1871年刊行の大学南校のドイツ語教材について : 言語的特徴から見た編著者問題を中心に
著者 城岡 啓二
雑誌名 人文論集
巻 57
号 1
ページ A67‑A106
発行年 2006‑07‑31
出版者 静岡大学人文学部
URL http://doi.org/10.14945/00000634
1871年 刊行の大学南校の ドイツ語教材について
一言語的特徴か ら見た編著者問題 を中心に一
0.前
書 き1。 大学南校の1871年刊行の
2冊
の ドイツ語教材2.第 3巻
の著者はワグネルか3.第 1巻
の編著者はカデル リーか、 ワグネルか4。 日本人 (教員
)と
の協力関係は どうだつたのか5。 要約 と未解決の問題
0日 前書 き
大学南校の ドイツ語教材 については1870年刊行の
2冊
が比較的知 られている。Jakob Kaderly編
の 二′力乃%磁 滋″滋%おσ力″ シ πσλι〃″″′θ力磁 ι%α
sι%
滋″力αお 沈カジ″″%たσ力ιπ 4カα滋物 D∽リカ%NZπ
力οl(以下『カデル リー文 典』と呼ぶ)と D"ι容″%ι ισttπ′π αθs滋%おθλι%シ
%σ力%π物%ε力お2(以下『最初の ドイツ語 レッスン』と呼ぶ
)の 2冊
である。大学南校では 1871年 にもD%お
ι力ω Zωι‐%πグυ♭ι%η邸み%εが(以下『 ドイツ語の読み物 と演習』と呼ぶ) とい うシリーズで第1巻
と第3巻
の2冊
を出版 している。現存する大学南校の 教材は、『カデル リー文典』第2版
4を別にして考えれば、1870年 刊行の教材が2冊
と1871年 の教材が2冊
の合計4冊
である5。 本稿の考察の中心は 1871年 刊 行の『 ドイツ語の読み物 と演習』である。今のところ、静岡県立中央図書館葵 文庫にしか所在が確認 されていないが、葵文庫には第1巻
と第3巻
がそれぞれ2部
ずつ6ぁる。第2巻
はない。先行研究で第2巻
の存在について明確に触れて いるものもないので、出版 されなかつた可能性もある。『 ドイツ語の読み物 と演 習』は葵文庫にしかないこともあつて、内容についてあまり知 られていないよ うであるし、不正確な記述も見られる。じつは、大学南校の ドイツ語教材は『カ デル リー文典』以外は編著者名もないし、序文も説明もない中身だけの教材に なつている。したがつて、それがどのような教材であるのか編著者の説明をも啓 岡
‑67‑
とにすることはできない し、そ もそも誰が編著者なのか も不明なのである。教 材の内容を紹介することも本稿の目的のひ とつであるが、も うひ とつの 目的は、
教材の内容 に合まれ る言語的な特徴 により、編著者 について考 え、お雇い外国 人教師 と日本人(教員
)の
あいだに協力体制があつたのか どうかも推定 したい。誰が どの ようにして教材 を作成 したのか とい う問題 を広 く捉 え、本稿では編著 者問題 と呼ぶ ことにする。
なお、明治初年 に出版 された ドイツ語関係の図書で、明治
3年
までに出版 さ れたものは大学南校の ドイツ語教材以外 にはない。『 ドイツ語の読み物 と演習』の
2冊
は1871年刊行であるが、第1巻
は明治3年
刊行であ り、第1巻
の方は 日 本 における最初期の ドイツ語教材のひ とつである (西暦 と和暦のずれ について は後述する)。 第3巻
は明治4年
刊行である。明治4年
以降になると、初級の教 材がかな り大量 に出版 されている。宮永 (2004:340‐341)は
明治4年
刊行の「初 級入門書的な ドイツ語学書」として、刊年推定のものもあるよ うだが、『 普語箋』(中村雄吉著
)や
『 独逸文典字類』(春風社)などの単語集な ども合めて19冊 あげている。 しか し、『 ドイッ語の読み物 と演習』第3巻
は初級教材ではな く、当時の入門書的な ドイツ語教材 とは一線 を画する存在だつた と思われる。
さて、大学南校であるが、幕末・明治初年 に目ま ぐるしく変遷するこの学校 の前身や後身についても簡単 に説明 してお こう。
大学南校 とは開成学校が名前 を変 えたものであ り、 もともと江戸幕府の洋学 研究・教育機関であつた開成所 を維新後 に維新政府が開成学校 として復活 させ たものである。幕府の開成所のみなもとをさらにた どると洋書調所、蕃書調所、
洋学所 と名称 を くる くる変 えてい く。 日本で ドイツ語学習が本格的 に始まるの は幕府の蕃書調所である。1860年頃 とされ るが、市川兼恭 (斎宮)や加藤弘之
(弘蔵)らがプロイセ ンとの条約交渉をきっかけに始めている。
話を明治の大学南校 に戻す と、大学南校 自体 も、明治
4年
7月 に大学が廃止 され文部省が設置 されるときに、大学南校か ら南校 に名称が変わつている。 し たがつて、厳密 に言えば、大学南校 とい う名称の学校 は明治2年
末か ら明治4年
7月 までの短い期間 しか存在 していない ことになる。なお、「大学」といっても、現代の大学 にそのままつながるものではな く、幕府の儒学の学校であつた昌平 坂学問所が維新後 に和漢の学校 として復活 し大学校 とされ、後 に大学 に改称 さ れた。 この大学 には大学南校や大学東校 (医学校の後身)を従 えるとい う統括 機能 も持た されていたために、開成学校や医学校が大学南校や大学東校 と呼ば れることになつたのである。大学南校は、当時の用語で言 えば、「専門科」では
‑68‑
なく「普通学」を教える学校であり、高等教育機関とい うよりは中等教育機関 としての学校であると言える。
1871年 ごろの ドイツ語学習の状況についても簡単に述べておこう。1871年 時 点で蕃書調所における日本の ドイツ学の起源から10年 余 り経つているわけであ るが、
ドイツ語の学習環境はほとんど改善されていない。幕末期から待望され ていた独和辞典は 1872年 (明治
5)に
ならないと出版 されないし、先行する英 語やフランス語 とは違い (大学南校では英語 とフランス語 とドイツ語以外の言 語は教えられていない)、大学南校の日本人教員の留学なども進んでいない7。ま た、オランダ語学習が急速に衰えたから8、 ょぅゃ く輸入 されるようになつた独 蘭辞典もす ぐに役に立たな くなつたのではないかと思われる。ドイツ語のでき る日本人もまだほとんどいなかつた時代である。明治
3年
の普仏戦争の開戦後、横浜の貿易商高島屋嘉右衛門が北 ドイツ連邦のプロイセンから商船ライン号を 購入したが、購入代金はプロイセンの戦費にもなるわけで、フランスから抗議 を受けるとい う事件があつたが、山岸 (1937b)│こよると、この時、外務省から 大学南校にライン号の売買契約書の翻訳の依頼があったことが明治
3年
