――目次――
論文
1,
神体験をめぐる一考察:ルターを媒介として見たタウラーとシュライエルマッハーの場合, 倉松功,
Gotteserlebnis bei Taular, Luther und Schleiermacher, Isao KURAMATSU, pp.1-21.
2,
秘密念仏集団、新後生の一研究, 古賀和則, A Study of Shingosho, A Secret Nembutsu Society,
Kazunori KOGA, pp.23-50.
シンポジウム
3,
宗教概念の再考, 藤田富雄/ヤン・スィンゲドー/薗田稔/土屋博/長谷正當/堀越知巳, Tomio
FUJITA/Yan SWYGEDOUW/Minoru SONODA/Hiroshi TSUCHIYA/Shoto HASE/Tomomi HORIKOSHI,
pp.51-81.
展望
4,
第14回宗教社会学国際会議(C.I.S.R.)に参加して, 藤井正雄, Masao FUJII, pp.82-90.
研究がなされていない。
本研究の課題は、キリスト教神秘主義の特質の
一
端を明らかにすると共に・キリスト教信仰にお
げる神体験の特徴
を
論じることにある。そのために研究の中心を
タウラーにおきながら。現代における体験主義の
一つの根源となって
察
いるシュライエルマッハーの意識神学
6
。 ヨ
仁め
︵ののぎの︵
ず eo
∼ 0
魑の︶をも取りあげてみたいので
杖
る
宗教の客観的超越性11換言すれば、信仰の
対象である者が他者的
客
%
額
的
超越存在であること、そしてそれが、
最
も
内在化した
場
ムロ・その客観性や超越性をどの
よさにどの程度保持して
ねい
るか。神と人間との隔たりはどうなって
ぃ
るか
・などを些少とも明かにしてみたい、と思
っている。これらの課題
を
取りあげて分析し、論
1 (451) ドイツ神秘主義の代表者とされるマイスター、 ェ ッ クハルトについては・わが国においても、 石 原謙博士以来数多
︵ @@ ︶くの研究がなされている。しかし・同じドイツ
神
秘主義でも
J. タウラーのそれについては・ わ が国においては余り
功
申
子体
l
援
馬食
をめ|を媒分、
と く。
る
して考
タウ了察
と ,ンラ イ
エ
マ
の
どと、極めて多様に表現してしる
@
-0 。 力 l @ ︶ ,
われわれは
その表現を魂の深
渕
とか単に深
渕
という言葉で
代表しておきたい。
それでは魂の深
渕
とは何であるか、特に
、
神の誕
虫
がなされる探測とは何であるか。それは・
生
渕
ではない。聖霊によって
設
げられた探測であり
、そこに聖霊が住み
宮
0 コロコのの︶
働
らく
?
の﹁的
︶場所である。人間
の
探測
と
神の深
渕
とが一つになる所は神的なもの
なく、聖霊の賜物
圧お G0
の亡臣
サ ③というべ
ロの
口お寸の臣
き
ものである。というのは 監ヨぎヰま
︶によって
、聖霊の賜物の中で最高の賜物というべき神を理解導かれる所が魂の深
渕
であるからである。それ故、行
-l
mo
のま
キ
臼の
p ヴ雙
目よ︶とも呼ばれて、神の意志
6
。 ま毬ョぎ
のしと同じ意味に解されているので
ある。
そのような探測に伺ってどのようにして聖霊に
導
かれるのであろうか。タウラーに
ょ
れば聖霊の
与える
セ
つの賜物
p こ
よって導かれる。︵
1 5 ︶
第一の賜物は・神への恐れ︵
no
の tt
の 日 ∼ c
二の
vo
∼ オ ︵乙で・それが確実な信頼しう
る
始めである。次に
聖霊の第二の賜物によって・人は優しい柔和
貫
のぉ口
︵︵ 日
佳の︵
仮
e
ョぎ
簿の
@ ︵︶を与えられ、それに
よって内的にも外的
にも神と調和し、無意味なこと。頑固さ
、昔
々
し
いことを取り去り、友人に対して言葉と業とに
おいて優しくなる。
-3 ︶一夕ウラ
|
a神の誕生
繍 のぎ ユ の。 宙毬 。ぬ
0 り臣ざ肝 0鱒
0す口Ⅰ
じ (452)第三の賜物は、人間を一層高める技術東白
コの
︵︶で
ある。それは聖霊の勧めと警告をどのようにし
て
内的に知るかを
教
えるものであり、ヨハネ福音書一四章三八節が記
してしることと同じである
,
。
Q-6-l
第四の賜物は
、神
的
強さ
Go
のま
苦斗の
od
の
HnF
⑨という高貴な賜物で・人間はそれによっ
て
大きな度量を持ち、あらゆる人間のわざに
耐,
㌔更に死に価する
罪
︵ か
0
ヰ のか
口
&0
︶を犯さなくなる。またこの賜物と共
に
大いなる
愛
、光、神の味合い・慰め⑥︵
0
のののま
ココ
の亡臣
宙甘
のず
ヰ屈
目色
の日
お日田
帝
。きをもたらす、それ故、聖霊
は慰
め
主と呼ばれるのである。第五の賜物は、助言︵
色
er ra
︵︶である。
お
れわれが神によって探測に導かれても、この賜物
がなければ神について、恩寵についての知識は
全く隠されていて、
われわれから取り去られたままである。この賜物
によってわれわれは神が欲するままに振舞い。
この賜物によって
わ
れわれは自己放棄⑧のすののの
ロず
のざと死ぬことを
学
ぶのである。そこで真の純正な自己放棄に
ょっ
て
自己自身のものが
奪われ
e
縛
。
串追
Ⅰ神の意志の深
渕
に沈められる
解
と神を味合
う
知恵
父宵の
︵の三三ひのの
仁臣
の
日
Po
客臣の 毛ぃ
紐の∼︵︶である
これらの賜物が人々を探測に導く。その探測
において人間の霊は
自己喪失し官学
日
曲ヴ
ゆ巨コ
隼のお門田Ⅱの︵立臼
監
︵㏄の
室
Ⅰ自己自身については何も知らない︵
銭
せ
。コ
ミ 目のの出すのⅡⅠ小ヰ
当毛
の
∼のⅡそこで神は、人間の霊に対して、
押
そ
のものの本性であるものを与える。そして神は
その人間の霊におい
察て
。かれのすべてのわざ、告白・
愛
、讃美を
行
なうのである。しかしこの神の行な
うわざ
は
・神の存在そのものと
同
パ様
、被造物一般には・また人間には語り難
い
し
、理解し難い
字
臼田
幅
のの
で
∼の
c ぎ口
⋮⋮
口
o
目
P uc
すせ
の
r
の
