<こと>としての写真 : 濱谷浩私論
著者 小関 和弘
雑誌名 東西南北
巻 1999
ページ 62‑82
発行年 1999‑03‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1073/00003661/
濱谷浩訂仙論
いま︑日本の近代詩歌を鳥倣できる身近な全集として
は唯一のものになっている中公文庫版﹁日本の詩歌﹂の
カバーの表紙は︑それぞれの巻に収められた詩人︑歌人
*︒←
そして俳人の世界にふさわしい写真で飾られている︒た
とえば︑萩原朔太郎の巻では利根川の流れを中心に︑遠
く群馬大橋を望む光景︑宮沢賢治の巻では雪の上で躍る
鹿踊りの﹁鹿たち﹂の姿が写されているというように︒
他社の文庫版詩集が︑収めた詩の中味に当たらず障らず
のデザインで済ませているのに較べて︑大胆な選択とも
言えるこの構えが僕は好きである︒詩にゆかりの風景を
写真で表現するなどどうかと思う︑という意見もなくは
ないだろうけれど︑今流行の銀色夏生の詩集の写真や︑
﹁鳩よ!﹂の詩に付けられた訳知り顔の写真などより︑
ずっと魅力的だと思う︒ 小関和弘 ︿こと﹀としての写真
人文学部教授
このシリーズはもともとB6版の単行本の体裁で刊行
され︑その口絵写真からピック・アップされたものが︑
カバー表紙に使われている︒この文庫本を手にとる読者
は︑詩歌に向き合う前に︑ちらっとだけでも︑この写真
を目にするに違いない︒また︑カバーの折り返しに眼を
向けたなら︑そこには収録詩人︵あるいは歌人︑俳人︶
の仕事とのどんな関連を意識して撮られたかを語る短い
コメントがあることに気づくと思う︒そのコメントと表
*シ﹄
紙写真は︑日本の写真史の一ページを飾る写真集﹃雪国﹂︑
*3 ﹁裏日本﹂︑そして六○年安保の時に国会前で惨殺された
東大生樺美智子さんが衝突の現場から運ばれる姿を写し
本−4
た写真も収める写真集﹃怒りと悲しみの記録﹂の写真家
濱谷浩氏によるものである︒
*
*4演谷浩︑写真集﹁怒りと 哀しみの記録﹂河出書房新社︑ 一九六○年 *3滴谷浩︑写真集﹁裏日本﹂ 新潮社︑一九五七年 *2滴谷浩︑写真典﹁雪国﹂ 毎日新間社︑一九五六年 *1全三一巻のうち﹁別巻﹂ 一冊の表紙は竹久夢二の画
− 6 2
﹁日本の詩歌﹂の写真は︑詩人自身やその作品にゆか
りの土地へ出むいた写真家によって撮られている︒全国
各地へ出かけるということ自体は苦にならずとも︑この
仕事は濱谷さんにとっては決してやりやすいものではな
かったようだ︒
*Pひ
回想記﹁潜像残像写真家の体験的回想﹂に漬谷さん
は次のように記している︒
六七年秋︑藤村︑啄木︑光太郎とはじまって︑三百
八十九人の詩歌に別巻日本歌唱集︑全三十一巻︑四百
申︽b
九十六頁分︑今年の二月までかかって撮影した︒その
間延べ何万の詩歌を繰り返し読んだろうか︒/詩歌の
作られた時代と今日との差︑入稿一ヶ月位前に渡され
る選ばれた詩歌の季節的なズレ︒やはらかに柳あをめ
る北上川は︑鉱毒によって赤茶けており︑眼に見ゆ
る岸辺はゴミ棄て場になっていた︒日本のいたるとこ
ろで︑おもひでの山おもひでの川は詩歌を潮笑う
ように破壊されていた︒それやこれやで仕事は難渋し
た︒おまけに私はジメジメしたり︑メメしいことが嫌
いで︑憂鯵な詩︑青臭いモダニズムの詩などを読むと︑
吐き気に襲われるようになった︒耳鳴りもひどい︒こ
の仕事で旅に出ると︑ガンガン鳴っているジャズ哩茶
やゴーゴークラブに飛びこんで︑詩の亡霊を払いのけ
ないと眠れないまでになってしまった︒︵中略︶しよ 引用の直前でも触れられているのだけれど︑漬谷さん
はこれより前の一九五八年に︑﹁婦人公論﹂連載の室生
犀星の﹃我が愛する詩人の伝記﹂にあわせた﹁詩のふる
さと﹂という仕事を引き受けている︒まんざら詩との縁
がなかったわけではない︒けれど︑さまざまに移り変わ
ってきた近代の詩歌の歴史に自らの感性をシンクロさせ
ようと試みながらllそれが﹁何万の詩歌を繰り返し読
んだろうか﹂という言葉の意味するところだと僕は思う
I︑それが思うにまかせないなかで苦悶した漬谷さん
の思いは︑上掲の文章があますことなく伝えている︒た
だし︑どちらかと言えば﹁ジメジメしたり︑メメしいこ
と﹂が嫌いではなく︑﹁憂謬な詩︑青臭いモダニズムの
詩﹂に強いシンパシーを感じる僕としては︑困惑するほ
かないコメントではあるのだけれど︒
ともあれ︑潰谷さんはそれぞれの詩人︑歌人たちにゆ
かりの地を尋ね︑そこでアングルを定め︑シャッターを
切った︒その撮影自体は︑数日︑ひょっとしたら数時間
の作業だったかも知れない︒しかし︑上掲の引用にある
ように︑漬谷さんはそれまでに当該の詩人の作品を繰り
返し読んで︑作品にあった絵柄を創り出そうと苦心を重
ねているのだ︒朔太郎のカバー写真には朔太郎の詩﹁利 せん︑詩には詩の心︑写真には写真のありようがあつ
*7 て︑この仕事は難行苦行の連続だった︒
*5滴谷浩﹁潜像残像写真
家の体験的回想﹂河出笹房新社︑ 一九七一年︒一九九一年に﹁潜 像残像写真体験印年﹂として
筑摩智房より増補されて再刊
*6引用者注一九七○年の
一﹂.シ﹄
*7引用は河出版﹁潜像残像﹂
から
3 −
根川のほとり﹂の冒頭部分が︑宮沢賢治のものには心象
スケッチ集﹁春と修羅﹂のなかから﹁原体剣舞連﹂の一
節が引用されている︒また︑木下杢太郎︑日夏歌之介︑
野口米次郎︑西脇順三郎の四人の詩を収めた巻では﹁今
も長野県飯田市の日夏歌之介邸の居室にかかる聖母像﹂
というコメントと一緒に︑日夏の詩﹁黒衣聖母﹂の一節
が掲げられている︒﹁学匠詩人﹂と呼ばれ︑近代の詩の
歴史のなかで敬して遠ざけられていた感もなくはない日
夏の呪文みたいな詩を︑大岡信や清岡卓行が再評価する
より前に︑漬谷さんがこつこつと読み進めたということ
は︑それだけでも特筆に値すると思う︒このカバー写真
の仕事は︑漬谷さんの十分すぎるくらいの予備調査と取
材にもとづいてなされているのだ︒
