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権力と支配のためでなく : 濱谷浩私論2

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権力と支配のためでなく : 濱谷浩私論2

著者 小関 和弘

雑誌名 東西南北

2000

ページ 104‑121

発行年 2000‑03‑18

URL http://id.nii.ac.jp/1073/00003648/

(2)

濱谷浩私論12

一九六○年六月と言えば︑五○歳代以上の人なら﹁安

保反対闘争﹂のことを思い出すだろう︒僕はもちろん

﹁六○年安保﹂は直接体験していないけれど︑それにま

つわる僅かばかりの記憶がある︒

一三歳年長の姉は当時︑大学の四年生︒たぶん非政治

的学生の一人として大学へ真面目に通っていただろう姉

の口から﹁アンポ﹂の語を聞いた記憶はない︒しかし︑

ある日の新聞の夕刊一面には国会議事堂前に集まった学

生デモ隊の写真が大きく掲げられていて︑その真ん中あ

たりに姉の通う大学の自治会の旗が写っているのを見た

記憶は鮮明である︒それを見て︑僕は︑なぜだか分から

ないが︑﹁ああ︑もしも大学っていうところに入ったら l﹁歴史﹂にどのように関わるか 小関和弘

権力と支配のためでなく

人文学部教授

僕もこんな風に︑デモに行くんだろうかなぁ﹂と思った

のだった︒その時︑そのことをどんな感情を交えて考え

ていたのかは︑まるで思い出せない︒

しかし当時八歳に過ぎなかった子どものこころにも︑

﹁アンポ﹂は確実に届いていた︒まさに﹁日本人がこれ

ほど政治というものに関心を強め︑行動をとったことは

*・なかったのではないか﹂という時代のうねりは︑ある雰

囲気としてに過ぎなかったにせよ︑群馬の田舎の小学生

の記憶にしみ込んだと言える︒

そうした時期に︑潰谷さんは︑自身も記しているよう

に︑﹁それまで︑政治的な写真を撮ることをしなかった

私も︑この歴史的な事件を記録しなければならないと考

申2*3え﹂て︑﹁怒りと悲しみの記録﹂に結実する安保闘争の

記録写真を撮影していった︒こうした行動に対して︑病 *1涜谷浩︑写真集﹁日本列島﹂︿あとがき﹁日本列島﹂前後﹀平凡社︑一九六四年*2前掲﹁日本列島﹂*3浦谷浩︑写真典﹁怒りと悲しみの記録﹂河出書房新社︑一九六○年*4阿部博行﹁土門拳生涯とその時代﹂︵法政大学出版局︑一九九七年︑2921293頁︶によれば︑当時︑土門氏は病身をおして安保のデモに参加したが︑カメラを持ってはいても︑ほとんど撮影しなかったという︒その理由として土門氏自身が︑﹁感情的に興奮状態になると︑その時は撮れたような気がするが︑いい写真は撮れない︑あの手の写真は新聞社の条件のいいカメラマンにはかなわない﹂と

‑ 1 0 4

(3)

l記録の諸相 幸一4身だった土門拳氏が﹁あれは商売で撮影しているのだ﹂と語ったとされ︑それを伝え聞いた漬谷さんが﹁当時︑彼は健康を害していたので私は無視した﹂ということも

巾吟③あったが︑その発言が事実だとしても︑それは潰谷さん

の撮影と産み出された作品の意味を掘り下げえた言とは

到底言えない︒

﹁怒りと悲しみの記録﹂に収められた写真を見ると︑

*卸⑪その記録性の高さにあらためて驚いてしまう︒警察の暴

力によって命を失った樺美智子さんが︑仲間に運び出さ

れる瞬間を写した有名な写真のことは︑ひとまず措いて

おくとして︑この年の五月二○日から六月二二日までの

反対闘争を記録した写真には︑記録性ということをめぐ

る潰谷さんの一貫した姿勢が見えると僕は思う︒

その記録性に関して︑注目しておきたい一点目は︑次

のようなことだ︒デモや集会に参加した人びとを深い被

写界深度のなかにとらえた潰谷さんの作品は︑もちろん︑

そうした運動自体の記録とも言える︒けれど︑それだけ

でなく︑ゆるい傭敵の位置から捉えられたその画面には︑

運動がどのような時代の文化と雰囲気のなかで展開され

ていたか︑ということまでも記録されているということ︒

たとえば︑六月一○日を写した中の一枚で︑﹁アィゼ

ンハウア大統領の訪日反対の声は日増しに強くなってい った︒十日︑ハガチー大統領新聞係秘書が最後の打合わせのために来日︒アイク訪日反対を要求する労組員など約三万人は羽田空港付近に集結した︒全学連主流派は弁天橋付近に待機した.﹂とのキャプションが付けられた作品に目を向けてみよう︒縦位置の画面手前に大きく﹁穴︲己雪胃旨冨二/・⁝..︑昌庸爵己という文字の見える横断幕をはじめ︑﹁︒︒シ乏皇﹂や﹁岸一派をのぞ⁝⁝﹂といった横断幕が︑それらを持つ学生たちよりも大きく捉えられている︒参加者の表情が鮮明に読みとれるこの写真の一番手前には︑ややアウト・フォーカスながら﹁アイク訪日反対﹂と記されたプラカードも写している︒そして︑こうしたデモ隊の人びとの背後には︑戦後の復興を成し遂げつつあった当時の日本の添景の一つである︑林立する電柱や﹁日東××﹂の文字の見える︵おそらく︑野坂昭如に言わせれば﹁アメリカひじき﹂となる︑紅茶の広告だと僕は思うのだけれど︶大きな広告塔などもかっちりと写し込まれているのだ︒

また︑写真集の最後に配された︑都電の線路が敷かれ

た広い道路上をさまざまな表情を浮かべながらフラン

ス・デモをして進む日教組の人びとを真正面から捉えた

写真llもちろん︑これも絞り込まれ︑深い被写界深度

を活用して撮られた一枚だには︑遠くの方で立ち往

生している都電の姿や︑青ランプを点した斜め縞模様の

交通信号機が︑これまたかっちりと写し込まれている︒ 語ったとあるが︑僕は.それ以上に︑擾影者として﹁出来蝋﹂の︿外﹀に立つことと︵デモの︶参加者として立ち統けることとの二者択一のなかで︑土門氏がどのように判断したかという観点に立って︑この問題を考えてみたいと思う︒*5滴谷浩﹁体験的写真識3/6.15前後のこと﹂︿﹁カメラ芸術﹂一九六二年六月号︶︒また︑浦谷浩﹁潜像残像l写真家の体験的回想l﹄︵河出番房新社︑一九七一年︶200頁にも同様の記述が見られる︒*6ただし︑写真集からピックアップされたものを掲載した﹁カメラ毎日﹂一九六○年八月号の口絵写真に対する評︵﹁アサヒカメラ﹂一九六○年九月号﹁私のベスト5﹂︶のなかには﹁あまりにもロマンチックすぎる﹂︵福島辰夫︶︑﹁︵冷徹なリアリズムの視線に対して︶﹁怒りの詩﹂としての視覚構成﹂︵伊麓逸平︶といったものもあった.だが︑これらの評にある﹁ロマンチック﹂や﹁詩﹂という聯をも含めて︑僕は﹁記録性﹂を苗っておきたいと思う︒記録写真が﹁客観的﹂であるという発想や言説自体がロマンチシズムを秘めていることを指摘しておけ

