理論の一系譜
山 崎 好 裕
はじめに
ヴェブレンは 世紀末から 世紀の 年代にかけて、相次いでその主要著 作を出版したアメリカの経済学者である。経済理論に進化論や大衆心理学を 導入した彼の考えは、その後、景気循環の研究を行ったミッチェルや、経済 の法律的基礎を研究したコモンズに引き継がれ、制度学派と呼ばれる流れを 形作った。
ヴェブレンは 年の著作 営利企業の理論 のなかで企業経済を分析し、
後にアメリカ・ケインジアンのトービンが提起することになる と同じ概 念を示していることが、これまでも幾度か指摘されてきた。しかしながら、
本稿の課題はそのことを重ねて確認することにあるのではない。
トービンの はケインズの投資理論と同内容のものであるとされる。す なわち、 が を上回っていれば、企業の設備投資が促進されて再び の 値になるように調整が行われるというのである。トービンはこれをマクロ経 済学の投資関数として扱おうとした。だが、投資理論としてのトービンの の実証研究は必ずしも芳しい成果をあげてはいない。そもそも、ケインズの
福岡大学経済学部
投資理論と全く同じ内容を持つのであれば、なぜ、あらためて 理論が形 成されなければなかったか分からない。
また、 理論は新古典派投資関数とも同じ歩みを辿った。最初に新古典 派投資関数を提起したジョルゲンソンは、望ましい資本ストックと実際の資 本ストックのズレを埋めるように投資が行われるとした。しかし、企業の設 備投資に何の制約もなければ、すべての企業が今年のうちに望ましい資本ス トックを実現してしまい、年々の投資額は問題にならなくなってしまうであ ろう。
ルーカスらはその後、投資の調整コストを導入することで、企業が毎年の 適切な投資額を決定できることを示した。望ましい資本ストックとの差を一 息に埋めようとすれば、それだけ多額の追加的出費が必要になるので、企業 は投資によって増える収入と投資の調整コストを見比べながら、今年行う投 資額を決めるのである。
トービンの でも事情は同じである。企業が今年だけで を にするこ とができれば、年々の投資をどうやって決めているのかわからない。やはり、
投資の調整コストが必要なのである。そして、投資の調整コストを考慮した 理論は、新古典派投資関数とも全く同じ内容を持つ。これまた、同じ内容 のものを 理論としてあらためて示すことにどういう意味があるのかが問 われなくてはなるまい。
本稿が行いたいのは、これまで 理論を巡って繰り返されてきた混乱と、
現在も行われている上記のような誤った解釈を正すことにある。そして、そ れはヴェブレンが事実上提起しているとされる 理論の内容を仔細に解明 することから見えてくるものなのである。
.ヴェブレンと無形資産
ヴェブレンは、現代の企業がその企業価値の基礎をこれまでとは異なった 基盤の上に置くようになっていることを指摘する。以前は企業の価値と言え ば、その企業が所有する 物的設備の生産費 のことであったが、現代企 業の場合、それが ゴーイング・コンサーンとしての会社の収益力 とさ れるようになってきたということである。ゴーイング・コンサーンとは企業 活動が経営者個人の人間的な寿命に左右されず、永続的になったことを指す 言葉だから、企業の収益力は無限の将来にわたる収益の流れとして与えられ る。ということは、企業価値はそうした収益流列を適当な割引率で割り引く ことで求められる割引現在価値に等しいのである。トービンの 理論は企 業の価値評価を設備の再取得価格で割った値を投資基準と考えようというも のだが、確かにここにはヴェブレンの企業価値概念と同一のものがあること が分かる。
ヴェブレンは割引現在価値を計算することを 資本化 という言葉で表 現しているが、企業価値を計算するにあたって用いられる資産額は プラン トの生産費 ではなく のれん であると念を押す。 のれん という用語 は、ヴェブレンの場合、通常の会計用語よりもかなり広義に使われており、非 物的富 や 無形資産 と同義のものなのである。これは結局、企業価値 が物的設備の再生産費を上回っていた場合、その差額をいかなる資産と考え