僕は漬谷さんの仕事ぶりを高く讃えすぎているだろう
か?漬谷さんに限らず︑優れた写真家は自分の取材対
象について出来るだけ詳しい知識や情報を吸収し︑その
うえでカメラを向けるはずだから⁝⁝︒まして︑報道写
真︑記録写真の領域で仕事をする写真家はそういうもの
であるだろう︒
*
と︑言いながら︑僕がもう一方で頭の片隅に想い描い
ているのは︑日本の写真家のなかで巨匠の一人と呼ばれ
る土門拳氏の次のような文章である︒ なるほど︑こうした大胆さがあればこそ︑巨匠とも言 われるようになるのか︑と納得したり驚いたりもする︒ 右も左も分からないで文楽の世界に飛び込んでいった土 門氏が︑直感的にその世界の豊穣さを見抜いていたらし い点は︑さすがと思わざるをえない︒けれど︑ガムシャ ラに対象の懐に飛び込んで行くこうした土門氏の身の処 し方は漬谷さんのそれとは随分違うようだという感じも してならないのである︒
いくら﹁絶対非演出の絶対スナップ﹂を提唱した土門
拳だからといって︑撮影に向かう際にこうした突貫スタ
イルをいつも採っていたわけではない︒僕とても︑﹁古
寺巡礼﹂の﹁解説﹂に見られるように︑土門氏が熱心な
勉強家だということくらい知っている︒また︑﹁被写体
についての自分の理解がまとまるまで研究し﹂という︑
*9 内弟子の森下茂氏の証言があることも知らなくはない︒ ぼくが文楽座の記録写真を撮ろうと思い立ったのは︑
昭和十六年︵一九四一︶七月のことで︑ちょうどその
時︑新橋演舞場に文楽座の引越興行が懸っていたので
あった︒
しかし︑当時︑ぼくにとって︑芝居の世界は初めて
だった︒文楽座の誰がどんな人なのだ︑その名前も地
位も知らなかったし︑もとより気質や気心については︑
*︽5
まったく無知そのものだった︒
*9阿部博行﹁土門拳生涯 とその時代﹂法政大学出版局︑
一九九七年による *8土門拳﹁文楽私語﹂︵﹁文 楽﹂騒々堂︑一九七二年︶
− 6 4
けれど︑土門氏の仕事をめぐる回想や証言をみて行くと︑
こうした研究熱心の一方で︑素手で現場に飛び込んで行
く大胆さも土門氏の持ち味だったことは確かなようであ
る︒ザラ紙に印刷した薄っぺらな︑しかし写真史のなか
申IO でも重要な写真集﹃筑豊のこどもた李旦の短い﹁あとが
き﹂には
と記しているくらいなのだから︒
いま︑この文章で土門氏について論じるつもりは更々
ないのだけれど︑ついでに言っておくなら︑阿部博行氏
車0101
が編纂した宝門拳エッセイ典写真と人生﹂には︑画段云
派写真家として﹂の章を立てたなかに﹁日本各地の炭田
地帯には︑いま炭坑離職者の大集団がいる︒貧窮のどん
底にありながらなぜ︑かれらが暴動を起さないのか不思
議なくらいだった︒﹂で始まる﹁著者の言葉会筑豊のこ
どもたち﹂︶﹂の方だけが収録されている︒
土門氏のこの言葉は︑これとして氏の真情に違いない︒ 東京の街角で﹁黒い羽根﹂の募金風景を見かけたこ とがあるかないか︑ぼくの記憶はハッキリしない︒し かし百赤い羽根﹂運動が何を意味するか︑ぼくはほと んど知らなかった︒無関心だったといってもよい︒そ れがこういう写真集を出すことになったのは︑まった く思いがけないことだった︒ けれど︑この文言l写真集﹁筑豊のこどもたち﹂では 裏表紙に印刷された霊官者の言葉﹂lだけを取り上げ るのは︑土門氏への評価を微妙に狂わせる恐れがないか︑ とも僕は思う︒土門氏は︑上に引用したように︑同じ写 真集の中で.黒い羽根﹂運動が何を意味するか︑ぼく はほとんど知らなかった︒無関心だったといってもよい﹂ とも述べていた︒社会派的側面と︑それとは食い違う ﹁無関心﹂さとの並立︑これが土門氏のもつ﹁大きさ﹂ の一つの大事な要素ではないか︑と僕は思うのだ︒そし て︑彼はそのことをキチンと文章にしている︒そうした 懐の深さが彼のつ社会派﹂の独特な位相だったんじゃな いだろうか︑と思う︒そうした二つの面をかかえ持った まま現場に飛び込んで行き︑そこでlほとんど直情的 に11威唱じた憤りや怒り︑悲しみを定着していったとこ ろが︑土門拳のドキュメント写真の凄さなのではないだ ろうか︒
﹃筑豊のこどもたち﹂の続編﹁るみえちゃんはお父さ
*17画
んが死んだ﹂のキャプションに土門氏自身が書いている
ことなのだけれど︑筑豊の児童相談所の子どもたちが︑
ズボンをずり落としながら遊んでいる様子を見た土門氏
は自腹を切ってベルトを買い︑それを子どもたちに与え
たという︒写真家と被写体との間にあるく距離﹀を取り
払うばかりでなく︑さらに踏み込んで︑自身が撮影現場
で感じた強いパッションを対象の世界に直接かかわらせ *︑土門拳︑写真典﹁筑豊の こどもたち﹂パトリア密店︑一 九六○年 *皿阿部博行・縄﹁土門拳エ ッセイ集写真と人生﹂岩波l 同時代ライブラリー︑一九九七 年 *吃土門拳︑写真集﹃るみえ ちゃんはお父さんが死んだ﹂研 光社︑一九六○年
6 5 ‑
て行くことをも辞さないところに︑土門リアリズムの基
底はあるのかも知れない︒しかし︑その基盤にあるパッ
ションが︑ともすると既成のセンチメンタリズムやステ
レオタイプな感情に接近する危うさを土門氏の長女の真
*13 魚さんは敏感に気づいていたようだ︒
と︑こんな風に客観的な事を書きながらも︑ザラ紙に
刷られた﹁筑豊のこどもたち﹂や﹁るみえちゃんはお父
さんが死んだ﹂の写真をあらためて見ていると︑こんな
僕の胸にも迫ってくるものが確かにある︒そして︑被写
体への土門氏の迫り方にはやつばりもの凄い力があると
思う︒けれども︑よくよく考えてみると︑そこには僕自
身の二つの思いあるいは記憶が渦巻いてもいるようなの
である︒
ひとつは︑こんな酷い暮らしのなかで毎日を過ごす子
どもたちへの同情︑あるいは言い様のない悲しみ︑のよ
うなシーンと胸にくるもの︒そして︑もう一つは︑僕よ
りも三つ年上なだけのるみえちゃんや彼女の周りの子ど
もたちの衣類や履き物なども︑それよりは少しこぎれい
だったかも知れないけれど︑﹁テレビ﹂という符丁で呼
