研 究 例 会 報 告 要 旨
金沢大学日本海域研究所研究例会報告要旨 第5回〜第7回(1979〜198O)
年月日・会場 第5回 1979.7.13
大学教育開放センター
第 6 回 1979.9.5
大学教育開放センター
第 7 回 1980.2.22
理 学 部 会 議 室
報 告 題 目
白山大地震と帰雲城と木舟城について
海洋における放射性核種の定量と重金属元素の挙動
北陸における農村問題と農村開発 北陸地域における公共投資の動向 百 万 石 文 化 の か な た
−平安時代における能登国国守の横顔一 西南日本と朝鮮の地質学的相互関系
… … 日 本 海 の 成 因 論 陸上植物の起源と進化
円柱に作用する波力に関する基礎的研究 加賀象嵌とその技術的改良の試み 黒部川・愛本橋
金箔の製造工程と展延機構について 北陸地方の河川生物群集の特長 奇 病 の 発 掘
氏 名 ( 所 属 )
安 達 正 雄 ( 工 学 部 ) 寺 田 喜 久 雄 ( 理 学 部 )
中 藤 康 俊 ( 富 山 大 学 ) 小 林 昭 ( 経 済 学 部 ) 原 田 行 造 ( 教 育 学 部 ) 広 井 美 邦 ( 教 育 学 部 ) 河 合 功 ( 理 学 部 ) 石 田 啓 ( 工 学 部 ) 黒 部 利 次 ( 工 学 部 ) 喜 内 敏 ( 石 川 工 専 )
上 田 益 造 ( 工 学 部 ) 大 串 龍一
豐 田 文 一
( 理 学 部 )
(富 山 県 農 村医学研究所)
白山大地震と帰雲城と木舟城について
安 達 正 雄
史料を総合すると,白山大地震は天正13年11月29日(1586年1月18日)亥子の刻(午後11時頃)に
起った。この地震による山津波で飛騨の帰雲城(城主.内ケ島罠蓮)はその城下町と共にすべて地
ひ で つ ぐ
下に埋没した。同時刻頃約54km離れた越中の木舟城(城主.前田秀継)も地盤が陥没し地中に消え た。同時に埋没したこの二つの城について歴史や人物的なことを調べてみたいと思ったのが,この 研究の動機であった。史料を集め調べていくうちに,この地震の被害は広範囲に及び,各地で被害 があったことが判った。当時情報がとだえたためか,歴史上この地震は小さく扱われている。そこ でこの地震の被害状況等を明らかにする目的で地震史料の収集にも興味をもつようになった。
本日は時間の制限もあるので,スライドを用いて概要を簡単に説明する。白山大地震については やや時間をかけたいと思う。
1 . 木 舟 城
木舟城跡は富山県西砺波郡福岡町木舟にあり,サクラ木工㈱の南西約1,500mの所である。約400 坪の小高い丘があり,東山,西山の二つに分かれ,東の丘を本丸跡,西の丘を二の丸跡と称してい
る。付近には木舟川,貴布弥神社があり,御坊町,紺屋町,鉄砲町等旧城下町の地名も残っている。
そこに立てられた説明板にも木舟城の歴史等が書かれている。
初期の時代のものであろうか,木舟城の配置図がある。本丸のみで二の丸,三の丸は見られない。
後に増築したとも考えられる。木舟城跡と石黒兵助の推定図を重ねてみると,堀を含む城地はかな り広かったことが判かる。
前田氏以前の木舟城主・石黒氏の家系図として現在3種伝えられている。(他に福光城主.石黒 氏の系統も一・二ある。)1)藤原鎌足・利仁を祖とするもの2)利波古臣を祖とするもの3)
大伴家持を祖とするもの等である。『越中国官倉納穀交替記』によって2)の利波氏の家系の正し いことが証明された。しかし,利波氏から石黒氏に移る所を証明する史料がないので,後半の部分 に疑問が残る。現在のところ3)は考えられないので,石黒氏の家系は1)か2)のいずれかであろう。
木舟城最後の悲劇の城主・前田秀継の家系は史料もあI),明らかになっている。
2 . 帰 雲 城
帰雲城跡は岐阜県大野郡白川村保木脇にあり,合掌造りの集落からそんなに遠くない所にある。
現在も山津波の跡が径約1,000mのすり鉢状のはげ山となって残っており,この近くに帰雲城とそ の城下町があったと推定される。
帰雲城主・内ケ島氏の家系図として現在3種伝えられている。 )橘氏・楠氏を祖とするもの 2)西園寺氏を祖とするもの3)小野篁・猪俣党内島氏を祖とするもの等である。
『天文日記』によって第2代雅氏,第3代氏利が本願寺と親交があったこと,直筆文書によって 第2代雅氏,第4代悲劇の城主・氏理の存在が証明された。それらにより修正した内ケ島氏系図を 提出した。しかし,初代城主以前の先祖については証明する史料がないので,いずれが正しいか不
明である。
3.白山大地震
帰雲城跡付近の航空写真,地形図等により帰雲山からの山津波がどのようにして帰雲城とその城 下町を埋没したかを説明することができる。
木舟城の埋没状況については文献により推定できる段階にあり,地質学的な面からもう少し調べ
る必要がある。
近畿,中部地方にわたる城の被害,寺社の被害,山崩れ,洪水,陥没,津波等の被害状況を地図 上にプロットした。これまで知られていなかった三重県長島町付近の被害状況も飯田の報告により 示した。城の破損,高潮や津波による島の沈没や流失等が多かった。これらの被害に基づき震度分 布図を作製したところ,この地震はマグニチュード約8.2の大地震であったことが判った。活断層 と被害の関係をプロットしてみると,活断層付近に被害が集中しており,活断層を重視すべきこと が判った。
余震については『舜旧記』,『御湯殿の上の日記』,『多聞院日記』,『家忠日記』,『外宮召立文案』,
『外宮遷宮召立記』等によってその大きさと回数の大略を図示することができた。本震から約4ヶ 月後まで余震が続いたようである。
4..最近の情報
飛騨の帰雲城の積み石や敷き石が,昭和54年5月5日帰雲城探索隊によって発見され,その辺り が城跡であり,幻の城ではなかったという記事が新聞に載った。その城跡は筆者らの推定した庄川 の左岸ではなく,右岸の村の共有地にあった。平らな石が敷き石に,荒削りの石が野づら積みに使 われていたようである。その位置から推定すると,帰雲城は山津波の影響は少なく,雪崩によって 崩壊し,埋没したものと考えられる。なお城下町は城に隣接してあったのではなく,庄川の対岸の 筆者らが城と城下町を推定した位置にあったと考えられる。
終りに筆者の拙ない作詩「越中木舟城哀歌」を紹介した。
4の最近の情報を除き,この発表の内容は下記の小論として公表されているので参照されたい。
文 献
1)安達正雄:白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」,金沢大学日本海域研究所報告,第8号,91〜