冨づり
。
* にギ
に聖子一
正
%
を目分の主として迎え入れ。それに従
う
者に
対して聖霊が理解へと導くのである。
めこのような聖霊の働きに加えて、注目すべ
ての
タウラーの理解であ
緩る
。タウラーに
ょ
れば人間の雙
箆
色あるい
れは三位一体の各位格に
像
どられているが、
港ず仁
血圧
お
の︵日の日。二のⅠ
せ簗
海の
コ
︵
ニ
携の。
宇鯨
の
旧
ぎのの三つである。この三つ
の
能力によって魂は
(453)
以上、われわれは・タウラーにおける神の誕生が
何であるかを理解するために、神によって設
けられた誕生の場所
としての探測とそこに伺って魂を導く聖霊につい
て語った。次に・タウラーが語る神の誕生その
ものについて述べて
みたい。 われわれにおける神の誕生は。既述のように、 神の子キリストの永遠の誕生に対応して考察され
。神を受容する人
間の魂の三つの能力記憶・理解
力 ・自由意 士するものとして捉え
-4-2 -3-2
られている。その
ょうな能力を持っ魂は永遠に所
属するものといわれている。しかし同時に
タウ ラーは・神が魂において生れる時には、魂は自らを出て
、自らを
越, え 定日 偉 N ㏄曲コ 幅 。︶ 0 色 臣臣 すのⅡ内申 コ ㏄偉のののⅠ ト 日ののの子の∼Ⅱ自己本来の意志
と欲望と活動
盆は目 sc ア p よ 毛の臣の巳日田すの的 簗の畠
日田 毛か ︵ QF の口の︶を悉く否定しなければならな い。そして神への
純
-5-2 枠な思念
6ぎ旺
0 の︶ 絹 ︵の∼ ヨ のぎ目の。二のの︶以外はあ る べ きでない、というのである。神への純粋な
思念とは、そこで
神
のみがそのみ業をなすための場所であり、われわ
れ自らが何ものかであろうとした・何物かを
得
ようとする意志のな
い状態である。そこではわれわれはもはや神の方
に自らを差し出すといった積極的な活動は中断
し・神の活動を受動
い。ただ一つの神的
光 、神の恩寵の輝き︵のぎ 住捨 コヰぃ沖 00 目 ざず のⅡ内ら 0 笘の コ 。の ぎ ㏄ 0 の 痒ざず ︶ ずア このみ が・それを示し
96 ︵ つろ 0 口 - のである。神を理解し、受け入れる。すな
ね
ち、魂は・神で
あること・神がもっているもの・神が与えるも
のは何ごとも
受
げと
ることができる。その神が与えるものを媒介にす
れば、永遠を見ることもできる。しかし、自然
の
魂は・神が存在す
-0-2
ることは知っていても、神が誰れであり、何処に
い
るかは知らない。神がいる場所をわれわれに
一 小
すことのできるの
(45 の 4神体験をめぐる 一考察 谷 は て タ ョ . な 保 神 ゥ 0 い 持 の
ゆ か
さ リ P こ
て
合
項の
盲
-, ・ 一 の よン
@
し合
の貫
そ
@ で, しb
神とのムロ
一
︵ⅡのⅡ心さ
屈
コ的の
-0倖のⅡ
臼
コ目コ㏄の口耳の
0
︵︵③
︶
的に受げいれる姿勢にあるのである
盆 ぎのす 曲 ∼︵の コ三目許Ⅰ神の活動を受け入れる姿勢というの
]@ ま 空になりから︵ ぎ凹 ︶ -6-2 無 になり︵︵のの rⅠ受け入れるよう︵
巨
︵⑧になる, ﹂とである。さらに、この 空 ・無
、受容は、どの
ような神の積極的な
活動に対応するか。その点が特に重要である。
それは神の言葉の誕生のための
空 、無
、受容なの である。従って 、そ -7-2 のような 空 ・無
・受容は 、神が語るための沈黙な
のである︵ 毛 ご目口の 笘 R 才の コ ・の 0 日 ロ のの﹁の 毛 あのこ。それゆえ、その沈黙
︵ つ 8 @ ︶ は、神の省目薬
の︶誕生のため最高の沈黙
a毬ダ
0 のずの︵の当
あのこと呼ばれるのである。そして、神の誕生そのものに
ついて、タウラーが語る究極的な言葉は
、 次のようなものである。﹁全能の語りかげが王の椅子
から来る。この舌口業 の 語りかげは。 み父の心に由来する永遠の言葉で
ある﹂ a 。 オ P 日毎ぎの P ∼日蓮︵ ぁ 0 q色
0 40 口宙 の 日 オひコ @ ㏄ 由 。 すめコ ㏄︵ 目 0 す ・ 由 由の名曲 ぃ宙か z の も ︶的の も 。Ⅱ ヰ Ⅱ。臣も目口 セ 0 円円の ニ 5 ア。 甲田 の Ⅱ円 い の日 -乙右の引用の中の﹁永遠の言葉﹂は・
り ハコ ツ - ︶ っ 一 言うまでもなくキ リ -0-3ストのことである。因みに。タウラーにおいても
・神の言葉は一般にキリストを意味しているが
・引用におけるよ
う ︵ 3 l ︶な神の永遠の言葉という表現がしばしば用いられ
ている。この方向を更に進めたものとして、説教二八があ
る
。﹁照明をうげた雲谷屯せ
目匡の
︵︵
eg
の∼の
か ︶
ほ
、
神との相違宮コ
るとか異なっているということはなくなり、神と
一つである︵
ぎの
。 口
es
ま
守山じということに
沈潜
し
、一切の相違
はなくなる﹂。︵
8
3
︶
これは・神との合一の境地を示し
た
典型的な文章の一例である。しかし、この神
との神秘的合一を語
った
説教の前提に注目する時・われわれは再び
タ
ウ
ラーにおける神の客観的超越性や神学的にい、
え
。はキリスト中心的
ガのぃ
︵︶は、あらゆる言葉、表現方法の及ばないも
な
三位一体読ともい
う
べきものに出合うのである
のである。天使や人間の理解できることではな
。タウラーはこの説教の冒頭において、﹁神の二
い
。もしそれに
つい
一位一体性
宵宇
P ミ
・
示
とな
し な なて
るけ
い で れ るあ ば
とろ な
い う 々 え 」 な よ と い ぅ交い 。 っ そ て ぅ い
す
るれ
こ 十ま と愛
です
あ
る る ⑧神
。 @が
の
接
一 ようなa
忌日) 連の((のごが
: あ
なたの 存在 ぬ本質
細的な も(
毛0
% て, 臼 あ Ⅱ る 窃のの
」と臣庄
@
な との
廿 羊 @ 王立 ス
@ 丸ヤと
、
探測においてすべての被造物を支配す
る
神に向けよ。そして、その探測において、お
ュ 利の最高のまた最大
のあらゆる力を真に放棄し官ヨ。お
の の∼
0 ののの
口訂
⑤・あらゆる感覚理解をこえ・探測において