ば︑この際充分だろう︒

I O 5 ‑

(4)

いや︑この写真の場合には︑それだけではない︒画面向

かって右手︑葉を茂らせた街路樹の奥には︑通り過ぎる

デモ隊を眺めるワイシャツ姿の人を始め︑複数の﹁見物

人﹂が写し込まれている︒

写真の背後や周辺に取り込まれたこれらの景物は︑デ

モ隊の実態を伝え︑記録するだけの立場からすれば︑副

次的なものと言ってよいはずだ︒弁天橋付近のショット

にしても︑フランス・デモのショットにしても︑画面の

もう少し上の部分を切り詰めることもできなくはなかっ

たように僕は思う︒フレーミングの際にカメラをやや下

に振ればよいことであろうし︑そうでなくともトリミン

*﹃0グで処理することもあり得たはずだ︒だが︑そうではな

い︑という立場が在りうる︒そうしたところから見える︑

濱谷さんの写真の記録性の幅広さを︑まず最初に強調し

ておきたいと思う︒

さて︑﹁怒りと悲しみの記録﹂の記録性ということに

関して︑二つ目に注目しておきたいのは︑安保反対のデ

モや集会を﹁歴史﹂の記録として捉えるだけでなく︑一

人一人の人間の心情や感情︑そして思想の記録としてお

こうという点である︒言うまでもないけれど︑このこと

はこの写真集の名前にストレートに示されている︒その

ことは︑同じ六○年安保を写した︑新聞社の写真とくら

べてみることでもっとハツキリする︒

たとえば︑毎日新聞による六月一五日の﹁国会正門前﹂ の空撮写真では︑画面上半分を占めてドーンと威圧的に立ちはだかる議事堂の建物の手前に集まっている人間が本当に小さなつぶつぶでしかない︒言えば︑デモ隊はそうしたく集団﹀と言うか︿群れ﹀としてしか捉えられていない︒それに︑樺さんが命を奪われた一五日夜の国会正門前の写真は︑空撮ではないけれど︑かなりのハイ・ポジションから撮影されたもので︑画面左半分に警官隊が︑右半分にはデモ隊が密集して︑互いに緊張感を高めて向き合う様子が写されている︒こういった新聞写真は︑﹁安保反対﹂の運動がどんな風に行なわれているのかを報道するためのものだということを自ら主張しているのである︒違う言い方で言えば︑新聞というメディアは運動に参加する一人一人の人間がどんな表情を浮かべ︑思いを体から漂わせているかについては︑まるで関心をも

*Hっていないという宣言でもあるのだ︒

これに対し︑濱谷さんの写真は﹁日本現代写真史岳

*9余lら昌一にも採録された︑機動隊の放水をあびるデモ

隊の写真のような群集を写したものlこれは画面がデ

モ隊の部分だけに集中しているのだけれどにしても︑

参加者の表情や姿勢からにじみ出る意志や感情はくっき

りと捉えられている︒

一九九七年一月から三月までのあいだ︑東京都写真美

術館で︽漬谷浩写真体験六十六年/﹁写真の世紀﹂︾

が開かれた︒そのとき︑展示を見て歩くために配られた *8ただし︑これはやや新聞に厳しすぎる見方である可能性もなくはない︒仮に︑国会構内に突入した人びとの顔が識別できる大きさで捉えられ︑それが新聞に掲戟されたなら︑それら

は︑ジゼル・フロイントが﹁歴 *7遡れば︑涜谷さんは若き日に﹁スナップの撮り方﹂︵アルス︑一九三九年七月︶という本を醤いている.北原白秋の弟鉄雄が経営するアルスで出していた︑新四六判という小型の版形で総ページ数七○頁余の﹁アルス写真文庫﹂シリーズの一冊を占める小冊子である︒そのなかの﹁群衆﹂という章には︑作例として︑大半が同じようなコートと帽子に身を包んだ男性が︑みな同じ方向に向いて立つ傭醗写真︵タテ構図︶が掲載されている︒これは解説に﹁秋の東京

ママ競馬で︑発表直後に諸々の思索

をする観衆の動揺を狙ったもの

である︒﹂とあることでやっと分かるくらいに︑競馬場を指し

示す情報は画面内に柵薄である.

もっと広い画角のレンズがなかったからかも知れないが︑この

写真では︑周辺の︑競馬場とは関係ない事物がフレーミングに

よって切り捨てられたものと考

えられる︒

‑ I O 6

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湾りと韮しみの鼬陣19 】

●このヴパI剖! 午に無こった安保園?をドキュメントしたもので振なにら呼釧&ていzのか燈・兇 毒 虫 い 弗

醜鼬&上下l湖けも 鱒暉員に19直々lニなにか篭叫んで包めよる人々が.¥航に鯵秋K えざるよう 低顧にヘルメソト識哲念火桝の望窟威唾γ鞍

●単こ 8臆の州肥 呼怠』瞳いきず。壷な遵写嵐家14ぞ よ雑1Mり"&したのでし卿か。

#職撫息騰撫憩鯛撫瀬纈辮鵬陰

0

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い&のでず 伽1W邸rI伽峨虞】1曲〔剛秘錨岼GjI魂1