の大学 南校記録に書かれている。外務省からの文書には「ゼルマン語に付き未だ当省 には同国の学術心得居候者無之に付き翻訳出来兼候」 と書かれていて、当時は 外務省にさえ簡単な ドイツ語の契約書の意味がとれるひとがいなかつたことが 分かる。大学南校の ドイツ語教材が作成 されたのはそんな時代だつたのである。本稿では西暦 と和暦が混在 しているが、意図的に使い分けている所もある。
明治
6年
以前は今の太陽暦ではなく、西暦 と和暦が単純に対応 していない。煩 わしいと思 うが、理解 されたい。1.大
学南校の1871年刊行の2冊
の ドイツ語教材前年の『最初の ドイツ語 レッスン』は木版印刷 されているが、『 ドイツ語の読 み物 と演習』は『カデル リー文典』同様に活字印刷 されている。オランダから 幕府に寄贈 されて、蕃書調所で市川兼恭などが始めた活字印刷の設備 と技術9で
印刷 されたものであろう。前年の『カデル リー文典』 と『最初の ドイツ語 レッ スン』と比べると、17セ ンチ ×12セ ンチの目立たない小冊子である。1870年 刊行の『カデル リー文典』は
522ペ
ージもある大部の本である。もう一冊の『最 初の ドイツ語 レッスン』はページ数は少ないが、30セ ンチ×22セ ンチの大型の 本であり、木版印刷であり、目立つ本だと言えるだろう。『 ドイツ語の読み物 と 演習』がなぜ葵文庫にしか残 らなかつたのかは、こんな外観上の特徴も関係し‑69‑
ているのではないだろ うか。当時 としては珍 しかった活字印刷 も後年は当た り 前になつて しまった ことも他の図書館な どでの保存が されなかった理 由かもし れない。今 日まで葵文庫 に保存 された理 由 としては、江戸幕府旧蔵書 としての 葵文庫 といつしょに保存 された ことが幸い したのではないだろ うか。
なお、葵文庫の本は静岡学問所経由で残 つた と考えられ るが、幕府開成所が 維新後 に開成学校、大学南校、南校 とつながってい く中で、津 田真一郎 (真道)
や外山捨八 (正一)など、幕府開成所か ら静岡学問所への人の流れ もあったわ けであるか ら、静 岡学問所 と大学南校 とのあいだにもなん らかの人的なつなが りが続いていた と想像す ることができるだろ う。静岡県立 中央図書館 に大学南 校 の ドイツ語教材だけでな く『 大学南校生徒心得』の写本が残 されているのは そんな理由か らではないだろ うか。『 大学南校生徒心得』は内容 に異同のある別 の写本が東京大学に所蔵 されているだけで他 には知 られていないようである(『東 京帝国大学五十年史』(上冊)第
1篇
第1章
)。それでは、まず、『 ドイツ語の読み物 と演習』の第
1巻
と第3巻
に共通する特 徴 をま とめてか ら、それぞれの教材の構成 を紹介 してお こ う。第
1巻
と第3巻
に共通する特徴まず、共通す る特徴 として出て くるのは、 ローマ字で 日本語が使われている とい う点であろ う。 日本語が ローマ字 になっているのは、大学南校で 日本語の 活字印刷 な どができなかつた ことも関係 していると思われ るが、『 ドイツ語の読 み物 と演習』の特異な特徴 になつている。大学南校か ら前年 に出版 された
2冊
の ドイツ語教材『 カデル リー文典』 と『最初の ドイツ語 レッスン』は 日本語が 使われていない。『 ドイツ語 の読み物 と演習』 と同 じ1871年刊行の『 官許仏和 辞典』は、フランス語 も日本語 も活字印刷 されているが、上海で印刷 されてい る。明治4年
には、『 独逸文典字類』、『独逸訳附単語篇』、『 普語箋』な どの独和 単語集が次々に発売 されているが、高橋(1993,1994,1995)に
よればすべて 木版印刷である。 日本語 を漢字 も入れて印刷するには上海で活字印刷す るか、木版印刷 になるかの どち らかだった ようだ。
ドイツ語の書 き方では、
ドイツ文字 (亀の子文字、亀の甲文字 とも
)と
ラテ ン文字 (現代 ドイツ語 と同 じ文字)の両方が使われている点 も特徴 になつてい る。前年の『 カデル リー文典』は基本的 には ドイツ文字で書かれ、外来語系のPrasensの
よ うな文法用語 を見出 しの ように使 う場合にだけラテン文字が使わ れていた。『 最初の ドイツ語 レッスン』は読み書 き入門教材 (Fibelと呼ばれる‑70‑
ジャンルの教材)であるが、
ドイツ文字 による学習が中心 になつてお り、後半 でラテン文字 も学習することになつている。『 ドイツ語の読み物 と演習』では、
第1巻の ドイツ語でラテン文字が使われているのは、扉 (図 1)の一部 と ドイツ 語で書かれた章の見出 しがそ うである。扉では本のタイ トル と「第1巻」と「1871 年、明治
3年
に大学印刷所で印刷」 とい う内容がラテン文字である。 日本語のローマ字はすべてラテン文字だ。第
3巻
では、ドイツ語の文章が、1章は ドイツ 文字、2章
はラテン文字 とい うよ うに、章 によつて交互に ドイツ文字 とラテン文 字が使われている。巻末単語集では ドイツ語はすべて ドイツ文字で書かれてい る。巻末単語集の 日本語 はラテ ン文字の ローマ字で書かれている。葵文庫本 に第1巻が
2部
あるが、図1にそ の うちの一冊の扉の写真をあげる10。最下部 に「1871年、明治3年」Cm d五tten Jahre Meidji, 1871.)と 書かれている。
2部
とも誰かが鉛筆 で書 き込みをしていて、1871年を1870年に訂 正 した り、明治3年
と書いてあるところに疑 問符 を付 けた りしている。しか し、「1871年、 明治3年
」 とい う組み合わせ は、前書 きにも 書いたが、太陽暦を採用 した明治6年
以前な ので、十分 にあ り得 る組み合わせである。1871 年 とは明治3年
11月 11日 か ら明治4年
11月 20日 までだか らであるH。鉛筆の書き込みは後 世のひとが旧暦 と新暦の違いが分からな くなつ て、付 けたものだろ う。刊年の記述が正 しい とすれば、第1巻は1871年刊行であるが、明 治3年
の 11月 11日 か ら年末 までの間に刊行された ことになる。なお、静岡県立中央図書館の検索情報ではどうい うわけか、
第1巻も第
3巻
も明治4年
刊行 とい う解釈 を している2。第1巻の各章の見出 しは次の通 りであるが、
2章
だけが特殊で、見出 しがな く 文がす ぐに始まっている。1 4■m OCiFI■■1 ‐│
‐ rl.ゃⅢ ゃ■i,■││'
6慮鏡ふ憲議
童五壼
=̀
図1:『 ドイツ語の読み物演習』
第1巻の扉
‑71‑
1.DER SPASZHAFTE RAUBER
2.Kono h̀to‐ wa hana‐hada omoshiroki h'to nari.