ばれていた継ぎのあたった僕らの小学校時代のズボンや︑
親指の見えるズック靴の世界とさほど遠く隔たっていな
いんじゃないかという思い︒弁当が持ってこられなくて︑
昼食の時間になると机の上に雑誌を立てて周りを見ない
ようにして過ごす筑豊の子どもたちの姿は︑﹁虫歯予防﹂ のために歯磨きの練習をするからと言われた日に︑学校 へ歯ブラシを持って来られないために青々とした﹁トク サ﹂を数本持ってきて︑黙々と歯磨きをしていた僕の同 級生のO君の姿に連なってゆく︒そうした思いの場に立 つとき︑僕の心の中には︑この﹃筑豊のこどもたち﹂へ 同情と共感を寄せた当時の評論家や﹁知識人﹂たちへの 違和と反発とでもいったものが︑じんわりと湧き出して
〃て︑つ︵︾︒*
話を戻そう︒土門氏のこうした撮影対象への姿勢に対
して︑漬谷さんはll少なくとも︑渋沢敬三氏との出会
い以降の漬谷さんはllまるで違う姿勢をとったようで
ある︒そして︑僕はそこに︑漬谷さんの写真家としての
要の部分を見出したいと思うのだ︒そうした漬谷さんと︑
被写体となった︿もの﹀︑︿人﹀︑︿こと﹀︑との関係につ
いての話に移る前に︑ちょっとだけ︑漬谷さんの写真家
歴を確かめておくことにする︒
年譜や回想記﹁潜像残像﹂の記述に拠れば︑涜谷さん
は﹁実用航空研究所﹂という航空写真を専門に撮る会社
に就職することで職業写真家としてスタートしている︒
かつて体験したことのないスピードを出す飛行機に乗っ
た︑銀座上空からの撮影が初仕事だったという︒もっと
も︑この会社は三カ月後には夜逃げしてしまい︑失業し
た漬谷さんはオリエンタル写真工業に再就職した︒そう *週土門真魚﹁父への挑戦l その感動と苦しみ﹂︵﹁女性自身﹂ 一九六一年九月一八日号︶
一 6
したなかで︑暗室技術や撮影の基本を学びながら︑入手
したライカで銀座を中心とした都市の風俗を撮影して廻
ったのである︒二一歳の時には︑東京競馬場へ出かけて
撮った︑作家菊池寛と女優の入江たか子のスナップが毎
日新聞発行の家庭雑誌﹁ホームライフ﹂に掲載されて︑
ジャーナリズムへの足がかりを掴むことになる︒そして
翌年にはオリエンタル写真工業を退社し︑次兄の︵写真
評論家の︶田中雅夫氏と一緒に﹁銀工房﹂という写真ス
タジオを開いてフリーランスのカメラマンとしての道を
歩み始めたのだという︒それが一九三七年一○月のこと︒
それから約一年余の三九年一月に︑グラフ雑誌﹁グラ れんたい・ フィック﹂の取材で新潟県高田市の高田聯隊スキー部隊
の冬期演習を撮影に出かけたのが︑漬谷さんの転機とな
った︒﹁二日間三六キロ︑雪の山野をスキー部隊につい
て撮影﹂し︑カンジキをつけての従軍で﹁雪の重さを思
い知らされた﹂漬谷さんは︑﹁東京と越後雪国との環境
*14 の差に﹂﹁好奇と驚きの眼を見張った﹂という︒上野生
まれで都会育ちの潰谷さんにとって︑豪雪の越後の冬は
想像を超えたものだったようだ︒取材後も東京へ戻らず
﹁雪深い町の人間の暮らしを撮影してみたい﹂と思った
潰谷さんの前に︑人生を変えてしまうようなさまざまな
人びととの出会いが訪れる︒その一人が︑潰谷さん自身︑
後年の文章で繰り返し言及する︑地元の民俗学研究者市
川信次氏であった︒ 高田生まれの市川氏は民間の民俗学研究家であり︑潰 谷さんの言葉を借りるなら﹁文学︑美術は博覧強記︑風 流に長じ︑奇人変人の知己多く︑話術にたけて︑折り目 切り目の正しい人柄﹂であった︒ちなみに﹁定本柳田 国男集別巻五﹂の索引をつてに探ってみると︑市川氏 は柳田国男の﹁木綿以前のこと﹂に収められた﹁遊行女 婦のこと﹂︵一九三四年︶という論文に︑越後の瞥女の 調査に槻わる研究家として名前が見えている︒当時︑市 川氏は渋沢栄一の孫で第一銀行の取締役をしながら民俗 学の研究者としても活躍していた渋沢敬三のもとに出入 りし︑その﹁アチック・ミューゼァム︵屋根裏博物館︶﹂ の同人の一人であった
*
市川氏との出会いがきっかけとなって︑東京三田の渋.
沢邸の一隅にあったアチック・ミューゼァムに出入りす
るようになった潰谷さんは︑渋沢敬三氏の讐咳に接する
こととなり︑民俗学への関心を深めて行った︒この出会
いのあった年には﹁深く感銘し︑以来座右の書とな﹂る
和辻哲郎の﹁風土人間学的考察﹂とも出会っている︒
そうしたなかで︑濱谷さんは翌四○年の二月に市川氏の
案内で新潟県中頚城郡谷浜村字西横山を訪れることにな
る︒そこは現在は上越市に編入されている地区だが︑周
りに山の迫った場所である︒いま︑長岡方向から北陸自
動車道を走って行くと上越インターチェンジを過ぎてし *M前掲﹁潜像残像﹂より
6 ー
ばらくして︑長短一六のトンネルが断続的に連なる区間
に入る︒その三つ目のトンネルを抜けた後に渡る川が︑
横山の方から流れ下ってくる桑取川だ︒その桑取川の右
岸に︑当時︑戸数二五戸の小さな集落︑西横山があった︒
谷浜村の地形や当時の集落の配置については﹁雪国﹂
の﹁解説﹂Ⅱ﹁桑取谷﹂で漬谷さん自身が詳しく触れて
いる︒桑取谷西横山は﹁民俗学的にみて宝庫といえる﹂
とし︑﹁村の榊成﹂の節では川や社寺の位置について行
きとどいた説明が加えられる︒また︑﹁若木迎え﹂の節
では正月初めて山へ入って木を伐ってくる一月二日の
﹁若木迎え﹂の儀式から﹁餅つき﹂﹁鳥追い﹂﹁水浴び﹂
﹁嫁祝い・婿祝い﹂といった小正月に関する行事をめぐ
って民俗学の知見を交えた丁寧な説明がなされている︒
この桑取谷に潰谷さんは一九四○年から一○年間通い︑
生活や祭をカメラで記録したのである︒
﹁雪国﹂に収められた写真のなかで一番よく知られて
いるのが︑古風な締太鼓を打つ年かさの少年を先頭に︑
子どもたちが雪の種もったなかを一列縦隊で進んで行く
様子を二八ミリの広角レンズで撮った﹇歌ってゆく鳥追
い﹈だろう︒かなり強いライトを浴びた一五︑六人の子
どもたちのなかには︑カメラの方に目線を向ける子も居
たりするが︑伝統の行事のなかで生き生きと活動するよ
うすと︑歩く道筋のほかにはほとんど踏まれた痕のない