錐の1M;人浮.故々の外駐をした.堅')些牽しみを帆み収ねた{卜践であなた牛 11の人岡力【・牛11の人同として唯きてゆくために.今11も・人と人はFをつなぎ・

叩挫ひろげ、碗に脚かって郷、て櫛った.腿・剛緬IgjI裡暑ために,樫I》と韮し み ヴ郷I〃1

9雛龍総鎚灘鰯麓:餓謬』""‑ズヘと"…毒

癖 蚕 … ̲ −

東京都写真美術館《濱谷浩

l

写真体験六十六年一写真の世紀》展(1997)「ワークシート」より

﹁ワークシート﹂の﹃怒りと悲しみの記録﹂に触れた部

分は︑濱谷さんのこの仕事の特噴を見事に捉えている︒

ワークシートのページには︑黒光りする警官隊の無表

情な鉄兜が手前に数十個ならび︑その向こうにさまざま

な表情を浮かべる学生たちの姿が捉えられた雲旦相官邸

前の衝突1960︵昭和弱︶年6月3日﹂という写真

が掲げられている︒そして︑ワークシートを手にした観

客へ︑次のような問いをぶつけてくる︒

︿この写真は1960年に起こった安保闘争をドキュ

メントしたものです︒なにが写されているのかを︑見て

みましょう﹀︒そして︑これに対し︿画面を上下に分け

るように奥には口々に何かを叫んでつめよる人びとが︑

手前にはそれをさえぎるように頭にヘルメットを被った

大勢の警官がいます︒﹀という答えが用意される︒ひと

ことだけ︑注釈的に言葉を挟んでおくと︑この写真には︑

厳密に言って︑警官という存在は写っていない︒黒光り

する鉄兜がゴロゴロと並んでいるだけなのだ︒その無表

情さ︒無機質さ︒それに対して︑学生たちは叫び︑睨み

つけ︑伸び上がって覗き込み︑訴えるような表情を見せ

るなど︑じつに多彩な人間の感情を表わしている︒この

ことは︑特に強調しておきたいことだ︒

ワークシートの言葉は続けて︑︿ここには群衆の表情

だけが写されています︒なぜ︑写真家はそのような撮り

方をしたのでしょうか︒﹀との問いを投げかけ︑︿60年 史上はじめて︑写真が警察への通報者となった﹂と指摘する︵﹃写真と社会﹂﹁報道写真﹂136頁︶パリコミューンの参加者の写真と同じような役割を果たした可能性もなくはないのだから︒日本に即して言えば︑一九六八年一月に︑佐世保への米空母エンタープライズ寄港阻止を掲げて博多駅に到着した学生を撮したニュース・フィルムが︑検察当局によって証拠請求された例など︑その現実化した一つの姿だったと言えるかも知れない︒*9﹃日本現代写真史思念Iご司昌日本写真家協会編平凡社︑一九七七年

1 0 7 ‑

(6)

僕は︑こうした大衆運動へのカメラの向け方として︑

若き日のジゼル・フロイントがナチス勃興去星別のドイツ

における社会主義者たちのデモや佳枩室を撮影した写真を

思い出す︒それらの写真を︑僕は一昨年︑品川の原美術

館で開かれた︽ドイツ・DGバンク・コレクション展︾

で見たのだけれど︑彼女の写真はライカの機動性を生か の安保闘争では︑﹁日米安全保障条約﹂の改定問題をめぐって大勢の労働組合員や︑学生︑一般市民までもがデモに参加し連日国会に押し寄せました︒写真家は群衆の激しい表情と叫びにレンズを向けることによって︑当時の政治に対する人びとの不満や怒りの感情を浮き彫りにしています︒﹀という答えを示している︒ここには︑このワークシートを書いたキュレーターの立場も垣間見えて︑それなりに楽しめるのだけれど︑それはとりあえず措くことにしよう︒要は︑六○年安保の時代の人びとの感情とをこそ被写体とした濱谷さんの姿勢が︑的確に把握されている点だ︒

デモに参加した人びとの表情︑横断幕に掲げられた言

葉︑こうしたものを正面から鮮明に捉えきる姿勢は︑い

わゆる﹁記録﹂とか﹁証言﹂といった客観主義的な匂い

の強いあり方を超えて︑被写体︵態︶の立場や姿勢に対

する共鳴なしにはあり得ないだろう︒

1個の表現としての﹁記録写真﹂ し︑デモ隊の姿をその正面から︑横断幕に書かれた文字がはっきりと読めるように撮影されているものだった︒彼女の写真からは︑被写体となった人びとが自らの置かれた政治状況をどう感じているかが伝わってくる︒また︑デモに参加する意気込みと同時に︑ある種のあきらめの気持ちも伝わってくる︒見ていると︑まるで人びとの感情の壁さえ読みとれるような気がしたものだ︒

フロィントのこれらの写真は︑一九九六年まで公開さ

れずに来たものであるから︑濱谷さんが出会っている可

能性はまずない︒まして︑﹃怒りと悲しみの記録﹂の作

品を撮っていた時点に見ているはずもないのだが︑二人

の写真のあいだには確かな繋がりが感じられる︒時期は

異なるが︑フロィント自身も濱谷さんと同じく︑国際的

な写真ジャーナリスト集団Ⅱマグナム・フォトに所属し

ていた︒そうした写真家としての実際的な立場の近さと

いうことも勿論ある︒マグナムは個々の芸術家としての

主体概吟を大切にしながら︑フォト・ジャーナリズムのな

かで生き抜いていく力を持った写真家たちの集団である︒

漬谷さんの言葉によるなら︑﹁マグナムの精神は一言で

いえば人間尊重ということになる︒国家や民族や体制を

乗り越えて人間の問題に迫り︑写真を通して相互理解に

努める︒その裏づけとなるものは各自の自由の精神とそ

*10の責任感でなければならない︒﹂とされるマグナムに二

人とも加わっていたのである︒そうした写真家の集団に︑ *︑滴谷浩﹁潜像残像﹂河出密房新社︑一九七一年︑193

‑ 1 m

(7)