神
と
内的に真に一致し
る 際に用いる言葉が せの
re ∼ コ
目口めの目白ざ・
@ 1ネ
殆ど使用されている。放棄もしくは断念行色
0 のの
e 口 ずの∼︵︶については・﹁お前が自己自身から出て行
げば、直ちに、愛と
れられ、神の驚くべき神性によって沈められ:⑧
しての神が与えられが。⋮⋮自己を放棄するや
-
香
(466) 6神体験をめぐる 一考察
と
シ
エ
ⅠⅠ
-
し念
[@ 40 は の そて 対
、 依 し的
)
7 (4571
キリストの証しによる乞目目汁
コ ㏄のき 幅 目口すの世コの
︵中の︵ 日こ以外にそこに近づくことはで
き
ない﹂と述べている
- Ⅰ︶つつ ハ のである。て
語るとすれば、そのすべては・真理を含まず、
真理よりもむしろ虚偽が多い、
と
ディオニシ
ヴ
スが
語った通りであ
る
。これは、神の本性をもったキリスト以外
護
れ
も
知らず見なかったものである。それゆえ、
わ
れわれは・
ィヱス,
この世意識や神からの離反の意識の除去が、神意
識の伝達の重要な前提となる。
の神意識が自由に展開しなければならないのであ
る
。シュライエルマッハーに
よ
ほ
ついての全体的印象
臼
0
︵ 曲
∼のぎ
串珪
5
の作用
釜ぎ毛キ目
乙である。しかし、
それらを除去して、娼罪者
キリストると、それをなすものが、キリスト
その作用のためには、自己活動とし
れるのであろうか。それが伝達されるためには・
われわれの中にあるこの世と共に生きていると
いう自意識は取り去
︵ 4 7 ︶られねばならない。また罪とはわれわれの意識が
神意識へとむかわない時に働いている力である
。そこでこのような
を定立しなかったことやある伏籠にされたことを
、自分自身知っているのである。その意味で、受動性と自己活動性
とが一つになっている。シュライエルマッハーに
よれば・そういう自己活動性としての自由の感
情がなければ、また
絶対依存の感情も存在しないのであった。シュライエルマッハーにおける神体験は、まさに
この絶対依存の感情の自意識の交換活動として
説かれている。 即 ち・シュライニルマッハーにおける絶対依存の感
情は・タウラーにおける生の三段階の最上に位
置する魂の深
渕
に相 当するのである。そこで次に。シュライ
ヱ ルマッ ハーにおける絶対依存の感情と神体験について
瞥見してみたい。 シ ハぬ ︶ ュライエルマッハーによれば、キリストは・意識
という形で働きかけ
ろ神の言葉である。それゆ
, ぇ・われわれにお
け る神の誕生は・このキリストの有する神の自立
思識の中に信仰者が受け入れられるということであ
る 。すなわち・﹁ 娼 罪者キリストの力強い神意識が、人間の中に新
しい生の原理として移植される
6 ぎ㏄の bh ∼ P コミ ヨ の ﹁由のし﹂という神秘 ︵ -4 りリ 廿的な体験である。またそれは、﹁自意識の中で自
己の存在と神の無限の存在とが一つである︵の
田 esぉ己
時に、直接
︵ -4 4 サ 廿自ら知る所の絶対依存の感情﹂ともいわれている
。要するに・キリストの神意識とわれわれの
自意識とが一つになる
-5- 4ことである。しかし、現実のわれわれは、この神
と絶対に分離されないように
一 っとされているという絶対依存の感
-6-4情
が妨げられているのである。それではキリスト
の神意識は、この妨害を排除してどのようにし
てわれわれに伝達さ
(458 Ⅰ- 4 只 モ 8
︶
ての生きた受動性白日㌔
ぎ告ひず
Fm
ぃ ︵︶という
場
あざ
じが必要とされているのである。以上。
要
するにキリストの神
の
意識︵の作用︶とわれわれの自己活動としての
受動性との共働が、シュライ
ヱ
ルマッハーの神
体験ということがで
きるであろう。
このシュライニルマッハーの神体験には、タウ
一 フ
ーにおいて考察したものと類似した超越的なも
のの内在化が見ら
れるのである。特にそれは、霊の深
渕が神
︵聖宝
巴
によって備えられるものでありながら・同時
に人間の魂の深
渕で
あり・しかも、そこで﹁神と人間とは真に内的
に一つとなる﹂・
と
タウラーがいった点に関連し
ている。それは・
シ
ュ
ライ
ヱ
ルマッハーも・絶対依存の感情は、キリ
ストの神の自意識の中にわれわれが入れられる
場所であるというか
らである。その場所で、シュライ
ヱ
ルマッハーは
自己活動の自由な感情を主張しているのである
一方タウラーは神
と
一つである意識を内的
官
お田
蓬
。 田ぎづ
の︶
ぃ c
しと呼んでいるが・それは、思い貧ち
い 口目
お
⑨
、土星
欲宇
e ゆの
Ⅱ亡臣
幅の
︶
という意味を持っている。そしてそれは・シュ
- ブ
イ
エ
ルマッハーにおける意識の一部である。
な
ぜならシュライ
-o-5
エ
マッハーのい
う
意識は自然界をも含めた世界につ
いての一切の感情を包含した全体的なものであ
っ
たからで為る。
そ
の
意識︵感情︶の最高の段階が・絶対依存の感情
なのであった。この絶対依存の感情において
キ
リストの神の自意識
察の中にわれわれが入れられるとい鐸のである一であるという意識を持つのであった。
。そしてわれわれはそこで自己活動という自由
な
感情を持ち。神と一つ
考
超越者の内在化の例としての神体験が・キリス
ト教
思想史の中で、どの
神
ぅ
。それと共に・シュラ
イニ
ルマッハーにおいて
も
タウラーと同様超越者の隔絶性、絶対他者性
が
稀薄であり、神と
(459)まずはじめにわれわれは、ルターにおける神体験
が最も内在化した
場 ムロの例を取りあげてみたいルターが聖餐について論じたものである。周知の
よ うに・ルターの聖餐論は・パン
とぶ ど う 酒に おいてキリ 体的に現
臨 するというものであった。 ﹁われわれとギリストとの合一︵ 00 口ぎ口 c ︵こがあ
る。それは、ヨハネが、最初に
、私は父にお
り・父は
︵ヨハネ一四・一 0︶として、次に・あなたがた
は私におり・私はあなたがたにいる︵ヨハネ
一 口 ・一一 0 ︶ 事に二つを結びつげているとおりである。⋮⋮
われわれは信仰によって強奪されて
