である。 この確認を欠落 させている場合には、

人間学的還元の原理やオルガノン原理 は、いかなる根拠 と基準 も有 しない無規定なものにすぎ ないのではなかろうか。人間が産み出 した文化の意味を理解するのに、人間自体 に立ちかえろ うとするのは、依然 としてそこに人間中心主義的な、精確には人間の自我中心主義的な立場 に 固執 し、それを保守せん とする姿勢が読み取 られるのである。

人間のこの「 世界開放性」を成立 させている根拠をプレスナ=は人間の「 脱=中心的位置」

に求めている。 というよりも、彼以前にすでに提示 されていた「世界開放性」概念で もって考 え られていたことを取 り込み、 さらに発展 させたものとしてその概念を新たに提起 したのであ る。M。 シェーラ早が「世界開放性」を「精神」 という形而上学的な概念で説明 しているのに 対 してプレスナーは、それを経験的な次元で説明 しようと試みたのである。彼 は、生物が環境 とどのような関係を もっているのか という位置付け問題 に注 目し、そこか ら人間の位置・ 地位 を「脱中心的」 と観取 した。「脱中心性」 とい うことは、人間が彼 自身の外側 に中心点 を有す ることを意味する。それは、人間が、動物 とは異なり、身体であることと身体を有するという 二重の局面を有することである。 そ してさらにそれは、人間に「 自己を越え出ること」、「 自己 と対時す ること」、「 自己のなかに入 り込むこと」 を可能に している人間的な特性である。 自己 を越え出る人間のみが「世界」を意識することになる。人間の行動 はただ「世界」にのみ向け られているのである。「 世界」への「 開放性」 を保証す る「脱中心性」 こそ人間 の本質的 な特 徴 なのである。

これまでの考察によって、「 開かれた問題の原理」 についてプ レスナーが捉 えて いた本来 の 意味が指摘 されたが、それは同時にボルノーによって欠落 された点および別様 に捉え られた点 を明 らかにすることにもならたと言えよう。 この原理 との関連で、人間学的還元の原理 も、人 間の「世界開放性」を切 り離 した形で捉え られていることがその問題点の要因であると容易に 理解 される。

この「 世界開放性」、「脱中心性」 は文化の産出を可能にしている人間の根本要因であるから、

文化的なものの理解 によってそのことが 自覚 され るわけではな く、む しろその人間的な事実ペ の目を妨げることになるのである。人間が文化的な所産を媒介 に しないで世界と関わることを、

実 はボルノー自身 も気づいているのである。それは第3の方法原理を認めることで、間接的に 示 されている。第1、 2の方法原理が前提 に している文化 は、人間の本質に属するとしても、

人間の生のなかには文化 によって捉えることのできない「気分」や「感情」 という現象 も存在 す るのである。彼 はキルケゴールにおける不安 という気分を典型例 として提出 しているが、そ れにより「 オルガノン原理」 との矛盾を明確に露呈 させることになるのである。 というのは不 安 という現象 は、人間をその 日常性か らすなわちその文化的・ 社会的な生活か ら引き離す もの だか らである。不安の体験を通 して人間が真 に自己自身を取 り戻す というのな ら、そこに人間 の「脱中心性」が、そ して文化や社会を対象化 しそれへの多様な態度を可能にする「世界開放 性」が積極的に確認 されて もよか ったのではないだろうか。

ボルノーが、 自分でまとめ上げた第3の方法原理か ら帰結す るはずの「脱中心性」を率直に 容認で きなか ったのは、やはり彼がディルタイ学派であることに忠実であったことによると考 え られ るであろう。 というのはディルタイ学派 は、その解釈学的方法を尊重するあまりに、そ

(6)

れによつて人間学的な追究に制約を課 して しまっているか らである。「 デ ィル タイ学派 はその 方法的な諸原理の前提については問いかけない。すなわちディルタイ学派 は、人間は本来的に どんな ものであるのかと、そ してみずか ら発展 させたその (方法諸原理 とい う)道具箱を もっ て して、い ったい人間学 は可能 であるのか どうか と、深 く問 いかけることを しないのであ る」。D。 その方法原理による人間把握 は、「部分」 と「 全体」 との反映的、 交互 的そ して循環 的な関係に基づ く解釈学的な理解 (了