103(1976)
2)安達正雄:同第2報,両城主の家系図の検討,日本海学会誌,第1号,69〜80(1977)
3)安達正雄:同第3報,内ケ島氏系図と石黒氏系図の研究,金沢大学日本海域研究所報告,第9号,9〜25(1977)
4)安達正雄:同第4報,内ケ島氏および石黒氏の家臣達,日本海学会誌,第2号,111〜121(1978)
5)安達正雄:同第5報,両城主と一向一撲,金沢大学日本海域研究所報告,第10号,117〜127(1978)
6)安達正雄:同第6報,両城をめぐる地震の被害,震度分布,余震等について,日本海学会誌,第3号,61〜76
(1979)
海洋における放射性核種の定量と重金属元素の挙動
寺 田 喜 久 雄 1 . 放 射 性 核 種 の 定 量
日本海は閉鎖水域であるために放射能汚染はしばしば日本の大平洋側のそれにくらべて大きいと いわれている。】37Cs,90Sr,および106Ruは,それぞれ30.17年,29年および368日の半減期をも つ核分裂生成核種である。海盆として特殊な形態をもつ日本海におけるこれら人工放射性核種の分 布を調べることにより,それらと化学的性質の類似する諸元素の海水中における挙動,又は海水混 合の様子などを知ることができるものと考えられる。しかし,これらの核種の濃度はきわめて低く,
その放射能強度を測定するには,大量の海水試料から,測定可能な小容量にまで濃縮する必要があ る。しかも,日本海全域にわたって,いろいろな深さから採取される多数の試料を処理するには,
試料採取後,船上で迅速に濃縮を行わなければならない。この目的で,137Csおよび106Ruの迅速な 定量法を確立し,日本海のいくつかの地点で測定を行った。
137Csの濃縮のために,12−モリブドリン酸アンモニウムをシリカケル表面に沈殿付着させた,特 殊の無機イオン交換体を調製した1,2:この交換体のカラムを作り,804の海水を54/時の流速で通 して137Csを定量的に捕集し,研究室へ持ち帰って,137Csの放射能を測定した。一方,106Ruは,
24の海水を用いて,担体ルテニウムを加え,酸化剤により四酸化ルテニウムに酸化し,これを四 塩化炭素に抽出した§4)これからルテニウムを沈殿させ,炉過したものについてその放射能を測定した。
分析した海水は,清風丸(1968,1970)に乗って採水したものであり,137Cs濃度は,日本海の表 面海水で0.22士0.01〜0.26zt0.01pci/4であった。この値は,猿橋ら5)が,1967年に採取した海水 で得た値(0.20〜0.24pci/4)とほぼ等し<,1966年に採取した海水で猿橋ら5)が行った結果(0.40
0.480.08pci/4)よりもかなり低くなっている。又,137Cs濃度は,500m以深では表面の%〜
%に減少するが,3,000mの深さでも検出された。一方,106Ruは表層で0.2±0.03〜0.3±0.03pci/@
であり,100m以深では,0.1pci/4の値が1,500mまで続くのがみられた。これらの結果をみる と,137Cs,106Ruともに,粒子状物質に吸着されて沈降するものと考えられ,日本海の海水の垂直方 向での混合は,決して速かに起るものではないと推定される。
2.重金属元素の挙動
海洋環境にもたらされた微量重金属は,化学的,生物学的にさまざまな過程を経て,最終的には 堆積物へ移行する。海洋における微量元素の海水からの除去のメカニズムについては,粒子状物質 への吸着と,それらの沈降が最も支配的であると考えられている。しかし,海水と堆積物との境界 面付近で起る現象については,未だほとんど研究されておらず,きわめて興味深い研究課題である と考える。そこで,能登の九十九湾で採集した堆積物および海水を用いて,実験室におけるモデル 実験を行い,境界面における微量金属の堆積挙動を追跡した§)
堆積物は,有機物,微生物などの影響を調べる目的で,1)強熱して有機物を除去したもの,2)オ ートクレーブで滅菌したもの,などの処理を行ったものと,未処理のものを試料とした。−一方,海
高く,けっして北陸の農村が経済的に劣っているとはいいがたい。むしろ,住宅とか乗用車の普及 率等でみるかぎりかなり豊かであるとさえいえる。こうした農家の高い消費水準は農家所得の高さ を反映しているわけだが,たぎ問題なのは高い農家所得も実は農外所得に支えられているというこ とである。農外所得が農家所得にしめる比率は70%を越え,農業所得による家計費充足率は毎年低 下している。このことは,北陸の農業が水稲単作経営であるという特殊性に規定されたものである。
経済成長期に国民の消費構造の変化によって,野菜,果樹,畜産といった米以外の商品作物の栽培 が伸びたが,北陸では米単作経営の方向を強めた。そのため,たいていの農家が「米十兼業」とい うパターンであって,兼業農家率がきわめて高い。水田の基盤整備をすすめ,農業機械を導入して 省力化をすすめた結果,今日では米作りは片手間仕事になってしまった。経済成長期には米価は毎 年のように上昇するし,農外所得を求めて勤めに出ようと思えば職場は多いので「米十兼業」とい
うパターンは農家経済を高い水準に支えてきた。ところが,低成長になった今日では様子は一変し,
農業所得源であった米は過剰となって生産調整が強化されているし,兼業についても繊維,電子部 品工業といった不況業種が多いだけに農外所得も伸び悩みである。
つぎに②の農家の意識,村落秩序の問題であるが,もとより水田地帯であるから農家の意識は保 守的で村の秩序は強固なヒェラルヒーで維持されているといわれてきた。ところ力§,さきに述べた ように農家の兼業化が進んで,農家経済に占める農業所得,とくに米の意義が低下するにつれて,
農家の意識,村の秩序もくずれつつある。とくに,都市近郊の農村では農家と非農家の混住化によ って,また都市から離れた遠隔地の農村では過疎化によってくずれつつある。だが,これだけ都市 化がすすんでもなおくずれしまっていないどころか,むしろ再編成されているところに北陸の特徴 がある。真宗という宗教が果たしている役割を無視できない。
最後に第③の生活環境の問題であるが,都市近郊の農村では人口や非農家の増加によって学校,道 路,上下水道,病院,公園等の整備が緊急の課題であるにもかかわらず財源難からこうした問題に 十分対応できないばかりか,農家と非農家の間で意見の対立さえ生じて問題をいっそう複雑にして いる。都市からはなれた遠隔地の過疎地帯では人口減少,経済的負担の増大によって生活環境の整 備どころか,これまでの施設を維持することさえ困難となっている。
