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末 弘 厳 太 郎 責 任 編 輯 ﹃ 現 代 法 学 全 集

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Academic year: 2022

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(1)

末 弘 厳 太 郎 責 任 編 輯 ﹃ 現 代 法 学 全 集

﹄ の 研 究

七 戸 克 彦

(2)

一 序 章

1 日 評 ア ー カ イ ブ ズ

﹂ の 特 別 企 画

日本 評論 社は

︑ 創業 一〇

〇周 年 記念 事 業﹁ 日評 アー カ イブ ズ﹂ の

﹁特 別企 画﹂

復 刊希 望件 数に 関わ りな く 復刊 を行 う 企画

︶と して

︑ 平成 三〇

︵二

〇 一八

︶年 三月

①﹃ 現代 法学 全 集﹄

全三 九 巻︶

︑②

﹃ 社会 経済 体系

﹄ 全二

〇巻

︶︑

﹃新 経 済 学全 集﹄

全二

〇 巻︶ の 三つ の全 集と

︑④ 雑誌

﹁ 日本 評論

﹂の 復刊 を開 始 し た︵

③ は 電 子書 籍

P D F

︶と オ ンデ マン ド印 刷

P O D

︶︑

④は 電子 書籍

P D F

︶ のみ

︶︒

︵ 1

︶ ﹃ 社 会 経 済 体 系 ﹄

﹃ 現 代 法 学 全 集

なお

︑右

①②

④の 順番 は︑

日評 アー カ イブ ズ﹂ の ホー ム ペー ジの 記載 をそ のま ま 転記 した もの であ り

今般 の復 刊 の順 番も この 順 序で 行わ れて い るが

︑原 本の 発 刊年 は︑ 三種 の 全集 に関 して い えば

②↓

①↓

③の 順 であ る︵

②﹃ 社 会 経済 体系

﹄大 正 一五 年〜 昭和 三 年︑

①﹃ 現代 法 学全 集﹄ 昭和 三 年〜 昭和 六年

③﹃ 新 経済 学全 集﹄ 昭 和一 四年

〜昭 和 二

〇年

︶︒ ここ で︑ 原典 の 発刊 の順 番に こ だわ った のに は

︑理 由が ある

︒ とい うの も︑

﹃現 代 法学 全集

﹄は

②﹃ 社会 経済 体 系

﹄完 結に 引き 続 き︑ その ノウ ハ ウを 生か して 発 刊さ れた 後続 企 画だ った から で ある

︒ 末弘 厳太 郎の

﹁ 責任 編輯

﹂と 銘 打っ て刊 行さ れ た①

﹃現 代法 学 全集

﹄は

︑日 本 評論 社 が社 会科 学系 出 版社 とし ての 地 歩 を固 めた 記念 碑 的な 企画 であ っ たが

︑②

﹃社 会 経済 体系

﹄の 後 続の 全集 は︑ 実 際に は 二本 立て で企 画 され た︒ 双子 の 企 画の もう 一方 と は︑ 土方 成美

﹁ 責任 編輯

﹂の

﹃ 現代 経済 学全 集

﹄ 全三 一巻

︒昭 和 三年

〜昭 和八 年

︶で あり

︑そ し て︑ こ の全 集の ため に

︑①

﹃現 代法 学 全集

﹄の 売上 げ は相 殺さ れ︑ 日 本評 論社 は経 営 危機 に 陥る ので ある が

︑そ の経 緯に つ い ては

︑後 に改 め て触 れる こと と する

︵こ のほ か

︑﹃ 現代 法学 全集

﹄﹃ 現代 経済 学 全集

﹄ 発刊 の二 年後

︵ 昭和 五年 五月

(法政研究 85‑1‑ )32 32

(3)

