茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)37号(1988)13−33 13
明治期中等学校図画教員の研究(1)
一北海道・東北地方一
金 子 一夫*
(1987年9月12日受理)
Drawing Teachers of Secondary Schools in the Mbiji Era(1)
Kazuo KANEKO*
(Received September 12,1987)
1.図画教員調査の必要性
明治期の学校教育は新文化の伝達に大きな役割りを果した。特に各地の師範学校や中学校は,そ の地方の一種の文化的中心であった。今日の学校が彪大なマス・イメージの前に,生徒や親と同列 に並ばされているのとは1),大きく違っている。これは学校教育の中の一教科である図画科(美術 科)の教育に関しても同様である。明治時代の図画科の教育内容は,今日から見て幼稚であるかも
しれないが,その当時の一般の人々の絵画意識を大きく超えるものであった。明治初期にいけばい くほど,そういうことが言える。
明治時代の図画教育,特に中等学校の図画教育は,図画教員の個別性によってその程度や内容が ずい分違っていたのではないかと想像される。もちろん,今日でもそうだとは言えるのであるが,
明治時代の方がずっとその可能性が強い。なぜなら,図画教育の内容がさまざまな要素を包含して 落着いたのが明治後期であり,それ以前は図画教科書にしても,図画教員の養成のされ方にしても 非常に多様であるからである。明治中期までの図画教員は洋画塾や工部美術学校出身者が大部分で ある。明治中期からはそこに東京美術学校等で日本画を専ら修業した図画教員が加わっていく。さ らに明治後期には東京美術学校西洋画科のように,明治前期の洋画家とは違った意識を教育したと ころからも卒業生が図面教員となり始める。例外もあるが,一般的に図面教育の内容や方法が,図 画教員自身の受けた教育内容や教育方法に影響されると言えるであろう。普通教育における図画教 育の内容や方法が論議され,普通教育の図画と専門教育のそれとが区別され始めるのは,明治後期 からである。さらにそれが図画教科書等で広く浸透するのは大正期になってからであろう。それゆ え,明治時代は図画教員の修業の個別性が,その教育内容や教育方法に大きく反映していることは 十分に想像できるのである。
* 茨城大学教育学部美術科教育研究室
14 茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)37号(1988)
もちろんこのようなことは想像ではなく個々の資料にあたって調査すべきである。そうすると,
日本画を修業した図画教員が洋風の図画を指導していたりする例も出てくる。この具体的な図画教 育内容の調査は,たとい使用図画教科書の調査であっても,図画教員の調査よりも困難であり,時 間もかかる。それゆえ,それは長期的な課題とし,とりあえず,どのような修業をした図画教員が いつ,どこで勤務したかを明らかにしておく必要がある。この調査も,全国的にするのはそれほど 簡単ではないが,不可能ではない。
昭和17年以前の中等学校あるいは,それと同等の学校は,師範学校,中学校,高等女学校,そし て実業学校である。図画教員はこれらの学校間を全国的に異動した。筆者は明治時代のこれらの学 校の図画教員の大部分については調査を終了したのであるが,若干の未調査校と発表スペースの問題 があったので,各府県の師範学校の図画教員だけを抜粋して既に発表した2)。本稿から,数回に わたって全国の明治期中等学校図画教員の勤務一覧を発表することにする。師範学校については前 述のように既に発表したのであるが,その後新たに判明した事項もあり,また,明治前期において は師範学校と中学校の図画教員が兼任であることが多く,その関係を見るためにも一覧表に加えて おく。明治19年から27年まで存在した,いくつかの高等中学校も法令上は中等学校に入るけれども,
高等学校に接続するので,今回からの論槁には加えず,後に発表予定の「高等教育機関・直轄学校 図画教員の研究(仮題)」に収録する。
それから,今回の発表が北海道・東北地方の中等学校に関してであることに特別の意味はない。
現在の各県立高等学校教員が県内で異動するのと違って,戦前は県立中学校教員であっても全国を 異動した。それゆえ,本来は全国の中等学校の図画教員を一ぺんに発表した方がよいのである。し かし,紙幅の関係で無理なので,北の方から機械的に分割し順次発表するということでしかない。
勤務一覧表に関して,各県の各学校ごとに簡単な説明をつけたが,これもスペースの関係で最少限 にとどめた。学校名は繁雑になるので便宜的に明治末年時の地名を冠した校名で統一してある。調 査の手順および出身学校の略記法は前稿と同じである。出身校名の略記方法は本稿の第5図の下に 示した。
2.明治期の中等学校と図画教員
各県の中等学校図画教員一覧表と説明に入る前に,明治期中等学校の概観と図画教員の需要につ いて見ておこう。師範学校に関しての概観は前稿で行ったので,ここでは中学校を中心に見ておく。
中学校の発生形態はさまざまである。学制発布以前にも藩や府県の設立による中学校が散見され る。さらに明治10年前後になると,府県の師範学校に附設される形で多くの中学校が設置された。
