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ジ ョ ン ・ 、 、 、 ラ ー ー 1 」 R ・ L ・ 、 、 \ − ク の 所 説 に よ せ で

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(1)

われわれがアダム・スミスの ﹃グラースゴク講義﹄に分析の筆をそめるぼあい︑常におもいうかぺる数おおくの  

歴史家がいる︒ハリソトン︑モンテスキュー︑ヒューム︑ケイムズはその歴史家たちの︑いくつかの重要な例である  

が︑さらに︑人はファーガスン︑ロバートスン︑D・スデ︒アートやl・スチエーアートなどを想起するたろう︒  

しかし︑それにもまして︑重要な仙人の人物︑汐ヨン・︑\︑ラーがいる︒かれほスミスの弟子として︑その ﹃講義﹄  

︵1︶  

を教室にあって直接にきき︑その内容をD・スチュアート鱒伝えたばかりでなく︑かれ白身︑ス︑︑\スの法と統治の  

歴史的研究を継承し︑深化せしめるとともに︑グラースゴウの教授でありながら︑その生涯をかけて︑自由のため  

にたたかった数すくない人間の一人であったペかれは歴史をかくという意味での歴史家であるばかりでなく︑歴史  

をつくるという意味での歴史家であった︒ 

あろう︒第∴虹︑かれの生溝は理論と実践のかんけいについて︑われわれにすくなからぬ示唆をあたえ︑第二に︑  

アダム・スミス研究の側面的な援護を有し︑第三に史的唯物論の歴史的源流の探究と︑第四に︑第三とのかんれん  

における法学または歴史学と経済学の結合と帝離のもんたいに光をあて︑第五に︑フランス革命のイギリスへの披  

ジョン・︑︑︑ラ1   ︵四七︶ 四七    ジ ョ ン・︑︑︑ラ ー  

ー1﹂R・L・︑︑\−クの所説によせで  

力   崎   除 

(2)

︵四八︶ 四八   第三十三巻 第一号  

及の意味ずけをわれわれにあたえ︑第六に︑プルジュワ急進主義の意義と限界を教えるであろう︒むろん︑これら  

は相互にからみあった諸論点であって︑機械的に分離しえない性質のものである︒   

ここに︑われわれが紹介し︑若干のコメントをあたえようとするロンルド・L・︑︑\−クの論文はさいきんのィギ  

ニ■\  

リスにおける︑︑\ラー研究の代表的所説であり︑右の諸論点を簡潔な形において要約した好論文といえるであろう︒  

︵3︶   

小文はまずミラーの生涯と著作をのべ︑さらにその著作の反響を記述したのら︑︑︑\−クを紹介する︒  

︵1︶ E・キャナンにょる﹃講義﹄発刊以前において︑スミスの道徳哲学の講義内容を知るうえに唯血の資料となった例のD・  

スチュアートの記述をさす︒Cf∴ヨふゴぎ5;ヽ蜃ぎ已診温訂歪冴 AccOuntOftFeLifeandWritingsOf AdむmSmithY  

LrD●﹀SeCt・Hい ︵経済学史学会リブり/ソト版︶p・00・ff●   

︵2︶ 同Onaid LMe2k㌔T訂ScOttish COntrib音OntOMar払stSOCiO−○的y︶ごn⁚碧雲S蔓聖鼠算こ詠毒∴字§§一ed・  

by l●Sa5≡e.−詑願pp.00㌣−ON.  

この論文ほ︑︑\−クにとって︑余程︑気にいったものであるらしく︑かれが鵬九五七年に︑故郷ニュージランドにかえった  

とき︑こ・の論文の要約ともいえる講義︵題して﹁古典社会学の興隆﹂︶を行ない︑さらに同年に日本に立ちよっての関西学  

院大学における経済学史学会第劇六回大会の特別講演でも︑予定された演題<まarH and K2yn2Sご を変威して︒Rise O叫  

C−as賢a諒OCi01品y︒と題する講演をして小る︒このニューどフンド講義におけるものと︑経済学史学会におけるものと  

ほ内容的にほ同じものであろう︒両者ともにケネーの︑︑\ラボーの手稿転たいすを傍証から肇なおこすが︑これほ︑\\−クの意  

図す乳古典朴全学と古典経済学の結合にかんするより広汎な課題をあらわしている︒わたしが小文で紹介する=TheScOt・  

tisFJ COntrib亡ti昌㌧ のカほこの課題をスコットランドに限局したものである︒もっとも︑ミークほ未だ全面的に︑古典  

社会学と古典経済学の結合態様をあきらかにしたとほいえない︒おそらく︑かれの学史研究の全体がこの間題意識紅終局  

的には統仙されるものと推察される︒   

(3)

ニふーぞフンド講義についてほ水田洋︐永井義雄訳﹃古典政治経済学と資本主義﹄︵ミネルヴァ讃房︑一九五九年︶をみ  

よ︒その原文き︑註へ已哲Q宣長︑§芝野C言責きミニ炉旨妄言artOne⁚C−a㌢ica−PO≡ica−EcOnOmyandt訂C亡rrentS  

Of HistOry● ほコピーであるため︑未だわれわれは直接にみることができない︒  

なお︑小論でもんだいとする︑︑︑−クの論文はさいきんといっても︑六年まえのものであるが︑右にのべたように︑ミー   

クのごくさいきんの主張の原型であるうえに︑また︑すでに水田洋氏の言及もあるのだが︑それほ︑︑︑−クの︑︑︑ラー論とし  

て全体を論じていないので︑ここで改めで紹介することにした︒わたしとしては︑︑\ラーの研究家であるW・C・レーマン  

の近著を待っていたのだが︑未だみる機会をえないまま︑︑︑\−クを論ずることになったのである︒そのため︑小論の発表  

がおくれてしまった︒  

水田氏の所論ほあとでふれる︒W一C・レーマンのミラー論ほ論文としてほ声C.LeFmann㌔JOFnMiaru Hi裟Orica−  

SOCiOlO喝ist・SOmeRemar訂b−eAnticipatiOnSOfMOdernSOCiO−Ogy㌧こn⁚ヨq守註仏和︑Q§鳶︑鼠哲へ邑局℃︸ざー.戸  

NO﹂︸March−誤N著讃としてはヽQぎ轟︑訂︑亀G︑Q藁葺こ欝○︵太書は未だ公刊されていないが︑水田洋氏によると︑  

現在︑索引作成中のようであるからまもなく︑われわれの手に届くであろう︶′である︒筆者は前者も未見である︒  

︵3︶ ミラーの伝記の詳細ほ前記レーマンの近著にみられるほずであるが︑わたしほ主としてか︒Ⅳ・βでのレズリ●ステイー  

プンの記述と︑C・R・フェイの記述︵詮ぎ㌫邑さ鼠三ぎぎ賢愚ミ姦こ首−欝の﹀PP.望一ヂ︶および︑︑\−クなどに  

もとずき︑叙述する︒フェイにしろ︑︑︑\−クにしろ︑レーマンの未刊の論稿に負うとしているから︑ミラー研究の素材ほ  

すべてレーマンに待つこと大きい︒また︑︑︑︑ラー伝記のもっとも生のものであるジョン・クレイグ︵︑︑︑ラーの甥︶の小LifeV  

が﹃階級起源論﹄第四版につけられたが︑筆者はこの版を手にしえないセいる︒  

ここでの記述紅あやまりがあれば他日︑訂正するつもりである︒   

ジョン・ミラⅠ   ︵四九︶ 四九   

(4)