に は︑ 第三 の企 画 とし て﹃ 現代 政 治学 全集

﹄の 刊 行も 開始 され た が︑ 全一 八巻 の 予定 が

︑昭 和九 年一 二 月第 一三 巻の 刊 行 で途 絶し た︶

︒ なお

︑ 責任 編輯

﹂ とい う言 葉は

︑ 日本 評論 社で は

︑右

①末 弘厳 太 郎﹃ 現代 法学 全 集﹄ と土 方成 美

﹃現 代経 済学 全 集﹄ の 両企 画の キャ ッ チフ レー ズに 始 まる

︒こ れに 対 して

︑先 行企 画 であ る②

﹃社 会 経済 体 系﹄ に関 して は

︑編 集担 当者 の 表 記が 存在 して い ない が︑ 編集 の 任に 当た った の は河 合栄 治郎 と する のが 大方 の 見方 で ある

︵ 2

︶ ﹃ 新 経 済 学 全 集 ﹄

以上 に対 して

③﹃ 新経 済学 全 集﹄ の刊 行開 始 は︑ 河合 栄治 郎 と土 方成 美が 骨 肉の 争 いを 演じ た末

︑ 平賀 粛学 の喧 嘩 両 成敗 で東 京帝 国 大学 を追 われ た 年︵ 昭和 一 四年

︶ の一

〇月 のこ と で︑

責任 編輯

﹂は

︑ 東大 経済 学部 が平 賀 粛学 のた め 機能 停止 して い たこ とか ら︑ ド イツ

︵ボ ン大 学

︶留 学時 代シ ュ ンペ ータ ーの 下 で親 交 を深 めた 中山 伊 知郎

︵東 京商 科 大 学︵ 現・ 一橋 大 学︶ 教授

︶・ 東 畑精 一︵ 東京 帝 国大 学農 学部 教 授︶ 両名 に委 ね られ た

︒ この 全集 と対 に なっ てい る企 画 は︑ 昭和 一一 年 六月 に配 本が 開 始さ れ︑

③﹃ 新 経済 学 全集

﹄刊 行開 始 の翌 月︵ 昭和 一 四 年一 一月

︶に 本 巻が 完結 した 末 弘厳 太 郎﹁ 責 任編 輯﹂ の

﹃新 法 学 全集

﹄ 本 巻三 九 巻︒ そ の後

︑翌 昭 和一 五 年に 別巻

︵総 索 引︶ 刊行

︶で あ るが

︑未 完の 全 集で ある

﹃新 経 済学 全集

﹄ 当初 全三 二巻 予 定の と ころ 終戦 の年

︵ 昭和 二〇 年︶ 第 二

〇回 配本 を最 後 に途 絶︶ が先 行 して 復刊 の対 象 とさ れ︑ 学界 へ の影 響・ 出版 社 の売 上 げと も貢 献度 の 高か った

﹃新 法 学 全集

﹄の 復刊 が 後回 しに され た のか

︑そ の理 由 につ いて は不 明 であ る

︵ 3

︶ 雑 誌

﹁ 日 本 評 論

一方

︑ 日本 評論

﹂ とい う名 の雑 誌 には

︑明 治二 三 年〜 明 治 二七 年に 東京 麹町 区三 番 町一

〇番 地︵ 後 に四 番 町四 番地 に 移転

︶の

﹁日 本 評論 社﹂ から 出 版さ れた

﹁日 本 評 論⎜

⎜政 治文 学 宗教 経済 社交 上の 要 報評 論﹂

一号

〜六 四号

︶ があ る が︑ これ は植 村 正久 が﹁ 福音 週 報﹂ とと もに 発 行し た啓 蒙雑 誌 で︵ 社会 思想 史 や日 本 キリ スト 教史 の 分野 では 著名 な

(4)

