P.Natorp 教育学研究 (其の四)
各論・第一「教育学の哲学的基礎付け」(2)
A.理念の基礎付けとその導出(承前)
B.教育学の哲学的基礎付け
熊 谷 忠 泰
A.理念の基礎付けとその導出(承前)
3,
理念を我々のものとして把え,現実の・この生の世界に具現させようとする場合,如何なる
コ
点に視点を合せ,叉如何なる過程を経て考察を進めて行けばよいであろうか。このような問題 を考えるに当って,次のナトルプの文章は,有効な示唆を与えてくれるであろう。「……当為 の問題は,正確には次のように述べる事が出来る。即ち,何によって終点が規定され,かくか
くであるべきであるという私の思想を何が決定するのであるか。」(Soz. pa., S.35・)
従来屡々述べて来た如く,経験の法則は,自然の法則であり,叉因果の法則でもあった。従 って,この運動は,連続的秩序に依存する。現象の過程は,所与の開始点から終点まで,この 現象の開始点に一与えられた動力の全体に依存する。何等かの力,又は何等かの妨害が,それも 自発的ではあり得ず,外部から加えられない限り,この運動過程は殆ど無限に進行する。従っ て,その運動方向は,種々の外的諸条件によって制限される。かかる運動は,無目的的・機械 的運動と云わなければならない。所が,ナトルプは,以上の引用において,終点を規定するも のが何であり,当為的な私の思想を決定するものが何であるかの問題こそ,正に当為の問題で あるというのである。換言すれば,それは,始点が終点を規定するに,抑々何に由るかを問う ていると考えてもよいであろう。こうして我々は,今こ玉に,目的概念を想定する。
目的概念は,あらゆる現象系列の終点は,我々によって予め自由に決定されるものと思惟 し,又逆に,所与の始点から終点に至る過程が,その終点によって確定されるものであるとい う事を表明する。か鼠る「目的」の立場は,前の因果の立場とは全く異るものであるから,目 的概念の持つ性格を,因果概念,従って又,思惟現象から批判する事は許されない。それ故 に,「私の思想を何が決定するか」という事も,我々の目常的な心理的機能,例えば好悪の感 情,衝動,下級判断等によって決定されると考えてはならない。若しそうではなくて,後者に 決定権があるとするならば,当為の特:質は失われ,目的概念はその性格を喪失するであろう。
故に,この問題の意義は,「思惟の内容に根拠を持つ所の如何なる種類の法則性,思惟作用そ のものにおいて説明さるべき思惟の如何なる方法が,かくかくであるべきである(=当為)と いう思想を規定するか。」(a,a.0.,S.36.)という事であるが,実にこの様な意義に立脚して 考察されなくてはならないのである。
一35一
以上の結果,我々は再び「内容」,「法則性」,「方法」の概念に到達した。しかし,これ らに就いては,既に前項で詳述したから,再びこ鼠で触れる事は避けるべきであるが,耳蝉の 問題考察の予備工作として有効と思われる引用を示しておく事にしょう。
終点を規定し,私の思想を決定するものは一体何であろうか一この問に対して,ナトルプ は次のように答えている。「我々の思想そのものの間に於ける必然的な一致の形式的法則のみ
り の
が,我々が通観し,叉は考慮したりする範囲内において,か玉る思想を決定するのである。」
(a.a.0.,)目的設定の根拠,或は特殊目的を規定する究極的目的は,人聞的な意志決断より論 理上上位であるから,それこそが一切の目的設定の統一体でなければならない。しかし)それ は,既に見た如く,容易には入手出来るものではないであろう。とは云え,それは一切の目的 の方向点を与えるものである。かくて,目的設定の問題は,思惟自らの独立的に根拠付けられた 方法として,「一致の形式的法則」を客観的に明らかにする事でなくてはならない。換言すれ
● ●
ば,思惟内容中に於ける一致が,あらゆる法則性の意義であり,且つ統一体であるという事に なる。しかし,この事は,決して経験法則を無視しようとするものではない。故に,「当為は,
実際ある所のものではなく,倫あるべくある所のもの,即ち,現実的にそのように在るべき所 のものである。然るに,或るものを現実的たらしめる唯一の法則性は,因果的のものである。
…… アの故に,具体的当為Das konkret Gesollte.は,単に在るべきものとして,現i象の因果 的法則と関連しなければならない。しかも,か玉る連絡は,実際上可能なのである。何となれ ば,経験的法則性そのものは,結局,意識統一体という本源的法則の下に立つからである。」
