は じ め に
馬券はほどよく楽しむ大人の遊び( JRAのギャ ンブル障害への対応)( JRA日本中央競馬会 http://www.jra.go.jp/ 2018年 9月 5日最終閲覧)
日本中央競馬会―以下JRA―のHPに出現 したこの警句が,2018 年 7 月 20 日に参議院本会 議で可決,成立したIR実施法案―「統合型リ ゾート(IR)整備推進法案」,以下カジノ法案―
を意識してのものであることは想像に難くない。
カジノの国内設置を法的に可能にするカジノ法 案をめぐって,大きくふたつの論点が考えられる。
ひとつは経済的側面,もうひとつはギャンブル依 存症に対する懸念である。いずれも本稿の議論に 関係するのでのちに詳述するが,本稿が特に「問 題」とするのは後者である。ギャンブル依存症と は「正確」には何なのか。またその定義を受け,
社会学的にはどのような状態であると「理解」で きるのか。
東京優駿や有馬記念,東京大賞典といった「大 レース」は,競馬場に10万人を集める「国民的行 事」であるといえる。その一方で,基本的に土日
目 次 は じ め に
1.ギャンブル障害とは何か 2.「神格」の日常性 3.自己と「神格」
お わ り に
開催の中央競馬のみならず,平日開催―ナイ ター開催もある―の地方競馬まで「ケア」する 馬券師も存在する。念のため説明しておくと,勝 馬投票券―以下,馬券―は,競馬場のみで購 入できるわけではない。インターネット投票を用 いた購入も可能である。さらにいえば中央競馬で はグリーンチャンネルなどの衛星放送,地方競馬 では「地方競馬ライブ」などの動画配信設備を利 用することで,自宅にいながら観戦,投票するこ とができる。控え目にみても,後者―中央,地 方に「フル参戦」する馬券師―が「一般的」で あるとはいえないだろう。連日であればなおさら である。だが,一段階俯瞰すると,こうもいえる のだ。そのような生活を送ることは,いますぐ可 能であると。それは,何らか(へ)の依存状態が,
日常生活とともにあることを含意する。その顕著 な,より一般的な現象が,スマートフォン依存で あると考えれば,「理解」に難くないのではない か。門戸は開かれている。自力で扉を開閉するか どうかではない。「すでに開かれている」のだ。で は,われわれは,何に依存しているのか ? 結論 を先取りしてしまえば,それは「神格」である。
この仮説を導くためにはいくつかの補助線と概念 が必要となる。以下に見取り図を示す。
まず,ギャンブル依存症の正式名称が「ギャン ブル障害」であることを示す。続いて,「のめり込 み」に関して,投票サイトの注意喚起を確認する と同時に,システム的には馬券購入の機会が増加 していることを確認する。次に,「予想」および
「ギャンブル障害」とは何か
―「神格」概念の検討を通じて―
大 野 裕 介
「馬券購入」とはどういう行為なのか考察すること で,的中者を「未来を知る者」すなわち「神格」
を持つ者と同定する。さらに「神」関連のフレー ズをわれわれが日常的に使用することや「聖地巡 礼」がさかんに行われていることを指摘し,日常 生活と「神格」の距離の近さを確認する。これら の例証の説得性を,主に大澤真幸による時代区分
―1995年以降の「不可能性の時代」―に見出 し,インターネットの日常化などによる生活様式 の変化に伴って起こっている諸問題,および,そ れらを引き起こしていると考えられる人々の行動 規範―具体的には,「極端な虚構への志向性」と
「破壊衝動を伴う現実への逃避」―に言及する。
そこにみられる自己は,理論的にはすでに他者で あるともいえ,その意味で「神格」を持つ者であ る,と結論づける。以上が,本稿のたどる道筋で ある1)。
1.ギャンブル障害とは何か
本章ではギャンブル障害について,競馬を事例 に解釈を試みる。なぜ競馬なのか。競輪,競艇,
オートレースと異なり,動物(馬)を対象とする 競技ゆえ,結果の偶然性がきわめて高いからであ る。この「結果の偶然性」は,ギャンブル障害を
「理解」するための中心キーワードである「神格」
に大きくかかわるものである。
1―1.ギャンブル障害とは何か
早急に訂正を加える必要がある。「ギャンブル依 存症」は,正式名称ではない。DSM-5(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Edition)で「ギャンブル障害Gambling Disorder」
と診断される症例(精神疾患)である。
症例であるからには診断基準が設けられている。
『DSM-5 精神疾患の診断・ 統計マニ ュ アル 』
(2014)2)をもとに確認しておこう。
診断基準
A. 臨床的に意味のある機能障害または苦痛を引 き起こすに至る持続的かつ反復性の問題賭博 行動で,その人が過去 12 カ月間に以下のう ち 4 つ(またはそれ以上)を示している。
(1) 興奮を得たいがために,掛け金の額を増 やして賭博をする要求
(2) 賭博をするのを中断したり,または中止 したりすると落ち着かなくなる,または いらだつ
(3) 賭博をするのを制限する,減らす,また は中止するなどの努力を繰り返し成功し なかったことがある。
(4) しばしば賭博に心を奪われている(例:
過去の賭博体験を再体験すること,ハン ディをつけること,または次の賭けの計 画を立てること,賭博をするための金銭 を得る方法を考えること,を絶えず考え ている)。
(5) 苦痛の気分(例:無気力,罪悪感,不安,
抑うつ)のときに,賭博をすることが多 い。
(6) 賭博で金をすった後,別の日にそれを取 り戻しに帰ってくることが多い(失った 金を“深追いする”)。
(7) 賭博へののめり込みを隠すために,嘘を つく。
(8) 賭博のために,重要な人間関係,仕事,
教育,または職業上の機会を危険にさら し,または失ったことがある。
(9) 賭博によって引き起こされた絶望的な経 済状況を免れるために,他人に金を出し てくれるよう頼む。
B. その賭博行動は,躁病エピソードではうま く説明されない。(前掲書:578)
4~5項目の基準に該当すれば軽度,6~7項目の 基準に該当すれば中等度,8~9項目の基準に該当
すれば重度と診断される。前掲書によると,「軽度 ギャンブル障害の人は基準の 4~5 項目だけを示 し,最もよく当てはまる基準は,通常,賭博に心 を奪われることと失った金の“深追い”に関連し たものである」(前掲書:579)という。
疾患である以上は治療が必要であり,ギャンブ ル障害を専門に対応する医療機関も存在する。で は施行者側はどのような対策を練っているか。た とえば地方競馬全国協会は,「のめり込みに不安の ある方へ」と題し,HPで注意喚起するとともに,
公営競技ギャンブル依存症カウンセリングセン ターと精神保健福祉センターへの相談を促してい る(SPAT4 インタ ー ネ ッ ト投票 https://www.
