静岡大学教育学部研究報告 (教科教育学篇)第26号 (1995。3) 165〜178 165
教科体育 におけるバ レーボール特性論の再検討
Reconsideration on the Properties of Volleyball
in Physical Education
新 保 淳
Atsushi SHIMBO
(平成 6年10月 11日受理)
Abstract
When considering teaching materials in physical education the functional aspects in schoolchildren of properties in teaching materials are regarded as the most important.
Although volleyball as teaching materials is not great to flmction them.Thus it is neces中 sary to consider the the properties of voueyball as teaching rnaterials in physical education.
The aim of this study is to introduce the宙 ew point of the new properties of volleyball as teaching materials in physical education.
The results were surFlinarized as follows;
1. To choose a its own skill containing̀̀stilnulus with exercise"fronl a body of skill in volleyball.
2.To recognize the process of development of skill in volleyball.
3.To judge whether effect市 e skill containing stimulus with exercise"for students.
1.緒言
バ ンーボールは、サ ッカーやバスケ ッ トボールの ように、小学校の教科体育 において、ポー トボールやライ ンサ ッカー といった リー ドア ップゲーム として教材化 されている球技 とは異な り、中学校 の教科体育 において生徒たちが出会 う初 めての球技種 目である。 にもかかわ らず今 日の教科体育 においては、中学の3年間で、パ スに始 まり、 トス、 ンシーブ、サーブ、スパイ クくブロックといった個人的技能 に加 え、「3段攻撃 を含 むラ リー」までが要求 される教材であ る。
そこから生 じる問題は多様 を極めている。「手が痛い」、「ゲームがサーブだけで終わってしま う。」、「突き指をしそうで怖い」等々であり、個人的技能を習得 し、さらにはそれらを使って「3
段攻撃を含むラリー」を行 うことによって、バレーボールの楽 しさに触れる、には程遠い授業 が展開される可能性 を秘めている種 目であると言えよう。すなわち生徒において個人的技能が
未消化のままに集団的技能が要求されるのである。さらには集団で行われるゲームにおいても、
「ゲームであまリボールにさわれない」といった生徒たちの声から察っせられるように、「3段 攻撃」の重視が一部のより上手な生徒にボールを集中させる結果にもつながっていると言えよ
う。〔註1〕
こうした問題は、はたしてどこに原因があるのであろうか。 これまでのバレーボール授業の 展開から考えられることは、 まずバ ンーボールの特性を「相対するチームがボールを相手コー トに落 とすための攻防を繰 り返 し勝敗を競い合 うこと」に求め、それがその まま教科体育にお けるバンーボールの目標 とな り、その目標にしたがってバンーボールが「教材化」され、生徒 たちに与えられているという点にあるのではないだろうか。さらには、ここで述べられている バンーボールの特性は、いわゆるバンーボール競技から導き出された特性であり、学校体育に
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3響E
本論文では、佐藤の「体育」概念論 を視点 として「運動教材」及び「運動の特性」 を再検討 し、教科体育 においてバ ンニボール を教材 として取 り上 げるうえで必要 とされる「運動の特性」
抽出のための新たな視点 を提示す ることを目的 とす る。
2.方法論 としての「教材」論 TT りil :7.イ
2‑1.「体育」概念論から導かれる「目標」 と「教材」への視点
改めて述べるまでもなく、授業 とは「『教材』と『教師』と『子 ども』の 3つ の要因で構成さ れ、教師が直接的に、あるいは教材を媒介 しながら子どもに働 きかける (中略)教育的営み」
(三原,1984)であり、そこにおける教材は「教育の目標 を達成させるために教育的に編成さ れた学習内容」(下中,1979)であることについては多言を要 しないであろう。 しかしなが らこ の教材を「教師」と「子 ども」の間に置いたとき、それはいかなる様相を見せるのであろうか。
佐藤(1993)は、次のような図を示 し、それについて以下のような説明を加 えている。(なお 以下本節における引用ペニジは、すべて佐藤による)
教 材
図1 教材の二面性 (佐藤, p.294)
教科体育 におけるバ レーボール特性論の再検討 167
運動文化が教材化 された上で「身体的諸能力の顕現化」 を目標 とす る教科体育 における実践 過程の中に導入 され ると、その教材 (媒体項)は、教師 (作用項)の側か らは実体性が保持 さ れているけれ ども、生徒 (被作用項)の側か らす ると、彼 らの身体的諸能力の顕現化 に資す る ことになる機能 に還元 されることになる。単純化 していえば、運動教材 は、要す るに「運動刺 激」 として生徒たちに立 ち現われて くるのである。(pp.292‑293)