l一見︑柔らかそうにも見えるl雪面の広がりが︑ 厳しい雪国の暮らしのなかではるか昔から全噌の日に 繰り返されてきた民俗の世界の伝統の厚みを伝えている︒
この写真は一つの優れた記録写真であると同時に︑子
どもたちの列が画面のなかで占める位置と絶妙のバラン
ス︑そして漆黒の闇から雪の白さまでを見事に表現した
モノクロの質感が美的な感動を呼び起こすものにもなっ
ていると言えるだろう︒たとえば︑重森弘滝は﹁雪国﹂
に触れて︑﹁﹁生活の古典﹂に注目し︑そこをもっとも意
識的に︑しかも集中的にカメラを向けた写真家は浜谷浩
ただひとりであった︒しかし︑この記録は今日から観て︑
*15 あまりに美しすぎる憾みがある︒﹂とさえ述べている︒
そして︑ナオミ・ローゼンブラムの﹁写真の歴史第三
*16 版シミ︒﹃巨閏碗5曼旦翌OS四騨昌このような写真史の
基本書物にも︑この写真が撮軟されるのは︑写真史的価
値だけではない美しさが認められているからに違いない︒
ついでに言えば︑ローゼンブラムの本を含め︑東京都
写真美術館で一九九七年に開かれた︽写真の世紀漬谷
浩写真体験六六年︾の図録などに載る︑リプリントの
﹇歌ってゆく鳥追い﹈は僕には︑みなコントラストが強
すぎるように思える︒﹃雪国﹂のオリジナルでは︑子ど
もたちの着る防寒着の模様や違いもよく分かるし︑背景
に並ぶ一○本近い木々の幹も見えているのに︑リプリン
トでは黒くつぶれてしまっているからだ︒そんななかで︑
オリジナルに近いと思えるのが︑一九八六年の四月から *略ナオミ・ローゼンブラム ﹁写真の歴史第三版シミ昌置 雪巽︒昌旦里◎さぬ国喜ご邦訳・ 美術出版社︑一九九八年 *晦亜森弘滝﹁民族的視点と 常民的視点I土門拳と浜谷浩﹂ ︵﹁カメラ・アイ転形期の現代 写真﹂日貿出版社︑一九七四年︶
一 8
六月にかけてニューヨークの国際写真美術館で開かれた
﹁冨開霜﹃g里OS四呂冨︵写真巨匠賞︶﹂受賞記念の︽潰
谷浩展︾の際の図録と︑岩波書店から出た雰一の貌潰
申︒17
谷浩写真集成﹂の写真だと思う︒
ところで︑美的にも優れた潰谷さんの写真︑と言うこ
とに僕も異存はまったくないのだが︑ここで確かめてお
きたいのはこの﹇歌ってゆく鳥追い﹈が︑﹇お宮参り﹈
から﹇堂ごもり﹈を経て﹁jコーリャどこの鳥追い
だ/ダィロウドンの鳥追いだ⁝⁝﹂と歌いながら歩く一
連の行事のなかの一コマだという︑ごく当たり前の事実
である︒こうした﹁鳥追い﹂の行事について︑漬谷さん
は﹁解説﹂のなかで︑小若衆が大人へ成長して行く過程
の節目として︑また村の豊饒を願う予祝として︑大きな
意味があることを語っている.いわば︑こうした民俗行
事の記録としての意味を前面に打ち出した写真集が﹁雪
国﹂なのである︒﹁村の構成﹂の章の初つばなに置かれ
た﹇村の前景﹈の写真も︑雪に埋もれた山奥の村のたた
ずまいや眩しいばかりの光を反射する雪景を捉えた写真
としてではなく︑続く数ページに出てくる﹇水浴び︵Ⅱ
潔ぎのための水浴︶﹈をする河原や﹇サイの木の家とサ
イの木の田圃﹈が村全体のなかで︑どんな位置関係にあ
るかを示す︿鳥倣図﹀的な役割を果たしているのだ︒
*
﹁雪国﹂は一九七七年に朝日ソノラマから︑写真の差 こうした記録写真としての意味を強く感じさせるもの
の一つに︑﹁若木迎え﹂に山に入った男を捉えた数カッ
トの写真がある︒その年の﹁アキの方﹂︵Ⅱ恵方︶に向
かって山に入る男の姿から始まる﹁若木迎え﹂の章には
﹇若木にハナをあげる﹈﹇若木に餅をあげる﹈﹇若木に祈
る﹈﹇若木を伐る﹈といった写真が収められている︒い
くぶんか︑カメラを意識してしまっているらしい雰囲気
を感じさせる被写体の男性は︑伐り採ろうとする若木に
山鉈で削り取った餅を捧げ︑続いて木に手を合わせた後︑
片足を木にかけて山鉈で枝を伐り採っている︒
実はこの写真は写真集にまとめられる以前に︑一九四
二年一二月号の雑誌﹁写真文化﹄に﹁︿民俗﹀の記録I し替えやトリミングの変更︑順序の若干の変更を施され
*18 て再刊された︒その﹁あとがき﹂で濱谷さんは市川信次
氏に連れられて桑取谷へ始めて訪れたときのことを︑次
のように書いている︒
そこに私は日本常民の生活の古典を見た︒人間が土
着し︑生産し︑生きるということを考えさせられた︒
人間の土地︑人間の条件︑それを見極めたいと考えた︒
未知の生活を知るために︑できるだけ狭い地域の短
かい期間の年中行事を繰り返し体験し︑観察し︑記録
することにした︒ *Ⅳ洞谷浩︑写真集﹁生の貌 潰谷浩写真築成﹂岩波宙店︑一 九八一年 *肥滴谷浩︑写真集﹁ソノラ マ写真選瞥1雪国﹂朝日ソノ ラマ︑一九七七年
69−−−−
新潟県中頸城郡谷濱村字西横山の正月﹂と題して発表さ
れている︒柳田国男は︑濱谷さんや土門氏も出席する座
申舎19
諦誉﹁民俗と写真﹂で︑この互真に触れて︑
と発言しているが︑それもこの掲載誌を見てのことだ
と思われる︒
柳田の指摘は民俗学の資料ということを重んじる立場
からは︑もっともなものと言えるだろう︒けれど︑僕は︑
ここには文化人類学や民俗学がかかえる︑フィールドワ
ークの困難さと同じ問題があるのだと思う︒言葉という
武器も使える文化人類学や民俗学はそうした困難を﹁参
与観察法﹂を踏まえた言語記述法でとりあえず乗り切っ
ているようだが︑カメラをかかえて被写体にレンズを向
けないと撮影のできない写真家の場合には︑どこまで乗
り切れるのか︑という問題がある︒
*
相手に撮ることを意識させると不自然になる︒︵略︶
あなた︵漬谷浩氏恥原文注︶の初山入りのところで木
を伐って居るところがありますね︒あれは写真を撮ら
れて居るなということを意識して居るものだから態度
が違うのです︒どうかしてそんなことにならないやう
にヒョッと撮れないかというやうなことを私らも人と
話して居るのだけれども︑︵以下略︶ 漬谷さんは︑一九四○年以降一○年にわたって桑取谷 を訪れたが︑毎年の小正月を撮影し続けるなかで︑上の ような困難に︑繰り返し出会い続けたはずだ︒そのこと を踏まえて︑﹁雪国﹂の写真について︑もう少しだけ見 ておこう︒