G 浅ヰ在昌∼
斡 忌日 偉こ 。 と 一つの身体とされるのである︵の 日二日日目
P caroⅡそれは・キリストがヨハネ一七・二一で
、 ﹁みんな つとなるためである。父ょ・あなたが私におり・私があなたにい
ろように、かれら自身われわれ
にあって 一ためです
Lと述べている通りである。その
ょぅ に ︵信仰によって︶われわれはキリスト自身へと 昇り、そし と聖霊とによって捉えられる︵
3% ヨ 目口の∼ セ武ぎ目
et 名円 r プ 口目 spne 苫日 ︶。われわれは 居に而 ℡ に よってキリ執し。かれと一つ身体になり、かれ自身われわれ
と一つ身体になって存在するのである。キリス
トは頭 ・ わ その肢体である。他方、キリストはみ舌口業 とサク ラメントとによってわれわれの所に下降する。そしてかれ
身についての知識によってわれわれを教え訓練す
る。それ故、第一の合一は神性における父と子
0 合一で、 -l- 5れは、キリストにおける神性と人性との合一、第
三のそれは、教会とキリストとのムロ一である﹂。 第 は れ ス て つ の キ と 私 ス文
二 か わ ト み と 者 り し に@ 生
草
め れ れ に 言 な が ス て い が は そ 自 は 固 葉 る 一 ト 見 る身
Ⅰ し タ
を
媒
介
とす
る 評 -@-価
(461)人間との隔りが失われていることも明らかになる
であろう。以上の引用においてルターは。神とのムロ
一
とは、
神性と人性との両性を有するキリストとのムロ
一
であることを明確
に
述べている。神体験という場合の神はキリスト
であるということは、タウラー
や
シュライ
ヱル
マツ
ーも同様であ
-2-5
った
。特に、タウラーにおいて、キリストが神の
言葉とされ・そのキリストが礼拝によって伝達
されるという点は・
キリスト教伝統の中心において神体験が語られて
いるようにさえ思われる。従って。これら三人
においては、仲保者
キリストを媒介にしない、直接無媒介の神体験は
語られていないのである。しかし・その仲保者
キリストといった
場
合
、そのキリストの歴史性がどの程度、どのよう
に
問題になっているかということになると一様
でない。キリストの
歴史性という点ではタウラーとルターは、福音書
のイヱス
の生涯のみならず。その再臨まで・
聖
書の証言を受け入れ
ているということ
カ
るであろう。
@
て
。。っ
き
-3-5
この二人
に
対して・シュライエルマッハーの絶対依存の
感情に働きかけ
ろ
キリ
ストは、﹁幽霊﹂
6
のの口の口の︵︶だと評されている。
-4-5
象
という言葉によっ
て解釈され。われわれの自意識への作用、衝動
︵︵
ョせ三
じが主要な問題とされているからである
。しかしなお・その
シュライエルマッハーでさえも、ナザレのイェス
を
問題にしていることを看過してはならない。
というのはシュライ
エ
ルマッハ
|
自身は・ナザレのイェスの働きに。
他
ならずキリスト教そのものの特殊性、他宗教
との相違を認めよう
-6-5
察
としたのであったからである。
ゼ
次に前記ルターの引用に二度使用されて
ぃ
るヨ
旦日日︵
ra
宮
︵偉もという言葉である。
-7-5 @
ヒ
かり
壬 一口薬
は、山
ルターにお
梓
りる
棚
タウラーの探測において神と合一する際、自
て宗縛
。 仁サ痒ョ屈こ
・
神
の
探測に沈潜していく父のⅠの
ゃ口ひア
の ヱ
﹂という表現
に
相当する。要するに、タウラーの自己放棄の
受動的側面に似てい
11 (461)しを得て、聖霊を受けるために必要なのは決っ
し
て
信仰のみではなかったからである。
タゥラ|
にょ
れば、聖霊を受
げるための最も手近な最も真実な準備は谷
ず巴
す
Ⅰ コ
の す
の い
のビ臣
宙宙
3 %
。Ⅱのの︵の
す
のⅠの
ざ
目口内
の
z 白山ロⅡ
e
0 コづ
市のコ的立
0 ア
0%
由
のの
ヨぎコ
の O
︵ pn
ず
0 コず
の ぃ
︵存目めの∼の︵ののⅡ立ち帰ること
谷
定日の口の
c 才
ゑ蓮申すの
鯨お
Ⅰ神と一致しない
ものから離れること
︵ P
す隅
sc
ゴの
式目
訂ぎ
・忍耐
S山守
臼
︵︶、内面への
沈潜︵
ぎ目日の
∼ 叶
Ⅰ孤独︵のぎ守の∼︵︶であり、
-4-6
知恵
・
義
、強さ。中庸
タウラーの義認論は、オッカム主義的最善をなす
い
う
のは、罪の赦
三人における探測、信仰、意識
は、人間の側にお
げる神体験の場所ということができるかも知れ
ない。しかし、それ㏄
は 空間的場所ではなく・ 神 なるキリストと人間・信仰者との関係を表現している重層概念特に
ル タ ー と シュライエル -2- 6マッハーにおいては、関係概念と見
倣 しうる。 そ の関係において、いわば主観と客観がどのよ
う な関係になっている
か 。検討しなければならない。既述のように、 タウラーは・神体験における
神 ・キリストと自己との関係において
神
との合一がなされている場合には。自己は喪失さ
れて Ⅰいる︵の すずせ のⅡ田かⅡのしとⅡ リい ・ル片 ク l, はキ リストと聖霊によっ てわれわれの自己が強奪される︵ qp 色目口∼︶ といい・シュライエルマッハーは、受動性と自己活動
性の同時存在、作用
と反作用の関係と見たのである。この表現自体か
らすると。シュライエルマッハーの意識内容の
分析が明
蜥 である。 タウラーの体験は。いわゆる神秘主義的である。しかし、それ以外に、超越者の客観的超越性が
、この三人の中
誰れにもっとも承認され、受容されているか・という
ことになると・それについて判断を下すことは
容易ではない。それ
を明らかにするためには視点を変えて、三者にお
げる救
いの主観的意味、ないし義認論の考察を
加味する必要があ
る 。ト
の神意識を受け入れ易くなる
デ
のめの 肝おオ の ぃ ︵︶ずれにしてもこれら
12-0- 6
るのである。シュライエルマッハーの絶対依存の
感情についていえば。妨害されている
罪
意識か
ス
パ次に、シュライニルマッハーの義認論であ
る
。かれに
ょ
れば・義認は賄罪の最終の過程で