また,かつての藩の中心であった都市には,藩校の伝統を引く公立中学校,あるいは私立中学校が 設立されることもあった。学制には「下等中学」の教科の一つとして「画学」が挙げられていた。
しかし,明治10年以前にどの程度教えられていたかは,はっきりしない。明治10年頃から特に師範 学校に附属して設置された中学校では画学担当教員が判明することが多いので,この頃から専門教 員によって教えられていたことが想像できる。ただ,県立以外の学校では図画という教科がなかっ たり,あっても専門でない教員が兼担していることが多い。また,県によっては中学校の設置が,
明治二十年代になってからの場合もある。その県でも,師範学校においては専門の教員によって図 画教育はなされている。
金子:明治期中等学校図画教員の研究(1)一北海道・東北地方一 15
明治19年の中学校令により中学校は尋常中学校(公立)と高等中学校(官立)に分けられ,尋常 中学校は地方税をもって設立維持されるのは各府県に一校しか許されないことになった。しかも,
区町村費では維持され得ないと定められた。そのため,多くの中学校が統廃合され,校数が半減し 3)
スとされる 。私立学校になった学校もある。この時廃校になった中学校でも図画教員がいたはず であるが,一都を除き調査は不可能に近い。おそらく,多くの図画教員が職を失ったと思われる。
中学校令にもかかわらず中学校入学希望者は減少せず,東京のような大都市では私立中学校の設 置が見られた。結局,明治24年に中学校令が改正され,府県による複数の尋常中学校設置,郡市町 村による尋常中学の設置が認められるようになった。そのため,明治30年前後に中学校の数は大幅 に増大した。また,私立中学校が県立に移管されることも少なくなかった。学校数の増加により,
今度は多くの図画教員が必要となった。中等学校教員免許状の制度が発足した明治18年から,明治 24年までに図画科の教員免許状を取得したのは74名である4)。師範学校,中学校が各府県各一校と
しても,絶対数が足りない。それゆえ,専門の図画教員でも免許状なしで教えることは,珍しくな いことであった。
ちょうど,この図画教員が多数必要とされる時期に東京美術学校が卒業生を出し始めた。東京美 術学校には「特別ノ課程」と称する,図画教員資格を得る課程があり,それを履習すれば中等学校 の図画教員免許状が取得できた。絵画科(日本画科)本科の生徒のほとんどが履習したのではない かと思われる。東京美術学校の方針,つまり岡倉覚三の考えとしても卒業生が図画教員となること を想定している5)。事実,特別ノ課程のみ履習の卒業生はもちろん,絵画科本科卒業生のほとんど が図画教員を経験している。ただ,入学前に絵画修業を積んでいる選科卒業生は,図画教員となる 割合がずっと少ないが,かなりの数の美術学校卒業生が中等学校の図画教員になった。そこには,
前述のような図画教員の大量需要の状況があったのである。
明治30年前後は,中学校が増えたばかりではなく,新たに高等女学校,実業学校の設置も数多く あった。明治24年の中学校令改正で高等女学校の名称が出現し,明治28年に高等女学校規定が定め られた。そして,明治30年前後に多くの公立高等女学校の設立をみた。匠に寺期に女子師範学校を設 立する府県もあり,県立高等女学校と校舎,教員を共有する例が多い。以前からの私立女学校で,
教育内容を充実させて私立の高等女学校になることもあった。また,各地の産業と関連深い教育内 容をもって,中等学校と同程度の学校として実業学校も設置された。
さらに,明治32年に中学校令改正と高等女学校令,実業学校令の公布がなされた。明治27年の高 等学校令で高等中学校は高等学校となり,尋常中学校は尋常と言う必要がなくなったので,明治32 年の改正で中学校と称するようになった。また,中学校は男子に対する高等普通教育をすると規定 され,高等女学校による女子教育,実業学校による実業教育と分離独立した。そして,明治19年の 中学校令とは逆に府県に対して中学校設置を奨励するような方向を,この改正はもっていた。明治 32年の法令改正や公布により,中等学校の制度は整備は一応完了したことになる。
図画教員に関しては,明治30年前後の各中等学校の急速な増加に応じて,多くの需要があったこ とに注意しておきたい。そして,それは図画教育の多様な実践と混乱および多数の図画教科書の発 行をもたらし,普通教育における図画教育のあり方の論議をひきおこす。そして,東京美術学校図 画師範科や東京高等師範学校図画手工専修科のような中等学校図画(手工)教員を専門に養成する 課程の設置につながっていくのである。
16 茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)37号(1988)
3. 北 海 道
北海道の明治期中等学校の代表的な図画教員は札幌中学の林竹治郎と函館の北條盛英であろう。
林については前稿で触れたし,多くの紹介があるのでここでは省略する。
北海道師範一前稿では山口彦二郎の函館師範への就任時期が不明であったが,北海道立文書館 所蔵の県庁文書(r官記辞令録』)から明治15年12月2日であることが判明した。また,別の文書綴
には函館到着時に提出したと思われる履歴書が,妻の分のとともにあった。山口彦二郎の妻のえい
(栄)も函館師範の助教諭になったのである。彦二郎の履歴は興味あるものなので紹介する。