︵五〇︶ 五〇    第三十三巻 郡山号  

ジョン・︑︑\ラー︵JOhnしMiごar︶は一七三五年六月二二日︑ラナークレヤのジョブ教区に生まれた︒かれの父ジ  

ェームズ・︑\\ラーは当地の牧師︵minister︶であった︒母はラナークレャ︑ク羊ストパーンのアーチボールド・ハ  

︑︑︑ルトンの娘である︒一七三七年︑父︑\\ラーがハミルトンの牧師に転じたので︑息子のミラーは叔父のジョン・︑\︑  

ラーのところに送られた︒叔父はグラースゴクに近いプランタイアの︑︑\ルヒュ一に小さな先祖伝来の資産をもって  

暮していたが︑少年は叔父に教育され︑一七四二年︑ハ︑\ふトンのグラマ・スクールに入学﹂早熟なかれは血二才  

︵1︶   になったばかりの山七四六年にほグラースゴ.り大学に入学︑そこでフランシス・ジェフヅの叔父であるウィリアム  

︵$︶  

︵2︶   ・モアヘッドの友人となった︒長じぺかれほグラースゴク大学の学寮軋住み︑母の本いとこウィリアム・カレンと  

食事をともにした︒かれはまた︑かの有名なジェームズ・ワット︵霊威㌣十芯−¢︶と親交し︑アダム・ス︑\︑スの道徳哲  

学講義に出席し空この講義にかんす牒記述がすでにのべをD・スチュアートのス︑︑去伝匿示す文者である︒ス︑︑︑ス  

︵4︶ はのちのもまでも︑ミフーを敬服し︑自分のいとこ≠イヴィ.ソード・.ダグラスを︑\\ラーのもとに送ったはどである︒  

︑︑\ラーはさいしょ︑聖職になるよう仕向けられたが︑かれは聖職継受にためらいを感じ︑︑また︑∴かつて弁護士で  

あった叔父ジョンは弁護士業につくことをすすめた︒グラースゴク大学のコースを終えて︑二年間︑ヘソリ・ホー  

5︶︵8︶・ ム︵ケイムズ卿︶の家庭にいり︑ゲイムズの息子の家庭教師となった︒ここでディダイソド・ヒェームゐ面識をえ   ︵   

た︒︑︑\ラーはヒチームの哲学教義の信奉者となり︑かれらは政治的に′ほ対立しあったが︑一七五五年︑ヒュームは  

︵●1︶ その甥デイダイソド・.とふームを︑︑︑ラーのもとに預けた?一七六・〇年︑ミラーは弁護士となり︑職業生活虹おいて  

将来性のあるスタートに立ったが︑そのご︑︑かれはどんな見込みあを詰も潜みつづけた︒そして一七六一年︑ハミ  

ルトン公の保護者らの力と︑ケイムズ卿お 

ラースゴク大学の法学教授となっ′た︵かれほ仙八〇仙年の死の年までこの職にあった︶︒報酬はすてなかったが︑直   

(5)

ちに︑一マーガレ 

る︒かれの教授職はさいしょ︑巡回裁判弁護士の妨げとならず︑かれは弁護にあって陪審の人々の評判うけもよ  

く︑また︑しばしば︑商業上の仲裁裁判はも従事した︒もとより︑かれは本職の教授職にも力をいれ︑学生数も急  

速にふえた︒給料はいうまでもなく︑主に学生の授染料に依存していたから︑これは給料の増加を意味する︒ほじ  

め四︑五人だった市民法︵ci墓−aw︶・の学生も︑やがて四〇人となり﹁統治︵公法︶にかんする講義にも多数が出  

︵8︶   席した︒︑︑︑ラーの先任者ハーキュリーズ・り/ンズィは弁護士会の抗議にもかかわらず︑イギリス語で講義したが︑  

︑︑︑ラーもまた︑先例を固執して学生たちを魅了した︒お.おくのスコットランドの教授とちがって︑かれほ講義を筆  

かれは死ぬ   記しないで︑ノートによって︑話しをし − 今日わが国のいわゆるフリー・トーキングであろう1︑  

まで︑その講義を全面的に修正しっづけたのである︒かれは普通︑半学期を市民法︵ci5.−1aw︶の︑他の半学期を  

法学︵j旨sprudence︶の講義とし︑課外講義に統治論︑スコット⊥フンド法︑死のまえ︑数年間はイギリス法を課外  

︵9︶   講義した︒この講義の概観は伝記者ジョソ・クレイグによってぁたえられている︒   ′    かれの講義ぶりに山言すると︑かれはきわめて活気のある教授で︑聴講者の興味を引きつけ︑自己の原理を主張  

するにあたっては非妥協的で強硬だったという︒﹁教授︵さ二フー︶は質問をだし︑またそのかわりに質問をもとめ  

た︒自由な会話と討議がつづいた︒誰も教授を打ちまかせなかった︒かれはいかなる研究もおろそかにせず︑思考  

ほ徹底的に緻密であった︒かれは教室においてばかりでなく娯楽においても学生の仲間であった﹂とコズモク・イ  

︵10︶  

︼脚ス教授はかいている︒かれの教室は次代の法律家や政治家︵そのうちにはかのウィッグの政治家・首相のW・L  

・メルバンもいた︶の訓練の場であり︑自宅では盛大な歓待がつづいた︒学生ぬちは次々に招待されて︑自由な楽  

しい時間をもっノた︒また︑グラースゴクを訪れるすぐれた客はすぺて︑︑︑︑ラーが歓待し  

ジョソ●ミラー   

(6)

\   

第三十三巻 第劇号   ︵五二︶ 五二  

︵12︶   

教授となった︑︑\ラーは山七五二年創立の﹃グラースゴク文学クラブ﹄ ︵Literary SOCie音︶ の会員にえらばれ︑  

ス︑\\スの道徳哲学論座の後継者とし   定期的にスピ!チを行なうとともに︑その指導的講演者となって︑とくに︑  

︵1S︶  

て︑一七六三年から九六年までその講座にあったトマス・リードに抗して︑ヒュームの理論を支持したといわれ  

る︒もっとも︑かれらの論争が友情を傷つけはしなかった︒   

さて︑︑︑︑ラーのウィッギズムはトーリの支配していた当時のスコットランドでは︑異彩をはなち︑かれは平気で  

アメリカの独立を希望し︑議会改革を求めた︒ただし︑普通選挙にはそれが腐敗をみちびくとして反対であった︒  

かれはロッキンガム・ウィッグ=クィッグ左派を固守し︑のちにはかのピットの反対者で進歩的政治家だったC・  

l・フォックスを支持した︒かれはまた︑国王権力のおどろ↑ぺき増大を指摘し︑山七八四年におけるピソトとジ  

ョー吏二世の勝利は﹁イギクス憲政にたいする決定的打撃﹂だとした︒一七八七年に出版した著書﹃歴史的考察﹄  

︵14︶ ︵後述︶はフォックスに献ぜられ︑これは部分的にほとふームの﹃歴史﹄におけるトーリイズムを反駁することを  

意図したものである︒かれほまた奴隷貿易反対運動の熱心な支持者であったし︑さらにさいしょから︑そして後期  

の段階においてさえ︑フランス革命に共感し︑それにつづいた破局をなげいたと・ほいえ︑かれは自己のとりうるあ  

らゆる手段をつか 

︵柑︶  

一七九〇年代のはじめに﹃人民の友の会﹄ ︵︿SつCi2tyOf句ri2nds OfthePeOp訂︺が創られるや熱心な会員となっ  

たが︑それはむろん︑世間の不評判と憎悪を蒙る結果となる︒かれはかれの批判した政府の諸政策から自由である  

ために︑﹁有利な地位﹂ ︵−ucrati扁p−ace︶をあたえられることを拒絶した︒グラースゴクにいたF・ジェフリ・は  

︑︑︑ラーの講義がウィッグ的傾向に局る上して︑父親から︑講義に出席することを禁止されたぐらいだった︒ミーク  

は﹁当時の魔女狩りが主フーの長男を追放し︑︑︑︑ラーのもっともすぐれた弟子の一人トマス・︑︑\ユーアを破滅させ  

(7)

たという恐怖を考慮すると︑これらの車夫はけっして山大学の一教授の容易にとりかつ維持する腰度でほなかっ  

︵16︶  

た﹂という︒そしで︑ミークは当時の魔女狩りの生々しい雰囲気をあらわすものとして︑一七九三年︑一グラース  

ゴク新聞に掲載された匿名の︑﹃グラースゴク民主々義者にたいする非難﹄と適する手紙集の山文を引用する︒執  

筆者は一人の﹃悪魔﹄︵︵れAsmOdeusJ︒︑︑エフーという名前をあげてはいないが︑文脈からすると︑︑︑\ラー︑ないし  

グラースゴウ大学の二 二のかれの同僚を暗に指していると︑︑︑︑−クは推定している・︒それによれば﹁常識ある人  

ヽヽヽヽヽヽ   は誰でむ︑︹書物や理論などの人々にあたえる︺第一印象の力を知らなければならない︒企てのおおい現代におい  

て︑嫌悪すべき︑かつ︑強情な理論をたてようとするばあい︑それらの有害な夢響は極度の警戒心でもって監視さ  

れなければならない︒・−1−編集氏よ︑わたしどもは血の通った人間をうみだすことができない︒しかし︑かりに︑  

自分が仙人の人間であり︑一人の父親であるならば︑自分の息子は政治原理が悪化しがちな学校にやらないで︑女  

部屋で学英を終えさせることは確実だ︒前者ほ性病︵nOS2︶の危険があるのみだが︑後者は首︵neck︶ がとぶの  

だ︒− このような考察はわが王国の公共の学校における教師たちが共和主義者であることを自ら告白しているこ  

とから生ずる︒もとより︑同時に︑かれらの君主制に.たいする嫌悪の十中八九は原理からでほなく︑たんに︑興味  

本位の不純な動機からうまれるものであることをみとめないわけにはいかないけれども︒これらの連中ほ自分の主  

義を捨てるか︑その地位を捨てるかすべきだ︒なぜなら︑かれらがわが国王のパンを食うことと︑同時に︑政府を  

ののしることに︑甚だしい矛盾がないだろうか︒イギリス藩政の適度の中正ほ︑これら社会の有害な人物︵pests︶  

がその意見を吐くことを許していることに十分にあきらかだ︒もし仮りに︑かれらの自由と類似の自由がかれらの  

最愛の﹃自由と平等﹄の国の現在の政府によって実行されるなら︑ラムプ.・アイアン︹ラムプがぶら下げられた鉄  

の竿でフランス革命当時︑絞首台として使用された︺か︑もしくは絞首台がやがてかれらの息の根をとめるであろ  

ジ牒ン⁚︑︑ラー   ︵五三︶ 五三   

(8)

