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龍谷大學論集 474/475 - 001赤松徹真「創立370周年にあたって : 回顧と現在」

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Academic year: 2021

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創立三七

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周年にあたって│回顧と現在

l 龍谷大学 文学部長

本学は一六三九(寛永十六)年に本願寺第十三代良如宗主のもとで学寮として開設された。徳川政権は、﹁公儀 秩序﹂を確立するため武家諸法度、諸宗寺院法度などを定め本格的な制度、政策を展開し、仏教各宗においても宗 学の構築、僧侶養成が課題となっていた。本学が開設された年に徳川政権は鎖国令を発したが、学寮での真宗・仏 教の研究・学びは、﹁鎖国﹂下にあっても聞かれた人文知の回路を有する僧侶を育成するものであった。遠くイギ リスでは一六二八年に権利の請願がだされ、一六四二年から四九年にわたり清教徒革命がおこり、近代化への胎動 を 告 げ て い た 。 その後、日本は十九世紀半ばに開国を告げ、明治政府は、岩倉具視らの遺欧使節団を派遣したが、本願寺も梅上 津融、島地黙雷らを派遣し、留学生として赤松連城らを送りだした。一八七五(明治八)年にヨーロッパから帰国 した赤松連城らによって本学では、学校制度が採用され、文明開化に対応する従来の宗学のほかに幅広い教科を学 ぶ普通学科を設け、新たな教育展開をはかった。一八七九(明治十二)年には大教校を建て、一八八四(明治十 七)年には普通教校を開き、大学林を広く聞かれた教育施設、幅広い教養を修得する教育へと改革が進展した。一 九

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五(明治三十八)年には専門学校令による仏教大学となり、一九二二(大正十二年には旧制の大学令の認可

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を得て龍谷大学と改称された。 本論集は、大学林の同窓会﹃会報﹄第一号、一八九九(明治三十二)年にさかのぼる。その後、三年して﹃六傑 学報﹄となり、さらに校名の更改にともなって﹃龍谷大学論叢﹄、一九三三(昭和八)年には﹃龍谷学報﹄と改名 一九四四(昭和十九)年には一時休刊したが、新制の文学部が発足した一九四九(昭和二十四)年に現 さ れ た 。 在の﹃龍谷大学論集﹄として復刊された。 戦後、本学では経済社会の転換期にあたり社会科学系学部として一九六一 部を開設した。それは、親鷺聖人七

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回大遠思法要の記念事業であり、総合大学への第一歩を踏み出すものであ った。続いて経営学部、法学部を設置した。その後、一九八九(平成元)年には創立三五

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周年記念事業として滋 賀・瀬田学舎に理工学部と社会学部を開設し、さらに一九九六(平成八)年には国際文化学部を開設するに至った。 国際水準の科学技術の進展や国際化に貢献しうる教育・研究を目ざしながらも、建学の精神に基づく複雑な人間の ありょうへの深い凝視、理解を有した人間教育の課題に応えようとするものであった。 ところで、ポストモダン論が語られはじめてすでに約半世紀が経過する。それは近代の諸分野の行きづまり、構 造主義の議論にととまらず近代的な知性、人間論の基本に関わる深い問題でもある。文学部の諸分野が長きにわた (昭和三十六)年に深草の地に経済学 って集積してきた建学の精神を内在した人文知の教育・研究、そして短期大学部が集積してきた社会福祉分野の知 の教育・研究は、今後、いっそう現代社会に発信し、対話力を高めることに努める必要があろう。そのことによっ て、集積してきた文学部・短期大学部の聞かれた人文知の伝統力も発揮できよう。 本年、三七

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周年を迎えたことを機縁に、文学部・短期大学部の長きにわたる発展に、人文知の集積に寄与して いただいた諸先生の思徳に深謝しつつ、私たちは、文学部・短期大学部における人文知の継承と創造に向けて努力 してまいりたいと思う次第である。

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