「体育」概念 を十三分 に論 じた上で導かれた佐藤の この「教材」 に関す る視点 を、本論文で の方法論 の中心 にお くことによって、序論 において述べた問題 に対する解決の糸 口を見いださ せ ると考 えるわけであるが、 そのためにもここにおいてわれわれは、事前 にこの佐藤の「教材 の二面性」 において加 えられた説明のなかの2点について、理解 を深 めてお く必要があろう。
第一 は、当然の ことなが ら、教科の目標か ら逸脱 した教材研究 はあ りえないわ けであ り、 そ の視点 にそった形で教材の解釈が行われ るわけであるが、佐藤の言わん とする教科の目標、す なわち「身体的諸能力の顕現化」 とは何 なのか、 という点であ り、第二 に、そ こか ら導 きださ れ る教材の様相 を「教師」サイ ドと「生徒」サイ ドの二面 にわけることの意味 は何 なのか、 と い う点である。
まず、 ここで述べ られている教科体育の目標 としての「身体的諸能力の顕現化」 とは、いつ たいいかなるものなのかについて、佐藤の論理展開 を見てい くことにす る。
2=2.教科体育の 日標 としての「身体的諸能力の顕現化」
佐藤 は「体育」の概念 を検討す るなかで、その概念構造の重層性 に着 目し、「普遍」、時議朱」、
「個別」の3つの位相か ら「体育」概念 を捉 え、それぞれに「実存的体育」、「制度体育」、「体 育実践」 という名辞 を与 えている。そしてそれぞれの目的、 日標 について示 したのが、図2で ある。
この図を使 って、「身体的諸能力の顕現化」を説明す るな らば概略以下のように位置づ けられ るであろう。
すなわち、「 ヒ トという生物学的存在者が世界内存在た る人間へ と変容」(p.231)するうえで 身体面か らなされ る教育が「実存的体育」であ り、その目的的契機が「 ヒ トの身体面か らの人
実存的体育の 目標 │ヒ トの身体面からの人間化
(目的)
… ¨ ¨ ‐ ‐ ‐ ‐ … … ‐ ‐ ― … …
│‐
‐ ‐ ‐ 。 一一一
+制度体育の 目標 1当該生活世界における独自性の身体面からの継承
(目的)
― 一 一 │一 一
― 一
│…
体育実践の 日標 1個々人における可能的身体諸能力の顕現化
図2 体育概念における目的および目標 (佐藤,p.264)
間化」である。また、この「実存的体育」の制約のもとに、「われわれがそこで生きることにな る時空的に特定された生活世界 (当該生活世界 :筆者注)は、(中略)そ れ自体、独自の統一性 をもって継続・発展 しようとする自律性」(p.237)を 有 してお り、文化 としての運動形式を媒 体項 としつつ、 この独自性を維持 しようとして身体面からなされる教育が「制度体育」であり、
それ故その目的的契機は「当該生活世界における独自性の身体面からの継承」 となる。またこ の「制度体育」の制約のもとに成立 しうるのが「体育事象における個別的な現象形態」(p.253) であ り、 これが佐藤が命名するところの「体育実践」である。「われわれ一人ひとりは、こうし た体育実践 を通 してさまざまな身体的諸能力を現実なもの としつつ (「身体的諸能力の顕現 化」:筆者注)、 高次なレベルからするなら、いわば身体面での文化的継承者 としての存在性を も獲得 してい くことになるのである。」(p.264)これらを統括 して佐藤は、以下のように述べて いる。
普遍相での「 ヒ トの身体面か らの人間化」 とい う目標 は、位相が下 って特殊相の制度体育か らすれば、 自らが社会的機能 として実現 しなければな らない目標である「当該生活世界 におけ る独 自性 の身体面か らの継承」 を、高次か ら統括する「 目的」 として現象することになる。 さ らに、 この特殊相 における「当該生活世界 における独 自性の身体面か らの継承」という目標 は、
個別相での体育実践 におけるそれぞれの目標 を統括するような目的 として立ち現われて くるの である。(p.263)
これ らの ことより「身体的諸能力の顕現化」 とは、「体育」の普遍的位相か ら導きだされた、
まった く個別的な「体育実践」の目標であ り、 しか もそれは「体育実践 という人為過程 におい て実際 に現実の もの としてなしうるのであるか ら、確たる対象性 をもつ『目標』」(p.264)と な るものであ り、 さらには「体育」その ものの存在的契機 と直接的に連携 した目標であるとも言 えよう。
とす るな らば、明治初頭、学校教育課程 に今 日で言 うところの「体育科」に相当する教科が 出現 して以来、当該教科 において掲 げられて きた さまざまな「 目標」は、 どのように考 えれば よいのであろうか。 これについて佐藤 は、「『身体的諸能力の顕現化』 という目標 を意義づけ理 由づ けるような媒介性 をもって立 ち現れて」 (p.265)き た ものが これ までの体育科の目標であ り、「同 じひ とつの身体能力 (目標)も、体育実践 にあっては、作用者 (例えば教師:筆者注) の意図 として、 さまざまな意義や理由づけ (目的)のもとで顕現化が計 られ得 る」 (p.265)も のであると述べている。 この ことを現代の教科体育 において説明するならば、体育教師が生徒 たちに、運動教材 を用いることによって、身体的諸能力 を引 き出すのが体育実践の直接的な目 標 であ り、それによって顕現化 された身体的諸能力 は、「生涯スポーツ」を始動因 とする現代社 会 に意義づけられている、 とい うことになろう。
また「身体的諸能力の顕現化」が教科体育 において見 られるプロセスは、既存の「身体能力」
(例えばA)を前提 とし、そこにある運動形式 を媒体 とすることによって新たなる「身体能力」
(A')へと展開 され るのであ り、 このプロセスが繰 り返 され ることによって、体育実践の目標 である「身体的諸能力の顕現化」がなされてい くということも、押 さえてお く必要があろう(pp.