このような問題は北陸の農村だけにみられるものではなく,全国的な問題であろうが,北陸の農 村の都市化,工業化が著しく,兼業農家率が高くて,しかも水稲単作地帯であるが故にことさら問 題を複雑に,しかも難かしぐしている。このことは,わが国の高度経済成長政策と農業近代化政策 によってもたらされたものであるが,それが北陸にきわだって問題を複雑にしているのはやはり北 陸の開発政策,農業近代化政策じたいに問題があったのではなかろうか。
このように考えると,今後の農村開発はこれまでのように農村の経済開発,産業開発を主たる課 題とした開発ではなく,北陸という特定の地域に顕在化しつつある局地的な社会経済的問題を明ら かにして地域政策を確立することではなかろうか。安易な工場誘致政策による工業化,都市化を促 進する道路づくり,土地基盤整備を重視した米づくり等々は農村の貴重な資源を外に流出させ,農 家の経済的負担を強化するだけである。農業経営の複合化をはかり,限られた農地を高度に,しか も有効に利用するとともに,ながい伝統をもつ地場産業を見直し,農村の土地,労働力,水,その
他のあらゆる資源を有効に活用することこそ,これからの開発のあり方ではなかろうか。
北 陸 地 域 に お け る 公 共 投 資 の 動 向
小 林 昭
公共投資の範囲を統計資料の便宜上「行政投資」でとり,1958〜76年度の19年間における北陸3 県での国・県・市町村の公共投資の諸動向と配分構造の諸特徴とを全国や大都市地域と比較しつつ 考察し,今後の検討課題について若干の問題提起を試みた。官庁統計の分類方法(生活基盤,産業 基盤,農林水産業,国土保全,その他)とは別に,宮本憲一氏に従って行政投資を機能別に第1部 門(主に社会的一般労働手段),第II部門(主に社会的共同消費手段),第ⅡI部門(維持修理・補填 投資),第Ⅳ部門(行政設備その他)に分類するならば,全国動向では60年代末以降第1・第II部門 の格差力ざ縮少し70年代前半から中頃にII部門がI部門を凌駕するのに対して,北陸においては,II 部門が一貫して全国平均の構成比よりかなり低位の状態のままI部門の優位が続き,60年代末から 70年代初めにかけて両部門の格差がむしろ拡大したのち,やっと縮少傾向に転じている。また,事 業種類別にみた国・県・市町村の投資主体別配分構成や資金負担別構成およびそのクロス・チェッ
クにおいても,全国動向とは異なる外形的な諸特徴をみることができる。78年度予算編成の頃から,
全国的動向として公共投資の生産誘発効果・景気刺激効果の低下傾向が論議され,その原因として
「生活基盤投資」の比率上昇,地分政府分の増大と工事の小型化傾向等々が指摘されてきたが,北 陸3県の以上の行政投資動向はそれとはかなり趣を異にしている。こうした全国的マクロ的な論理 では,波及効果の把握が狭いうえに地域的相違や特徴をめぐる諸問題は脱落しあるいは軽視されが ちである。以上の観点から,筆者は,公共投資をめく、る地域的諸問題,地域レベルの公共投資分析 を重視し,今後の筆者自身の研究課題として,北陸の行政投資の1.II部門の諸動向と従来の蓄積 量との諸関係,行政投資の技術的構成と経済的社会的波及効果の実態,公共投資における国一県一 市町村の行財政関係の実態等々の検討を挙げた。なお,本報告の内容に公共工事着工動向の検討を 加え,「北陸地域の公共投資にかんする若干の考察」(金沢大学経済論集,第17号)として発表した ので,詳細はそれにゆずる。
百 万 石 の か な た
−平安時代における能登国国守の横顔一
原 田 行 造
加能の精神風土解明のためには,百万石文化の彼方に横たわる古層の伝統文化の発掘・究明が,
なににもまして肝要である。加賀には,一向宗徒や富樫一族の文化的土壌が,能登には,畠山・長 氏の織りなした生活環境が拡がり,なおその基底部には平安朝以遠の越路の諸風景が限られた史料 を通してかすかに見え隠れしている。
平安時代の寛弘・長和期(1004〜1016)に,相前後して能登国に来任した国守善滋為政・源行任・
藤原実房は,それぞれに際立った個性を背景に,在地勢力と対峠した。
為政は,『今昔物語集』巻26第12話に報ずるように,当地の豪族, 鳳至の孫 (二代目)の秘蔵せ る宝の石帯を強奪しまうと暴挙に出たため,彼は宝帯を携行し諸国を流浪するに至る。能登国で為 政は劫略を窓にしたが,一方都にいる,かの有名な彼の叔父慶滋保胤は,『今鏡』(昔話第9)によれ ば,内裏の建春門の陣の方で,主人の石帯を紛失して悲嘆にくれる女に,己の石帯を恵与するとい
う対照的な慈悲深い行為にでている。
為政も,京洛で有名な知識人であった。長保5年(1003)5月27日道長の宇治邸で開催された作 文会にて,「販嵩鶴舞日高見。飲謂龍昇雲不残。」という詩句で源為憲を感泣させた大江以言の漢詩 につき,黄帝の崩御を示す「昇龍」の字が忌謹を犯していると指摘している。また,「治安」「万寿」
の年号を定めるほど博識で, 年ふれば荒れのみまさる宿のうちに心ながくもすめる月かな (『後拾 遺和歌集』巻15)と繊弱な心境を詠ずるインテリであった。
その彼を,異常な略奪にかりたてたのは,摂関家への貢納物を整えるためであった。一例を挙げ れば,後の万寿2年(1025)11月9日の『小右記』の記すところであるが,為政が五節の舞に対す る負担を半分に減じたがため,小野宮実資がクレームをつけている。
次に赴任した源行任の代にも,彼の所行を警戒して, 鳳至の孫 は帰って来なかった。行任は,
御堂関白道長と親しく,出京後馬1頭を贈られている。彼もまた蓄財に励み富裕で,後朱雀帝中宮 源子出産の際,産所を提供するほどである。彼の孫高実も後冷泉院の代に蔵人をつとめ,伯耆・越 前・讃岐・阿波等の国守を歴任し,篤子内親王の御堂建立の予定をしていたと『中右記』は伝える。
弟の章任も,『続本朝往生伝』に「家大豪冨,珍貨盈蔵米殼敷地。……(中略)……性太'│吝惜。為刺吏 時,以貧為先Jと記述されているように貧欲で,寛徳2年(1045)には,唐人張守隆らの交易品を 劫奪している。
能登国においても,行任が略奪者としての受領の基本路線を歩んだのは当然で,任明け後,更に 越後守となった。が,五節の舞の費用負担を拒否したため,寛仁3年(1019)10月29日に萱務を停 止された。
行任の後任者として来任した藤原実房は,良吏であったようだ。ために,8年間の放浪後, 鳳 至の孫 はついて帰郷し,宝帯を実房に献じたという。ところで,良吏実房もやはり黄金の魔力の 虜となり,佐渡島の金鉱に関心を示し,国人の鉄鉱採掘の長に命じて金をさがしに派遣している。