第三十三巻 第劇号   ︵五四︶ 五四  

う︒たとえ︑′わが大英帝国︵BritisFLiOn︶が怒ってこれらの歯をむきだしてうなる野良犬ども︵snaユingcurs︶  

に小便をひっかけたとしても︑なお︑無事にかれらが自己の活動をつづけることを放註しておいてよいはずほな  

︵17︶  

い﹂と︒   

ミラーほ叔父のジョシ・︑︑︑ラーから貨ったグラースゴクから約七マイルのキルプライドに近いホワイトモスの農  

︵18︶  

場でおおくの時を過した︒そこで神学教授ジ註トムズ・ベイリの隣人となり︑主フーの子供たちほジェームズの子  

︵19︶ 

へ20︶  

汐ヨクアナやマレユーと仲好しとなった︒山七八五年︑父と叔父が他界したので︑かれほ︑︑\ルヒューの経営者にな  

り︑ホワイトモスと同じように︑ここでも農場経営を楽しんだ︒かれほイングランドを二度おとずれた︒二斑は一  

七七四年︑ロンドン︑オクスフォード︑ケムプリ∵/汐︑いま一度ほ劇七九土年のロンドン行であったが︑このと  

へ21︶  

き︑議会での ︵フランス革命にかんする︶論争を耳にし︑フォックスと相識った︒  

︑\\ラーほ壮健で節度ある人間であり︑堅固な身心の持主にみえたが︑一七九九年︑病気にかかって弱まり︑一  

度︑回復したものの︑病後の不着隼のため︑仙八ひ一年五月三〇日︑︑︑\ルヒふ一において肋膜炎にかかり︑この世  

を去った︒今日︑エディソバラにあるスコットランド・ナショナル・ポートレイト・ガラリに︑ジェームズ・タッ  

レィによる︑︑︑ラーの円形浮彫りの肖像がある︒   

ここで︑︑︑ラーの家族についてのべると︑かれは息子四人と娘七人のうち︑かれの生前紅おいて一人の娘を仙七九  

一年に結核にて失ない︑一七九五年にほ妻を亡くした︒前途有為のたのもしい晋年だった長男のジョンは弁護士と  

なり︑カレン博士の娘と結婚し︑仙七八七年には﹃保険法﹄ ︵ドきこ豆乳ぎ竺ざ訂裏芸真空Jにかんする著書を  

出版したのだが︑病気と父からうけついだ急進的ウィッギズムへの魔女狩によってかれほ一七九五年の春︑アメッ  

カに移住し︑まもなく︑同地にあって日射病で死んだ︒有望な長男の死は父ジョン⁚\︑ラーにとっ七はどんな心境   

(9)

︵田︶  

であうたろうか︒三人の息子と六人の娘は父に先だたれたが︑一これらのうキ 汐エームズほグラースゴクの数学の  

六㍑︶   教授となり︑次男のケ∵イオアムほ陸軍中将︵−ie已enant・g訂計−︶とな㌔三男ほ弁護士となった︒また︑山人の娘  

︵24︶ はグラースゴクの=道徳哲学教扱′泳エームズ⁝︑ルン︵JamesMy−nか︶.に嫁し︑∴他の山人は汐ヨン・トムスン博士  

へ25︶  

と結婚︑アラン・トムスンをうんだ︒アランほ長じてエディソぺダの外科・解剖学教授となる︒  

︑︑妄−ほ研究の草稿を息子ジェームズ︑︑\\ルソ教授︑ 

そのうちのいくつかが一八〇三年に出版された︒これほ﹃歴史的考察﹄第三版軋つけくわえられた部分を指す︒   

さいごに︑かれの性格︑友人︑著書について記したい︒かれほ強靭な感覚の持主で︑おそろしく多血質の性格を  

もっていた︒活発で議論好きであり︑自分の児解をほくにおいてほ実に徹底的であった︒他人にたいしても.脚貰  

性や節操紅つト′てきび.しい批評の持主だった︒長男や弟子︑\エーアの生涯も︑かくて︑この父にして教師め鮭格か  

らうまれる必然性をもっていたのである︒草た︑逆に︑かれのス︑︑\スにたいする尊敬のことぼから︑たとえ︑師に  

たいする儀礼的讃辞があるとしても︑ス︑︑︑スの偉大さの間接的な証明をみいだしうるのである︒かれほイギリス文  

学にも通じ︑社会的紅も家庭的にも︑つよい愛惜を保腐し︑遊び好きで子供たちとたわむれ︑たとえ︑身だしなみ  

にいくらかの形式主義と感情の表現紅無愛想な点があったとはいえ︑友人や弟子たちの思慕を全身蔽うけえたので  

︵26︶  ︵27︶ あった︒親しかった友人ノのなか紅はジョン・モーアがいるし︑弟子にはローダデール伯がいた︒︑︑エフーほかれの経  

済思想に顕著な影沓を及ぼしたし︑また︑\\ラーほ毎年かれを訪問したのであった︒  

︑︑\ラーの著作ほ署名つきで公刊したものが︑二っあり︑匿名のパンフレットが一冊ある︒   

H′まず︑処女作であり↓かれの歴史論の原理を圧縮して叙述した人声藁葺乳ぎ雷へ急告ミ‡還∴吏こ¥旨ぎ罫瞥  

見ふ邑訂訂辞意音↑眉首こ蜃・があげられる︒これほ二蟹汁ぺ一1汐の叩本であるが︑辞字凸版写鼻ほ次  

汐ヨン・ミラ﹂   ︵五五︶ 五五   

(10)

︵五六︶ 五六   第三十三巻 第言写  

のようである︵OB伽ERくATIONS c02dER2一望G THEDHSTINCTiつZO句RAZ只S IN SOC−ETY◆ BY JOHN鐘HLLA対︸   

同SQ・PRO勺ESSO昇0句﹁AWS IZ TH同仁≡くE押SHTY O句GLASGO宅・L02DOZ刈 勺巴2T河D BY 尋・AND l・巴CHARDSOぎ 勺OR lO昌   

崇MURRAY︸2︒∽N.﹃LEET・STREET.〇憎POSITE ST.DU2STA菟s cHqRCH−E.OCC.r舛巴.︶︒   

本書の第二版ほ血七七三年らしいが︑わたしには不明である︒表題も内容もかわらないとおもわれる︒  

︵2さ︶   

第三版は書名も︑内容および目次も変更・増訂され■に一七八一年に出版された︒これほ序文をふくめて一三ハニぺ  

ー汐の一冊本であるが︑その扉字凸版写轟ほ次のようである︵THEORHGINOヨ針DISTINCT−ONO句RANKS;RJ  

AN:ZQ仁一RY IZTO THE C−RCUMSTANCES W冒−CH GHくE R−SE TO HNFL亡ENCE︑AND AUT胃OR−TY HN THE  

DI句句ERENT・MEMBERSO句′SOCIETY.BY lOHN MHLLAR︸ESQPRO句崇SOカ○句LAW IN THE占害くE知SITY   

O句GLASGO竜● ↓HE TH−RD ED−TIO字 CORR同C↓囲D AND 因NLA沖G囲D◆ ビ02出ONt PRHNTED 句OR 1.M已搾RAY︶N〇.∽沌u   

(11)