ある。義認は神が法廷
に
%
お
げるよ
う
に判決することであり、信仰は義
と宜喜ロ
されるための手段である。この点では
全
く
ルターに似ている。
し
W
俺い 糊
かし。その義認はわれわれの自意識の中で
生活︵
da
の
圧 チのⅠのⅠ
キ目
︶が実現する。
の 受動性釜日展
ぎ竿
c ァ 寸の︵︵︶そのもるのだ﹂と
シュライエルマッハーは舌口
うか
りである。
-8-6
13 (463)る
。その相違が。オッカム主義とタウラーの神
秘
主義との相違といえる
︵
毛
p い
ずのり
叶 。鱒のⅡの。
ず曲ダ
臼ヰ口目
伍のヰ
のⅡ。
ダ
。
/
コネ∼巨ののの
目ダ
の
∼︵︶といった倫理的な
徳
a
宕の∼︵︵の∼
@
葵臼
︵
けゆ
の
乱
③で、これらの
徳の他、謙遜、柔和、中道。
憐み
。静穏といった
自然的︵生の︶の
徳
a
ざ
コル基二
ざア
の
コ
︵目的
0 コ
宙
e
これらは。オッカム主義において、罪の赦しを
得
て
聖霊を受けるために必要なのは信仰のみでな
く
、ベストを
尽
すこ
と
︵片角
c
の︵の
毛
。 由ぎお
es
じで占めるといわれてい
る
所謂
合宣的
恩寵に対するムロ
宣的
功績︵
m
の︵ま住
の
co
目的Ⅱ
由コ
0
︶の
老
@,
え
と
同じである。さらに・タウラーによれば、
そ
れるの行為はすでに、﹁神において。神を通
うし
てなされたもので・
聖霊は、人間がそれらの行為をなしたことが解る
光
をさらに輝かし。
そこに超自然的
光
、すなわち・信仰、希望、神的
愛と
聖霊の恵みとを注入する⑧
捷お
︵︶。そ
うす
ると、人は・三的
人
間
・高貴な人間宮
ぎ左
小乱
ぬ
房杜
壮の
∼日の口の
c ア
︶となり、探測に来り、
る
。これを・オッカム主義でいうと、ベストを
尽
すと、神はよくやったと罪の赦しを七
%@
し。
聖
霊を注入する、この
圧入された聖霊の恵みは習性となり、その人間は
義
を行
う
、ということになる。聖霊が注入され
た
以後・オッカム
主
義
では、神の求める義に等しい等価的
義
を行な
う
ことに中心︵いわゆる義化の第二段階︶が移る
が
、タウラーにおい
の
生を営むためには、われわれの信仰でほなくて
、むしろわれわれの生きた受容性を持って行かれ
ばならない 貧目 のお - -7 。。 ㌃すの口ロあの 由 m ロヰ ゅ口住ざコカ鑑 ︵︶と主張しているのである。このシュライエルマッハーの考えの中に
も ルターにおけるよ に存在しなければならない、とかれはい
う のであ る。しかし。神の恩寵が活動し・われわれが
救われキリストと類似
シュライ
ヱ
ルマッハーの義認論は、既述のように
・法廷的な理解という点ではルターの義認論の
系譜に列なるとい
-l 7l
︶
ってよいであろう。また信仰は義認の手段であり
。道具
宋曲屈きヨ
の 時
口目の民主︶の
0
繍
︵
0
お目。
臣訂
牡守
。こであり、
常
これら二人の義認論に対して・ルターのそれは
全 く異なる響きを持っている。ルターは、その
若 ぎ頃 ・﹁神の義は キリストへの信仰である﹂とか、﹁キリストの 義がわれわれに帰せられ、われわれの罪がキリスト
によって負われる﹂ ︵ ム g Ⅰ u -とか語った。その晩年、﹁ローマ人への手紙三章
二八節に関する第三回目の討論﹂二五三六年︶
では次のように述べている。﹁キリストを聞くことによってのみ聖霊
を 通して注がれる信仰がキリストを理解する。 わわれわれと異なるキリストを。あるいはキリスト
の義を。われわれの業は現解することができた
ストを行うとかキリストの義を行うとか言うこと
はできない。それ故、信仰だけが、われわれの
業 なしに 義 とするの ︵ ︶Ⅰ 几り lである﹂と。このルターの言葉の中には・オッカ
ム主義の﹁ベストを尽すとよしとされ、 罪 赦されて聖霊が与えられ
る﹂ということはない。すな
ね ち、われわれが・キリストの業に準ずる業を行うということはな
い 0 しかも・ルターにおいては。既述のように、聖霊をづける信仰
そ のものも聖霊の働きなのである。それゆえ、 ル タ ーにおいては、義
認に関しては全く神︵キリスト・聖霊︶の独占的
行為
吝話
ぎま
斉総ミオふ ︵の ot ︵のの︶が主張されて いるといってよいで あろう。それに対して、タウラーにおいては、 義認の第一段階そのものが前述のように自然の光で
あり、人間の業であ る。第二の段階は魂の深
渕 における神の誕生。神
との合一であるが、その探測
も。神と人間との
共働の場で。ルター
のように全く神の独占的行為ということはできた
い。ここでタウラーとルターとの相違が明瞭にな
る よさに思われる。 (464) 14袖 ︵ 1 ︶ここでは石原謙博士の エ, クハルト およ び ドイッ神秘主義の研究のみについていくつか紹介して おきたい つ ﹁マルチン・ルターと神秘主義﹂ 弩 哲学 難 きぬ﹂ 二 二八二号 、大正六年じ 15 (465 Ⅰ
験 をめぐる一考察
そ 共 い な を る り も 註 う 通 る ら 分 か ス ・ キ と うな
リス
たしであのま
@
な @
ょ、
析す換
、
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・ タ ネ 申 ウ のっ葉、
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教
結
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、 ン 行 ユ 為ぅ は イ
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ェ も ル れ義 の か 。 明 、 に
張例
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験 と わ 結 る
性性
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り 程 。 方 う 大 で聞
きが生
りも、
験
