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真宗研究4号 026第五回大會シンポジュウム“眞宗敎義の社會性”

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(1)

世 偶 然 教 義 の 社 会 役

第五回大曾

シンポジュウム

依 綴 の挨拶を大谷大療の諮葉先住にお願いいたし ま す 。

か ね て 御 案 内 申 し 上 げ て お き 、 官 仇 し た よ う に 、 こ れ か ら シ ン ポ ジ 品 、 ワ ム に 入 つ 密性﹂という題会出したので が、昨年は御承知 の 如 く ﹁ 数 行 偲 謹 ﹄ の 開 艇 を 選 ん だ の で あ り ♂ 玄 し て いう綴史の間舗にも教誠心持題にも 関係ある揺はを色々 、適慢な問題 が見滋らず、こ 落 若 い の鰐謡は成る意味では私たちが現に直耐している簡単で ので、活溌な鱒毅言のもとに、 で あ り 玄 す 。 ζ _ ,. 哩〉 い 粗 野 、 が 開 けてくることを心から念ずる次第で つきましては、議事の整理なり、議事の 方 に こ7) 吐 一 五 四 て 、 銭 一 訟 を 選 ぶ ガ が 伺 か に つ け 吃 脱 税 和 だ ろ う と 思 う の で 、座長議担を如何いたしたものでございまし よ ﹀ フ か ι 依 藤 くお闘いいたし 将 司

E

ら 弓 円

大原 γ、許 」 い ま す G し、 ム マ 僻 指 名 に あ ず か り 玄 兆一だ不馴れでございますので、首尾よく舎 がす込んで参り ように、皆様方の御協力を特に し、 v

只今お話しもございました通り ぴ〉 か ね て と 申 し テ

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マ が 山 制 さ れ て お る の で あ り ま す 1d

が 、 多 角 的 向 な 内 務 を 持 っ て お り ま す 問 題 で あ り 、 か ら 、 奥 宗 教 義 、 現 /υ いうことが新し

(2)

く問題にされて て藍接関係のありますものは取 、直接関係なお持ちにならな 々 に と り 交 し で も 興 味 の あ る 時 間 謡 引 に あ ろ う と 存 じ ま す 。 ど う ぞ 皆 様 方の充分な一や索のお考えを禅譲表現きまして、子ついう 関 川 胤 な 過 し て の 、 新 し い 還 な り 方 向 が 間 関 か れ て ゆ き交すような結果ができてまいりますれば 結 構 だ と 患 う の で あ り ま す 。 つきましては、食会進めて つ け て ことがよかろうと まずの で、これに蛾慨しまして一態お話しを願いまして、そのお 、皆様方の消滅な鱒誌議を願ったらよ 話しの線に かろうと思うのでございますの つきましては龍谷大懇の に、今申し ような意味 して、先生 の 騒 い た い 普賢先生どうぞ宜しくお顔、 後邸周それで の大原先生から ご ざ い 玄

l,, ょ 、 門 ノ に まん かり話題を従洪ナめような意 味で話してみたいと思い い げ に 特 別 た 研 究 そ し て い る わ け で は ど ざ い ま せ ん が 、 制 約 に こ う い っ げ ∼ っ 災宗教義の社会性 (]) カ 、 Z 戸 、 S J

している一人として、私自 身 が 問 問 題 に し て い る 駐 を 少 し 御 参 考 訟 で に 出 申 し 上 げ ま し ‘”’‘ つ い て 向 か し て 原

R 由 、z v 手 れ だと惑うのであり そ こ で し、 この宗教というもの、殊に うものに紅舎性があるのかないのか、子づいう一挙が私は 大 韓 宗 教 は 、 っ 親 驚 一 疑認を持つので 人がためなりけり﹂と一五われ、又蓮如上人が 人一人のしの と云われているように、人間命人 のものマあり玄す d 殊 に 叉 州 知 来 と い う も の っ て 滋 ん でゆくのがこれが宗教で 失 ︶ こ 、祉禽性と いうものは、人間が人間関に向って或調係を持って︿ると ろ に 生 れ る も の で あ れ り ま す の で />、 7 というものの祉曾牲がどうして生れて来あか、そういう ﹂ 、 こ 疑問を持つわけゼありますれそ のとからの枇禽性な考えら し 人や議郊と人というような真宗の 々が、世曾約 に ど 、 づ い う J ょ う っておられるか ; 、 ; よ J 2 L V よ ノ ヌ ー 』~ tど てみたい。こ ひいては麗史的な研究に 一 広 沢

(3)

察 宗 教 裁 の 社 会 料 開 も 間 開 係 を し て く る よ う に 私 は 思 い ま す 。 先ず宗麗がどういうような社曾的な立場をもっていら っしゃったかということに封しまして、その惑に宗租の ど う い う よ う な 就 禽 的 な 系 一 盤 の っ て い た か と ︸ い * つ ら い L い つ い て て み た い 。 いうものであづたかにつき設して、 ー ト ﹄ あ た り で は 、 こ ろ m w 自作農民百姓、こういうような聾誌の上に 、 ピ つ も の が 一 註 舎 的 な 基 盤 を も っ て い た と 、 誰 定 を し て お られる a それに苦しまして家永三部長等辻、悪人正機と し、 から議論を進めまして、耕作農民というものそ していては、騒人正悶説は生れぬ。 、点、 . 0 噂 、 、 。 ι W パ 川 1 V こ w h j い たような 赤松俊秀誌もこれ おられるのであ ︸﹂に早くも宗慈の社曾的な立 場がどうであるかということにつきまして問題が生れて くると思うのです。それから叉律令鴇教というものに封 して京総がとられた盟度、つまり闘家の権力と結んでい る 機 数 に 欝 し 、 た よ っ て ニ 蕊 六 いらっしゃった。これには色々な諮問的も出来るであり主 しようが 吋本興﹄の後序等を奔昆致しますと、 ﹁ 諸 寺 の 樺 掛 川 教 に 唇 く 、 洛 都 の 儒 林 行 に ・ 謎 う ﹂ と 、 紹 興 一 路 寺 の 墜 徒 を 批 制 刊 し 、 そ う し て ﹁ 主 上 、 白 下 、 と去っていらっ て い ら 〆可 iテ こ 久 ノ い ベ ノ よ 、 宗 祖 の 一 位 合 的 な 茶 絡 は 被 犠 力者 一般の寂箆謂級の上に立っていたように考えられ るのでありますが、然るに叉、聖徳太子家議の樹齢和讃等 の教主塑徳皇、車大態語諮しがたしい を ゴ →λ こ 如 つ い っ た っ て い ら っ し ゃ る 。

マ つ

にあるか いうような 日 ∼ の で あ り だりはしないか そ う い か ら 急 ん な 方 、 出 合 調 べ て み と の関に様々な意見の相還があることを誌づかれてくるの で す 。 あ の 一 ﹃ 鶴 崎 市 患 集 ﹄ の ﹁ 朝 家 の 調 だ め ﹂ の A S 梯に封 しましでも、殺部之総民の考えを申し 、文字の解 いか正しくないかという と せ2 4、金