芦EET ST呂ET︸句AC−ZG ST.DU2STA乳s cH亡発声 MDCC L舛舛巴.︶︒   

さらに本書ほその第四版が一八〇六年︑エディンバラで出版され︑すでにのべたジョン・クレイグの伝記がつけ  

られたのであるが︑げんざい︑わたしの手元にない︒水田洋氏のご好意によって︑まもなく︑プり/ソ⁚卜が手にほい  

るはずであるが︑第三版と比較して︑いくらかの改訂があるらしい︒この第四版が最終版である︒︹注小文をか  

きおわってのち︑水田氏からプリントが送付され・準じとりあえず扉字写兵を左に掲げる︒→害ORIGHNO勺→HE  

D:ST−NCTION O﹃RA2只S⁚○拘﹀ A2HNQ亡IRY I2→○→HE C一因CUMSTAZCES WHHCH GIくE 巴SE TO IZ芦UE2CE A2D  

AUTHORHTYこNT琵DIFFE呂NTM望BE押SOFSOCHETY.BY JO胃2MHL㌣AR︶ESQ・PR︒FESSOR O句LA竜一2THE  

eヨくERSHTY OFGLASGか声THE句OURT胃ED−↓HOぎCORRECT冒.TOW巴CH HS PR宅Ⅰ舛EDV ゝ≧ACCO︻宅↓○句↓む河卜︑竃  

ゝ壱 葛彗↓薫∽.〇句↓和mAq↓毎Q声 BY JO昌之CR巴G−ESp EDl岩URGH‖遥lヨED苫RヨLlIAM BIAC只W000Ⅶ  

sOUTH一BR冒GE STREETAZD L02GMAヨHURST︸R珂ES.酔OREE−PATE搾ZOSTER・ROWL02DO芦−00○の・︺  

ジョン・ミラー   ︵五七︶ 五七   

(12)

本番ほ一七七二年︑ライブチッヒでドイツ語に翻訳され︑一七九二年に minister Of justice の DOminique  

JOSepbGaratによってフランス語に訳された︒年号から推測すると︑ドイツ語訳ほ初版本を底本としたのであろ  

うが︑フネ/ンス語訳は第四版であろうか︒   

わたしの知るかぎりの本書につ・いての反響をのべれば︑心ジェームズ・︑︑︑\ルはミラーの著作をロをきわめて員讃  

した︒︑\ヘルほ︑︑︑ラしをふくめてスコットヲ︑ンド歴史学派の主要な緒著作について︑かれが二九才のときスコソトエフ  

ンドを立ってイングランドに出発するまで虻期間に研究し︑以後は︑︑︑ラーの諸思想なイングランドに普及さ塵よう  

︵29︶  

としたのである︒︑︑︑ラー紅たいするかれの激賞ほたとえば二八〇六年六月のブタラリ・ジャーナル﹄⊥の論評に  

みられるし︑患た︑︑︑︑ラーの影響ほかれの藁儀インド史﹄のいくつかの節にも︑とくにあきらかだといわれる︒山  

八一七年九月一二日付のディグィド・リカァードゥの︑\\ル宛の手紙で︑自分の無教育をなげき︑自己の力を鍛えるに  

ほ何をよむべきかを教えてい狩だきたいという注文にミル正一八︼七年山○月一九日付の手紙でリカァードゥにた    第三十三巻 欝仙骨   ︵五八︶ 五八  

(13)

いし︑自分の近著︵﹃英領印度史﹄のことであろう︶を真先にあげながら︑﹁市民社会二股の研究﹂ ︵tbe study  

Ofci墓sOCiety⊥n gene邑︶にかんし︑種々説明したのち︑ベイル︑ロック︑とふームをあげてさいどに︑︑︑ラ1  

︵30︶  

の屋史的考察﹄に言及し︑﹁これは自分にとって薮えちれるところが非常におおかっ空とのべて推挙してい  

る︒ここで︑︑︑ルほ﹃階級起源諭﹄に直接にほふれていないが︑リカァードゥの蔵書には﹃階級起源論﹄第三版︵一  

︵飢︶ 七七九年︶があるのだから︑リカァードクが∴八仙八年一二月二八日付ミル宛書簡で﹁大変愉快にミラーをよみま  

︵82︶ した﹂というのが︑右のいずれの著書かわからないが︑両者を指していると解してもよいであろう︒②J・F・マ  

︵調︶ ックルナンはその筈代史研究簑ぎ誤電吏こぎ常温短音ぎき忘ぷこ崇いて︑ミラーの女権制︵gyロei首racy︶  

へ銅︶ にかんする事実の叙述を賞讃し︑︑ミラー教授ほその﹃階級起源論﹄において﹁バハオーフェソ︵6聖篭邑ぎ還C琶  

ヽヽ の著者︶に大方︵a−m邑︶先鞭をつけ空といい︑また﹁事実の取扱いによって︑あらゆる意味で厳密に科学的  

だ﹂と讃えた︒︵︑訂㌣Pり畠○こ00tnO−e︶ ㈲ハインクッヒ・クノウ︵HeinricbCun︒W︶ほ慧屯冠雪崇へ訂C等  

︑■ぎ・ミチ︑㌻こ︑さ・ぎ\ご主ニー︑≧㌧たざミ↓ へざへミ∴㌻ ■︑こ二㌻:ン︑・チ︑︑︑手h︑こ㌻古.︑・二・Lご三﹂董:二二て⁚  

おいて︑トマス・ホップズの弟子レモン:−コテス・アン‖ソ・ラング︵SimOn呂cO−asHenriLin讐et∴コ芯葛計  

き房旨軋諷旨ぎこ童b畏票首空こざ温習宝息芸蓋;訂訂:受渡葱㍉どndOn▲﹂諾可︶を高く評価し︑そのすぐれた論究  

をみるために︑同時代の類似の作品︑たとえば︑当時︑注目せちれ︑またドイツ訳をもったグラースゴクの法学教  

授ジョソ・ミラーの山七七劇年︑ロンドン出版の小著と比較すれば二目瞭然であるとして︑︑︑︑ラーについて︑次の  

︑ ようにいう︒﹁かれは社会階級︵Gese亡schaftsklasse︶の概念をいまな蘭︑全然︑知らない︒かれほ位階と身分  

切区別︵Rang・un瓜Standesunterscbieden︶のみを知っているの︑みであって︑かれほ該著作のいくつかの箇所にお  

いて︑富の位階成立にたいする影響をかた︵一てほいるが︑なお︑古いソニーマにより︑社会成員の肉体的な必者の  

ジョソ::︑\ヲ1  

︵五九︶ 五九   

(14)

第三十三巻 常州号   ︵六〇︶ 六〇  

弱者に対する優越に帰しているのだ︒階級成立の経済的基礎をかれはみない︶﹂カノクほこのように︑︑︑\ラーが位  

階︵Rang︶もしくは身分︵Stand︶を知ってほいたが︑階級︵眉−a00Se︶を知らないとして︑かれを低く評価する︒  

これに反し︑ラングほ国家が下層階級にたいする支配階級の支配組織︵巨errsc訂ftsOrganisatiOn︶ であると明確  

に規定するとされるのだから︑クノクにおいては︑︑︑\ラーはラングを引きたたせる脇役でしかない︒㈲これに反  

しW・ゾムパルト︵Werner S︒mbart︶ほ 

富ま買芸道札宅∴訂落さ応訂∵苧法学軍書挙品監馬ヽ曾=革己二潔挙等−.Baロdこ諾ぃ.紅おいて﹁種々の文化領域への  

唯物史観の完全な適用﹂ ︵雲己stぎdigst2Nu什泣nW2已5gderVmaterialistischen GescbicFtsau叫fass岳gAauf  

d訂﹂蒜rSCEedenenGebietederぎぎr︶ をふくむも 

法と統治の個有の諸制度の諸原因を研究するにほ︑われわれほうたがいなく︑なによりも第一に︑特定の国々の住  

民にたいし︑異なった諸思想と行為打動機を促す状態の相違︵thedifferencesOfsituatiOn︶にたよらなけれほな  

らない︒この状態妃類するものほ土地の肥沃であるか不毛であるか︑諸生産物の性質︑生活資料を獲得するに必要  

な労働の種類︑一つのコミュニーディ.に集まる住民の数︑諸アートにおける熟練︑住民が相互取引にはいれ︑親しい  

通信をかわすことにより草受する諸利益である︒しばしばこれらの︑また他の特種の状態にあらわれる相違A−  

要するに︑マルクスによって仙般に規定された定義=生産力の発展度と生産棟式の形成における相違−∀ほ一  

国民の大多数にいちじるしい影響をもつにちがいない︒との相違ほノまた住民の性向と職業を特定の方向にむけさせ  

ることにより︑それに照応七た習慣︑気質および思考方法−A政治的・精神的V上部構造A蓼をうみだすに相  

違ない︒A﹂ ︵S﹂料し このゾムパルトの指摘ほうずもれた︑︑︑ラーを忘却の谷間からほりだしたことで有名たが︑  

ゾムバルトの議論にはいノ﹂つかの論点が指摘されうる︒第仙にゾムバルトの意図であるが︑かれほ永久にうずめら   

(15)

