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R. シュタイナーの 「 教 育芸術」論

‑ ヴ ァル ドル フ教 育 学 の基 礎 的考 察 ‑

土 屋 文 明

は じめ に

私 は先 の論文「自由ヴァル ドル フ学校 の学校建築 ( 1 ) 」 ( 1 ) で,次 の ように書 い た。

「シュタイナーによれば, 成長期 の子 どものいずれの時期 にも共通 に必要 な ものは,芸術 とい うことになる

子 ども達 は,芸術 的環境 の中で生来持 っ ているメタモル フォーゼの可能性 を果たす ことがで きる。 そ して総合芸術

として建築が位置づ けられ るので ある

それ は,総合芸術 としての建築, す なわ ち有機 的 な建築 は,生命 を持 って子 ども達 に語 りか け るか らで あ る

」 ( 「 学校建築」 ,2 5 1 ) ( 括弧内前者 は引用文献 の略,後 ろの数字 は頁数, 以下同様)

シュタイナー は,芸術 をどの ように捉 えているのだ ろうか。 この ことを明 らか にす ることは,上 の引用文 の意味す る ところを深 く捉 えることにつなが る。「 語 りか ける」の中身が よ り見 えて くることにな る

シュタイナー に とっ て芸術 は, その哲学の構築 のた めに不可欠の要素の一つで あることは間違 い ない。 そ して彼 の芸術論 は, その教育思想 を読 み解 く際 にまず初 めに取 り掛 か らなけれ ばな らないテーマの一 つで ある。シュタイナー 自身 は,「 教育芸術

(1 )引用文献 1

(2)

Er z i e hu n gs ku ns t 」とか教育 の芸術的形成 とい う表現 をす る

シュタイナー も ヴ ァル ドル フの教育関係者 も,教育 の芸術的形成,教育芸術 をめざしている ことか らも, ヴ ァル ドル フにお ける芸術 の持 つ意味 の重要性 を推測す ること がで きる。 シュタイナーのい う 「 教育芸術」とは どの ような意味であろうか。

本稿 で は,主 にゲーテ及 びシラーの芸術 に対 す るシュタイナーの研究 に焦点 をあてなが ら, この間題 を考 えてい くことにす る

1 ゲ ー テの 自然 科 学研 究 と芸術 活 動

芸術 に関 しては,シュタイナー はゲーテか らそのエ ッセ ンスを学 んでいる。

シュタイ ナーは ,1 8 8 8 年 1 1 月 ウィー ンのゲーテ協 会 で の講 演 の た めの レ ジュメ 「 美学 の父 としてのゲーテ」の中で,ゲーテの芸術 の特性 を述べ なが ら,ゲーテ こそまさに真 の芸術家であ り,芸術 の追究者であった と評価 して い る。

この中で シュタイナー は,美学 を芸術科学 として意味づ け,芸術科学 とし ての美学 は ,1 8 世紀 になって ようや くその萌芽が生 まれた と主張す る

そ も そ も古代 ギ リシア時代, それ に続 くキ リス ト教が支配的だ った中世 において は,芸術 が真 の科学,美学 には成 り得 なかった と断ず る。粗 い捉 え方である ように思われ るが, ここはシュタイナーの芸術観 をみてい くコンテクス トに おいて触れ なけれ ばな らない ところで ある。

「ギ リシア精神 は,‑‑極 めて高い芸術 の時代 を生 み出 した。しか しそれ は, 別 の方面 か らは得 られ ない ような満足 を提供 す る ような世界 を,芸術 に

よって創造 しようとい う欲求 を持 って とい うわ けではな く,純粋 な素朴 さ において行 われた ものであった。ギ リシア人 は,彼 が求 めるすべての もの を現実の中に兄 いだ した。す なわち彼 の心が熱望 し, その精神が渇望 した すべての ものを, 自然が十分 に提供 した。‑‑・ そ うい うわ けで, この素朴

●●●●

な民族 にお ける芸術 は, 自然 の内側 での生活や行動 を拡張す る ものだ けか

ら構成 され, 自然 か ら直接生 まれた

」 ( 傍点部原文 イタ リック体,以下同

(3)

R.シュタイナーの 「 教育芸術」論 ‑ ヴ ァ) I ,ドルフ教育学 の基礎的考察 ‑ 1 4 3

樵) ( As t he t i k,1 2 ‑ 1 3 )

引用文 には, ギ リシア時代 にお ける自然 と人間 との関係性 に対す るシュタ イナーの捉 え方が表現 されている。すなわち人間 は自然 の中に内包 された存 在 であ り,人間 は自然 の内部 か ら外部 に出 ることはなかった。自然 と人間 は,

いわ ば一体化 していた

ギ リシア人 に とって, 自然 の中 にあ らゆる満足 の源 泉があったので あ り, 自然 を越 えて, 自然 の外 に出て,獲得 した り到達す る 必要性 はなかった。 この ように自然 と精神が不可分 の一体 として体験 されて いた時代 においては,芸術 において も, 自然 のあるが ままを受 け入れ る とい う意味での単純 な模倣以外 の芸術活動 は生 まれ得 なかった。人 間 自 らと自然 は一体化 してお り, 自然 を客体 としてみる見方がなかったか らである

シュタイナー によれ ば, 自然 と一体化 した人間が精神 的 にさ らに高 い次元

‑ と成長 す るためには,人間が 「自我 e i ge ne sSe l bs t 」に目覚 める必要が あっ た。人間 は自我 に目覚 めた瞬間, その内面 の世界 と同等 の世界 が外側 に もあ る ことに気づ く。 ここにおいて,人間 と自然 との緊密 な関係 はな くな り,人 間 は自然か ら解放 され る。

シュタイナー は次の ように続 ける

●●

「 今や人間 は,自然 によって思いの ままに支配 され,自然が人 間の欲求 を引 き起 こし,再 び満足 させたか らといって, 自然 に完全 に身 をゆだね ること はで きなかった。今や人間 は, 自然 と立 ち向かわなけれ ばな らな くな り, そ してそれによって人間 は, 自然か ら事実上離れ, 自 らの内面 に新 しい世

●●●●●●●

界 を作 り上 げた。今や人間の渇望 は この新 しい世界か ら流れ出て,人間の

●●●●●●●

希望 は この新 しい世界 か ら生 まれ る 。 」( As t he t i k , 1 4 )

人間 は, 自然か ら解放 され ることによって,確 か に新 しい世界 と可能性 を

得 ることになる。 しか し,人間が外 的 自然 か ら自立 したか らといって, それ

によって人間の精神 や芸術 のあ り方が必ず しも発展する とは限 らない。 シュ

(4)

タイナ一 によれ ば,古代 ギ リシア時代 に続 くキ リス ト教 の支配 した中世 にお いて も,精神 と自然 との関係性 に,大 きな進歩が起 こらなか った。

中世 のキ リス ト教 的世界観 において は,神 の存在 が新 た に生 まれた。 しか も自然 と人 間の上 に位置 し,両者 を支配す る もの としての神 で ある。す なわ ち ここで は,神 と自然,そ して人 間が分 け られた存在,神 と自然,神 と人 間, そ して 自然 と人 間が ともに対立 した関係 として捉 え られ てい る

こうした世 界観 が, 自然科学 の進歩 の足伽 になった ことは,科学史 が我 々 に教 える とこ

ろで ある。 シュタイナー も次 の ように述べ てい る。

「 有機 的 な ものの法則 を対象の本性 の内に求 めず,造物 主が それ を形成 す る ときに従 った思考 の内に求 める ことによって,人 は説 明の可能性 を全 く断 ち切 って しまった

」 ( 「 認識論要綱」,96)

キ リス ト教 的世界観 の内側 で 自然 をみ る限 り, 自然 は,限定 され固定 され た姿 しか表 さない。 しか もそれ は, ドグマ的 な自然観 で ある。 ゲーテ に とっ ての 自然 は,動 的で生 きた 自然,創造 的で絶 えず変化す る自然 である

した が って, ゲーテ に とって精神 と自然 との関係 は, ここにおいてむ しろ後退 し た。ゲーテの 自然観 の もとにお ける芸術 もまた, キ リス ト教的世界観 と無縁 の もので な けれ ばな らなか った。 だか らシュタイナー は こうい う。

