佛 蘭 西 に 於 け る 婚 姻 の 動 向
塚原仁
l
人口の自然的増減些本ふまでもなく出生と死亡との動きの如何によって規定される︒而して出生の大部分は婚姻を
母体として発生するものであるから︑出生の多少は婚姻者の多少︑並にその妊学力の如何に依存する︒人口動態は本
来は出生死亡等の如き人口の増減の動きを対象とするものであって︑その意味から云へぼ婚姻はそれ自体何等人口の
増減ではなくして︑只人口構成に於ける配偶関係の変化を伴ふにすぎず︑それは人口の質的変動の﹁原因たるもので
あって︑職業に就いたり︑職葉を変更し⁚たりするのと今\同様の現象である︒併しながら婚姻が人口動態調査の対象
として取り上げられたことは可成り古い︒︒人は結婚によって独身者︵未納者︶たる身分を離れること1なり︑夫婦
は配偶者の死亡又は離婚によってその結婚が解消されぬ眼り︑夫婦として天火の権利義務を持つことになる︒結婚そのものは当事者たる男女間の問題であって︑当事者に救って極めて重要なものであること云雷でもないが︑計時に
その男女が処属している社会全体の福祉にも関聯するものである︒此事は未だ低い文化水準に在る民族に於ても既に
認められていたところであって︑此意味に於て結婚は只当事者の一大事であったばかりでなく︑社会的な行事であっ
た︒従て当事者は勝手にそう云ふ関係に入ることが許されず︑そこには﹁冠の社会的な形式的条件が必要であった︒
或は成年に達しているとか︑族外癖でなければなら空しか︑∴同二粗放でたければならぬとか︑・健艇であることとか︑
又適法であると云ふ様な条件があった︒今日の如く当事者の自由意志を基調とする時代に於ても︑結婚は全く自由に
郁Ⅲ西に於ける婚姻の動向
二1)研究所彙報第32巻第一、二巻合冊俳翫西に於ける人口動態調査について参照
経r営
と 経 済
一 一
一
一
一
i
何等の法律的・社会的条件による制約を柔らないと云う乙とはなく︑犬たり小なりの制約が存するととは周知の如く
である
1
婚姻は此意味
K
於て社会制度の一である︒又婚姻は法律的な形式的条件を満たすだけではたく︑一定の儀礼 や依式を伴うものであって︑或は神の前に於て︑或は部技社会の商前に於て行はるtふものである円如期に
b
て結婚が 個人の問問としてばかりでなく︑社会的関心事であるととの理由は︑結熔が個人の問問としてばかりでたく︑科会的 関心市であることの理由は︑結熔が出生の基盤であって︑出生によクて社会の維持存続が可能となると一氏うととの外 に︑給対によって廷はされた家放は社会の一細胞組織として︑その安定が又同時に社会の安定を意味するからであるn
好例は又大ハ川間集として社会の経済的・政治的その他の事情の影山守を敏感に反映するものであって︑景気の工しあ
し︑われわれの社会的制社の状態如何も之によって知り得るのである口本
J杭に於ては好矧の勤向を特に併問問を中心 として説明するととにする
n
対矧の多'少は劫態訓十九山による好例放に上って之た知ることが川来るが︑川川州数は一民う詑一も友く︑人口の多少によク
て具るものであるから︑的刺の刈皮の州主としては問えたる先況が山いられる
n
而してその日取も簡明なる測度として' F
山
一般婚姻平がある︒之は説日正JM!