)で

ある。そこで目指 されているのは「全体 としての 人間の理解」(0を獲得することである。 しか しその全体的把握 においては人間の世界関係性が 脱落 していると言わざるをえないのである。 というのは、世界関係 は人間の「部分」と「鋼

との関係か ら理解 され得 るものではないか らである。解釈学的な人間理解を根底 において可能 にす ると共に、その無際限なそれゆえ無意味さに転落 しかねない「開かれ」 に一定の基準的な 枠組みない し基底を提供 しているもの こそ「世界関係性」 なのである。

そ こで次の考察主題 は、人間の「世界開放性」か ら「世界内存在」ない し「世界関係性」ヘ の進展の必要性を解明 し、関係存在 としての人間理解を確認することである。

3。 人 間把握 の再検討 [主題 Ⅱ]:「世 界 開放 性 」 か ら「 世 界 関係性 」 ヘ (1)歴史性に関わる問題

前節で指摘 されたように、「 開かれた問題」 ない し「 開放性」 の視点 は克服 されな くて はな らないものである。表面的には「世界開放性」の内にそれはいわば発展的に解消 されるように み られるが、実際には両者の間には「世界」への視点の有無 という質的な差異 がある。「 開か れた問題」 は文化を媒体に した人間理解に留 まっているのに対 して、「世界開放性」 はその文 化 レベルをのり越えるものである。だが、 この「世界開放性」 の視点 は今後 さらに維持 され う

るものであろうか。 これは本当に「世界」 との関わ りを保証す るものであろうか。

その問いに対 して、人間学の展開過程 は消極的な方向を示 している。その著『 宇宙 における 人間の地位』(1928)で哲学的人間学の創始者 とされるM.シェーラーによ って人間 は「 世界 開放的な」存在 と規定 された。 しか しその後ハイデ ッガーは、それまでの人間学 は存在者 とし ての人間をみているだけと批判 し、哲学的人間学 は人間の在 り方を存在論的に解明 しな くては な らないと主張 したのである。彼によれば、人間は、 自分 自身の<存>と関わ り、 その自己 関係において自分 自身を理解 (了

)す

<現存在>(Dasein)で ある。 この<現存在

>と

しての人間は、いつ もすでに世界のなかに在 り、世界内存在 と呼ばれる6人間 は世界に投 げ出 されているが、同時に世界に向か って自分 自身を投げ企てている。 この存在論的な人間把握の 影響を受 けて、「 世界開放性」か ら「世界内存在」への視点の展開が、人間学 の一 つの、 それ

も重要かつ主要な方向性を もつ ものとして現在 に至 っているのである。

しか し、その実存論的存在論による人間学の基礎づけに対 して次のような意見が出されてい る。ハイデ ッカーの人間論 においては、人間の本質的0本来的な在 り方 は自己理解を遂行する

<内

的人間

>で

あり、客観的 。科学的に捉え られる<外的人間

>は

非本質的な ものとされてい る。 けれども、実存的な企てである<投

>は

歴史的な状況のなかでの具体的な選択行為 とし て行われることになるので、歴史的・ 現実的な人間の在 り方 について も理解す る必要がある。

「 したが って、具体的・ 現実的な人間の在 り方の解明にむかお うとす るな らば、 実存論 的な人 間学 は、 その個人の自己理解の立場を乗 り越えぎるをえな くなるであろう。すなわち、具体的 <行

>の

主体 としての立場か ら、あらためて人間における外的なもの (歴)と内的な も

(7)

教育人間学 における動向 と課題

(実

)の

動的な連関構造を問いなおさぎるをえな くなるであろう」。(の 要す るに、「世界 開 放性」か ら「世界内存在」への視点の移行がなされるとして も、それは決 して自閉的な自己存 在ではな く、「世界」 との動的な関係性を、すなわち「世界関係性」を確保 している人間存在