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-
着 客 明確に 度であ 次に 種 には と る の でキ
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0
l と の の と の @ る こ l体
の の主 神
人 何 の と の ク験 中 間 観
の 間 れ 場 は か一
一 口 一 タ え l ぅ か合を検
とい@
ま、 にも、
に隔り 的側面 誕生や とがど も超越 た のゑ, 論
ろ を
ぅ徒視
o- 点 セ@
@
て と て ば の い キ と
す
る﹁エックハルトの神秘主義について﹂ 宍 文化口四号およ び 一一号,昭和九年︶
﹁ ヱ, クハルトに於ける﹁たましい L の 教 ﹂ 宍得 能文博 士 還暦祝賀論文集 L 、日本評論社、昭和二年︶ ﹁ ヱ, クハルト研究の過去及び現在﹂ 宍 思想 ヒ七セ、七 八号、昭和三年︶など十数篇を数えることができる。 ︵ 2 ︶これは、のの 0
記毛
。 すヴ のⅠ 目 T, 勾討ア ︵二三の臣の セぃ 口 ㏄ 臼 乙 うオ の︵ 円ゴの 0-o9 ず い口 ﹁こす % 安 @ 口口仁 口幅 住ま 幅 。㏄ の コ ミ ㌣ 巨 ぬのコ木﹁ず了 6 の︵︵ ぎ 窓貝 く 目汁手
。 R ダ かカ 仁笘陪ぎ 。 お Ne ひい 1 0 参照。 ︵ 3 ︶タウラーに関する原資料は 、し 府中お 臼 笹目 円曲 仁 - 伶 ︵㏄ 麓仁 ㏄ 由 りⅠⅡ二幅㏄ - す 0 Ⅰ幅の ド 目口山山のⅠ 憶 Ⅱ 臼す目 Ⅱ 幅 。Ⅰ イ山ぃ目 宙 ㏄ 0 ず﹁ 目卜 ㏄。Ⅱ七十 0 い 屈のの。ア日田︵の下すの。 ずコ ︵︵ りコ宙り Ⅱ e ずり 日ぃ 目的の コ の︵Ⅱ ド いす 仁 ﹁㏄の︵ 下 P コ隼おオ ﹁ 目 ︵の コ 二品 沖 ゴト づ卑宙 Ⅰ︵ロロ す 二戸Ⅰ N 巾 ︵ ぽ田妻
のま ヨぃ 目し・ ︶ 0 詔 ・を用いる。 ︵ 4 ︶ 、、、シ ネ杓誕生︵Ⅰぽ已
ロロの口ロ ずず のののす 偉 ︵ こ、霊 的 誕生︵圧の塊 窓 二目 nn のす仁丹口器 ゆの @ のヨ 。ずの的 ま 0 ︵の 口 ︶、高貴な誕生盆盆 0 音ま目の博す 0 おしといつた表現もなされている寓
pO. の 目 参照Ⅱ ︵ 5 ︶ く円 P ハレ・。いの。㏄ ト ︵ 6 ︶く肝 p ハ レ ・・︶ トか 。 り ㏄ ︵ 7 ︶ 下 pO. 。︶ トか 。の・︶の ︵ 8 ︶ 下い 0"10g 。 N の ︵ 9 ︶ 下 pO.. ︶︶∼・︶与
めのの。︶ 0.而
︶その他
底 なき 海 ︵ 干ひ幅 ︵ 亡臣
臼 。お目お
︶ とい った 表現も見られる︵ 下 a04, ミ ㊥。 ︵Ⅱ︶く月 pO :㏄ っ Ⅱ ︵ 比 ︶特に注目すべ き ものは、以下の創られたものの 深淵 と削 られるものでないものの深淵が一つになる という文章である。 り asa ヴ ㏄Ⅱ 偉 戸毎の 倖 am ㏄の sc ず い 悪の﹁㌃ 描ロハ の @ 口す目 @ ヰ ㏄ ざぽ 宙ぃ ㏄ 億 コ的のひ りず ㏄曲の口ぃ す幅 Ⅱ蛋白Ⅰの, 仁臣 牛口曲り 仁コ ㏄ 0 ㏄ い ず㏄ 由 。 目いす幅 Ⅱ 仁コ隼 0" 仁目 曲名 の Ⅱ 倖 注口 ピい 毛色㏄ す抽 Ⅱ口目 倖 0 % コ田田 幅 曲目・㌔ 臣 - 仁圧り Ⅱ 曲 。の︵ --e ナミ 0 のの 臣岸 コ口 由 。 ず麓圧 ㏄ つ りず 宙め Ⅱ㏄㏄ - の 円く の Ⅱ -0 への コ - コの o ︵ N ㏄ e@s ︵の @P ハ O 。ⅠⅡ ひ ︵㎎︶ オ pO 。︶ っの ︵ u ︶ 卜 pO 、︶ っの ・なお神の神 棚と 呼ばれる魂の深淵は 、 神の自発的行為によって 則 られるものであると共に 、人間の魂あるいは霊は神の霊の中で喪失し、神的本質を持っていた︵ 前 註 ︵は︶参照︶。この点についてほわれわれと資料 は異 汐 卜するが、 カ ノー ニ シュ も注目している︵ エ 寓目ドロロ木目田お す 。田斉
ぎユ円
au- のⅠのの口のの。Ⅰ い @ コづ の x ︵ す uc ず いけ ㏄ 宙りヴ a- ︵ 口り口 ︵のりずの口目 鴇 ︵ 守 ︵ ヱ か目 ヴ月 ﹁㏄ 目卍 0 ヨ 0 ず - ︵ レ " ト 0 ㏄ 9 。の・㏄ ドン ︵ 騰︶以下
モ痒汀 q. しず刃の田 ゆ音 コドリ三の誘・ ぴ ︶つ い| ︶ お ・参照。 ︵ 騰 ︶この箇所は日本聖書協会試 にょ れば、﹁しかし、 助 け主 、すな ね ち、父がわたしの名によってつかわさ れる聖霊は、あなた がたにすべてのことを教え、またわたしが話してお い たことを、ことごとく思い起させるであろう﹂となって いる。 ︵ t>. ︶この奪われる︵ ずの ∼ 0 屈す 笘毛偉 二︶は 、 ルタ一にお げる神秘主義的なものを示す 母層 きのとの関係におい て 特に重要であるの で、われわれも、ルターに関する項で取りあげた次第で ある。この所の原文は 、 次のようになっている。 し 0 毛 仁 Ⅱ 拝宙の Ⅱ ヨのコ の。 ダの プリ Ⅱ。 岸 すの 田自臣 ㏄ 臼サ のの - 臣 Ⅱ ec 二円㏄Ⅱ も く。Ⅱ 0 Ⅱ㏄ ユ 。の ひ 0 ロ ダ ㏄ 臣 ㌍ コ年 づ 。Ⅱの - コ 。寸の︵ - 下山㏄目的㍉㌍ コド伍 。㏄ 幅っ りまの 一 おすの 目 丈二目㏄ 臣 Ⅱ ント のコミ。 爪 ㌣︶ ゥ ㏄花
︶タウラ
一はお
訂と的
囲 ひ ︵とを同意語に使用して いると思われる。︵例えば 下 pO :紳ま
。 コ 。︶だプし
。掻など参照︶。お
︶ レ pO.. の。︶の︵・参照。茄
︶ 下 pO.. ぃ 0 。︶の |ぃゲ のり参照。宛
︶ 下 pO,, り 0 。 いコぃ ︶。Ⅱ参照。宛
︶下れ 0. 、 20 。 燵 ・ 蒋 参照。冤
︶萌佳荷
︶参照。 ︵し下
pO. 色ま 。 8 品参照。しかし、また魂は時と 永遠の間にあるものとも考えられている︵ 下 pP 8 お 参照︶。窯元︶
下 pO., ゅ 。 養|ど 参照。憶茄
︶下の 0 :︶ 0 。︶ い 参照。 { め ︵ 00 ︶ 下 pO : 11 。の︶参照。鈍き