なる形式立以て沢一不さるふものである円則ち人口( P )
千人に付祝福された結婚件数
82
去 を 示 せ る 比 例 数 も あ る 口 九
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る形式を以て沢一不さるふ乙ともある口之は結婚者数を人口に対比せし
めたものである︒偽関闘では此形式を以て結対頻度を一不すことがあるが︑多くの固では前の形式忙依っている口
此一般的熔姻率は川町柄数率とも一広い︑一般出生率や一般死亡本忙対して加へらるふと同様の批判が加へられてい
るのけだし一般熔姻率に於ける介母となる人口は総人口であって︑その中には全く又は殆ど結熔が問題とたらたい幼
少年階級を合んでいるばかりでたく︑更に又結婚は一の社会制度と︐して特別の法律慣習のあるととろを除いては︑一
夫一抑制を採っているから︑既婚者にとっても亦結好は問題となら友いにも拘はらやノ︑矢張り此人口が合まれている
からである
n
即ちが抑制制度の7 1
しい測定としては︑性的に成熟した一定年令以上の︑則ち可婚年令に在る男女に対し︑更にその中から既婚者を取り除いたものに対して婚姻率を計算すべきである︒尚一般婚姻率は対外的比較に当って︑
各国の年令構成の差をその僅表現している点に於て︑対姻性向の強度の測定として妥当ではない︒
可 婚 年 令 の 限 界 に つ い て は 国 に よ っ て
︑ 又 時 代 に よ っ て 具 ク て い る
︒ 併 問 凶 で は 一 七 九 二 年 九 月 二 十 日 の 法 律 で は︑男十五才︑女十三才と決めたが後改められて︑女十五才︑男ナ八才となったの我同では女満十六才︑男満十八才 (旧民法では十七才)となっている︒(詰)大体十五
l
二十才を放下限としている様である︒給対の人口挙的意義を考 へるならば︑その上限を決める乙とも亦意味のないととではゑい口例へぽ未婚者
r
在つては男は一五!二O
才より五
O
才とか︑女は一五!二
O
才 上 り 四 五 才 ま で と か
︑ 死 離 別 者 は 男 一 玉
l
六 五 才
︑ 女 一 五 才
! 五 五 才 と 限 る 乙 と が あ る︒わ結熔の頻度を可婚年令に在る無配偶者(未婚者︑死別者︑離別者)に対する比率として計算する特殊熔矧率は 一般婚姻率に比して婚姻の頻度の測定として侵れたものであるが︑可婚者の数は五ヶ年又は十ヶ年毎に行はる
L
同勢 調査年次
K
於てのみ決定され︑中間年に於ては推計の数字しか得られ注いし︑叉その計算が一般婚姻率に比し面倒と 一式 う点 があ るロ
註
Ungern ・ S t e r n b e r g , C r u n d r i s s r l e r B e v o 1 k e r u n g s ‑ ¥ ¥ ' i s s e n s c h a f t . S . 1 6 2 . M u l h a l l . The D i c t i o n a r y o f S t a t i s t i c s . p . 3 8 1 .
1 ¥ I f a l h a l l . i b i d . D. ~Rl.
最低結婚年令についての制限は固によつで具っている
D
周礼には﹁男子三十而有室︑女子二十而有夫﹂とある︒我国でも大宝 令には男子十五才︑女子十三才としているロ一寸古いがマルホ1ルの辞典によればスパルタ男三十才︑女二十才︑ロ1マ帝
国
男二十五才︑女二十才︑宗会法では男十四才︑女十二才︑英士口利男十六才︑女十王才︑仰附西男十八才︑女十主才︑サグセン
男二十一才︑女十八才︑プ?ンア男十入才︑女十四才︑填太利男十四才︑文十四才となっている︒九サ英同は一九二九年の婚姻
法により男女とも十六才となった
D
その他の国の例を挙ぐれば︑丁扶男十八才︑女十六才独逸は二十すっと十六才︑西班牙男十八才︑女十六才︑ギリシア男十六才︑女十四才︑和問男十八才︑女十六才︑伊太利男十八才︑女十五才︑瑞四男二十一才と女
十九才等である︒米国では州で呉っているが︑男は十四才l二十一才︑女十二l二十一宇である口旬結婚年令の上限について 制限を置いた例は現在ないが︑テペリユlス帝が女五十才以上︑男六十宇以上の結婚を禁じた法令を発布したが︑之は直に廃
止されたとのことである︒︒
好姻の頻度は一式う迄もなく年令によって著しく具クている︒従て之が様には男女別に見た年令別の熔姻率を計算す
ー
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︑}
9
山 つ d A
例関西に於ける婚姻の動向
一 一
一 一 一
一経 営 と 経 済
一一
一四
るととが望ましい口之は・
4
年令別に計算さる・ふとともあれば︑叉年令階特川別に二O才来初︑二O l二四才︑二五!二 九才等の如く計算さるふ乙とがある︒此様な特殊婚姻率はそれぞれ年令叉は年令階級を具
K
する孤立的な人口集団に 於ける婚姻の頻度を示しているにとどまり︑同一人口集問中の熔嫡頻度が年の経過につれて如何に拾移するかを示す
ものではない︒十訟に死亡表
r
於けると同様な一定年令に達した未婚者の集団の中から︑年々死亡するもの
L羽合を知
ると同時
K
結婚するものL割合を明かK
する熔姻哀が作成さる
t A O
われわれは之によづて熔姻の確率を明かにするこ
とが出来る︒
更に好矧の頻度は婚姻者の身分︑別ち未婚・死別・離別によクて具る︒死離別者
r
在つては年令だけでなく︑死別
又は陥併の時期より河川川に至る期間も亦問題となる︒婚姻は職業に上り︑社会階級により︑居住地の如何に工つでも
共 る
n
先づ仰問パに於ける肝捌数及一般財例市の批絡を一不す統計去を次に防げる
n
仰関西に於ける婚姻の動向
偽関西の婚姻数及婚 ~I司不
年 次