「 人 間精神 と自然が緊密 に結 びついている時代 には, 芸術科学 は成立 す るこ とはで きなか った。 しか しそれ は,精神 と自然 が和解 で きない もの として 対 立 した 時 代 で あって も成 立 す る こ とは で き な か った

」( As t he t i k ,

1 5 ‑ 1 6 )

上 の引用文 に続 いて次の よ うにい う

「 美学 の成立 のた めには,人 間が 自然 の足伽 か ら独立 して 自由で あ り,純粋

(5)

R.シュタイナーの 「 教育芸術」論 ‑ ヴ ァル ドル フ教育学 の基礎的考察 ‑ 145

な明噺 さで もってその精神 を認 め るような時代, しか しまた再 び自然 と融 合す ることもで きるような時代 を必要 とした

」( As t h e t i k,1 6 )

引用文 の前半 の意味す る ところは,これ までの記述 で明 らかである。「しか し」以降 は, どうい うことで あろうか。

キ リス ト教的中世 の神が絶対的権威 を持 ち, あ らゆるものを支配 していた 時代 を経 て ,1 7 世紀 に入 りケプラー,ガ リレオな どによる近代 自然科学の始 ま りによって,人 間精神 が神 の呪縛か ら解放 された とき,芸術科学 も成立 し, 発展 す るはずであった。 しか し, そ うはな らなか った。 シュタイナー はその

ように判 断 している。 この ような判 断 は,数学的 自然科学や技術至上主義 の 台頭 に対 す る批判 か ら生 まれ るた もの と思われ る

この ように判断す るシュ タイナーの念頭 には, よ り具体 的には,明 らかにゲーテ とニ ュー トン との間 の論争が ある

シュタイナーがゲーテの色彩論 の方 を選択 した ことは,周知 の通 りである。

「ゲーテは,現実 と無関係 な抽象的な思考 の世界 を創造 す るた めに現実か ら 逃走 した りはしない。ゲーテは現実 の永遠 の変化,現実の生成 と動 き, そ の普遍的な法則 を発見す るために,現実の中に没頭す る

」( As t he t i k,1 7 )

ニ ュー トンの研究対象 は実験 によ り得 られ る数値 であ り, それによって得 られた もの も数値 とい う抽象物 であった。 それ に対 してゲーテは, 自然現象 に対 して身 をゆだね体験 し,「 色彩環」を得た。ニ ュー トンは自然 その ものか ら離 れ るの に対 して,ゲーテは自然 の中に入 り込 む。ゲーテが「 永遠 に変化」

「 生成」す る 「 現実の中 に没頭す る」自然研究 のあ り方 は, まさに 「自然 と融

合す る」 ことである。 シュタイナーは, この ようなゲーテの自然研究 のあ り

方か ら,芸術 の本質 を学ぶ。 シュタイナー は上の引用文 に続 いて次の ように

い う

彼 の芸術論 につなが る部分であ る

(6)

「 ゲーテは個 の中 に原型 を兄 いだす た めに個 と対 時す る。 この ように して ゲーテの精神 の中 に,動物 と植物 のイデーであ る ところの原植物,原動物 が生 まれた。 これ らは, はっ き りしない理論 に属す るような空虚 な一般 的 概 念 で はない,豊 かで具体 的で生 き生 き として直観的 な内容 を持 つ有機体

の本質 的 な基礎 であ る

」( As t he t i k,1 7 ‑ 1 8 )

引用文 にある 「 個」 は, 自然 の中 にあ り生命 を持 った具体 的 な個 とい うこ とで ある。ゲーテ は この ような個 に対 して身 を委 ね るが, それ によって現実 の個 の中 にあるイデー を発見 す る。 このイデー は, 自然 の中に生起 す る具体 的個 の段階 で満足 した り,ニ ュー トンの ように数 的 自然法則 に満足 す る限 り 得 ることはで きない。数的 自然法則 は,実験 による計量 的数値 を研究対 象 と してお り,既 に 自然か ら離れ てい る

これ らは, ゲーテのめざす もので はあ り得 ない。またイデー は,生 きた具体 的 な自然 の中 に存在 す るが,それ は「よ り高次の 自然 」( As t he t i k,1 9 ) であ り,人 間精神 が具体 的現実 の個 へ と深 く 入 り込 む ことに よって初 めて得 られ る もので ある

シュタイナー は; ゲーテ の この ようなイデー追究 のあ り方 を「 追創造 」( As t he t i k,1 8 ) と呼 んでい る

シュタイナー に よれ ば, この 「 追創造」 こそ芸術 に課 された課題 で あ る

芸術 の課題 を最 も抽象度 の高 い表現 で言 い表す な らば,以下 の ようにな ろ う

ゲーテ に とって人 間 は自然 の中 に包摂 され る存在 で ある

芸術 は,人 間 が創造 す る もので ある とす るな ら,芸術 も自然 とい う大 きな枠 の中に包 み込 まれ る ものであ る

ところでゲーテ に とって 自然 は神 その ものである

ゲー テの 自然研究 は, 神 の啓示す る言葉 を解読 す る ことにはかな らなか った 。( 「 学 校建築」,245) シュタイナー は,ゲーテの このような自然観 をその まま継承

し,芸術 の課題 について次の ようにい う

「自然 の事物 に欠 けてい る神性 を人 間 自 らが 自然 の事物 に移植 しな けれ ば

な らない。そ して ここに こそ,芸術家 が担 う高次の課題 が ある。芸術家 は,

いわ ば神 の領域 を この地上 に もた らさな けれ ばな らない

」( As t he t i k,2 0 )

(7)

R.シュタイナーの 「 教育芸術」論‑ ヴァルドルフ教育学の基礎的考察‑ 147 自然 と人間 との包摂 関係 をゲーテの ように捉 える限 り, 自然,神 そ して人 間 は互 い に自然 の中に とけあってい る。キ リス ト教 的世界観 にお けるよ うに, 神 が 自然 や人 間 を支配 す る関係 で はない。 しか し自然 は,表 に現れ る現象や 事 実 として これ らを提示 してい るわ けで はない。 自然 に内包 され る神 は,人 間 によって読 み とられ な けれ ばな らない。 これが 「 追創造」 とい うことで あ

そ もそ も芸術 が必要 とされ る理 由 を, シュタイナー は次の ようにい う

「 単 な る経験 は,確 か に現実 を有 す るが イデー を未 だ持 た ないた めに,両者

●●●

の融和 をはか る ことがで きない。 その一 方で学 問 は,確 か にイデー を有 す

●●● ●●●●

るが もはや現実 を持 たないために, この ような対立 の融和 に至 る ことがで きない。人 間 は単 な る経験 と学問 との間 に,新 しい領域 を必要 としてい る。

‑‑す なわち個 が,既 にその中 に普遍性 や必然性 とい った特質 を内在 して

●●●●●●●

現れ るような領域 を,人間 は必要 としてい る

しか しこの ような世界 は, 現実 には前 もって存在せず,人 間 自 らが初 めて創造 しなけれ ばな らない。

この ような世界が,感覚 と理性 と並 んで不可欠 の第 3 の領域 であ る芸術 で ある

」( As t he t i k,2 0 )

引用文 で は,現実 とイデー との対立,す なわち 自然 と人間精神 との対立 の 橋 渡 しを,まさに芸術 が行 うことが出来 る,と述 べ られてい る。シュタイナー に よれ ば, 自然 の中 には 「よ り高次 の 自然」 あるい はイデーが存在 す る

そ れ は,言葉 を換 えれ ば,「 普遍性 や必然性 とい った特質」であ る

こうした も の は, 自然 に内在 す る もので あ るが, それ は人間が 「自然 と融合 す る」 こと に よって初 めて獲得で きるものであ る

ゲーテ以外 の科学 は, 自然 か ら遊離 す るので,現実 とイデーが離 れた ままで あ る

これ に対 してゲーテ は, 自然 との融合 によって植物界 において 「 原植物」を,動物界 において は 「 原動物」

をすなわ ち 「 原型」を発見 した。 自然 の中にあ る 「よ り高次の 自然」は,ゲー

テ に とって 「 原動物

で あ り 「原植物」で あ り 「 色彩環」で あった。 これ ら

(8)