(a.a.0.,S.37・)と述べられている。この様にして,一旦厳密に区別された経験と理念,因果 と目的,存在と当為とは,究極では,統一性という意識の本源的法則性によって一貫されるの
である。
所で,先に述べた法則性の中には,如何なるものが包含されるのであろうか。総論で述べた 如く,ナトルプは,量:関係の法則,現象の時間的関係の法則,目的法則の三つを挙げている が,これらの中で,特に目的法則が法則性そのものの本源的法則性に根拠を持つ事は,既に因 果法則との比較に於いて明らかにされた所である。目的法則は,直接,理念に基ずき,内容的 一致をその本質とする。故に,それは,純然と形式的な法則性である。従って,実質的な法則 を示す因果法則,換言すれば,悟性は,この目的法則の確定後に,それを実現する為の手段に 関する法則的疑問に解答を与えるものであると考えられる。だが,最も重要なものは,次々に 疑問を発しつ鼓,遡源的に追求して始めて明らかとなる究極的目的でなければならない。否,
むしろ,か玉る究極的な目的自体an sich Zweck(a. a.0., S.40.)によってその遡源も規定さ
のれるのであるが,それは,正しく斯くの如きものとして把えられなくてはならない。ギリシャ ノ 人は,それを, TEλos (das Ende od. Ziel)に対して, αρ×η (der Anfang od. das
Prinzip)と呼んだ。正にその様な「始源」こそ,ナトルプの所謂理念,目的,叉は法則性の
本質的性格であろう。「理念とは,自己に対して,他の何物をも基礎に持たないという基礎で
ある。Sie ist ihm die Grundlage, die nichts Andres wiederuln zur Grundlage hat・」
(a・a・0.,)かくの如くにして,目的概念は,経験的立場からではなく,一切の特殊目的を統一 する形式約統一体,即ち,理念の中に求めなくてはならない。目的の単なる経験的一致は,決
して当為の意義に妥当するものではない。何となれば,か鼠る一致は,常に,相対的目的しか
指示し得ないからである。(a.a.0., S.42.)
然るに,か重る究極の統一体は,意志にとって,唯,意志にとってのみ,正に不可欠の要件 なのである。若し意志がか玉る究極的統一体を欠くとするならば,意志の目的は永却に完結さ れる事なく,従って,意志は常に不満の申に滞苗するのみならず,更に重大な事には,自発性 Spontaneitatという意志の本質的性格が破壊され,その結果,意志の始点は失われる事にな
る。即ち,経験的立場からのみ意志を考察すると,意志は,一個の意志的決断を,常にその前 に意志されているいわば他のものの為にのみ意志する事となり,本来的な自発的意志は極めて 微弱なものとならざるを得なくなる。若しこの様であれば,意志は,時間的継起関係と;自己 以外の所与によって制約される事となろう。しかし,これは,恐らく,本来的な意志の在り 方,即ち,当為的理念に基ずく意志ではないであろう。所で,この際注意すべき事は,統一 体,又は理念は,決して思惟的なものに於いて求められてはならないというのではない。蓋 し,思惟的なもの,叉は思想は,結局する所,統一的な意識の本源的法則性にまで遡源して考 慮する事によって得られた法則性なのであるから,逆にそれを媒介として,意識の根本法則に 対する最終的,且つ無制約的な目的相互闇の一致という本源的法則にまで遡り,しかる後,究 極的目的を得るという事が出来るからである。何れにせよ,意志は,か玉る統一体を本質的性 格として有しない限り,到底意志たるを得ないであろう。故に,「統一体こそは意志の究極目 的である。」(a.a.0., S,43.)とか,叉, 「意志は,か鼠る最終の完結体を欠く事は出来な い。」(a.a.0.,)という立言がなされるのである。では,意志が統一体であるとは,如何な る性格をいうのであろうか。
ナトルプに依れば,道徳的決断と理論的決断とは,理論的には特に相違あるものではない。