l
婚姻数l
騨 者 数 ! 年 次 │ 婚 蹴 │ 婚 時 者 数 │ 年 次I
ÝL~附 IÝ~略者数│
千人│千人J
付 千 人W'‑付 千 人 に 付]3り:~
1 8 0 ] 199
一1847 250 14.1 237 1 4 . 1802 203
一1 8 4 , 8 294 16.5 ] P . 1 J 4 287 1 4 . 1803 206 1849 279 15.7
lr.%2s3 1 4 . 1 8 0 c l 207
一1850 298 1 6 . 7 ] R 9 ( i 290 1 5 . 1805 215
一1851 287 16.0 1397 2 9 1 ] 5 . 1806 210 1 4
.1.1852 281 15.7 189s 2s7 1 4 . 1807 213 1 1 . . 6 1853 281 15.6 29o 1 5 1808 221 15.2 ]854 271 15.0 2 り り 15 1809 268 1 8 . 1 , 1 8 5 5 283 15.7 3m 1 5 . 1810 233 15.9 1856 284 15.7 2 り 5 1 5 . 1811 204 13.9 18S7 296 16.3 2 り G 1 5 . 1812 223 15.1 1858 307 16.9 2 f l 9 1 5 1813 26
.41859 298 16.3 :w:~ 1 5 . 1814 13.2 1860 2R9 15.8
:~O()1 5 . 1815 16.7 1 8 6 1 305 16.3 :~H 1 6 . 1816 16.9 1862 304 16.2 :n6 ] 6 . 1817 13.9 1863 301 16.0 30B ] 5 1818 14.3 ]864 300 15.8 1910 308 1 5 . 1819 14.3 1865 299 15.7 1911 30B 1S 1820 209 13.8 1866 304 16.0 1912 312 15 1821 223 1 4 . . 6 ]867 300 15.7 1913 29 り 1 5 . 1822 23o 1 5 . 4 , 1sos 301 15.7 1914 20S 9 . 1823 262 16.9 18 ろ 9 303 16.5 1915 36 4 1824 238 15̲3 1870 224 1 2 . ] 1916 ]25 6 . 1825 243 15.5 1 8 7 1 262 ]4.5 180 9 . 1826 247 15.7 1872 353 19.5 202 1 0 . 1827 256 16.1 1s73 321 17.7 S53 2 8 . 1s28 246 1 5
.41874 303 16 6 6 2 : 3 3
1.1829 251 15.6 1875 300 16 4 156 23 1830 270 16̲7 1876 291 15.8 : m s 1 9 . 1831 216 1 ヨ . 1 1877 278 15.0 : 3 S 5 1 7 . 1832 242 14.8 1878 280 15.0 : 3 5 5 1 7 . 1833 264 16.0 187 リ 283 1 5 . 1 3 5 : 3 1 7 . 1834 271 16
.41880 279 14.9 3 1
.51 6 . 1835 276 16.6 1881 282 15.0
止: 3 3 6 1 6 . 1836 2 7 4 , 16.3 1882 281 14.9 339 16 1837 267 15.8 1883 285 15.0 1929 334 1 6 . 1838 273 16.2 1884 290 15.2 1930 3 4 , 2 1 6 . 1839 267 15.8 1885 283 14.9 1931 327 15~
1840 283 16.6 1886 283 H.8 315 1 5 . 1 8 4 1 282 16.5 1887 277 14.5 316 1 5 . 1842 281 16.3 1888 277 14.4 298 1 4 . 1843 285 16.5 1889 273 14.2 285 1 3 . 1844 280 16.0 1890 269 14.0 280 13 1845 283 16.1 1 8 9 1 285 14.9 274 1 3 . 1846 268 15~2 1892 290 1 5 . 1
8
6
1 4
6
8 8
2 4 2
9
4
五
q h ペ 官
ζ υ
市i時白ζ
リ ペ 喧 官
i
経 蛍 と 経 済
先づ婚姻数について一式へば年々に於ける一上一??を繰り返しつ
Lも大体工り一式へば前世期初頭陀比して次第に婚姻
数を増して来ていると一氏へる︒併し之は偽関西の人口の増加に照応するものであって︑特別に仇関西人の好姻性向が
強くなった止一式う訳ではないの結好数が精唱え増加の曲線を描いているが︑年次統計を見るならばそ乙に於くべき変動が
ある乙とが判る円例へば一八
O一 年
r
一 九
九 ︑
000
件の結婚数応対して︑一八二二年には三八七︑
000件と倍増し
そ の
叫 年
に は
一 九
一 二
︑
000
件に半減すると一氏う様︑な激変を示している口その後もか友りの幅を以て劫いているが︑
三
O万件な脳える年次を拾って見ると︑一八五七年︑一八六一年 i 六四年︑六六 i 六八年︑一八七二年は三五三︑
00 O
一年と一八一四年の二ヶ年があるのみであって︑他は総て二
O万件花畑ったのは一八 消年であった円内二
O万を越えている︒十九世紀に於て三 件で一つの山な辺り︑七三︑七四︑七五年も三
O万件を越えたのは以上の
0O
!