spat4.jp/keiba/pc 2018年 9月 19日最終閲覧)。こ のように施行者側はギャンブル障害への対策がい くつか講じられてはいるが,一方で,投票のクレ ジットカード決済の導入,専用通貨や静脈認証な どを用いた投票のキャッシュレス化なども推し進 めており,むしろ馬券を購入しやすくする方向に 舵をとっているようにみえる。
ここでJRAの馬券の売り上げ(売得金額)の平 成以降の推移をみてみよう(表 参照)。
これをみると半数ほどの年度で前年度比 100%
を超えており,低くても90% 台の後半を確保して いる。平成 7 年に前年度比 100% を割り,平成 8,
9 年に回復傾向をみせるも再び 100% を割る年が 続き,平成 10 年から 23 年までずっとマイナスが 続いている。ところが平成 24年に突然,前年度比 9.9% の伸び(104.4%)を記録し,以降,29 年ま でプラスの売り上げを記録している。
では平成 24 年,すなわち 2012 年に何が起こっ たのか。まず,1862年に横浜レースクラブが組織 されて以来続いている近代競馬 150 周年を記念し て払戻金の上乗せキャンペーンが実施されたが,
本稿は,2011年の東日本大震災の影響で開催が中 止されていた福島競馬の復活,そして,地方競馬 ネット投票の導入に着目したい。
もともとJRAは,インターネット投票の方法と
して「即PAT」と電話投票とインターネット投票
の併用が可能な「A-PAT」を用意していた。そこ に,クレジットカード決済が可能な「JRAダイレ クト」と,「即PAT」「A-PAT」会員向けに,地方 競馬のインターネット投票を可能にしたのである。
「JRAダイレクト」では地方競馬の馬券を購入でき ないが,しかし,「即PAT」と「A-PAT」会員を地
表 平成以降のJRAの売得金額推移
年度 売得金額(円)<>内は前年度比
平成元 2,554,520,163,200 <115.8%>
2 3,098,457,259,500 <121.3%>
3 3,433,803,211,700 <110.8%>
4 3,613,879,230,800 <105.2%>
5 3,745,416,527,000 <103.6%>
6 3,806,592,292,500 <101.6%>
7 3,766,602,180,700 <98.9%>
8 3,986,228,211,400 <105.8%>
9 4,000,661,663,100 <100.4%>
10 3,801,217,640,600 <95.0%>
11 3,657,242,066,800 <96.2%>
12 3,434,757,500,600 <93.9%>
13 3,258,696,881,300 <94.9%>
14 3,133,485,421,600 <96.2%>
15 3,010,343,479,600 <96.1%>
16 2,931,433,543,600 <97.4%>
17 2,894,585,479,800 <98.7%>
18 2,823,309,442,000 <97.5%>
19 2,759,138,078,900 <97.7%>
20 2,750,200,990,400 <99.7%>
21 2,590,073,500,000 <94.2%>
22 2,427,565,594,700 <93.7%>
23 2,293,578,053,600 <94.5%>
24 2,394,308,856,700 <104.4%>
25 2,404,933,513,200 <100.4%>
26 2,493,627,729,400 <103.7%>
27 2,583,391,869,800 <103.6%>
28 2,670,880,261,600 <103.4%>
29 2,747,662,484,800 <102.9%>
出所:日本中央競馬会(JRA)「成長推移」http://company.jra.