れた︑︑エフーをひきだし︑これによっでマルク 

九世紀ほこまかいこと以外には︑なにもうけくわえることができなかりたのであって︑たとえばエンゲルスの﹃家  

族・私有財産および国家の起源﹄ ︵ただし︑雷名をほっきりとはあげていない︶ほミラーに少なくとも堅牙として  

示された技術=経済的観点よりする結婚の社会学におけるすぐれて完璧な論述にたいし︑なに⊥つのあたらしい思  

想を発展させもしなかった︒にもかかわらず︑このおどろくべき書物は急速にしかも完全に︑忘却されてしまった  

とのべる︒︵SS・㌫十本㍍・︶このように︑ゾムバルトのミラー論ほわれわれの有する社会学のうちで︑もっとも  

すぐれ︑かつ完全なものだとする賞讃︵S・こ・︶に終始する︒しかし︑かかる意図にもせよ︑この論文ほ一七︑八世  

紀イギリス︑フランスの唯物論的歴史把握において重妥な素材を提供していることほ否めない︒わたしは別の機会  

にゾムバルトのこの論文をとりあげたい︒第二に︑ゾムバルトほ主にここで下部構造と上部構造についての唯物史  

観の適用にふれているのみで︑それと結合した階級論︑さらにほ経済学に筆を及ばしていない︒マルクスやエンゲ  

ルスの独自な点ほ唯物論的歴史叙述と経済学をむすびつけ︑またほ唯物史観を経済学の重鼻を通じて論証したこ之  

にある︒このことを論じないでほ山八世紀と山九世紀の比較論ほ意味をなさないであろう︒第三に︑ゾムパルトの  

引欄する︑\︑ラーの一文は﹃階級起源論﹄第三版の序文第三パラグラフにみられるもので︑初版の序文にはない︒初  

︵郎︶ 版にも同じ思想がないとはいえないが︑かかる一般的叙述ほみいだせない︒版を重ねるにつれての相違を内在的に  

︵鋸︶ 追跡する必要がある︒㈲月・ジャゲノフ ︵D・RjaNa栗鼠︶ほ東ドイツ・イデオロギー﹄の編集者序言において︑ゾ  

ムバルトを批判し︑﹁ゾムパルトの引用する唯忘引用文ですらも︑︑︑︑ラーがたんにモソテスキュ﹂の学派を卒え  

た血八世紀後半の﹃文化史家﹄の一人であるにすぎないことを示している︒⁝⁝三世紀に発足する﹃文化史﹄ほ  

人間の歴史がたんに君主の征略と英雄的行為にのノみ存するのでほないことを証明するおおくの事実をあつめた︒た   ジョン⁝︑ヲⅠ   ︵六こ 六山   

(16)

第三十三巻 第号   ︵六二︶ 六二  

んに大鼠の事実・1そのなかには︑この文化の諸要素の山つとして︑経済的諸かんけい︑∴生産および商業の歴史か  

らの諸事 

斯界にあらわれほじめた︒けれども経済史はどこまでもそれだけのものであり︑そしてその他の﹃文化﹄諸現象も  

雷た同様にどこまでもそれゼけのものであった︒それほとにかく︑経済的諸かんけいのこれらのさいしょの歴史家  

たちはすでにマルクスおよびエンゲルスによって利用された大患の資料を蒐集したのである﹂と小い︑クノウのミ  

ラー批判をつけくわえている︒さらにリヤザノフによると︑マルク 

であるが︑それは他の連関においてであって﹃ドイツ・イデオロギー﹄をかいてから︑ずっとのちの仙八五二年  

八月付の婦人の歴史︑および山般文化史をとりあつかった書物中に︑︑︑︑ラーをみいだすことができると︒ジャザノ  

フ切議論はゾムバルト批判に急でマルクスやエンゲルスが仙八世紀から何を学んだかという立場からはなされてい  

ない︒︑\\ラーの否定面がただ他の諸側面ときりほなされて強調される︒﹁経済史ほどこまでもそれだけ﹂ ﹁﹃文  

化﹄諸現象も針た同様⁝⁝﹂というかんがえ方でほ﹃ドイツ・イデオロギー﹄におけるイギリス︑フラ/ソスのドイ  

ツにたいするマルクスおよびエンゲルスの肯定さえ理解できない︒   

目 し碧こ詳きざぶ∵軍営♪丁挙こ皆聖㌻ G茎S買電ござ吉示訂如註寿意藍ふ︑蒜屯 許彗莞軋記袈.叫已記  

︑ミ︑ぎ ﹂こ・こ壬ミこ\︑㌻︑︑ミ︑㌧〜︵・ミ.‡こ二〜こ﹂㌻︺∴  

︵即︶   

これはHの原理をイギリス史に適用したものといわれているが︑ステイープンによると第二版ほ山七九〇年にで  

た︒   

第三版ほ山八〇三年︑遺稿がつけぺゎぇられ︑さきのタイトルに ↓OWhicFare subjOined sOme Disserta・  

tiOnSCOnneCtedwithtFeHi乳OryOft訂GO諾rnmentf冒mtheRe召−uti呂tOtFePresentTime㌧が付され   

(17)

︵38︶ て出版されたとい・われる︒しかし︑少なくとも初版とわたしの手元にあ右第三版とを比較すればあきらかに主なタ  

イトルにもちがいがある︒これは右の﹁革命﹂から﹁現在﹂までという規定からも推量しうるように︑初版のさいご  

であるステエアイト家から﹁革命﹂までの叙述がすでになくてはならないほずだから︒事実︑第三版の本文タイト  

︵89︶ ルはそのようになっている︒第三版︵四巻本︶の靡字凸版写真︵第仙巻︶は次のようである︵AZ已STOR−CALく  

ーEWO句THEE2GLIS㍍GOくERNMENT﹀﹃ROETHESETTLEMEZTO﹃THESA琶NS IN BRHTAiN  

TO↓蔑知内さトq↓︑○≧ヽ≧.−悪声 TO WFicF are 笠b富ned.SOME DHSSFRTATH02S CONZECTED WITH THE  

H−STORYOFTHEGOくERZMENT﹀句rOmtheRe三富iOntOthePresentTime.BYJOHNM−L㍗ARESQ.旬⊇ヽ認篭ヽ  

Qヽト包琶訂芸亀q温冨⊇認℃QヽG︑egQ芦 12﹁句○亡Rく○ド已MES.<OL﹂.L02DO写p巴ZTED句OR J・MA宅MAN︶20  

琵−ZTH囲POULTRY.−00声ByT.Gi︼−et﹀Sa−isbury・Square.︶  

第四版は山八∵八年にあらわれた︒わたしほ未見であるが︑第三版が定本であるから︑内容上の変更ほないとみ  

ジョン︒︑︑\ラー  

︵六三︶ 六三   

(18)

本書についての反哲をのべると︑甜プラ∴Jジス・ジェフヅは﹃エディンバラ評論﹄ ︵第三巻叫五四−八∵ヘー  

ジ︶誌上で︑︑\ラーを激賞した︒ミークの引用するところではジェフリのことぼほミラーの指導慮謹が慈恵的で突発  

︵40︶  

的な原因からは何庵生起しないという規定である︒闇ジェームズ・︑︑\ルおよび子︑︑\ルについてはすでにのべたが︑  

1・S・ミルほ﹃自伝﹄に︑幼少のころ﹁父ほまた︑私だけでほ読もうという興味を十分に持ち得なかっただろう  

ような雷物を何冊も私に読ま畠︑それを口頭で報告させた︒そういう中には︑当時としてほ非常な名著であり︑父  

ハ4  へ41︶ が高く評価していたミラーの﹃英国政治の史的概観﹄﹂があったとのべている︒子ミルほミラーの歴史的思惟とギ   2︶ 

︵43︶  

﹁自由な精神﹂をよろこばしくおもう︒しかし︑︑︑\ラーはあまりに︑﹁不完全な帰納法にもとずき︑また非常にしば  

しば個々の事実の全面的誤解にもとずいて理論化しすぎる﹂と記している︒   

∴ いご−・︑主−・⁝ミ.ぐ︑冒ミニざ︑・ミ︑さチミ︑モ・享ミミニミさ・ミミミ・:︑\︑ざ \モシここ≡︑二ごこ.  