三
O万件の川である円従てわれわれは十九世紀に於ける併問問の婚姻数は二
O l 三 O 万の問左上下したと一式へるが︑前 K
述べた般に松川川波はた休に
M P
︑て人口の川加につれて市加していると一氏へる
D二十世紀に入ると大体三
O万を前後して
机泣いを示し︑一以洲第一次大戦の勃発の山川小たる一九二二年は二九九︑
000件であった︒然るに戦争突入と共に結
対数は急角度を以て減少し︑一九一五年には刊か八六︑
000件とボ竹有の円以少数左記録した︒その後漸次回復し︑
終戦直後の一九一八年五五三︑
000
件︑その羽定年の六二三︑つ
0 0
件︑一九一二年の四五六︑
000件は驚くべき
結熔プ1ムの示現であった︒その後次第に減少に転じて︑此大戦を迎へることになクた︒
何故かような結解数の驚くべき勤揺があクたかその以内在検討しなけれぼならたいのだが︑前にも述べた様に此結
熔数の一上一下は人口の増加との結びつきに於て之を考察すべきであるから︑むしろその分析は婚姻の頻度の測定と
しての婚姻率 K づいて乙れを検討することがより的確であるし︑又緒川川数の増減が示す結婚の性向を更に明瞭に示す
ものと一氏ぺる︒依クて結婚率の勤向について見る r ︑人口千につき結好者数は一八
O六年に一四@四であったが二八
一三年にはこ六・四となり︑その翌年には一三・ことなった︒之はナポレオシが度重たる外征の為に︑大え的た召集を行
ったので︑若いものは戦場に出ないで家庭に止
r
まらんと欲じ結熔を急いだ為であクた︒結婚にクいても補償の法則が行
はれていて︑兵常に犬なる給対率の後陀は異常にぺ小怒る結婚率が続き︑叉その逆に異常に小たる熔姻率には異常に犬な
一 一 一 六
る結婚率が続きそ乙に一一恨の時合せい仁一氏うか地均らしの述効があることは切かである︒その後灯姻卒は犬休安定的で あクたが︑それでも凶作とか︑叉ナポレオシ判下の μ 作主党けて︑仰山内の以前的山内山口川州市中なかなり引下げた︒之は
一八一七年より一一一年の状践であっ
K H
川げりその川川市川一三・八 l 一間・三の川でおっ
ko
その後山えに川花上井し
た が
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れ は
州 凶
作 に
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川 川
い か
川 一
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二 八
一 二
一 ー
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一 一
一 一
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中 川
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kt・好 川允
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北 ハ
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川 町
は 川
し た
u 一八問七年には谷(一四・一)を作っている
が︑之以内作の引でわったっその後の収作によってその水準は上昇した︒クリミア戦争後は次第に上昇したが︑伊太利と の明併で一寸下ったが︒大休一六仇を維持しク
L帝政の終末に及んだ︑並日併戦争 r 工づて貯姻率は十九世紀に於ける記
外似りの低水(一二・一二八七
O年)を示した︒翌七一年も甚だ低く一四・五であったり然るに七二年は補償の法則によ
って一九・五︑一八七三年一七・七と異常に高い婚姻率によって害保戦争による繰延医された結解の埋合ぜが行はれた︒
その後偽関凶の府刺率は次第に低落し︑一八七七年頃より保合状態とたり︑一八九
O年頃に低い谷を形成している
が︑その後は微弱なる上昇傾向を示して欧経巴第一次大戦の前夜に及んでいる口一九
O七九八年頃一つの山を造クて
いるが︑之はルミ
1ル僧正の発案による結熔形式の筒略化の法律(一九
O七年七月二十一日)が施行されたととが一 原凶とユ
1ベルは云クているが︑のその影響は勿論否定し符ないか︑それ程犬きなものではなかった︒
第一次犬戦が併関西の熔矧に与えた影響は実に散防具すべきものがあった︒則ち一九二二年 r 千人に付一五・一人で
あったものが︑翌一九一四年に九・八二九一五年には未特有の低率四・二人を記録した︒それを長低として一九一六
年六・二︑一九一七年九二一︑一九一八年一
0・四と次第に回筏はしたものふ︑仇町内の熔姻が如何に此大戦に工ク