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して、あの念仰は護園の念悌ではない、宗祖には護国の 念 併 は な い と 、 はっきり言い切っていらっしゃる。それ に封し、従来の山一以乗車者、或は近頃の色んな方面の撃者 が、宗祖には確かに謹園の念仰があったんだと、こうい ったように読が分れてきている。それから叉.悪人正機 というような考えに封しましでも、先程申しました家永 民、赤松民あたりの考えをみますと、悪人正機は武士階 級を基盤としている、こういうように考えている。叉龍 谷大撃のご葉憲香民あたりの考えをみますと、悪人を祉 に、大韓異宗というものは、どういう枇曾的立場をとる べきものか、或は一定の枇曾的立場をとらないものか こういう問題が起ると思うのでありますしどういう祉曾 的立場に立ったらい L の か 、 戒 は 一 J足 の 一 世 A 両 目 的 立 場 が な いのか、こういう問題が生れてきはしないかと思うので あり空す。それから闘係欽しまして、イズム、何らかの イスムというものに、員宗がはまり込んでい﹂のか、或 ははまりこまないで、あらゆるイズムの上に立って員宗 が進むべきものか、これは宗祖或は蓮如上人あたりの吐 すところの悪人 つまり支配階級の堅迫をうけている 曾的身分の上から解理致しまして、朝家武家の禁制を犯舎史的な研究の結果から私は生れて来るのではないかと 思います。こういうことが先ず一つの吐曾性ということ 般百姓が悪人正機の悪人である、支配階級の方が善人だ というようにみていられるようであります。こういった 面から考えると、宗祖の一位曾的基盤をどういうように考 えて行ったらい L か。そこに重要な研究題目があると思 うのです。蓮如上人にも同様な考えがあるのでありまし _,,. L 一向一授の反抗運動に蓮如上人がどういうような立 場をとっていられるか、こういうような宗祖や蓮如上人 の如き重要な方々の吐曾的な立場を考えてみました場合 真宗教義の社会性 についての大きな話題になりはしないかと考えているの であります G 以上は最近のこの祉曾史的な研究の結果を参考に致し まして、こ与に問題にせられるべきものであると思うこ とを少しばかり申し上げたのでありますが、そういう様 な歴史的な研究の上に立ちまして、大瞳この員宗の教義 には一世曾性があるのか、ないのか。これを教義的な方面 から考えてみたらどうかと思うのであります 二 五 七

(5)

真宗教義の社会性 大韓、真宗の教義にどういうところから祉曾牲がでる か、そういう事柄でございますが、私は先ず第一番に、 私自身の考えと致しましては、宗祖の御同朋御同行とい う考え、あの立場から一世曾牲というものが出て来なけれ ま 玉 、 コ 工 、 コ で ま 五 、 、 。 ifL − 7 1 v U H − − f L カ つまり同じ如来の大慈悲を仰 ぐところの兄弟としての意識、最近の一般の哲事者の言 葉で言いますと、愛の二重行動、あ L いう慮から枇曾牲 が で L くるのではないか。 曇鷺大師の言葉で申します と、﹁同一に念伸して別の道なきが故に四海皆兄弟なり﹂ そういった立場から一世曾牲が生れてくるのではないか。 第二には、大信というもの L 構 造 一 言 葉 を 換 え て い L ま す と、正定紫の自覚の立場から吐曾性が生れてくるのでは ないか。つまり宗祖の﹁御本典﹂の信容︵本卜 4 ︶あたり 主 一 一 ] ︸ をみますと、菩提心というものに封して横超の菩提心を 説 き ま し て 、 ﹁これ即ち願力組向の信楽、是を願作僻心 と日う。願作僻心即ち是れ横の大菩提心なり。是を横越 の金剛心と名くる﹂と、こう申しまして、自力の金剛心 に封しているというところは、大乗併教の上求菩提下化 衆生の二利固満の精神が、大信の構造として含まれてい 二五八 るのではないか。大信のこの二利固満の立場からどうい 今風に影響してくるか問題でありますが、吐曾牲が導き 出されて来ないか。但しその場合に私が疑問にしており ますものは、大信の二利固満の精紳は、往生時伊土或は併 田 市 出 繋 に 封 す る も の で あ る 出世間的な二利国満であ る J 出世間的な立場におけるこ利固漏が、どうして世間 的なこの一枇曾性というものに及んで来るか Q こういうこ とが私自身としては相官疑問になると思っています。と にかく大信の構造、信心の内容というものから一世曾牲が 生れてくるのではないかというような橡想をもっている のであります。それから第三には、還相姻向というもの を!こういう用法が正しいか正しくないか別といたしま して、現買の世界に於いて、還相旭向を詰る、﹁利他教 ケ 化地の益也﹂というあの還相組向を、現買の世界に持ち 込みまして、そうしてその還相姐向というもの L 内容か ら祉曾牲を出そう、こういった一部の翠者の努力もある ょうでありますが、こんな事が正しいか正しくないか。 ﹂ういうような事を大鰹私自身は考えているのです 話題を提供致します意味に於いて簡翠に私の考えを申

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したが というものは、大韓人閉 し て 枇 曾 性 を も っ か 。 的な立場がどうい も 、 ぺ y 回 要 齢 制 々 申 し 上 げ ま す L ’ 様方の て長いたら部川か三位うのであり交 人の開題マある げ か ど う

-jヘー す ハJ きましては最初に第一の鮎、特に w づ 一 に は 山 市 旭 或 は 議 如 上 人 の 枇 曾 にあったか いうものは何 れましたけれども に於いては、往生は よく取されておりまして、極めて 人 の し の 、 、 品 。 、u v ふ け N 一 つ の らかの桐限定した従命日的立場をもつべきものであるか、なぎなりといった あ 守らなくともよいのか ら は 、 ν V づ い ムを守らなければならないのか には、批舎性が奨宗教識の ら 山 京 、 来 る か 9 網 月 間 四 郎 御 刊 行 の 、大詰の考え、還相側地向をどういう感 こ コ 、 ヂ h A F L ?か、ということであれりまして、卒凡なことを申しとげ 設したが、本凡なことが譲先生方の議論を進めて行かれ る上に、向か瀦参考になりましたら幸甚だと思うの ります 大原只今普賢先生から の 散 命 同 性 い と い ー マ に 闘 し 申 仇 し て 、 先 唯 一 の お の 一 一 一 つ の 駐 を お 話 し 頂 い た の で あ り ま す が 、 的 知 何 で ご ざ い ま し ょ う か 。 先 制 脱 出 叩 々の角度からこの問題を取扱って し上ぜました通り い け る のでありますが、矢張り議論校選めて いまして、皆 災宗教義 m w 役会性 の に 、 磯 今 お 話 し の 大 欝 一 一 一 つ の 艶 個人的な性格を持っていると られるの 持 為 忌 与 ム 3 4 て う ト ν た真宗に枇舎肢とい、つことが本来あるのか ないのか 許されるの ないのかといったような 、 ふ ﹀ 品 川 戸 一 一 レ を す i A め て 市 川 い た ら 如 持 か 円 パ ノ d d 、 に じ v ゐ dう なお鱒縫ぎの き交して、綴々に欝活綴にお願い致したいと思うのマあ から御出身の龍谷大準とか大谷大祭とかと お名鳴をおっ v