時を隔ててはいるものの︑この二人が加わって事を無視

するわけにはいかない︒だが︑それとならんで︑いや︑

それ以上に﹁現代の問題に対する自分の感情や思想を表

*・I・I現する手段﹂とするフロイントの写真観と︑﹁私は︑私

の﹁人間の幸福とは何か﹂という今日の課題を︑写真に

*■I汐︾よって考えなければならない﹂と書き記す涜谷さんの写

真観との親近性こそが︑二人の仕事を近いものとして見

せるのだと思う︒

﹃日本現代写真史乞急l﹄弓昌の解説﹁戦後写真史

展望﹂で渡辺勉氏は︑﹁史上最大の国民運動であった︑

59年から60年にかけての安保阻止闘争においても︑

ルポルタージュとしての写真活動には厳粛な歴史の一回

性を捉えた貴重なドキュメントが少なくない.﹂として︑

個人の仕事としては漬谷さんの﹁怒りと悲しみの記録﹂

をあげ︑共同制作によるものとして﹁ゆるせない日から

の記録﹂や﹁黒い恐怖・安保と国民﹂﹁主権者の怒り﹂

などを挙げている︒いま︑詳しく検討する余裕がないが︑

後者が優れたく記録﹀としてあるとすれば︑濱谷さんの

仕事は︑安保闘争のさまざまな局面に立ち会った人間漬

谷浩の感情の︿表現﹀であり︑そうした位相をひっくる

めて見事な︿記録﹀となっているのだと僕は考える︒六

月三日の首相官邸前で︑機動隊の暴行を受けて背広に血

が飛び散った姿のまま︑たくし上げたワイシャツの両手

を押し広げるようにして前に向かう市民の連続写真は︑ そうした感情の記録以外ではない︒

漬谷さんは︑アメリカの﹁ライフ﹂からの奮味闘争に

ついての取材依頼や︑ニューョークのマグナムからの取

材指示も﹁アメリカへの送稿はどのように使われるかわ

かったものではない﹂との理由から断った︒その一方で︑

パリ・マグナムからの送稿依頼には応諾し︑その写真は

﹁パリ・マッチ﹂誌に掲載される︒そして︑それがきっ

かけとなって︑世界の学生問題を取り上げる合同企画が

マグナムで立てられ︑ロンドンの﹁ザ・サンデー・タイ

ムス﹂の連載へと繋がっていった︒また︑奮味闘争を写

した漬谷さんの作品は︑国内では各地の大学や高校の文

*13化祭を巡回して多くの人びとの目に触れたのだった︒

そうした盛り上がりはあったものの︑岸内閣総辞職後

に発足した池田内閣の所得倍増計画によって﹁国民は踊

らされ︑あれだけ盛りあがった国民の政治意識は無残喪

失︑ジャーナリズムも圧力に屈し転向︑金権政治は横暴

*二4をきわめ︑権力の座が固められていった︒﹂

濱谷さんの積極的な活動は︑雑誌社などに警戒感を抱

かせることとなり︑仕事を干された状態になったという︒

そのようななかで︑漬谷さんは︑

ひと夏︑たっぷりと大磯の海につかり︑東北の山々

も歩いてみて考えた︒日本人の複雑怪奇な性格︑熱し

やすくさめやすく︑付和雷同︑没個性︑これはどうい *皿ジゼル・フロイント/佐似秀樹訳﹁写真と社会メディアのポリティーク﹂お茶の水野

●○○○■︑勝︑一九八六年︑l92f

*M前掲﹁潜像残像﹂209

*蝿前掲﹁潜像残像﹂2071209頁 *岨前掲﹃日本列島﹂

1 0 ‑

(8)

という︒十年一日ではなく︑四○年も一日かと思わざ

るをえない現代の日本を思うとき︑溜息なくしては読め

ない文章である︒そして︑ここから写真集﹁日本列島﹂

の構想が生まれる︒

I日本列島への視線

写真集﹁日本列島﹄は﹁怒りと悲しみの記録﹂から約

四年を経て刊行されている︒安保後の六○年二月から︑

三年四ヵ月にわたって日本列島の各地を撮影して廻った

成果である︒

漬谷さん自身が﹁それまで︑私は自然だけを対象とし

て撮影したことは︑ほとんどなかったといっていい︒い

ままでの写真集も︑人間に関係したものばかりであった︒

﹁日本列島﹂は私にとって異質な本となった︒﹂と記して

いるように︑この写真集は﹁火山﹂二四枚︑﹁海﹂一六

枚︑﹁高山﹂八枚︑﹁河川﹂八枚︑﹁湖沼﹂八枚︑﹁湿原﹂

八枚︑﹁石灰岩台地﹂八枚︑﹁樹氷﹂八枚︑﹁原生林﹂一

六枚︑﹁最高峰﹂七枚の総計二一枚︑全てカラー写真

の作品集である︒人はただの一人も写っていない︒

各章の章立て︵分類︶の方法も一般の写真集としてか

なり異質なものだと言えるが︑それだけではない︒その うことなのか︒私は日本の自然を見つめてみたいと考

中15えた︒ 命名にも考えるべき点はある︒

最後の章﹁最高峰﹂は︑言うまでもなく富士山のこと

を指している︒だが︑ここでの漬谷さんは︑手垢にまみ

れたく富士山﹀または︿富士﹀という記号を避けたのだ︒

僕なりに解釈すれば︑︿富士山﹀とした途端にそれは風

景写真に転落する︒転落という言い方が悪ければ︑風景

*0←・6写真へと地滑りを起こすと言い換えてもよい.

伊藤俊治氏はかつて風景写真について次のように述べ

た︒﹁風景を写しとめた写真は︑その時代の人間をとり

まく自然の観念や︑自然への衝動を明らかにしてきた︒﹂

また︑﹁風景写真は︑風景という概念の喪失︑自然の不

在をまのあたりにして︑おびただしく撮影される︒すく

なくとも︑二十世紀の風景写真はそうした自然の不在と

いう無意識の不安と正確に対応している︒いや︑風景写

真が逆にそうした不安に明確な形を与えているといって

申・I寺jもいいだろう︒﹂と︒

伊藤氏はジョエル・メイエロウ︑マイナー・ホワイト︑

ゲーリー・ウィノグラントなどの作品を図版として掲げ

てはいるが︑具体的な分析や論及はしていない︒ただ︑

そこに掲げられた圧倒的多数の﹁風景﹂写真が︑人工物

︵車︑街路樹︑道路︑家屋など︶を写し込んでいること

は示唆的と言える︒つまり︑伊藤氏が﹁自然の不在とい

う無意識の不安﹂というとき︑それは人工的な︑あるい

は文明社会のなかで︑ふと我に返った際に︑人工的な事 *灯伊藤俊治﹁二十世紀写真史﹂筑曝欝房︑一九八八年︑﹁四︑風景の悲劇﹂166頁 *肥前稿でも付記したように︑澗谷さんには﹁孤雌嵩士﹂︵﹁現代写真全集日本の美第十巻﹂築英社︑一九七八年︶という写真集がある︒その﹁美﹂をめぐる問題については︑本稿で触れる予定だったが︑別の機会に廻さざるをえなくなった︒ *略前掲﹁潜像残像﹂209

− 〃 0

(9)

物の向こうに透けて見える人の手を加えられていない

︵ように見える︶事物が喚起する不安ということになる

だろう︒言い換えるなら︑人工物を介在させた︿文明﹀

の側に重心を大きくかけた足の裏側で感じる不安であろ

う︒そうした人工的な世界に足をかけて生活しているな

かで︑ぼくらは確かに﹁風景という概念の喪失﹂のなか

にあると言うほかなさそうだし︑﹁自然の不在﹂をこそ︑

文明の到達度の指標としてきた︒

l﹁風景写真﹂から遠く

しかし漬谷さんが﹁日本列島﹄にまとめた写真は︑ど

うも︑そうした﹁自然の不在﹂や﹁鉦鶯識の不安﹂とい

うことからはみ出した地点に成り立っているように思わ

れてならないのだ︒確かに︑︿荒々しい自然﹀とか︿未

踏の秘境﹀とかいった空間が﹁発見﹂されるには︑圧倒

的な力をつけ︑システム化された交通ネット・ワークの

成立が不可欠である︒その点で︑三年四カ月もの時間を

かけて日本の各地に出かけ︑地勢写真とでも言うべきこ

うした画像を空撮も含めて撮影できたのも︑そうした近

代交通システムの成立を抜きには考えられない︒だから︑

これら﹃日本列島﹂の写真にも﹁自然の不在﹂を決定的

にした現代文明は確実に影を落としている︒そもそも︑

写真という物理・科学技術を使ったこと自体︑自然から

の距離なしには存在しえないことであるのだから︒

写真は「非売品」のハードカバー版。

濱谷浩「日本列島』(平凡社、1964年)。

市販されたのは紙製ソフトカバー。

ノ 〃 −

(10)