下 pO. 。目結。 捷 @ ︶ き 。 毬 ・ 葵 参照。 牡 ︵ 釦 ︶ オ pO. 。︶ め 0 。︶︵ @ ゅ ︶の。注参照。釘
︶ レ pO :︶︶︶。 目 。︶の︶。︶ oh など参照。因みに、 キリスト,言葉論はタウラー研究の重要な問題である。 17@ (467)︵ 窩 ︶柚肝 p ハ レ ・。ひ 7 。 ぃ ㏄ | ㏄の。 ぃ 参照。
菊
︶ 下 pO : し 。のおよび後証節
︶参照。 ︵㎝︶ 下 pO. 。中の。の | 七の。の 参はバ ︵ 鵠 ︶ 卜 pO :㏄と 9 っ 参照。 窃お 二目というのは本仁 臣 @mo ずの言葉である 保由日 @ ぉデ ppO :の ど 。冤
︶このムロ一についての理解に関して、オーバーマ ンは 存在論的。 巳 0-0軋お甘とゼ一
ベルクは二つ の 実体 Gu す海 ハコじ が 一つに溶け合うといっている。われわれ自身の論評 ほ 後述する丘の日 0 ト ・ 0 すの ﹁ 日 八ロ。四日三内 em@ ︵仁の陣 Ⅱ ぃ づ持 隼円 Ⅰ 宙 ︵ す 。Ⅰ 目巨口はヲ ︵ 温エ r,@三才
ハ ︵下紐の @ 日、 ∼合お す の 、 目せの -@ ・ まの 二 大ぢ ロ 如月口ロ 口 as 之 P 日ニざ ずのす 由 Ⅰ三プ 浅 ︵の 眩 ︵三的 0 臣 @ ぺ八ロ ロ 0 目す。㏄。 オ 陣オ 仁ア R ぎ 。 乙ミアぴ 白土耳 日す絆 まのお・Ⅰ眉目 窯 ㏄ い ロす り 0-0 幅らプ自 。 ゴセ 0 月コ 伍 Ⅰ 由 ㏄㏄ コ H. ハ ツ 。 拝キの ㏄八ロ ひ 。 ず曲仁 且コ ㏄︵ れ - ひ ︵ - ぎ ㏄㏄ コ, せ 八ロ ロ の手 0 の c 片 体力石︵ en 圧 ・︶ 罠 S 、け葵参照。 な お、ゼ一 ベルクは、 古 書において、一項を設けて、 タ ウ ラーにおける 神 観と 神体験を詳論している。 ︵ 甜 ︶くの二の﹁。 ppO., ︶︶ べ 。︶ つ1 ︶ 肝 参照。姦
︶ レ pO. 。 コゴ ㏄ 呂 参照。 ︵㏄︶下の 0 :︶ 旨 ・ お|ごダっ 参照 0 いうまでもなく、 ナ ﹂れは否定神学︵日の コ の内ミ オ の 円肛 0-0 軋 ③の伝統の中 の 言葉である。瓦
︶信仰論のテキストとして、われわれは口耳 0 プⅠ あ幸 6 アのの - ぃ古 すの コいいす 伍の ロ のⅡ 仁コ Ⅰ ひ卸 Ne 二ロ。Ⅰ っせ ルコ 幅 の @ の O 二 nS 本字。す め @ 臣 い 目の ぃ 日日。 目 オハコ内の倖 ぃ Ⅱ沖りひ︵土方せ。ロロ r. 犠 ロの 倖コ斗の 臼すげ ︵日が c ず eq 目 ・ 下蚕 のぬ︵ロ色 由 n@O ︵︵ 0 二の コ由二く
宵 す ⑨︶ まっ を用い る 。打
︶ 下 pO : り ・ ナ s 。︶の・︶ゃ参照。 ︵ 蛇 ︶ 下 pO. 。 ゆ ・ りひ ㏄ ナ Ⅱ 肝 ㏄菱花 出 。姦
︶ 下 p0 : ゆ ・︶ 00 の・の 2. のか参照。この体験は 、魔 術 的なものと自然的、日常的なものとの中間にある。 神秘的︵ ョ 浅手車︶ ものであった妄
pO. 。 ぴ ㌍・㏄ S 参照。紐
︶下血 0. 。の・㏄ ド Ⅰ e@ ︵の ぃ ︵ z 参照。 ︵ 俺 ︶ 下 pO. 。 m. ︶ っ のの・︶ か寮 m. ︶ 0 ︶Ⅰ上荻 0- 。 参招 Ⅱ ︵ 蝸 ︶シュライエルフ,ハーによれば、それが 罪 とい うことである︵ レ pO こ の, ㏄いの︶ ふ 参照︶ 0 (468) 18の 。お ア邑ず荻年の ︵ コり仁 0 ﹁のなので ぃコ 破色㌃。ずの ロゴ廿 n0-0 めず @ 日 い仁ひ い 日日 り コず い コぬ日早口の コ主 紅の ヨ臼コ 0 コ ロ のま 0% 仁コ 幅 年 ㏄の㏄ 眉 Ⅱ。 せ曲お 。 け り コ し e 口 ㌃ コ 9% 田 Ⅱ ぺ ︵の中宮 qS-O ヂ Q 里 目色。 すめ ︵ゼミ す 頓の
ぎ
日のの田口 0ぎ
。︶賈の︶。碑器自参巴
。 ︵ 鶴 ︶のでま 0 目 0@ ずハタ 0. かの甲乙 拝 および紹まぴト
薄志参照。 ︵㎝︶なお、シュライエルマソ ハ ーについてほ、 抽螢臨 ﹁Ⅱ・ ロ ・ロシュライエルマッヘルの 円 信仰論 b について の 一考察﹂︵﹁東北学 院 大学論集、一般教育 ヒ 四三号昭和三八年︶参照。 ︵日︶ ヲ 円 いユぎ Ⅰ 仁 ︵ ず浅 ・ 自ふ メ 日ぃ門 ① 特ぺ ヤ目㏄㏄㏄ す n 。下の 、目 ㏄ ダ 宙|ぎ 。なお,この点については、拙稿﹁ルタ一にお けろり 0 ㌃, 日岸ヨ 。 緊る目
0 日 曲 ︵口ョ︵属性の共有︶について﹂︵﹁東北学院大学 論集、教会と神学日五号、一九七四年︶参照。 ︵ 酩 ︶ メ ﹁の︵︵の 1 。のか。︶ 蒔 参 照っ ︵Ⅱ 山 ︶ づの ︵︵の こ ppO@ は % 。㏄∼ ガ ︶ 目 。 田ガトっ ∼。 い目 ル方 ノ一 については、簡単にほ、孝仁︵ ずの Ⅰ本の田 戟 。 毛ざ Ⅰ 岸 ︵ ずの Ⅱ 宙 0% H0 コヰひ 。 甘 。 臣 由ド ㏄ い 。 す 。ロロ㏄の け ㏄Ⅱ いいプ旨オ ㏄ 円宙 r 臼で主の匁目口。 耳ヱ ㏄ 仁 ほ く の﹁ すゆ 。 1917 ︶参照。記
︶斤目
オ ニ革。 ppO : ぴ まト参照。 ︵芭
これに対して、 K. バルトは次のように批判し た 。すな ね ち、キリストの 娼罪 の 働 ぎが、単なる伝達 、作用、衝動等々で ある限り、キリストの価値、品位は全く量的︵相対的 ︶である、と︵ 木 八二ロ ハ ユダ し ず つ ﹁ 0 富陰ぃコ ︵㌃ 0 ずの 円 す め o-o 的ざ 二ロ ト の ㌔ 曲ず Ⅱ ず宙コ宙 e Ⅱ︵・ トオ Ⅱ 0 ノ Ⅱ 0 Ⅱの㏄㏄。 プピ の プい の白戸ロ - オ Ⅱ e ハりの の。 ず ずず ︵の。 ぃ卜 白目︵ い 。 ヨオ 。 コ Ⅰ い申 Ⅱずす内心ハコ㏄㏄ コまひ りけのⅡ ノト の 二曲 ゆ 。︶の白い︶。のぎ @ しざ円はの 0-0m 鰍仁臣 隼斗 は木ギうプ の︵Ⅱ。二戸 0 コ Ⅰ N 繍ざ ず @ 内づ功臣㏄ 住ずアめ Ⅱ せの Ⅰ す ㏄︶ 考 絆 ︶ む ∼参照。 る ︵ 冊
︶の