そして,八千両相当の金塊をもたらした長が,直後に後難を恐れて逐電するところに,在地の人々 の実房に対する抵抗姿勢を汲みとり得る。
実房は,河内国藤原方正の子息で,大中臣輔親の娘を妻としている。妻の妹には,有名な歌人伊 勢大輔がおり,彼女の祖父は『後撰和歌集』撰者の能宣である。従五位上で,蔵人・式部丞・右大 弁を歴任した実房は典型的な受領階級に属し,かの宝帯を,当時宝物収集に熱中していた頼通にい そいそと献じたのも当然ななりゆきであった。
為政・行任・実房は,独自な方式で摂関家との絆を強めていった。即ち,為政は詩文と陰陽道の 道で,行任は一族から次々と乳母を提供する方法で,実房は歌壇の大御所大中臣家と結び,岳父輔
親の力で道長に接近を画することで,着々と己の地歩を固めていった。
成功・重任を狙うか,任明け後に大国の国守たらんとするため,受領たちは権門に珍貨を貢納す ることを至上としていた。ために, 鳳至の孫 の如き宝物を秘蔵する裕福な豪族力ざ,まずその被害 者となった。が,延久年間に能登守として在任した藤原通宗の場合は,輪島の光浦の飽漁に重税を 課し,鞄を大量に劫椋したため,殆どの海人が集団で越後国に逃亡するという大事件となり(『今昔 物語集』巻31第27話),地域住民全体が抑圧されている。
国守の暴政は,もちろん越路のみならず全国的現象であった。「受領ハ倒ルル所二士ヲツカメ」と 叱り,従者の失笑をかつた信濃守陳忠の強欲無上な逸話(『今昔物語集』巻28第38話)や,永延2年
(988)に31ケ条に亘る悪政列挙の文書(『尾張国郡司百姓等解』)を以て,国人が訴え出た尾張守 藤原元命事件は有名である。
加賀国においても,長和元年(1012)9月,国人は源政職に関し,32ケ条の違法政治を指摘した 訴状を提出し,同時に国守側からも,国政にそむき逃亡した国人を糾弾する解文が送付されている。
だが,真相究明に乗り出した政府は,国人の出頭なきため,政職に無罪をいいわたしている。
当時,能登人の抵抗は,専ら職務放棄・逃走という姿勢をとった。彼らは,内裏の近衛門に赴き,
太政官の官人に訴状をさし出すことなど思いもよらぬことであり,ましてや中央政庁の裁きの場で 国守と対決するなど論外であった。それは,幾度も上訴の体験を持つ尾張国の住人とは全く対礁的 であった。
付 記
本発表に際して,善滋為政については,杉崎重遠著『勅撰集歌人伝の研究』(東都書籍く王朝篇・巻1〉)所収「善滋 為政朝臣」に,源行任については,角田文衛著『王朝の明暗』(東京堂出版)所収「後一条天皇の乳母たち」などに負 う所力罰きわめて大きい。また,日本古典文学大系(岩波書店)・日本古典文学全集(小学館)『今昔物語集』の該話(巻 26第12話)の頭注からも多大な稗益を受けた。なお,国守の実態については,村井康彦著『平安貴族の世界』(徳間書 店)・森田悌著『受領』(教育社)などから啓発を受けた。
西南日本と朝鮮の地質学的相互関係
− 日 本 海 の 成 因 論 一
広 井 美 邦
日本海は典型的な縁海である。縁海の起源は現在の地球科学の重要な問題の一つである。日本海 の成因について多くの人々が多種多様な観点からの論考を公表しているが,それらは粕野氏によっ て紹介されているため,ここでは簡単にふれ,ただちに本講演の論旨に入る。
日本海の成因論は次の2つに大別される。
(1)日本海域の陥没説
(2)日本列島(を構成している大陸性地殼)のアジア大陸からの分離,相対的南下説
(1)の説は,以前には,多数の地質学者に妥当なものと考えられていた。しかし1960年代からのプ レートテクトニクス理論の普及にしたがい,また日本海底の地学的データの集積につれて(2)の説が
有力になってきた。
とは言え,(2)の説も未だ大略的な段階にすぎない。なぜなら,アジア大陸と日本列島の地質とい う実体の対比・相互関係の解明という必要不可欠な検証がほとんどなされていないからである。両 陸域の地質の中でも相互関係を知る上で特に有効なものは特定の方向性のある変動帯である。
演者は西南日本に分布する先新第三系の地帯構造区分において飛騨帯とよばれる区域の研究を行 っている。演者の研究結果を含めた最近までの飛弾帯に関する研究成果を総括すると,従来飛騨帯 として一括されていた区域が飛騨片麻岩類という先カンブリア紀に形成された岩石の分布する部分 と宇奈月帯とよばれる古生代末〜中生代初頭の変動帯に細分されることが明らかになった。他方,ア ジア大陸の一部としての朝鮮半島の地質に関する最近の研究成果をレビューすると,前述の飛騨帯 の細分されたそれぞれによく対比される地質体の存在が知れる。それらの地質体の構造方向を考慮
して日本海形成前の 日本列島 の位置を復元すると下図のようになる。
これは日本海の成因として 日本列島 のアジア大陸からの分離・相対的南下説を支持するとと もに, 日本列島 のかっての位置を明確にするものである。
〔この報告は,現在,論文としてまとめられつつある。〕
が
匡 三 匿 國 囚 匡 ヨ
1 図 の 説 明
「西南日本の復元図」
Z 3 4
1:白亜紀後期の花崗岩類の分布域,2:ジュラ紀の花崗岩類の分布域,3:古生代末〜中生 代初頭の中圧型広域変成帯,4および線分a‑b:安川(1975)による古地磁気
U:宇奈月帯,0:沃川帯;Y:大和堆
陸 上 植 物 の 起 源 と 進 化
河 合 功 陸上植物の起源と進化について,私共は次の項目についての考察をしたいと考えている。
1.陸上植物が初めて出現した頃の環境はどうであったか(環境)。
11.海洋から陸上に移った植物は,どんな集まりを作って生きていたか(植物社会)。
Ⅲ、それらの植物は陸上生活のために,どんな構造をしていたか(体制)。
Ⅳ、その体制はどんな方法で作られたか(組織分化)。
I 環 境
そこで先ず環境についての問題であるが,最近は各方面からの研究が進み,古い時代の地球の状 態が次第に明らかになって来たようである。そのうち,生物界と密接な関係にあると思われる次の
5つの事柄が注目される。
1)遊離酸素について遊離酸素は大気中の水分が光の分解作用によって地表近くに生じ,そ の一部は酸化してオゾンになったようである。遊離酸素の増加は,生命の発生に好条件を与え,今 から32億年程前に生命が出現したと考えられている。
2)二酸化炭素について地殼に堆積された物質が,火山活動によって大気並びに海洋に放出 され,現在の大気や海洋の成分の殆んどが形成されたと考えられている。こうして発生した二酸化 炭素の増加は,光合成生物,即ち緑色植物の出現に好条件を与え,硫黄細菌類や藍藻植物は,こう