3.KANE―
MOTSI‐ TO TOSOKU 4.KLEINE GUTE GARTNER
5.TAISETS‐NARU DOBUTS 6.DER GROBE VOGEL 7.HYAKSHO‐ TO KARASZ
8.DAS FERNROHR ODER TELESCOP
9。
TOMEGANE
10。
DER ZERSTREUTE
ll.TORI‐
MAGIRETA H'TO 12.DAS MIKROSKOP 13.DER GUTE SCHWIMMER 14.YOKU OYOGU H'TO
15。
DE STEINKOHLE 16.SErTAN
WOERTERVERZEICHNISZ
挿絵 、 図、表 のた ぐいは一切 ない。
ドイ ツ語 の章 と日本語 の章 が混在す るが、
ドイ ツ語 の章 に続 いて 日本語 の抄訳が続 くとい うのが基本 になつてい るよ うだ:
ただ し、章 に よっては逐語訳 に近 い11章の よ うな 日本語訳 もあるが、12章で は まった く日本語訳 が付 いていない。対応す る章 の本文 の行数 を比べ てみ る と逐 語 訳 にな つてい るのか、抄訳 なのか、 あ るいは、 ほ とん ど訳 され ていないのか が見 当が付 く。
第1巻の独文と日文の対応する章の本文の行数
読み物のテーマ ドイ ツ語 の章 日本語 の章
1章と3章 泥棒 と金持 ちの話 34行 18行
4章と5章 小鳥 の効用 な ど 52行 28行
6章と7章 物 まね鳥 と百姓 の話 19行 20行
8章と9章 望遠鏡 と天文学 につ いて 92行 27行
10章と11章 ぼんや りした教授の話 29行 224 T
12章 顕微鏡 と生物学 につ いて 115行 無 し
13章と14章 水泳 の上手な (?)人の話 61行 20行
15章と16章 石炭 と炭鉱 につ いて 179行 17行
‑72‑
15章と16章では179行対17行で、日本語の分量が極めて少ない。15‐章は「石 炭」 とい う題であるが、石炭 と炭鉱の ことを詳 しく書いている。 日本語の抄訳 が付かない12章は、「顕微鏡」 とい う題で顕微鏡で可能 になる生物学や微生物 の研究 についての話である。
8章
と9章
の「望遠鏡 と天文学 についての章 で、こ れ も日本語訳が少ない。読み物のテーマを見れば分かるが、第1巻
の読み物の 特徴は文学読み物 になつていない点である。国語 の教科書 に取 られそ うな話は「泥棒 と金持 ちの話」「物まね鳥 と百姓の話」「ぼんや りした教授の話」「水泳の 上手な
(?)人
の話」の四つ ぐらいで、他は、理系、工学系の読み物 になつて いる。4章
と5章
の「小鳥の効用な ど」についての章 は後で詳 しくみるが、日本 語が明 らかな誤訳 になつているし、5章
の後半では ドイツ語の章 にはないナ メク ジを食べ るヒキガエルの効用が書かれ、4章
の ドイツ語の内容に自由に書き足 し た ような構成 になつている。1章
の抄訳 に当たるのは3章
で、2章
は 日本語文であるが、1章を元 にした和 文独訳用の文を書 き連ねた もののよ うである。pp.4‑5の2章
の ローマ字 日本語 文の全体を以下に再現す る。改行 も合めてオ リジナル を再現 しているが、ハイ フンはオ リジナルでは「hito‐ wa」 の よ うに見える印刷 になつている場合があ るが、今 日普通のハイフンの打 ち方 に変 えてある。2.Kono hito‐wa hana‐ hada omoshiroki h!to nan.
Ano mo五
‐ni hanahada tsuyoki tozoku sz'mau.Ta‐kaki ki‐no sh]ta‐ni samush'ki yabu― a五.Heishi‐ga te‐
ki―no mune―ni tan‐suts‐wo mukeshi.Kare‐ga hanaha‐
da odorokishi.Lrmarga todoma五 shio Ano hako‐ no ts,
kegi‐wa yoku anl‐ k′ Mori‐ni yuku―coto‐no iki¨
oi aranu.Kono hito‐ no tomodatsi‐ ga shinda;sore‐
yuye‐nl hana‐hada kanashinde‐ oru.Kono kiszenl― ̀ wo anata‐ no tamotto‐ni o‐ire nasai.Anata‐no tokei‐to
watarshi̲no kin‐ no kusa五 ―to tori― kai‐masho‐ kaP Kono hlto‐ga sh'o‐sh'o gaikoku‐ni samayotari.Anata dzubun taberinashita― kaP Anata‐ no tabakko‐
wo
tsisaki hako artli‐wa fukuro‐nite rnotte‐o五―inas‐ka?
Kotoshi Yoropa‐ni oku‐no ikusa‐
ga dekita.Kono
sroku̲nin̲wo yatoi‐ nasaru‐na;bakajaro desz.
‑73‑
Shinki‐no bugu‐ de wa toku utsz‐coto‐ga dёkiru.
watarshiga tomodatsi‐ni rnonOgataritwo kikaszeshi‐
yuye,taiso lⅣarai‐masrtao Shinki‐ no teppo‐ wa saki‐
kara komedz‐ni rnoto―kara komerare‐lnas.Teki‐
ga
mori‐no naka‐ni nigetao WatarShi‐ ga ano coto‐
wo
kikishi‐yuye,hanahada odorokishi.Itsu iye‐ ni kayero
‐to omoi‐nasaru‐ka?