しかし﹁日本列島﹄の写真︑例えば︑﹁火山﹂の章に

収められた﹁阿蘇・火山灰層﹂や﹁桜島・塊状熔岩﹂な

どは︑一方が熔岩と火山灰が層を成している断面が画面

全体を占める写真であり︑もう一方は凝結した熔岩の

﹁奇怪な鉱津状皮殼﹂のディテールを捉えた写真であっ

て︑﹁風景写真﹂と位置づけるのにはどうしても無理が

あるという気がする︒さらに付け加えるなら︑﹁海﹂の

章の﹁喜界島・造礁珊瑚生活体﹂﹁喜界島・造礁珊瑚骨

格﹂といった作品も︑その題名からも想像がつくとおり︑

生物学の領域に属すような写真なのだ︒

そして︑もう一つ︑この写真集がいわゆる風景写真と

違うことを理解する上でとても大切なことだと思うのは︑

﹁湿原﹂の章に収められた﹁中田代流水・ミツガシワ

群馬県﹂﹁小沼・ワタスゲ群馬県﹂﹁下田代・ニッコウ

キスゲ福島県﹂の三枚に関してである︒これらは︑そ

れぞれ︑題名の通りの植物を捉えた作品である︒だが︑

題名から想像されるような︑その花をクロース・アップ

で捉えた野生植物の美しさを伝えようとする類の写真で

はない︒

いずれも広角レンズを使って︑それぞれの植物が群生

する場所全体を捉えたゆるい傭醗のショットという点で

共通する︒ミツガシワやワタスゲ︑ニッコウキスゲを美

的な視線で捉えようとしたなら︑マクロ・レンズを使っ

た近接撮影が選択されるのは有力な方法だったはずだが︑ と記す漬谷さんの視点について︑例えば︑﹁日本列島の民﹂を﹁海に囲まれた﹂と一義的に規定してしまうところや︑そもそも﹁自然観﹂といった抽象レベルを自明のものとする発想方法で大丈夫なのかとか︑自然対人間というスタティックな二元的構図の採り方に問題はない

のか︑といった感想はおのずから湧いては来る︒しかし l﹁美しい風景﹂からの距離 漬谷さんは実に識厳にその方法を避けているのだ︒しかも︑後者の二作品は︑撮影場所が別なのに︑まるで一つの場所をワイドに捉えたかの如く︑それぞれの地平線が見開きページで一致するようレイアウトされている︒ここには︑それらの植物の生育環境を全体として捉えよう

*18とする自然観察家の視線がある︒

なぜ︑潰谷さんはこのようなタイプの写真も交えた写

真の集成として日本列島を描き出そうと思ったのだろう

か︒

自然に対して人間はどのような考えをもってきたか︒

またどのように接触してきたか︒地域的にも︑歴史的

にも変化があった︒狩猟民族と農耕民族とでは異なっ

た自然観をもっていた︒東洋と西洋でも極端な差があ

り︑アジア大陸の民族と︑海に囲まれた日本列島の民

*19ともちがいがあった︒ *肥当時︑科学雑誌︵﹁自然﹂一九六四年九月︶の新刊紹介では次のように評されていた︒﹁︵前略︶今までも︑日本列島を撮った写真典や航空写真集もあったのだが︑体系的に︑ある面では専門の地理学者のような眼で捉えたものは本魯が初めてである︒優れた写真家の作品を通じて︑われわれは日本列島を居ながらにして眺め︑見直すことができ︑さらには日本人というものを考えなおさせてくれる︒地理学への非専門家の賞亜な貢献といえよう︒また︑いわゆる科学写真とは異なっているが︑

立派な科学写真となっているこ

とに気づく.﹂︵引用は︑竹村嘉

夫/豊田芳州﹁自然写真五○年史ネーチャーフォト一五○○

冊の歩み﹂文一総合出版︑一九

九五年による︶

*胸前掲﹁日本列島﹂

− 〃 2

(11)