した条件の下で出現したらしい。
3)紫外線とオゾンについて生物の出現した当時の大気中は,紫外線が強く,その障碍のた めに生物は,水面から10m以上の深さの所にしか生育できなかったようである。而し,今から6億
年前頃には,大気中の遊離酸素が次第に増加して,その量が現存大気中での割合の古までに増加
し,それに伴って増加したオゾンによって紫外線が吸収され,海面までも生物が生存可能になって 来たらしい。このため,水生生物は急激に増加し,現存の水生生物群の大部分はこの頃に出現した
と考えられている。更に4億年程前になると,遊離酸素の量は現存大気中の酸素の売にまで増加し,
陸上でも紫外線による障碍がなくなり,生物は一斉に陸上に移って来たらしい。こうして陸上植物
が出現する環境が作られて来たようである。
4)大陸移動について生物がこうして陸上に移って来た頃の陸地はどうなっていたかという 問題については,大陸移動説がある程度の示唆を与えてくれているように思う。この説によると,
上部石炭紀の頃には,地球上の大陸は,大陸棚を含めると,1つの陸塊になっていて,大部分の生 物は対流の盛んな光のエネルギーに富み,有機物などの多い,食物の豊かな,この大陸棚付近に好 んで棲息していたようである。この大陸をとりまく,連続した大陸棚に棲息していた生物の多くは,
連続した分布域を持ち,陸上に移って初めて隔離されたものが多いのかも知れない。隔離と進化の 関係は,進化を考えるとき重要であろう。
5)酸性度について地球形成以来,海洋の二酸化炭素は次第に増加し,生命が出現した頃に
は海洋の酸性度pH=8.1ぐらいであったであろうと云われている。その後,火山活動が盛んに起り,
二酸化炭素は次第に増加し,酸性度は高くなって来たようである。二酸化炭素を栄養元とする緑色 植物は,好条件に恵まれて繁茂し,この消費量の増加によって,二酸化炭素は減少の道をたどり始 め,現在の海洋は再びpH=8.2ぐらいであると云われている。
ところで,現存の蘇苔植物が生育している環境の酸性度を調べると,例えばミズゴケなどでは pH=3〜6<.らいの所に生育している。これらの植物が出現した当時,海洋やその周辺の陸地はそ れに類似した環境であったかも知れない。陸上植物が出現して以来,陸上がどのような変化を続け て来たかということは,陸上植物の起源と進化を考える上で重要な事柄であろう。
I 1 植 物 社 会
最初に陸上に出現した植物社会は,その後長い年月を経て,多くの変遷を重ね,現在に至ったも のと考えられる。陸上に発達している現存の植物社会は,それぞれの環境に適合したもので,それ ぞれの植物社会は,環境がゆるせば森林社会に発達すると考えられる。その過程を想像すると,
1)菌・藻・群落。
2)蘇苔・菌・藻・群落。
3)草本・蘇苔・菌・藻.群落。
4)灌木.草本・蘇苔・菌・藻・群落。
5)喬木.灌木.草本・蘇苔.菌・藻・群落。
という順序がその1つとして考えられる。陸上植物の出現した当時を再現することは出来ないが,
裸地から森林の変遷についての研究は,この長い変遷の断片を知ることができることを期待して調
査を続けている。
1 I 1 体 制
現存の蘇苔植物を観察すると,多種多様な構造が見られるが,陸上に出現した当時は,陸上生活 体制として共通のものを持っていて,それが長い間に変化したのではないか,而し,陸上生活体制 の基本的なものは,今もなお保存されているのではなかろうか。こうした課題について32科,142 層,469種について蘇類配偶体の構造を観察し,これまでの結果から次のような事が推測される。
隠鱸I
1.配偶体の基本構造
|繍慧鱒I
2 . 茎 の 基 本 構 造
|通導組織(中心束系)
{繍慧
3.陸上生活体制の基本
これらの推測は更に今後の観察によってより確実なものにして行きたいと考えている。
Ⅳ 組 織 分 化
このような陸上生活体制はどのようにして作られたか,という点について蘇苔植物の胞子,原糸 体,配偶体,頸卵器,蔵精器,卵子,精子,受精卵,胚,造胞体,蘋,胞子母細胞という生活史を
通じて観察を続けているが,その主なものとして次の二つをあげることができる。
( 1 ) 配 偶 体 の 分 裂 様 式 配 偶 体 は 頂 端 に 位 置 す る 1 個 の 大 形 細 胞 か ら 新 し い 細 胞 が 切 り は な さ れる。その切片(細胞)形成期の分裂様式は,多くの蘇苔植物の配偶体では三方向に斜めに切りは なされるので,これを三面斜交型と名付けている。こうして作られた切片が,次に連続2回の斜断 分裂と,連続2回の横断分裂によって5個の細胞を作る様式を層状斜交型と名付け,この期に葉原 基(最外層の2個),表皮系原基(中層の2個),中心束原基(最内部の1個)が作られる。こうし て配偶体の基本構造は作られ,陸上生活様式の基礎は,配偶体形成初期に確立されたのであろう。
(2)造胞体の分裂様式配偶体と異なり,造胞体は植物群によって特異な分裂様式に従って形 成され,蘇苔植物全般に共通の基本構造については今後の課題である。
陸上生活と深い関係にある体制の基本構造について,蘇苔類の一生を通じて観察し,それらがど のような生活をし,どのような体制進化をして来たかについて究明して行きたいと考えている。
円柱に作用する波力に関する基礎的及び応用的研究
石 田 啓
海洋開発の内容を目的別に分類すると,海洋資源の利用,海洋空間の利用および海洋エネルギー の利用の三つに大別されるが,土木工学的見地からすれば,海洋構造物の設計施工に関する研究が 重要な課題となる。たとえば,現在人類全体の課題となっている石油危機の緩和のためには,一層 大規模な海底油田の掘削を行う必要があるが,そのためには,波によるプラットフォームの振動特 性を考究することが極めて重要である。このフ・ラットフォームには,脚注が海底に達する形の固定 式のものと,そうでない浮体式カ苛あるが,ここでは固定式プラットフォームを対象とし,これを取 り扱うための基礎的な事柄について講演を行った。すなわち,まず最初に,海の波に関する基本的 な事柄を述べ,次に,波による円柱周辺の流体の挙動をスライドで示し,さらに,円柱に作用する 波力について説明し,最後に,波力による柱体の振動応答の計算例を紹介した。なお,海の波は,
必ずしも規則的な波ではなく,一般には不規則な波であるため,ここでは,不規則波による波力に ついても言及した。