ります 、 /、 ペ コ おつけ加え下され か と 存 じ ま す ひ 包T 一にはお聞き及びの還り、親驚製人の御生践に於き ま し て 歩 ま れ ま し た 行 騰 し ︺ 申 2〉う ました後 して、その門弟であるとか、或は親驚護人御自 身の行動ゼあるとかといったことに鱒しまして、一耽禽的 或捻枇曾性といったようなことが努論考えられるわけで J ﹂ 4 4 ﹂ い ので、そういった畿につきましでも、皆様方 二又九

(7)

真宗教義の社会性 色々御意見がおありになるだろうと思いますので、 お 寺 山 一 し下さっても結構であります。 普賢第一の問題、個人的な問題を持っている宗教にど うして吐曾牲があるかの初めの問題は、第二第三と一緒 に論じた方がい L かと思いますが:::。切り離してはど う か と 思 い ま す 。 堤 ︵ 寓 目 撃 曾 ︶ 今の、宗教は個人の問題ではないかとい う問題でありますが、宗教は如来と衆生という闘係に於 いては、やはり軍濁者

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一人の問題である。ということ は首然のことじゃないかと思うのであります。然し乍ら その例とい、つものが如来に封する軍濁者であると同時 に、その側とい、つものが世界の上に立っている個である とい弓形に於いて、その如来と衆生という一人の闘係に 於いてそれは共感される世界として、世界全膿の問題に なっているのではないか、そこに一世曾性があるのではな いかということ。それからもう一つは、そこで問題にさ れ る 世 界 、 一 世 曾 は 何 で あ る か Q むしろ悦俗的な意味なり 債値というものを根抵から覆して、新しい意味をそこに 現買にもたらすものが宗教ではないか c こういう問題が 一 一 六 O あるのではないかと思う。そうした場合、現買にある所 謂意義や債値というものが、杢く顛倒されるところから 生れて来る新しい意義と慣値という問題について、社合同 牲が取り上げられるのではないか。それから悪人という 問題が、人間というものは塵史的な一世曾的な傑件に於い て間われる意味に於いて、悪とは一世曾悪或は倫理的遺徳 的な問題とからみ合っているわけでございますが、同時 に 枇 舎 に 於 け る 悪 は 、 より根元の、むしろ人聞の存立の 事賞、世界成立の根本根元という風なもの、その根祇に 於いて間われる所謂根元的、 いわばラディカルと申しま すか、そういったところから悪人正機という問題が考え られなければならない。そういう意味に於いても、悪人 正機というものが歴史的世曾的傑件に於いて、どういう 風に理解されるかというところに一つの問題があるので はないか。そのことを考えてみたいと思うのでありま す 。 大原お聞きの通り、堤さんのお考えは、宗教の枇曾性 という事の原理とい L ますか、根操とい L ますか、宗教 は個の救いであるけれども、査というものを離れた伺と

(8)

い 帰 つ も の は な い ψ いうものはない よ 町 、 工 ア ド 告 一 日 に就曾というものがあるのだり一絃曾が教 われなければ本震に悶人が救われるということはないか ら、そういった酉に於いて宗教の祉曾牲ということを考 、 ぜ ん て ばならない。こういう事が第一一段、それか ら そ の 衣 は 、 い う も の は そ いうものにゐるのだ。だか 可乏して努徐し i t i ‘ j

か と い そういうところに 0) るのだから、そういう黙に於いて 機ということも勿議考えられなければならないし、叉親 驚聖人によって悪人正機が叫ばれた珪告もそこにあるの だから、そこに於いて宗教の祉曾牲と

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っ蚕が強く認識 {t ぃ 。 こ ろ / い 機 いう隠鑑は し、 いかゥ普賢先生のおっしゃった儲同朋 御同行、そういう意味でも祉曾性は教富の本費なのであ これは箆始帥併設に於ける倦齢、 られないので る 樹 肉 祭 教 義 m w 役 会 性 の して数閣を持つ そ の ものが、宗教の本来労なものから︵教頭の本空意義﹀、 ぞれは叉その教酉というものが腫史的註曾的鍔件に於 いてどうでおったか どうあらねばならないか そ う いったところに枇曾恒が るのではない 七 、 大原 L

い 人 ノ J む の カ》

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4 1 の t A 土 られると開時に、文教開会腿闘が祉 舎というものとどういうつながりを持っかというところ に、異宗の一駐曾牲というものを考察して行かなければな 、 ノ r h 、A 1 0 内 i v J 1 j V 1 f v んはこういうように て い る よ 令 市 、 あ ぃr 、ー一 ざいまぜ んでし 議 附 榔 ︿ 然 災 綴 谷 察 側 側 ﹀ く ニ ません ど も 、 間 関 え L 4

h り古 J m y ν い h

J も の て、欝君、か金を持つ者だけを治療し、金を持たない者は 相手にしない、金を持たんものはお聾者にか L ることは 出来ないという場合に、醸者に残された欝者自身の一粧曾 ⋮ ム ハ

(9)

真宗教義の社会燃 牲というものは、そういう治療代役繍えないような人聞 を治療して日くというところに、饗者の社命同性があると るのでありまずが、京教の場合に、 と馬特 か慈人と か智者と いる。その中 に或る特定の けが救われ 辻 、 一 就 禽 牲 と い う も の う す い 。 ように認人が正撲であるという、そうい み め る な らば、そこに私は非常に大きな枇禽枚、があるのではない かと考えるのであります 大濠 森脇さんの の お っ は ?た呉宗教義に於ける粧曾性心誠織とい t h ますか 根 元 と い 、 、そういう第一の 親鷺寵人の御同朋御同行主義宏、躍にある一部分の階級 にあり笈した を敬うという階級的な はなしに

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の衆生を 救演するという鰐瀬間帥怖の本額の上に椴擦をおいて、 に一般庶民の しておす L めになった。そういうと しての宗教の枇禽校があるのではないか。 こういうような御滋見になるのですね。 こ ろ に よ 杉 ︵ 大 谷 大 線 。 ﹀ 宗教と社舎牲というこ ニ ム ハ に、先程から鱒議ぎがありまし 、司, Y」 毎 て 行 く と い う 様 な 選 、 が つ 人 隠 の こ の 枇 命 闘 に つありましょうけれども、もう一 に宗教現象というものがあっ て、ぞれが一つの躍史的な形マ我々の裁に簿えられ て い であります。そういう欝史というもの てみ い う も の が 全 く 人 間 の 一 世 曾 の 的 々 しているということが云える うのでお い 数 割 測 が 滅 び と い , つ こ と は て又新しい数舗が興こる u れはその の枇脅と深いつ の下にその数鰯の治長がみら れるわけ それでこ は 、 先 程 諸 問 緊 先 生 が取され恋仇したようにあらゆる問題、が露連しております ので、思らく後の問題とも鱒連をもっ て行かなけ れ ば な ら な い 。 い v