て大打撃を受けたかは全く想像 K 絶するものがある︒併し終戦と共に戦争中忙受けた打唱が大きかクたどけに︑その
鮪償現象も亦散防くべきものがあクた︒別ち一九一九年二八・太︑一九二
O年はコ二・九︑一九二一年には二三・ごと
著しい快復を見た︒此好姻プ
1ムもその後次第に正常的状態に戻ったが︑八甘え一九二九年に始まる世界的不況の余波
は仏関西にも亦波及して︑戦後再建の為の経済的活動が衰退すると北ハ
r m
柄不はやるやると殆ど規則的た低落の一途
を辿クて行った︒市して第一次大戦中に於ける出生減退の為 r ︑対納年令忙達して婚姻人口となるべきものえ数が少
Huber‑Bunle‑B o v r a t
,La p o p u l a t i o n d e s l a F r a n c e . p . 5)
的 関 西 に 於 け る 婚 姻 の 動 向
一 一 一 七
なかった乙とが︑此川淵率の低下に拍車をかけることふなった事情も者過・しではならない口かくて第二次大戦に突入
する前年たる一九三八年には一三・
Oとなった︒之は平常年 r 於ては設低のものであったり第二次大戦に入って婚姻
率がどうなったか︑又終戦後設近まで勤向については節を改めて之を観察する乙とにする︒
以上は清二次た戦直前に至る悌蘭西の婚矧の勤向にクいての簡単な素描である︒偽関西の人口現象を特徴づける出
生滅山一の況任宥として結熔率の低落が常識的に挙げらるふととが︑之はかつて一フヴイノウイツも批判した様に︑﹁併
問パの併州本が低下していると一氏う寓話は全く根拠なきものである﹂ことは悌蘭西の婚姻率の劫向を仔細に検討すれ
ば明白な乙とであって︑全般的に一式へばそれは別に高くも友ってい友ければ又低くもなってはいない︒勿論或期間を
限って見れば︑そこに明白な傾向が示現している例はいくつも指摘し得る口例へぽ第一次犬戦上り第二次大戦に至る
別問に明白なる侭孫・が跡︑づけらるふのであるが︑之は悌蘭西人に於げる婚姻意欲そのものに本滅的な変化が起って︑
玖に山生や死亡に見る係な減退傾向の一不現があったとは考うべきではなくして︑それは前に述べた様な補償現象とし
ての減少︑それにつヲく世界的不況と第一次大戦に於ける恐るべき出生減退の影響と云う上うた形式的なぽ囚に基く
むのであった︒との乙とは他の方阿から︑例えば焔捌年令とか︑好矧者の割合と一足う点から証明さるるところである︒
前汗については後で触れる以に︑府例年令が特別に向くなったと云う乙左もない︒後者については次去に示す様に男
もた弘行問仰汗の川合は決して減つてはいないし︑又未府者特に男六
O才以上︑女五
O才以上のものについて見るも
その川合は決して別してはいない︒此老年階殺の未好者中には肉体的又は宗教的その他の理由で結併が出来ぬものも
相当含まれているが︑所謂独身主義者もその中に相当存するととは明かである︒而して此等の人々乙そは文明の発達
と共 r 共増大が期待されているものである︒
有配偶者の割合(労)
男 (
一 五
l
五 九 才 ) 女 ( 一 五
! 四 九 才 ) 五 七
・ 九 九 六 四
・ 七 一 五 九
・ 一 七 六 四
・ 八 七
経 蛍 と 経 済
一八五一年
一八六一年
一 一 一 入
未 婚 者 の 割 合 男六
O才 以 上 女 五
O才以上 七
・ 二 五 二 一
・ 三
O
七
・ 三 七 一 一
・ 七 一
L. Rabinowicz , Le proLleme d e l a p o p u l t i o n en France , p . 2 5 6 .
6 )
一 八 七 二 年 六
0
・ 二 三 六 三
・
O
九 八
・ 三 七 一 コ
・ 九
O
一 八 八 一 年 五 八
・ 七 五 六 三
・ 四 八 九
・ 二 一 二 一
・
0 0
一 八 九 一 年 五 八
・ 二 三 六 四
・ 二 二 九
・ 一 一 一 一 一 一 一
・ 九 四
一 九
O
一 年 六
0
・ 九
O 六四・四 O
八 ・
O
五 一 一
・ 八 三 一 九 一 一 年 六 二
・ 七
O 六 五 ・ 一 O 七・八 O 一
0・ 四
O
一 九 一 一 一 年 六 四
・ 七
O 六六・四 O 七・八 O 一
0・ 七
O
一 九 二 六 年 六 六
・ 六
O 六七・四 O 七・九 O 一
0・ 六
O
一 九
= 二 年 六 六
・ 八
O
六 八
・ 四 五 七
・ 八
O 一
0・ 五
O
仰関川の灯州市小の幼向について一式い得る乙とは︑出生や死亡が極めて照著なる減退傾向を示しているのに対して対
一矧にはそれらしきものが認められない訳ではないが︑秘めて極微であり︑むしろ殆ど安定していた乙とである︒出生