286‑290)。
以上 において、教科体育の目標が「身体的諸能力の顕現化」にあるとする佐藤の主張が、概
教科体育 におけるバ レーボール特性論 の再検討 169
略なが ら理解 され よう。
2‑3.教材の二面性の持つ意味
次 に教材 の持つ二面性の持つ意味 について、佐藤 はいかなる説明 を加 えているのであろうか。
教科体育 においては、いかなる運動文化 も「媒体項」 として取 り入れ られ る可能性 を持 って いるわ けであるが、実際には「教材化」 という操作が必要 となって くる。 この運動文化 とい う 素材 を教材化するためには、体育教師サイ ドにおいて、その運動文化の持 つ「『複合的構成体』
としての実体面が よ く見 えていなけれなばらない」 (p.292)こ とになる。 しか しなが ら前節 に おいて も述べたように、教科体育の目標が「身体的諸能力の顕現化」にあるのであるか ら、生 徒たちにおいては、教材化 された運動文化の「機能面」すなわち「運動刺激」が係わつて くる ことになる。換言す るならば、「運動刺激」があるか らこそ「身体的諸能力の顕現化」が可能 と なるのである。
すなわち、体育教師が教材化 された運動文化の実体面 を十三分 に把握で きて こそ、教科体育 の目標である「身体的諸能力の顕現化」 に資す る利用法が展望で きるのであ り、 また逆 に、そ の教材化 された運動文化の持つ機能面 を利用す ることによつて こそ教科体育の目標である「身 体的諸能力の顕現化」が可能 となるのである。
以上が、佐藤 による教科体育の目標 と教材 に関す る論理展開であるが、 この「身体的諸能力 の顕現化」 とい う「体育」 を概念論か らとらえることによって導 きだされた目標 を用い、教材 の もつ二面性 を視点 とす るとき、教科体育 において展開 され るバ レーボールは、どのような「身 体的諸能力 を顕現化」 に資す ることになるのであろうか。 また、それは「運動の特性」 といか に関わっているのであろうか。
3.バレーボールの「運動の特性」とその根拠
3‑1。 「運動の特性」論の出現背景
一般的に特性 とは「その ものだけが有す る、他 と異なった特別の性質」(広辞苑,第4版)の ことである。この ことか らバ レーボールの特̀性について論 じるときにおいて も、まさに他の様々 なスポーツ種 目にはない特別な性質が述べ られ る必要があろう。バ ンーボールの特性 に関 して は、多 くの先達が論 じてきたわ けであるが、その大部分 は、「ネ ッ トをはさんで、二つのチーム をつなぎなが ら、攻防 を繰 り返 し、得点 を競 い合 うことに楽 しさがある運動」(山城,1987)に 代表 される特性である。では、 こうした特性論 は、いかなるプロセスを経て出現 してきたので あろうか。
前述の「……楽 しさがある運動」は、1977年以降、文部省が指導要領 において生涯 スポーツ につなが る、いわゆる「楽 しい体育」 を標榜 した ことによると考 えられる。そ こか ら導 きださ れ るのは、「運動の意味 と価値 は行 う者 に とっての運動の機能 にあるとし、運動の機能的特性 を 求め特性 に触れる楽 しさをそれぞれの児童が 自己の力 に応 じて追求で きるように運動の学習 を 組織す る」(傍点筆者)(佐伯,1985)とい うことであ り、教科体育の学習内容であるバ ンーボー ルにおいて も「運動の機能的特性 を求め特性 に触れ る楽 しさ」が、前述の競技 としてのバ レー ボールの種 目特性 に求め られた と考 えられ るであろう。
運動の特性 に関す る議論 は従来か らあった ものの、特 に活発化す るのは昭和52年の「小学校
学習指導要領」 を境 にしていると考 えられ る。 そこで、前述のバ レーボールの特性が導 き出さ れ る根底 となった「運動の特性」 に関する議論 を、 まず見てい くことにする。
宇土 (1977)は 、1977年の学習指導要領の改訂 (以下77改訂 と略)に関わった立場か ら、運 動教材の再編成のために、 これ までの考 え方にとらわれない新 しいレベルでの運動の特性が開 発 され る必要性が存在 し、運動の特性 を基本的に生かす方策が運動教材の編成論 として重視 さ れ、その延長線上 に77改訂があると述べている。 また この77改訂 においては、運動の特性論 を学習者である児童・ 生徒の側か ら見 ることによって、子 どもの発達的な特性 と運動の意味す るところを一致 させた と述べている (宇土,1976,pp.486‑489)。
国 (1982)はこの特性論が生 じる背景 について、今 日の社会が、物質中心主義か ら生活の質 の向上 を目指す社会 に変化 しつつあると捉 えた うえで、産業社会 における仕事中心、体育 にお いては、運動の効果や技能 を完成 させることか ら、脱産業社会 における体育が、生涯 にわたっ て自己に適 した運動 を楽 しむ こと、すなわち運動の楽 しさその もの価値 を認めることへ と変化 して きた ことを指摘 している。 この ことか ら学校体育 においては、運動することそれ自体 を目 的 とするために、教材 として扱われ る運動種 目の特性 を再吟味する必要が生 じてきた と言えよ う。 