︵44︶︶    これは匿名の反革命干渉戦争髄判のパンフレットである︒筆者ほ未見である︒︹注 レーマンの論文によると︑   ︵   さいしょはScOtSCbrOnic−2に収められて出版︑一七九六年にパンフレットのかたちで単独出版︑内容ほフォツ  

タスを支持してピッ′トを批判したもの︺  

︵45︶  欝二版は一七九七年︑エディンバラで出版された︒   

これについての具体的反響はいまのところわたしにほわからない︒おそらく︑内容から推して異常な嵐をまきお  

こしたであろう︒  

︵1︶ Francisleffrey︵LOrdleffrey︶︵−ヨ∽−−00苫批評家・随筆家・法律家・高等民事裁判官︒オックスフォードのクワイー    第三十三巻ふ竺号  

てよい︒   ︵六四︶ 六四  

(19)

ンズ・カレッ汐軋学び∵レド一㌦ィ︒スミスの肝いりで︑ブルーム︑ホーナらと︑有名な云エディンパラ評論﹄を創刊︑の  

ちにほかれが主幹となる︒︵かれほ誌上でミラ.−について種々論評した︶本誌ほブルーム笹あきらかなように︑ウィッグ  

の立場に立つものである︒一八二九年︑ジェフリはその編集をマクグィ・ナビアに譲った︒かれほのらにかくT・︑\ニー  

アの裁判にも出席している︒詳細ほ別稿で論ずるが︑コックバーンによる伝記がある︒  

︵2︶ Wiiam MO蒜Fead︵died in−遥∽︶モアヘリドについてほ︑わたしほ知識がないが︑F︒ジェフリほ若い時分︑スター  

リング地方のハーバートレヤの叔父の家で読書虹ふけり︑日己教養を積んだといわれる︒叔父の家の劇つの魅力ほそこに  

すぼらしい蔵書がみられたことにあった︒また︑かれのウィツギズムや自由主義ほこのやさしい叔父の感化にもよった︒  

これにひきかえ︑かれの父ほ陰うつなまでに威格だったのである?hアニく︒加の下山∴ジェフリの項をみょ︒  

︵3︶ WiiamC亡en︵−ごb⊥遥○︶ラナークレャのハミルトンにうまれたスコットランドの隠者で大学教授︒璧珊家であり︑  

また実践的にもすぐれていた︒自然科学山般についても︑ふかい学識をもら︑植物学︑化学∵薬物学にかんする講義をグ  

ラースゴク大学とタイ︒アップして行なった︒かれの弟子にほ︑かのジョウ♭フ︒ブラックがいる︒主著ほ冊刷 L買ま  

巨霞;ヽ罫こざ邑賢云ヽ空首丹†ヨ.必旨註g叫Q莞Qヽ呑賢叫莞︸−ヨ戸棚刷ヤ琶ぶ旨こぎ蜃i貰衰こ昏令旨−謡∽・棚  

ゝ⁚コ︑貢ぎ:琵廷ぎき㌣貴誌眉−語学 かれについてほ別稿で論ずる予定である︒   

︵4︶ Daまd DOuglas︵−謡¢−−00一票は襲子のないス︑︑︑スの相続人︒スミスの母マーガレットの兄ジョンの長男ロバート︒ダグ  

デス大佐︵−ゴ品−−ヨー︶︑の末男で︑のちレストン卿となった︒ス︑︑\スの死後︑︑︑︑ラーほかれに︑ミルヒ声t−から有名な手  

紙︵血七九〇年八月山四日︶ ⁝−スミスが金儲けを目的としなかったこと︑ダグラスの仕事や生活にたいする勧告︑ス︑\\  

スの原稿の出版︑さらに﹃文学クラブ﹄でのスミスの模倣芸術にかんする二回の講義にふれ︑ダグラスの勉強や自分ほず  

りと家にいるから︑やってこいなどとかいている ー を送った︵W●R−ScOtt⁚竜︐C叫㌻PP●叫T−−∽︶︒ダグラスほかの  

詩人・作家のサー・ウォルター・スコット︵SirWa−terScOtt∵S↓丁−00㌶︶と学友であって︑スコットがス︑︑︑スとーJ・ハ   

汐ヨン・ミラー   ︵六五︶ 六五   

(20)

︵六六︶ 六六   第三十三巷胡二サ  

ットンおよびW●カレンの弟子TJ一ブラックの三人を創立者とするオイスター︒クラブ軋ついて︑とくにそのオイスター  

と名のる所以を自ら示す興味のある挿話を伝え︑また︑スミスの角砂糖好きを接き生きと描いてみせたのほ︑このダグラ  

スとの友人かんけいにあるといわれる︒なお︑オイスター︒クラブにほH・マッケン汐−やD・スチュアートも入会して  

いた︒F●W・ハーストデダム・ス︑︑\ス遊部久蔵訳︶〟二三⊥五ぺージ参照︒  

︵5︶ Hen巧yぎm2︶10−dKames︵−買主∞N︶芸ダインバラ講義﹄以来︑ス︑︑\スの尊敬し牽著述家・法律豪・裁判官︒ミラ   

ーもやソナチャヂしス︑︑︑スとならべて︑かれを敬愛した︒著寧に等賢訂云二恕迦許さミ表官−ヨ・Se︒︒ndedT  

ti昌Lヨ00.がある︒A・Fタイトラーのかれの伝記ほ有名である︒ホーム紅ついても︑別に考察したい︒  

︵6︶ ホームにほ妻アガサとのあいだに聖人の息子汐ヨージ︒ホーム・ドラモンド︵GeOrgeHOm?冒ummOnd︶があり︑ジ  

ョージほ血七八二年叫○月︑エディンバラの牧師ジ占ン・ジャーディンの娘ジャネットと結婚︑山八一九年州○月︑死ん  

だ︒  

︵7︶ Da邑Hume︵−謡=00運 壱五七年二月三七日洩れ︑毛八四年︑バーグィックレャの執政長官︑壱八六年︑エデ  

ィンバラ大学のスコットランド法教授となる︒ヒュームの教室に学んだサー︒ウォルター・スコットほと︒−ムの講義匿  

ついて﹁好ふ学者の喜題にふさわしい気まぐれでいたずらに雉解な考究におちいらず︑また︑学生紅たいして無味乾燥で  

未消化な法の現実の状態にかんする末梢の説明をすることもなく︑われわれの法律制定の過去と現在を結合させ︑明確匿  

わかり易く︑生起した諸変化と諸変化をもたらした諸原因をあとずけた﹂とのべた︒ここには︑︑︑ラーや叔父ヒユームまた  

ほス︑︑︑スを彷彿させるものがある︒晩年の一八二二年にほスコットランド財務裁判官につき︑この裁判所が靡止され︑恩  

給をもらって押するまで当職にあった︒さらに︑かれほスコットランド刑法についてのスタンダードな著書をかいた︒主  

∵・ニ・主ミミミ︑:・ミ︑チ︑ミ︑・・︑.︑ソ︑主︑\ミごこ三貴︑トニ丁・⁚ミ主・︑ミ︑︑≒ンぎミミ.⁚ヾ︑︑⁝﹂ぎ∵−・㌧・・・︑︑・︼  

年前にC箋薫邑き身篭こ訂巨舅P二ざ姜眉ごぶ貫き馬↓愚詠ゝ Cl町鳶旬・をあらわしている︒このほか︑各棟の論文   

(21)