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るかというときに必要となった概念であろう。トービンは企業の価値評価と 物的資産の価値の関係を、両者の比を取って考えたのだが、ヴェブレンでは それを両者の差で表していることになる。
企業のゴーイング・コンサーン化は株式会社制度の発達と切り離して考え ることはできないが、ヴェブレンには、 のれん と種類株式の関係につい ても興味深い考察がある。ヴェブレンは、普通株に比べて配当を優先的に受 けることができるが株主総会での議決権を欠く優先株に着目する。優先株は 会社に対する経営権を行使できないという意味で限りなく社債に近いが、社 債とも異なって償還されることもない。優先株の所有者がそれを換金しよう と思えば、株式市場で販売する以外にはないのである。
だが、会社の経営は普通株を保有する株主が最終的な決定権を持っている。
経営がうまくいかなくなり会社が消滅した場合、残余財産は経営に責任を 持っていた普通株の株主ではなく優先株の株主に分配されるべきであろう。
この意味で、あえて分けるならば、会社の純資産のうち、物的資産の部分を 優先株の価額が代表し、無形資産の部分を普通株の価額が代表していると捉 えることができるかもしれない。ヴェブレンは企業価値評価の中心になるの は、 普通株によってカバーされる非物的財 であると述べている。
あらためていうまでもなく、こうした無形資産の価値は企業を現実に評価 する株式市場で日々大きな変動を繰り返す。ヴェブレンはこうした企業価値 の変動が株式取引の利益を生み出す源であるだけでなく、高度な金融の仕事 に就いている人々に 営利企業の合同や再編成という戦略的な事業 を行 うことを許すことを重視している。ここには、ヴェブレンの考察がトービン
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の の目的ともっとも違う点がよく現れている。ヴェブレンでは、企業価 値と設備価値の違いが企業の買収・合併と強く結び付けられているからであ る。
.平均の からへ限界の へ
林文雄は 年の論文で、 理論を新古典派投資関数と同じ内容の投資 理論として理解する立場から、トービンの の数学的定式化を行った。そ こで彼が行ったのは限界の と平均の とをはっきりと区別した上で、両 者の関係を解明する仕事である。
トービン自身がそうであるように 理論を投資理論と考えるならば、トー ビンの は限界の でなくてはならない。自社の価値を最大化しようと常 に考えている企業は、 万円の投資が企業価値を 万円以上増加させるなら ば当然投資を行うであろう。このときの企業価値の増加分が限界の である。
だが、限界の が平均の と一般的に異なることもまた明らかである。
トービンが述べた は、現在の自社の企業価値を物的設備の再取得費用で 割ったものであるから、企業の資産全体に渡る拡大倍率を表している。これ が平均の である。ヴェブレンの理解も全く同様のものであった。投資は 自社の設備価値をどれだけ増加させるかという限界的判断だから、そこでは 平均の は何の意味も持たない。重要なのは限界の であり、平均の は よくてせいぜいその近似値ということになるのである。
だが、林は限界の は企業自身にとっても観測不可能であるとして、観 測可能な平均の との関係を解明することが必要だと考えた。平均の は、
企業価値の市場評価であるその会社の株価総額を会社の純資産額で割った値 であるから、会社関係者はもちろん外部の人間でもいつでも計算することが
できる。だから、限界の が平均の と等しい値になるのが最も便利だと いうことになる。
林は つの が等しくなる条件が、企業の生産関数と投資の調整コスト の関数がともに 次同次の性質を持つことであるということを確かめた。
次同次の性質というのは、その関数の投入が 倍、 倍になれば、関数の産 出も比例的に 倍、 倍になるという性質である。これを図示するならば次 のようになる。
図では横軸に企業の設備価値 を、縦軸に企業価値 を測っている。企 業の生産関数が 次同次であり労働供給に制約がなければ、資本 が増加 すれば企業の収益もそれに比例的に増大する。企業の収益率が利子率よりも 高ければ、図に示したように、企業の将来収益の割引現在価値である企業価 値は原点から始まり より大きい傾きを持つ直線になる。企業の収益率が利 子率と同じであるということがあれば、直線の傾きは になり、トービンの