一、明治四年十二月鹿児島県ヲ出立同五年一月東京二着ス
一、同年二月旧開拓使二於テ農学修業トシテ仏国留学被命同年四月パリス府二着ス ヂュバク 町ヲルチユス学校二入学傍ラ画学修業同七年二月帰朝
一、同九年十月工部省美術学校二入学御雇教師伊国人フヲンタ子ジー氏二従ヒ画学修業 一、同十一年十一月美術学校ヲ退校ス
一、同十二年十月群馬県中学校教師拝命 一、同十五年七月中学校ヲ辞職ス
右之通 東京都神田区小川町三十九番地/蛭田幸三郎方寄寓 明治十五年十一月 鹿児島県土族/山口彦二郎/二十六年三ケ月
函館師範は明治19年に廃校になり,代りに函館商業学校が設置される。その時,山口は札幌師範 の後身の北海道師範に移り,札幌師範の森川清が函館商業へ移った。
札幌中学一明治28年創立。最初は北海道師範の飯田雄太郎林竹治郎が兼任,そして林が専任 となり大正15年まで勤務。r札幌南高等学校八十年史』(昭和50年)では飯田の担当が数学となって いる。確かに飯田の履歴によれば東京で数学を学んだり,東京電信学校を卒業している。ただ,同 時に浅井忠に絵を学び,明治26年には中等学校図画教員免許状を取得しているので,図画も担当し ているのは間違いのないように思う。
函館中学,函館商業,函館高女一前述のように函館師範を廃して函館商業,さらに明治28年に 函館商業を廃して函館中学が設置される。明治32年,再び函館商業が中学とは別に設置される。明 治25年から北條盛英が函館商業に勤務する。森川清と北條の間の図画教員は不明。北條は盛岡出身 で同地の川口月嶺に学び,のちに上京して川端玉章に学んだとされる6)。北海道立文書館所蔵の文 書の中にたまたま北條の履歴があったが,函館県地理課雇になった時のもので,絵の修業歴等は記 されていない。また,第一回,第二回内国絵画共進会に出品している。 r第二回内国絵画共進会出 品人略譜』(明治17年,以下r出品人略譜』と略す)には,川端玉章に就いたことが記されていない ので明治20年前半に就いたのであろう。勤務期間は函館中部,函館商業,函館西の各高等学校から の教示による。
函館商船一昭和10年に廃校になった学校。明治時代は北山晃文,夏井貞蔵の二人が図画教員。
北山はr日本美術年鑑』(大正元年)によれば油絵を描いたらしいが,旧八戸中学校所蔵の履歴に よれば,三上仙年に就いたり,日本美術院の院外研究員になったりして日本画を主に修業をしたら
しい。夏井貞蔵は潔と号し,カリフォルニア大学美術学校1891年卒業である。この学校には高橋勝蔵,
牧野義雄,小林花吉なども学んでいる7)。北山,夏井の勘務期間は函館商業高等学校からの教示。
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)37号(1988) 17〜18
明治5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45
( 幌 177 24.1 74 31.9 33.9 35.7 38.1 大15
北海道 自 範) 川清 口彦 郎 畠 三郎 飯 雄 郎 竹治 β 中西 高 茂 郎 菅 (中 )次良 (東 日 の
、、
師 範 ( 館 範) .12 山口 β
( 美画1.11) ( 美 11.12 (師 浅 忠) ( 美時 .7) 32.7 ( 工35 )
画1111
28 1.53 .9 大15
札 幌 一田 太郎 林竹口郎 (東一 特25 )
中 学 師.霜 井忠
28. 39.12 40ユ 41〃 大&12
函 館 ヒ條 英 師.ll 端玉 ) 安 二 山県丹覇
中 学 ( 美 38の (東 日 1.7)
20.11 21.3 54 (廃 ) 2 3 大τ3
函 館 森 ll清 ヒ條 英 ヒ條 英(臼 .川し 玉 )
商 業 (師. 川端 、章)
35 38.9 44. 44.6大23
小樽 石 衛 関 目一 美 38!7 川 平
中 学 (」 海 師Z6 ( 同舎297)
36 .3魂 大元11
上 川
?@学
岡( 多造
? 中噛 )
塩田 吉 (師. ノx田、西 蜀
35. 35. 0363 大24
札 幌 中 ・千
佐々 守(雨.佐 木ヌ 山)
高 女
4 大44
函 館 北{ 盛英 師.ll1端玉 )
高 女
.−P0 41
小 樽 \ 関精 (東 醤 .7)
野 つ
高 女 木}寛覧 (女 師 ⑳
38 大a3
北 海 森1 1文鵡 (師 木 敏)
中 学
5.4−1 36.3 大62
函 館 鱒ヒ山
文 夏 貞 (カ1 フオノ 一ア 美術 校1 1)
商 船 ( 三上 山年
354 41.4
函 館
大谷 」 山晃
女学校 (師. 二上イ 年)
39. 大11
北 星 」、野 ●カツ 竹治 B(東 特2 の
女学校
第1図 北海道の図画教員勤務一覧
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)37号(1988) 19〜20
明治5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45
9.1 10. 13.10 20.1 218 22.11 24.9 25.10 7.6 3 .晒 32.10 1 37.2 424 大2
青森県
t 範 104
西館 忠央
13.6 田泰 松フ 信顧 ・村
i東
逸) 東(東 治) 方角,
、、
中(東 次郎
冾Q9.)