jp/0000/gaiyo/g_22/g_22_01.pdf (2018 年 9 月 19 日最終 閲覧)をもとに筆者作成
方競馬に取り込むことで,利用者の馬券購入の機 会を拡大したことは確かである。さらにいえばJRA は,2015年 4月の改正競馬法成立に伴い,凱旋門 賞など海外競馬における主要レースの馬券をイン ターネット発売することに成功した。例を挙げれ ば,2006年のディープインパクトが出走した凱旋 門賞は応援するのみであったのに対し,2016年の マカヒキが出走した凱旋門賞は馬券を購入して応 援することができた。
JRAだけではない。地方競馬で最大級の規模を 誇る大井競馬の例をみても,観戦用スタンドであ
るG-FRONT 3 階の指定席フロアでキャッシュレ
ス投票を可能にしている。さらにいうと,高知競 馬や金沢競馬,門別競馬といった,住民や「旅打 ち」以外には訪問が困難であると思われる(地方)
競馬場の馬券を購入するために,オッズパークや 楽天競馬,SPAT4 といったインターネットを通じ て馬券を購入できる設備が装備されており,売り 上げを支えているといわれる。ここで想起された いのは,まさに,「中央,地方に『フル参戦』する 馬券師」である。詳しく述べると,たとえば土日 に中央競馬 3場で行われる12レースすべての馬券 を購入し,さらに土日開催の岩手競馬,金沢競馬,
佐賀競馬,高知競馬,ばんえい競馬で行われるす べてのレースの馬券をも購入するということだ。
それを可能にしたのがインターネット投票である。
そして儲けを出すことも不可能ではない。たとえ ば2018年 9月 2日の例をみると,ばんえい競馬で 11 レース,水沢競馬で 12 レース,船橋競馬で 9 レース,金沢競馬で11レース,高知競馬で12レー スが施行された。それに加え,中央競馬で新潟,
小倉,札幌の3場で各 12レースが施行された。全 91レースである。ということは,92倍の馬券を当 てれば,あるいは払戻金の合計が 9,200 円を上回 れば,プラスを計上することができる。「問題」は,
まず,「成果」が出るかどうか誰にもわからないと いうこと―出る可能性も,出ない可能性も,平 等にあるということ―だが,出た(的中した)
場合,彼 / 彼女が,起こる未来を当てていた,と いうことである。
1―2.未来を知る者
全レースの馬券を購入し,その合計金額以上の 配当を計上すればプラスであると述べた。しかし このことに関して注意が必要である。
馬券の発売単位は 100 円である。どういうこと か。ディープインパクトの単勝を 100 円,15,000 円という単位で購入することは可能であるが,70 円,1,250円という単位では購入できないというこ とである。50円持っていても馬券を買うことすら できないということだ。
注意が必要なのは,ディープインパクトの単勝 1.2倍に100円を賭け,的中した場合,払戻金は確 かに 120 円であるが,そもそも単勝馬券に対して 20% 控除されているということである。どういう ことか。100円の単勝馬券を購入したところで,実 質その馬券は80円の価値しか有していないという こと,そして売上金の80% を的中者で分け合って おり,その分配金が配当金として支払われている ということである。ちなみに述べておくと,JRA の場合,単勝と複勝は払戻率が 80.00% だが,枠 連, 馬連, ワイドが 77.50%, 馬単と三連複が 75.00%,三連単が72.50%,WIN5が70.00% となっ ている(日本中央競馬会(JRA)「勝馬投票法ごと の払戻率」 http://www.jra.go.jp/keiba/reimburse- ment_rate/index.html 2018 年 9 月 19 日最終閲 覧)。よって,プラスを計上するためには,単勝の 場合,少なくとも 1.3 倍の馬券を的中させなくて はならない計算になる。理論上,単勝 1.1 倍の馬 に1,000万円つぎ込んだところで,勝てば1,100万 円払い戻されるが,理論上は儲けたことにはなら ないのだ。この事実の含意は明白である。「馬券を 購入した時点で,すでに負けている」ということ なのだ。
消費行動と馬券購入の違いは,消費行動が対価 を支払うことで確実に商品が手に入る―見返り
がある―のに対し,馬券購入はそれが不確定で あるということである。先制された裏の攻撃から はじまるのが,馬券購入なのだ。いうなれば馬券 購入の魅力とは,逆転サヨナラ勝ちのカタルシス である。いくら単勝 1.2 倍だからといって,的中 するかどうかは事前にはわかりえない。そもそも
「1.2 倍」というオッズは,人為的なものである。
いかなるオッズが示されようとも,予知しえぬ未 来を相手にする以上,どのような結果に終わろう ともそれはすべて「起こりえたこと」である。し たがってやはり,的中者は,起こる未来を当てて いた,ということになる。もっと強く,「(的中者 は)未来を知っていた」と換言してもよい。この 換言が,のちの議論において大きな意味を持つこ とになる。
1―3.「神格」との交換
ここまで述べてきた不確定性が,的中馬券の価 値を高める。いや,締め切られた時点でオッズは 決定しているのだから,金銭的にはそのオッズ以 上の価値は出ないが,金銭面以上に,的中者の少 なさが,的中馬券と的中者の存在意義を高める。
たとえば2015年のヴィクトリアマイル3)を例に とる。ストレイトガール,ケイアイエレガント,
ミナレットで決まり,三連単 20,705,080 円という 配当を記録したレースである。これは一見,とて も的中しそうにない馬券に思える。しかし,ケイ アイエレガントとミナレットがともに逃げ馬であ り,このレースにおける逃げ馬がこの 2 頭しかい ないこと,ミナレットが高額配当の片棒を何度も 担いでいること,ストレイトガールが現役屈指の 差し脚を持っていることなどを考え合わせると,