も死亡も年々の特殊事情の影特を受けて︑可成りの振隔を以て動指しているが︑その一上一下にも拘はちゃそと忙基
・木的な底流を為す勤向が看取される︒之に対して対矧はむしろ或水準︑云い符ベくんぼ熔捌意欲水準線とも称すべき
'ものを中心として変動しているも・のと考へらるふ口十九世紀に於ける科学の発達︑経済力の増大︑医学街生の発展は
死亡に対する争闘に於いて︑除えではあるが︑健実なる勝利を約束し︑叉出生については︑安本主義的合理精神︑自 由主義︑個人主義︑民主主義は西欧諸国民の出生をして単なる本能的行為の所産たらしめるととなく︑之忙対し意識
的 K 統制を加へしめる忙至った白出生の統制がその以前忙於てたかったと一式う訳ではないが︑それは死亡に対する有
守利反る闘争と共に︑十九世紀土り二十世紀忙至る人口学的現象に於ける故大の特徴を構成するものとなクた︒然るに熔
姻は人口現象中最も人間意志の支配を受くる社会制度であるから︑出生や死亡に大たる影響を与へた現代の物質的並
忙精神的文化は更に強力に人々の熔姻観や婚姻の可能性に影特を与うべき乙とが当然 K 予想さる
L訳である︒実際対
一姻は経済界の好不況忙よクて或は増加し或は減少し︑叉穀物の作柄の如何によって増減し︑戦争とか革命と一式う様な
政治的事変によっても影轡を受ける︒市も婚姻は此等の事情 K 極め・て敏感に反応するものであるから︑熔姻の頻度を以
側 関 西 に 於 け る 婚 姻 の 動 向
二 一
九
経 色 と 経 済
一三
O
て或は社会の福祉状態の指標とすら考へるものがいる位である円従て熔姻はかつてメイヨ・スミ凡が独逸につきつ:
:・婚姻は出生や死亡程忙規則的でもなければ︑文恒常的でもない︒熔姻に於ける平均上りの年平均変動は六・阿八労で
あったのに︑出生は三・九八%︑死亡は三・九O%に過ぎ‑なかった︒かくて熔矧は他の二つよりもっと個人的友気紛
r
従うものであろう︒ηと述べた様に︑昨かに人々の自由意志に基いて︑その時々忙於ける社会的経済的環境に最も 強い適応を一不すととは︑之を否定し得左い︒更に現代的社会思潮に於ける結熔観家族観は︑特忙倒閣問
r
於ける社会 批評家や文芸家K
於て︑反結婚約であった︒或署名たる作家は﹁家庭︑余は汝を嫌悪す﹂と書き︑叉或ものは﹁般の 結び﹂の谷間を叙述し︑更に多くの人々は一切の社会的・道徳的規範工りの解放を男女を問はや
J説教した︒新しき社
会
K
於て後者は最早や﹁老嬢﹂たるとと左恐れなく伝った︒更に戦争は結熔の機会を甚だ減少せしめたが︑同時に動 員された男性や︑再び帰って来たかった人々に代づて︑女性的職業を拡大するに至った︒即ち弁護士︑同宥︑教師︑
社会的補助者︑秘書等の職業が大々的に開被された口め如斯にして現代文明は女性の自覚と解放とをもたらし︑之
K
伴ってその経済的自立は女性をして結併や家庭工り隔離せしむるに至るべきととが結論さる
が如くである口その結
‑ A
果女の狽身者が地加し︑結解年令が上昇じ︑従クて熔畑一の頻度が侭下すべく考へらるLD
以上の如き変動が長期的 傾向としての熔姻の勤向に犬たる爪跡を刻すべきととは必然である去考へちる
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のである︒然るに事実は如何と一氏う陀若干の期間について一式へばかふる事実の存杭を指摘し得たい訳ではないが︑全般的忙云うたらば︑レl y
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ルが
‑一式づた様に︑﹁弔宍平統計は此制度が相当択抗したとyどを一説明している︒!一めたとへ一時的には延期されたとしても︑給付川は早晩取り戻さるLと
K たり︑生涯を未好で日さんとする老艇が悦に附伝さるL
L程でもなく︑又特別陀増加も
していないと正一死想起するが工い︒(前表争‑参照)之P一要する
r
出生の統制忙作用した現代文明の力は︑婚姻の基本的
動向房一変へる相官には有力ではあり得なかった左一式へる口
以上述べた所陀工づて明か友様忙︑解銅は木来人間の意識的行為であって︑株会的経済的条件の変動陀極めて敏感
なる荊応を示して変萌する本のであるが︑他面長期的忙見る︐場合には︑出生や死亡の如き自然的過程とも見るペきもの
上りは併刺は叩って犬伝る安定住を有するのが常であるロ次掲表は仏関西忙於ける過去百四十ヶ年の十ヶ年平均の出
Mayo‑Smith
,S t a t i s t i c s a n d S o c i o l o z y . p . 126 ・
M. R . R e i n h a r d . H i s t i o r e d e I a P o p u l a t i o n Mondia1 e de 1770 a ' 1948 ・ p ・ 611 ・
M.