を指向するものでなければな らないのである。

この動向をおさえているブラウンは、「世界開放性」は維持 され得 るのか とい う先 の問いに 対 して こう回答 している。「 私の考えでは否である。その理由は、世界開放性 の発想 にはまだ 世界内存在 に関する核心的な言明が欠 けているか らである」(D、 と。彼によれば、陛 界内存租

というのは、世界が人間のなかに入 り込んで成長する過程 と、その逆に人間が世界のなかに入 り込んで成長する過程 との両者が成立 し、両者の交互作用が営まれているような、人間存在の 在 り方のことである。その交互作用が確保 されていないとすれば、その理由は人間の現存在の 過程性である「 歴史性」がみつめ られていないことによる、 と彼は指摘するのである。

現在、教育人間学の貧困が指摘 されているが、その主要な原因 として、「 歴史性」 に関す る 考察が組み込 まれていないことが挙げ られる。歴史性 は人間にとっての有意義な本質関係を表 示 し得 るものであるが、それは人間に前 もってすでに当然のこととして与え られているという 理由によって、 まともに取 りあげ られていないのである。 また経験的一社会科学 は、例の<社

(学)化

>の

なかに<歴史化

>や

「 歴史性」 を読み込んで しまう傾向があり、 また歴史学的 な研究 は時代的な変遷や推移 としてのみ「歴史性」を考察する姿勢が強 く、そのため人間存在 にとっての「歴史性」の意味づけは「形而上学的なもの」 として敬遠 されていると言えよう。

人間存在にとって「歴史性」の意識 は本質的な意味をもつ ものである。 というのは「歴史出 は、人間が世界に繋 ぎとめ られていることを、すなわち人間の世界係留性を示す ものだか らで ある。「歴史性」 の意識すなわち人間生活の過程性が理解 される時に、超越性 の意識が産 みだ される。その意識 に基づいて人間は社会や文化を、そ して自己自身を対象化 し、それ らを考察 することが可能 となるのである。

「 歴史性」 を意識 した人間存在の基本的な特徴 として挙げ られるのは可変性・ 受容性・ 創造 性そ して超越性である。0。 受容性 というのは狭義 には歴史への依存性であり、広議には世界ヘ の開かれである。超越性は、社会・ 文化の、そ して自己自身の乗 り越えを、また現在「今」で の時間の超越を も意味 している。 これ らの特徴を備えた人間は、世界 との関係において両面的 な位置を、すなわち「世界のなかの存在」であると同時にその「世界 と対峙 している存在」 と いう二重性をもつ ことになる。教育人間学はこうした「歴史性」の視点を包括することにより、

全体的な人間理解を指向するものへ と発展 し得 るのである。

デ ィルタイの影響を受 けているボルノー等の教育人間学が、人間の世界関係性 とそれを契機 に した人間の自己超越性 とに関 して踏み込んだ論及を していない原因は、ディルタイの L心 学化 された歴史性」把握 にあると指摘 されている①。彼の歴史把握の特徴 は、「 永遠 の流れ と

しての生 の概念を歴史的過程 として規定 した」(Dことにある。

「生」 は歴史的現実 に他 な らな いのである。そ してその「生」 は体験によって把握 される。体験は、 自己自身の感情・ 意志を 同時に体験することで もある。その意味において体験 は人間に「 自己確信性」をもた らす もの である。それゆえ、 ディルタイにおける「歴史性」 は人間の自我、 自己確信性 と緊密に結びつ けられている、つまりL心理学化」 されているのである。心理学化 された「歴史性」 は、当然 のことであるが、人間の自己超越性を産み出だす契機 とはなり得ないのである。

ところで、「歴史」 というのは過去の事柄および現在へ と存続 している事柄 につ いての解釈

(8)

された叙述である。だか ら「歴史」 は単なる過去ではな く、人々が自分な りの生 き方を追究 し なが ら解釈 しているものであり、その解釈 された「歴史」を<今、此処 に生 きる>ことにより、