雑 誌で ある

︑ 現在 の 日本 評論 社と は まっ たく 関係 が ない

① 東 京 評 論 ﹂

﹁ 第 三 帝 国 ﹂

﹁ 洪 水 以 後

﹂ ﹁ 日 本 評 論

﹂ 大 正 元 年

〜 大 正 八 年

⎜ 現在 の日 本評 論社 の雑 誌 刊行 の源 流 は︑ 初代 社長

・ 茅原 茂が 大正 元 年一 一月 に発 刊 した

﹁東 京評 論

﹂と

︑兄

・茅 原 華山

︵ 廉太 郎︒ 吉野 作 造よ り早 く﹁ 民 本 主義

﹂を 唱え た ジャ ーナ リス ト

︶が 翌大 正二 年 一〇 月に 創刊 し た﹁ 第三 帝国

﹂ であ る

︒こ のう ち﹁ 第 三帝 国﹂ は内 紛 に より 崩壊 し︑ 華 山は 大正 五年 一 月﹁ 洪水 以後

﹂ を創 刊︑ 同年 七 月に 誌名 を﹁ 日 本評 論

﹂に 改め た後

︑ 翌大 正六 年一 二 月 に﹁ 東京 評論

﹂ と合 併 した

︒合 併 後 の誌 名は 兄の 雑誌

﹁日 本評 論﹂ を 名乗 った が

︑表 紙に は﹁

﹃東 京 評 論﹄ 改 題﹂ と あ り︑ 号 数 も﹁ 東 京評 論﹂ の 号数 を 引き 継い でい るこ と から

︑ 実質 的に は弟 の 雑誌

﹁ 東京 評 論﹂ へ の吸 収 合 併 であ る

︵兄

・ 華山 は︑ 文才 は あっ たが

︑経 営 の才 能に 欠け

︑ 弟・ 茂は

︑経 営 能力 に長 けて い たが

︑文 才が な かっ た︶

︒ しか し︑ この

﹁ 日本 評論

﹂は

︑ 大正 八年 五月 発 行の 九六 号を 最 後に 廃刊 とな る

② 経 済 往 来 ﹂ 一 巻 一 号 〜 一 〇 巻 九 号

︵ 大 正 一 五 年 〜 昭 和 一 〇 年

⎜大 正一 四 年初 代社 長・ 茅 原茂 が病 死し た 後︑ 日 本評 論 社の 第二 代社 長 に 就 任し た 鈴 木 利貞

︵ 東 京評 論﹂ 時 代か ら の 茅 原茂 の 腹 心︶ は

︑翌 大 正 一五 年 三 月 に雑 誌

﹁経 済 往来

﹂を 発刊 す る︒ 同誌 は︑ 実 質的 には 大正 八 年廃 刊と なっ た

①旧

﹁日 本評 論

﹂の 復刊 であ る

③ 日 本 評 論 ﹂ 一

〇 巻 一 〇 号 〜 二 六 巻 六 号 ︵ 昭 和 一

〇 年 〜 昭 和 二 六 年

②﹁ 経 済往 来﹂ は

︑そ の 後︑ 昭和 一〇 年 一〇 月発 刊の 一

〇巻 一〇 号よ り

︑誌 名を かつ て の﹁ 日本 評論

﹂ に改 題す る︒ 同 誌は

︑ 一時 は﹁ 中央 公 論﹂

﹁ 改造

﹂﹁ 文 芸 春秋

﹂と 肩を 並 べる 四大 総合 雑 誌と して 一世 を 風靡 した が︑ 終 戦後 の社 の経 営 危機 に より

︑昭 和二 六 年六 月号

︵二 六 巻 六号

︶を もっ て 廃刊 とな った

︵ 社は

︑翌 昭和 二 七年 清算 を結 了 して

﹁日 本評 論 新社

﹂ に移 行し た︶

④ 日 本 評 論 ﹂ 二 七 巻 一 号

〜 二 号 ︵ 昭 和 三 一 年

⎜だ が︑ その 後も 第二 代社 長・ 鈴木 利貞 は︑ 雑 誌刊 行 に執 念を 燃 やし

︑五 年後 の 昭和 三一 年一 月

︑社 員の 猛反 対 を押 し切 って

﹁ 日本 評論

﹂の 復 刊を 断 行す る︒ しか し なが ら︑ この 試 み は大 失敗 に終 わ り︑ 多額 の借 財 を作 って 雑誌 は 二号

︵二 七巻 一 号〜 二号

︶で 廃 刊︑ 社 は再 び経 営危 機 に陥 り︑ 鈴木 は

(法政研究 85‑1‑ )34 34

(5)