はいつでも の値をとるのである。容易に分かるようにこうした直線では、
原点から直線上のある点までの傾きと、同じ点での直線の傾きは等しい。前 者が平均の であり、後者が限界の である。
しかし、もし、企業が投資をどれだけ行っても一切の追加的な費用がかか 1
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らないのであれば、図に見るように、企業にとっての最適な資本ストックは 無限大だから、企業は一気に無限大の設備投資を行うはずである。毎年の投 資額が決まるためには、投資の調整コストがかかるという条件を加えなけれ ばならない。
一般的に言えば、投資の調整コストは同じ額の設備投資をした場合に、そ れが企業価値を大きくする効果を弱めることになるから、図の直線は原点を 中心に下方に回転するだけでなく、直線の傾きも各所で変化することになる。
直線であることが保たれるには、投資の調整コストが、投資額が大きくなる とそれに比例して費用が大きくなるような 次同次の性質を持つ必要がある。
この つの条件が満たされれば、図のように原点から発した直線が平均の と限界の を表し続けることになるので、両者が一致し続けるのである。
図に示されるような企業は、現在の資本ストックで限界の が を超え ていることを発見するから、投資の調整費用込みでそれが になるような資 本ストック量とのギャップを測って投資を行う。だが、既存の資本ストック に新規資本ストックが加わって稼動すると、図の上向き矢印のように企業価 値が再び上昇して限界の は を上回ることになる。こうして、前年を上 回る量の投資がさらに翌年も行われるのである。
林は、同じように関数の 次同次の性質があったとしても、平均の が 限界の を上回る条件として つをあげている。 つは、会計上の減価償 却が法人税の節減に繋がる場合であり、もう つは経済が競争的ではなく独 占的な場合である。
.トービンの と景気循環
メドレンという研究者が近年、林の定式化した数学的な 理論において、
経済が独占的である場合に平均の が限界の を独占レント分だけ上回る とされていることに着目し、そこからヴェブレンの理論を解明する研究を発 表している。また、この論文は、ヴェブレンによる理解を肯定する立場から トービンの 理論解釈が批判されている点で、本稿と同じスタンスに立っ ていると考えられる。そこで、この先行研究の内容を精査することで 理 論の正しい解釈を導く手がかりとしてみよう。
メドレンはまず、トービンの 理論が企業価値と設備価値のズレを成長 の原因としているのに対して、ヴェブレンではそれが不景気の基礎を形作っ ていることに最も目立つ違いを見る。トービンらの考えでは株価の上昇は新 規投資の原動力であるが、ヴェブレンでは同じ事態が新規設備投資の削減を 反映しているのである。
なぜ、こうした正反対の関係になるのかを考えて、メドレンは、トービン の解釈が新たに設立された会社によく当てはまることを指摘した。ベン チャー企業が陸続と続くような業界では新規参入が留まることはなく、それ ら企業どうしの間で価格競争が繰り広げられる。こういう競争の激しい業界 ではトービンらの言うように の値は常に に近づく傾向を持つであろう。
トービンの が を上回れば、すぐに価格競争が起こってその値を へと 戻すからである。
これに対して、ヴェブレンが問題にした経済では企業が独占力を保持して いる。このときに高い平均の と低い限界の が両立することは林が明ら かにしている。こうしたことを前提にしながら、不景気に現実に起きている 事態を注視するならば、大企業がその企業価値を維持するために投資を控え たり、既存生産設備のスクラップ化を行ったりするということである。平均 の を高く維持するために新規の設備投資を取り止めたり、マイナスの投 資を行ったりしていることを意味するわけだ。だから、メドレンは、 理
論が平均の と限界の のズレだけでなく、両者が逆方向に動くことも説 明できなければならないと考えた。