があり︑アレグゲソダー・′チャルマーズ編の﹃イギリス随筆家﹄に収録されたのであるが︑かれほ生前の山八三二年に︑  

自分の講義やその他の法律広かんする論稿など︑判決集の尤大なコレクション ︵小七八一∴八二二︶をのぞいて︑血切  

の公刊を禁じた遺言をのこしたため︑この判決報告嬢のみが﹁八三九年に発刊された︒ロックハートほかれを﹁思考の男  

らしい強靭さにおける︑また知識の執慧爵さにおける輿彩とともに二菌潔で物やわらかな人物﹂と評している︒かれにほ将  

来を期待された若い仙人息子ジョクジフがあったが︑仙人二九年に死んでしまった︒以上︑β・Ⅳ︒βのジョン・アンド  

り二千ワ・ハ︑︑︑ルトン筆による︒  

︵8︶ 苦rcu訂sLindesay ︵L・ステイープンはLindsayとかいているが︑スコットにより︑修正した︒しかし︑どちらが正  

しいかあきらかではない︶ほ血七五〇−鵬七六〇までグラース.コクの法学︵ciご.aw︶教授︒F・W・ハーストほ法学の  

ラテン語放棄の改革者ほ﹁スミスの教え子であり︑友人だったジョン・︑︑︑ラー﹂であるとしている︵遊部久蔵訳﹃アダム  

・ス︑\︑ス﹄三三ぺー汐︶︒水田洋氏もハーストにならっている︵﹃アダム・スミス研究入門㌫六四ぺー汐︶が︑その根拠   

ほ不明︒L・ステイープンはレイに依拠しているらしい︵水田洋Ⅷ入門﹄七四ページ︑注︵2︶参照︶︒わたしは判断の  

資格がないが︑もし︑︑︑︑ヲ1であれば︑かれの面目躍如たるものがあるといえよう︒  

︵9︶ 水田洋民によれほ現春グラースゴク大学紅ほ︑︑\ラーの統治論︑スコ.ットランド法︑イングランド法︑法学の講義ノートが  

七種類保存され︑これらのうち︑統治論ノートのひとつ︵仰七八七卜八八年︶ほミラーの息子からハミルトン公におくら  

れたもので﹁社会における統治の起源と発展﹂︑﹁個々の統治の︹歴史的︺展望によるこの主題の説明﹂︑﹁大プリ五ノン  

払おける統治の現状﹂の三部からなっているとのことである︒また︑統治論の序論のおぁり紅統治の自然史をかくという  

さいきんの傾向の代表的なものとして︑﹃法の精神﹄と﹃諸国民の窟﹄をあげると水田氏ほいわれる︒さらに法学講義転  

鵬七九八年のものらしいのに︑依然として︑序論でほ︵おそらくスミ帯の影響をのこして︶法学と倫理学の研究方法を論  

じてい 

ジョン⁚︑︑ラー   ︵六七︶ 六七   

(22)

︵六八︶ 六入   第三十三巻 第;†  

間叫のものであろうか︒また息子はジェームズであろうかとおもわれるが︑この七つのノートと﹃歴史的考察㌍鱒二版に  

つけられたものが︑嚢料的にいかなるかんけいにあるか︑︑いまのところ︑わたしにほよくわからない︒七つのノートが出  

版を目的としない原稿であれば︑ミラー自身の序文および編集菌症よる第三版の序文からみてm応別のものとかんがえる  

ぺきであろう︒この点ほ﹃階級起源論﹄第四版のクレイグの説明をみれば判明しうるほずであるりなお︑第三版につけら  

れ牽論稿では︑モンテスキュー︵P蒜SidentMOnteSqui旦とス︑\\ス︵DrSmi萱以外にケイムズ︵LOrd舛ames︶があげ  

られ︑順序ほ・モンテスキュー︑ケイムズ︑スミスである︒騒き卦已ヨ軍﹂苦∽一ぎー﹂く・P・N00P ︵ただし︑ケイムズ  

はHamesとなっている︒誤植であろう︒︶  

︵10︶ C.R.Fay∵倉詳記診註料彗軋土石無尽ざ邑♪†設?昏ぎー漂■pp●¢Nム・これほイーースがトマス・トムスン回想録に記し  

た血文章である︒TFOmaSThOmSOn︵−謡00⊥00ⅥN︶ほ︑︑\ラーのすぐれた弟子で法律研究家であり︑とくに古い法律にくわ  

しかった︒T=⁚トムスン軋ついてほ別にかきたい︒   

︵11︶︑託㌣p.ゆ∽●  

︵12︶ この会員ほ主として大学教授であったが︑.その他の地主や商人などの市民も参加を許され︑設畢驚竺人アダム︒スミス  

をはじめ︑デイヴイッド・ヒユーーム︑歴史家サー・ジョン︒グルり/ソプル︑古物研究家ジョン・キャラソダー︑印刷業者  

ロバート・ファウルズなど︑グラースゴクのバライァティに富む文化人の集合体であった︒この会ほ毎週金曜日に開か  

れ︑劇七五二年仙月二三日の第三回会合の席上︑ス︑︑\ス.がヒュームの﹃商業論﹄︵詳ぷ葛篭C箋鳶ヽC〜︶を批評したのほ  

有名な詣である︒︵W叩R・ScOtt⁚臣ざこ訂嘗§こ音旨温室㌣マ阜琵薫−諾♪p.00N■ スコットほR・Duncan⁚>ざ訂顎  

賢邑邑賢ふこ吾ヒ音薫†声音ヾミn訂瞥5忘−.p.−∽Nによって血七五二年とし︑ジョン・レイの劇七五三年説を  

批判している︒︶   

︵13︶ TFOmaS Reid︵−ゴbI−﹂¢の︶ ス︑︑︑スの道徳哲学講座の後任者で仙七六三−九六の期間その職にあった︒同僚としてほ︑︑\ヲ   

(23)

ジョン︒ミラー   1︑ミクジフうラックが特記される︒かれの伝記と著作についてほD・スチュアート覧る菖cOuntOftheLife   andWritin粥S◇叫ThOmaSReid小D・Pご∴nC邑邑乱覇官許鼠b董註こ誉弓♪ぎL〆pp・N畠1∽寧がくわしいが︑   少なくとも支学クラブ﹄についての個所にはミラーとの論争にほふれていない︒スチュアート軋よると︑このクラブほ   会員相#の一般的主題紅かんする意見の交流と︑お互に出版を意図した著作紅ついての親しい討議にあった︒︵恕計rp・  

N芝●︶  

D.Hume⁚ヨ訂毎を官セミ二ぎ買こ翠詳宮−謡干芦こ謡Nこ謡㍗−∃P   フランス革命当時のイギリスで︑議会改革を要求し︑フランス革命を擁護し︑またほこれに同情した革命的急進主義者た   ちの団体の代表的な三つのうちの;である︒他の二ほt訂SOCie−yfOrC呂Stituti呂a=nfOrmatiOロと︑もっとも有   名なt訂1呂dOnCOrreSp呂dlngSOCle−yであるが︑たとえばG・D・H・CO−2aロdRaymOndP邑gate⁝↓穿こぎ諜鼠   語隻:謡?−翌㌫∵忘兵㍗℃p.−父T−.によると︑SOCietyOfFriendsOfthepeOpleほ⁝七九仙年創立︑きわめて穏健   ディにより創立︑これら二つよりほ薄らに急進的で︑ノメム⁚ハ1の数も段ちがいにおおかった︒    なウィノグの集まりで︑のちの首相チャールズ︒グレイ︵かれほのち︑この会のあり方を批判するが︑詳細は別稿で記し   たい︶を中心としたフォックスのいないフォックス主義者からなっていた︒そのメムパーたちは︑たしかに自由を熱愛し   たとほいえ︑かれらが今日いわゆる民主々養老といわれる人々の類であrったかどうかほ疑わしい︒しかし︑ある点では︑   もっと旛力的︑もしくは卑しい下層の同盟者たちの後藤者として活躍七た︒S・C・H・のカほ山七八〇年創立︑シェリダ   ン︑トクーク︑カートライトらが中心で︑中産階級によ詔て構成︑S・F・PもS・C・Ⅰ・も共に夕食クラブで︑その会合ほか   なりのレストランで晩餐をとりながら︑もたれ︑毎年︑数ギニの会費にその基礎をおいた︒L・C・S■ほ脚七九二年︑ハー  

HOコリンズにょると︑むしろ︑これら三結社の相違ほその政治的信条よりも会費にあり︑L・C・S・ほ毎週血ぺニィ︑  

入会金;リング︑S.ギほ零葦ニ︑入会金二キニ︑∽・F・P産額年N申ギニ︑入会金N申ギ言あって︑それ      一   

︵六九︶ 六九   

(24)