傘砂冥叩申秒守lここには﹁雪国﹂﹁裏日本﹄の仕事を通じて︑日本11

という枠組みを自明のものとする漬谷さんのスタンスに

も疑問が突きつけられて当然ではあるがIに生きる人

びとの暮らしが︑いかに自然環境に規定されて存立して

いるかを肌で感じ取った濱谷さんの経験が根を張ってい

ることをとりあえず確かめておくことにしよう︒その問

題点については︑追々︑以下の行論のなかで考えていき

たいと思う︒

ところで︑この当時︑風景について︑例えば︑浦松佐

美太郎氏が﹁アサヒカメラ﹂の一九六○年一○月号に

﹁美しい風景とは何だろう﹂という文章を書いている︒

そこで浦松氏は﹁日本全国を観光のために歩きまわ﹂

る﹁観光ブーム﹂が﹁庶民﹂のあいだで隆盛を見せてい

るが︑その対極では風景写真が衰弱したと論じている︒

そして︑庶民は観光地に絵葉書的風景以外の﹁心を打つ

もの﹂を見いだせているから︑観光に出かけているのだ

と述べる︒︵根拠も実証もなしの︑こうした手放しの庶

民礼賛には古典的﹁知識人﹂のコンプレックスめいたも

のを感じもするのだが︑それはまあ措いておくことにし

よう︒︶そして︑浦松氏は写真家の責務は︑庶民を感動

させる﹁美しい風景﹂とは何なのかを突き止めることに

あるとする︒それなしでは︑﹁美しい風景にカメラを向

ければ既成の形が固い枠となって写真家を締めつけ﹂て

くることになるとし︑﹁写真家こそが絵葉書的な風景に 支配されているのだ﹂と論を進めている︒では︑その責務をどのように果たしたらいいのか︒

浦松氏の結論は意外に︑いや予想通り︑凡庸なものだ︒

﹁自分の心に素直になることから始めなければなるまい﹂

というのである︒まるで︑道徳の時間に付き合わされて

いるような気分にさせられる︒素直になって︑﹁その風

景から︑自分を感動させた何かをつかみ出﹂し︑どのよ

うに表現をするかの方法を考えることがプロの写真家の

課題だというのだ︒氏は︑写真家がこうした態度をとら

なくなり︑﹁この面倒な問題を放棄して︑風景写真から

の逃避が始まったのだと思われる﹂と述べる︒

結局︑この文章の過半では︑ほとんど根拠のない議論

が展開され︑また︑具体的な処方菱も示されないまま︑

日本の写真家は風景写真から逃避しているとの断案が下

される︒

僕がここで浦松氏の論を取り上げたのは︑第一に︑漬

谷さんの﹃日本列島﹂の仕事がまとめられる時期に︑絵

葉書的ではない﹁美しい風景﹂を求める気分があったら

しい︑ということを確かめておきたかったからだ︒そし

て︑浦松氏の文章が﹁日本の写真界の最近の低調﹂と

﹁日本全国を観光のために歩きまわっている﹂人びとの

存在を視野に収めlその視野にどんなフィルターが掛

かっていたかを今は問わないl︑﹁日本﹂の文化状況

をめぐる言説として繰り広げられていたことを確認して *釦瀬谷浩.写真集﹁雪国﹂毎日新聞社︑一九五六年*別澗谷浩︑写真災﹁喪日本﹂新潮社.一九五七年

〃 3 −

(12)

おけば︑とりあえずは充分と言ってもよい︒要は﹁美し

い風景﹂はどこかにある︑という︿信念﹀と﹁日本﹂の

写真家たちの奮起を促す言説が浦松氏の文章の骨格を作

っているということだ︒

しかしこれだけならば︑ことさら浦松氏の文章でなく

ても構わないと言うこともできる︒そのとおり︒実は︑

浦松氏の文章は︑上に述べた﹁批判﹂のあとで︑アンセ

ル・アダムスが編集した﹁これがアメリカの国土だ

言国勗嗣自畠向崖富国国○匿昌屡国國重所収の写真へと

論を展開させている︒アンセル・アダムスは︑言うまで

もなく︑ティモシー・オサリバンやウィリアム・ヘンリ

ー・ジャクソンといった一九世紀後半のアメリカ風景写

真の開祖たちから大きな影響を受けて出発した風景写真

の巨匠である︒そのアダムスが関わったこの写真集は

﹁産業の発達によって急速に失われていくアメリカの風

景を子孫のために保存しようとして︑立ち上がったカリ

フォルニアの人たちによって作られたシエラ・クラブの

発行﹂︵浦松︶である︒そして︑浦松氏はここに収めら

れた写真には﹁カメラの目を通して初めて見られる風景﹂

が捉えられており︑﹁彼︵アダムス︶には風景写真の衰

弱の兆候は少しも見られない﹂とする︒なるほど︑そう

いう見方も成り立たなくはない︒だが︑浦松氏が意識し

ていたかどうかは別として︑この批評の構図のなかで︑

﹁失われていくアメリカの風景を子孫のために保存しよ う﹂という壮大な︿物韮廻のなかに据えられたアダムスらと︑そうした大きな︿物語﹀なしに﹁風景から︑自分を感動させた何かをつかみ出﹂すという︑個人的な努力を期待される日本の写真家とのバック・グラウンドの落差が無視されている︒だからと言って︑僕は浦松氏の批評のスタンスがバランスを欠いているなどと言いたいのではない︒そうではなくて︑浦松氏の言説は︑この時期の日本の写真︑少なくとも風景写真の世界が︑大きな︿物語﹀を持てなくなっていたことを裏側から照らし出していたのではないか︑と言っておきたいのだ︒

浦松氏は︑風景写真の衰弱と言い︑また﹁風景に対す

る感覚が衰弱しつつある﹂と述べてもいた︒けれど︑僕

の考えでは︑問題は﹁感覚が衰弱しつつあ﹂ったかどう

かではなく︑﹁感覚﹂を支える︑というより︑それなし

では﹁感覚﹂が﹁感覚﹂たりえないような︑基盤となる

価値観︑つまりは風景をめぐる︿物語﹀がこの時代に失

われていた点にあるということなのだ︒断っておくが︑

僕はここで︿物語﹀の回復を主張しようとするのではな

い︒︿物語﹀への傾斜を︑浦松氏の言は裏書きするだろ

う︒また︑そうしたく物語﹀をでっち上げたい人びとは

いつの時代にもいる︒そもそも︑︿物塞聖は幻想に過ぎ

ない︒が︑そんなことは議論の出発点に過ぎないだろう︒

だが︑今はそんなことが問題なのではない︒

話が広がりすぎた感じがしてならないので︑本筋に戻

〃 4

(13)

子どつ︒

ともあれ︑僕は漬谷さんの﹁日本列島﹂が現われた時

代とは︑浦松氏の言から垣間見えるような︑風景をめぐ

る︿物語﹀の不在という状況にあったらしい︑と言って

おきたいのである︒もとより︑この時期と言えども風景

写真に分類される作品も︵浦松氏の言と背馳するかのよ

*22うに︶生み出されてはいる︒﹁日本写真史年表﹂をザッ

と見渡しても︑一九六○年の前後の年には︑毎年五︑六

冊の風景写真集を拾い出すことが出来る︒だから︑それ

相応の風景観を持って︑風景写真︵集︶は生み出されて

いたとも言えなくはない︒しかし︑それらが共有する

︵意識的にか否かは問題ではない︶価値観が︑旧態依然

のものか︑あるいは腰の定まらない混迷を示していたと

は言えそうである︒

ここで再び漬谷さんの言を引こう︒

時の流れとともに︑自然と人間との関係はさまざま

に変化してきた︒現在という時点でも︑自然に対する

考え方にはいろいろな個人差がある︒︵中略︶写真家

は︵風景に対して⁝⁝引用者注︶どのようにたいする

か︒︵原文改行︶写真のモチーフとして自然が対象と

なった場合︑風景写真という言葉が使われた︒︵中略︶

日本の場合も︑風景はかなり早くから写真のモチーフ

として写されてきた︒目的は風景そのものではなく︑ l﹁風景﹂への新たな態度

風景写真は︑たぶん︑写真が誕生してから絶えること

なく写し続けられてきた︒ニエプスの最初の作例を挙げ

るまでもなく︒だが︑日本の写真表現の歴史のなかで写

されてきた﹁風景写真﹂は︑光の芸術としての風景写真

であり︑それを超えることはなかったと濱谷さんは言っ

ているのだ︒この芸術写真としての風景写真ということ

で連想されるのは︑オイルやブロモイルといったピグメ

ント印画法によって絵画への接近を企図した﹁芸術写真﹂

としての風景写真ばかりでなく︑飯沢耕太郎氏が﹁日本

*ツヤーの写真家たちの風景写真の原点﹂と呼んでいる福原信三

の﹁主観的な風景写真﹂のことである︒俳譜に親炎した

福原が主唱した﹁俳句写真論﹂に見られるように︑そこ

では︑﹁光と其の階調﹂を重視した情緒的な風景写真が

重んじられた︒濱谷さんはそうした写真のなかに潜在す

る風景への態度を改めることが必要だと考えたのだった︒ 光とその階調を︑美的に再現することにあった︒いわゆる芸術写真であって︑日本人の嗜好にかない︑この傾向は長くつづいた︒その後も新しい風景写真を求められながら︑理論は生まれなかった︒︵中略︶風景を風景として眺める態度を変えなければ︑新しい道は開けない︒風景という言葉につきまとった古い風景感覚