は,現実 とイデー とが融合 した ものである

この ように捉 える とゲーテの 自然科学研究 のあ り方が,芸術 の創造 につな が るものであることが見 えて くる

2 自然 の イ デ ー と芸 術 作 品

ゲーテの自然科学研究 の課題 と方法 は, そしてその芸術論 において も自然 の中に内包す るイデー を発見 す ることであった。で は, それ は どの ようにし て可能で あろうか。 そ して芸術 は, 自然科学研究 とどの ように異 なるのだ ろ う。芸術作 品 と自然 との関係,芸術活動 と自然科学研究 との関係 を次 に見て い こう

前節 によれば,美学が成立す るためには自然 と人 間精神 との対立関係が と かれ るまで得たね ばな らなか った。 そ してゲーテの出現 によって初 めて芸術 科学,美学 の道が開かれた, シュタイナー はその ようにい う

ゲーテが芸術作 品,美 について重大 な発見 をしたのは, イタ リアにおいて であった。

「プラ トンが イデーの世界 の中 に兄 いだせ る と信 じた もの,哲学者 た ちが ゲーテに納得 させ ることので きなか った もの, それ をゲーテはイタ リアの 芸術作品 に兄 いだす。 イタ リア芸術 には,ゲーテに とって認識 の基礎 とみ なす ことがで きるものが,初 めて完全 な形態で現 れ る

ゲーテは, イタ リ ア芸術 品の中に一種 の 自然作用 と, 自然作用の高次の段 階 を兄 いだす。芸 術 の創造 は, ゲーテ に とって昇華 され た 自然 の創 造 で あ る

」 ( Wel t ans ‑ c ha uung,4 8 )

内面的 に自然 と一体感 を求 め, 自然 の中に生 きているイデー を捜 し求 める

ゲーテに とって, イデー と経験 とを分離す るプラ トン哲学 は,受 け入れ られ

るもので はなかった。 しか し,以前か らあった 自 らの確信 を実際 に視覚 とい

う感覚器官で確か める ことがで きたの はイタ リア旅行 においてであった。引

(9)

R.シュタイナーの 「 教育芸術」論 ‑ ヴ ァ) I ,ドル フ教育学 の基礎的考察 ‑ 149

用文で は, 自然 と芸術作 品 との関係 が書 かれてい る

そ して同時 に芸術家 の 活動 の中身 も示唆 されてい る

シュタイナー は,芸術家 の仕事 について更 に 次 の ように書 いてい る

「自然物 において はただイデー的 に過 ぎず, 観察者 の魂 の 目に対 して明 らか になる ものが,芸術作 品の中で は リアル な もの とな り,感覚 で知覚 で きる 現実 とな る。芸術家 は, イデー を現実化 す る

」 ( We l t ans c hauung,5 0 )

イデー は,ゲーテに とってプラ トンの ご とく自然 か ら離 れて思考 のなか に 存在 す る もので はな く, 自然 の中 に生 きて, しか も感覚器官で知覚 で きる も のであった。 だか らこそゲーテは, シラーの前 で 「 原植物」 の絵 を措 いて見 せ ることがで きたので ある。 しか し, 自然 に内包 す るイデー は, その ままで 誰 によって も認識 され る とい うわ けで はない。 自然物 において は, イデー は 外部 には見 えず,特別 な魂 の 冒 ( 芸術家 の 冒) によって初 めて認識 され る。

これ に対 して,芸術家 の創造 す る芸術作 品 は, その作品 の内面 にある もの は 全 て外的 な もの として表現 され る

芸術家 の捉 えたイデー は,誰 の 目に も見

える具体物 として示 され なけれ ばな らない。但 し,芸術家 は これ を悪意的 に 行 うことはで きない。

「 ‑‑ ‑芸術作 品 は完壁 な もので あれ ばあるほ ど,それだ け一層 自然物 の中に 含 まれ るの と同 じ法則性 が その中 に表現 され る

‑‑芸術 的創造能力 もま

た, 自然 認 識 能 力 と本 質 的 に 区 別 す る こ と は で き な い。 」( We l t ans ‑ c hauung , 4 9 )

シュタイナーのゲーテ理解 は,ゲーテの芸術 的創造 と自然科学研究が一 つ

の精神 の中で統一 されてい る とい うもので ある

芸術 と学問 を分 ける考 え方

は,古今東西一般 的 に行 われてい る

例 えば,芸術 は個人 的主観 的創造性 に

よって創 られ る ものであ り,学 問 はで きるだ け主観 を排除 し,客観 的 データ

(10)

の分析 の積 み重ね によって成立 す る もので ある,とい う言 い方 な どに表れ る。

しか し,ゲーテ もシュタイナー もこの ような二元論 的立場 に立 たない。芸術 も学 問 も, その依拠 すべ きもの は,絶対普遍 の 自然 の法則性 にあ る とい う点 で は共通 してい る。 しか も両者 は,相補 うもの と考 え られ てい る。

「‑‑芸術 は,認識 に支 え られ る。認識 は,この世界 が従 っている秩 序 を思 索 によって模倣 す る課題 を持 つ。芸術 は,世界全体 について思索 に よって 得 られた秩序 のイデー を詳細 に完成 させ る とい う課題 を有す る。 芸術家 は, 世界 の法則性 に関 して獲得可能 なすべて を, 自分 の作 品 にす る。 ‑‑・ ここ

に こそ, ゲーテ的 な芸術 の傾 向が学 問 に よって補 われ るべ き根拠が ある。」

( Sc hr i f t e n,1 3 9 )

「ゲーテ的 な芸術 の傾 向」とは,ゲーテ芸術 が, 自然 の中 にある 「イデー を 現実化 す る」課題 を担 ってい る とい うことで ある。 ところで 自然 の中 に兄 い だ さなけれ ばな らないイデー は,人 間 の窓意 や思 い付 きで得 られ る もので は ない。引用文 にあ るように,芸術 は学 問 と同 じように自然 の法則性 に従 って 成立 す る もので あ る。 それ ゆえ,ゲーテ芸術 において は,芸術家 は自然科学 者 と同 じように思索す ることが必要で ある

その意味で は,芸術 と学問 は自 然 に対 す るアプローチの仕方 は軌 を同 じ くす る

但 しその際,ニ ュー トンの ように自然 を自分 と切 り離 してみ るので はな く, 自然 に内包す る 「イデーが

●●●

自 らの内面 で生 き,活動 す るの を感 じ」, 「自分 と自然 とを一 つの全体 と見 な す 」 ( We l t ans c hauung,5 5 ) ような思索 のあ り方が行 われ る

これがゲーテ の 自然科学 の特性 で ある

す なわ ち, ここで は 「 対 象的思惟」が行 われ る。

「 対象的思惟」は, ゲーテが 自分 の 自然研究 の あ り方 を人 か ら指摘 されて, そ れ に対 して 自 らも納得 してつ けた名称 である

「 対 象的思惟」につ いてゲーテ は,次 の ように書 いてい る

「 私 の思考が対象か ら分離せず,対 象の諸 要素,つ ま り直観 された ことが ら

(11)

R.シュタイナーの 「 教育芸術」論 ‑ ヴ ァル ドル フ教育学 の基礎 的考察 ‑ 151

が私 の思考 の中に入 り込 み, これ によって緊密 に浸透 され,私の直観 自体 が一 つの思考,また私 の思考が一 つの直観である とい うこと‑

‑ 。

」( 「 適切 な一語 」 , 16)

この ような意味での 「 対象的思惟」が なされ る時 には,人間の内面で主観 的な ものに見 えた ものが,人間 に とって同時 に客観的 な もの と見 な され る

「‑‑客観 的なイデーの世界が主観 の中で よみが え り,自然 それ 自体 の中で 活動す るものが人間精神 の中で生命 を持 つ とき,主観 と客観 が出会 う。 そ の ような場合 には,主観 と客観 とのあ らゆる対立 は終結す る

」( Wel t ans ‑ c hauung ,55)