一見す る と、ひ と続 きの文章 の よ うに も見 えるが、「強 き盗賊」(2行日)、「兵 士」
(3行日)、 「敵」(2行日か ら
3行
日)、「この人 の友達 」(7行日)ま
で読 んで も その間につなが りは認め られず、無関係の文を並べて一続 きの文章のょぅにし ていることが分かる。内容は1章
のDER SPASZHAFTE RAIIBER(「おか し な盗賊」)とは無関係ではないので、説明はまった くない し、他の章では同 じよ うな「文章」は作 られていないのであるが、おそ らく、和文独訳用の問題を作 る意図があつたのではないか と思われる。無関係の文 を並べて一続 きの文章の ようにするのは、辞書の用例な らともか く、今 日では異様 に見えるが、『 カデル リー文典』での文法説明の例文の示 し方 と同 じである。た とえば従属の接続詞 (unteЮrdnende Bindewёrter)の用例が複数の段落 に分 けてあげられている が、一つの段落内の各文は、関連があ りそ うなものもあるが、意味的 に無関連 なものを、おそ らく従属接続詞の意味的ま とま りの上か ら一つ にま とめて、一 段落 にしている。短かめの段落 を以下 にあげてお く。Das Holz schwimmt auf dem Wasser,weil ersteres leichter ist als letzteres.Alles hatte Bedauem mit dieserrl U暉配HiChen,da er bd Allen beliebt waro Noch ist kein Grund zu Besorgung vorhanden,indem ja Anes noch zum Besten enden kanno Sie hoffen da3 er Sie bezahlen
werde―
eitle Hoffnungen!(第2版
復刻版,1878,p.173,「木は水 に浮か ぶ。前者が後者 より軽いか ら。みんなが この不幸な男性のことをあわれがつ た。彼はみんなに人気があつたか ら。心配す る必要はまだない。すべてが 結局 うま く行 く可能性があるのだか ら。彼が報酬 を支払つて くれ ると期待しているようだが、期待 しても無駄だ よ」)。
したがって、この章の作成 にはカデル リー 自身が関わらたか どぅかは不明だが、
‑ 74‑
少 な くともその影響下 にあ る よ うに思 われ る。
各章 には巻末 に単語 集が付 いてい るが、幾つ かの章 には章末 にも単語 集 を付 ける とい う編 集上 の不 手 際 が見 られ る。 単語 集 の形式 は、
ドイ ツ語 の章 で は、
taglich̲mai‐ nitsiの よ うに ドイ ツ語 の単語 に 日本語 の訳語 があて られ、日本語 の章で は、dobuts― Thier s.のよ うに 日本語 の単語 に ドイ ツ語 の訳語 が あて ら れ てい る。 この訳語 の付 け方 か ら考 える と、 この教材 が独文和訳 と和文独訳 の 練 習 のた めの ものの よ うに思 われ るか も しれ ない。しか し、そ うい う体裁 は採 っ て い るものの、 日本語 の内容が ほぼ逐語訳 にな つてい る章 もあ るので、独文和 訳や 和文独訳 の解 答 が 出てい る こ とにな り、独 文 和訳や 和文独訳 の練 習用 の教 材 だ とい うの もへ んで あ る。 ほ ぼ逐語 訳 にな つてい る部 分 が あ る ところか ら考 えて、 自習用 の対訳教材 を作 ろ うとした とい う意 図 を読 み取 る こ とも可能であ るが、 そ うな る と、対応す る 日本文 がない章 があ った り、対応す る 日本語 の章 が抄訳 にな つていた り、 しか もその抄訳 が ドイ ツ文 の前半 に しか対応 していな か つた りす る章 があ るのが うま く説 明で きない。
結 局、第1巻の教材 の構成 は、意 図が不 明確 であ り、 日本語へ の訳読教材以 外 に どの よ うに利用 したのか は っき りしない と言 え る。
表 紙や扉 には題 名 は書 かれ て いないが、本 文の冒頭 には Europao Alte Geschichte。 と書 いてあ り、ヨー ロッパ の古代 史 を扱 ってい る。
全24章か らな るが、各章 には見出 しはない。
章 ご とに ドイ ツ文字 とラテ ン文字 を交 互 に使 い分 けてい る。 ラテ ン文字 も勉強 させ よ うと い う意図が明確 であ る。巻末単語集 の他 、年 表 が巻末 に付 いてい る。挿絵や 地 図 のた ぐい は まった くない。記述対象 はいわ ゆ る歴 史時 代以前 の考古学の分野 か ら西 ローマ帝 国崩壊 までであ る。 ラテ ン文字 で ドイ ツ語 を書 く場 合 の方 式 は、エ ス ツ ェ ッ トを使 わず にszを使 う点 が独特 で あ るが、 ウム ラウ トの使用 法 も 独特 であ り、 ウム ラウ トを使わ ないの を原則 に してい るよ うである。使用 しているのは
2章
図2:第3巻の表紙、扉 も 同一内容。
‑75‑
と10章だけで、未使用が
4章
、6章
、8章
、12章、14章、16章、18章、20章
、22章
、4章
となつている。ただし、10章ではウムラウトの使用は1回だけである。
内容 につ いて も簡単 に見てお くと、本文 の冒頭 は 「ヨー ロッパ は もっ とも小 さな大陸 のひ とつ であ るが、そ の狭小 さにもかかわ らず もつ とも豊かで、強力
で、もっとも人口が密集した大陸となつている」となつていて、本文の末尾が
「偉大な西 ローマ帝国の終焉 によって中央 ヨーロッパの諸民族の重要性がます ます顕著 にな り、 ヨー ロッパの新 しい歴史が始まった。おお よそ西暦500年ぐ らいの ことであ り、つま り1,400年足 らず前のことである。」 となつている。
ドイツで出版 された万国史 (つま り世界史)の古代編 な どを参考 にま とめ ら れたものだ と想像 されるが、少な くとも完全な復刻版のようにはなつていない。
日本の事情 に合わせて内容が書 き換 えられ、言わば日本版が作 られていること は間違いない と考えられ るか らである。第
3巻 24章
で も、西暦 ″6年
の西 ロー マ帝国の崩壊 について触れているが、それは今か ら 1,400年前だ と述べている。書かれた1871年頃に合わせた計算 をしていることが分かろ う。また、アジア と の関連を述べた箇所 も目に付 く。 これ も日本在住のお雇い外国人だか らこそこ のような書 き方 になったのではないか と思われる。
ドイッ人が ドイツ人のため にヨー ロッパ史を書 くな ら、 日本やアジアの ことに触れる必要性はそれほどな いことは間違いない。い くつか内容をひろつてみると、「中国のようなアジアの 幾つかの国においては 4,000年 か ら5,000年前 には文明がかな り発達 した国家を 形成 していたが、現在の ヨー ロッパの主要国で文化の最初の始ま り(die ersten