というの も「特性のおさえ方が異なると学習のね らいや内容および学習の道筋が違 って く るか ら」(国,1982,p.11)であ り、その運動 その ものを楽 しむための特性お よびそこか ら導 き だされ る体育の授業 によって、生涯 にわたったスポーツ活動が実践 されることが、そこには意 図 されていると考 えられる。また国は、従来の運動の構造的 とらえ方か らは、「スポーツの最前 線のレベルの技術構造が学習内容の核心 とな り、内容の配列 も学年別 に上級学年か ら下級学年 へ と移 される傾向を持ち、子 どもたちは高い水準の内容 をあえぎなが ら学習するという授業場 面 を露呈 させ」(国,1982,p。 12)る とい う結果 を招いた とし、そのためにも運動の特性 を子 ど もの側か らとらえることによって、運動の本性 を学ばせ、 自己目的的な活動 として位置づける ことが可能であろうと述べている。
江島 (1982)は、運動の特性 を論ず るうえで、運動の成 り立 ちか らみた「構造的特性」 とそ の運動種 目が持つか らだへの働 きか ら見た「機能的特性」 といった一般的特性 を、教師側のみ で検討するのではな く、子 どもの視点か ら見た運動の特性 も考慮すべ きであるとしている。
この一般的特性 をさらに細分化 したのが大橋である。大橋 は一般的特性 を、「スポーツ とは何 か、体操 とは何か、ダンス とは何か という観点か らみだ入質的だ)、 どめような技術やルール・
蕎甕慶鍾碑主 省 〕 鑑継 『 誦
1∴ぶ
[1:■こ 黎
^方では効果的特性 に着 目して、子 どもたちの発 育発達 に応 じた運動種 目を設定 しつつ も、他方ではその運動の本質的特性や機能的特性、そし て子 どもか ら見た特性 を重視 し、それ らをまず学習指導の基盤 にして、その中に構造的特性 を 組 み入れてい くということ」(大橋,1984)が必要であると述べている。
以上 の議論か ら第一 に読み取れ ることは、従来の運動の特性論の視点か ら運動教材 を捉 えよ うとす る限 り、産業社会が もた らした弊害、例 えば文明病や運動不足 といった健康への危機的 状況か ら、脱産業社会 における自由時間の増大、生活の豊かさの追求への移行 という社会的背 景 において、生涯 にわたって運動 を継続 してい くための重要な因子、すなわち「運動の楽 しさ」
に触れ ることはで きない とい うことであ り、 しか も「運動の楽 しさ」は、教師によって与 えら れるものではな く、子 どもたち自らによって経験 されてい くものであるということか ら、子 ど
教科体育 におけるバ レーボール特性論の再検討 171
もか ら見た運動の特性 もまた、考慮 され る視点 として加 えられた ということがで きよう。 また 第二 には、 この77改訂 では、教育課程審議会 の答 申の中で、「人間性豊かな児童生徒の育成」、
「 ゆ とりのあるしか も充実 した学校生活」、「個性や能力 に応 じた教育」が提言 された ことか ら、
体育 において もそれ を受 けて、学習内容 の精選及 び削減 をす る必要 にせ まられ、従来の運動教 材 をいかにして精選 し、再構築す るかが問題 とな り、それを実現す るために も、新たな「特性 論」の議論が必要 となった ことが窺 える。
3‑2,「集団的スポーツ」 としてのバ レーボール
こうした77改訂 を受 けて、「運動の特性」論 は活発化す るのであるが、 この後の1989年に改 訂 された中学校の指導要領 (以下89改訂 と略)においては、 さらに特性が重要視 され、「運動 領域 は、小学校 における運動領域 の構成 との関連 を考慮す るとともに、各運動の特性 を生か し た指導が よ り効果的にで きるようにす るため、以前 (77改 訂 :筆者注)の 5領域 (体操、個人 的スポーツ、集団的スポーツ、格技、 ダンス)を 7領域 (体操、器械運動、陸上競技、水泳、
球技、武道及びダンス)に改 め」(文部省,1989)る とし、「格技」 と「武道」の違いはあるも のの、77改訂以前の運動領域 と同 じ内容 となっている。
しか しなが ら、今 日のバ レーボールの特性論 を探 るうえで重要であると考 えられ るのは、77 改訂でバ レーボール に関わ る「運動の特性」の前提 となった「集団的スポーツ」 とい う運動領 域か ら見た「運動の特性」であろう。 とい うの も、89改訂で は、バ ンーボールが第2学年及び 第3学年 において選択履修で きることになったわ けであるが、 その分類が「集団的な運動」の 領域 におかれている。 これは77改訂の「集団的スポーツ」における「運動の特性」論 を結局の ところは継続 していると考 えられ るため、「各運動の特性 を生か した指導が より効果的にで きる ようにする」 (89改 訂)と しなが らも、現在のバ レーボールの「運動の特性」論 もまた77改訂 以降において考 えられた「運動の特性」論の延長線上 にあると推測 されるか らである。
では、77改訂 にお ける「集団的スポーツ」は どの ように捉 えられていたのかについて見てお くことにす る。
島によれば「球技 の領域 は、集団の中での協力的な活動が中心 になるので、 この運動特性 を より明確 にし効果的な指導がで きるようにす るため、・
現行 (1968年 に改訂 された指導要領 の こ と:筆者注、以下 これ を68改訂 と略)の 球技 の領域 を『集団的スポーツ』とい う領域 に改 めた」