決して的中が難しい馬券ではなかった。「展開を読 みきる(読んだ展開どおりにレースが流れる)」と いう,神に等しい―「神格」を帯びた―芸当 を披露した者だけに与えられた価値が,20,705,080 円という配当金だったのである。
しかしこの理屈は表向きのものにすぎない。マー
クカードの塗り間違いや誕生日などの好きな数字 を組み合わせて買った馬券だとしても,的中すれ ば同じ価値が与えられるからである。その意味で,
競馬から遊戯性を除外して論ずることはできない。
しかし遊戯性より重要なのは,「神格」に対する態 度である。
馬券を買うためには,マークカードにせよイン ターネット投票にせよ,買い目をマークしなけれ ばならない。それはただちに,予知できない未来 を恣意的に確定することを意味する。締め切り時 刻の到来は,彼 / 彼女らが,「神格」を得る資格を 手にする瞬間なのだ。大げさではない。的中者は,
ストレイトガール,ケイアイエレガント,ミナレッ トで決まるという「未来」を,このときに「予言」
した―知っていた―のだから。
ここまでの議論から,次のようにいうことがで きる。馬券購入で得られるもの―見返り―と は,「神格」である4)。
本稿は,この「神格」を,ギャンブル障害を社 会学的に「理解」するための主要概念として提唱 するものである。さらにいうと,「神格」概念の射 程距離は,ギャンブル障害のみならず日本社会の ある一面を説明するためにも有効なものである。
その点について次章以降で具体的な例を挙げなが ら考察する。
2.「神格」の日常性
本章では,日常生活とともにある「神格」につ いて,「神」にまつわる語用や「聖地巡礼」といっ た行為を通じて考察する。また,虚構が現実を改 変する強度を持ちえた理由について,理論的に検 討する。
2―1.すぐそこにある「神格」
「神格」は,あくまでも格であり,神そのもので はない。ところで近年,『前田敦子はキリストを超 えた』5),「神ってる」6),「神 7」7),「神対応」8)といっ た,「神」に関連したワードが散見される。特に
「神ってる」に関しては2016年のユーキャン新語・
流行語大賞ベスト30に選出され,流行語大賞を受 賞しており,語意と語用が一般に浸透していると 述べてよいだろう。バラエティ番組―とりわけ クイズ番組―でも,解答後に手を組んで祈る ポーズを採る出演者を目にする機会は多い。もち ろん,この神頼みポーズは,いまにはじまったこ とではない。プロテスタントの教えを基盤とした 保育プログラムを組む幼稚園出身でありながら信 者ではない筆者も幼少の砌から親しんできたもの であり,毎日そのポーズを採っていると述べても 過言ではない。これらの事例は日本における信教 のあり方と宗教への距離を示していると思われる。
したがって宗教社会学において重要な研究テーマ である。しかし本稿においては,<神(格)への接 近度合いの強化(すぐそこにある神格)>を指摘し ておきたい。重要なのは,「神格」が近づいてき た,のではなく,われわれが「神格」に近づいた,
ということである―のちの議論の論点を先取り すると,その契機は 1995 年である―。
たとえば創作物に対して「神回」と称賛される ことがある。「神回」とは,演出や画質,登場人 物,クオリティ,展開といった要素において受け 手から称賛を受けた回,あるいは単純に,神や精 霊といった「神格」を持つ者が登場した回を指す といわれている。
この「神回」に関して,アニメや映画,小説の 舞台となった地を訪れる,いわゆる「聖地巡礼」9)
についても言及する必要があるだろう。たとえば スタジオジブリの映画『耳をすませば』10)に登場 する,主人公が住んでいる街のモデルであるとさ れる東京都多摩市桜ヶ丘には,作品が放映される たびに新旧のファンが訪れるという。多摩市側も その影響力を認め,観光地として公に発信してい る。 最近ではテレビアニメ『 ガ ー ルズ & パン ツァー』11)で,茨城県東茨城郡大洗町が,主人公 たちの通う高校の存在する海上都市の母港として 設定されており,放映開始当初から多くのファン
が大洗町に訪れたという。大洗町役場や交通機関,
店舗なども全面的に協力し,作品内に一部実名で 登場している。大洗町はもともと観光地ではあっ たが,結果的に,作品とファン,そして街の動き が共鳴して「聖地」となったといえよう12)。
いうまでもなく,この「聖地化」のプロトタイ プは秋葉原である。秋葉原は,電気街というもと もとの素地に,パソコンやインターネット,アニ メの隆盛という時代の趨勢が重なった結果,「オタ クの聖地」として再構築された街なのである13)。 近年では日本を訪れる観光客にとって有名なス ポットになっているという。重要な点は,街を劇 的に変貌させる要素があらかじめ内側にあり,わ れわれがその内包物を「評価」することによって,
実際の変化が訪れたという点である。AKBグルー プのメンバーとて,初期から「神 7」だったり,
「神対応」だったわけではない。握手会でのふるま いなどを通してファンが「神格」を読み取り,崇 拝対象へと変質させていったと解釈するのが,お そらく水脈に沿った「理解」だろう。そしてこの 解釈は,ある推論を導き出す。すなわち,「神格」
を帯びる対象は,誰であっても,どこであっても かまわないということである。この推論からは,
本稿の中心的な議論に引き戻すと,誰もがギャン ブル障害に罹患しうる可能性があるという仮説を も導かれる。
2―2.“深追い”の先に