Anfa,ge der cultur)が
見 られたのは 1,000年前か ら2,000年前 に過 ぎない。」(p.1)。「野生のコメはイン ドの川岸 に生育 していて、イン ドで栽培 されるよう
になった。4,000年前 にはすでに中国にもたらされ、中国か ら日本に伝わつたの である。 ヒエ・アワ (Hirse)も同様である。」(pp.7‑8)。 「アジアで最古の文明 が発達 したが、 ョー ロッパの中で最初に文明が発達 したのは、アジアと気候が 似ていてもっともアジアに隣接する地域だった。」(p.13)。「キ リス ト教の創設が 極めて重要だつたのは、東アジアにおける仏教が多 くの民族をつなげたことと 同 じであ り、キ リス ト教は ヨー ロッパ とァメ リカにおいて同じ役割を果た した のである。」(p.21)。 著者の興味深い ヨー ロッパ とアジアの比較は、自然科学の 発達、未発達 に関する指摘である。「建築物やモノはアジアでも非常に多 くの美 しいものが作 られた し、 アジァには文学や宗教の領域でもす ぐれたものがある が、古代ギ リシア人に遅れをとっているのが自然の研究
Oas Sttdium der NatuD
‑76‑
で あ る。天文学 の領域 での一部 の例外 はあ るが、ア ジア人 は過去 に実験 を行 な っ た り、 自然や 自然現象 を注意深 く観察す る とい うことを行な っていない。古代 ギ リシア人 はア レクサ ンダー大王の時代 には 自然 と真摯 に向き合 っていた し、
解 剖 学、す なわ ち人体や 動物 の体 につ いて の研 究や 自然 史 (Naturgeschichte) や物理 学の研究 は この時代 か ら始 まってい る。幾何 学 に して も今 日で も古代 ギ
リシア と似 た よ うなや り方 で教 え られ てい る。 古代 ギ リシア人 は力学の諸要素 (die Elemente der Mechanik)を 定 め、天 文学的観察 を後世 に残 してい る。」
(p.26)。
2.第 3巻
の著者 は ワグネルかこの章で は、 まず、編著者 問題 の容易 な『 ドイ ツ語 の読み物 と演習』第
3巻
につ いて考 えてみ よ う。第
3巻
は 日本 にお ける最初期 の ドイ ツ語教材 として題 名や 存在 は過去 にも と りあ げ られ て きた (山岸1939b:385,宮
永 1993:230,2004:鈍
0)。 しか し、第3巻
の 内容 につ いて は詳 し く触れ た ものはな く、鈴 木(1975:103‑104)に「第一分冊、第三分冊 ともに ローマ活字で ドイ ツ文 を書 き、
そ の後 に ローマ字綴 りで 日本訳 が記 してあ るが、
ドイ ツ人 の編集 にな った もの か訳語 がおか しい」とあ るが、活字 につ いて も、日本訳 につ いて も記述 が間違 っ てい る。第
3巻
の 日本語 は巻末単語 集 だ けで ある し、 ドイ ツ文 は ドイ ツ文字 と ラテ ン文字 を交互 に使 ってい る。 じつ は、 田中 (1968:490)でも指摘 され てい る こ とで あ るが、葵文庫本 の第3巻
には 日本語 で 「ワク子 ル
萬 國史」 とい う内容 の貼 り 紙 (図
3)が
あ る。著者 名 と題 名 を表 してい る もの と思 われ る。「ワク子ル」とは誰 であろ う か。 この貼 り紙 はおそ ら く葵文庫側 で付 けた ものだ ろ う。 なぜ な ら、幕末 の徳川幕府 旧蔵 書 にも複数 の貼 り紙 がが付 いて い る こ とが あ るが、後 か ら付 け られ た方 の張 り紙 と赤字(「二 百五十八番」 と 「独」 が朱書 き され てい る)と連番数字 の形式 が同 じで あ るか らだ。 した が つて、静 岡学問所や葵文庫 (現在 は蔵 書 の 分類名であ るが、かつ て は図書館 の こ とで も あ つた)などで統一的 な形式 で貼 り付 け られ た張 り紙 で ないか と思 われ るので、「ワク子ル
一一一一一 一一
・ 一瀞 ・ 一一
・ ﹄ ・ 一・
一一 ・ 一一 一一一一
・ 一一 一・一
・ 一一・ 一一・一一一一一一一一一一一一一一一一 ・ ・一一一・・一 一一一一一一一一一一一 一 ・・ 一・.. 一・ ・一・・ 一・一・・・ 一一 ・ 一一
漁 儡
■ ■
●
■ 一■
一 ′ 一 ■ 一 ・・一一一・一争
■
図3:葵文庫本第3巻の貼 り紙、
別の一冊では「二百五十七 番」。
‑77‑
高國史」は出版側で付 けたものではな く、確実な情報ではない とい うことに なる。おそ らく、そのため田中 (1968:490)では貼 り紙の 「ワク子ル」 につい てそれ以上追求 していないのか もしれない。 田中は 「ゴッ トフ リー ト・ ヴァゲ ネル」(田中の表記のワグネル)との関連 については何 も述べていない。しか し、
何 らかの確実な情報 を葵文庫側が持 つていたか らこの題名 と著者名を付 けたの ではないだろ うか。インターネ ッ ト上の古書店の連合体の
ZVAB(the largest
onlihe marketplace of Geman antiquarian books)で 検索 して もWagnerやWagenerのWeltgeschichte(「 世界史」
)と
い う教科書は見つか らない。前 章で詳 しく述べた ように内容が少な くとも日本版 になつているので、ドイツの 教科書 をそのまま復刻 したものではない。したがって、洋書調所時代の文久
3年
(1863)に 日本人だけで
H:Weiffenbachの Leitfaden zum Untedchtin der
deutschen Sprache und Literatur(葵文庫 AG14)の文法部分だけを復刻印 刷 しているが (葵文庫AG15)、
ドイツ語の内容をま とめた り、書 き換 えた り とい うことは当時の 日本人教員 には到底無理な話だろ う・ 。となると、少な くと も教材の ドイツ語の本文の著者は「ワク子ル」 とい う名前のお雇い外国人 とい うことになるだろ う。明治期のお雇い外国人についての膨大なデータを合む『 資 料御雇外国人』(ユネスコ東アジア文化研究セ ンター編)に
は「ワグネル」と見 出し語で表記 される人物がひ とりい るだけであるИ。ワグネル、つまりGottfriedWagenerである。現在ではワグネルがいちばん通用 していると思 うが、当時 も 様々な表記が見 られた ようである。寄 田 (1990)を見ると、残 されている当時 の文書 には「ワグ子ル」と書かれた り、「ワク子ル」と書かれた りしているよう である。葵文庫本の貼 り紙 と同 じ表記 「ワク子ル」が見 られる文書 も幾つかあ るよ うだ。た とえば、 ウィーン万国博覧会随行に際 しての契約書が 「ワク子ル 条約書」になつているし、明治