﹁若木迎え﹂の連続ショットは︑よく見ると︑カメラ
卓20 ポジションが微妙に異なっていることに気づく︒餅を山
鉈で削っている場面のショット︽①︶と︑木に手を合わ
せているショット︵②︶︑そして木を伐っているショッ
ト六︺とでは︑伐られる木の後ろに見える木々の重な
り具合や︑伐られる木の向かって右下の雪中から姿を見
せている小枝の見え方が違うのである︒そうなった理由
を推測させるのは︑③のショットである︒このショット
は①︑②よりもやや左に寄り︑①よりは被写体に近づい
ているが②よりはやや下がった位置でシャッターを切っ
ている︒②と同じ付置で③のカットを撮ったなら︑若木
を切る男性の顔︵特に両眼︶は︑たぶん木の枝に隠れて
しまっただろう︒それを避けるために︑ほとんど写真家
の本能とも言える動きで︑漬谷さんのカメラポジション
は左に移動したというのが︑まずポイントの一つだ︑と
僕は考える︒人物を被写体にするとき︑相手の目にピン
トを合わせるのは基本中の基本だ︒上に挙げた柳田国男
との座談会で涜谷さんは再機を織って居るところを撮る
としますね︒その中にいろいろ爽雑物があると︑ぼくは *旧﹁民族と写真﹂︵﹁写真文 化﹂一九四三年九月号︶ *別トリミングの仕方の違い から初版よりも︑朝日ソノラマ 版の方が分かりやすい︒
− 7 0
整理する方なんですが﹂と発言している︒どうしても︑
フォトジェニックな画面構成を求めるということを吐露
したものとみることが出来そうである︒
僕も昔むかし︑あるところで写真の実習をさせられた
が︑そのなかのモデル撮影のときに︑モデルのカメラ側
の目にきちんとピントを合わせるよう︑繰り返し言って
いた講師の言葉が︑今でも耳の底に残っている︒まして︑
ちょっと動いてポジションを変えれば︑被写体の目をき
ちんとフレームに入れられるのに︑それを端折ってシャ
ッターを押したりしたら︑ただの怠け者のカメラマンと
言われても仕方がない︒
潰谷さんが﹁若木迎え﹂を撮ったとき︑その身体は反
射的により良いアングルを求めて動いてしまった︒僕が
思うに︑木を伐る男性にとっては︵ただでさえ︑カメラ
があることを意識していただろうけれど︶︑眼の前の雪
の丘をカメラを構えながらジリジリと動き廻る人間の存
在が気にならないはずはない︒では︑石のように固まっ
ていればいいのか︑と言えば︑そう簡単に済むことでも
ないけれど︑動き廻る写真家の姿は確実に﹁写真を撮ら
れて居るなということを意識﹂︵柳田︶させた行動だっ
たと思う︒
*
しかし︑ここで面白いのは︑柳田国男から上に見たよ
うな︿クレーム﹀をつけられたこの一連のショットを ﹁雪国﹂出版の際に︑濱谷さんがほぼそのまま写真集に 収めたという点である︒一○年も桑取谷へ通い続け︑特 に︑敗戦直前の一九四五年七月に高田に疎開してから︑ 五二年に神奈川県大磯へ引っ越すまで新潟に住み続けた ことを考えてみれば︑この年以外の小正月︑若木迎えを 潰谷さんが写していないとは考えにくい︒そのなかには︑ 柳田の求めるものにより近い写真があったかも知れない︒ それをこの﹁写真を撮られて居るなということを意識﹂ していることの露わなショットにこだわったのは何故だ ろうか?たぶん︑そここそが︑漬谷さんの写真が﹁記 録写真﹂でありながら︑いわゆる民俗学の記録とも微妙 に違う点なのではないか︑と僕は思う︒
柳田流に言えば︑カメラマンが透明な存在であればあ
るほど︑民俗学の資料写真としての価値は高まる︒その
可能性を潰谷さんが探ったと見られる徴は︑たとえば︑
朝日ソノラマ刊の復刻版﹁雪国﹂の奥付に掲げられた
﹁1945年2月桑取谷にて撮影﹂とある潰谷さん自身
の立身像に見ることが出来るだろう︒坊主頭で雪袴を着︑
足にはワラ製の雪ぐっを履いて︑右手を腰に当てて雪の
上に立つ漬谷さんの姿は︑ちょっと顔の色が白すぎるこ
とを除けば︑雪国に暮らす若者のそれと言っていい︒桑
取谷へ通うこと六年目の小正月︑潰谷さんはほとんど山
人の暮らしにとけ込んでいた︒しかし︑いくら姿形を地
元の人のそれに合わせたところで︑カメラを構えた途端
7I
−に︑濱谷さんは︑被写体の世界の外に立たざるを得ない
存在である︒だが︑その︿外﹀への立ち方には︑幾通り
かの可能性があるだろう︒カメラマンだというのを前提
としながらも︑出来る限り︑その被写体の世界のなかへ
とけ込むことを模索する道もある︒前に挙げた土門拳氏
のように筑豊の子どもたちにズボンのベルトを買って与
えるというのも一つの方法であろう︒あるいは︑土門氏
申?盲I
の﹁ヒロシマ﹂における彼燦者目身の一人称の形式を採
った﹁説明文﹂のスタイルもその一つと言っていいかも
知れない︒だが︑そうした土門氏のような直接的︑もっ
と言えば︑直情的なとけ込み方だけでなく︑時間をかけ
てゆっくりとそのなかにとけ込んで行く方法もあるはず
だ︒それが︑漬谷氏の被写体の世界への関わり方であり︑
また︑︿外﹀への立ち方だっただろう︒
土門氏には︑﹁人の心なんて暖昧なものにはピントは
合わせられない﹂という意味の︿名言﹀があるけれど︑
漬谷さんはそのピントの合わないものに︑あるいはピン
トの合わない︿こと﹀そのものに焦点を合わせたいと思
い続けた人なのではないか︒そのピントが︑﹁若木迎え﹂
の場合には︑写真を撮られる男性と写す濱谷さんとの間
で共有された空間に合っていたということなのではない
だろうか︒﹁若木迎え﹂に写っている男性は︑桑取谷の
伝統行事をつつがなく執行するムラの匿名の誰かなどで
はなく︑潰谷さんにとって個別具体的な桑取谷のくあの 人﹀だった筈である︒その﹁人﹂を写しとるためにも ﹁若木迎え﹂のなかの木を伐っているショットは︑ポジ ションを少し移動して︑その﹁人﹂の表情のポイントと なる目を捉えたものでなければならなかったのだろう︒
渋沢敬三氏が潰谷さんの写真には﹁心が写っている﹂
*2魁 と評価したというが︑それは民俗的な信仰心に属する心