雑 誌廃 刊の 二月 に 社長 を引 責辞 任

︑保 有株 式を す べて 処分 し︑ 箱 根の 別邸 も売 却 して 社 を去 った

これ らの 諸雑 誌 のう ち︑

①﹁ 東 京評 論﹂ は稀

本中 の稀

本で

︑全 冊︵ 一号

〜 七八 号

︶を 所蔵 して い る大 学図 書館

・ 公 共図 書館 は皆 無 であ るか ら︑ も し全 冊保 存さ れ てい るの であ れ ば︑ その 復刻 に は大 変 な価 値が ある

︒ だが

︑こ れに 対 し て︑

第三 帝 国﹂

﹁洪 水以 後﹂ と 旧﹁ 日本 評論

﹂ につ いて は︑ す でに 不二 出版 か ら復 刻 版が 刊行 され て いる ので

︑重 ね て 復刊 する 意義 は 少な い︒ 一方

︑ 今般 の﹁ 日 評 アー カ イブ ズ﹂ の 復刊 対 象 が︑

﹁経 済 往来

﹂改 題 後 の﹁ 日 本 評 論﹂ だ け な のか

︑② 改 題前 の

﹁経 済 往来

﹂も 復刊 さ れる のか

︑さ ら に︑ 第二 代社 長・ 鈴木 利 貞が 社を 追わ れ る原 因と なっ た

④昭 和三 一年 一 月・ 二月 刊 行 の二 冊も 復刊 さ れる のか

︑現 時 点で 得ら れる 情 報か らは 明ら か では ない

﹃ 現 代 法 学 全 集

﹄ 成 功 の 理 由

⎜ 関 係 者 の 証 言

以上 のよ うに

︑ 今般

﹁日 評ア ー カイ ブズ

﹂か ら 復刊 され る全 集

・雑 誌に は︑ そ れぞ れ に曰 く因 縁が 存 在し てい るの で あ るが

︑本 稿で は

︑そ の中 でも

﹃ 現代 法学 全集

﹄ に焦 点を 当て て 考察 を進 める

︵ 1

︶ 美 作 太 郎 の 証 言

この 全集 の赫 々 たる 成功 に関 し て︑ 編集 を担 当 した 美作 太郎 は

︑次 のよ うに 追 懐し て いる

調

(6)

全集 が全 二五 巻 から 全三 九巻 に 増冊 され た理 由 は︑ 実際 には

︑ 売れ 行き 好調 の ため だ けと は必 ずし も 思わ れな いの で あ るが

︑こ の点 に つい ては 後に 検 討す る︒ 一方

︑末 弘厳 太 郎の

﹁発 刊の 趣 旨﹂ の内 容に つ いて は︑ 右美 作 の文 章だ けで は 隔靴 掻 痒の 感を 否め な いの で︑ 以下 に 末 弘の 文章 の全 文 を転 記し てお く

︵旧 漢字 は新 漢 字に 改め た︒ 以 下同 様

綿

(法政研究 85‑1‑ )36 36

(7)

殿

調

(8)

右の 文章 のう ち

︑ 従来 多数 の法 律 書が 無用 の形 式 に充 ち て ゐた のに 対し て吾 々は 活き た法 律の 生命 を説 か うと する の で あ る﹂ と の 言 説 は︑ 末 弘 が 留学 か ら 帰 朝 した 翌 年 に 刊行 し た﹃ 物権 法

・上 巻﹄

有 斐 閣︑ 大 正 一

〇年 一

〇 月︶ の

﹁自 序

﹂や

︑同 年七 月 に組 織し た﹁ 民 法判 例研 究会

﹂ が刊 行し た﹃ 判 例民 法﹄

最 初の 巻

︵大 正十 年度

︶ の刊 行は 大正 一 二 年一

〇月

の﹁ 序﹂ にも 認め ら れる 末弘 の持 論 であ る︒ 一方

︑ 法科 大学 の 開放

﹂と いう 全集 のキ ャ ッチ コピ ー も︑ 末 弘の 右 文章 から 引か れた もの で あろ うが

︑た だ

︑︹ 法 科

︺大 学の 開放 で ある

︒其 拡張 で ある

﹂と いう 発 想そ れ自 体が 末 弘の オリ ジナ ル かと い えば

︑そ れは 違 う︵ 後述 する

︶︒

︵ 2

︶ 田 中 二 郎 の 証 言

なお

︑美 作太 郎 は︑

当時 の 法律 学 生︑ 法曹 関係

︑ 国家 試 験 受験 者の 数を 合わ せて も︑ おそ らく は一 万に も 達し ない 状 況の もと での 成 功で あっ た︒ 自 分の 法律 学ア レ ルギ ーの せい も あっ て︑ とか く 消極 的 に考 えが ちで あ った 私に とっ て は

︑そ れは 一層 の 驚き であ った

﹂ と述 懐し てい る が

これ に対 し て︑ 法律 学ア レ ルギ ー とは 対極 の人 物 であ る田 中二 郎

(法政研究 85‑1‑ )38 38

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