決断の原理Das Prinzip des Entschlusses・は,常に最も純粋な可視的一致,換、饗すれば,最 も完全に内的な,我々が展望し得る所の統一の意味において生起しなければならない。しか し,この統一は,漸次,より包括的なものとなる。従って,究極的には,意識の全領域におけ る徹底的な一致,即ち,理念という目的に従って遂行されねばならないのである。以上の様に 考えるならば,理論的認識と実践的認識とは,統一という理念において積極的に関連づけられ る事が可能となる。「意志は,その素材の点からすれば,全く経験に依存する。欲求のあらゆ る実現は,因果律に従って生起する。……しかし,同時に,その知性の領域は,その全体的な 広さにおいては,意志の独自の法則に隷属するのである。」(Allg・pad・, S.17.)所で,所謂
「意志の独自の法則」とは,いうまでもなく,無限の終局への進路の方向を合法則的に規定す るもの,即ち,目的法則に外ならない。されば,意志は,根源的なものであり,それ自身の内 在的な目的法則によってのみ規定されるのである。この独自の意志の本質的性格は,ナトルプ によれば,具体的に「努力」Streben・と呼ばれている。努力,最も大にして且つ常に高揚し
一37一
つ玉ある真正の努力は,決して自己の根源的な動因の満足の増増などではない。むしろ,より 少い満足を待望し得て,努力それ自体の為に努力する意志のカである。それは,満足などに関 しては,も早何事をも語らない。否,努力自体は,むしろ不満足をすら選ぶのである。この様 にして,努力は,自己の独特な死Der Tod.の為に努力するのである。か鼠る努力は,しか し,も早何等の努力でもないであろう。努力は,自らを固持する努力として,又自らを永続 的に目的に向って高め,且つ同時に自己を増大せんが為の努力として努力する。扱て,この以 上の詩的な表現は,決して単なる比喩ではないのである。実際,以上の異な事実は,我々の日 常生活において数多く見られるところであるが,具体を捨象した事として考えれば,意志の形 式性を最も端的に,且つ模式的に表現したものと見る事が出来るであろう。故に,ナトルプ
も・その事を述べて次の様に言っている。rかく基礎付けられた意志の原理は,確かに単なる 形式的な原理である。それは,単に形式的でなければならない。何となれば,如何なる意志の 実質的目的も,常に無規定的に妥当し得ず,唯,徹底的に内的な努力の統一の形式的目的のみ が,無規定的に妥当し得るからである。」 (Allg. Dad., S l8.)
以上の如く,意志の統一的法則は形式的である。それが形式的であるという事は,意志が如 何なる実質的対象にも無規定的に妥当する事を,我々が要求するからである。そ,うではなくし て,若し意志の法則が実質的であるとするならば,人間行為の中に,意志を含まない事も起り 得よう。この様な意志法則の形式性という事から,ナトルプの理想主義は,単に所謂楽観的な 空想,乃至は幻想などとはおよそ正反対のものである事が明白となるであろう。後者は,実質 的な社会理想,叉は人生理想を,意志法則から劃限する傾があるが,ナトルプは,意識・意志 の論理的な形式法則に従って,あらゆる存在が,より理念的なるものにまで発展するという立 場に立つのである。それは,既に見た如く,方法論的な統一的発展観に由来するものである。
この故にこそ,意志は,理念的であると共に,叉経験的でもあり得たのである。意志は,、瞬間 から発して永遠を志念する。経験に在りながら,同時に理念を内蔵している。故に,意志は,
理念を確実に自己のものとする事が出来るのである。そうであるからして,理念は,最も卓越 した仕方において,一つには方向を,二つには決断をば,意志に対して与えるのである。人間 における他の如何なる機能が,か玉るいわば最も本質的な人間的能力を有しているであろう
か。
我々は,今,意識から出発して遂に意志に到達した。その過程は,意識に於いては理念を措
定し,意志に於いて遂に理念を自らのものとした。この様に考えて来れば,意識,意志,理念
は,すべて同一形式の法則性に於いて在るものであると見る事が出来る。それは,統一的な結
合の形式的法則性に外ならない。この意味で,理念叉は当為は,本来,人間的なものでなけれ
ばならないのである。しかし,この三者の中で,意識と理念とは,端的に形式的であり,従っ
て何等実質的内容を含まないが故に,我々に具体的に知られないに反し,意志は,その機能
上,心理的・経験的なものにその出立を持つが故に,より多く実質的内容を含み,具体的に考
察の対象とされるのである。だから,根源的には本質的な相違はないというべきであろう。そ
れは兎も角として,以上の如き本質を有する意志の自発的な目的概念の措定において,意識の 法則性は具体化し,理念の究極的統一性は客観化されるのである。故に,意志こそは,最も優 越せる意識の保証であり,且つ叉理念の保有者であるという事が出来るであろう。