8年
に内務省勧業寮に文部省 との隔 日勤務で雇 用 された ときの契約書がやは り「独逸人 ワク子ル フ勧業寮開成学校両所へ雇入 条約書」 となつている。お雇い外国人教師ワグネル について書かれた文献は少な くないが、大学南校 時代の記述はほ とん どな く、
ドイツ語教材を作成 した事実な どは どこにも書か れていないが、 ワグネルが第
3巻
の著者であることを支持する言語的特徴が第3巻
の本文に見 られることについて述べておこう:ラテ ン文字で書かれている章 には大文字のJを
Iに 混同する間違いが見 られるが、大文字のIとJの
混同自体 は幕末の 日本最古 の ドイツ語教材『 官版独逸単語篇』(1862)にも見 られ るが、その場合は Iを
Jに
混同 している。大文字のJを
Iに混同す る間違いは、ワグネ‑ 78 ‑
│で 磁 i
図
4:区
別 され ない ドイ ツ文字 の大文字の lと J(『ヘステル氏第一読本』から) ルの ラテン文字の筆記体 を書 く際の書 き癖で説明できると思われる。
ドイツ語 の場合iと jの 音価の差はもともと小 さく、一方が母音で、一方が子 音 (半母音
)と
い う違い ぐらい しかない とも言える。かつては索引な どを付け る際にも同 じ文字 として扱われ ることもあ り、iと jで 始まる語の中で jで 始ま る語がiで始まる語の前 に配置 されるよ うなこともあつた ようである。おそらく、ドイツ文字の大文字のIと
Jで
同 じ文字が使われ るとい うのも、ドイツ語での音 の類似 とい う事情 を反映 していたのであろ う。 しか し、小文字では区別するこ とになつていたわ けであるか ら、ドイツ語母語話者が ドイツ語の単語の先頭が Iな のかJなのか分か らない とい うことはあ り得ない。
ドイツ文字の大文字のIと Jは同一文字であ るが、字形はラテン文字の
Jに
似ている。おそ らく、そのため、幕末の洋書調所で刊行 され た『官版独逸単語篇』では、Iの 使われ るはず のところでもJを書 くとい う混同が起 きている のだ ろ う。 図5の
ドイ ツ語 の単語 の場 合、Jagdhund(「 猟大」)は正 しく書かれているが、
JgelはIgelと書 くべきところである。次のJltis
もIltis(「ケナガイタチ」
)と
書 くところであ る15。1870年に大学南校で出 された『 ドイツ語 の最初の レッスン』でも表紙 にJm Gebrauch
(「使用 中」)と
Imと
書 くべ きところをJmと書いている。 じつはワグネルが丁寧 にラテ ン 文字筆記体で書いた手書 きの英語の文書 「織 物工業学校意見書」(榎本農商務大臣あて
)が
残 されているが、『 ワグネル先生追懐集』(以 下『追懐集』と略す、1938)の謄写版 (図 6)図 5:日 本最古の ドイツ語教材『 官 版独逸単語篇』(1862)から
暴
││図6:ワグネルの手書 きの In Japan (英 文)
を見 る と、大文字 の Iと Jを区別
‑ 79 ‑
していない。
ドイッ語では英語の筆記体 とはことな り、 ラテン文字の筆記体の Iと Jは図4の ドイッ文字の筆記体 とほとんど同じ字形を今 日でも使用 している。
図6のワグネルの筆記体は文字の下の基本線 を下 に突き抜 けていないので、
Jで
はな くIを 書いていることになる。したがって、厳密にワグネルの文字を読み取 れば、In lapanと なるはずである。ワグネルの書 き癖である。おそ らく、ドイ ツ語の原稿 も同 じよ うな書き方だつたのではないだろ うか。 もちろん、だか ら といって、ヮグネルがIと
Jを
区別できなかった とい うことではないはずである が、ワグネルの原稿をもとに文字を解釈 した 日本人にはJを
Iと判断す るひ とが 出てきてもおか しくない。第3巻
のラテン文字で書かれた章で、Jahreや Jaharen をIahreやIahrenと する間違いは合計12回生 じている (14章 、16章、18章、 20章、22章 2回、24章
6回)。 4tLに もIahrhunderte(24章
)、Iedermann
(8章)、
Ierusalem(22章 )と
いったJを
Iに する間違いがある。Iedermann
(8章)は例外だが、他はすべて14章以降で出現 している。逆 に Iを Jと して しまった誤 りはすべて12章以前で起 きている。Jn,Jm 10回の内訳は、2章
2回、6章
3回、8章
1回、10章1回
、12章3回
である。Jtalien,Jtaliensとする間違いは6回あるがすべて12章で起 きている。
Jndienや
Jnderとす る 間違いは5回だが、4章
1回、6章 2回
、10章2回
になっている。他 にJnnere (2章)、Jnnern(6章
)、Jndessen(4章
)、Jnseln(2章
)があった。IをJに
して しま う間違いはすべて12章までに生 じている。12章までを担当する日本人 と14章以降を担当する日本人が二人だった とい うことだろ うか。ワグネルの原 稿を受け取 ったあ との印刷 に至 る工程の どこかで起 きた誤 りだ と考えられるか ら、印刷原稿の作成、植字、校正のすべての工程が行なわれていたか どうかは 分か らないが、いずれかの工程で起 きた誤 りであることは間違いない と思われ る。 これ らのェ程の どこかに二人の 日本人がかかわっていた と推定 される。:。 Iζηl̀露竜13「こ
TI瞥
図
7:蹴
1/雷撃瘍讐驚喜漏デ 第3巻末尾。
尚友塾で使われた教科書 をあげているが、書名が『 ワグネル万国史』 となって いて、森鴎外 も学習に使 った可能性があると述べている。上村 も宮永 も『 ワグ ネル歴史』や『 ヮグネル万国史』が大学南校で出版 された ドイッ語教材である
‑ 80 ‑
とは述べていない し、著者のワグネルが誰であるかについてもなにも述べてい ないが、本稿で検討 した結果か ら明 らかだ と思われ るが、1871年刊行の大学南 校の ドイツ語教材『 ドイツ語の読み物 と演習』第
3巻
がそれであ り、著者はゴットフ リー ト0ワ グネルである と考え られ る。
3.第 1巻
の編著者について『 東京帝国大学五十年史』(1932)に「外国教師」の任免等 に関す る表が掲載 されているが (上冊第
1巻
第2篇
補遺)、 明治3年
までに大学南校 に採用 されて いる ドイツ語母語話者はカデル リー とワグネル しかいない。スイス出身の「ヤ コツブ・カデル リァ」は、受 け持ち学科 (「科 目」の意味)が ドイツ語で、明治3年
1月 か ら明治4年
11月 までの雇用期間 とされている。ワグネルについては「ジー・ ワグネル」 とされ、
ドイツ出身で、受け持 ち学科 は ドイツ語、雇用期 間は明治
3年
10月 か ら明治10年