1―1 で,ギャンブル障害の診断基準についてみ ておいた。診断基準であるということは,それが,
ギャンブル障害の罹患者をあぶり出すスクリーニ ング機能を持つことを意味する。「患者」として認 定されてしまえば「治療」が必要になる。1―1 で 挙げたカウンセリングや専門機関への相談をはじ め,さまざまな処方箋が下される。他方,ギャン ブル障害,あるいはギャンブルそのものへの嫌悪 感もなくはない14)。
本稿の立場は,ギャンブルを称賛するものでも
批判するものでもない。ギャンブル擁護とギャン ブル嫌悪のどちらかに加担するものでもない。そ うではなくて,ギャンブル障害を社会学的に説明 するためのキーコンセプトである「神格」が,い くつかの流行作品のテーマとして共通することを 指摘するものである。そしてそのことの有効性を,
特に大澤真幸による社会理論を検討することで確 認するものである。
ところでDSM-5によるギャンブル障害の判断基
準は,裏を返せば,ギャンブルの特徴でもある。
とりわけ注目したいのは,“深追い”行為だ。馬 券で生計を立てているのでない限り,資金は労働 などから捻出されるはずである。したがって損失 を計上したのであれば,現場に戻って資金を調達 し,再チャレンジを試みるというのが,ファンレ ベルの馬券師であると思われる。「問題」は,いま 述べた現象が 1 日の最終レース後に起こった場合 ではなく,途中のレース後に起こった場合である。
念のために延べておくが,ひとつの競馬場で 1 日 に施行されるレースの最大数は,12である。誰の 勝ち負けにかかわらずレースは行われ,ただ終わ る。「次のレース」の存在と,競馬そのものに含ま れる不確定性が,「損失を取り戻せる予感」として 機能するのだ。つまり,競馬が体現する―われ われが競馬を通して生きる―「いま」のなかに,
勝って変わる未来(現実)と,負けて変わる未来
(現実)が同居しているのである。ここで注意した いのは,損失を取り戻すために,損失の契機となっ た競馬に再チャレンジするという精神性である。
これを「現実への逃避」と定位し,類例を用いて より深く考察したい。
2―3.虚構が破壊した現実
「現実への逃避」とは奇妙なフレーズである。通 例なら,現実に起こったさまざまな苦しみから逃 れるために,ルーティーンから逸脱した行動を採 る「現実(からの)逃避」が用いられる。しかし,
個人の趣味やアニメ作品が街という公共物の容貌
を変化させるほどの強度を持つ時代に,「現実から の逃避」という行為がどれほど説得力を持つだろ うか。それよりむしろ,現実を変える力を隠し持 つ現実そのものへと没入することで,その衝動性 を実現させるという説明の方が,より妥当ではな いだろうか。この仮説の説得性は,2016 年に起 こった『ポケモンGO』に関連するいくつかの現 象を参照することで得られる。
『ポケモンGO』とは,1996年に任天堂から発売 されたゲームボーイ用ソフト『ポケットモンスター 赤・緑』のスピンオフ作品である。もともとこの ゲームは,ポケットモンスター(ポケモン)たち が住む世界を舞台とし,主人公はポケモンをパー トナーにして戦闘を繰り広げるロール・プレイン グ・ゲームである一方で,ゲームに登場するポケ モンをすべて捕獲し,捕獲したポケモンが登録さ れる「ポケモン図鑑」を完成させるという目的も 持っていた。特記すべきは後者で,「ポケモン図 鑑」を完成させるためには,自前のソフトだけで は不可能であった点―たとえば友人の持つポケ モンとの交換が必要―が爆発的な人気の要因の ひとつであったといわれる。そして当然のことな がら,ポケモンたちはあくまでもゲームのなかの 存在であった。このように記述しなければならな いのは,『ポケモンGO』が,現実世界にポケモン を登場させてしまったからである。
『ポケモンGO』の最大の特徴は,スマートフォ ン専用アプリという特性を最大限に利用し,GPS 機能と連動させることで,ユーザーがポケモンの 生息エリアに近づくとスマートフォンを振動させ て知らせるという点にある。その後ユーザーはマッ プでポケモンの位置を確認し,移動することでポ ケモンと遭遇できる。次にユーザーはカメラを起 動し,現実の被写体と重なるように現れたポケモ ンに対し,モンスターボールを投げる。それが当 たれば捕獲できる,という流れになっている。大 学や観光地,ショッピングモール,飲食店などに ポケモンが現れる―「ポケストップ」―こと
から,集客力の上昇という効果を認める一方,過 失で立ち入り禁止区域に侵入する者や,運転中の 操作により死亡事故を起こす者,世界遺産へのモ ンスター解放に対する苦情など,日本のみならず 世界中で事件・事故が報告された。筆者の居住地 にある市役所で「ポケモンの保護区です」という 注意書きが掲示されていたのも記憶に新しい。
多くのゲームでは,モンスターは,そのゲーム 内世界を破壊する者,あるいは統治者として登場 してくる。ところが『ポケモン』シリーズにおけ るモンスターは,仲間ともいえる存在であり,ま た,われわれが生活する現実を破壊しうる存在で もある。事実,『ポケモンGO』が原因で,事件・
事故が起こっているのだから。モンスターを捕獲 しようとする,あるいは捕獲することは,そのま ま,現実において「他者」を捕獲する―「『神 格』を得る」,「他者になる」(のちに詳述)―こ とになぞらえることができるのではないか。誤解 を避けるために延べるが,本稿は『ポケモン』シ リーズを否定,批判するものではない。そうでは なくて,われわれの行為の原動力となる精神性が,
『ポケモン』シリーズの特徴を描写することで顕著 になると述べている。『ポケモンGO』が原因で事 件・事故が起こっているとはいえ,一国を破壊し