藤農 東美日32. 立} (東 日 の
(
山崎
?
馬31.7)
角、
青森県 ●
藤 亀郎 女子師範
44.
7B 19.2 20. 22.8 25.5 31. → 10 34.1 .〔レ勺 鵠 41. 4 5 8
弘 剛苗
中 学 田 公永イ 嗣 口田
吉( 美 痴2) 野師. 兼清
リ目吉)(
本川 需 )( 井俊ッ )( 佐治? 幽 (東 β冾S0. 農
温 ( 凝i舞臨)
41
.9 冒 エ 美( 美 2a7) 32 5 晒 36.2 40.12 414 大元.12
八 一 一
27.11 289 0 314 須 木 八 畑逸 久保 尋 師寺 。広 ) 北 晃
中 学 岡 蔵( 美 272) 川の 太郎(青 師23 ) (師. 上イ 年)
34.3 36.12 37.2 42.
青 森 県 治 和田 治 三己 自也
中 学 ( 美日31.7) 不同 ) ( 美 33!7
37.4 41.1 1b 424
弘前中学 杉 原義 輪常公 久保日多 z 栄 義
木造分校 ( 美 413) (東 図 41.6)
43 36 10 3 .10 辿
弘 剛 主 作 石1 1準ネ (東 蒔2 )
高 女 (東 師 )
35. 大158
八 一
:=輪 ( 手県 18, ) 高 女
青森 ● 々木 ん
高 女
31.7 34
県立中学 局橋 之 工藤ロ六良 小 ●q彦高
●β ●大越
東奥義塾 (師 三上 山年) ( 美日 423)
凶
33. 大4
弘 削
島7 岱 女学校
桔 梗 ■ ○
学 院 三 藤 郎 口崎
i土 ヒ陵 h)
青森県 、暑
工業学校 (東 漆3 の
第2図 青森県の図画教員勤務一覧
茨城大学教育学部紀要(人文。社会科学,芸術)37号(1988) 21〜22
明治5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 5
B 5.1 16.9 44.3
岩手県 師 範
岡( 益城 郎) 古ll
@鏡之助
太 七良 (工 画 α1)
層一脚o●■■● ●
1 1ユ 178 .5 昭a4
盛 岡 5.1
川鏡 助 20.3 24.12 海 融 (師. 本 平) .1 407 田 次郎
中 学 井益 郎( 城 ) 畠 三良 (工 画1 1) 本忠W( 高工 ,7)
( 美 師433)
4 73レ4 42.3
盛 岡 戸来 一 狩野 信
高 女
31 33.3 .雛 45.3
一 関 浦 樹ll千 (師. 公岡 ) 萩ノ 伴雅 師. 本 渓)
中 学 弥
32.4 36.11 373 39.8 40ユ1 414 454
県 立
(盛岡) 的 日面 郎 武 富 本忠 杉 知 郎
工 業 (師.野口 谷) (東 蒔27 )( 高工 .7) 東高工図案41)
354 36.1 37.1 38.11 39. 41 大7
福 岡 田一 蔵 中 保 橋 美 揆 郎
中 学 ( .印 真 )(師真里蘇 区 (東 、26!7 ( 美日 7.3)
34. 39.3 大a10
遠 野 井 梱 動 此 4 桧川 里( 雨.松岡寿
中 学 確 .黒田 (京
、 公 、 今 大膳
36.9 昭11
東 北 ● ●
高 女 浦 弥 ㍊ 一ル 董リ タ 田七 区( 美画 1α1)
39. 41.