この ように 「 対象的思惟」 においては,主観 と客観が同一化 し,精神 の客 観性が完全 に満 た された状態 にな るO これがゲーテのい う学 問の機能 である が, これ によって得 られ るのがイデーで あ り, そのイデー を具体的 な形 にす るのが芸術 である。だか らシュタイナー は,ゲーテの芸術 について次の よう に もい う

「 哲学者 は,思索 によ り自然が どの ように表れ るか を示す。芸術家 は,自然 がその作用力 を単 に思惟 に対 してだ けでな く,知覚 に対 して もはっき りと

もた らす とした ら, それが どの ように表 れ るか とい うことを示す。哲学者 が思想 の形式で芸術家が形象の形式で表 す ものは, 全 く同一 の真理である

両者 は,その表現手段 によって相違す るにす ぎない

」( We l t ans c hauung , 5 0‑ 51 )

ゲーテにおいては,学問 と芸術 は自然 に向か うアプローチの仕方 も, それ

によって得 ようとす る もの も同 じもので ある

す なわちゲーテにおいて両者

は,「 対象的思惟」に よって 自然 に内包す る原現象 を認識 しようとす る。 その

(12)

際学 問 も芸術 も, 同 じ自然法則 に従 って創造 され る

したが って芸術 は,芸 術家 の個人 的,悪意 的活動 で はない。芸術 は,あ くまで ある法則性 に則 った, 学問 と同 じ真理 を表現す るものである

ゲーテ は この ことを次の ように表現

している。

「 芸術家 に向 け られ る最高 の要求 は,いつの場合 も変 わ らず,自然 に依存 し, 自然 を研 究 し, 自然 を模倣 し, 自然 の現象 に似 た もの を創造せ よ とい うこ

とである

」 ( 「 芸術論」,1 32)

ところで,芸術 は, 自然 の中 に内包 され る原現象 を目で見 る ことので きる 具体 的な形 で示す のであ るか ら,自然物 と芸術作 品 は同 じもので はない。「 芸 術 の創造 は, ゲーテに とって昇華 された 自然 の創造 で\ ある。」とあった。人 間 が創造 す る芸術作 品 と自然物 とは どの ように違 うものであ ろうか。そ して「 昇 華 された 自然 の創造」 とは どの ような内容 を持 つ ものだ ろ うか。 ゲーテ は自 然 と芸術活動 について次 の ように述べ てい る

「自然 とい うもの は, しば しば及 びがたい ような魅力 を発揮 す る ものだ よ

けれ ども, 自然 は どんな表れ方 を しようと美 しい, とまで は私 も考 えてい る訳 で はないの さ。自然 の意 図 とい うもの は,た しか にいつ も善 なのだが, その意図 をた えず完壁 に実現 させ るの に必要 な条件 とい うのは,必ず しも そ うとはい えないのだ よ

」 ( 「 対話」 ,1 30)

自然 の中には,ゲーテのい うイデー,原現象が内包 されている。 自然 は全

体 として は,完壁 な もので ある。 しか し, 自然 の中 にある個 々の ものがすべ

て完全 な形 で実現 されてい るわ けで はない。したが って,自然 の中 にある個 々

の もの をその まま模倣す る ことが,必 ず しも理想 的 な芸術作 品 になる とは限

らない。 そ こで人 間精神が, 自然 において実現 で きていないイデー を完成 さ

せ る ことも必要 となって くる。ここに芸術 にお ける創造性 が ある。芸術 家 は,

(13)

R.シュタイナーの 「 教育芸術」論‑ ヴァ) I ,ドルフ教育学の基礎的考察‑ 153 現実 の 自然 の中 に示 されてい る以上 のイデー,原現象 を示 さなけれ ばな らな

い。だか らゲーテは,次 の ように続 ける。

「 芸術家が,・ ‑‑忠実かつ敬度 に,自然 をその隅々 まで模倣 しな けれ ばな ら ない ことは もちろんだ よ

動物 を措 くに して も, ‑‑‑本来 の特徴 をそ こな うことは,ぜ った いに許 され ない ことだ。 なぜ な ら, それ は, とりもなお きず 自然 を破壊 す ることだか らだ。 けれ ども,一段 と高い域 に達 した芸術 家 は,一枚 の絵 をほん とうの絵 にす る ことを心得 ているか ら, もっ と自由

に描 くことがで きる

こうなれ ば, ‑・ ‑虚構 の世界 へ足 を踏 み入 れて もか まわ ないのだ

」 ( 「 対話 」 ,1 3 7)

シュタイナーが次 の ようにい うの も, ゲーテ と同主 旨の発言で あ る。

「 芸術家が我々 の前 に提示 す る事物 は,それが 自然 の中にあ る状 態 よ りもよ り完成 されてい る

しか しその事物 は, それ 自体 の持 つ完全性 をになって い る

事物 が それ 自体 を越 える ところに, しか し事物 の中 に既 に潜在 して

い る もの を基礎 にす る形 でのみ,美が存在 す る

この美 は, それ ゆえ自然 に反す る もので はない

」( As t he t i k,3 2 )

この ようにみて くる と,芸術作品,美 は, 自然法則 が その基礎 にある とは い え, あ る意味 で は現実 にはない もので あ り, 自然 の中 には完全 な形 で は存 在 しない もので ある

そ して芸術 は, 自然 が そ うで あ ろうとし, そ うで あ る

こ とので きない もの を表現 す るもの,とい うこともで きる

これが,「 芸術 の 創造」の意味で あ る。 この考 え方 には, ギ リシア時代 の単 なる 「自然 の模倣」

としての芸術 か らの一 つの飛躍がみ られ る

しか も, あ くまで人 間 と自然 と

の包摂関係,信頼 関係 は,保 たれた ままで ある。 ここにゲーテ芸術 の大 きな

特性 が あ る

シュタイナー は, この ようなゲーテ芸術 の飛躍 に,芸術家 の あ

るいは芸術 活動 の よ り積極 的 な価値 を兄 いだそ うとしている と,捉 えるこ と

(14)

もで きる。 そ して我々 は, その ような視点か らゲーテの芸術論 を教育 の領域 に引 き込 む手がか りを得 る。

3 芸 術 の教 育 的視 点 ‑ シ ラーの 「美 的教 育 論 」‑

ゲーテの芸術活動や, 自然科学研究 の意味 をゲーテに対 して明 らか にした のは, 自 らも芸術家 であった シラー ( Fr i e dr i c hvo nSc hi l l e r ) であった。 シ ラー は,芸術 の哲学 的思索 を通 して,芸術 の教育 的意味 を考察 してい る。シュ タイナー 自身, シラーのプラ トン主義 的傾 向や思弁 に傾倒 しす ぎる傾 向 を批 判 しなが らも, シラーの 「 美的教育論」を高 く評価 してい る

(2)

。 そ して, 自 ら の教育論 の中 に直接間接 にシラーの 「 美的教育論」 の考 え方 を取 り入れ てい る

芸術家 の主体 的創造 の問題 を解明 し,教育 的視点 にた った芸術論 を展開 し たの は, シラーで あった。 ここでい う主体 的創造が, なぜ教育 の問題 につな が るのか。 シュタイナー は,教育 とい うもの は本質 的 には 「自己教育」 にあ る と考 えてい る。 自由で 自律 した人 間が, シュタイナーが 目指す人 間像 で あ る

したが って,人間 に よる芸術 の主体 的創造 とい うこと, また芸術活動 の 教育 的働 きを論ず るシラーの 「 美的教育論」 にシュタイナーが着 目す るの も 当然 の こ ととい えよう

シラーの 「 美的教育論」 にお けるキイ概 念 として, 本節 で は 「 遊戯衝動 Spi e l t r i e b」 を とりあげる ことに しよう。

シラー は,人 間 には根源 的 に素材衝動 St of f t r i e b と形式衝動 For mt r i e b が ある といってい る

素材衝動 は,人 間 の感性 的本性 か ら生 じる衝動 であ り, 感覚や感情 が機能 し,受動的な性質 を持 つ。 これ に対 して形式衝動 は,人 間 の理性 的本性 か ら生 じる衝動 で あ り,諸現象 に法則 を与 え,能動 的 な性 質 を