*抄見jから脱皮しないことには︑と私は思った︒*艶﹁Ⅲ本写興史年表﹂購談

社︑一九七六年

*鱒前掲﹁日本列島﹂

*別飯沢耕太郎﹃写真美術館

へようこそ﹂講談社現代新書︑

一九九六年︑102頁

〃 5 −

(14)

﹃日本列島﹂に収められた写真は︑風景写真と呼ぶに

はためらいを覚えさせるものが多い︒それは︑漬谷さん

が﹁古い風景感覚﹂からの脱皮を図ったことに由来する

と言える︒

では︑この写真集で試みられた撮影の手法︑あるいは

風景への態度を僕らは︑いま︑どんな風に捉えることが

出来るのだろうか︒そこからどのような全間題﹀が見え

てくるのだろうか︒

﹁日本列島﹂巻頭には地理学者の辻村太郎氏による

﹁日本の自然観﹂という文章が置かれている︒﹁わが日本

の景色が︑世界諸国のどこにくらべても決して負けない

くらいに美しいとは︑誰でもいうことである︒﹂という

書き出しのこの文章は︑おおむね︑先に挙げたこの本の

章立てにしたがって日本の各風景の特色を外国の類似の

ものと比較する形で展開される︒そして︑この文章の最

後は次のように結ばれる︒

日本の自然景観が︑世界のどんな国とくらべて見て

も︑著しく優秀であるということは︑いままで述べた

ところで大体ながら見当がつくであろうと思うが︑ま

だまだ書き足らない点は沢山ある︒とにかく私たちは

こんな国に住むことに︑生き甲斐を感じ︑こんな土地

で生まれたことを感謝しないではいられない︒ と︒正確に言えば︑この文章のあとに︑ヨーロッパや

北米諸国の自然保護のあり方を意識しながら︑日本の自

然を保護する責務について語られた一段落があるのだが︑

そのことはいいとしよう︒

いま︑僕がこの辻村氏の文章を引き写しながら思うの

は︑漬谷さんがこの本の扉ページに掲げ︑また︑﹁あと

がき﹂にあたる﹁﹁日本列島﹂前後﹂にも書き記した

﹁人間はいつか自然を見つめる時があっていい﹂という

言葉と︑この辻村氏の文章との微妙な食い違いである︒

濱谷さんは︑上に見てきたように︑六○年安保後に直

面させられた﹁日本人の複雑怪奇な性格︑熱しやすくさ

めやすく︑付和雷同︑没個性﹂の根っこを探るために︑

日本列島の各地の自然を見つめてみようとしたのだった︒

その出発点には︑﹁雪国﹂以来︑漬谷さんの方法論的バ

ックボーンとなってきた和辻風土論があることは言うま

でもない︵その和辻風土論には︑僕は距離をとりたいと

考えている者の一人だけれど︶︒ともかく︑漬谷さんは

日本の自然を見つめなおすなかから︑日本人︑あるいは

日本の精神文化について考えようとしていた︒これは︑

日本賛美の方向を採ろうとすることとは︑微妙だけれど

決定的に違う方向なのではないか︑と僕は考える︒

こうした潰谷さんのスタンスに対して︑辻村氏はまっ

たく配慮を示しているとは思えない︒いや︑単純素朴に︑

潰谷さんの写真を介して︑︿日本礼賛﹀︿日本賛美﹀の方

− 〃 6

(15)

向へ話を持っていってしまっているのだ︒これは︑よく

ある︑自然科学者の思想オンチとして片づけられる話な

のかも知れないlそうした思想オンチを︑僕は自分が

工学部の学生だった期間に少なからず見てきた︒もちろ

ん︑自分もそのウチの一人だったわけだが︑僕はこ

れは決して小さくはない︿問題﹀を投げかけるものとな

っている︑と思う︒

川端康成という小説を書く人が︑かつて世界的な或る

賞を貰ったときに﹁美しい日本の私﹂という記念講演を

した︒その小説家は︑のちに︑保守党から立候補した知

事候補の応援演説をするくらい政治的に﹁右﹂の立場に

立った人だ︒僕の頭のなかでは︑そんな風に﹁美しい日

本﹂というタームは政治の色合いをおびて響く︒

しかし︑辻村氏のスタンスとの違いをここであげつら

えば話が済むくらいならことは至極簡単だと言える︒つ

まり︑ことはそう簡単ではないようなのだ︒

l﹃日本列島﹄から﹃日本の自然﹂へ

﹁日本列島﹄を刊行した二年後の一九七五年︑濱谷

さんは国際情報社から﹃日本の自妖坐︵上︶︵下︶二巻を

刊行している︒これはそれぞれ副題に﹁国立公園東日

本編﹂﹁西日本編﹂と銘打たれた写真集である︒題字を

﹁日本芸術院会員・俳人﹂の荻原井泉水が書き︑序文

︵﹁上﹂︶には理学博士の宮脇昭横浜国大教授が﹁日本人 を育てた美しい日本の自然﹂を︑西ドイツの理論応用植生学研究所長で国際植生学会の事務局長を務めるというR・チュクセン博士が﹁人間は自然なしでは生存できない﹂というメッセージを寄せる︒さらに︑本文解説として﹁日本芸術院会員・文芸評論家﹂の山本健吉氏が﹁日本の自然と文学﹂を︑﹁随筆家﹂の串田孫一氏が﹁北の風景へ向かう心﹂を︑﹁日本文化研究家﹂のV・ケンリック氏が﹁美しくやさしい自然と日本人今忍日課﹂を︑そ

r戸I1lbRILIlⅡ腰rll︲Dbと■■■■011トトレ︲︲IPLIlIKu●ppbF■IL︐b昨叩トヂリ時脚FL叶巴昨卜 ︾F

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I

《上・東日本編》

'

匪 凸 B 鰯鼠懲

i

濱谷浩『日本の自然(上)」(国際情報社、1975年)箱

" 7 ‑

(16)