だが、トービンらによれば、総需要の短期的な変動に対応して限界の を上げたり下げたりする要因は、平均の をも上げたり下げたりしなけれ ばならない。ここからメドレンは、 理論の現代的解釈には根本的な間違 いがあるはずだとしたが、この直感は当を得たものである。
トービンらが言うとおり、総需要が総供給から乖離して引き起こされる景気 変動のような短期的な攪乱がなく、経済が均衡成長の状態にあるとき、平均 の と限界の とは必ず同方向に動かなければならない。したがって、総 需要の短期的な変動下でもそうであるとトービンが述べているのは明らかに 間違っている。
メドレンは、このことこそ、トービンの 理論が企業の投資行動を説明 する実証研究に使われるとき、好ましい成果をあげることができない原因で あるという推測も述べている。だから、本稿では、 理論の新しい、そして、
正しい解釈が必要であると考えており、そのことによって 理論の実証研 究も新たな局面を迎えることができると期待しているのである。
メドレンも本稿も、 理論の新解釈にはヴェブレンの洞察が大いに役立 つと考えている。ヴェブレンは 理論を景気変動の分析に使うことはなかっ たが、トービンの が高い値をとることと新規投資を控える傾向を結びつ けたところに著しい特徴がある。
メドレンの結論は、現代の 理論は高い の値から新規投資が促進され、
企業買収は抑制されるという説明であるのに対して、ヴェブレンの解釈は、
企業は高い の値を求めて新規投資の抑制と他企業の買収を図るという具 合で、因果関係が逆になっているというものだ。これも漠然とした言い方で あるが、よいポイントを抑えていると思う。
.限界の から平均の へ
ヴェブレンの 理論解釈はどのような示唆を私たちに与えてくれるのだ ろうか。また、そこからどのような理論的整理を得ることができるのかを示 してみよう。
図は前に見た、縦軸に企業価値を測り、横軸に設備価値を測ったものであ る。もし、企業の両価値の間の関係が原点 から発する傾き の点線で示 されるようなものであれば、平均の と限界の はともに の値を常にとる。
平均の と限界の が等しいのは、既に見たように両者の関係が原点から 始まる直線で表される場合に共通した事柄で、これを林は数学的に生産関数 と調整コスト関数がともに 次同次であることと表現したのだった。
もし、企業が平均の と限界の がともに であるような状態になって いれば、企業は設備の規模も投資の大きさも決めることはできない。どのよ うな決め方をしても常に限界の は であるから、投資は必要ないという ことになるからだ。また、平均の も であるから、企業は望ましい資本 ストックを既に実現していることになるのである。こうした事態は、競争の 極限で訪れると考えられている長期均衡の状態である。
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仮に、物的設備に関してはこのような状態が成り立っていたとしても、ヴ ェブレンが考えたように企業の無形資産の存在を導入すれば事態は変わって くる。無形資産ないしは のれん は、図では線分 で表される価値を 持つ。そして、無形資産が導入されると、それは物的設備とは独立の価値で あるから、傾き の の曲線を上方向に平行に移動させる。
この結果、限界の は以前のまま であっても、原点 から現在の企業 の価値評価である に向けた直線の傾きである平均の は を大きく超え ることになるのである。これは、林が、市場が独占的であるときに平均の が限界の を上回ると述べたことに対応している。したがって、林の定式 化とヴェブレンの観点を照らし合わせることで、無形資産の価値が独占レン トの将来流列の割引現在価値に等しいという解釈ができるのである。
そして、この を超えた平均の は企業の設備投資によって徐々に に 近づいてはいくものの、市場の企業価値評価が変わらない限り決して にな ることはない。他方で限界の は常に なので、企業の新規設備投資が促 進されることはないのである。これは、ヴェブレンが、高い の値が設備 投資の抑制につながると述べた内容がどのような理論的根拠を持っているか をよく説明している。