(2 )シュタイナー自身は次のように書いている.「シラーの 『 美的書簡』が教育に ほんの少 ししか影響 を及ぼさないのは残念である。もしこの本の影響が もっと大 きかった ら, 教育及び授業実践 における芸術の位置づけに関 して数多 くの重要な 事柄が明 らかになっていたに違いない

」 ( 「 教育 と芸術」 ,25) なお,引用文にい

う 『 美的書簡』は,内容的には引用論文 9 のことである。

(15)

R.シュタイナーの 「 教育芸術」論 ‑ ヴ ァル ドル フ教育学 の基礎的考察 ‑ 155

持 つ。両衝動 は, どち らか一方が働 くことによって人間 に制約 を与 える

「 感性 的衝動 は,その主体 か らいっさいの自己活動 お よび 自由を排除 し,形 式衝動 は, その主体 か らいっさいの依存性,いっさいの受苦 を排除す る

しか し自由の排除 は物理的必然で あ り,受苦 の排除 は道徳上 の必然である。

したが って, これ ら 2つの衝動 は,前者 は自然法則 によって,後者 は理性 の法則 によって,人 の心 を強制す る

」( Er z i e hung , 3 5 3 )

引用文 にある感性的衝動 s i nnl i c h は,素材衝動 と同義で ある。素材衝動 は, 流れ込 む外的世界 に対 して自分 の感覚 をあけてお く欲求である。 この衝動 を 持 つ と,豊 かな内容が人 間 に迫 るが,人間 自身がその内容 の本質 に特定 の影 響 を もた らす ことはで きない。 この衝動 を持つ と, あ らゆるものが無条件 の 必然性 を持 って生 じる。 したが って,人間が認知す るものは外か ら規定 され ることにな り, ここで は自由ではな く,外的世界 の支配 を受 けてただ受動的 であるしかない。 この衝動 において人 間 は, 自然 の絶対 的な命令 にただ従わ なければな らない。

形式衝動 は,知覚内容 の混乱 したカオスに秩序 と法則 をもた らす理性であ る

この理性 の能動的な働 きによって,無秩序 な経験が体系 になる

しか し ここで も人間 は自由で はない。 なぜ な ら理性が働 く場合,理性 は論理 とい う 変更 で きない法則 に支配 されてい るか らである

ものに対す る衝動 において は, 自然 の絶対 的支酉己 下 にあるの と同 じように,形式の衝動 において は,人 間 は理性 の絶対 的支配下 に入 ることになる。

人間精神 は,感性 と理性 の どち らか を働 かせ る ことによって不 自由であ ら ざるを得 ないが,人間 にはもう 1 つの衝動が ある。 それが 「 遊戯衝動」であ る

「 ‑・ ・ ・ 一方の衝動 の活動 は他方 の衝動 の活動 を基礎づ ける と同時 に限定す

る。そ して,各 自はそれぞれ他 の ものが まさに活動 していることによって,

(16)

その最高 の機能 を発揮 す る。 ・ ‑・ ・ 人 間が これ らの二重 の経験 を同時 に した とす るな らば, すなわ ち自己の 自由を自覚 す る と同時 に, 自己の存在 を感 覚 した とす るな らば, ‑‑・ その場合 において は, また まった くその場合 に おいてのみ,人 間 は自己の人 間性 の完全 な直観 を持 つだ ろう。 ・ ・ ・ ‑感性 的 衝動 と形式衝動 が結 びついて働 いてい る ところの新 しい衝動 を ( さ しあた

● ●●●

り遊戯 衝 動 と呼 ぶ こ とを許 して頂 きた い) ・ ‑‑

」 ( 括 弧 内原文) ( Er z i e‑

hung,3 5 2‑ 35 3)

引用文 にあるように, 「 遊戯衝動」 は,素材 ・ 形式両衝動 と別 にあ る衝動 で はない。 シラー は,素材衝動 と形式衝動が 「 結 びついて働 いている」衝動 と い う言 い方 をしてい る。両衝動 は, よ くも悪 くも本来的 な,人 間 に根源 的 な

もので あ るが, これ らの衝動が 「同時」 に働 くとき, その時が 「 遊戯衝動」

が機能 す る ときで もあ るが, この時人 間 は,初 めて全体 として完全 な人 間 に な る, シラー は引用文 で その ようにい う

なぜ な らこの時人 間 は,感覚 的な 受動 的存在 であ るに も拘 わ らず 「自由 を自覚」 し,理性 的で諸現象の法則 を 創造 す る能動的な存在 で あるに も拘 わ らず, 自然 の中にいる自分 を感性 的 に 実感 で きるか らで ある。 したが って シラー は,感覚 が その受動性 に支配 され た り,理性 が その能動性 に支配 された りしていない状態 を 「 遊戯

と呼 んで い るのであ る。

シュタイナー は,上 の ようなシラーの 「 遊戯衝動」 を自 らの教育論 に引 き 入れ て理解 してい る

シュタイナー は, シラーのい う 「 遊戯」 か ら,子 ども の 「 遊 び」 を類推 してい る

「 子 どもの遊 びの本質 は どこにあ るだ ろ うか。現実 にあ る ものが取 り上 げ ら

れ,現実 との関 わ りの中で それ は任意 の仕方で変化 させ られ る

遊 びの場

合 この ような現実 の変形 に際 して は,例 えば,理性 の法則 に厳密 に従 わ な

けれ ばな らない機械 を製作 す る ときの ように,論理 的必然性 の法則 は決定

的 な もので はな く,法則 は もっぱ ら主観 的 な欲求 に仕 えさせ られ る。遊 ぶ

(17)

R.シュタイナーの 「 教育芸術」論 ‑ ヴ ァル ドル フ教育学 の基礎的考察 ‑ 15 7

着 は,楽 し く遊 べ るように事物 を持 ち出 し,いかなる強制 も受 けない。彼 は自然 の必然性 を気 にか けない。 なぜ な ら彼 は, 自分 に任 された物 を全 く 悪意的 に利用す ることによって, 自然の強制 を克服 す るか らで ある。 しか

し彼 は,理性 の必然性 にも依存 していない と感 じる

なぜな ら彼がその物

に もた らす秩序 は,彼の考案 によるものだか らである。こうして遊 ぶ者 は, 現実性 に自分の主観 を刻 み込 み,他方 この ような主観 に対 して客観的な妥

当性 を与 える

」( As t he t i k , 2 5 )

「 遊戯衝動」が素材衝動 と形式衝動 の支配か ら解放 された状態で ある と同 じ ように,子 どもの遊 びは,自然法則 か らそ して論理的法則 か らも自由である。

すなわち子 どもは,遊ぶ ことにおいて理性 と感性 の理想的 な調和統一状態 を 体験 す ることがで きる。 しか し遊 びは, もちろん手段 ではない。子 どもが 自 己成長す るためのいわ ばェネルギーである

子 どもの遊 びの 目的 は, あ くま で遊 ぶ ことその ものにあるので ある

さて, この ような 「 遊戯衝動」 を可能 にす るのは, シラーによれ ば芸術活 動,美であ る

「‑‑・ 美 は,互 いに対立 してお り,決 して 1 つになることので きない 2 つの 状態 を相互 に結 びつ ける。‑‑第 2 に美 は, この ような 2 つの相反す る状

●●●●

態 を結びつ け, それゆえ両者 の対立 をよ り高い次元で解消す る 。 」( Er z i e ‑ hung , 36 5 )

美 は,素材衝動 と形式衝動 を「 高 い次元 で」 統一す るものである, とシラー はい う

そ してその理 由 を次の ように説明す る

●●

「‑‑美 は,確 か に我 々 に とっての対象である。とい うのは,反省 は我々が

●●●●●

美 の感覚 を持つ ことの条件 だか らである。 しか し同時 に美 は,我々の主観

●●●

の状態で ある。 とい うのは,感情 は我々が美の表象 を持 つ ことの条件 だか

(18)

らで あ る。 それ ゆえ美 は,我 々が それ を観照す る とい うことか ら,確 か に 形式で はあるが,我 々が それ を感ず る とい うこ とか ら,同時 に生命 であ る。

一言で言 えば,美 は我々 の状態 であ る と同時 に我 々の行動で あ る

」( Er z i e ‑ hung,39 3 )