R.Reinhard
,i b i d . p . 611
η 凶
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弗蘭両の出生率、死亡率、府銅率と変異係数年 次
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出生牛可 ¥平偏差均のよ閏り乗のl
死L::弓6 I
平侃差均のよ自り乗の¥婚問;~0F:l呪 \~平日均差のよ自り乗の1811‑20 3
1.P.26.1 25.00 0.25 1
P.21‑30 3
1.0 59.29 25.2 1 6 . 8 ] 1 5 . 0.09 1831‑40 29.0 32.49 24
向8 13.69 1 6 . 0.36 1841‑50
2.7 . 4 16.m 23.3 4.84 1 5 . 0.25 1851‑60 26.3 9.00 23.9 7.84 1 5 .
1 8 6 1 ー 70 26.3 9.00 23.6 6.25 1 5 . .0 1871‑80 25.9 4.41 23.7 6.76 1 6 O . 1881‑90 23.4 0.36 22.1
1.0 0 H. O . 1 P ' 91‑1900 22.2
1.21 2
1.5 0.16 1 5 . O .
1901~ 1O 20.6 7.29 19.4 2.89 1 5 . 0.01 1911‑13 1 8 . 8 20.25 1 8 . 1 9.00 1 5 . 0 . 0 1 1914‑20 13.7 92.16 18.7 5.29 1 1 . 1 4 . 4 4 1921‑30 1 8 . 8 20.25 17.0 1 6 . 8 1 1 7 . 5.76 1 3 . < 1 . . 0 0 1941‑50 18̲8 20.25 15.1 36.0 1 6 . 0.64 4 2 5 .86
1肌 ̲ 4 3 ) _2~_0 ~5L ̲̲ 27 . 1 1
仰関西に於ける婚銅の動向
1¥1
=21.1σ=3.47 M=15.4σ=1.34 2
1.1 ~.,. u .
1.3 4
V σ =
一一ーー= 0 . 1 6 4 .Vσ=
一一一一=0.087
3.47 15.4
M=23.3 .σ=5.33 5.33
σ =
ー一一一=0.229 23̲3
生率︑死亡率及川川州本の助向を一不すと同時
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︑之忙基いて摂取偏差並忙侃具係数を汁立せるものである︒之によれば出生
ネの平均は千人に付二三・三O
︑そ
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小一
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︑死亡率はそれぞれ二一・一六及三・四七︑好例率はそれぞ れ一五・三七及一・三四である口以上の数忙よクても直に察 知される様に︑最も変動の甚だしかクたのは出生で︑次
r
死亡が続き︑熔姻は最も少い︒変異係数も出生
0
・二二九︑死亡0・一六回︑婚姻0・0
八七となクている︒かように婚姻
の安定住が高い乙とは︑既
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ワグナーも論じたところであるが︑我国
r
於ても岡崎文規博士が明治三十三年より昭和十三
年
r
至る四十年間
r
っき婚姻率と死亡率との安定度の比較を行い︑前者の安定度が犬なる乙とを結論している︒問︑前に挙
げたメイヨ・スミスが触れた独逸の例は特定期間に於ける例 外的現象と見るべきものである口即ち婚姻がか
tふる安定性を 有する乙とそれ日休
r
︑われわれは焼畑が諸種の外的条件に工る影山村忙も拘はらや︑或根強い力の作用を認めざるを得な
い口而して此事について或は併捌に対する社会的慣習の間定 性や結併に対する保守性を以て説明せんとするものがある が︑更にその根底忙は生物学的法則の強き支配が示唆されて
いることを忘れてはならぬ︒
P.439
岡崎文親日本人口の実証的研究]0)
一 一
一 一一経 色 と 経 済
四
一 一
一一 一 一
男女別忙熔姻率を計算すれば常 r 女性忙於て男性よりもその率は低い︒之は一式う迄もたく可熔年令に在る女性の数
が男性よりも多いからである︒之蓋じ可解年令に入る女性の世代が多いばかりでなく︑女性の死亡率が女性のそれよ
りも低いからである口向その劫向陀ついては前
r 述べた一般婚姻率と殆ど具︑ると乙ろはない︒
次忙更に細かく男女別年令別に結好率を見れば︑次表忙一不す如くである︒
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次
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併関西に於ける婚姻の動向
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一 一 一 一
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家庭への道左歩いた乙とを意味する︒三O
才以上の階級にクいては前世紀半頃
工りは却って減じている︒
とも角も熔矧年令は教育が普及し教育程度が高くなり︑特に女性の解放女性の職業進出等によクてその引上げが行 はるふととは想像に難くない乙とであクて︑事実多くの国の統計はこのことを実証している︒均併しその遅延も決し て人えが想像する程には目限しいものではない︒殊に悌関西に関する限り