うるものではない。壊れるのは,常に,現実のな かの現実である。なぜなら,本当の現実が壊れて しまったら,誰もそのことを自覚できないのだか ら―しかしその可能性があった,あるいはいつ でもその可能性があることは,次節でも示唆され る―。
2―4.現実からの逃避と現実への逃避
「現実への逃避」についてもう少し説明しておこ う。いや最初に釈明しておこう。この用語は筆者 による造語ではない。社会学者であり哲学者でも ある大澤真幸のものである。大澤は,人々の行為 が,現実と対するモードによって駆動されると主 張する。詳しく説明しよう。
大澤の師匠である見田宗介は,戦後の精神史を
「理想と時代」(1945―1960),「夢の時代」(1960― 1975),「虚構の時代」(1975―1990)の 3 つに区分 した。この「理想」「夢」「虚構」は,いずれも「現 実」という概念の反対語である。つまり,現実に 対する理想,現実に対する夢,現実に対する虚構,
をそれぞれ表し,その意味でいずれも反現実を意 味する。ただし大澤は,「夢」に関しては,理想と 虚構に二分されることを指摘し,大きく,1945年 から 1970 年までを「理想の時代」,1970 年から 1995年までを「虚構の時代」として,考察を展開 している(大澤,2008:1―3)。
とりわけ大澤が重視しているのは,「虚構の時代」
が終焉を迎えたとされる,1995年である。1995年 に何が起こったか。われわれはただちにふたつに 出来事を想起する。ひとつは阪神・淡路大震災で あり,もうひとつは地下鉄サリン事件をはじめと するオウム真理教事件である。大澤は,オウム真 理教事件について,正確にいえば教団と信者の行 動原理について考察することで15),虚構の時代の 終焉,つまり,現実に対する反現実を軸とする人々 の行為の駆動原理の転換点を確認した。それはど ういうものか。<極端な虚構への志向性>と,<破 壊衝動を伴う現実への逃避>である。<虚構への 図 公共施設におけるポケモンに関する注意書き
出所:2016 年 7 月 30 日,稲城市役所にて筆者撮影
志向>は,現実を保護し,二次創作的に改変する ような欲望の様式として現れる。<現実への逃避>
は,現実を破壊してしまうような衝動の様式とし て現れる。この相反するように思われる両者が,と もに現実への対処法として人々に認識され,共有 されているというわけだ16)。なぜ矛盾した両者が 共存できるのか。それは,大澤の卓抜な表現を借 用するならば,現実が,同定されておらず,直接 認識したり体験することができないからであると いう(大澤,2008:166)。そのような現実に対し ては,われわれは,矛盾をそのまま受容するとい う態度を採用することしかできない。引用する。
虚構の時代の後に,現実を秩序づける準拠点 となっているのは,この認識と実践から逃れ ゆく「不可能なもの」である。すなわち,現 代の現実を秩序づけている反現実は,直接に は見えていない「不可能性」である。「理想→
虚構→不可能性」という順で,規準的な反現 実の反現実性の度合いは,さらに高まってい るのである。われわれが今,その入り口にい る時代は,「不可能性の時代」と呼ぶのが適切 だ。(大澤,2008:166―167)
大澤による時代区分の有効性は,今日ますます 強度を増しているようにみえる。その理由はすぐ に述べるように日常生活とネットの関係性の高ま りによるものだが,その契機として挙げられるの が,―これも1995年のことだが17)―Windows95 の発売である。以降,WindowsシリーズはMacと ともに進化を続け,パソコンがテレビや冷蔵庫と 同じく家電のひとつとして認識されるようになる と同時に,ブロードバンド接続によりインターネッ トが日常生活の一部になっていく。
いまとなっては 1990 年代中盤からの若者を中心 としたメディア・コミュニケーションの変遷の記 録として貴重な富田英典ほか(1997)に詳しいが,
ポケットベル(ポケベル),PHS,プリクラが「女
子高生の三種の神器」と呼ばれ,流行の中心には アムラーやヤマンバギャルがいた18)。そのうちポケ ベルとPHSはのちの移動体通信コミュニケーショ ンの発展の基となった。その結実が,1999 年に開 始されたケータイからのインターネット接続サー ビスである。より詳しくは松田美佐(2014)を参照 されたいが,以降,ケータイのマルチメディア化 が進み,2010 年代後半にはパソコンと同程度,あ るいはパソコン以上のスペックを持ったiPadや iPhone,スマートフォンの普及により,ケータイを 経由したインターネット接続は完全に日常化した。
インターネットのインフラ化が生活様式を劇的 に変えたことはいうまでもない。スマートフォン に話しかけるだけで,外出先から自宅のエアコン のスイッチを切ることすら可能になった。近年で はロボット家電が隆盛を極め,2018年にはAI(人 工知能)が考えたという触れ込みの食品19)さえ登 場している。さらにいえば,筆者が2018年度前期 に授業を担当したクラス20)を例にとると,招待制 のLINEグループがあり,代表者が研究室からの 連絡などを通達しているという。
そのような現状のなかで特に本稿にとって重要 なのが,「SNS疲れ 」 という「 問題 」 である。
SNS―ソーシャル・ネットワーキング・サービ ス―の浸透については吉野ヒロ子(2014)がよ くまとまっており,参照されたいが,われわれの 生活の中心と化したインターネット利用のさらに コアな部分に該当するのが,天気や電車の遅延情 報あるいは最新ニュースの取得といった情報行動,
YouTubeやニコニコ動画などの動画サイト閲覧,