美 は,形式衝動が働 くとき,人 間 の対 象 とな る。 この ような活動 をシラー は, 「 反省

「 観照」 といってい る

反省 や観照 に よって,美 の法則性 が獲得 され る

そ して美 は,素材衝動が働 くときは, まさに人 間 によって感 じられ てい る 「 状 態」 である

この とき人 間 は美 と一体化 している。 すなわ ち美 を 体験 してい る人 間 は, ゲーテのい う 「 対象的思惟」が実現 されてい る状態, 感性 と理性 が どち らも有効 に働 き, しか も両者 が調和 してい る状態 にある

こうして美 において,素材衝動 と形式衝動 とい う人 間 に とって本質的で はあ るが,互 い に相入れ ない 2 つの衝動が高 い次元 で統一 され る,これが,シラー の美 の理解 であ る

シュタイナー は,ゲーテの芸術論 には見 られない, しか しゲーテが体現 し ていた芸術 に対 す る教育 的視 点 をシラーか ら読 み取 ってい る ことは明 らかで あ る。 シラーのい う 「 遊戯衝動」 によって, シュタイナー は,芸術 を教育論 に組 み入 れ る視点 を得 たので あ る。

4 教 育 と芸 術 ‑ 「 教 育 芸術 」‑

これ までゲーテ及 び シラーの芸術論 に対 す るシュタイナー理解 の大枠 をみ て きた. シュタイナーの芸術論 が, ヴ ァル ドル フ学校 において どの ように受 け継 がれ てい るか を明 らか にす るた めには, その教育計画や教育 内容 を詳 し

く検 討す る作業が必要 であ る。 この課題 は,稿 を改 めて行 わな けれ ばな らな

い。 この節 で は 「は じめに」 で提起 した問 いに答 えてい くことに しよう。す

なわ ち, シュタイナー は,教育 と芸術 について どの ように考 えてい るのか,

また 「 教育芸術」 とはいかな る教育 の理念 を意味 す るのか を見 てい くことに

したい

(19)

R,シュタイナーの 「 教育芸術」論 ‑ ヴ ァ) I ,ドル フ教育 学 の基礎 的考察 ‑ 159

芸術 はまず,その活動性が人間理解 のあ り方 を示す。す なわち芸術活動 は, 学校 における教師 による生徒理解 の基本原理 を示す ものである。 そ して芸術 活動 は,教師の生徒 に対す る理想 的な関係性 を提供す る

芸術 の活動性 は, 素材 か らの受動性 を越 えて,主体 的な創造的活動 にその本質があることを前 節 で見 た。教師 に もこうした能力 が必要 とされ る, とシュタイナー はい う

「 人間の本質 は受動的な知識 の中で は把 え られ はしない。 我々 は人 間 につい て知識 として知 っている ことを,少 な くともある程度 まで は人間た る自分 自身が持 っている創造性 として,実感 して経験 しなけれ ばな らない。我々 はそれ を自分 自身 の意志 の中で働 いている 『 知 ろうとす る活動』 として感 じとらなけれ ばな らない

」 ( 「 教育 と芸術」 ,2 1 )

ゲーテにおいて人間 は, 自然 に内包 され るものであるか ら, ここにおいて は自然理解 イ コール人 間理解 であった。そ してその認識方法 は,「 対 象的思惟」

であった。 シュタイナーはゲーテ を基本 にす るが, この間題 を自分 な りに掘 り下 げてい る。上 の引用文 をよ りよ く理解 す るために少 しだ けこの点 に触 れ よう。 シュタイナー は,人間 を特別 な位置 においてい る

彼 は,大 き く自然 認識 と人 間認識 とに分 けて考 える。 そ して 自然 は,「 無機的 自然」と 「 有機 的 自然」 とに分 け られ る。両者 は,全 ぐ性格 を異 にす る。 「 無機的 自然」 とは,

「ある事象が他の同質の事象の結果 として常 に起 こる,この ような種類 の働 き の体系 」 ( 「 認識論要綱」 ,87)の ことで ある

無機的 自然 は,「 証明的 ( 思索 的)判断力 」 ( 「 認識論要綱」, 1 0 7 ) によって,「自然法則」 として示 され る

無機的 自然 は,外的作用が一定である と, それ によって生 じる変化 も一定で

あるとい う意味で,外的条件 に依存 す る。一方 「 有機的 自然」は, 「 受動的 に

外 か ら規定 され るのでな く,外 か らの影響 の下 に,能動的 に自らを規定 して

い くものである

」 ( 「 認識論要綱」 ,1 0 0 ) したが って,有機的 自然 を解明す る

ために,無機的 自然 と同様 にその もの を外側 か ら見 ようとして も,それ は「 能

動的 に自 らを規定す る もの」 であるか ら,見 る ことはで きない。有機 的 自然

(20)

を認識 す るためには,特別 な思考 方法 が必要 となる

それ は,「 直観 ( 観照的 判 断力) 」 ( 「 認識論要綱」 ,1 07) である。す なわ ちゲーテのい う「 対 象的思惟」

であ る

直観 によって得 られ るのは, 「 有機体 の一般 的 な像」であ り, これ を シュタイナー は 「 典型」と呼ぶが ( 「 認識論要綱」 ,1 01 ) ,ゲーテのい う Typus と同義 と捉 えて よい。

さて, 自然科学が既成 の 自然,人間 を含 まない事象 についての考察 を行 う のに対 して,人 間認識 を行 う学 問が,精神科学 で あ る

ゲーテ哲学 が あ る と すれ ば, その範境 にあるの は上 でい う有機 的 自然 までで ある

シュタイナー

は,無機 的 自然 と有機 的 自然, そ して人 間 との違 い を次 の ように表現す る。

「 無機 的 自然 は外的 な規範 に従 って他 の存在 に働 きか ける。そ して 自分 を支

●●●●●

配 してい る法則 に従 って働 いてい る

しか し人間 は この ように働 くべ きで はない。 また人 間 は,単 に一般 的な典型 の一個 としてあ るべ きで はな く, 自 らの存在,行為 の 目標 , 目的 を自 ら与 えるべ きで ある。人 間の行為が あ る法則 の結果で あ る場合, この法則 は,人間が 自分 自身 に与 えた法則 で な けれ ばな らない

」 ( 「 認識論要綱」 ,1 1 4 )

無機 的 自然 は,自然法則 に従 って作用す るか ら,外側 か らゲーテのい う「 主

体 と客体 の仲介者 としての実験」 によって得 られ る ものに基 づいて証 明的判

断 をすれ ば,認識 で きる

有機的 自然 は, 「 対象的思惟」によってその ものの

中に入 り込 む ことによって一般的 な像 で ある 「 典型」が得 られ る

「 典型」は

流動的で多種 多様 な形態 を取 る ことがで きるが,個体 はあ くまで この一般 的

な像 によって規定 されてい る

これ に対 して人 間 は, 自らが規定 す る存在 で

ある

それぞれの個体 において初 めて 自己実現 す る。法則性 と現象が分離 し

ていて,現象が法則性 に規定 されてい る こと, これが有機 的 ・無機 的 自然現

象で あ る。 これ に対 して,現象の結果 を自己 自身 によって規定す るのが人 間

である。 シュタイナー は, これが 自由の本質で あ る とい う。 したが って,人

間認識 の意味 す る ところは, 自分 自身 との対決,すなわち自己認識以外 で は

(21)

R.シュタイナーの 「 教育芸術」論 ‑ ヴァル ドル フ教育学の基礎的考察 ‑ 161

あ りえない

「‑‑・ 精神科学 は正 し く真 の意味で,自由の学である。自由 とい う概念が そ の中心 にあ り,支配 的理念でなければな らない。 シラーの美的書簡 は,美 の本質 を自由の理念 の内に見 ようとし, それが 自由 とい う原理 によって く

まな く満た されているが ゆえに,全 く気高い著作 なのである

」( 「 認識論要 綱 」 , 11 5)

シュタイナーは, この ように人間 を他 の自然現象 と区別 して, 自由の存在 として捉 える。 ここで,本節 の最初 の引用文 を理解す る前提 がで きたわ けで ある