ものは一献合牲というものがあるんだというところ をつけておいて 々に茨の問題に移って項き そうし 皆さんの中に議紳伐と思われていることがおいお い明らかになって汗くのではないかと怠うのであり支 す 。

(10)

大 原 ん ち、 し た 。 、 為 、 夕 、 九 ソ ぇ 、 A J Z ; 1 宗 教 義 の 紋 舎 牲 に つ き ま し て 色 々 議 論 ろ ろ け れ ど も、その黙の詮議をぬきにして翼宗教義には一夜 A W H牲があ るんだということをきめて、その上に問題を進めて行く べきではないか こういうお話し 2ト れ w円

、 の 一 絃 脅 性 会 ︸ ど う い 3 ﹀ て 行 く か ,,. Veふ ぃ 、 門 ノ t m の L ておることでござい ノを し れ て い る 船 舶 だ うのであり 。 先 制 収 普 賢 先 生 は をおあげになったのでありますが、もうすこしそのこと につきましてお話しを承った上で、今上杉先生がおっし ゃい交したように、枇曾的賓践、教欄間がそういう面に議 ん には、どういう様な風に ったらい λ の 炉円、 」 台、 れてい £ 、 ’ 立 、 ろ J こ ふ ん 、

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︿ 、 V V 旬 、 が ていら われているの で 、そうい し り めて行ったらい ih と思うのであります。その黙について お話しを翼いたらい L と 思 う の で あ り ま す が 、 普 賢 先 生 す は鰐再現欝詩行主義というものと、異宗における信心正大原 の 社 会 総 関と市し い w 門 ノ 0) ぴ〉 ,r に ことを

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¥_ 玄す。あの一比定楽と ったところ に、根譲があるのではないかとい−つようにわっしゃった よ弓に承るのであちます。もう一つは蓮如引掻化というこ とが一五われるのゼあり支すが、その考え方は色々あるよ うであ れども、そのヒに つ摂撲があるんだと つ 恥 ぷ 唆 し て い ホ h 7 1 ﹀ト仇 ︾ 0 ・ m M ん、そのことにつさ支し し 上 杉 い L ト ス 、 そのことはもう少し後で機舎があったら 速 や へ さ し て 京 き ま す 。 買は大費面白く存じましたこと は、先程替費先生の鶴説明の中に、親驚護人及び蓮如上 人 。〉

'-の 0 て い もそうい A Y 為 、 、 ノ 、 ノ

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イ げでありまずから、そういう方謹から そういう黙を鐸護一言頂いたら結構情だと怒うのであり支 辻い。務史的な問題に於いて持に色々誌を出品して ム ノ、

(11)

真宗教畿の役会性 し 、 い で に ょ う で が出たのでゐ 台、 ん、先程あなたのお名前 みえている

3

際 の ジ〉 、個人が宗 教の根元であらということ 特 に 問 問 題 に な る と い う と こ ろ に 、 で参った 日 、 1 -・ から緯人というものがどうして いわば枇曾牲がおるの にならな : テ オ も い と い う 一 い わ ば 批 曾 、 P 1否定し 率、し−、ミノ 4 C ぜ L V に、第一歩の い う 一 位 曾 に 封 ず み 否 定 と い う 湾 忘 れ W r L句司偽 るのでふ 玄す、しか け から訟殺の吐舎性というものがあ ることもある 、俳教と 立 た な い と 出 て ’ 栄 な い りた場合 そ も つ い 、 え ぬ 定 な 通 し くるものが の 一 段 A R 牲というものであって、際人とい、つもの る慮には いうものの 糸 、 の 市 山 て 出 て く る 枇 曾 的 切 な 立 場 〆 な り いわば狭義 あって

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J b ⋮ 六 回 のが、関謡に \ρ 、 殺 が 一 位 曾 的 かということな ているわけでありふ小 の 倒 人 が 間 同 誌 に な る ふ ご つ い ということと、就禽性の問問題というものとは、これは別 の て い

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は向か腫史較というものがある c い と い w 門 ノ 括 合 と い 批界に出て来なけれ

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いかどろか知 る 。 ,

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v の りませんが どうしても懸史の悦界に出て来なくては江 い cwfL こ に 在方をとらえ ぴ〉 えているわけで こ れ カ 〉 h ?な儲批判がある の で に封して に社合牲があゐとかないとか いうことれ憾が明在 0) ているのではないか、向か謀本間延 予句, v、ーー 之 ) 古〉 、 は な い か と 州 問 し 一 .J 、り い う y も の の否定という J ぬ L え ら れて、そこからで h くるいわ い ・ つ J K M

(12)

0) '>. いうものが不充分ではないか

u v 一 っ て い げであります。思いつきに いわけであ りますが、そうい今黙をおきかせ瀬えるとい L と思いま

-n: 大原 っしゃいました鮎につきまして、良一盤的に親 鰍 周 期 人 か 遼 額 上 人 の ぺ 〉 ってみたいので つ い で に ぺ 〉

二 業 い L し い λr 思うのであ 、我々が親驚塑人 い う こ と か ︸ 考える場合、信というものが白方の告の苔定だという事 を言われるのでありますが、ぞれはいわば我々の常識で 出来上っている援な自己、叉一耽命日的な規定をうけている そういうものを し、

し、 も 0) ぃ。そこにで L し》 せ ん 或立した時に、再び親驚聖人 に限定さ れた自己、或は詮曾的に限定された自己の在り方が考 えられて来る c そこで、その関係は新しく或立して来た、 相封というものでなくて紹封的な立場から成立して来た の 、 ⋮ 燃 史 な り 枇 脅 な り た と い で 一 段 合 同 的 な 在 り 方 、 立 場 と い う も の が で L くる。そうい 弓考え方で親驚聖人の主鰻的な立場とい=つものが一罷ど 弓してで L 来たか、昇、韓的な立場にどうか L わって行く かということを考えておるわけなのであり ぞれそ 一 々 日 間 庭 で 州 市 し r '.' Q \;、 0) 可 字、 V • L

の で \ρ 七 、 進 Iv う の 大原 二葉さんの翻意見は、 お聞きの還りであちます が、相刊かそれに関しまして御考えがございましたら聞か 中 な て 頭 き た い と 患 い ま す 。 厳島︵谷大﹀ 今の読な批判するのマはないの

件 、 、

ょうとせ の震といわれてある。ぞれは⋮膿どうい ペ コ カ〉 はっきり分らないのでありますが 然し常識的に考え て、あの透の報関東の掻く低い階級の建中力生活とい、つも の を 、 受 織 間 的 に 懇 驚 聖 人 が 初 め れて、その貧し 二 六 五