(島,1977)と している。球技が「集団的スポーツ」 とい う運動領域 によって くくることの意 義 について宇土 は、次のように述べている。
集団的スポーツの もつ特性 を生かすには、球技が よいが、 しか し、球技 な らなんで もよいわ けで はない。個人対個人のゲームはもちろん、2人 1組で展開 され る球技であつて も、バ スケ ッ
トボールやサ ッカーなどのような数人 あるいはそれ以上の大 きさのチームで展開 され る種類 の ものには及 ばない。単 に「協力」が必要だか ら、 とい う程度でな く、個人 の力 よ り集団の力の ほうが明 らかにゲームを左右 し、勝敗の結果 によってその関係 を理解で きる、 というところま で体験 させ ることをめざす場合 においてである。
このように考 えると、体育の内容領域論では、 これ まで単純 に「球技」 とされてきたのは、
「集団的スポーツ」 に切 りかえるのが望 ましい。そ こでは球技 を教 えるとい うよりも、集団的 スポニツを学 ばせ るのである。(宇土,1976,pp.488‑489)
すなわち集団的スポーツは、「個人の力 よ り集団の力のほうが明 らかにゲームを左右 し、勝敗 の結果 によってその関係 を理解できる」 ところにその学ぶ ことの意義があるのであ り、 このこ とは「集団の力」が「個人の力」を上回るところにこそ、集団的スポーツの特性が看取 されて いると思われる。 〔註2〕
3‑3。 バ レーボールにおける運動の特性
では、 こうした集団的スポーツの見方から導きだされたバレーボールの特性は、いかに捉え られたのであろうか。
永島(1983)は、バレーボールは生涯スポーツを前提 として行われる種日であるとし、「ゲー ムの形式を失 うと本来の楽 しみを味わうことができない」ことから、「ネットをはさんで相対す るチームが、パス、 トス、スパイクなどを使って互いにボールを返 し合い、 ミスをさそって返 せないようにすることによって、得点や勝敗を競い合 うことが楽 しい」ところにバンーボール の一般的特性があるとしている。
栃堀 (1979)は、ボールゲームのすべてが、お互いのチームが同時にGoal getをねらいあう 形式の競技特性をもっているということから、「 まず味方チームがボールをkeepするという技 能活動からはじまり、次に味方がゴールゲットし易い位置ヘボールをcarryす ることが続き、
最後にGoal getと いう活動へ と展開 してい くところにバ レーボールの技能的特性」(栃堀,
1979,p.468)があるとしている。 また「Ball keep→ Ball carry→ Goal getと いった一連の 組み立が3段攻撃の基本的パターンであり、 この3段攻撃がゲームのなかでどちらのチームに おお くみられるかが勝負に大 きな関係をもつ」(栃堀,1979,p.468)と 述べ、バンーボールに
お ≦ 畠 』 軍 曇
12去暮 涯
:「卵 等 苓 毒 也
2号「 で
T::二ぜ ゞ ふ 繕 昇 し 、 ボ
̲ルを 手 や 腕 で 打
ち合 うボール・ゲームである」 とした うえで、「サーブ、パス、 トス、 レシーブ、スパィク、ブ ロ ックな どの技術 を用いて相手が返球できないようにした り、失敗 を誘発 させた りするように 返球 し、得点 を競 うチーム・ ゲームである」(豊田直平,1985)と している。
小鹿野等は、バ レーボール教材の特性 として、以下の4点を挙 げている (小鹿野,1987)。
1.用具0施設0人数0年齢の制約 をあまり受 けないで楽 しむ ことがで きる。
2.集団 としての機能 を高める喜びを味合 うことがで きる。
3.競技 として楽 しく、お もしろい。
4.バレーボールの技能の無限の発展。
以上4例ほ どのバ レーボールの「運動の特性」について見てきたわけであるが、 これ らは、
いずれ も教科体育 におけるバ レーボールの授業 を前提 として述べ られているものである。そこ には「サーブ、パス、 トス、 ンシーブ、スパィク、ブロック」 といった「個人の力」を前提 と はす るものの、最終的には「集団の力」、すなわち「3段攻撃」を用いることによって行われ る
「ゲーム」であ り、その「ゲーム」 を楽 しむ ことこそ、バ レーボールのバ レーボールたる「特 性」がある、 と考 えられていると思われ る:〔註3〕
3‑3。「運動の特性」論の持つ問題点
これ までに述べてきた「運動の特性」に関する議論 に対 し、稲垣 は、 ドイッ語圏、なかで も マイネルの「運動特質」 と日本 における「運動の特性」を比較 し、わが国の「運動の特性」が
教科体育 におけるバ レーボール特性論の再検討
複雑多岐 にわたっている現状 を踏 まえ、 その理 由を以下の7点にまとめている。
(1)わが国における「運動の特性」の とらえ方 は、大 きく整理す ると、運動文化の体系か らと らえようとす るもの と子供の発達の側か らとらえようとす るものの二つがある。 そして、 さら にそれ を子供の欲求 に結びつけた り、発達の必要性 に結びつけた り、あるいは技能修得 に結 び つけた りして、「運動の特性」の とらえ方はます ます多様化 してい く。
(2)そうした状況か ら抜 け出 し、「運動の特性」を明確 にするためには「一般運動学」的発想の 吸収が必要であろう。 さしあたっては、(中略)マイネル理論が参考 になるし、 さらにフェッツ の「体育運動学」(中略)の成果 も吸収 して、論議のなかに持 ち込 む ことが必要であろう。