逆に、企業の市場評価が大きく変化した場合は、平均の が動くことも 分かるだろう。たとえば、企業への市場の評価が低下して企業価値が下がっ たとき、これは図で直線が下方向に平行移動することだから、平均の は 直線 の傾きになる。すると無形資産の価値は線分 の長さだけマイ ナスの値を示すことになるのである。これは企業価値が設備価値をマイナス の無形資産価値分だけ割り込むということなので、こうした状態に陥った企 業は企業買収の対象になる。
林による平均の と限界の の区別と、 理論を企業の設備投資の決定
理論とする解釈によって、限界の こそが重要であり、平均の はその代 用に過ぎないという評価が定着しつつあった。しかし、本稿見たように、投 資が安定した環境で景気変動を反映した企業評価の変化がある場合、限界の は何の理論的説明の役割も果たすことはない。むしろ、そこで企業評価の 指標として大きな役割を担うのは平均の の方なのである。
こうして、ヴェブレンが平均の のみを問題にしたことももっともであ ることが分かるし、トービンも平均の の重要性をさらに理論的に強調し てもよかったのだ。トービンの間違いは、本来、企業の買収・合併の評価指 標であるトービンの を設備投資の評価指標として理論化したところにあ る。トービン自身は自らの理論の新古典派的解釈に対して、企業価値の市場 評価の決定的な重要性を唱え続け、独自性を主張したのであったが、結局は そちらの解釈は主流とならなかった。そして、トービンらが最晩年まで続け た実証研究も目覚しい成果をあげることもなかったのである。その根本的な 理由も、 理論の解釈に誤りがあったからに他ならない。
おわりに
ケインズが主著のなかで、事業拡張をするのに企業買収が有利ならそちら を選ぶだろうし、新規設備投資が有利ならそちらを選ぶという主旨の叙述を していることから、 理論は既にケインズにもあったという理解がされる 場合がある。また、ケインズの、資本、または投資の限界効率と利子率を比 較して設備投資額を決めるという理論と、トービンの に基づく投資理論 とは同じ内容を意味しているという解釈も、そのような理解に根拠を持って いるのであろう。
ケインズが区別しなかった資本の限界効率と投資の限界効率の区別も、新
古典派投資理論では、投資の調整コストを考えるかどうかの違いとして理論 的に整理された。結局、毎年の投資額は限界の が になるように行われ るし、資本ストック量が最適な状態になったかどうかは平均の が になっ たかどうかで確認できるということなのである。
しかし、新古典派の投資理論でいう投資の収益率は企業が内部的に算出す る投資プロジェクトの内部収益率であって、そこに市場評価の要因は含まれ ていない。内部収益率の逆数である限界の が観測不可能といわれるのも このためである。物的設備が技術的にもたらす収益率から企業価値が算定で きるという理解が、新古典派投資関数や新古典派的に解釈された 理論の 背景にはある。
だが、トービンの が、企業価値が市場評価でまず与えられていること が重要な指標であれば、ストーリーは全く逆になる。平均の は株価時価 発行総額としての企業価値から、まず直接に求められる。経済はこの平均の の値を見て、物的設備に照らしてその企業が効率的に経営されているか、
また、その企業が物的設備を有効に利用しているかを判断するのである。こ の判断は企業内部で決定される設備投資とは全く結びつかない。むしろ、企 業買収の判断基準そのものなのである。
形式的な同型性は経済学的な解釈の同一性とは必ずしも結びつかない。そ うであるがゆえに、トービンが 理論を提起したことには意味があったの である。なぜ内部収益率ではなくて だったのか。答えは既に明らかである。
そして、トービンの が物的設備価値を所与としたときの企業評価の議論 であるならば、それが企業の買収や合併を伴う広義の資本市場が早くから高 度に発達したアメリカの経済学者によって提起されたのは、理由がないこと ではないに違いない。ここに 理論を巡る、ヴェブレンからトービンへと いうアメリカ経済学の一系譜と見たとしてもあながち的外れではないのでな いだろうか。
文献