「 人間の本質 は受動的 な知識 の中で は把 え られ は しない。 我々 は人 間 につい て知識 として知 っていることを,少な くともある程度 までは人間た る自分 自身が持 っている創造性 として,実感 して経験 しなければな らない。我 々 はそれ を自分 自身の意志の中で働 いている 『 知 ろうとす る活動』 として感 じとらなけれ ばな らない

。」

教師が生徒 の行動 を外側か ら考察 し,すなわち外 に現 れた言動 を捉 え, そ れ についての思索的判 断 によ り, その言動 の原因結果 を取 り出す るな らば, この とき教師 は,無機的 自然 のための認識 方法 を人間理解 に採用 しているこ とになる。生徒 は,単 に外的条件 に依存 し受動的であることはな く,能動 的 に自らを規定す るものであるか ら,外 か ら認識す ることはで きない。教師が, 生徒 とあ る経験 を共 にし,何 らかの内的共感 を得た ときに, その生徒 につい

ての言動 の一般 的傾 向性 を捉 えることがで きる

しか しそ うして捉 えられた

一般的傾 向性 は, そ の生徒 の言動 を本質的 に規定す る もので はないので, そ

れ を教育指導の判断材料 とす ることはで きない し,す るべ きで もない。生徒

は, もともと自由な存在 である ところの人 間だか らである。 シュタイナーに

(22)

とって教育 とは,本来的 に 「自己教育」以外 にはあ りえない とい うの は こう い う意味で ある。これが,シュタイナーの教育論 にあ る大前提 で あ る

(3)

.した が って, シュタイナー教育 で は教育方法や教育 内容 とい うよ りも,教師 と生 徒達 との関係 のあ り方が先 に問われ ることになる。

「 人間 の本質 は受動 的 な知識 の中で は把 え られ はしない。」人 間 は,無機的 自然 が 自然法則 によって,有機 的 自然 が 「 典型」 に よって行 われ るように, 規定 され る存在 で はない。人 間個 々人 は, 自由を持 った, 自 らが規定 す る存 在 で あるか ら,個人 と離 れた外側 に法則性 は存在 しない。 いかな る法則性 も 個人 に当て はめる ことはで きない。「 我 々 は人 間 について知識 として知 ってい ることを, 自分 自身が持 ってい る創造性 として,実感 して経験 しな けれ ばな らない。」いかな る法則性 も当て はま らない とした ら,教師 はその生徒 につい て知 ってい る こと, あるいはその発達段階 について知 っている ことを, その 生徒 に当て はめて見 ることはで きない。教師 は この ような知識 を, その生徒 として実感 して経験 す る とい うことが なけれ ばな らない。これがで きるのは, 教 師 が その生徒 と絶 えず新 た な直接体 験 す るた めの創 造性 を持 つ場 合 で あ

この ような創造性 は,教師が教育 を意 図 した ときには生 まれ ない。生徒 との 自然 な関わ りが生 じ,教師が 目的意識 や生徒 を教 える とい う義務意識 を 感 じることな く,生徒 との関わ りに没頭す る ときに得 られ る認識 が,生徒 と 共有 で きる生徒 についての真 の認識 で ある

この ような認識 は,生徒 の体験

を共有 す る ことに よって得 られ る もので あるか ら,結果 として 自然 な形 で, 教育 的 な働 きか けへ とな り得 る もので あ る。 この よ うな人 間認識 のあ り方 を 日常 の教育活動 の中で 自覚的 にで きるように鍛錬 す ることが,教 師 に求 め ら れ る. シュタイナー はい う。

(3 )但 し,人間は生 まれた ときか ら自己規定できる存在ではない。そこで,人間の 発達観や,学校教育や教師の役割 を論ずる余地が出て くる。シュタイナー学校の 教育実践や教師の役割は,生徒の発達段階により質の異なるものになるが,これ

については本論では触れることができない。

(23)

R シュタイナーの 「 教 育芸術 」論 ‑ ヴ ァル ドル フ教育学 の基礎 的考察 ‑ 163

●●●●

「ここで述 べ られた ことが教育者 の心 の姿勢 にな る とすれ ば,教育者 は,生 徒 の前 に生 き生 きとした活気 のあ る人 間存在 を示す こ とがで き,成長 しつ つある人 間存在 に自己発現へ の刺激 を与 えるこ とがで きるた めの前提条件

を手 に入 れ る ことになる

」 ( 「 教育 と芸術」, 2 3 )

成長 しつつあ る段 階 の生徒 の本性 は,絶 えず メタモル フォーゼす る存在 で あ る。 その ような生徒 を教師 として導 くこ とがで きるの は,教 師 自身が創造 性 を発揮 し,生徒 の前 に彼 らが共感 で きるような 「 活気 ある人 間存在 を示す こ とがで き」 る時だ けで ある。教育活動 は,生徒 を外側 か ら教 師 ( お とな) の論理 に よって作 り変 えてい くことで はない。教 師が, 自 らが 「自分 自身 の 立法者 」( 「 認識論 要綱」 ,1 2 1 ) で あ る生徒 に対 してで きる ことは, その 「自 己発現」 を 「 刺激」す る ことだ けで ある

ここで,教育 の前提 とな り,かつ 教育 その もので あ る生徒認識 のための,芸術 に本来 的 に内包す る創造性 の重 要性,創造 的芸術活動 の重要性 が再認識 されな けれ ばな らない。 なぜ な ら, 芸術 活動 において 自 らの創造性 を絶 えず磨 く教師 こそが, 自由なそ してメタ モル フォーゼす る存在 としての生徒 を理解 す るた めの前提 を満 たす ことにな

るか らで ある

教育 と芸術 についての もう 1 つの視点 は, シラーの 「 遊戯衝動」 か ら導か れ るもので ある

芸術活動が,成長期 にあ る人 間 に不可欠であ る とい う視点 で ある

シュタイナー は生成途上 にある者 を特別 な存在 と捉 えてい る

そ し て教育者が教育 に際 して留意 すべ き点 について次 の ように書 いてい る。以下 の引用箇所 は, シュタイナーが シラーのい う 「 遊戯衝動」 の影響 を受 けてい

る と見 られ る部分 で あ る

「 遊 びか ら生涯 の仕事 に向か って歩 みの途上 にあ る子供 の本性 を真 の人 間 認識 を持 って見守 る ことがで きる人 は,教 える ことと学 ぶ ことの本質 を, 遊 び と仕事 との中間地帯 に立 って見極 め ることがで きる

なぜ な ら子供 の

●●

場合 には,遊 びは行動への内的衝動 の真剣 なあ らわれ なので あって,行動

(24)

の中 に こそ,人 間存在 の真面 目が存在 してい るか らで あ る

」 ( 「 教育 と芸 術 」 ,2 3 )

人 間の教育 を,究極 的 には 「自己教育」 と捉 えるシュタイナー に とって, 学校 にお ける教 師の生徒 に対 す る関わ り方 は,特 に重要 になって くる

これ が まず始 めに教 師の中で明確 になっていて, しか もそれが実践 で きる ことが 教育成立 の前提 となる

教師が,外 的世界 の能動 的創造者 であ る生徒 の内的 状況 を生徒 との関わ りの中で絶 えず認識 し, また 自らの関わ り方へ とフィー ドバ ックす る ことが,教育活動 とい うことである

教育年齢 にある生徒達 に 共通 す る もの として,引用文 で は 「 遊 び」の衝動 が挙 げ られている

遊 び は, 教師が生徒 との関わ りにおいて不可欠 の要素 で あ る, シュタイナー はその よ

うにい う。 なぜ な ら遊 びは, 「 行動 への内的衝動 の真剣 なあ らわれ」で ある と 彼 は捉 えてい るか らで ある。遊 びの特性 は, それ 自体 のために行 われ る とい う ところにある。外的 な目的 な しにそれ 自体 のた めに行 われ, しか もそ こに