寸仁 すの コ のす ず ︵の 、ダコ の・のプロ 住 宙良 参 照 。の ㏄の。︶ののの葉 ク m, 。
辞
︶ H, オーバーマソ、前掲 書 参照。 469 - ㏄︶ くの ︵︵の q 。日出 0 :︶ 0 Ⅰ @ 憲 なお、ルヵ 2 ーハ ツ Ⅰ め旧 三の概 会 に強い関心を示しているのはオーバ @ マン であるが、かれ ば タウラ | 0% 。 仁ず ゑ毛 仁耳 には 全 ・ 伏曲仕 目していない。 ︵ 仰 ︶ 臣 pO.. の・のめの・ め ︶ 0 至合は Ⅱ ︵ 邸 - く イ pO :の・Ⅱ ドの ㏄のりゆ・︶ 0 つの 下 ㏄のこの 七 Ⅰ リ ストの全体的印象を強調するのは、 E. ヒルシュである ︵同日 P コ 佳ニ 出 すの。 す ・0-p この自己放棄 口 N の コず の @ ︵︶。の は @n 、タウラーの場合、福音書の﹁自分 牡 -p ののの コ でなく, 毛 Eq ︵的の -0 の おコ, @ を捨て、日々自分の 日ひ 生 すの﹁曲の田 mo のコ 2 0 十字架を負うて、わたしに従ってきなさい﹂によって いるので自己放棄と邦訳することが適切であろう
ミ
の 轄宙 特に 、 N の m 。 笘 参照︶。 ︵㎝︶ G 瓦由 すの ロ ム 0 ず S 。 ダこ のひっ参照。従って 、こ の Ⅰの @n ず ︵ 俺寸 0@ ︵は、われわれの意識に対するキリスト の 印象、働 き 、作用 衝動などの内実を意味すると考えられる。 ︵ 3 絶対依存の感情を超越者と人間の実存との関係 概念として捉えるならば,そこに現代の関係の神学の 問題と課題とを見る ことができるであろう︵目鰯叫
き
浅 。︶のの目のず︵ @m ︵岸の 主ぃ吊い弓 - ひひのⅡ ョ 宙のⅠ - ざの Ⅰ 巴 。 ぢづず の 0-0 幅 - ㏄︵ヨぶ 臣田の Ⅱ 日ず 口 二づ串田㏄ ドの 木主 の ク % ひ 6 ︶。のドド ダいき ・参照。なお、この点につ いて詳しくは、前掲のシュライ ヱ ルマッハーコ信仰論 b に関する拙論、 二、三頁 牟 ・ 照 。密
︶オッカム主義の義認論、厳密にいえば、義化論 については、由の日。 レ蛋的蛋笘ぎ 仁の O す er 通 い口・の でゅ宙 。 プ 0- い の ヱ叶偉 同年 勾 の 片 。Ⅱ∼ コ 。 ハ ︵ @0 コロ 宙 H. ︵ N 申 Ⅰ ざず Ⅱせ いコぬ匹 ㌃。 ず 。Ⅱ づ 0 ︵ 瓦 ㏄ ,ト 0 ひさ。 絆 ︶ こ年 ・簡単には、㏄・ ナ ・のの 目ずデ の︵おの ルコ ロカの 諾 0コや
の︵ C 伍田ぎ 目 @-0 円∼︶ @uO-Om 一︶﹁ Ob ト、 @@@ ︵∼ @@@nq ︵ Ou@@ @0 一 ﹁ @p@C コ @ セ ・ @u ﹁ @ ︵︶・ 可 ︵ののの ・︶まさ。や︶ き| にの参照。紐
︶ つめ ︵︵ 浅 。 aaO. 。の︶。 0 ㏄ 1 のめ、 目 参照。記
︶ くの ︵︵の グ aaO : 已 。㏄ 比 参照。この点についてほ 、 われわれとは全く異なる資料を用いているが、申紺
のサ のⅡ ぬ 。 aaO" の億の 参照。品
︶ づ の目の r,aaO.. のの。︶ っ ︵参照。行
︶それゆえ、 王 的な、高貴社人間とは、探測にお いて神と合一した人間ということになる。この概念は 、 特に、周知のよう に エックハルトにおいて有名である︵富久 の ︵の﹁岡村 ぎ田 ︵ ひ ㏄ 偉 。 ず 由のⅠ 抽ひ ︵二円 ず 。 臣 H 、 イひ 江ロ コ帳佳 口ロ ノト 。 コ 宙の︵ コ ㏄ 日省 目ざお廿目 ︵Ⅰ子の﹁ " ロ のなの 臼 注目のじ 目 ︵の ゆ, 。・ ヒ 0 のの︵ Q 仁 in ︵。︵いの︵二コ甘
﹁ ド - ︵の︵監の qE ち目 ,おのさがま 曲 参照︶。 ︵㏄︶の江ロ ず の コ のす ず ﹁の。の・︶ 0 ゆの ・︶のの参照。お
︶詳しくは、拙論﹁若きルタ一の義認論﹂︶拙著 ョ ルタ一における改革と形成口一九七三年︶新教出版社 、二三 0 頁 、二五 0 頁 、 註 ︵ 蛇 ︶参照。神体験をめぐる
一考察
︵ ね ︶Ⅰ @ ㌍︵ アの Ⅱ イメヌ ﹁の @ 日 ar のⅡ レ Usga ヴ のの 91 の , のの。 2 の,以 不参照。 ︵ 7,.︶の
村仁 すの口のす ず Ⅱの。の・︶ 09 の・︶のの・参照。 ︵㍗︶ 卜 pO, ダ ︶ っ のの︶ ひぽ ㌢ 目 。の︶ 7Q 1 ︶ っ ︶・ 参 照 。待
︶この神と人間との隔絶については、特に、 毛綿 コめ 弓の。ぽ口持 N@ のり ず - 臼 ㏄Ⅱ 日い り ア の㍉口口 宙隼 。Ⅰ 巾 Ⅱ 0- り ㏄ @ かコ - オヨ 仁の・︵由の日す臣Ⅱ㏄ 巾の ︵輻の︵の 宙 ︵ - 出のⅡ すの ︵︵ オ の @ オ ・︶のの∼︶。 甲 きなお、目
0 す ヴの ﹁ 日ぎ 。 舖 0 : 犠 ・参照。 ︵Ⅱ︶その他、プロテスタント正統主義のこの方の理 解を示すものとして、の 0 コ ∼の㏄の @0 由の二の @@ca で os 宙二 0 ﹁ Ⅹ七ロ のセ の︵㏄ め 乙の 参照。 21@ (471)秘密念仏集団,新後生の
五 ba
四
b
新
新
後集人後縄
簾
土 台 信 生 織 礼
組織
にお 形態 式パ の展げ
の タ開
る変
l過
シ 化 ン 程 ャ 過 の の マ 程 変 再 ニ 化 構 ズ 過 成 ム 種 三新後生の現況
究 研 a儀礼
目次
一問題
二背景
a きやぶ地方
b新後生
秘密念仏集団、新後生の﹄
研究
古賀
和則
23@ (473)(474) 24 接 待 れ で ぃ 近 異 ら し は 。 そ 法 的 の か な し れ る ら を 数 こ
ぞれ、
であ にみ 信仰 し、
かし、
。 れ
時人
の こ 秘 ま る徴
の分 れ 事
た諸 づ研 野 5 法
の信
信ヮ、
ける儀礼、
空音 では 「かく
柳葉と伝 諸要が
力 ょ 「 仰が 団 統 素 こ に 、 し内的
とれ
よひ 念
部 な 肖
ら り と仏
に 習 該 の も び お 俗 の 信 、 と かげ
と杜仲 実 を
く る の会
の態 魅れ
相親構
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