未来を拓いてゆ くことを支えているものである。その意味で人間は<自己自身のなかで も>歴

史を生 きているのである。 こうした観点か ら、歴史的存在である人間の内面 に過去・ 現在・ 未 来の三時制に対す る調和的な関係を形成す ることの必要性を主張 したのは、 オラングの教育学 M.」.ラ ンゲフェル ドである。彼 は教育学を実践的人間学 と捉え、「子供 の人間学」 を積

=呼

li員冒去禽曇二百魃里i婁I`彙鼻1とぃぅ異なる時間次元の二重の時間構造を「異時間重 存在」 と、そ して二重の時間への関わ り方 を「異時間関係性」 とよんでいるの。そして教育の 最 も重要な課題の一つは、「個人であると同時に社会的・ 歴史的存在で もあるわれわれの内面 に、三つのことなる時間に対す る調和のとれた関係を、 しか もより生産的・ 創造的な関わ りを 形成 してい くことである」0)と しているそのことは彼によれば、社会的存在および個人的存在 として二重の意味で生 きている歴史のなかへ未来を含み込 ませ ること、 要す るに「 文化」 と

「人格」 とのなかに未来を創造的に取 り込む ことである。 その実現 はまさに「 異時間関係性」

の調和的な確立 によって初めて可能 になる、 とランゲフェル ドは主張 しているのである。

従 って、 ランゲフェル ドの視点か らみれば、「歴史性」 は過去 と出会 い未来 を準備 し、 現在 を主体的に生 きる人格存在へ と個人を成熟 させる契機を成す ものであり、 また現実の社会に対 して距離を取 ることを可能に し、それにより文化を創造的に改変 させる契機 として機能するも のである。その意味において「歴史性」 は、「世界開放性」か ら「世界内存在」 への展開 に際

して、人間の世界関係性を促進するということを通 して不可欠の役割を もっているのである。

(2)世界関係性

先に触れたランゲフェル ドは人間を「世界 に対する実際的関係の中で自己自身を解釈する存 在、環境の枠組みの中にありなが らもなお自分で自分を規定 してゆ く存在」0)と捉えている。

子 どもの成育史 は「意味付与の歴史」である。所与 としての身体、生活経験、人間、事物 との 関わ りにおいてそれ らを意味づけ、その意味づ けによって自分 自身を意味づけ、そ うして世界 の意味に接近 してゆ くのである。人間生活全体の有意味性へ自己をもた らす こと、すなわち世 界の意味によって自己を規定す ることが、人間存在を現実化す ることである。

それでは子 どもはどのように して世界 との、事柄や人間 との関わ りをもつのであろうか。そ のことをランゲフェル ドは子 どもの「 内面性」 の特性、 すなわち「 受感的pathisch」 お よび

「 入感的empathisch」 な反応性で もって次のように説明 している0)。 前者 は事物 の「 直接的な 訴えかけにたい して反応す ること」であり、後者 は共同存在 としての人間か らの語 りかけ・ 訴 えに対 して反応する感情移入的なものである。事物0事柄や他者 との関わ りにおいて受感的、

入感的に反応す ることを繰 り返す うちに、それ らとの関わ りが一つのまとまった経験の形式を 整えることにな り、その際同時にそれ らについての認知が成立することになる。それに基づ き 関わ りは意識化 された経験 となる。繰 り返 されて きた反応や対処の仕方を統合する機能を果た しているのは自我である。その自我 は、 また諸経験を統合 し、 ものごと・ 他者への態度、未来 への予期の仕方を、各人独 自の形で生み出す ことになる。特に未来への予期の成立は、現在の 経験だけに囚われることがな くな り、内面 における調節、秩序づけおよび計画を立てる能力を 促進 させることになる。それにより子 どもは、人間 は出会 う物事や他者 にたい して、世界に対

(9)