作人館 o ●
中学部 (
揆美日 郎373) 都, 二郎
40、
県 立 ■
野
農学校 (師. 本 平)
第3図 岩手県の図画教員勤務一覧
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)37号(1988) 23〜24
明治5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45
秋田県 11β
14.9 17.6 03/6 28.3/ 34.5
師 範 葛 二 ■
コ遠
森 1晴 彰畏・、精 17. )
岡 元 (飯 珂疹 水) 川延 ( 美、 257) 吉 金吉 (東 特2 .7)
17β 44B 大6.11
秋 田 森1 1清 岡嶋精( 多技 17.4
中 学 岡 読 (師 那珂『,水 青 扶( 美 443)
32 35.12 36.1一2 41.8 43. 大48
大 館
薯 美 木 、丹霜 西 英 藤
中 学 東 、26. ( 日307) (東 日 2の
335 .3−1 38 40.12 41.1 44.3 4 大2.3
横手
中 学 沢 治 ( 」、西 太良
r7) (京 加伝
94) (東
橋政チ 6.7) 吉田i磐 五郎?j
35. 〃8 39. 10 1.3−1 434
本荘
?@学 (
川美日 治347)( 黒・同
)(
井俊・同口霧
恒
半 i東
公吉 シ 39.4)
秋田県 女子師範
3 ユ0 36.1 42,3/4 44B
秋 田
高 女 2
島三良
(東
岡村 3 寿の 東美 山日35.
e (女局而)(
34ネ栄
?} 畦3.3
田ミサ i東女美)
秋 田 39.4 40.12
工 業 (東」蝪[
}
吉36.7) 川(東 区
、 の
394
秋田市立 ●
工業徒弟 山本
?ェ
勢,) 津・米太
ェ27.
β) 中1
i東
1万、
郎の
第4図 秋田県の図画教員勤務一覧
凡 例 出身校名の略記
。校名は原則として地名を冠した明治末年時の名称で統一した。校名の変遷は繁雑になるので記 (工美画)……工部美術学校画学科 (京府西)………京都府画学校西京 入していない。創立と廃校の時期は縦の二本線で示した・ (東美特)……東京美術学校特別ノ課程 (京市美)… 京都市立美術学校
。実線は勤務の期間を示し,その両端の数字は着任と離任の年月を示す。端が矢印の場合は,そ (東美絵)……東京美術学校絵画科 (東 工)………東京工業学校
の時点までの勤務が確実なことを示す。 (東美日)……東京美術学校日本画科 (東 師)………東京師範学校。破線はその附近の勤務と思われる場合,または勤務が確実でも図画担当が不確実のことを示す。
。人名の後の括弧内には修学校名あるいは師匠名を記入した。数字は卒業または終了の年月。複 (東美西) … 東京美術学校西洋画科 (東高師手)……東京高等師範学校手工専修科 数箇所に学んだ場合は,原則として後の方を記入。ただ,重要と思われる場合は前の方や複数 (東美図講)…東京美術学校図画講習科 (東京師図手)…東京高等師範学校図画手工専修科 を記入した。 その他は以上の要領に従って略記。
一
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)37号(1988) 25〜26
明治5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45
13.12 23.1 24.3 ゐ7 31.12 324 38.3 413 大12.10
山形県
師範 市川
蔵 (工美ペレ・ 12.
eィ 18豊 ■■9 ■■■ 一 一
田東師 伊専
郎 井汲陸二 欧師 宮本
?ロ 轟 ) 田 三郎 (東 日3 7) v井 一( エ重、美日 ( 藤左nゥ 図 1の 山 形
.10 213 .7 314 32. 冷 昭2
中 学 市川i工
蔵画12
3,カ レッテ )
葉盲弓(而.印 真 ) ( 服美 保307) ノ1( 泉成
ッ ) 桃 義 (東 日
.7)
26.10 大4.6
米 沢
中 学 上 熊松 (工 画1 1)
荘 内
26.9 314 32./4 34β 38 9{シ9 40.10 大96
中 学 (
渡辺 臨 (東 辺啓
冾R0秀(
長
? 0!7)
今井 券
籔, 豊(東 宇一 冾R
郎7)( 橋來平
? 35!7)
小(東 廉日35
7)
山形県 35. 39β 大τ1
女子師範 村井髄、 多 田 洲
39.7
山 形 355 39.6 大7.1
高 女 (
田美 三郎30.7)
村 淑
39!7
多 田 洲
米 沢 3
.9 37.7 444 大&8
高 女 浜 木麟 師. 木 年) 菊 整 ( 美講 7の 山本 之助
379
鶴 岡 334 383 40.3/ 41.11 42.1 昭43
高 女 大目 謙治 東美膨) 高公幾 ノ1 野政
(
相馬 己405)
酒 田 31 5 35 → 378 45. 昭23
一 H
高 女 大 政富 間 助 石川
t.
正庸c 山) (
間美 助講37.
)
工(女 てふ
Sa3)
働 一 一 鱒
新荘 33 35.5 36.3 40, 0 441 .3大139即
中 学 沢正 井 菊 β
(東
橋信ま7) 谷長 清水潔
i東美日砥3)
山形県立 33. 39.