という意味ばかりではなかったのではないか︑と僕は考
える︒
*23 漬谷さんは︑復刻版﹁雪国﹂の﹁あとがき﹂で﹁人間
の土地︑人間の条件︑それを見極めたいと考えた︒﹂と
書き︑﹁裏日本﹄にも﹁人間の条件︑人間の土地という
ものに︑私は強い関心をもっている︒﹂と書く人である︒
もちろん︑漬谷さんはここでは和辻の﹁風土﹂でいうよ
うな﹁条件﹂を頭に置いているのだが︑僕などは︑カメ
ラマンが眼前にいることに違和感や照れくさい気持ちを
持ちながら︑小正月の行事を進めて行く人びとの﹁違和﹂
や﹁照れ﹂もまた︑広い意味での﹁人間の条件﹂ではな
いか︑と言いたくなる︒ともかく︑上に述べた見方で写
真を眺めていると﹃雪国﹂に写っているかなりの数の人
びとの表情が︑なんだか照れくさそうな︑面映ゆそうな
面もちにも思えてくる︒そういった表情も含めて︑﹁人
間の条件﹂が写っていると僕は考えたくなるのだ︒少し
言い方を変えるなら︑小正月の行事という︿こと﹀が記
録されているのと併せて︑記録行為から生じる撮影者と *塊前掲﹁潜像残像﹂より︒ なお︑これは初版﹁雪国﹂の ﹁序﹂で渋沢敬三氏が﹁演谷さ んの撮った風景や民俗事象は ﹁写真﹂であると同時に﹁写心﹂ でもあると思います﹂と述べた ことを踏まえた記述と思われる︒ *創土門拳︑写真典﹁ヒロシ マ﹂研光社︑一九五八年 *羽*肥に同じ
− 羽
被写体との間に生まれた心の内の出来事までも︑もう一
つの︿こと﹀として写されているような気がするのであ
る︒もしも︑そう言えるなら︑それは潰谷さんの写真が︑
民俗学のための記録というだけに終わらない︑暖かみを
もっている微だと言うのと︑ほとんど同じことになるだ
ろう︒
﹁雪国﹂の写真は︑桑取谷の笠原彦兵衛さんの家に世
話になるなかで撮影されたものが多い︒また︑そのなか
には︑たとえば桑取谷の洞泉寺で︑漬谷さんより五歳年
上だった住職の高嶺道隆師に撮影の助手やポンタキまで
手伝って貰ったりするなかで撮影されたものもあるとい
*24 う︒お坊さんにフラッシュ係︵Ⅱポンタキ︶を頼んだり
するなどという微笑ましい光景をも交え︑地元の人の多
くの協力を得て︑この集は完成したのである︒濱谷さん
は﹁雪国﹄が完成すると︑﹁村の全部の家に本を送り﹂
*25 見て貰ったという︒わずか二五戸の集落とは言え︑そう
した関わりのなかで︑これらの写真は写されてきたのだ︒
ここには︑被写体というモノを光学的に記録として定着
するといった冷たい関係はない︒勿論︑これが﹁記録写
真﹂になっていないなどと言うのではない︒繰り返しめ
くが︑記録された︿こと﹀と︑記録する︿こと﹀とが︑
そのなかで生まれた関係を壊さないで︑定着されている
のである︒
*26 ちなみに︑昨年刊行された写真集三幅縁随虚の人びと﹄ には︑漬谷さんがおよそ五○年のあいだに撮影した学者 や芸術家の肖像写真が収められているが︑そこには同時 に︑被写体となった人びとが潰谷さんの撮影台帳今日
﹄寅﹄︾﹄︒﹃ク
雲牒﹂︶へ揮毫︑署名した墨痕の複写も収録されている︒
このポートレイトと揮毫は︑潰谷さんの写真が単なる仕
事ではなく︑写真家と人とが出会った︿こと﹀の記録を
証しするものと言えるのではないだろうか︒
*
ところで︑高田を訪れ︑そして桑取谷の取材へと向か
う撮影活動の深まりにほんの少し先行する一九三八年に︑
潰谷さんは瀧口修造を中心に結成され︑永田一脩︑阿部
展也︑それに濱谷さんの実兄の田中雅夫らの参加した
豆別衛写真協会﹂に加わっている︒漬谷さん自身の思い
出の文章には︑
別に特別の政治的意図はなく︑写真の可能性や進歩
的な方向を研究するための会だったが︑前衛という言
葉は反体制的だとしてにらまれることになり︑翌年︑
造型写真研究会と名前を変えた︒あとにも先にも︑私
が芸術的な集団に参加したただ一つの会だった︒滝口
さんのお宅にまで押しかけて行って幼稚な簡問をした︒
滝口さんは大きな目を小さくほそめて︑苦悶の状態で︑
一語一語︑言葉を探しだすように︑誠実に親切に愚問
賢答して下さった︒ *鯉前掲﹁雪国﹂﹁あとがき﹂ より *妬演谷浩︑写真集﹁謁縁随 慮の人びと﹂創樹社︑一九九八 年 *お前掲﹁潜心騒涜悔竺より
Z 3 ‑
とある︒かなりレトリカルな文章なので︑正確なとこ
ろはよく分からないのだけれど︑瀧口氏の写真観を吸収
しようとした青年時の潰谷さんの姿が坊佛としてくるこ
とだけは確かだと思う︒また︑同じ年の七月には﹁青年
報道写真研究会﹂が土門拳︑田村茂︑藤本四八︑杉山吉
良︑林忠彦らの参加によって結成され︑漬谷さんはそこ
にも参加している︒﹁前衛﹂写真について考え︑﹁報道写
真﹂についての研究会に参加する︒単純化して言って︑
この時期の漬谷さんは︑戦時色が強まって行くなかでフ
リーランスになった自分自身の歩むべき道を一生懸命に
探していたという事だろう︒
本?一宇r
ちなみに︑この時期の瀧口修造は﹁前衛写真試論﹂や
*28 ﹁記録写真とアメリカFSAの写真﹂で︑記録写真につ
いて次のような論を展開している︒
今日﹁報道写真﹂が提唱され︑新しい写真家が活躍
し始めてゐることは心強いことである︒私はことさら
﹁報道写真﹂に﹁記録写真﹂を対立せしめようとは思
はない︒ルポルタァジュをあらゆる面に拡大してゆけ
ば︑広義の記録性を再確認することになるからである︒
た萱今日の﹁報道写真﹂の特殊な意義が国策に動員さ
れるのはやむを得ないことであって︑時には﹁記録写
真﹂といふ広義な場合とは実際異なる場合もあるであ
らう︒しかし︑いづれにもしろ︑﹁記録性﹂の新しい 書かれた時代背景抜きに︑この文章で言われているこ とを読みとるのは難しそうだ︒土門氏などが︑戦後に強 い違和感を表明することになる︑その実﹁プロパガンダ 写真﹂であった一五年戦争下の﹁報道写真﹂の実状を頭 に置いて読まないと誤差が生じるだろう︵﹁いづれにも しろ﹂という言葉で細かな議論を打ち切らざるを得ない ところに︑瀧口氏の苦しそうなスタンスを見ることが出 来ると思う︶︒そうしたことを踏まえたうえで︑この文 章で瀧口氏が言おうとするところを僕なりに押さえてお くなら︑レイョグラムやフォトグラムのようなものや︑ コラージュしたモノを撮ったりした主観性の濃い写真ば かりが﹁前衛写真﹂ではなく︑﹁記録写真﹂も立派な ﹁前衛写真﹂なのだという点にある︒