教育人間学 における動向 と課題

して態度を決定する特性 と共 にそれを遂行するという人間的な課題を負 うことになる。

それによリランゲフェル ドは人間を「 自己決断する存在」 として規定するのである。「 人格 は自己自身を一個の決断する存在 として、 またいつ も自己―決断する存在として把握する。従 っ て、存在すると同時に未だ存在 しないところの、すなわち未だでき上が っていないところの誰 か として、 自己自身を把握するのである」0。 この規定には人間の「脱 中心性」 が含意 されて いると言えよう。 というのは、人間は絶えず自己一創造 している存在だか らである。 この自己 1造は、 自然的な発達,成長 とは本質的に異なるものである。それは、世界の中に入 りこみ、

自分な りに意味づけ・ 解釈 して世界 と出会 い、他者の もとに自己を置 き、 自己の内に他者を受 容する、そういうことをする人間的な勇気を必要 とする。そうした勇気を子どもの内に喚起 し、

保持す ることこそ教育の基本的な課題である、 とランゲフェル ドは主張 している。

「 世界関係性」 についての考察 において鍵概念 として浮かび上が って くるのは、人間の「意 志決定」「 決断性」 そ して「 態度決定」である。表現 はことなるがそれ らは同義 である。 その ことは、本来的な人間存在 は自我がみずか ら決断す る時に初めて もた らされるということ、そ してその決断によって初めて人間は世界 との関係を自分のものとして確保するということを示 している。そうしたことを念頭において人間の教育について考える時、「決断性」 を支 え る精 神的な属性が引き出されることになる。K.ディーネル トは、 人間の教育学 的な素質 と して

「責任性」「良心」 そ して「価値追求性」 の二つを挙げている。彼のその提案 は、V.E.フ ンクルに依拠 したものである。ただ しフランクル自身 は、人間の実存的な要素 として精神性、

自由そ して責任性 を挙げているが、ディーネル トがそのように読み換えたのは人間の「世界内 存在性」 を配慮 してのことと推測 される。

ディーネル トの教育人間学 において、人間はかの「 オルガノン原理」の意味では捉え られて はいない。すなわち、人間を客観的な文化を媒介に して把握 される客観的な客体 とみなすので はな く、世界 という極へ向けて「張 りつめ られたスプ リング」の如 き存在 として把握 されてい る。それは要す るに超越的な存在 とみなされているということである。人間は、 オルガノン原 理におけるように人間自身へ と方向づけられているのではな く、 フランクルの提示す る「意味 への意志」によって規定 されているのである。そうした人間理解をもつディーネル トによって 強調 されているのは、言 うまで もな く子 どもの「意味への意志」 に呼びかけることである。そ の訴えは説得や忠告によってではな く、「われわれが生徒を<積極的な>場面 の中 に、 つ ま り 有意味な<負>と、その課題か らの要請 とを もつ場面のなかに身を置かせること」② によ っ て実現 される、 と彼 は指摘 している。そこにおいて人間は、状況か ら

<問

いかけられている存 >とみなされている。その問いかけに人間は反抗することもあろうが、<意味器官である良

>の

もとに責任をもって応答 しな くてはな らないのである。その応答 は同時に価値を追求す ることで もある。 その価値に関 してデ ィーネル トは次のように述べている。「 もろ もろの価値 は、 日々の要請および個人的な課題 においてたち現れる。 これ らの課題の背後にもろもろの価 値 は、課題を通 してのみ外見的に志向され得 るものであるJ(の と。そのような記述か らは今一 つ価値がどのように捉え られているのか知 ることが困難である。 ブラウンは「 ディーネル トと フランクルによって価値問題 とみなされていることは、実際には、仲間や事柄か らの良心 に対 する呼びかけに他な らない」の と述べ、そ してその良心 も価値 に関 して葛藤することがあるこ

とを挙げ、ディーネル トの見解の問題性を指摘 している。

(10)

(鋤 「 世界内存在」 ――総括的考察一

以上の考察 において意図されたのは次のことである。人間を「 開かれた問題」および「世界 に開かれた存在」 として捉えることは、 もともと動物 との比較 に基づ き、その動物的な状態よ りも優れているとみなされる人間の状態性をそのように認識することであった、 とい うことで ある。「 開かれた問題」 として人間の状態を記述的、静止的に捉えることであ る。 人間が産 み 出 したものを重視するその視点 は、見方を替えれば、業績・ 成績 を偏重す るもので もある。業 績主義の問題点 はすでに指摘 されている。人間存在にとって重要 なのは業績その ものよりも世 界 との関係性である。