(3)さ らに欲 を言 えば、 この「一般運動学」の成果 をふ まえた「個別運動学」の開拓が期待 さ れ る。わが国の現状 は、運動種 目別の運動の特性や技術の分析が さかんに行われているけれ ど も、「一般運動学」の基礎理論 を欠いているために、その記述や説明が きわめて主観的で、客観 性 に乏 しい。
(4)と ころで、 この ような運動学的発想の原点 は、ガウルホーファーの「運動学」(中略)にあ るとみてよいであろう。かれの運動学 は「比較教材体系論」 と「教授学」の理論 と深 くかかわ りなが ら構想 されてお り、実際の授業のなかで運動教材 をどのように考 え、どのように取 り扱 っ た らよいかを理論化す るために構想 された。その後、 まった く別の発想か らバイテンディーク の「運動の一般理論」(中略)が生 まれ、 さらにマイネル、 フェッツヘ と発展 して きている。
(5)その意味で、われわれは「運動の特性」 を考 える場合 に も、教材体系論や教授学理論 と結 びついた「運動教材」 としての「特性」 を考 える立場 と「一般運動学」のレベルでい う「運動 の特性」 とを明確 に区別す る必要があろう。
(0 わが国における「運動の特性」の議論 はどち らか といえば(5)でい う前者 に属 してお り、そ の議論の質 を高めるためにはじっか りした教材体系論や教授学理論の導入が必要である。教授 学理論 については「体育の教授学」(中略)も一 つの目安 となろう。
(つ いずれにして も、 とりあえず は「運動の特性」(もし くは「運動特性」)の当面の用語概念 を明確 にす ることが急務である。 さもな くば、今後、「運動の特性」に関す る議論 を続 けるにし て も現状か ら一歩 も抜 け出す ことはで きまい、 と言わざるを得 ない。(稲垣,1982)
このように稲垣の主張 は、用語概念の不明瞭 さが現状 の混乱 を招 く第一の原因であるとして いるが、「『運動教材』 としての『特性』 を考 える立場 と『一般運動学』のレベルでいう『運動 の特性』 とを明確 に区別す る必要」があるとす る視点か らす るな らば、 これ までのバ ンーボー ルの特性論議 は、両者いずれの もので もな く、それはバ ンーボール とい う運動文化が持つ、い わば「文化的特性」 とで も呼べ るものであった と言 えよう。我々は、バ レーボールの持つ「文 化的特性」 を継承・ 発展 させ るとい う、人類 としての使命 を体育の中に求めることを決 して否 定す るものではないが、 〔註4〕
文化 としての運動形式 は、他のあ らゆる文化がそ うであるように、あたか も個々人か らは独 立 した客体 のごとく映ず る疎外態 として存在 してる。 このように、一旦疎外態 として存在す る に至 った運動形式 を、再び個々人 における具体的な身体的能力 として現実化するには、われわ れの体育実践 を俊たねばな らないのである。(佐藤,1993,p.252)
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と佐藤が述べるように、運動文化はあくまで個々人において「具体的な身体的能力 として現実 化」されることによってのみ継承・ 発展されるのであり、日々の授業実践においては、より具 体的な目標、すなわちバレーボールの持つ「運動教材」としての「特性」が、「具体的な身体的 能力 として現実化」される必要性にそったものであるべきであると考える。 とするならば、教 科体育の学習内容であるバンーボールの授業において保証 されるべき「身体的諸能力の顕現化」
は何であり、また逆説的なが ら、それ故のバレーボールの特性は何なのであろうか。
4。 バ レーボール教材化のための特性論
4‑1.パレーボールにおける「実体的側面」 と「機能的側面」
ではバ ンーボールの授業 において保証 されるべ き「身体的諸能力の顕現化」 とは何かを考え るために、先 に視点 とした佐藤の「教材の二面性」にそって見てい くことにする。
まず「教師 (作用項)の側か らみた実体性」、なかで も技術構造 について、豊田は「指導者が バ レーボールの技術指導について考 える場合、バ ンーボール というゲームを構成 している個々 の技術 に対する正 しい認識 と、それがゲームの中にどのように組み込 まれ、展開されてい くか とい う技術 の系統性 について正 しい理解 をもつ ことが きわめてたいせつである」(豊田博,1985, pp.23‑24)と 述べた上で次ページの表 を挙 げている (豊田博,1985,pp.23‑24)。
この表 は従来のパス・ トス・ スパイク・ サーブ・ ンシーブ・ ブロッキングに加 え、それ らの 前段階 としての技術、すなわち「動 きの技術」や「構 えの基本姿勢」が始点 となっていること を示 した ものである。さらに豊田は、これ らの基本技術が結合練習、複合練習、フォーメーショ ンヘ と発展す るものであるとしている。 こうしたバ ンーボールの運動技術 に加 え、ルール等を 含 めて、教師が把握すべ きバ レーボールの「実体的側面」であると言 えよう。 しか しなが ら、
これ らの技術体系 を「高度で複雑な体系性」(佐藤,p.292)のままに授業 に導入するかぎ り、