K
於ては︑或期間を限れば確かK
かLる傾向が看らる
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が︑長期的には上述の如くである︒然らばその理由は奈辺にあるかと一式へば︑もとより之を簡単には指摘し得る訳ではないが︑二三の推論を試みる︑ならば︑第一には人々の婚姻への意志がその強力なる本能に基盤をもク
ものであクて︑それが社会的︑経済的︑政治的諸条件による制約の下に多少の遅延又は促進を見るものであるが︑現 代文明は確かに人々の給対への道を阻害する国子の活動を助長する傾向をもクが︑その力は基本的な人々の結熔欲を
強く抑圧するものでなかクたのではないかと想的附されることである口(前節参照)第二は避妊知識の普及による結婚
観の変化である︒けだし避妊知識の普及は性生活と生殖との八万離を可能にした︒即ち結鮮は直に子供へとはったがら
や︑従クて子供の存在による時間的放に経済的負担を伴は宇又それは共稼ぎを可能にし︑そ乙に比較的安易に家庭の 建設を可能にしたロ充分なる経済的自立左前抗とする机況なる結対態皮を取るべき必要が大いに軽減さる
L様になク
た︒勿論か
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る結熔態度の変化には︑その背後に於いて親友る恋浸仰や給対矧に於ける一種の精神的革命が除唱えに成 就しクLあクた乙とも看過すべきではない︒‑ Y
くとも避妊知識と結好観に於ける変化とは相侠クて結婚年令の引上げ を阻む一クの理由を提供するものと考へる︒第三に前に述べた女性の自覚や女性解放を招来した近代的合理精神や自回主義は︑一方に人々を結府より遠ざける商をもクが︑又反面若き男女に於ける自由なる交際範囲の拡大によって︑
却クて緒川川への逃が閃かれると云う面も亦考へられ︑刊紙に婚姻年令が引上を割引く一要因が見出される︒
M.
R.Reinhard , i b i d . p . 6 1 2 .
拙著人口統計論
p
147五
11)
1 2 )
州刑の州度は同に上って甚だ臭っている︒十以陀は偽関同の婚姻率が他同に比して如何なる地位に在ったかを示すと 止 に す る ︒
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・右去で明かな川仰に︑年に上って各同の肝州市は相当の川︑三死一川し︑えその品川向も必やしも同一ではない︒此表で特
に目立つとどは仰州内の肝州ネが可成汲しい仮帆を以て叫川していろ点でおろロ市一次・ドヘ戦に於て占究明同だあクた独
逸や伊太利払戦争巾
ξその後の同従期に於て肝州市中にはたム円以川︑.吐いがけ出られたが︑それとてむ仰川刊には及ぼ注い︒
兆十一日利の肝州市中が殆ど劫か・なかったととは注目すペ三乙止であっ
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川川 州ボ の水 市
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一一氏うととになれば︑偽蘭同は第
一次大戦前に於ては︑決して低い方ではなかったが︑又一向い方でも以かつ穴︒仰川川上り向かった同を挙ぐれば︑ブ
ルガリア︑ルーマニア︑日本︑ハ
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ガリ
1︑白耳荘︑和問︑以氏かかで︑川水市に布るものとしては︑英士口利︑伊太
利︑明大利等があり︑叉低い同は受蘭︑丁挟︑訪成︑
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︑仙川牙︑川川牙等がある︒その後偽蘭西の熔矧率 は人口学的戦争期間を除いて安定していたが︑一九三
0年代
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入るに及んで︑次初に問者怒る減退の傾向を示しているが︑之は一九一五
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一︐九年に於ける出生減退の効果が現はれたとムが批いへの以内である乙とは前にも述べたととろである︒一九三五年頃に於いては偽関西工りも低い同はど公へば刊かに係︑問︑同班牙があるのみだ︑同一水準に布る
ものとしては︑伊太利︑喚太利︑葡萄牙等があり︑他は何れもい内かった︒一九三0年代について注目すべきととは︑
や央 官利 の抑 制州 市小 の上 昇と 独逸 のそ れ
Tどである︒後者は一九=二年一六O
人であったのが︑一九三三年には一角・三
人二九ご一四年忙は二二・四人と増加し︑一九三五年は一九・五人であった︒而して此驚異的危熔姻率の急上昇は一式う
迄もなく︑ナチ政権による人口政策の成果を物語るものであった︒前者の増加は世界的な不況が漸く終り景気の回復
によるものと説明されているが︑確かにそう一式う結論は丁扶︑諸成︑瑞典等に於ても妥当する乙とであるロ
倫総ての同に於て第一次犬戦後
K
共通友人口学的補償現匁としての婚姻プ1ムを一九二O年に経験しているが︑之 を最高として二十年代は殆
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規則的危低落を示しているが︑一部は術償現象の在
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が︑今一つは戦争を契機としてフェミニズムのム口頭並に性並に給対観忙於ける一犬肱川が行はれたとと忙その原因がある去思はれる︒