連絡用のカカオトークやLINE,ソーシャルゲー ム,そしてmixiやfacebook,Twitter,インスタグ ラムなどのSNSである。インターネット接続機能 を備えた機器の所持と利用が大多数を占めるなか,
デジタル・ディヴァイドの懸念を孕みつつも,連 絡網をネット上で作成・回覧したり,先にみた筆 者が受け持ったクラスのように,事務的な連絡か ら授業での報告内容の共有といった高度なレベル
の使い方がみられる。その一方で,不用意・不適 切な発言・行為の投稿による炎上や,LINEにお ける「既読スルー」などを原因にした人間関係の こじれ,あるいはいじめといった「問題」も散見 されている。また,一見,不適切でも不用意でも 不謹慎でもないように思われる投稿が批判され,
それまでの全投稿の削除や謝罪,アカウントその ものの削除へと追い込まれるケースもある21)。投 稿者が一般人に限らず,芸能人やアーティスト,
政治家などの公人にまでわたることも特徴的であ る。SNSは―WWW(World Wide Web)が世界 に開かれたものであるという前提をふまえれば当 然の話ではあるが―,その整備されたプラット フォームによって,いつでも誰とでも緊密な関係 性をつくることができる。しかしそれゆえに,新 規投稿やメッセージの到着などを手持ちのデバイ スに通知する機能をオンにすることを強いられれ ば,24時間,SNS上の関係性から脱出することが できなくなる。通知をオフにしてしまうと,意図 的にアクセスしない限り新規のメッセージやエン トリを読むことができず,仲間うちの話題から取 り残されたり,「既読スルー」を批判される可能性 がある。通知をオンにせざるをえない強制力が,
その人の築いている関係性によっては生じうると いうわけだ。
「SNS疲れ」はそのような状況を憂いて起こる
―アカウントや発言を削除する,LINEグルー プから抜けるなど―ものだが,考えてみれば不 思議なことである。なぜか。SNSへの登録の目的 が,親しい友人や家族ともっと親密になりたい,
あるいは著名人のプライベートを知りたい,といっ たことであるはずなのに,実際には―真の目的 を達成する場合も多いが―,その関係性に嫌気 が差し,結果的につながりを放棄するような形さ え望むようになってしまうのだ。この現象からふ たつのことがいえる。ひとつは,接近しあう関係 の極限に,反発しあう(憎しみあう)関係がある ということ。もうひとつは,SNSでの現実を逃れ
るために現実に逃げ込む,まさに「現実への逃避」
がみられるということだ。
2―5.現実を改変する自己
前節で述べたのは,インターネット接続の日常 化により,<現実に対する反現実としてのSNS(へ の志向)>と,<SNSという現実に対する反現実 としての現実(への志向)>というふたつの行動様 式が視認可能になったということである。前者を 二次創作的な志向,後者を破壊的な志向と捉えれ ば,大澤による「不可能性の時代」の人々の行動 様式への理論的な説明を追認したことになる。そ うであるならば,博打の損失を博打で取り返そう とする“深追い”という典型的なギャンブル障害 の症状も,現実に対する二次創作的な心性と捉え ることができるし,また,日常生活という現実に 対する破壊的な心性と捉えることもできる。現実 を打破するために現実を改変するという行為は,
現実そのものを破壊してしまう作用も持つのだ。
本稿の主張は,その心性には「神格」が宿るとい うものだった。しかし,自己に「神格」が宿ると は,どういうことを意味するのか。それは所与の ものなのか,あるいは付与されるものなのか ?
3.自己と「神格」
本章では,自己論の最新の潮流を汲みつつ,ギャ ンブル障害にみられるふたつの人格について言及 し,その人格を社会学的に解釈することを試みる。
3―1.ふたつの人格
そもそも自己とはどういうものなのか。自己に 対する社会学的なアプローチの変遷については,
浅野智彦の一連の研究,特に(2014)に詳しい。
また筆者も同系の研究を重ねており22),基本的な 視座を共有している。それは,自己とは現象であ り,多元的なものである(自己の多元性,多元的 自己)ということだ。つまり,ひとつの強固なア イデンティティを持つものというより,人間関係
や場面によって自己の現れ方を変えていくような 志向を持つものである,ということだ。つまりア イデンティティは可変的である,という意味だが,
そうであるならば,まったくの他者である,とい う状態すら,自己のアイデンティティとして認識 されうるのではないか。大澤真幸(1996)は,オ ウム真理教信者の分析を通じて,以下のように述 べた。2 点引用する。
オウム信者は,一方では,自己が直接に有す る一切の判断や信念を停止して,他者(麻原)
に帰属する判断に定位している限りで,「アイ ロニカル」と形容したくなるような仕方で虚 構を相対化しつつ,他方では,その特異的な 他者が<超越性>を保持しつつ経験的な<内 在>的存在者として君臨するがゆえに,その 虚構を「本気」で文字通り演ずるほかないの である。(大澤,1996:274)
極限の「自己の生が完全に他者に奪われてし まうような状態」とは,つまり「自分はもは や自分自身ではなく他者であると主張する状 態」とは,分裂病に代表されるようなある種 の精神病にほかなるまい。(前掲書:275)
ここで大澤を引いたのは,1―1 で示唆しておい たギャンブル障害の治療を行っている病院―社 会医療法人芳和会菊陽病院23)―のホームページ に,以下のような記述があるからである。
「正気の本人」に働きかける。「賭博人格」に 働きかけても効果はない。 または逆効果。
(http://www.kikuyouhp.jp/disease/gambling.