「世界開放性」 は開放性が世界へ向けられていることのみを示すに留 まっている。決定的に 重要なことは、人間は世界を有 しているという事実を確認 し、その在 り方 について解明す るこ とである。 この点をおさえない限 り、教育人間学 は教育の基礎科学 としての内実をもつ ことが で きないのである。要するに、人間の状態性の考察か ら世界関係性の考察へ と視点の転回を積 極的に図 ることが必要である。世界 との関係性 は、世界内存在 においてその真の形態を もつ こ

とになる。

人間を「世界内存在」 として捉えることは、人間を世界の中心的な位置に据えることではな い。それは、世界 との関係において自己を越え出る人間の「超越性」、そ して例の「脱中心性」

と深 く結びつ くものである。人間は世界の存在であると共 に、同時にその世界 と対峙 している か らである。そのことか ら、二律背反的な緊張関係を世界内存在 は伴 っているといえる。

世界内存在における緊張関係の一つは、世界開放性 と世界一体化 との背反である。人間の状 態性を見 る視点 に入 るものは、つねに自我が是認 したり拒絶 したりするような意味や価値のみ である。それに対 して世界内存在 は、世界か らの呼びかけに応答する行為を要請 されることに なり、そのための決断が求め られる。その決断は自我の好みによって恣意的にするわけにもい かず、 自我を克服せぎるをえない場合が多 くなるのである。 自我の克服 は世界 との一体化であ るが、それが自我を喪失 させることになればそのことが再び問題 となる。世界に対す る別様の 関わ り方を安易な形で求める傾向がそ こで生ず ることにもなる。 そうした背反的な緊張関係 を 克服するには、「意味への意志」を覚醒す ることが必要 となるであろう。

次の緊張関係 は自由と精神性 とのそれである。人間の状態的な考察 において、 自由は無制約 的な ものと して捉え られるものである。そこでは人間の欲することを可能 にする技術的な手段 が追求 される。 しか しそれは消極的な自由を満たすのみである。それに対 して積極的な自由は、

世界を考慮 して、 自分の取 りうる諸可能性を見抜 き、強制 されないで何 らかの可能性を選択す る場合 に発揮 されるのである。つまりこの場合の自由は有意味なことの選択に関わるものであ り、人間の精神性 に他な らないのである。そ してその選択 というのは、世界に対する態度決定 の遂行で もある。欲求の追求 に関わる自由は、人間存在 としての世界への態度決定 とは無縁の ものである。その意味において自由と精神性 とは緊張関係にあると言えよう。

二つ目は、 自己発見 と超越性 との緊張関係である。 これは個性 に関わる問題である。状態性 の視点での個性め把握 は、個人の性格的な属性や業績あるいは自我の有様を手掛か りに してお こなわれるものである。それはいわば自己発見的な形態をもっている。それに対 して、世界内 存在の視点での個性の把握 は「 自我の超越」 に基づいている。すなわち、人間が自己を発見す るのは自己自身に引き返す ことによってではな く、世界における自分の課題を克服 しそれを通 して自分の自我を超越する時である。人間は自我を超越するほどに、 ますます自己の内実を豊

(11)

教育人間学における動向と課題

かにすることができるのである。人間の精神的な豊かさは対象への没我的な傾倒 によって、マ スロー的に言えば忘我的な ピーク経験によって獲得 されるものである。 しか し、所有欲や快楽 指向の高 まりの中で欲求的な自我が強 くなっている現在の状況 において、超越性 に基づ く個性 の獲得 はますます困難なことになっていると言えよう。