「媒体 としての機能 を果た し損 な うことになる」(佐藤,p.292)こ とは、自明の ことであろう。
言 うなれば、それ までに顕現化 された子 どもたちの身体能力 を無視 し、子 どもたちをこの高度 で複雑 なバ レーボールの技術体系に当てはめようとすることは、教師における教材化への怠惰 を露呈 していることになるのである。序論で も述べたように、特 にバ ンーボール という素材 自 体が小学校 においては取 り上 げ られていないだけに、教師の教材化 は慎重 を要すると考 えられ
る。
とす るな らば、われわれはこれ らの多様なバ ンーボールの技術体系か ら、「身体的諸能力の顕 現化」のために機能する「運動刺激」 を、何 に求めれば良いのであろうか。
深瀬 は教科体育 におけるバ ンーボール指導 をするうえで第一 に困難な もの として、チェス ト パ ス (オーバーハ ン ドパス)をあげ、 これは「『両手ではじき飛 ばす』 とい う技術 (跛球動作)
は他のボールゲームはおろか、 日常動作にも見 られない特殊 な運動形態」(深瀬,1991)である と指摘 している。 また豊田 もバ レーボールの技術の中で とくに難 しい技術 としてオーバーハ ン ドパ スをあげ、「バ ンーボールの技術 を指導す る際 に、まずオーバーハ ン ドパスをうまく指導す ることが指導上の重要なキーポイン トになる」(豊田博,1985,p.33)と し、「 もし、 その指導 を誤 り、ボールに対す る恐怖心 をぬ ぐえなかった り、 また現実にパスが うまくできないために 生徒達 に劣等感 を抱かせ る結果 となると、それがバ レーボール という競技 に対する嫌悪感 に発 展す るので、 この点十分注意す る必要があろう」(豊田博,1985,p.33)と まで述べている。 こ
教科体育におけるバレーボール特性論の再検討
表1 バ レーボールの基本技の発展 系列
■ パ レーボールの構え と移動の しかた
構 え の 出本姿 勢
■ サー プの種類 と打 ち方
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175
■ トスの技術
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■ パ スの技術
■ スパ イ タの技術
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■ レシー プの技術 とサー プレシーブ技術
スター トの位置と
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スパイタレシープ■レシーア上達の諸条性
スパイタに対するオーパ=バンドカット レシープ
サープレンープ
レシープの範囲 を広 くする練習
。回転 レシープ│
・スライディン
rレンープ
2‑3人でのレンープ‐フライングレシープ
プ ロッキングー→ 構 えの位 置 とフ ォー ムー→ 助走。沈み込み とプロッキングのフ ォーム
¬
啜 詳 搬 ツ→協襦鰐
■ プ ロッキングの技術
のように、バ レーボールを行 う上でオーバーハ ン ドパス とい う技術 は、 まず最初 に習得 されね ばな らない必須技術 であるだけでな く、それが、「他のボールゲームはおろか、日常動作 にも見 られない特殊 な運動形態」であ り、導入時点での指導の正否が、それ以後のバ レーボールの競 技 その ものに対す る生徒の心理 を左右する技術であるとい うことを理解することができる。
しか しなが ら、 これをバ ンーボール とい う運動文化において「身体的諸能力の顕現化」に資 す る「運動刺激」 という視点か ら見 るな らば、 この技術 こそ他の球技種 目には見 ることのでき ないバ レーボールな らではの ものであることに気づ くであろう。 しか もこの「ボールを柔 らか く弾 く」 という「身体的諸能力の顕現化」がなされない場合 には、バ ンーボールをバ ンーボー ルた らしめるための重要なルール「ボールは、明瞭に打たれ停止 させてはならない (持ち上 げ た り、押 しつけた り、持 ち運んだ り、投 げた り等)。」(第14条第4項2)とい う6人制バ レー ボール競技規則 (1994年 度版、 日本バ レーボール協会)に 反することにな り「ヘル ドボール(従 来のホールディング)」 として罰せ られるのである。すなわちオーバーハ ン ドパス という技術 を 完成 に導 くプロセスには、柔 らか くボールを「 はじく(弾く)」 という、ボールに対す る人間の
「身体的諸能力の顕現化」 をもた らす「運動刺激」が内在 しているとい うことがで きよう。
4‑2.パレーボールにおける特性抽出の視点
前述 したバ レーボール にお ける生徒の側か ら見た「機能的側面」は、バ レーボール という運 動文化 に内在 している多種多様 な機能のほんの一例である。 というの も、顕現化の対象である 身体能力 は、 まさに多様かつ多面的であ り、 しか も教師が展望すべ きバ ンーボールにおける実 体面が複雑多岐 にわたることは、多 くのバ ンーボールの専門家が指摘するところである。また、