目的概念を本質的なものとし,意志をその最も根源的な対象とする教育は,以上の立場から 考えるならば,究極的には,何等実質的な目的を持たないと見なければならない。この意味 で,教育は実に無限の課題である。「若し目標の語の意味する所が,究極的に到達さるべき進 路の終点を意味するものであるならば,教育には,一般に,如何なる目標も存在しない。」
(Philoso, u・Pad., S 51.)何故か。到達される目標は,所詮は実質的なるもの,経験的なるも のであるからである。かくては,意志の自発的な目的性は,心理的な「所与性」によって破壊 されざるを得ないであろう。「教育の目標は,無限の中に存在する。」(a.a・0・,)と述べるチ トルプの気持の中には,恐らく,以上の如き厳粛な意志の統一的法則性への限りない熱情が,
しめやかに秘められていたに相違ない。教育に於ける論理的考察をば一概に否定する或る種の 風潮は,恐らく,以上の教育の全体的構造の性格を,本質的立場から広く理解しない結果に外
ならないと云わなければならない。我々は,存在は形式と実質とが相伴って始めてなると考え るが故に,以上の所論を基礎として更に次の問題に進まなければならない。
B.教育学の哲学的基礎付け
1,
総論に於いて,我々は哲学も亦社会内存在であると言ったが,この事は,例えば,人間が社 会的存在であるからとか,哲学が社会に包括されるからとかという素朴な理由に基ずくと解釈 されてはならない。そうではなくして,それは,哲学が統一的な意識の法則性に於いて把えら れなければならないという事を言表するのである。従前究明して来た様に,意識,意志,理 念は,同一の根源的法則性に於いて一体的に考察されたが,それにも拘らず,目的概念設定と いう本質的な人間的機能によってより多くの現実性を意志に与えながら,しかも更に,意志の 優越せる構造を以て,教育の本質關明の方向を見定めて来た。所で,意識の統一的法則性は,
他面,意識の連続性をも内蔵していた。この性格は,具体側面的として,空間的性格を包含し ていたから,こ玉に社会形成の基底としての意識が問題として登場して来る。然るに,他方,
教育は,人間の意識と意識,従って叉,意志と意志との問題を中核として考察される。この限 り,社会は,教育にとって新なる視野に於いて揮えられるに至るであろう。しかも,教育の実 践的課題の究極は,被教育者に於ける意識統一を完成する事である。所が,その事の完成を最 も端的に追求し,従って,理論的には,意識統一を最も厳密に要求し,且つ自らも統一性の為 に努力する科学は,ナトルプに依れば,実に哲学以外の何物でもない。それ故に,その性格に おいて,教育は哲学的であり,その結果において,哲学は教育的でなければならないのであ る。果してそうであるならば,哲学は,意識のその本質に於いて,教育のその性格に於いて,
当然,社会的なもの,否,より厳密には社会内存在と云わなければならない。だから,意識の
一39一
統一的法則性を除外して哲学は考えられないのである。こ㌧に先ず「全体としての哲学」の 第一の主張点が在る。
では,哲学は,ナトルプによって,具体的には如何様に把えられているのであろうか。 「哲 学は,その課題が,多方的に相異る方向に向って努力している認識のすべてを最後の中心的な るものに統一しようとするものであるか,或は何等現実的な課題をば持たないか,その何れか である。故に,哲学は,一か,然らずんば無か,である。Philosophie muss eine sein oder sie ist nichts.若し誰かこの哲学を分割する者ありとすれば,その時,哲学は,哲学としては 死滅するのである。何となれば,哲学は,認識の統一,しかも内的な中心的統一,換言すれ ば,すべての区分に先立ち,且つそれを基礎付けるが如き内的中心的な統一を意味し,……外 的・周辺的なものを意味するものではないからである。」(Philoso・uこPad・, S・8)所で,ナト
ルプに依れば,人間の精神活動には,思惟活動(Die Tatigkeiten des Denkens),創造的想 像活動(Die Tatigkeiten der schaffenden Phantasie),及び意志活動(Die Tatigkeiten des Wollens)の三つがある(A119. Pad., S.4,0d. Philcso・u・Pad・, S・10・)が,これ等の諸活動に