(13)

の役会役 さ と い L ますか、非常に困難な鞍況に濁する宗祖の気持 というものが、こういうことをさせられる様になったん だと一態解懇出来るのではないか。ところが一二部経千部 いうことは卒安朝時代から行われていて 般 的 ‘I9

ν い へ ノ こ 一ヲ丹、みふ﹀品、向。 ツ 弓 ” h y y w J 1﹀ J 山 こ コ 、 ド ? 言 ザ 守 、 省して、念持悼の他に一環何を要とするか a この念締を皆 に弘めるということが員成報梯恩である。こういうよう に考えられて三部経千部議論ということをやめられた。 れ る σ 一 一 一 部 経 子 部 議 論 と い う 担 問 刊 に も 素 朴 な 枇 ヲ '−−‘ は つ L

ι よ み J j L し、 。 。 VM σ3 いうものが し た 上 に 出 て 来 た 一 杭 密 性 だ と 思 う の 入十五才にしてあの﹃正像末和讃己に寸郊来大悲の恩徳 京組は は、身を務にしても報ずベし﹂という和讃を作られた υ す る と に し て 、 な お 異 成 報 機 感 、 こ れ は 同 時 に 大悲簿普花でなければならない c 一 る と 、 一 ⋮ 六 六 通じて大悲簿誇化の念悌一つを皆に話じて葉う“そうい うことに一生濯を費された。何とい 2 A ま す か 、 一 つ の 行 動 睡 眠 勢 と い う も の が 考 え ら れ る c そういうこの大悲簿普 北の思議については少し考えられているん も 、 と に か ノ けれど し し、 い う も の jム し、 そうしてその bっ と て〉 にたって出議せられた。その方向は充分考えなくて らないと患うのであります 大原 唯 今 は 藤 島 さ ん よ り 、 衆生訓利益的な素朴な註曾 での怠梯を弘 性、そういうことを否定して、本曹の め いうところに し、 んだ。そうい 'IP さ ん の し、歴史的な粧曾的な現営的な自分そ否定し に本官 の

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史人として、一粧台人としての親驚要人の全容がある のだという、そういうお考えと、そこのとこんは、二葉 さ ん ど = つ ニ禁藤島先生が今おっしゃっ

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し、 めたという鱒決断、そ し、 ういうところに親驚緊人の一枇脅牲というもの L 性格があ るのです、それは准単に親驚だけをみていたどけでは分 って来ないので、日本ならば日本に於ける様教の駐曾の 繋がりというものを一階見渡してみて、 てと認締 そ う し て 一 一 一 部 経 本にはるという決断にどん い く と い っ て く つ は い る め で お 。念悌 し、 わ い ち つ こ と が ばその抱の宗教おな立場からの一世舎の繋がりというもの を切り捨てると云った面があると患う。ぞれこそ日本の 古い樽続としての、或る場合には擦力と結びつき、或る は律令緯教と結びつくということ

そういう い 知 勺 ノ , 、 の 一 砿 禽 的 な 哀 h v 方 に 在 り 方 と い w つ も の が 、 一 一 一 部 経 千 部 護 認 を す て L 念悌一本で行くという露に あると思うのでありますが、藤島先生のおっしゃったこ とは、全くその還りなのでありますが、その衆生利益と る の 爽 仰 一 数 畿 の 社 会 撚 し、 つ ゆ ︸ ‘ い わ か ん ︸ い う 一 ア ら議んでくる 、 出 問 題 に な る と 思 う の で す が 。 大原 お料開き及びの通りでございますが、衆生利盆とい ろ 現 世 的 立 場 合 ︸ す て る と い う こ と が 、 侭 議 か ら 山 山 て く る かということを、討究して参り ことは大饗大事なこ と だ いうことにつかねて親驚が し、 し、 もあり宏 し た 遇 h v 入 十 五 才 に 於 い て 報 恩 急 帥 怖 と い う こ と ておいでになるということ、そういうこととその念品開一 本そ賓接して行くということにつきまして、もう少し皆 さん方に持か鱒意見がございませんでしょうか G 堤 σ〉 供 柳 、 J j f γ v ぷノの い へ ノ w も 、そうして っ た よ ︾ 叶 ノ ザ ︸ 。

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の を 根 殺 か の場合、厳鶴廷異というような形での社合同牲の否定、い わば世信的一泣曾牲の否定というものがあって、そこに叉 そ こ る 紹艶苔定を超えて出て来る立場というもの、 い わ ば そ れ 一 一 六 七

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は立場なき立場とでも去ってもい為爪りで のでございますが、それを一つの立場として呂然法爾と いう組問題が考えられるのではないか。自然法語という場 いかと思う 台、橋理 レ ば徳を究うする の 輪 運 オ コ おいである臼 る α ヱ ャ 門 ノ い 出無認牲というものが、 出に撞いてくる、韓極的に働いて来るという懇での、こ ういう白熱諒議というものが本来どういうものであるの か。叉どうあるべきものであるか。ぞうして叉紹封否定 に 於 け それは何であるかということ 酬 で つ い れるのではないか い ま 大 原 、大饗難し ん の で ご ど ﹂ い で あ り の で 一寸分り難い鮎もあるのであります が ‘ 招 但 塑 苔 定 し た と こ ろ に 現 わ れ て 来 る 一 一 つ め 世 界 が あ ザ ハ ω

一つは自禁法溺といったような寂静湛然たる滑極的 な面、もう一つは更に積極的な能動的な語、そういう一 て来るのではないか、こ L に つ , i

L Y / てはどうでしょ 、との御意見のようで 堤自然法爵といったところに能動的謹極性があるので は な い か ら 法 制 射 性 と い う 問 題 、 そ れ コ 一 歴 史 性 誌 曾 性 と い L

‘ っ 法 則 る ち ょ い 今 心 y y ︺ セ ﹂ い 九日ご叶ノパ J ‘ L の イフ (]) シ 品 ぷ 一 、 , h b 之 、 i i v F込う 大 原 そ の る ι こ ﹀ つ い のでしよ 芳 村 ︿ 諮 大 ︶ 一 紅 曾 性 と い L ますが そういう替選牲が 真宗の教義なり、親驚の璽史一挙買に於いてはるるという ことを、撰然と めてい けマあり ところ が、どうい て い る か し 、 、 こ い ゆ っ こ を に そういうボヤ J... し たところ てし玄うの℃はないか。 立 つ た て L 理識としうるようなものがあり、欝系が出来てお れば、迷わなくてもい L のではないか。斜えば、信心な ら信心が、必ずどういう人にとっても必怒牲というもの 合もつものかもたないものか の か ど う か 、 ど う い チしたものか 。そうい て7