いうまでもなく︑LC・S・が歴史上︑もっとも大きい役割を示したので︑すでに︑これについての研究ほかなり発表さ  

れているのだが︑わたしほことスコッ上フンドについてほ︑S・句小Pの運動を無職するわけにほいかないとかんがえる︒  

コール=ポストゲイトのいう﹁穏健﹂ほスコッ上フンドのS−﹃・P‖には妥当しない︒しかし︑S・句・P‖自体にかんする研  

究ほいまのところ︑貧弱だといわざるをえない状態である︒これらの団体についてはA−︷reかCObban︵eP︶‖ り評∵b監苓訂  

Q︑こ訂.軍屯鳶か穿琶︑邑叫Q芦−ゴ況丁−00OUこ誤〇.V S●MacCOby︵ed.︶⁝↓評bざ恥︑乳和知已叫c監守乱註Q芦 ︸謡㌣−¢−料\ 法華㍗S●  

MacCOby⁚如麿恵監こぎ邑ぎ温を声−遥?−00㌶﹂讃ひ.−P●A●BrOWn⁚ゴ好一ぎ箋鼠∴ぎ真吾註きご温h音叉冴詠出冴旨ご√崇−00..G−  

D.H.CO−e and A一Wけ﹃i−s昌:甲註旨−芋蔓思C訂訟b浄至罫蛮声冴.hぎ訂a Jp買裏芸雪罫−讃卒⊥重昂..−欝−こ G.S.くeitF⁚  

つ訂G箋乳わ員旬§〜叫Q︑︑§訂ミ和さヽSu−讐∽・などを︑とくに LC・S・についてほ H2nry CO≡ns∵T訂51 ndOn  

COrreSpOnding SOCiety.バー⁚9薫眉董ぢ竃鼠蒜で甘曾竜主旨藁葺鼻−綬Pを︑また︑スコットランドにかんれんしてほR●  

WりMeik−e⁚辞さざ芸札串象ご討こぞ箋已ござ雲さ註ざ ︵筆者未見のため︑発行年∪う不詳であるうえ︑著者転ついて︑ヘンリ・  

コリンズほR・W●Meikleと記し︑G︒D・H︒コール=R︒ポストゲイトほG.﹁Meik訂とかいている︶が重要であ  

る︒文献ほ他にも種々あるが︑これら三団体を別の機会にとりあげる予定であるから︑そのときに列挙したい︒   

︵16︶ 戸L・Meek∵壷cOtti裟cOntributiOntOMar警StgCiO−Ogy︑ごn⁚bq︑琶C⊇へ七§札≠訂訂冨篭3壱e恥毒草−思料u p.彗.長男ぬ  

ついてほ後述する︒ThOmaSMuir︵︻ゴ沼T−遥00︶についてほ︑重要なので主としてか・Ⅳ・月払よって︵JO野n P註wOrtF  

A−ger執筆︶以下︑記述しておきたい︒注︵15︶ にあげた文献のいくつかも参照した︒  

かれは一七六五年八月二四日︑当時︑大いに隆盛であった馴商人︑ジェームズ・ミューアの山人息子としてうまれた︒  

父ジェームズほ劇七五三年にイギリス外国貿易にかんするパンフレットを出版したことがある︒トマスほグラースゴクの  

グラマスクールおよび大学に学び︵馴七七七年︑大学入学︑小七八二年四月二四日卒業︑文学修士となる︶︑牧師になる    第三十三巻ふ竺号   

ぞれその階級的基礎が知られる︒   ︵七〇︶ 七〇  

(25)

ジョン・ミラー   つもりだった如︑結局︑ジョン・︑\︑ラーのもとで︑弁籠士紅なるため勉強︑壱八三年から∴七八四年にかけての学期に︑   同僚の誓ン︒アンダースン︵−霊夢⊥裏芸︶晶争っていた教授たちにたいする諷刺文の執筆をまかされ︑かくて他の洲   二人の不通の徒とともに追放された︒この同僚誓ン・アンダースソは当初︵丁乍五四年︶︑東洋語教授︑㌻七六〇年  

︵ただし︑Wこ民︒スコットによれば壱五七年︶自然哲学︵とくに物理学であろう︶教授となったが︑科学の実際的な   応用簑味をもち︑職人たち姦義にまねき︑フランス革命が起るや︑これ菱持︑イギリス政府からにら亘れ︑特種な  

大砲を発明してパリ虹行き︑国民議会︵−訂蔓i昌a−COn喜tiOn︶に献じて︑﹁自由への科学の贈りもの﹂︵t訂gi語  

Ofscience−○−1be喜といったのだから︑その不通ぶりはトマスと同じである︒さて︑夢インパラに追放されて︑ト   マスほそこで学び︑壱八七年二月二四日︑弁護士会に入会︑ノ同塵に︑長老派最高宗教会談にも席をもった︒弁護士と   しても前途洋々たるもので︑かれほしいげられた人々とおもわれるもの紅は無料で弁述した︒ロンドン人民の友の会の形  

成ほ議会改革をかちとるために岡独の団体の創立を促し︑毛九二年6月ニハ日︑グラースゴクで集会がもたれた︒か   れ誉れに参加︑さらにご﹂のすぐれた演説家はクルキンティロックやミルトンにおける同じょうな集会に︑のみならず  

夢インバラで開かれた代表者会議︵c牒喜−iOnOfde富a−es︶にほせ参じた︒壱九二竺二月のモデインパラでの会議  

︵aニCOnく邑iOnJ濫ついてコール=ポストゲィトは次のようにのぺている︒﹁ぶPn諾ロtiOn︸といぅタイトルほフラン   スでの事件からかんがえて︑好んで危険であ・り刺戟的たろうとしたもので︑代表者らはフランスの形式の無邪気な真似に  

ふけり︑召由に生きるか∵然らずんば死﹄を誓ったのだった︒﹂︵阜Cぎp畠−︶トマスほこのコングェンレヨンの遠.  

上でアーチぷールド・ハミルトン・ロクア\ンから送られたアイル畠/ンド人連盟︵壱九左創立の旧教解放のための政治  

団体で急進的なもの=フランス革命支持︶からの表文をよみあげた︒それほ﹁自由の精神がスコットランドのこ閻にひ   ろがり︑その国内政治のこんとんから光明がほとばしりでる﹂ことに満足するとうたったものだった︒壱九三年斉二   日︑トマスほ治安妨害のかどで逮捕されたが︑自分の訴訟依頼人にいつも忠告したよう紅かれほレェリフの栗間にこたえ   

︵七こ 七仙   

(26)

第三十三巻 俊二号   ︵七二︶ 七二   

ず︑保釈金をつんで釈放された︒かれほ同じ弁訟士仲間に冷限祝され︑軽侮されて︑直ちにフランスに向け出発した︒ル   

ィニハ世の恐るべき行為に抗議するため︑ロンドン人民の友の会によって派遣されたのである︒しかし㍉かれがパリに到   

着する前日比︑王は処刑された⁚ハリにあって︑﹁親切ですばらしいサークルの友情﹂をうけていたあいだに︑エディソ   

バラで咋無法者として法律上の特典をうばぁれ︑保釈金ほ没収され︑弁途士会の名簿からほ抹殺された︒数ヶ月ののち︑   

スコットランドにかえるや︑エトリック港で逮捕され︑八月三〇日︑エディンバラ高等法院で裁判をうける身となる︒雀   

発の理由は不忠と政府にたいする不満の精神をひろめ︑ぺインの﹃人間の権利﹄を推奨し︑治安妨害の著作を配布し︑不   

穏な文審を公衆の層別で声たかくよみあげたという軋あった︒かれほアースキンに勇護をたのんだが︑訴訟ほすべて自分   

に任かせようという 

かれほ事実審理せしないで判決したので︑出頭を求められた仙五人の陪審員のうち︑さいしょの五人に輿論をとなえた︒  

なぜなら︑かれカほいわゆる冒−ルドスミス・ホール︒アソシュインヨン﹄ ︵GO昆呂きsリHaA00SOCiatiOn︶に属し 

ていたからである ︵この団体ほペイシの著作を流布する人間をみつけたら︑報酬金あたえた︶︒トマスの異議ほ却下さ   

れ︑陪審を躊躇したこ聖申士官ぬその任につくことを命ぜられた︒かれのもとの女中や他の証人たらほかれの会話やスピ   

ーチにらいて証言ん⁚∵かれのペインの著作にたいする条件つき賀成ぶりについてかたり︑′その仙冊をかれが叩込者にあ   

たえたと聖己た︒かれほ証人たちに自分がつね紅晃力に反対だつき﹂とを明確にせよと妻求し︑自分ほ生命の危険を感   

じたのでフランスに行ったの′であっ七︑全く︑いかなる使命をおびそ行ったのでもないとのべた︒裁判ほ傍聴者のロミリ   

をして︑これほひどいとおもわせるはど︑著しく弟派的な調子のもので︑午前二暗までつづけられ︑八月三一日の正午ぬ   

ほ有罪として鵬四年間の流刑を宣告された︒たった脚日の超スピード裁判である︒すべての愕審員ほ驚愕した︒もし︑か   

れらの剛人が匿名の脅迫状をうけとっていなかったら︑かれら−ほ減刑を請願したのであったが︒ずっとのちになって︑一   

人の陪審ほサー・−︒ぜブスン・クレイグ紅︑階客員の評決を説明して︑﹁われわれほすべて狂人だった﹂とのべたぐら   

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