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鈴木さん、これからも、どうぞよろしく

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Academic year: 2021

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10月27日(2011年)、夕刻、ぼくは、鈴木勁介さんのお通夜に駆け付けた。すでに、鈴木 さんと親愛、敬愛の念を込めておつき合いを続けてきた卒業生や同僚の一群がいた。すぐ に、彼らは、ここ数日間、心をこめてお見送りする気持ちと段取りを整えてきたのだと分 かった。お清めのときには、鈴木さんの友人たちである岡上の皆さんにもお会いできた。

祭壇に飾られたご遺影には、ちょび髭、あご髭がついていて、若々しく見えた。でも、ど う考えても、ぼくは、髭を生やした鈴木さんを想いだせない。間もなくして、つい最近ま でオシャレに心がけていて、近影なのだと分かった。実は、ぼくは、昨年末、大病をして、

いまも、グズグズした体調のままなのだが、もう少し元気になったら、再会したいと願っ ていた。ぼくは、「ごぶさた、ごめんなさい。長い間、お世話になりました。ありがとうご ざいました!」と心の中で繰り返しながら、お骨を拾うときまでお付き合いさせていただ いた。それから、しばらくして、リケットさんが「学部紀要に、何人かで追悼文を書こう と思うんだけども、シノハラさんも書きませんか。」と誘って下さった。もちろん快諾した。

さっそく、鈴木さんが『和光大学モンゴル学術調査団 変容するモンゴル世界──国境 にまたがる民』(新幹社 1999年)に書いた最終章「蒙疆という妄想」と「少し長い後書き」、

そして「鈴木勁介教授退任記念特集」(『現代社会関係研究 2003』)を読み直した。

この学術調査団は、プロモーター・ユさん、団長・三橋さんなどで、90年代後半を通し て、各地のモンゴル人社会を訪ねながら、当該書をまとめたのだが、鈴木さんは、決して 現地に足を踏み入れることがなかった。にもかかわらず、本書を閉めるこれらの文章を書 いているのだが、前者では、「昭和史を垣間見た中で知り得たのは、日本人が夢見た〈蒙疆〉

という王道楽土は、モンゴル人やその他の民族の故郷としての世界ではなく、日本人の身 勝手な妄想の中で描きだされた王道楽土だったということである。そして王道楽土という には、あまりにも多くの血が流され、悲嘆の涙が流されたのであった。(中略)今後、モン ゴル社会と接する機会は増えてゆくであろうが、昭和史の轍を踏むことは許されない。」と 結んでいる。そして、後者でも、「本書が、モンゴルの人々と意味共有の範域を相互に広げ うる、礎の一つになることを願っている。そして今後モンゴルと接するときに、我々はい つまで無垢な異邦人であり続けることができるのかという、そのことを考える手だての一 つとしてもこの書が役立てばよいと願う。」と、重ねて念を押している。

鈴木さんは、少年時代、父上のお仕事の関係で、戦中、朝鮮の地で日本人として暮らし

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特別企画◎鈴木勁介名誉教授追悼

鈴木さん、これからも、どうぞよろしく

篠原睦治 SHINOHARAMutsuharu

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ている。そして、戦後、一貫して、日本の朝鮮支配・アジア侵略の過ちを忘れることなく、

この体験を引きずり続けられていた。それゆえ、あえて現地に飛ぶことなく、おひとりで、

ご自分の研究室で、私たちが引き受けるべき課題をこのように書き綴ったのだと思うと、

そのことの重さを改めて味わっている。

鈴木さんは、本書に収めた拙文「草原の中の宴──ホボクサイルの人々を訪ねて」を

「気持ちに潤いを与えてくれる心温まる踏査記」と評しているが、ぼくは、鈴木さんに叱ら れているような気もしてきて、すぐに、これも読み直した。漢民族中心の中国国家の「改 革・開放」のなかで、同化と自立のはざまを生きる少数民族・モンゴルの人々の暮らしを 描こうとしたということで、鈴木さんのお眼がねに少しは叶ったかなと、自らを慰めてい る。

話は戻るが、80年代当初、ぼくは、アメリカ社会の「黒人の白人社会への統合」問題に 関わって取材活動をして、「統合下の新たな分離」などと指摘したあとだっただけに(『障 害児教育と人種問題』現代書館 1982年)、80年代後半、縁あって毎夏出入りすることになる 漁村「志摩・和具」に惹かれ、そこで、相互扶助と異端排除の「せめぎあう共生社会」を

「日本的共生社会論」の一端として描こうとしていた。ぼくは、鈴木さんが『エスキス』の 編集担当をしていたとき、この報告を「〈フィールド・ノート〉海女社会、志摩・和具を描 く」と題して投稿したが(1991年)、彼は、「こんな原稿がほしかったんだよ」と歓んでくれ た。ミニコミ紙『ゆきわたり』にすでに数回にわたって書き綴っていた何本かの〈ノート〉