「 真剣」さが現れ る遊 び を,シラー もシュタイナー も重視 しな けれ ばな らない。

なぜ な ら,教師 ( 大人)が生徒 ( 子 ども) にで きることは,彼 らの 「自己発 現」 を 「 刺激」す る ことがで きるだ けだか らであ る

したが って,芸術 の根 底 にあ る衝動 を,上 の ような意味 での遊 び と考 えるシラー とシュタイナー に

とって, ( 学校) 教育 にお ける芸術 の重要性 は, い くら強調 して もしす ぎるこ とはないので\ ある

だか らシュタイナー は次 の よ うにい う

「 芸術 ,つ ま り造形美術 ・文芸 ・音楽 は,子供 の本性 によって要求 され る も のであ る

そ して学齢 に入 る ころの子供 に も適 した芸術 が存在 し,子供 は その頃か らすで に芸術 に従事 で きるので ある。 これ これの能力 の育成 のた めに しか じかの芸術 が く 有益)で ある とい うような言 い方 は,教育者 とし て口にすべ きで はないだ ろ う。 芸術 は芸術 自身 のた めに存在 す るのであ る。

しか し,育 ちつつあ る人 間 に芸術 の経験 を欠かす気 には どうして もなれな

いほ どに強 い愛 を,教育者 は芸術 に対 して持 つべ きで あろう。 そ してその

(25)

R. シュタイナーの 「 教育芸術」論

‑ ヴ

ァル ドル フ教育学 の基礎 的考察 ‑ 16 5

とき, この育 ちつつあ る人間一子供一が芸術体験 によって どうなるのかが 理解 され るだ ろ う

」 ( 「 教育 と芸術」 ,25)

「 芸術 は芸術 自身のために存在 す る」。芸術教育 は,生徒 に芸術 的教養 を身 につ けさせ るために行 われ るので はない。芸術活動 その ものに価値が あ る

芸術活動 において は, 「内的衝動 の真剣

「 真面 目」が現 れ る

まさに この こ とに, ヴ ァル ドル フ学校 において教育 方法 の芸術化 が めざされ,教育 内容 と しての芸術 が中心的役割 を果たす根拠 が ある。認識活動,技術 的,倫理 的 な 教育, これ らすべ て は,芸術 と結 びつ け られ るこ とによって, これ らの習得 のた めの環境 が初 めて整 うので あ る

シュタイナー は上 の引用文 に続 いて次 の ように断言す る

「 知性 は芸術 において真 の生へ と呼 び さ まされ る。 活動欲 が 自由の中で芸術 的 に素材 を征服 す る とき,責任感 が実 る。教育者 や教 師 の芸術 的感覚 は学 校 の中へ心 を もた らす。芸術 的感覚 は真剣 さの中 に楽 しさを生 み, よろ こ

びの中 に明確 な性格 を作 り出す

」 ( 「 教育 と芸術」 ,25)

概念 的知識 は, その ままで はメタモル フォーゼ を絶 えず繰 り返 す生成途上 にあ る人 間 にはあ ま り作用 しない。 なぜ な ら, この時期 の人間が本来的 に内 面 で求 める ことは,主体 的 な創造 的活動 だか らであ る。知識が,芸術活動 と 一体化 す る ことに よって,生徒 自 らが創造 してい く生 きた知識 にな る。 また 生徒 の内面 的 な活動欲 に よって 自由に進 め られ る芸術活動 は,試行錯誤 を繰 り返 す ことが ある として も, それ によって得 られ るの は,単 に技術 や知識 だ けで はな く,精神 的鍛錬 も行 われ る.引用文 の中には, シュタイナーが 「 教 育芸術 」 とい う言葉 の中 に込 め ようとしてい る教育観 が よ く表 されてい る

ヴ ァル ドル フ学校 の教育実践 を外 か ら観察 した者 は, この学校 は芸術 の学校

とい う印象 を受 ける とい う。確 か に,科 目 として芸術 関連 の授業 が量質 とも

に多 く,芸術以外 の教科 も,高校段階 において さえ視覚や聴覚 その他 の感覚

(26)

に作 用す るような授業 方法が とられ てい る

これ は, ヴ ァル ドル フ学校 の教 育活動 のすべて にたい して,芸術 が有機 的 に組 み込 まれ るべ きで ある とい う

シュタイナーの主張 を,学校 が実践 してい るこ とを物語 ってい る

本節 の最初 の問 い, 「 教育芸術」は何 を意味 す るか。 これ は本節全体 によっ て示 された ように思われ る

最後 に まとめれ ば次 の ようになろ う

教育 は本 質 的 に 「自己教育」以外 にあ りえない。 この 目的 をめざす教育 は, その内容 ・ 方法 において, ゲーテが その芸術活動及 び 自然科学研究 において実践 し, シ

ラーが その意味す る ところを明 らか に した ところの ( 芸術 ) に基礎 をお く教 育 によって初 めて成立 す る。 ( 芸術)は,生徒 の主体 的創造 を促 し, その内的 活動欲 と真剣 さを得 て,生徒 の 「自己教育

を実現 す るす るか らであ る

こ の ような教育理念 が, シュタイナーのい う 「 教育芸術」 である。

おわ りに

本稿 で は, シュタイナー教育 が 「自己教育 」 を目指す とい う表現 を とった が, シュタイナー教育 の最終 目的 は,生徒 の 「自由」 の獲得 にある

それ は 例 えば, 「自由」ヴ ァル ドル フ学校 とい う言 い方の中に も現れてい る

本稿 で は, 「自由」の問題 に直接触 れ ることはで きなか った。 ヴ ァル ドル フ学校 の教 育理念が, 「 教育芸術 」にあ り, これ によって生徒 の生得的な潜在能力 の 「自 己発現」 を最大限 に保証 しようとしてい る ことを示唆す ることがで きた に と どまった。 シュタイナーや ヴ ァル ドル フ学校 のい う 「自由」 も今後取 り組 ま な けれ ばな らないテーマであ る。

また本稿 で は, シラーの 「 美的教育」 について は紙数 の関係 で少 し触 れ る ことがで きた にす ぎなか った. しか し, シラーの 「 美的教育」論 は, シュタ イナー に対 して影響 を与 えた とい うことだ けでな く, それ 自体十分 に検討 に 値 す る もので あ る。 これ らについて は稿 を改 めて取 り組 む こととした い。

く引用 文 献 〉

1 拙稿,「自由ヴ ァル ドル フ学校 の学校建築 ( 1 ) ‑ シュタイナーのゲーテ 自

(27)

R.シュタイナー の 「 教育芸術 」論 ‑ ヴ ァル ドル フ教育学 の基礎 的考察 ‑ 167

然 科 学 研 究 理 解 ‑ 」, 『 人 文 研 究 』 第 87輯 所 収 , 1994年 「学 校 建 築 」 と 略 す

2 R.St ei ner,Goet heal sVat erei nerneuenAst het i k,Dornach/Sch wei z, 1987 「Ast heti k」 と略 す

3 R.シ ュ タ イ ナ ー , 浅 田 豊 訳 『ゲ ー テ 的 世 界 観 の 認 識 論 要 綱 』, 筑 摩 書 房 , 1991年 「認 識 論 要 綱 」 と略 す

4 R.Stei ner,Goethes W el tanschauung,Dornach/Schw ei z, 1963

「W el tanschauung」 と略 す

5 R.Stei ner,Goethes N aturwi ssenschaftl i che Schri ften,Dorn ach/

Schwei z,1973 「Schri ft en」 と略 す

6 J. W .ゲ ー テ , 木 村 直 治 訳 『適 切 な 一 語 に よ る 著 し い 促 進 』, 『ゲ ー テ 全 集 14』 所 収 , 潮 出 版 社 , 1980年 「適 切 な 一 語 」 と略 す

7 J. W .ゲ ー テ , 芦 津 丈 夫 訳 『 芸 術 論 』, 『ゲ ー テ 全 集 13』 所 収 , 潮 出 版 社 , 1980年

8 J. P.エ ツ カ ー マ ン, 山 下 肇 訳 『ゲ ー テ との 対 話 ( 下 )』, 岩 波 書 店 , 1 96 9年

「対 話 」 と略 す

9 F.Schi l l er,Ast het i sche Erzi ehung des M enscben. I n Scl l i l l er S 凱1 i ‑ che W erke Band V,M t i nchen,1975 「Erzi ehung」 と略 す

10 R.Stei ner, 新 田 義 之 編 『 教 育 と芸 術 』, 人 智 学 出 版 社 , 1986年

参照

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