4は、人間学的な状態である「 関心」 と人間学的な関係性である「責任性」 とのアンチノ ミーである。「開かれた問題」 ない し「世界開放的存在」 という状態性における人間 はただ関 心や心配を もって存在 し、 また存在 し続 けている。何かに関心を もったり心配 したりすること は、その何かに向けて関係づけ られていることである。 しか し関心0心配 は本質的に何かに囚 われている主観的な状態である。心配する状態 に留 まる限 り、責任を引き受 けることのない無 力状態に置かれていることになる。それに対 して、世界 との関係性を有する人間は、 自分の置 かれているところの状況を承知 していて何を為すべ きかが分か っている。その人間は世界か ら 問いかけられ、それに責任をもって応答す ることにより、身の証をたてることをわきまえてい る。つまりその人間は一定の状況の中で個人的な「 存在一当為」、自分の取 るべ き在 り方 を受 け止めるのである。 これはどんな一般的な道徳法則によって も捉え られない、 まさに「個人的 な法則」なのである。 自己ない し自我中心主義的な傾向が強 くなっている状況において、その

「 個人的な法則」を読み取 る鋭敏 さ、そ してそれを果たそ うとす る責任意識 は弱体化 させ られ ていると言えよう。

以上世界内存在に関わる基本な問題点の主要なものをみて きたが、それは同時にそこでの構 造関係を素描するものであった。上で示 された二律背反的な緊張関係の克服、解決をさらに深 く究明するためには、「意味志向」や「意味付与作用」 と関連 させる必要があ る。 それ は今後 の課題 としたい。

註〕

(1)B.ゲレナー (岡本英明訳)『教育人間学入門』理想社,1975(Aと略記),168頁. (2)K.Dienelt,Von der Methatheorie der Erziehung zur sinn―orientierten Paedagogik,

Moritz Diesterweg,1984,S.107.

(3)ボルノー/プレスナー (藤田健治他訳)『現代の哲学的人間判 白水社 1976(Bと 略識 ,

25頁以下参照.

(4)W.Braun,Paedagogische AnthOropologie im Widerstreit,Julius Klinkhardt,1989(C と略記),S.46.

(5)B 47頁.

(6)C S.17ff.

(7)A lll頁以下 に依拠,(括弧 は筆者).

(8)C S.48。

(9)C S.49.

(10)B 47頁

. (11)C S.49.

(12)B 31頁

. (13)B 35,36頁.

(14)古田光編『 ヨーロッパにおける人間観の研究』未来社,1982,37頁.

(12)

(15)C S.72.

(16)プラウ ンによ るラン トマ ンに関す る記述 を参照.

(17)Vgl.C S.28.

(18)0。 F.ボ ル ノー (麻生建訳)『 デ ィル タイーー その哲学への案内』,1977,74頁.

(19)M.」ラ ンゲル フェル ト (岡 田・ 和 田訳)「教育 と人間の省察』 玉川 大学 出版,1974(D

と略記),10頁

(20)D 206頁

「 訳者 あ とが き」参照.

(21)ラ ンゲ フェル ド (和 田修二訳)『教育 の人間学的考察』未来社,1966(Eと略記),56頁

(22)D 86お

よび116頁以下参照.

(23)E 57頁

.

(24)K.Dienelt,Paedagogische Anthropologie,Ernst Reinhardt,1970,S.279.

(25)Ditto,S.171。

(26)C S,84.      .       

(27)Vglo C S.89ff.

参照

関連したドキュメント

した宇宙を持つ人間である。他人からの拘束的規定を受けていない人Ⅲ1であ

仏像に対する知識は、これまでの学校教育では必

  「教育とは,発達しつつある個人のなかに  主観的な文化を展開させようとする文化活動

 基本的人権ないし人権とは、それなくしては 人間らしさ (人間の尊厳) が保てないような人間 の基本的ニーズ

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

Photo Library キャンパスの夏 ひと 人 ひと 私たちの先生 神学部  榎本てる子ゼミ SKY SEMINAR 人間福祉学部教授 今井小の実

「海洋の管理」を主たる目的として、海洋に関する人間の活動を律する原則へ転換したと

 映画「Time Sick」は主人公の高校生ら が、子どものころに比べ、時間があっという間