2月 になつている。「外国教師」の任免等 に関す る表か ら明治
4年
中に採用 されている ドイツ語 担 当の他の外国教師を探す と次のひ とたちがいる。出身国 と採用開始時期 と受 け持ち学科 を示す。a.ホ
ルツ、ドイツ出身、明治
4年
1月 、ドイツ語
b.イー・クニツピング、
ドイツ出身、明治
4年
9月 Ю、ドイツ語、文学、数 学
c。 カール・ シエンク、
ドイツ出身、明治
4年
11月 、ドイツ語
しか し、第
1巻
の編著者の可能性があるのは、出版年が扉 に書いてある通 り 明治3年
であれば、編著者 として可能性のあるのはカデル リす とワグネル に限 られることになる。もう一人デーデルライン(デュデルライン,Lud宙
g Dttedein) とい うドイツ人お雇い教師がいるが、丸山 (1936)では 「明治初年来朝 し、大 学南校で独逸語 を教授」 となつていて、 田中(1968:467)で
は1868年の とこ ろに「動物学者エル ヴイン・ディーデル ラインは来 日して、大学南校で ドイツ 語 を教 えたが、また、帰国 して、後 にはシュ トラースブル ク大学の動物博物館 長兼教授 となつた」 としてぃるが、丸山の 「明治初年」 を「明治元年」 と取 り 違 えたために起 こつた錯誤ではないか と思われ る。動物学者のデーデル ライン はインターネ ッ ト上で生年等が確認できるが、1855年生 まれだか ら大学南校で 教 えた とすれば十代で教 えた ことになつて しまい、あ り得ない。『 資料御雇外国‑81‑
人』(ユネスコ東アジア文化研究セ ンター編
)で
は、各種資料の採用開始年や雇 用期間は一致 していて、明治12年 11月 に東京大学医学部である。したがつて、第
1巻
に関わることができた外国人教師はカデル リーか ワグネルかの どち らか であることはゆるがない と思われ る。カデル リーは大学南校で最初 に ドイツ語を教 えた外国人教師である。522ペー ジの 日本で最初の本格的 ドイツ語教材『 カデル リー文典』(1870)の編者である。
大学南校の ドイツ語教材で編者名が明記 され、序文な ども整 えているのはこの 本だけである。上村 (1985a)はいわゆる『 カデル リー文典』だけでな く、大学 南校の他の ドイッ語教材 についても'「明治三年 (一八七〇)大学南校 より三種 の ドイツ語学書が上梓 されている。すべて同校生徒用 にカデル リーが編纂 した もの と考 えて よい」 と述べている。また、カデル リーについては 「国籍がスイ スであるとい う以外、生没年 をはじめその経歴はほ とん ど知 られていない」 と 書き、「彼の生涯 とくに来 日前、帰国後の動静 については全 く知 られていない」
とも書いている。インターネット上のHistottsches Lexikon der Schweizし HLS17) で調べ ると、あつけな く、Jakob KaderliBと して見つかつた。事典上の記載を もとに彼の生涯 を簡単 にま とめてお こう。1827年7月 22日にスイスのベルン県 の リムパハ村 Ю
(Limpach)で
生まれ、1874年12月 31日にマルセイユで死去。村の学校 (Dorfschule)を卒業 してか ら、農家で下働 きをして、その後スイス 軍 に入 隊 し、 ナ ポ リに行 く。 物 覚 えが早 く、 語 学 の才 能 もあ り (rasche Auffassungsgabe und Sprachtalent)、 ナポ リで家庭教師の職 を得 る。その後、
ク リミヤ戦争でフランス軍で働いたのちにサンク ト・ペータースブル クや ワル シャワに行き、1860年にはイギ リス、スコッ トラン ド、アイル ラン ドを旅行 し、
1861年か ら1868年にかけてシベ リアを旅行 し、1868年か ら1872年に中国 と日 本 を探検 し(erkunden)、 日本を出国 した後は、1872年か ら1874年にアメ リカ とカナダを旅行 し、ヨー ロッパ に帰国のためにニューファン ドラン ド島、グ リー ンラン ド、アイスラン ドを旅行 中に発病 し、旅行 を1874年に中断 した。フラン スのマルセイユで
12年
に渡 る世界旅行 (シベ リア旅行か らのものだろ うか)に
つ い て の 回想 記 を執 筆 し始 め るが、途 中で病 没 。 シベ リアで は鉱 山学校(Bergbau̲Akademie)に
も通 った らしい ことが事典 に書かれているが、どう や ら、それほ どの教育は受 けず に、「物覚えが早 く、語学の才能 もあ り」とい う ことで大学南校で最初のお雇い ドイツ語教師にまでな り、総ページ数522ペ
ー ジの『 カデル リー文典』 を書き上げた ようだ。事典の記載 には 日本で ドイツ語 教師をしていた ことは書かれていないが、大学南校 の3人
めの ドイツ語のお雇‑ 82 ‑
い外国人教師 であるクニ ッピングの未刊文書 を翻訳 した『 クニ ッピングの明治 日本回想記』(小関/北村 1991)の記述「やがて、われ らがスイス人カデル リ が家庭教師 (Hauslehreう としてシベ リア経 由で来 日した」の記述 とも一致 し、
本人に間違いない と思われ る。
一方のワグネルは明治のお雇い外国人の中で も日本への貢献 とい う点では際 立 っている人物であ り、佐賀県では有田焼 きの改良 に従事 し、上京後は、大学 南校、大学東校の教育 にあたつた。その後、国策 として当時重要だつた博覧会 事業 に協力 し、 ウイァン万博や フィラデル フイア万博t内国勧業博覧会な どで 日本 の殖産興業政策 に貢献 している。後 に京都舎密局で働 くことになるが、島 津製作所の創立者の初代島津源蔵 に大 き く影響 を与 えている。「島津製作所は明 治八年、科学立国を担 う教育用理化学機械製造業 として産声 をあげた。創業者 島津源蔵は、店の前 にある舎密局 に出入 りし、,ワグネルの弟子 として さまざま な機械 を生み出 してい く」〈荒俣 1991:94)。 その後、東京工大の前身の東京 職工学校 (東京工業大学の前身)や東京大学でも教育・研究を続 け、1892年に 東京で亡 くなつている。 ワグネルの大学南校への着任の時期 については、東京 工業大学の敷地内にタイムヵプセル として埋められている陶管記載の略伝2も間 違つていて、「同四年鍋島藩 ヲ辞シテ入京シ理化学ヲ大学束校及南校二講ス」(1937 年 12月
)と
書いているし、他 にも間違 つた記述が流布 したせいか2、 着任 を明 治4年
だ とす るものがいまだにある (田中1968:487,吉
田 1968:76)。 『 日 本近現代入名辞典』̀(吉川弘文館,2001)でも「明治元年 (一八六八)来日、同 三年佐賀藩 に招かれ、有田焼の改良 に従事。翌年上京、大学南校ヾ同東校 (東 京大学の前身)の
御雇教師 となる。」としてい る。明治4年