従って,人間認識には,理論的認識 芸術的認識,及び実践的認識が対応的に存在する。所 で,それぞれの認識活動の成果は,客観化されて,論理学,美学,及び倫理学として構成され る。哲学とは,正しく,これ等の認識,従って,認識の成果としての諸学問相互間の:最後の中 心的統一を志向するものに外ならない。この様に見て来るならば,ナトルプの所謂哲学は,正
しくは「全体としての」哲学であって,俗に所謂それら諸学と併列的に存在する哲学を指すも のではない事が明白となろう。この様な考慮は,結局する所,かの意識の統一性に由来するも のであると考える事は不可能であろうか。否,そうであるからこそ,ナトルプは,上の引用 で,「分割された哲学は死滅する」と述べているのである。故に叉,「我々の主張に従えば,
その全範囲に於ける客観的科学die O bjektwissenschaften,,そして,その基礎から言えば,
客観化の哲学的基礎科学,即ち,論理学,倫理学,及び美学のみが,常に我々が強調して来た 不可分の統一untrennbaren Einheit,を可能ならしめるのである。」 (Philoso・u・Pad・, S.50
〜51.)と述べているのである。こうして,哲学とは,意識の統一性を根拠とし,人生及び世 界を,全体的・統一的・究極的に探求する為に,認識及び諸科学の中心的統一を目指すところ の学である,と考える事が出来るであろう。これが,「全体としての」哲学の第二の主張点で ある,だから,三科学の関係についても,ナトルプは,「完全に研究を押し進めて行くなら ば,論理学は倫理学に到達し,叉この両者は結合して美学に到り,かくて,三者は,実際上不 可分の全体を形成する。」(a.a.0., S・13.)とも述べているのである。
次に,第三の主張点は何であろうか。これは,総論でも述べたように,教育自体の本質から 導かれる。だが,今は重複を避けて,別の視点からその問題に触れて行こう。
教育学の基礎を構成する諸科学に関してのナトルプのヘルバルト批判は既に周知の通りであ
るが,今改めてそれを示せば,次の如くである。「倫理学は,その研究の区域に於いて,全体
としての心理学・と合致せず,単にその一部分と合致するのみである。」(a.a・0・, S.9.)
「全体としての心理学」は,人間の精神的機能の全体,即ち,知識,感情,意志を包括す る。然るに,倫理学は,この中唯意志の法則,及びその規範を樹てるのみであって,他の部 分,即ち,知識,感惜を除外する。従って,倫理学から全体としての教育の目的を構成する 事は到底不可能であると云わねばならない。かくして,教育学の基礎科学を倫理学のみに限定 するのは偏狭であると云わねばならない。然るに他方,「精神とは,合法則的に創造されるべ き意識内容の全体,その創造,その真の持続的な形成の全体に外ならない。しかも,この精神 的内容の世界を,自己陶冶の人間精神の中に,又各個人の中に,究極的には,その個人を通し
て全体的人間の中に建設する事,これこそ,人間陶冶,人間の人間に迄の陶冶に平ならない。
」(a.a.0., S.32.)だから,「陶冶,乃至教育の課題は,すべての人間の本質的方向に従っ ての人間の精神的本質の調和的発展die harmonische Entfaltung des seelischen Wesens des Menschen nach allen seinen wesentlichen Richtungen.」(AIIg. Pad., S.4・)でなければなら
ない。この様にして,「全体としての教育学は,全体としての哲学の上に基ずくべくPadagOgjk als Ganzes zu grUnden auf Philosophie als Ganzes.,唯単に分裂された断片,即ち,倫理学 と心理学の上に基ずくべきではない。」(PhilOso. u. pad., S.7.)という事になるのである。
以上を要するに,この問題に関するナトルプの見解は,若し教育が調和的な真正なる人間性を 陶冶する為の教育であるべきであるならば,その人間性の各部分,換言すれば,人間能力の全 部分に対応した基礎的渚科学,即ち,論理学,倫理学,及び美学に基ずかねばならないという のである。ナトルプが,特にペスタロッチを祖述する理由も,又こ鼠に在るといわなければな
らない。