工 業 杉
i東 田鹿
昼 30!7) 横
訣
武図 鷲,
明新館 ●
。清 郎 充 又雄
第5図 山形県の図画教員勤務一覧
金子:明治期中等学校図画教員の研究(1)一北海道。東北地方一 27
小樽中学一各図画教員の勤務期間は小樽潮陵高等学校からの教示による。石塚は体操の教師で あったが,唱歌,習字なども担当し多才の人であっという。
小樽高女一勤務期間は小樽桜陽高等学校からの教示による。木戸寛造は第一回内国絵画共進会 に竹石という号で北宗派画を出品している日本画家である8)。次の関精一は茨城県出身。東京美術 学校西洋画科卒業で洋画専門である。
上川中学一勤務期間等は旭川東高等学校の教示による。塩田弓吉は松田霞城や小西皆雲に絵を 学んだことはあるが,専門は習字科であるらしい。
札幌高女一勤務期間等は札幌北高等学校からの教示による。中村は音楽学校出身で,唱歌が専 門の教員。佐々木守は加賀藩絵師の佐々木家の一員で父泉山に学ぶ。目らも泉渓と号する。第二回 内国絵画共進会のr出品人略譜』によれは,父泉山も本名は守となっている。
私立北海中学一勤務期間等は北海高等学校からの教示による。森川文治は東京で荒川十畝に五 年間学んだ日本画家。森川の後任は小樽中学に勤務した関精一。
4. 青 森 県
青森県の明治期中等学校の図画教員は,一般に勤務期間が短かく勤務表からは特に目立った教員 を見出せないが,初期洋画家の西館忠央,成田泰などは経歴がわからないだけに興味をひく。
弘前中学一勤務期間等は現・弘前高等学校の教示による。成田泰,松永信嗣は師範との兼任。
松永の後任者は不明。明治25年就任の吉田金吉は,八戸中学の高橋政美とともに最初期の毛筆画教 員として東京美術学校から派遣された形になる。次の野崎兼清は愛知県出身で明治9年から15年ま で河野次郎(当時愛知県師範図画教員)に学び,16年から19年まで殿木晴吉に学んでいる。その後 愛知県でいくつかの学校で図画教員をした後,弘前中学に転勤。後,また関西へ戻り浅井忠に就い たり,名古屋で洋画塾を開いた。伊藤清華,牧野義雄などがそこに学んだ9)。次の岩本安一も同じ 愛知県出身で田村宗立,川村清雄に学んだ。川村清雄が有名な「黄海海戦」を描いた時,助手を勤 めたという。次の広瀬(後に横井)俊造も秋田県生まれらしいが,愛知県士族で,小山正太郎の不 同舎に学んだ人である。
八戸中学一勤務期間は八戸高等学校の同窓会名簿の「本校創立以来職員」の部分を参照。ただ 高橋政美は明治25年から32年までの勤務となっているが,高橋と重なる時期に島岡常蔵,そして北 海道師範の項で触れた森川清も勤務している。一校に二人図画教員が勤務することは珍しいし,明 治28年のr東京美術学校一覧』の卒業生の現状の部分で高橋は自営となっている。おそらく,高橋 の勤務は一時中断しているのではないかと思う。須々木寿太郎の経歴は不明だが,日本画が専門で ある。次の八重畑逸蔵は青森県師範学校出身であるが,履歴によれば在学中に河野芳に油絵,擦筆 画,水彩画を,板東定治と河村久逸に鉛筆画を,宗像角馬と成田三千郎に毛筆画や用器画を学ぶと
ある。宗像は棟方角馬のことであろう。河野芳以外は師範の教員であるが,河野は戦前のr青森県 師範学校一覧』の「創立以来の職員」表には出てこない。あるいは中学校に勤務した図画教員かも しれない。大久保千尋は高橋政美,島岡常蔵,森川清,須々木寿太郎といった八戸中学の図画教員 に学んでいる。当時の図画教員が学校以外の場でも教えていたことがわかる。大久保はその後上京
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し,橋本雅邦や寺崎広業に学んだ。北山晃文は函館商船の項で触れた。
青森中学一勤務期間は履歴を参照した。東京美術学校日本画科出身の山県,三浦の間に,不同 舎出身の大和田篤治が勤務。大和田は青森中学の後,故郷の高知県師範の教員となるが大正2年没。
弘前中学木造分校一明治35年県立第四中学校として創設され,明治42年弘前中学の分校となる が,大正3年廃校となる。そのため,勤務期間は確定できる資料を見ることはできなかった。当時 の中等学校の諸職員録や,久保,三輪については別な勤務校の履歴を参照。当時の職員録から松原 が図画と生物を担当していることがわかる。r日本美術年鑑』(大正元年)は明治8年香川県生まれ,
茨城県日立市在住の写真家の松原義七を収録している。第四中学の松原義七と同一人物かどうか不 明。三輪常松の修業歴は不明。明治前期の画家に三輪福松(青谷)がいるが,縁者かもしれない。
弘前高女一勤務期間はr青森県第一高等女学校一覧』(明治40年)を参照。