円柱周辺の流体の挙動としては,特に剥離の発生とそれに伴う後流渦の特性が重要であり,これ は,モリソン公式と呼ばれる波力公式の抗力項と密接な関係を有する。この点については,実験的 研究の別刷を配布した。
柱体の運動は,波力を外力とした多質点系モデル構造物の解析方法を用いることにより計算が可 能となるが,ここでは,そのタワミ曲線と頂部の変位の時間変化を示した。振動問題としては,特 に共振による変位の増大が重要なことは言うまでもないが,波力による振動は,抗力項が波の周波 数以外の高次周波数成分を含む点に留意しなければならない。
最後に,プラットフォームそのものの振動を取り扱う場合には,脚柱間の長さと波長との関係に
より,プラットフォーム全体の振動形態が変化する点に新たな研究課題があることを付記する。
加賀象嵌とその技術的改良の試み
黒 部 利 次 鈴 木 和 夫 杉 田 忠 彰
象嵌技法が日本に伝えられたのは飛鳥時代を遡ることは確実で,古墳時代頃と思われる。以後,
仏教文化の興隆とともに金工技術も栄える力罰,加賀・金沢の地に象嵌技術が現われるのは江戸時代 になってからのことと思われる。象嵌の金工は,一般に高度な技術を必要とするため,近年その生 産性の悪さが多方面で指摘されるようになってきた。
象嵌技法の機械化の一環として,すでに精密鋳造法(ロストワックス法)による溝加工がなされ ている力:,細線の打込みとみがきにまだまだ多くの時間を必要とし,その自動化が望まれていた。
本研究は,細線打ち込みの自動化を行ったもので,下記のような成果が得られた。動電型加振機に よる打ち込み法は,象嵌に対して十分その機能を有していることが明らかになった。人手による打 込みと機械による場合とでは,打ち込みの正確さ,嵌合具合の良さにおいて機械打ちの方がはるか に優れていることが明らかとなった。また,象嵌終了後の硬さ測定から,溝側壁ならびに溝直下の 赤銅材に圧縮残留応力力計存在することが明らかになり,嵌合が理想的になされたことが明らかにな った。本方法は,原理的に3次元自由曲面への細線の打ち込みにも適用し得るものであることも指 摘している。
黒 部 川 ・ 愛 本 橋
喜 内 敏
き こ う こ
形の珍しい,奇妙な橋,あるいは奇巧を凝らした橋として,昔から「日本の三奇橋」と呼ばれて いたものに,甲斐(山梨県)の猿橋,岩国(山口県)の錦帯橋,黒部川に架設されていた越中(富
あ い も と
山県)の愛本橋がある。木曽(長野県)の桟(かけはし)を愛本橋の代りに入れるときもある。
愛本橋は猿橋と同一型式の片持梁を主桁とした構造で,猿橋は推古帝の朝(610〜620年の頃),
くだら
百済からの帰化人によって造られたといわれ,猿橋の名は嘉禄2年(1226),文明18年(1486)の 文書及び応永33年(1426)の記事にもあって,かなり古い橋である。愛本橋は猿橋のように古くな いが,この型式の橋としては日本で最長のものであった。同じくこの刎木橋としては,信濃(長野
み の ち く め じ みちこのたくみ
県)の水内橋(久米路橋)も推古天皇20年(612),百済から帰化した路子工により,はじめて設計
ゆ い し よ
されたものと伝えられ,由緒のある名橋である。木曽の桟は応永年間(1394〜1428)に街道沿線の
か い だ い ・
難所に架設されたのが始まりという。猿橋・久米路橋・愛本橋は「海内三橋」とも呼ばれていた。
錦帯橋は五連の木造太鼓橋で,初めて造られたのは延宝元年(1673)といわれており,それより以 来30〜40年毎に架け替えられた。
愛本橋は富山県下新川郡宇奈月町愛本にあって,黒部川が山間部から平野に移る両岸が断崖の相 迫った所に架かっている。
け ん が い
黒部川は越中の四大河川のうちに数えられ,上流は千丈の懸崖となってそびえ,到底川を渡るこ とは難しく,かつ,下流は水流多岐に分かれ,いわゆる「四十八ヶ瀬」となり,平常は水量少なく
れ き は ら は ん ら ん
荒涼たる礫原で,渡船や橋もなく,行人はただ徒渉するのみであった。水路は氾濫するに任せ,雨 が降り続けば幅一里ほど唯一の海となり,旅客は空しく宿駅に水の引くのを待つのみで,越中第一 の難所であった。このため,藩では寛永3年(1626)愛本に打掛橋(打渡橋)をかけ,街道を修繕 し,これを上街道と称し,本街道を下街道と称するに至った。上街道は泊よりわかれ舟見・愛本・
浦山と山麓に沿って迂回し,三日市で合流していて,下街道に比べ約2里半遠かつたカヌ,黒部川の 氾濫によって,下街道の交通が途絶するのに備えたものである。黒部川の増水する夏の間はこの道 を通り,上街道は夏街道とも呼ばれていた。
古来この地は戦乱の地ともなり,源平盛衰記,。越後治乱記,北越軍記,義経記や武隈家記に「四 十八ヶ瀬」の記事が記載されている。
加賀第五代藩主前田綱紀(綱利,松雲公)が寛文元年(1661)19歳にて初めて入部のおり,親不 知を過ぎ,やがて黒部川の「四十八ヶ瀬」にかかり,ここで交通の不便を痛感した。金沢に入城後,
し な ん
程なくこの地点に架橋のことを議したが,老臣は何れも架橋は要害の険を失ない,また工事至難で
いさ
あって,工事費もまた多額を要するので旧態のままが良いと諫めたが,綱紀はこれを退け,藩国の 強弱と安危とは施政の得失によるもので,山海の険易によるものではないとして,架橋を命じたと いう。かくして,藩主入部の年,新たに黒部川の上流を選び,刎木橋としての架橋工事が始められ
る う し ゆ う し ゆ し ゆ
た。江戸時代には戦国割拠の随習を守株して,各藩は防備の見地から,諸国の大河に橋のないもの が甚だ多かつたとき,著名の難所に架橋を計ったのは,藩主の人格によるものとされている。
その頃,外作事奉行の職にあった笹井正房(七兵衛)が藩主の命を受けて架橋の地点を調査し,
黒部川の峡間より平野に出る境の河幅の狭い地点を選び,ここに刎木橋を架けることにした。橋台 の石を切るのに岩壁が堅く仕事が捗らなかったので,その石の上に薪を積みかさね,夜もすがら焼
はかと
き焦し,夜明けて後,灰を洗い石を切ったところ,仕事が大いに捗ったという。かくて,両岸より大 木をはね出し,中腹にて組み合わせて柱にかえ,その上に橋桁をわたし,一ヶ年を費して困難な建
ちな
設工事を完成した。これより人馬は客易に通行できるようになった。橋の名は地名に因み,愛本橋 と名付けられた。
愛本は相本,合本とも書き,はね橋は刎木橋,刎橋,飛橋,肱木橋,反橋,桟橋,梯橋,掛橋,
埴橋などと書いてある。愛本橋は刎木橋として日本最大のものであって,古くから有名であり,ま た外国の書物,例えばG.H.TyrrellのHiStoryofBridgeEngineering(1911年)にTimber Cantileverl665(寛文5年)に創設,として紹介してある。