ナトルプの所謂「全体としての」の意i義,及び教育学の科学的基礎付けを正当に理解する為 には,我々は,以上述べた意識の統一,認認の統一,更には人間性(教育の目指すもの)の統 一という三階梯の漸進的展開の統一的法則性の図式を根底として考察しなければならない。そ うでなくして,基礎科学の哲学的配列のみを取上げるならば,結果は徒らに形式的分類のみの 櫃内に羅齪して,ナトルプの真意をうか黛うを得ない事になるであろう。それについても,こ の丁丁に丁丁しなければならない点は,考察が,先ず意識に発し,次で全体的人間性の統一に 及ぶという過程を確把するという点である。
扱て,以上の統一的法則性の思想は,それが教育目的の統一という面に具現すると,かの道 徳的目的の優位に関する思想となって現われる。この思想の根底が,既述の理念の問題と関連 する事は改めて論ずるまでもないであろう。人間の意志は,その卓越せる機能において,理念 を実にした。従って,ナトルプの調和的発展の思想は,上述の精神活動の並列的な相対的調和 ではなく,むしろ,優越せる理念の運押回としての意志を中心とせる集申的な絶対的調和を意 味するのである。 rこの調和は,唯一の最後の申心点,即ち,理念へのかの一般的関係の如く に結合された構成要素の相関的独立を要求する。理念が,全く純粋且つ積極的に,唯意志の法 則中にのみその表現を見出す限り,道徳的目的の前提が,完全に基礎付けられるのである。」
(a.a.0., S.4・)この様な:,理念を根源とする意志中心の道徳的目的重視の立場こそは,意志
一41一
の自発性,従って,自由,及びそれらを基底とする目的の王国としての自律的社会形成の淵源
つ ロ
ともなるものである。その具体的発展が,実はかの Sozialpadagogik。1899. の主題を構成す るものであるが,所詮,その中核となるものは,「人間性の自覚」という一点に集約されるの である。理念を中心とする事は,思うに,理念が,倫理学,論理学,美学的法則の一切を包括 し,且つ人問の諸力と価値との根源である事(Philoso. u. Pad., S.14.),叉理念こそが,あ らゆる意識傾向の根源である事(a・a.0.,S・16・),従って,調和は,結局人間性の統一,教 育の本質から必然的に要請される事(a.a.0., S.17.)等に由るものであると考えられるから である。所論の結論としては共に「道徳内心」に落着しながら,その論の発足点に於いては勿 論,以上の点に関して,ヘルバルトと対照的に考えられねばならないナトルプの特質が存在す
るのではないであろうか。
そうは言っても,ナトルプの「道徳中心」思想は,必ずしも「道徳至上」主義ではないので ある。成程,ナトルプの道徳の優越性の根底には,一応,「理解は存在に関わる問題である Das Verstehen geht aufs Sein・。」(a. a.0., S.14・)という命題が横たわってはいる。しか
し,例え道徳的意志が無制約的な実在の規範としての理念にまで向上するとしても,それ自体 として,経験的基盤を欠除すれば,それは殆ど無意義なものとなり終らざるを得ないであろ う。か玉る理由から,屡々経験と理念との統一が試みられたのである。故に,ナトルプは,フ ィヒテの理想主義的一元論を批判したヘルバルトの卓見を高く評価するのである。 (a.a.0.,
S・ユ5・)しかし,逆に,当為を経験的実在の領域にまで引下げた結果に対しては,苛責なき批 判を与えるのである。この様な立場から,ナトルプは,調和をぱ,「雑多の,共働的機能の有 機的統一」 (a・a・0・,)と定義する。 それは,固定的原理の支配的統一ではなく,相互に反堅 しながら多種的に並立するものが・それぞれ自己の本質を遺憾なく発揮し合う中に最後の本質 的統一という法則が支配し,各自がその在るべき場所に全体として安定するという様な調和の 状態を指すのである。ナトルプは,これを,音楽の譜音における各音の 協調を以て例示する。
道徳は,勿論,基底音として,譜邸中の指導的役割を果しはするが,しかし,それが決定的に 音色を確定するものではない。同様に,道徳的理念も,叉悟性及び想像力と共に,全体として の人間の性格形成に寄与しなければならないというのである。
2,
以上の諸科学は,純粋客観科学(die reinen Objektwissensch3ften),又は純粋法則科学
(die reinen Gesetzeswissenschaften),或は立法科学(die gesetzgebenden Wissenschaften)
としての規範科学(die Normwissenschaften)のみであった。因みにナトルプによれば(a。 a.