八戸高女一勤務期間等は八戸東高等学校からの教示による。岩手県師範学校出身の三輪正が長 く図画を担当するが,どちらかというと博物が専門だったらしく,同校のr校友会誌』に植物に関 する論文を書いている。現在の八戸東高校から三輪の指導したと思われる卒業記念画集が保存され ているという教示があった。近いうちに調査したい。
県立中学東奥義塾一創立は古く,藩校の伝統をひき明治5年創立。ただ,専門の図画教員を必 要とするほど図画科の授業を多くしたのは,明治29年の尋常中学部設置以降ではないかと思われる。
明治34年に弘前市立となり,さらに43年に県立となるが,大正2年廃校となる。大正11年再興。図 画教員の氏名,勤務期間は,完全に判明しなかった。高橋荘之進は別の勤務校にあった履歴を参照。
弘前女学校一勤務期間等は弘前女学院聖愛高等学校よりの教示による。
5. 岩 手 県
岩手県の明治期中等学校図画教員は師範学校の太田七郎と盛岡中学の海野融に代表される。
岩手県師範一太田七郎(文久3・3〜昭和19・10)は盛岡出身。兄の忠恕は東京師範学校最初 期の卒業生で,小学校教科書を何冊か著している。七郎は最初, 圃
盛岡で川・月嶺に学んだといわれ,後東京に出て工部美術学校で;讐葦;聾鑛難霧欝嚢簿 サン・ジョヴァンニに学ぶ。宮城県図書館県庁文書の中に太田七 讐襲鱗鶴 ・幽_垂恥 轍 燃_炉峠 Yの履歴があるのを,たまたま発見した。これは明治16年,宮城 雛鐡、
.鱗 灘 県中学画学教員に採用されるために提出したものであるが,採用 謡 ・ 難 ,継 。欄
は実現しなかったらしい。その履歴によると明治9年2月から11 _瞬鯉 麺鐙麟 . N11月まで宮本三平に就き,12年1月から15年1月まで工部美術
学校に学ぶとある.工部美術学校入学者で宮本三平に学んでいる篶 難 畷 鰻iのは珍しい。明治15年,太田は東京でr画学模範』という教科書
を出版している。現在,国立教育研究所に「風景之部」第二編, 鎌嚇蝿
灘灘啓至畿:それらは日本の身近な風景の一部を題蹴1聾騨響轟韻
太田は厳格な人だったらしく,盛岡中学の海野融とは対照的で 第6図 太田七郎肖像
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あったという10)。遺族の話によると,師範学校長と衝突して師範学校をやめ,以前から嘱託教授を していた私立盛岡女学校(後に私立東北高等女学校と改称)に移ったという。そこに昭和11年まで 勤務する。同校はフランスのシャトル聖パウロ修道女会の設立した学校である11)。太田自身はクリ スチャンではなかったらしいが,その謹厳さは同校の関係者と相通じるものがあったらしい。太田 は盛岡に美術学校をつくるのが夢であったと遺族は語っている。
盛岡中学一岡井,古川は師範との兼務。海野融(嘉永4・6〜明治44・5)は,父高橋楳岳に学び,
上京して高島嘉右衛門に寄寓し宮本三平に就いたという。履歴には「明治十一年六月 東京府士族宮 本三平二就キ図画学四ケ年修業」とある。太田七郎も最初,宮本三平に就いていて,学んだ期間に 重なる部分がある。宮本三平に就くことに共通のきっかけがあったものと想像される。海野は太田 と違っておもしろい人であったらしい。現在,残っている日本画や油絵の自画像を見ると,きわめ て良い作品である。特に自画像は明治初期洋画家特有の稚拙味が感じられない佳品である。
海野と重なる形で明治20年から24年まで畠山三郎が勤務する。畠山は盛岡出身の士族で履歴に彰 技堂(明治8年4月から), 工部美術学校(明治9年9月から11年12月)に学ぶとある。ところが 彰技堂の門人名簿にも工部美術学校在学者として知られる名前にも畠山はいない。知られている人 物で畠山と経歴が重なるのは駒嶺忠臣である。駒嶺も彰技堂門人名簿に明治8年4月入学とある。
畠山の履歴に明治12年3月から13年2月まで宮城県師範学校勤務とあるが,同校のr同窓会報』第 十号(昭和15)所収の旧職員表には明治12年5月から13年2月まで駒岸忠臣がいる。駒岸は県庁文 書等から駒嶺に間違いない12)。畠山の名はそこにもない。また,当時盛岡には駒嶺(あるいは駒ケ 嶺)忠…という人が何人かいる。たとえば盛岡中学の教員には駒(ケ)嶺忠旨がいるし,前述の私 立盛岡女学校の第三代校長は駒ケ嶺忠順である。おそらく,畠山は駒嶺忠臣と同一人物で,宮城県 師範学校離任後,改名したのではないかと思う。
盛岡高女一三浦一郎編r白梅八十年史』(昭和53年)所収の「職員在勤一覧」を参照。戸来,狩 野とも経歴等不明。狩野の後任者も不明。
一関中学一勤務期間等は一関高等学校からの教示。三浦常弥の図画担当は確実ではないが,日 本画を描いた人なので図画担当と推定。