して﹁信州大教授・理博﹂の小林国夫氏が﹁日本列島の

生いたちと景観︵上︶﹂を書いている︒これに加え︑横

浜国大植生学研究室の文責による﹁国立公園の植物相

︵上︶﹂が配される︒

この写真集が刊行された七○年代半ばと言えば︑日本

各地の公害問題が顕在化した六○年代を否定的に引き受

けるなかから︑さまざまな反対運動や環境保護の取り組

みが盛んになった時期に当たる︒環境庁というお役所が

作られた︵発足︶のは一九七一年の七月︒﹁環境権﹂と

いう言葉が使われ始めるなど︑環境保護への意識の高ま

りが︑この写真集刊行の背景にはあった︒それを証すよ

うに︑宮脇氏の文章は各地の植生の特徴を語りながら︑

自然保護の重要性を強調している︒それは他の筆者の文

章にも共通する点だと言っていい︒また︑巻末には︑そ

れぞれの文章に対応する英訳が付けられて︑自然保護の

世界的な動きに連動しようという意図も見て取ることが

出来る︒それは各写真のタイトルに付けられた英文の存

在にしても同様に見られるだろう︒

しかし︑この書物には﹁日本﹂礼賛の気配も微妙に漂

っている︒上にいちいち書き出した筆者名とその文章の

題を見れば分かるとおり11いや︑英訳の添附から見れ

ば︑﹁国際的﹂な場を意識しているからだと考えられな

くもないがl︑それぞれの筆者の肩書きに見える事大

主義︵串田氏は例外︶︒そして︑﹁国立﹂公園の自然を集 積した写真集という︑籾いがたい曰型志向のスタンスは︑表立って礼賛の姿勢を見せているわけではないのだけれど︑全体の文脈としては国家としての日本を志向するものとなっている︒﹁潜在自然植生図﹂︵上巻︶や﹁現存植生図﹂︵下巻︶を付した編集方針からは︑科学的な視線と態度を見ることができ︑単なる風景写真集に終わらせまいとする企図を見落とすことは出来ないのだが︑そうした科学性の一方で︑﹁上巻﹂で﹁北海道地方﹂にある国立・国定公園を示した地図には﹁クナシリ︵国後︶島﹂﹁水晶島﹂といった︑いわゆる﹁北方領土﹂が︑名称をくっきりと書き込まれて記されている点も無視するわけにはいかない︒この写真集が刊行される二年前の七三年九月には︑衆議院本会議で﹁北方領土の返還に関する決議﹂が全会一致で可決されていたという同時代相の下にこの地図を置けば︑その意味は否応なしに﹁国家﹂の論理への親和性を持って見えてくるはずだ︵また︑このことに関わって言っておくなら︑﹁日本列島﹂のなかの﹁日本列島撮影地﹂という地図にも﹁北方四島﹂は書き込まれている︒ただ︑そこでは﹁四島﹂とそれに含まれないウルップ島が﹁本土﹂と同じく茶色に塗られるだけで︑島の名は記されていない︶︒

もちろん︑﹁日本の自妖色のこうした細部にわたって

潰谷さんが了解︑同意して︑この写真集が刊行されたと

は思えない︒むしろ︑写真集を貫く﹁自然保護﹂の理念

‑ " 8

(17)

にふさわしい写真を数多く撮ってきたというところから

漬谷さんが写真家として選ばれたに過ぎないと言うべき

だろう︒だが︑僕が先ほど辻村太郎氏のスタンスを取り

上げて考えようとした地点に︑さらには漬谷さんが﹁日

本﹂という枠組みを自明のものとしているらしいことに

触れた部分に︑戻って言うならば︑濱谷さんが写した日

本列島の自然を捉えた写真︵に限らず︑となるだろうが︶

は︑この﹁日本の自妖色のような︑あるいは辻村氏の示

したような︑︿日本国﹀の主張や︿日本賛辛琴の主張に

接合されうる部分を有しているということである︒この

ことは︑写真家個人の主張や思想とは異なったレベルの

イデオロギー性として︑確認しておく必要があることだ

参つ一つ︒

ベネディクト・アンダーソンは﹁想像の共同体﹂の増

補版で.九世紀半ば以降︑植民地国家のイデオロギー︑

政策の下敷きとなった文法﹂を﹁もっとも見事に浮き彫

りにするものとしての権力の三つの制度﹂として﹁人口

*25調査︑地図︑博物館﹂をあげている︒もとより︑比嶮的

な意味を除けば︑戦後の日本を植民地国家と呼ぶことは

出来ないし︑講和条約発行後の﹁日本国﹂が国民国家と

しての再結成のために︑自国の領土へ植民地的な視線を

注いだと言うのも無理な言い方になるだろう︒けれど︑

国勢調査や住民基本台帳︑そして建設省の付属機関・国

土地理院作成の地形図︑各地方自治体が管理する都市計 l傭磁⁝⁝権力と支配のためでなく 画の用途地域図などなどを考えれば分かるとおり︑人口調査の結果や地図の作製は︑近代国家を支えるイデオロギー装置として大きな役割を担ってきたことは間違いない︒そして︑僕らは教科書などの地図に示された﹁日本列島﹂の形を通じて︑国家へのアイデンティティを身につけさせられても来たのだ︒

思えば︑一九三三年に実用航空研究所に入って東京銀

座を空撮して以降︑濱谷さんが足を踏み入れたく世界﹀

が︑微妙に︑この﹁人口調査︑地図︑博物館﹂の世界に

接点を持っていることは興味深い︒実用航空研究所は︑

﹁︵イ︶広告宣伝飛行︵ロ︶祝賀記念飛行︵ハ︶職下撮影︵一二空中捜索飛行︵ホ︶諸計器試験飛行

*シ胃U︵へ︶同乗飛行﹂を業務としていたように︑直接︑地図

作製に関わったりしているわけではない︒だが︑﹁鰍下

撮影﹂はその依頼主の目的は問わないとしても︑鰍下す

ること自体が軍事的な禁忌に触れ︑国家の機密事項に抵

触する恐れがあるものに他ならない︒それは︑潰谷さん

が実用航空研に入った六年後の三九年一二月に﹁軍機保

護法﹂施行規則が改められて﹁傭傲撮影禁止﹂となった

ことでも分かるとおりである︒

濱谷さんの写真の傭傲の視点については前稿で触れた

が︑そういった傭鰍の視点は︑アンダーソンのいう﹁権 *路ベネディクト・アンダーソン/白石さや.白石隆訳﹁増補想像の共同体﹂﹁X章人口調査︑地図︑博物館﹂NTT出版︑一九九七年︑274頁*坊前掲﹁潜像残像﹄10頁

"9−一一一

参照

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