こうした議論が濱谷さんにどのような影響を具体的に
与えたかは分からない︒あくまでも僕の推測だけれど︑
上にみたように︑自らの道を探ろうとしていた漬谷さん
が︑こうした﹁記録写真﹂観をもっていた瀧口氏の讐咳
に接し︑また︑渋沢氏の民俗学への情熱に接するなかで︑ 精神を確立することは︑いはゆる﹁報道写真﹂の基礎 をなすものである︒︵中略︶前衛写真といふ題で︑か ういふ問題に触れるのを︑意外に思ふ人があるかも知 れない︒しかし私は写真の﹁前衛﹂的な仕事を︑かう
申29 した面にも見出したいと思ってゐる︒
*詔瀧口修造﹁記録写真とア
メリカFSAの写真﹂言フォト
タィムス﹂一九三九年二月︶
*釣前掲﹁前衛写真試諭﹂ *瀧口修造﹁前衛写真試證﹂ ︵﹁フォトタィムス﹂一九三八年 二月︶
− 秤
自分自身の進むべき﹁写真の可能性や進歩的な方向﹂の
一つとしての﹁記録写真﹂という方向に自信を与えるも
のだったと考えることは出来そうだ︒﹁記録﹂をしよう
という潰谷さんの立場は︑民俗学を出発点とし︑和辻哲
郎の﹁風土﹂を媒介にした学問の目を持とうとしながら
も︑もう一方で︑被写体との人間的なつながりを失うま
いとしていたと︑僕は考えるのだ︒
本30 長谷川明は﹁﹁報道写真﹂の行方﹂で︑戦時下の青年
写真家協会の設立や﹁報道写真/ニュース写真﹂をめぐ
る論争などに触れて︑戦時下の報道写真が宣伝写真に堕
する危機にあったこと︑および︑そのような状態に実際
になったことを踏まえつつ︑﹁戦前の報道写真の最大の
結実は涜谷浩の﹁雪国﹂︵毎日新聞社/一九五六年︶で
ある︒﹂と述べる︒そして﹁民族的なものの再発見と農
村文化の称揚はむしろ国策のひとつであったが︑そのほ
とんどは思想と方法の欠如のためなんの成果もあげられ
なかった︒その中で︑戦争からの逃避のようにして行わ
れた潰谷さんの営為だけが︑写真的成功を納めたという
ことは︑一種の皮肉とも言えそうである︒﹂としている
が︑そうした﹁写真的成功﹂は︑偶然に生まれたのでも
なければ︑学問的志向だけで生み出されるほど呑気なも
のではなかったはずである︒結果論にはなるが︑農村文
化の称揚という︑国策に足を掬われ兼ねない場に足を踏
汲込みながらも︑潰谷さんは桑取谷という個別具体的な 場所にこそ拘ったのであり︑﹁農村﹂一般〃や〃﹁民 族的﹂なもの一般〃という想念とは一線を画していた︒
*
民俗学への関心と記録写真への志向を強くもち始めた
濱谷さんは︑一九四一年の五月に木村伊兵衛氏の誘いを
受けて︑.五年戦争﹂下の対外宣伝︑つまり謀略宣伝
のための﹁写真画報﹂をつくる東方社に入社する︒だが︑
社の幹部と喧嘩をして︑翌年にはさっさと辞めてしまう︒
第二次世界大戦中にも桑取谷を訪れ︑写真を撮り続ける
が︑東京への空襲が烈しくなったので︑一九四五年七月
には高田へ疎開し︑寺町の浄土宗善導寺の裏二階に間借
りをして︑敗戦の八月一五日を迎えた︒その日︑ラジオ
で敗戦の報を聞いた後︑漬谷さんが中天にかかる太陽の
写真を写したことは︑潰谷さんの写真に関心を持つ者な
ら誰でも知っていることだ︒
まるで︑土星の輪のように光のスジが真ん中に見える
真っ白な太陽の画像は﹇敗戦の日の太陽︑高田﹈という
題名がなければ︑ただの太陽の写真としか見えない︒
その時︑どうして太陽を撮ったのか︑いまもってわ
からない︒写真を撮る行為に︑理性や感性とは別の何
かがあるのではないか︑記録癖が奇妙な形で現れただ
*31 けのことであるのか︑いまもってわからない︒ *釦長谷川明︒報道写真﹂の行方﹂︵﹁日本近代写真の成立﹂青弓社︑一九八七年︶ *瓢﹁写真体験50年の道程﹂ ︵洞谷浩︑写真集﹁地の貌滴
谷浩写真集成﹂岩波衝店︑一九
八一年︶
乃 一
写した本人にも分からないながら︑確かに一枚の写真
が撮られている︒僕のここまでの論理から言えば︑それ
は被写体の太陽に意味があるのではなく︑写すという行
為自体︑そしてそこに﹇敗戦の日の太陽﹈と題名を付け
ること自体に意味があったからだということになる︒
︿こと﹀としての写真︒それは︑写された事物を通じ
て象徴的な意味を予感させようとするのでもなく︑被写
体の細部まで詳細に写し出して︑モノとしての存在感を
表現しようとするのでもない︒ましてや︑戦前の日本の
写真界で一定の力を持った︑狭義の﹁前衛写真﹂lつ
まり︑瀧口修造の言う意味よりも狭い意味のlのよう
な主観性の強い写真でもない︑撮る者による対象への︑
じっくりと腰を据えた理解と共感のうえに立った︑撮る
行為自体もその映像の中ににじみ出ているような記録写
真のことを指す︒民俗学者が記録こそを目的として︑民
俗行事をフィルムに定着する仕業とも︑それは微妙に異
なっている︒
ママ
重森弘滝は﹁民族的視点と常民的視点l土門拳と浜谷
浩﹂で︑濱谷さんの方法論的基礎の確かさを述べたうえ
で︑漬谷さんの雪国への視線について︑﹁土門拳のよう
に︑すでに古典として評価されたものの再発見ではなく︑
日本の歴史のなかで常にネガティヴな側面としてしか扱
われず︑辛うじて左翼史観が階級的な見地から︑絶えざ
る闘争の階級として発掘しようとしていた側面であっ た・﹂と述べて︑土門氏の日本への指向と︑漬谷さんの ﹁日本人を知るため﹂の中味の違いを的確に指摘したが︑ それは被写体との関係の取り方に関する問題としても言 い換えられる要素を含んで示唆的な指摘だったのではな いかと思う︒つまり︑土門氏の場合は︑世間的に広く ﹁評価された﹂土台に乗って被写体に向き合うものであ ったのに対し︑涜谷さんの場合は︑学問的バックグラウ ンドを持つとは言え︑被写体と自分との関係を自身でじ っくりと時間をかけて作り出して行くものだったという ことだろう︒