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うことが貫謹されない限り、こういう風な問題が起るの ではないかと思うのでありますが、そういう貼から皆さ んにお聞きしたいのでありますが。 普 賢 私は異宗の祉曾性とい−つものは、親驚聖人以後今 日まで、蔵然として数岡の樫史として賢話されていると 思うのであります。買註されていないわけはない、教翠 でも瞳系としても﹃数行信詮 L に顕われていると思う それをこ L ではっきりと、どういう風に再認識したらい L か、努力しているのではないでしょうか。 芳 村 信心と云った風なものが、真宗に於ける最も中心 貼ということになりますれば、どういう理論に封しでも 普遍性というものをより以上にもちうるという面が、ど ういう面で買詮されているか。 先程私は問題貼を出しまして、普賢個人の考えを 混えずに解説したのですが、こ L におられる先生方は皆 普 賢 お考えそ持っていらっしゃると思うのです。それで時間 もございませんが、問題をしぼって一番中心酷だけを言 って貰ったらはっきりすると思うのです。歴史的な事貫 に違いないのです ν なければ教圏はできないわけですか ら、員宗の教義からどういうように祉曾性を議論”つけた ら い L か、問題貼をしぼって、こ l λ で碩撃の先生方に御 意見を聞いて頂いたらどうでしょうか 先制制御解説頂きました持賢先生から、ああいう御 謹言がございましたのですが、それに封して多くの皆さ 大 原 んの御意見を承る時間もあまりありませんので、先程大 谷大撃の上杉先生が後からお考えを述べたいと云ってい ら れ た の で す が 、 お考えをお聞かせ願いたいと思うので す が 上 杉 私はこういうことが一つ言えるのではないかと思 っているのでありますが、員宗の教義を考える場合、矢 張りその背景乃至は地盤といたしまして、大乗悌教の教 義思想を離れて、真宗の教義の吐曾牲というものは成り 立たない。員宗の教義の世曾性というものは、併設の祉 曾性ということにも通ずると思うわけであります。そう いう貼から考えられますものは、矢張り僻数全瞳の持つ ている本質的な性格というものが 一つ考えられる様に 真宗教義の社会性 に於いて吐曾牲はあったのです。員宗の教義からあった思います。その性格というものをば一躍例えばキリスト 二六九

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真宗教義の社会性 悌教というもの 教あたりの数義と比較してみますと、 は、大瞳に於いて何をやるかということよりも、どうや るか。どういうことを行うかということでなしに、どう いう風に行うかというのが、梯教の考えのように思うの であります。キリスト教は、どういうように行うかとい うことも考えているでしょうけれども、表面に出ている ものは、何を行うかということで、世曾牲が明確になっ ている。ところが悌教の方は、どういうように行うかと いうことに力を入れていると思うのであります。宗教の 性格を考えた場合にも、帥併殺の性格のもっている本質的 な性格というもの、が、まざ/\と出ているように思いま し て 、 色 々 と 員 宗 教 義 の 数 型 の 上 か ら 一 世 命 日 性 を 迫 究 し て 行った場合、何か掴え所のないものがあるように叫われ るのであります。そういう酷から、それでは員宗教義に 吐命同性というものがどういうところから導き出されるか というと、私は、現生不退というものが、世命同性の数四 として導き出される一つの強力な手掛りでないかと思つ て お ・ り ま す 。 こ う い う 貼 か ら 先 制 恒 普 賢 先 生 が お っ し ゃ い ました大信の構造、こういう黙が問題になってくるので 二 七 O はないか。そういう黙について皆様の御意見を伺いたい と 思 い ま す 。 大原唯今上杉先生から異宗の現生不退、特に親鷺聖人 の御己設として現生不退を語られているわけであります が、キリスト教の世曾牲と言った面と違って、どういう ようにやる、どういうような運び万をするかという、そ ういう様な方法論、そういう貼に於いても特異性という ものが、その説の上に、 その教義の上に出ているという お話しがありましたが、これに闘して何か御意見があり ますれば伺いたいのであります。叉現生不退の問題でな くても、民宗教説全惜の土に於きまして、吐命目的責践の 根 操 と 一 一 一 μ 一ったものがございましたらお示し願いたいそ れ を 別 継 に し て お い て 、 一 世 曾 性 、 或 は 一 世 曾 的 貫 践 の 現 質 的反則に論を進めて頂きたいと思います。 先紅二葉先生は親驚聖人が念俳一本に生 きられたというようなお話しでございましたが、もう一 細 川 ︵ 谷 大 ︶ つ念仰というものは、詳しく申しますと、先程の藤出先 生 の お 話 し で は 一 一 一 部 経 千 部 説 話 の 問 題 、 あ れ を や め た と いうことでありますが、あの讃一副ということが五正行の

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中の一つでありまして、所謂助業でありますが、それは つまり稽名正定業に随伴しているものでなければならな ぃ。それでやめた。忠信尼の消息にあります様に、買は その問題は、そこに自力の執心というのでありますが、 私 は そ こ が 問 屈 だ と 回 、 つ ο 自力の執心、それがある局に 買はやめた ι こう申しますと、助業というものが念帥円 とこういう具合に私 にとってつまずきの石ではないか、 は考えます。助業によって枇曾性そもつ者もあるかもし れませんが、或は顕く者がある。法然教圏が崩壊して行 くことが助業の顕きによって、還には助業から諾行に堕 して失う。そういう貼に於いて雑行なり諸行というもの を、法然数圏門下の人々が批判する慮に問題があろうか と思います。そこで親驚聖人は危険性を自覚したのでは ないか、和讃にありますところの﹁助正ならべて修する﹂ ということを、宗租は非市に嫌っておられます。そこに 信というものが、二十九才の時に本願に闘したわけであ りましょうが、漸次一生涯を通じて深まって行くという ことに注目して行かなければならないと思います U 深 ま るということは、深まることによっていよ/\法を求め 真宗教義の社会性 そこに法を同じくする同朋の閥係、所謂同朋数 固というものが、理組救国として考えられたと思いま て 行 く 、 す。そういう信の深まりということに於いて、私は、二 一家先生が取に念仰者に到して反念俳者という者を匝別し て考えられ、そういう祉合に封して反擁して行かれたと いう非市に悲壮な出が、親矯聖人に於いて考えられよう としていますが、外への批判もさることながら、もう少 し親鷺聖人は御一生を通じて、内の万に’

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らの信を深め ることによって、所謂内的な批判をして行かれる耐があ ったと思います υ こういう貼は、信の問題とも関連する ものでありますから 一 寸 申 し 上 げ て お き ま す 。 葉 今親驚聖人が、念俳一本に生きられたということ が、従来の宗教的な立場に封する批判を含んでいるとい うことは浅薄であるという御意凡でありますが、浅薄で あるということは別と致しまして、親驚御自身は、信の 立場に立つという事は、自我否定を持っている。先程、 的 数 本 来 と 一 一 一 日 わ れ ま し た が 、 そ う い う 風 に 本 来 自 己 が 生 きであるという志味の自己否定、これが先ずある、その 衣には 今度はそういう自己と相封的に立って行く白 七