0・,S・ll〜12, u・S20〜210d・Allg・Pad・, S・7・),規範とは,計測機(Richtmass)を意味す
るものであるから,規範科学も叉,「正しくある為には,如何なる条件が充たされなければな
らなV・かWelchen Bedingungen……ge磁g印muss, um,, richtig zu sさin.」(a. a.0.,)を考
究するものであって,必ずしも命令,指示を示すものではない。唯解釈上,この richtig,,と
いう言葉の申に当為の意味が含まれるから,結果として,命令を含む様に受取られて来たので
ある。規範科学が,果してこの様な条件の客観的提示のみを目指す学問であるとするならば,
同様な意味で,法則科学,立法科学も,所謂外部的な法則授与,叉は立法を意味するものでは ないであろう。故に,その事に就いて,「法則科学に共通な課題は,その最後の合法則的な基 礎における人間意識の内容と,この基礎によって規定された意識の上部構造,その内部構造,
従って同時に,意識の区分された諸領域の連関をば,我々が一言に(統一体として理解される
)人間精神と呼ぶところのものにおける究極的な統一体から説明し,証明する事である。」
(Philoso. u. Pad., S.20.)と述べているのである。それ故に,等方を別にすれば,規範科学 は,人間認識の種々の対象を主題とする学問であるとも言えるであろう。蓋し,我々の精神的 内容を構成するものは,同時に,何らかの種類の認識の対象でもあるからである。従って,こ のような科学は,「……である」,叉「か震る法則性に従えば……であらねばならない」とい
う高度の明瞭性:Klarheitと限定性Bestimmthe三tとを持つ事を意味する。論理学,倫理学,
及び美学は,それぞれ,以上の意味における厳密な科学性を持つ客観世界を構成するものであ
る。
所で,ナトルプの所謂「普遍妥当性」の根拠は,実に,以上のような純粋客観科学の申に存 在するのである。「かくして,教育学におけるあらゆる普遍妥当性は,その理論的な基礎付け を,唯々基礎的な客観科学の中にその最高の合法則性を確立せんと努力する探求の客観的な方 法の上にのみ,見出す事が出来るのである。」(Allg・pad・, S・7・)これに依れば,「探求の 客観的な方法」の中に,「普遍妥当性」解明の鍵があるというのである。我々は,既に,意識 の解明において,理念の探求において,更に哲学の關明において,ナトルプの「方法」が如何 なるものをその本質とするかを観て来た。それは,端的に,形式的法則性の探求という努力,
換言すれば,「最高の合法則性究明」の過程であった。だが・この事は,既に論理主義の弁護 の個所で述べたように,単に具体的な原則を普遍妥当的に適用せんとするようなものを意味す るものではない。「方法」の目的は,最高の究極的完結性を保持した法則,換言すれば,教育 の最高合法則性,従って,教育をば本来的に教育たらしめている本質性を究明する事に外なら ない。それは,この様な法則性こそが,思うに普遍妥当的に,教育をそれたらしめるものであ るからである。従って,「適用」は,この際主題の主要要素からは除外されるのである。教育 は,確iかに,かのテ㍉ルタ・でがいう如く(Padagogik・Geschichte u。 Grundlinie des Systems.
Gesammelte schriften・IX・Bd・1934・Teubner・)民族的な丈化的・歴史的・社会的条件に制 約される。しかし,この事は,直ちに教育における合法則性の否定を意馴するものではないで
あろう。だから・ラ㍉ルタ・イも・ 「教育目的の確立から出発して,これを実現すべき規則を…
…一lに与えよう」 (a・a・0・,1・Kap・,)とする事に,教育の現実的課題を見出したのであ った。この事情は・ナトルプといえども十分に熟知していた所であろうし,上述の「条件の客 観的提示」という科学の本質性も・この事と根本的に抵触するものではない。そうであるか ら・ナトルプも・又「それらの法則科学は・意識の全内容をその合法的な上部構造において最初 の諸要素から発展せしめると共に,同時に,客観的な普遍妥当的な形式において自然的行程を
一43一
表現し,かくて,人間陶冶の標準的過程を明らかならしめるものである。」(Allg. Pゑd.,S.5)
というのである。それは,要するに,飽迄も客観的法則性の究明と解されるべく,「適用」を 一義的なものとして考えるべきではない。哲学の真義が,ナトルプにおいては,どこまでも「
統一的法則性の探求」に在ったという事も,実はこの様な所に根差していたのではないであろ
うか。