福岡中学一勤務期間等は福岡高等学校からの教示。岡田啓蔵は履歴によれば鳥取県出身で明治 22年東京で印藤真楯に洋画を学んだ人である。福岡高等学校のr福陵60年史』(昭和37年)には,個 人蔵の岡田の風景画が収録されている。中田保久は東京で岡田秀や真野紀太郎に学んだ。葛揆一郎 は東京美術学校日本画科卒業で,江月と号した。女性の横たわる手術室の情景を描いた葛の卒業制
作「外科手術」は,当時多くの人に衝撃を与えたと思われる異色の作品である。 、 遠野中学一r遠野高等学校70年史』(昭和46年)所収の職員在勤表を参照。一部を除き,細か
な勤務期間は確定できなかった。井上松治は秋田県出身で秋田魁新報社編『秋田の画人』(昭和39 年)によれば,最初松本楓湖に学んだがその後小山正太郎,黒田清輝に就いたという。野村虎松は 宮城県出身で洋画が専門らしい。鹿島,今野については不明。
県立(盛岡)工業一r盛岡工業70年史』(昭和46年)所収の旧職員名簿,および現・盛岡工業 高等学校同窓会の教示を参照。的場直次郎は石川県出身で石川県工業学校中退後,野口幽谷に長く 就いた人。
私立東北高等女学校一前述のように明治36年から太田七郎が嘱託,44年から教員となる。太田以
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前,創立直後は三浦常也,その後は修道女の教員が交代で教えていたらしい。また,中学の玉山先 生にも図画を学んだという回想もある13)。
6. 秋 田 県
秋田中学一秋田県の明治期中等学校図画教員を代表するのは岡忠精(万延元・12〜昭和17・10)
である。秋田中学の前身である秋田県師範学校中学師範予備科を明治13年に卒業し,翌14年上京し て5月に彰技堂に入る。岡のr道中日記・在京日記』(明治14年)によると恩師葛野伴二の書状をも って荒木寛畝を訪ね,彰技堂か(工部?)美術学校に入るかの相談をし,とりあえず彰技堂に入る ことになった。葛野伴二は当時の『秋田県職員録』によれば師範と県地理課御用掛とを兼務してい た人である。岡の前任者の森川清は既に北海道,青森県の節で触れたが,岡の日記には荒木寛畝の 家を何回か訪ねて森川氏と話すとあり,さらに7月20日に「森川清氏帰県ニッキ……」とある。荒 木のところにいた森川氏とは森川清のことと思われる。森川は9月から葛野の後任として師範兼中 学の助教諭となる。葛野もその後上京し岡と会っている。岡忠精の彰技堂での修業については別稿 に詳しくまとめるので,本稿では省略する14)。岡は秋田中学の教員になってから,修身の教員免許 もとっている玲。生徒たちからは人格的に尊敬されたという16)。図画教育ばかりでなく秋田県教育 の中心的な人物の一人であった。
大館中学一勤務期間は大館鳳鳴高等学校所蔵のr大館中学校一覧』(明治36年),r学校沿革誌
(原稿)』,r(同窓会)会員名簿』および国立国会図書館所蔵のr大館中学校一覧』等で確定。青木 一の修業歴は不明。中西理英は当時の雑誌r図画教育』の消息欄を調べると,新潟県で小学校に勤 務していたが,明治40年に中等教員検定(鉛筆画・用器画)に合格し,新潟県刈羽郡立高等女学校
に勤めた人らしい。
横手中学一勤務期間等はr横手中学校一覧』(明治40年)および横手高等学校からの教示によ る。宮沢運治は秋田県士族であるが修業歴は不明で, r図画教育』の消息欄によれば明治39年頃死 亡。小西正太郎は病気のため短期間で退職。療養生活の後,故郷の六郷町に戻り県会議員を一期勤 め,その後再び画業に戻り洋画家として名を知られる。吉田哲五郎は磐城中学卒業であり,中学で 島田豊(後の墨仙)に学んだことになるが,詳しい経歴は不明である。
本荘中学一勤務期間はr本荘中学校一覧』(明治45年)を参照。目黒博,横井(広瀬)俊造,
森田恒友と不同舎出身者が続く。森田は不同舎の後,東京美術学校西洋画科選科を卒業する。前に 触れたr秋田の画人』には本荘中学で森田の指導を受けた人の回想が載っている。それによれば,
手本は使わず,春を描いてこいというような風変りな指導であったという。半沢の修業歴は不明。
秋田高女一勤務期間はr秋田高等女学校一覧』(大正3年)を参照。我妻栄吉は大正から昭和 にかけて図画教育の雑誌の編集発行に活躍した人である。
秋田工業一当時の中等学校の職員録およびr東京美術学校一覧』の卒業生の部分を参照した。
小場に関しては履歴を参照。小場は秋田県出身で後に東京美術学校教授となる。文様の研究者とし て名を知られる。秋田工業と秋田市立工業徒弟学校のどちらにも,中川万次郎が勤めている。二つ の学校でどのように教育内容が違っているのかは不明。