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真宗教義の社会性 分、我執を否定した面の自我否定ということ、そういう 立場から出てくるのが、先程申し上げたように、賞際的 な数理的な批判である。何魔までも自己を否定して行く という深まりがあると同時に、自己を、自我を園んでい それを排除して行くという強靭な慶びがあ るに封し る。そういうようなことを申し上げたかっただけであり ます。聖人が唯単に目を外に向けて批判して行くという 二 七 二 る な ら ば 、 今 更 問 題 に な る 筈 は な い 。 買 は 吐 曾 性 と 一 守 口 わ れるもの自曜が、教義自瞳に結びつけられたようなもの ではないのか。親驚の立場に於いては、正しい批判があ っ て 、 そこから一世曾性というものが出て来る。それがだ んだん時代が進むにつれて一世曾に封する批判性はなくな って、そうして吐曾性にくつ L いて行く。そこを批判し 面だけに於いてどなくて、自らを以て我執を否定すると普賢私は二葉先生のお読に賛成なのでありますが、親 なければならないと私は思うのでありますが 共に、それと同時に、それを取り圏んでいる吐曾的な立 場、宗教的な立場を排除して行くという事があるんだと いうことを申し上げたのであります。 大原唯今の細川さんの考えと、二葉さんの考えとは、 喰い遣いがないのであって、唯、言葉が多少足りなかっ た震に、あ L いうような御霊言があった。こういうよう に理解してい与のでございますね。 二葉それからもう一つ。普賢先生や大原先生がおっし ゃったのは、真宗には祉曾牲があるんだ。それには正し い根祇があるとおっしゃったのですが、そこに問題があ 鷺聖人の立場が吐曾的立場を紹封に否定して念悌一本に 生きられた。宗教的腫史的世曾的立場を否定したその紹 封否定を経て来た親驚聖人の念悌の立場から、どうした ら真宗本来の枇曾牲がでるか、こういうことをこ L で 討 諭せられるへきだということを思っているのです。充分 あなたの立場は賛成でありまして、否定したわけではな い 。 い L 加減な俗世曾に迎合するのが一世曾牲とは思って いませんので、親驚聖人の本宮の立場から良宗本来の枇 曾牲が出てくるかということを、教率的にこ L で研究す るのです。異宗教義が果して吐曾性を持っているのであ大原先程芳村さんのおっしゃいましたこと、唯今普賢 べきではないかとこう思っているのであります。

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さ ん の 、 お 話 し に ご ざ い b な し た こ と を 、 や は り 〆 も ・ ? 少 し 奨 宗教誌の構造とい L ますか、内容に散命 H 牲とい J む の L 根擦などうい に求めるかとい ことにりきましての お考えそ、もう少し明確にし七お 、 批 九 円 牲 の 現 費 に諭役移行するに都合がい﹂与つにのおうのであ いましょ行か 々 韓 議 一 氏 、 が あ っ た の で あ り 一

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λ ド ド カ ﹄ ♂ 椴渓私は⋮位命同性自身を決めてか三ら にくい のではないかとひそかに思って それはこの 一 位 曾 繁 践 と い う こ と な よ く 一 五 わ れ る c そういうこと は、多︿の場介私の の革新的に持 と こ ろ で は 、 ることそ一位脅繋践という c それでそうい 一 位 合 同 牲 と い の 一 献 像 的 問 な 麗 味 いて行っているかというこ と ん した様に枇曾時に動いて来て いるのであり支すが、今問題になるのは、こ る革新的な面 あるのか、そういう一耐の註曾性な の 一 耽 品 燃 性 な のか、人間同志が一世曾的に生活し 爽宗教義の絞 A m 佐 めか。そういら弱含一選きわめて頂かなければ、私自身 <J) 一す惜しにくいよゆっに患いますの

大原 しに、今おっしゃった後者の意味ゼお話 し頂いたら 網棚渓そうい h つ面では、私は得、むというもの て 芸 品 っている σ その側というものは L

ペ コ ぃ 、 っ , も の し 絡 な も の 句 、 、 一 位 九 明 日 の 僚 が り と い 今 ちのを拐の一つ どうして と考える G も必黙的にで L くる。そういう熱で いうもの﹂内 容が非常に倒的な性格を持 い う / 望 も の は、私達ーという一つの⋮拐群生誕とい そういうところに人間指互の鰯採の骨格畿が生れ ら窺えば、現生十盆 の お に な ハ / て いる現生正定梁とい ら出てくみのではないか ﹂ れ は 降 思 ども、そうい

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れ 大 原 ジ〉 し こういう駄に麗し えど L 為 し た い ました 別 侭 あ で し む

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真宗教義の社会性 りでしょうか 芳村 念併が深まるとか 信心の内容が保まるとかとい うお話しは分るのでありますが ︵門外漢でございまし て︶念併の﹃本質は員宗の本質の問題だろうと思うので すコその並日週化したものを、どういう様な形で、布教す ると申しますか、封外的に慮して行く場合、現生正定家 という問題が取り上げられたのでありますが、現生正定 楽という内容を別の教義の而に於いてどうもって行くか ということを、きかせて頂きたいのですが υ 大原唯今芳村さんの御霊言でございますが、現生正定 東のお話しは、初めから出ているのでありまして、普賢 さんが最初に解説せられましたが、還相掛化のお話しが 未だ出ておりませんのですが、この問題に深い闘速があ ると思うのであります。如何でございましょうかむもう 飴り時間もありませんので、大谷大阜の稲葉さん。結論 的なお話しを闘えないでしょうか 稲 葉 私は護百しない積りでおりますから、どうぞ御勘 務願いたいのですが。 葉 真 宗 は 、 部 土 教 と 一 一 ゴ 口 わ れ て い る の で す が 、 そ い う 七 四 うところから何段もう一週考えてみる事をせられないの か と 思 い ま す ︿ 現 貫 を 厭 − 勺 し 〆 一 か 、 否 定 す る と か し ﹂ い 4 こ とがなくて、間士教が成立するのか ﹁ 世 を い と う L と は、親鷺聖人はよく云われますが、世とは一枇合同という事 を云われるのであろうと思います Q 軍 な る 一 世 曾 と は 遭 う かもしれませんが c そういう否定の上に成り立っている わけなのです υ その﹁世をいとう﹂とは逆に叉、親鷺聖 人は﹁世をいとうしるし﹂という事を求められていると 思うのですが、回目士教は、そういう性格を持っているの ですから、何故そういうところが問題にならないのでし ょ う か 大 原 そういうことは問題にならない?︶とはないので、 持さん、特に汗賢先生の如き、あなたに宝幅の賛意を表 その注の慮で御満足を頂きた いと思うのです。唯今迄の御護づけは、京乗に闘すげの御研 J C 3 コ ベ し J っ と ト フ ミ コ 、