を丁寧に読みながら切り貼りし再構成して下さったのだが、そのことは、その手裁きとと もに、折々に、なつかしくありがたく想い出す。

さて、鈴木さんの『私編 岡上風土記稿』(八月書館 2003年)こそ、「気持ちに潤いを与 えてくれる心温まる踏査記」である。しかし、ぼくがかつて描いてしまった「日本的共生 社会論」に問い直しを迫る文脈になっている。(既述した)「退任記念特集」で、堂前さんと ぼくは、鈴木さんに、本書を「語る」ことをしてもらったが、そのなかで、「いまだに、生 活習慣なども、「日本の」という言い方で無理矢理まとめようとしますが、それは明治時代 に天皇を中心とした国民意識を形成し、国語を制定して国家を不動にする、ということで した。それは、在所の言葉でもなく、生活の言葉でもなかった。これによって、村人だっ た人びとは国民になり、〈日本人〉に改造されたのです。」と言い切っている。

鈴木さんは、「日本人・日本社会」論からもアカデミズムからも自由だった。そのなかで、

「村人である・だった」人びとの暮らしと「都会化してきた暮らし」のはざまに焦点をあて て、自ずと淡々と「国家・国民」を対象化し批判し続けていたのだ。そのフィールドは、

日本列島全域にわたっている。例えば十津川村(奈良)とそこからの移植民が開拓した新 十津川町(北海道)を20数年にわたって往復して思索を重ねているが、90年代に入ってか ら、これを、学部紀要で「国内移住における文化変容に関して Ⅰ〜Ⅴ」と題して論じて いる。「『私編 岡上風土記稿』を読む」のなかで、「これは、ライフワークということなの でしょうが、ぼくのことですから、いつになったらまとまるかわかりません。」と話してい

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和光大学現代人間学部紀要 第5号(2012年3月)

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る。お元気であれば、もう一冊出たのかもしれない。

ところで、『私編 岡上風土記稿』には、酒、酒の肴、そして祭が出てくる。鈴木さんは 一緒に飲み食いするだけなく、そのために、音頭を取って、魚を捌き、肴をつくり、どん ど焼きの復活と継続に動いてきた。『エスキス』に連載していた頃から、「岡上風土記稿」

は、鈴木さんの文章にそって、当時の同僚、川添さんがスケッチした風景を処々に配置し ている。やがて、この連載が一冊の本になるとき、これは、スケッチと題字の川添さん、

カバーデザインの柊さん、そして、八月書館のかつてのゼミ生、伊藤さん等々によってバ ックアップされて、いよいよ素敵な共同の作品になった。

定年退職後、鈴木さんは、入退院を繰り返すようになった。でも、お酒は、いつでもど こでも好きだった。ぼくも、入院中の鈴木さんを何度か訪ねたが、あるとき、「ぼくは、こ のところ、刺身を食べていない。」と不満げに言い出して、ふたりは、車イスで新宿の街中 に繰り出すことにした。すし屋に入って、ごちそうになったが、鈴木さんの本命は、お酒 だった。にぎりは、確か一貫だけだったと記憶している。その帰りがけ、スーパーへ寄っ てほしいと言った。まさかと思ったが、缶ビールを数缶、ぼくに買わせた。ぼくは、ナー スステーションの前を隠すようにして運び込み、ベッドの傍の冷蔵庫にしまったが、すぐ にばれて、叱られたと、後に聞いた。

お互いが若い頃、ぼくは、「学生と両親に会うことになっている。シノハラさん、一緒に 考えてくれないか」と言われて、新宿の喫茶店で、五人で話しこんだことがある。鈴木さ んは歓んでくれて、彼らを送ると、「じゃあ、一杯!」と、結局三軒のハシゴをした。在職 中、鈴木さんに限らず、酒の肴にひかれて、幾度も飲み屋に誘われてきたが、ぼくにとっ て「ハシゴ三軒」は、これが最初で最後だと思う。鈴木さんは飲めないぼくに気を遣って くれて、すべて、肴の旨い所を選んだ。最後はそば屋だった。当然、これで帰るのだと思 いこんだぼくは、さっさと新宿駅に向かった。改札口まで来ると、ぼくを見送ってくれな がら、なんと「今日は、ありがとう。ぼくはもう一軒!」と言いつつ、再び深夜の町なか に戻っていった。

その後も、こぼし話、相談事で、鈴木さんの研究室に入ると、ぼくのために「今日は、

甘いものがあったかなあ」などと冷蔵庫の中を探すことがよくあった。最初から今日まで、

ぼくは「飲み友達」ではなかったけれど、ずっと有難い親しいおつき合いができた。

昨年までの数年間、ぼくは、鈴木さんを見舞う立場だった。しかし、いま、ぼくは、昨 年末の大病以来、病むこと・老いることを身に沁みて体験しつつ、「人が人と生きる」こと を反芻している。鈴木さんとは、もう少し元気になったら、こんな事々を語り合いたいと 本当に思っていた。しかし、もはや居られない。とはいえ、これからも、記憶の中に蓄え られている鈴木さんのお姿、感じ方、考え方を想起しながら、鈴木さんと十分に対話でき るような気がしてならない。鈴木さん、これからも、よろしく。合掌。(2011/11/23)

─────────────────────────────[しのはら むつはる・和光大学名誉教授]

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特別企画◎鈴木勁介名誉教授追悼

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