その複雑多岐な技術体系か ら導 きだされ る「運動刺激」は、 これ もまたそれを受け取 ることに なる生徒 において も、多種多様 な側面 を見せ るであろう。 とするならば、バ レーボール という 運動文化 を教材化するために、その運動特性 を抽出する視点 としてどのようなことが考 えられ
るであろうか。
第一 に言 えることは、 これ までに明 らかにされている現在のバ レーボールの技術体系の中か ら、バ レーボールだけが有す る「運動刺激」 を内在 した技術 を選択することである。そのため には、稲垣 も指摘す るように、マイネル等の「一般運動学」的発想の吸収 が必要であろうし、
その成果 をふ まえた「個別運動学」の開拓が期待 される。 この運動学の視点 は、バ レーボール の本質的側面 を抽出 して くれ るとともに、バ レーボール という運動課題 か ら得 られる「運動刺 激」 をも抽出 して くれ るもの として期待 され る。
第二 には、バ ンーボールの技術的発展 を遡 り、その発展史 を再認識することである。 これに よつて、現在の技術 に達するプロセスか ら得 られた知見 を特性抽出の視点 として加味 されるで あろうし、生徒個々の発達段階に応 じた技術 を抽出することにもなると考 えられる。
第二 には、第一、第二 において明 らかにされた「運動刺激」が、対象 となる生徒の既存の身 体能力 (A)を (Aり へ と導 くために有効であるか否かの判断が、特性抽出において重要 となろ
う。
こうしたバ レーボールにおける運動の特性 を教師一人一人が抽出することは不可能であ り、
そのためにも第一、第二 において指摘 した視点 を研究者 において整備することが必要 となって くるであろう。
こうした視点か らバ レーボールの特性 を抽出 してい くことによって、われわれは、バ レーボー
教科体育におけるバレーボール特性論の再検討 177
ル を中学校 の学習内容 として選択 した意義 を見いだす ことがで きるであろし、 また生徒達 にお いて も、バ レーボールの技術 な らではの「身体的諸能力の顕現化」がなされ ると言 えるのでは なか ろうか。 また、 こうして抽出された特 性をいかすための個々の授業の目標の導出 と、それ を具体化 した方法論が考案 されてい く必要があろう。 さらには、バ ンーボールの特性 を抽出す ることによって もた らされ るバ ンーボール固有 の「運動刺激」 は、生徒達全員 に保証 され るベ きものであ り、その顕現化 された身体能力が どのように意義づけられるかは、 その時代時代 に 応 じて考 えられてい くべ きものであると言 えよう。
註
〔1〕指導書においては、「バンーボールは、中学校で初めて取 り扱 う種 目であるのでt生徒の 技能の程度に応 じて、指導する内容 を決め、高度な技能を求め過ぎることのないよう配慮する ことが大切である」(文部省:中学校指導書保健体育編、平成元年)と述べられているが、個人 的技能の例示 として、「パスとンシーブ」、「 トス」、「スパイク」、「ブロック」、「サービス」が掲 げられていることと、ゲームを中心 とする以上、 これ らの技能のうちいずれかを使用すること なしにゲームそのものが成立 しないことを考えれば、 これらの問題を避けることはできないと 思われる。
〔2〕「3段攻撃を含むラリー」といった、集団的スポーツの一つ としてのバンーボールの運動 の特性が強 まる傾向については、戦後の中学校におけるバンーボールの学習目標を概観 した池 上 (1987)等 の研究か らも推測される。それによれば、昭和21年から昭和60年にいたるまで 個人的技能に関する学習目標が半数を占めているものの、その中身においては、集団的技能に 関連 した基本技能が年をおうにつれ重視 されてきていることを明らかにしている。
〔3〕 なぜ「3段攻撃を含むラリー」が、主たる特性 としてあげられたのであろうか。 このこ とを考えるために、バレーボールの競技 としての歴史的展開過程 を概観 して見るならば、そこ にはルール との関連が深 く関わつていることが理解できる。
バレーボールは周知のごとく、1895年 、アメリカのマサチューセッツ州ホーリーヨーク市の
YMCAの体育主事であつたウイリアム・モルガン (William Go Morgan)│こ よって考案された スポーツであるが、当時のルールには、プレーの回数が3回まで といつた、「3段攻撃」の根本 となるルールが存在せず、ヴォンー (Volley)で 無制限にボールを打ち合 うことにこそ、 この スポーツの原点があつたと考えられる。 しかしなが らYMCAという組織 を通 じて広 く極東の 日本やフィリピンそして中国にまで紹介されるにつれて、 この「無制限にボールを打ち合 う」
ことが「1人から他へ と、 くだらないパス (打球)がコー トいつぱいに続けられ、ゲームは愚 かな方向に退歩 し始めていた」(池田,1985)た めに、フィリピン体育協会のルール委員会のメ ンバーが「プレーの回数を3回」までに制限するルール改正を行った。 このことが今 日におけ るバレーボールのいわば「文化的特性」を創出する始原であった と考えられる。
〔4〕 運動文化の継承・発展を担うのは、教科体育においてではなく、課外体育 (一般的にい
う ところの部 活 動)にその形式 が見 られ る。 (佐藤,pp.28∈290参照)
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