加能越三州には,はね橋と称するものが他にもかなり架設してあった。橋長9間以上のものを各種
こ う ろ ぎ
記録より拾ってみると,蟠蝉橋(長9間幅7尺余),黄門橋(長14間幅7尺),佐良橋(長12間幅2
¥#両斌露学$輔鍛津蕊獣 が執墜#︑亀︑騨挙忠遥鐸篭 祷﹃
た心可
癖
︾
嘩 華
み#
副一 F=
# ,
b 感 さず
瀞
熱
冬 盗
第i図愛本橋建絵図(天保年間)(石川県立図書館蔵)
小
農 9
魂寧心へ
融奄
鷺曙・・恥
}韓岳
‐‑溌
も 蔽 鐵 厚
舞 域 鐵 > ナ1
串
… 出 品 蝿 霧
金塚迩錘羅葱︑専管灘.&晒伐斌余や#鼻血雫〆輪
窮篭乱蕗縛今蟻舎与拳っで︾篭葡・︑j〃
鐘貧膨蟻亀晦恥︑蔵
令孝電く篤澪壷涛やず鎗坤︑︑霜:擦亀患蓋︐患圏鍾:︾︾ゞ館冴森鰯拳¥幹︑書織・脅嚇・鎮輪︑.・ず図ゞ淵拭弊神乱誹ぐ亀;
農︾︽息議一蒙難ゞ箪診ゞ︑︲ゞ︾︑立︸︾市
雅私嘘鑓農沢
で嘩房感ず︒﹄︑捗靹守暴金鍵菅一なふぞ丁忽愈毒萄蕊︲鑿寺や/︑
券霧へ畢7毒蒲う一雷ゞ図
一九好狩零篝驚?毒恋︑典§鱈搾
本一心蕊蔑錬働寸︑参典珍九輪 擁潔穐笈欠7愛
雰抄桑寒零幕ザ唾静一奮へ罫愈鱈←︾︑為
琴二千オf腎蕊轌争専一鳥︑顔ゞ霞:図蕊潅零津:一号︑繍録.︸鐸ゞ篭.⁝第
冨令・掌零︾簿零〆︐
瀧軽風気y辱帝︽︸冬翁?噂寸︾︾
肝二勺鞭i鐸儀棉漸琴︑
第3図越中愛本橋略図(石川県立図書館蔵)
罐 癖 ̲ ゴ
灘 晩
蕪'息患 鳶:夢.爵
第4図愛本橋彩色図(石川県立図書館蔵)
驚蕊罐
卍ゴ其.満,
礎
蕊。慰 鍵
塗熱蕊蕊
鶏 率
鞍
第 5 図 愛 本 の 橋 ( 富 山 県 立 図 書 館 蔵 )
間),濁澄橋(長16間幅6尺),相瀧橋(長9間幅6尺),登志計橋(長11間幅9尺),宮下橋(長13
こ ば せ
間幅9尺),古婆勢橋(長12間幅7尺)などがある。
愛本橋を最初に架設したときの図面類がないので,その当時の詳細は不明であるが,以後20〜30 年ごとに架けかえしており,その都度,大体以前の構造に従ったものと思われる。構造は現在残っ ている絵図類や文政,天保年間の指図で知ることができる。各種の記録及び年代で橋の寸法に相違 があるが,橋長33〜35間,幅員中央部2間,水面上よりの高さは8〜12間である。猿橋は橋長17間,
幅3間,水面上の高さ17間で刎木の本数は各側4本であった。なお,愛本橋の刎木の本数は各側6本であ
る。
中華人民共和国の四川・雲南・広西・ヒマラヤやチベット附近の山岳地帯に,昔からこの型式の 木のはね橋が多く架けられていた。その型式について,ニーダムは基本型として5型式を示してい る。(JoephNeedham<QScienceandCivilisationinChina"Vol.4p.162〜167,2081971)愛 本橋はこのうち,SoaringCantileverBridge(跳ね上げ式片持ち梁橋)と称している型式に属し,
この型の著名な橋について,橋名や場所などを示している。
愛本橋の架換の年代は,寛文2年(1662)6月創設の後,元禄2年(1689)9月6日夜火災焼失,
翌3年新造,享保3年(1718)6月風雨のため破損,寛保3年(1743)3月〜5月,安永2年(1773)
2月〜3年6月,寛政10年(1798)4月〜11年6月,文政2年(1819)3月〜3年6月,天保12年 (1841)7月〜13年7月,文久2年(1862)10月〜3年7月,さらに明治12年(1879)11月に修繕 を加えた。刎木橋としての姿は明治23年(1890)4月よりの架換起工によりなくなり,上路式プラ ット型曲弦構の木拱橋と変わり,同24年10月竣工した。この橋は起拱点間隔160尺,拱矢16尺であ る。大正8年(1919)4月下路式プラット型曲弦構の鋼橋となった。橋長54.80m,幅員5.25mで ある。昭和44年8月11日午後3時過ぎ,折からの大洪水のためにこの橋は流出し,ニールゼン・ロ ーゼ型鋼橋に架換られ今日に至っている。
愛本繧の由来としての大蛇の伝説や,百余年前から毎年6月21日には「ご影さまの日」として,
渡御の行事があり,これらは愛本橋と深い関連がある。
愛本橋は古くから非常に有名であったので,紀行文や詩歌,絵画として日本全国に紹介されてい る。昭和38年宇奈月開湯40周年記念として,頼三樹三郎の詩碑が愛本橋のたもとに建設された。
磯野隆言氏の論文,宇奈月町教育委員会発行のパンフレット類,明治以前日本土木史,石川県立・
金沢市立・富山県立の各図書館所蔵の文献,その他を参照したことを附記し,謝意を表します。
金 箔 の 製 造 工 程 と 展 延 機 構 に つ い て
上 田 益 造
金属工学の立場から郷土の美術工芸を眺めると,金属箔を始めとして,漆器の上の沈金,蒔絵(前 大峰氏),金胎漆器,う.ラスチック上へのめっき(山中漆器),加賀象嵌(高橋介州氏),中居のた たら遺跡,宮崎寒難氏の茶湯釜,魚住為楽氏のドラ,山田宗美氏の鉄板の打出し,隅谷正峰氏の日
本刀,高岡の銅器,梵鐘と着色,九谷焼の絵付けは細薬が金属酸化物である点で関連があり,古美術,
建造物力:,石川県の如く高温多湿で年中,日本海からの塩風が吹きつける土地に於いて,古人は金 属の腐食を如何にして守って来たかに思いを致すとき,我々は古人から学ぶところが多いように思 われる。
著者は先に実務表面技術,No.245(1974)P.1〜10に「加賀の伝統工芸,金属箔について」と 題して,箔は日本で何時頃から作られたか,また,箔の製造工程,箔打紙の製法等について書いた。
昭和51年12月2日,長岡に於ける,日本金属学会,日本鉄鋼協会北陸信越支部講演会において,「金 箔の展延機構に及ぼす箔打紙の影響」について研究発表を行ない,この度,金沢大学日本海域研究 所報告NQ11(1979)P.1〜24に,その後の電子顕微鏡観察,電子回析等の結果を加えて,「金箔の 展延機構に関する研究」と題して,その研究の一端を掲載した。かかる経緯もあったので,昭和55 年2月22日,金沢大学日本海域研究所第7回例会に表題の如きテーマで講演する機会を与えられた わけである。
の べ か ね う わ ず み
金箔の製造工程は大きく分けて,延金作り,上澄製作,箔打ち作業の3つの工程に分けられる。
延金作りとは,純金(純度99.99%)をそのまま箔にすることは殆んどなく,必ず,その中へ銀ま たは銅の数パーセントを添加して,溶解鋳造して合金を作る。これは配合の割合により,いろいろ の色調を出すためと,純金のみでは余りに軟かく,作業上扱い難いために,合金にすることにより 展延性を損わず硬度を増すためと云われる。これをロールにかけて厚さ3/100〜4/100mm,巾58mm