html 2018 年 9 月 16 日最終閲覧)
これは,本人がギャンブル依存症であることを 認めない場合に,「家族が本人を治療に導入する方 法」として当該病院が紹介しているものだ。着目
すべきなのは,もちろん,「正気の本人」と「賭博 人格」である。
ギャンブル障害の治療は,―施設にもよるだ ろうが―当該病院では,ギャンブル合同相談会 への参加ののち個人面談が行われ,その後入院・
加療という流れで施されているようだ。退院後は 自助グループへの定期的な参加と専門外来への定 期的な通院が勧められている。
本稿はギャンブル障害の治療にまで踏み込むも のではない。したがって記述はこの程度にとどめ るが,ギャンブル合同相談会のプログラムに「当 事者からの体験発表」が組み込まれていることは 述べておきたい。なぜ重要なのか。それは,自己 現象をめぐる社会学において,「語り」によって構 築される自己現象という分野に一定の研究蓄積が あるからだが24),アルコール依存症の治療におけ る自助グループ「断酒会」でも,当事者による「語 り」が重要視されるからだ25)。「語る」ことができ る段階に入っている当事者は,つまり「正気の本 人」は,ギャンブル障害の罹患者であることを自 認し,語ることを通じて自己を再構成することで,
「赦す」存在となる。一方で,「語られる」存在で ある当事者―「賭博人格」であり,罹患者とし ての自己―は,「正気の本人」にとっては「赦さ れる」存在として定位される。ここにおいて,自 己には,「赦す」存在と「赦される」存在の同居が 認められることになるが,「赦す」者は,いうなれ ば内なる他者であり,「赦される」者もまた,「賭 博人格」なのだから,他者である。そうなると,
自己は,<現象する限りにおいて,すでに他者で ある>と述べてしまうことすら,できるのではな いか ? そしてその場合の他者とは,まぎれもな く,「神格」を帯びたものではないか ?
3―2.他者の訪れ
大澤真幸は,自己がすでに他者であるという結 語を,『ゴドーを待ちながら』(ベケット)と『ゴ ドーは待たれながら』(いとうせいこう)を分析す
ることで得た26)。それは,大澤の主張する,あるい は本稿がそれを追認する「不可能性の時代」にお ける最大の特徴である自己のあり方,「(「神格」を 志向する)他者としての自己」の構成要素として,
「待つ」という行為が重要な位置を占めていること を意味する。大澤の指摘からやや時間は経過して いるが,むしろこの「問題」はいま,「待たない」
現象として先鋭化しているようにみえる。「待てな い」ではない点に注意が必要だ。「待つ」ことには 期待と忍耐が伴う。しかし世間の耳目を集めるト ピックを概観すると,「時短」や「朝活」,効率的 な電車の乗り換え情報,幼児期の通信教育から導 入されるタブレット学習など,限られた時間を「有 効」に使う方法の提案が散見される。「既読スルー」
をめぐる「問題」にしても,本来,受信者の都合 のよい時間で閲覧され,送られるはずの返信が,受 信者が閲覧しているにもかかわらずなかなか送ら れてこないことに起因するのではないか。
テクノロジーの発達は,効率化や時間の短縮化 をどこまでも追求することができる。インターネッ ト利用の日常化による生活様式の変化―特に時 間的観念の変化―が,いま挙げた「問題」の根 源にあることを類推することはたやすい。インター ネット接続すら,かつては電話線をパソコンの ジャックに接続し,パソコンを起動し,ブラウザ を開いてから電話回線に接続するという手間がか かるものだったが,いまではブラウザのアイコン をクリック―タップでもよい―するだけで接 続されてしまう。ものの数秒である。われわれに はもはや,「待つ」猶予すら与えられていない。し かしそもそも,何を待っているのか。何が待たれ ているのか。それは,他者の到来である。なぜか。
他者の到来が,不確実だからである。
自ら統制できないものを,「他者性」と呼ぶこと にする。われわれは,言語を操り,神経の作用に よって身体を動かし,また痛みなどを感じ,感情を 表出することができる,とする。しかし想像すれば 即座に理解されるように,負傷したり感冒にかかれ
ば,それらはたちまち困難になる。つまり,負傷や 罹患といった身体状態の変化(悪化)は,身体の他 者性の強度の発露であると換言することができる。
その強度が極致に至れば,それはすなわち死であ る。他者の他者性の最たるものは,死として,自己 に到来するのである。そして通例,いますぐの自死 を選択しない限り,その訪れは予知できない。さら にいうならば,自分が死んだかどうかの確認は,自 分にはできない。では他者にはできるのか。他者が 行うことは,「死」の医学的な定義と照らし合わせ て判断することだけである。したがって,死は,定 義上のものでしかなく,いってしまえばその状態は 社会的に構築されたものである。われわれは,死 を,生から実感するしかない。つまり,その反対に あるものから,創造的に体感するしかない。他者が いつまでも到来しない可能性を認めること,それ は,他者がすでに到来していることを認めることで もあるのではないか。待つまでもない。「神格」は,
すでに訪れているのだ。
その状態を,待つことの放棄と捉えることすら できる。鷲田清一は,「期待を棄てたところでこそ ほんとうの<待つ>がはじまる」(鷲田,2006:
184)と述べている27)。このとき,自己は,他者に 対して「開いて」いる状態にある。障害や,依存 症や,自傷行為や,破壊衝動や,革命への志向や,
暴力や,病や,死や,SNSや,恩人や,友人や,
家族や,恋人に対して,「開いて」いる。再び鷲田 を引用したい。
開いているということを,迎え入れる用意が あることと言いかえてもよい。何が到来する のかわからないままに,いや何かが到来して いるということじたいに気づくこともなく,
それでも何かの到来を迎え入れる用意がある こと,このことを西洋人にならって,<ホス ピタリティ>(歓待)と名づけることもある いは可能であるかもしれない。不意の客を迎 え入れること,それは客という他者を<わた