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て才 F オ 戸 ︿

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V 3 7 究の万々、俳教史の研究の方々の御理一バが主としてあっ たのでありますが、今度は祉曾阜の而を研究していられ る 方 の 御 費 一 μ を闘いたいのでありますが、丁度大友先生 がいらっしゃいますから、御意見をお聞かせ下さいませ

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ん か 大 友 ︵ 龍 大 ︶ 私はさっきから今まで拝聴していまして 外遁の悲哀というものを っく介\感じていたのであり ま す が 、 と申しますのは、買は私には理解出来ない事が 津山ありまして、一位曾性という意味を、どういろ意味で おつけになっているのか、或は吐舎の現貫的な而を規定 するという両にも使われておりますし、或は革新的な面 が社合性といわれたり、色々な使い方をされているので ありますが、成程盟論的には、宗教は、 カントの考えで は、個人と一脚との闘係だから吐合同性はない。一世曾性は人ない様な試がいたします。買際今日は出黙をする固い決 概 聞と人間との闘係である。我々の現買の生活は吐舎を離 れてはない。世舎牲を否定したのか、現買の吐曾の或る 面を否定したのか買は分らんのでありますが、一世曾性と は人間と人間との関係、印ち相封性で、この相封牲を否 定して組封の世界にあり、自然法爾という言葉もで L お りましたが、そ旨ユ五った意味での吐曾性の否定であるな ら ば これは信仰の絡極に於いて語るべきものであっ て、宗教の現賓の在り方は、世舎を離れてはない。すベ ての文化は、一位曾を離れてはない。すべての佃は、社曾 真宗教義の社会性 れをはなれでは存庄しない だ か ら 先 程 詳 賢 先 生 が 一 百 わ れ主した様に、買宗教義は、断じて枇命日牲をもっている ということで話しを進めて来たと思うのであります υ 私 は、買はそういうテ

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マ を み ま し て 、 祉 命 日 性 と い う こ と は、現買の問題、例えば経済の同組であるとか、努働問題 で あ る と か 、 そ う い う 問 題 を 、 買 山 一 一 小 教 義 が ど う 取 り 扱 う の か。そういう問題は、全然取、っ扱う能力はないのか、そ ういうところが問題の中心だと山い支したのに、そうい つ問題は一向出ない 我々が鳴をいれる場合では今日は 心を持っていたのであります 言葉の使い方が が、私達がそれを使っているのと大分遭うので、ここで 謹言する資格はない様に思っているのであります。 大原 いや、大いにございますので、どう、ぞ御遠慮なく おっしゃって頂きたいのですが 大友真宗の教義の事は、分らないのでありますが、﹁願 作悌心は即ち是度衆生心なり﹂という様な貼だけから申 しましでも、社合同的責践吐曾牲が伴って来なくてはなら な い し そ う す る と 、 現賓の吐曾牲ということになれ 二 七 五

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楽家教畿の社会役 ば、嘗然努縁関題や経横問胤、所課慶、 マ の 一 位 曾 間 題がで L くるのでありますが、翼宗教義の註命日性という こ と は 、 異 宗 教 義 が 現 賓 の 社 命 同 問 問 題 を 解 決 す る こ と が 出 来るか出来ないかという践にあるが、そういうことは問 で な し に つ く こ と は ないと患うのであります。 一 夜 曾 撃 者 の 大 友 先 生 の 御 意 見 な の で ふ り ま す が 、 大原 結局開問題が最初にかえった様な感じが致します G 知 山 何 で ございまし 。今大友先生か

2 7 3 ﹀ し し 品 胆 会 h J 一 4 H 十 向 い ま し た ら テーマになりまし 約 ご ざ い r ま し た い う も の が、どうえも大友さんのおっしゃいました誌な現賓の閥単 一 韓 そ の 基 く と暫決いたします場合、甚だ非力である。 慮 は 、 問 問 露 に あ る の か 。 教 J 一 説 の 上 に そ う い う 張 本 の 黙 が ず ヲ タ 予 ヘ J 九 J C J O F G 4 2 7 は先程からお話し 本 来 一 位 合 同 っている人ぐるしく踊絞ってくるその時代々々の り、新 っ て い v ジ ヤ も 、 眠 庁 、 一 一 七 六 の上にあるのか。親驚聖人御自身は ん の お 話 叫 し の 通 り 、 現 賓 の 問 問 題 を 否 定 し て 註 曾 的 な 酉 、 註 舎 的 問 貰 践 という事に一生を捧げられたのでありますが、段々一後に なると、現繋というものを否定する代りに、現糞に組合 し 、 ミ4

?幡町 管 、. い う 旬 、 の つろなものに な っ て オし な ペ コ こういう様な鵠越を出しまし た理由があるわけであります心それで震後に て い る G そ う い カ〉 翻 意 見 が ご ざ い ま す れ ば 、 お っ し ゃ っ て 市 掛 け ま す な ら ば 、 大 捷 幸 せ だ と 一 お い ま す 大 友 の 臨 貫 と い w勺 ノ の 'fp し た が れ い て 殿 か て いる、信賓の なっている。或時代の の 設 さ 方、その時代は、その数義の形式が紹露であったのでし ょ う が 、 一 位 舎 の 事 演 は ど ん ど ん 壁 一 っ て 来 て い る 。 国 民 宗 教 読 の 壊 十 み が 形 式 に と ら わ れ た 俗 資 の 宗 教 に な っ て 、

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部くさがって離れて行くむ先程大原先生の れ た 人 の 上 、 げ 交 し た ο L

大 原 人 の い う 〆 事 そういう慮か いうものが、もっと深く、もつ に 問 題 に 了 車 時 間 ⋮ 杯 真 宗 教 義 の 一 審 されなけ

ν になりましたので、色々 い ま す 一 事 器 、 こ れ の で あ 、 } れ技で関じさし 多 数 鱗 来 像 悶 . 敗 、 き ま し して有撃うござい設 c v ﹂ さ し 皆 棒 の の に 不 ございまして、充分皆様の御間特に なかった かと患うので からず御諒承騒いと 一 戸 Y

う 郵 謹 い 繍 雪 龍 の吐曾性﹂というテーママ 々 皆 さ ん の締高見を拝受す し るのであり ︺の問題辻、その殺が深いの て行けば幾らでも譲 す し の視野というもの カ3 り ま し か ら 住 し、 真宗教畿の社会性 、 日 戸 田 知 と い う も の が 儲 の 九 日 ﹀ 、 日 付 完 ・

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ふ U 来 と の か、倒というものが殺曾的損の い て 、 絞 と 掻 と の 交 抑 人 ” す る い 蕗 に 殊に私自身の っているということに 一 紅 の で あ うけとり方か 、かつて金子大祭先生から に寝纏的 い て 行 く e d y y ご つ い 三 掃 な 持 施 って行くかとい 大 ぎ な 問 問 題 だ と い っているねであります。そこ だと思い 人 の 問 問 題 、 た と か と い う こ と も あ り ま し ょ

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ふ ズ 難 く こ L か ら 都 鶏 申 し 上 げ な す 。 七 t二

参照

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