こ う ぺ
くらいの細長い帯状のものにする。これを約55mm角に切断したものを「延金」または「小兵」と云 う。この延金を澄打紙の間に挾んで製箔機にかけて打ち,約3/1000mm厚さにしたものを「上澄」と 云う。延金作り から上澄製作までは澄屋で行なわれる。上澄を更に小さく55〜60mm角に切ったもの
こ ま お も が み
(これを小間と云う)を箔打紙(主紙とも云う)の間に挾んで製箔機にかけて繰返し槌打ちし,2/
10000〜3/10000mm厚さに仕合げる作業が箔打ちであり,箔屋が受持つ。この作業は,澄の引き入れ,
小間打ち,火の間作業(1),箔移し,箔打ち,火の間作業(2),箔の打上り,抜き仕事,箔の仕合げの 9段階の操作を必要とし,最終的には3.6寸角(109mm角)に切り落し合紙に挾み,100枚毎に糸で 十文字にからげて製品となる。
/'0ミクロン,オーダになった金箔は緑色を呈し,向うが透けて見えるほどである。アメリカの センジミヤの多段ロールを用いて薄膜を作っても,精々1/1000mmぐらいまでが,その限度であり,
それ以上薄くしようとすれば,静電気が発生して製作が不可能となる。箔は金属の箸で障ることは
へら
絶対に出来ず,手で障れば汗や油のために付着する。箔は必ず竹製の箸,箆,ナイフで移したり,
切ったりする。箔と云う字は、竹に泊る〃と書くが,これは恐らく文字の国,中国人によって考え られたものと思うが,よく出来ていると感心させられる。
どうして金箔力:,このように薄く延びるのであろうか。その展延機構を明らかにすることは,こ の技術の解明,振興の為にも必要なことと思われるが,手掛けて見ると,その容易でないことを痛 感するものである。
箔打ち作業に最も重要な役目を果すのが,箔打紙で,先ず,その相互依存性を明らかにしなけれ ば,展延機構を解明することは出来ないであろう。箔打紙は雁皮,楮,三種を原料にして,その中
に泥土を混入して漉いた和紙(名塩紙と云って摂津の国名塩村,現在の西宮市塩町から作られる和 紙が最も良質とされる)を藁灰に熱湯を注いでとった灰汁に柿渋,卵白を加えた中に浸漬し,水分 を絞った後,自然乾燥をさせて,箔打機で空打ちをする。かかる処理を20回くらい繰返すのである が,5〜12回くらい灰汁処理を行なったもの力:,箔打紙(おもがみ)として最も適した条件を備え ており箔がよく延びる。この主紙作りには6ヶ月ばかりも費しているところがある。
箔打紙を灰汁処理,乾燥,空打ちをするのは,紙の密度を高め,平滑で潤滑性があり,靭〈て伸 縮能力を増進させるにある。和紙は繊維方向(縦方向)と横方向では弾性率が異なり,縦方向の弾 性率は横方向のそれに比べて大きい。故に歪は横方向の弾性率に支配的で紙を縦方向のみに揃えて 槌打ちをすれば,箔は横方向のみにどんどん延びる。紙を縦横交互に重ねて打てば上下,左右に平 均して延びる。このことは紙の繊維の方向性の大きいものほど,箔の展延速度が大となることを意
味する。
現代,金属は殆んど面心立方格子(f.c.c)か,体心立方格子(b.c.c)あるいは最密六方格子(c.
p.h)の何れかに属し,f.c.c結晶系に属する金属は,すべり易い面,すべり易い方向を最も多く有 するので,塑性変形が最も容易であることが知られている。金,銀,銅,アルミニウムなど何れも f.c.c系金属である。しかし,金属は塑性変形を受けると,次第に転位や歪が内部に蓄えられて加 工硬化を起し,極端な場合には破壊に繋がることも又常識である。金属の転位や歪を解放させ,破 壊しないようにするためには焼鈍が必要となる。焼鈍は,その金属のm.p.,純度,加工度によって 異なるが再結晶温度が問題になる。槌打ち作業中パックの温度は可成り高温になり,2回の火の間 作業が行われるが,この間に焼鈍効果が現われて来ているように思われるが,完全か否かは疑わしい。
又,同じf.cc系金属であってもslipに要する臨界剪断応力は金属の種類によって異なり,金や銀 や銅を合金するのは臨界剪断応力を低下するためではないかと想像される。その他電顕像,電子回 析のパターンから想像されることは,f、c、c系金属は最終的には{111}面,<111>方向に並ぶ 筈であるから,まだまだ延びる可能性があると考えられる。
以上,まだまだ不明な点が多く,ようやくその氷山の一角を見出したに過ぎないが,科学も理論 も知らなかった先人がこのように非常に複雑な工程を経て,機械も介入し得ないほど高度の技術を 打ち樹てたということは唯々驚きの外はない。そして,著者は,この金箔を見る度に,人間の技術 の素晴らしさ,人智の極致を見る思いがするのである。著者は屡々かかる職人の方々に接する機会 があるが,何時も「どうか,この技術を永久に保存して行って頂きたい」とお願いするのである。
北陸地方の河川生物群集の特長
大 串 龍 一
筆者は1975年から北陸と〈に石川県の河川の底生動物の調査を行なってきた。この調査はとくに 上・中流域の底生昆虫を中心におこなわれたが,その結果をわが国の他の地方の河川底生昆虫群集
とくらべて,かなりちがった特長が見られたので,その特長の中から2つの点をとりあげてここに のべることとする。この特長はそれぞれ加賀地域と能登地域でとくに明らかに見出される。
1)ヒケナガカワトビケラの分布にみられる能登地域の特異性
ヒケナガカワトピケラ科Stenopsychidaeの幼虫は,日本全国の河川の上・中流域にひろく分布 する。この幼虫は底生昆虫の中でも大型のもののひとつであり,特長のある形態をしていて,河川 生物の研究者にはよく知られている。
石川県下における
S f e n o p s y c h
hidoe分布瓜i d o e 分
F 茸
‑ E /
煙c夛窒
採集された地臭 採集ざれ芯かつた地臭
○
一
● ン.へ'
1イ
ジワー酬
一
篭
野臥応咋芋印︿
噸
○ 採 集 さ れ た 地 点
●採集されなかった 地 点
ところが,この科の幼虫は能登半島の諸河川にはほとんど見られない。谷口および筆者は能登の 多数の河川を調査したが,町野川と富来川の一部分において少数の個体が発見されたにすぎなかっ た。一方,加賀の諸河川でも同様の調査を行なったが,その結果ではすべての河川の多くの地点で,
多数の個体が発見された。その点で加賀地域は日本の他の地域とほぼ同様であるのに,能登地域の 分 布 の 空 白 が 目 立 っ て い る 。