土門氏に関してもう少しだけ言葉を費やすなら︑氏の
写真の場合は︑自らの怒り︑感動︵それらの感情が︑既
成のセンチメンタリズムやステレオタイプな感情といっ
た︑通俗性に通い合っていた点は︑長女の真魚氏が見抜
いていたとおりだろう︶を軸に現場に飛び込んで行く道
筋と︑重森氏がいうような﹁古典として評価されたもの﹂
をベースに仕事を展開して行く道筋という大きな二つの
道筋があったのではないか︑と僕は思っている︒その二
つは︑一見︑似て非なるもののように見えなくはないが︑
それらの基底にある価値意識は︑よくも悪くも大衆に理
解されやすいという点で共通していたのではないだろう
か︒
ちなみに言えば︑潰谷さんの写真に写っている宮吟統﹂
は︿こと﹀としての伝統であり︑土門氏の写真に写って
− 7 6
いるのは︿もの﹀としての伝統だという感じが僕には強
い︒確かに︑土門氏の写真にも︿こと﹀が写っていると
言えなくはない︒けれども︑たとえば文楽人形のヅラを
撮った土門氏の﹇文楽・老女形﹈などは︑その首から上
のアップであり︑それを操る人形師の身体はフレームか
ら外されていたりする︒
*
写真集﹁雪国﹂が刊行される二年前の一九五四年から
潰谷さんは︑青森︑秋田から島根︑山口に至る日本海側
の各地を取材して廻った︒その成果が三番目の写真集
﹃裏日本﹂として︑五七年に出版される︒津軽半島の竜
飛崎︑その切り立った岩場の下の狭い土地にへばりつく
ように立つ寒村の光景から始まって︑﹁裏日本﹂各地の
風土と人びとの生活を写した七九枚の写真の集成である︒
この写真集の冒頭︑扉の次のページには︑まるで詩の
ように行分けされて﹁人間が/人間を/理解する/ため
に/日本人が/日本人を/理解する/ために﹂という
濱谷さん自身のことばが掲げられている︒そして写真の
ページが始まるのに先立って﹁裏日本について﹂という
写真家自身の解説が置かれる︒一枚一枚の写真について
は︑巻末の﹁写真解説﹂に二○○字を越える説明が付け
られているが︑﹁裏日本について﹂はそうした写真群を
くくる︑濱谷さんの立場と理念︑そして意気込みを示し
たマニフェスト的な意味合いをもった文章である︒ ﹁裏日本について﹂はこのように始まる︒まるで地理 の教科書に出てくる文章のような感じさえするが︑漬谷 さんの筆はこうした地理的︑風土的条件を背負った日本 の姿を描き出し︑さらに︑その弧状列島の﹁太陽が背を 向けた土地﹂としての﹁裏日本﹂へと進んで行く︒﹁豪 華も︑虚栄も︑建設も︑混乱も︑ひっくるめて︑二十世 紀第一級の花形都市に成りあがった﹂東京を一方で見据 えながら︑﹁深い雪の中にかすんでしまっている﹂﹁裏日 本﹂を﹁日本人が/日本人を/理解する/ために﹂写し てきた仕事の意味付けが︑ここで行なわれている︒巨視 的な視点から書き起こされるこの﹁裏日本について﹂の
*32 *33 文体は︑後に濱谷さんが﹁日本列島﹄や﹁孤峰富士﹂な
*34 どを経て﹃地の貌濱谷浩写真集成﹂につながる︑数多
くの大山脈や氷河︑島々などを空撮で捉えた雄大な写真
の視点を連想させるものだ︒そうしたスケールの大きさ 日本列島は世界でもっとも大きい大陸と︑もっとも
大きい大洋に挟まれている︒それは北から南によこた
わる北海道︑本州︑四国︑九州の四つの主島と︑千を
くだらない多数の島喚によって構成された弧状列島で
ある︒国土面積三十七万平方粁︑人口は八千九百万を
越える︒人口密度はオランダ︑ベルギーに次ぐが︑農
用地に対する人口密度は最高である︒土地狭く︑人多
き国︑それが日本である︒
*醜澗谷浩︑写真集﹁日本列
島﹂平凡社︑一九六四年
*調涜谷浩︑写真集﹁孤飾富
士﹂集英社︑一九七八年
*弘前掲
7 7 − −
﹁裏日本について﹂の端々に和辻哲郎の﹁風土﹂から
の影響を見て取ることもたやすい︒モンスーン型︑砂漠
型などの自然地理的な気候の類型化にもとづいて人や文
化のありようを分析しようとした和辻風土論に︑濱谷さ
んは大きく影響されていると言っていい︒しかし︑その
類型論の危うさに踵を接しつつも︑漬谷さんの写真はそ
れぞれの土地に暮らす人びとの姿をつぶさに描き出し︑
そうした類型化のワナを乗り越えている︒
﹁潜像残像﹂によれば︑濱谷さんは﹁裏日本﹂の取材
の前に︑菅江真澄の東北紀行の文章や︑船遊亭扇橋の
﹁奥のしをり﹂︑鈴木牧之の﹁北越雪譜﹂︑吉田三郎の
﹁男鹿寒風山麓農民目録﹂︑太宰治﹁津軽﹂︑近藤康男の
編著﹃貧しさからの解放﹂などのほか︑さまざまな書物
を読んでおいたという︒こうした姿勢の根底では︑渋沢
氏や市川信次氏から影響を受けた民俗学的思考法との接
合が行なわれていたに違いない︒マクロの視野を持ちつ
つも︑一方では︑視線の先に捉える対象へのこまやかな
理解のためのスタンスを持つということ︒それが︑﹁裏
日本﹂へ向かう︑濱谷さんの基本的な姿勢であった︒言
うまでもないが︑それは﹁雪国の︑桑取谷の人びとへ
向けられた視線と同じ質のものだ︒学問的な理解を一方
で踏まえつつ︑その枠組みを絶対化せず︑向き合った現 は︑しかし︑ のではない︒ 決して︑目配りの荒っぽさへ向かう類のも場のなかで感じ︑考えて行く姿勢︒
この﹁私自身の理解を深める﹂という言葉は注意して
聞いておかなければならない︒知的︑学問的理解を深め
るなどという浅はかなところに尽きるのでなく︑自分自
身という存在の根っこを探り当てるためにこそ︑この仕
事は為されているという自覚を語った言葉の筈だ︒﹁学
問﹂的理解のために対象を切り刻んだり︑記述したりし
て︑学問の体系化を至高の価値とするようなところには︑
漬谷さんは自らを立たせないと言っているのだ︒足を地
に着けて︑この二○世紀の日本に自らが生きていること
の事実からスタートするということ︑そして︑その﹁日
本﹂が﹁花形都市﹂の周辺だけで成り立っているのでは
なく︑﹁裏﹂の﹁日本﹂の﹁太陽が背を向けた土地﹂と
ともにあることの意味を︑これらの写真を撮ることを通
して考えようとしたと言っているのである︒
*