説が間違つていることは『 東京帝国大学五十年史』だけでな く、最近の詳細な研究に基づ く『 資料 御雇外国人』(ユネスコ東アジア文化研究セ ンター編
)や
公文書 を調査 した寄田(1989,1990)な
どで明 らかであ り、 ワグネルの大学南校での雇用期間は明治3年
10月 か らである。教材の編著者問題がカデル リーか、 ワグネルか とい う二者択一の問題 と考 え るな ら、教材の中身を検討すれば、1答えを出すのはそれほ ど難 しくはない と思 われる。カデル リーは『 カデル リ■文典』 との比較ができるし、 ワグネルの場 合は日本 への貢献の大 きな ドイツ人だつたので、伝記 も残 されているし、 ワグ ネルの書いた ドイツ語論文や手書 きの手紙な ども残 されている。また、既に見 た ように『 ドイツ語の読み物 と演習』第
3巻
はワグネルの著作 と考 えられるの で、 これ らをもとに第1巻
の編著者を推定することは十分可能だ と思われる。‑83‑
カデル リーではな くワグネルが第
1巻
の編著者だ とす る解釈 を支持す るのは 以下のような点である。a.第 3巻
と同一題名の同一のシ リーズの教材だ とい うことb。 日本語が使用 されていること
c.ラテン文字 と ドイツ文字の両方が使用 されていること
d.自然科学や鉱山学の入門読み物が含まれるとい うこと
e.編
著者名が書いてない とい うことf.ドイツ文字での
3の
使用法第
3巻
がワグネルの著作であるな ら、第1巻
も同一の題名、同一の体裁でつ くられている教材であるか ら、第1巻
もワグネルが中心 になつて作成 したもの と考えるのがいちお う自然な解釈であろ う。同一の体裁 とい うことでは、扉 に ある「明治」の ローマ字表記 もそ うであるが、第1巻
と第3巻
は ともに Meidii と表記 されている。「明治」の表記の仕方は、『 カデル リー文典』ではMeidschi と書かれている点で ことなっている。 この表記の仕方の違いは、 さらに調べて みると、「明治」の表記だけでな く、第3巻
の ローマ字で書かれた 日本語の単語 で 両 は何度 も使われているが、dschは
まった く使われていない。第1巻
でもロー マ字でdschは
一例 もない。『 ドイツ語の読み物 と演習』では ローマ字の 日本語が使われているので、少 な くとも日本語の聞き取 りがある程度はできる ドイツ語母語話者でない といけ ないが、カデル リーが 日本語ができた とい うことはこれまでの ところ知 られて いない ようであるし、『 カデル リー文典』では、タイ トルの ところの「明治」と
「大学南校」のローマ字以外、 日本語がまった く使われていない。カデル リー が 日本語ができなかった とする と、カデル リーには第
1巻
の作成で重要な役割 は果たせなかったはずである。 日本人教員が ドイツ語 を日本語への翻訳を担当 し、その日本語の ローマ字化を外国人教師が行なったのかもしれないが、 日本 語のある程度の知識がなければ、 日本語はほ とん ど聞き取れないのではないだ ろ うか。 ワグネルの場合は 日本語が出来た と言われていて、後年は講演 も日本 語で こな している。『 独逸東亜細亜研究協会報告』第6巻
第57号
(1896)に発 表 された略伝の邦訳が『 追懐集』に収め られているが、 ワグネルはパ リ中央電 信局で仕事を得た ときに、「勤勉 と図抜けた才能を現わ し短期間の間に教師にも つかず只文法書 と字引 とをた よりにして電信 に用い られるすべての国語をフラ‑84‑
ンス語 に翻訳 し得 るようになつた。[..:]か くして氏 は信 じられぬ程短時 日月の 間にイタ リー語 スペイン語英語オ ランダ語及デ ンマル タ語 を覚え之等の言葉で 書かれた新聞を楽楽 と早 く読み こな し得 るに至 つた。」(p.154)。 お世辞や誇張 も あるだろ うか ら文字通 りに理解す るわけには行かない と思 うが、語学的才能 に 恵まれていた らしい ことは事実だろ う。明治
5年
に商法学校設立の計画が文部 省 にあつたが、 ワグネル について 「日本語 ニモ相通候二付、同人 ヲ以テ教師 ト 仕度」潟とい う伺いが出されている。『 カデル リー文典』は基本的 に ドイツ文字で書かれ、外来語系の文法用語の Prasens(「現在形」
)な
どしかラテン文字が使われていない。『 ドイツ語 の読み 物 と演習』の第1巻
では、ドイツ語は基本的 には ドイツ文字で書かれているが、各章の題 はラテン文字である し、 日本語がすべて ラテ ン文字で書かれている。
ラテン文字 も使 うとい う方針で編集 されている点が ワグネルの書いた第
3巻
と 共通 している。『 カデル リー文典』と『 ドイツ語の読み物 と演習』第1巻
ではラ テン文字の使用 に関す る編集方針が異なつている。第
1巻
の特徴 になつている理工学分野の入門的読み物はワグネル には編集で きる内容だ と思われ るが、カデル リーにはできなかつた可能性がある。『 カデル リー文典』の後半 にも読み物が付いてい るが、いわゆる文学系の読み物 に限 ら れている。その点では、 ワグネルはゲ ッチ ンゲン大学 において数学 と自然科学 でギムナ ジウム教員の資格 をとつているし、同 じゲ ッチンゲン大学で物理学 と 数学の分野で博士号 もとつているので、理工学的な内容の教材 を作成す ること がで きてもおか しくない。編著者名にらぃては、大学南校で出版 された ドイツ語教材で著者や編者の名 前が書いてあるのは『 カデル リー文典』だけであるが、 これはカデル リーが著 作権意識の強いひ とだつた ことが関係 していると思われ る。実際、1870年刊の 動 ページの『 カデル リー文典』の第
2版
が版の大 きさも変 え、文法の部分だけ を192ページにしたものがカデル リーに無断で1872年に出版 されているが、こ れ に対 してカデル リーは外務省 に抗議 し、外務省が文部省 に照会 し、文部省が 南校 に問い合わせている件が山岸 (1939b)に紹介 されている。ベルヌ条約加盟 にあわせて 日本で著作権法が制定 されたのは明治32年
(1899)の ことであるか ら、それ以前で著作権の ようなものに対す る意識が極 めて希薄だつた と思われ るが、南校 も返答 に苦慮 した ことが南校文書か ら分かるよ うである。もつとも、カデル リーが抗議 した理由は本人の言い分が分か らないので、正確な ところは 分か らないが、抗議 を受 けた外務省が文部省へ問い合わせ している文面を見る
‑85‑
と、「過半不具之儘ニテ」とい う言葉があるので、初版の間違いが直 されないで 出版 されている点 も気 になったのか もしれない。いずれ にしても、著作権意識 の強いカデル リーが本書の編著者であつた ら、本書にもカデル リーの名前が印 刷 されていたのではないか と思 う。
ドイツ文字で ドイツ語 を書 く際の
3の
使い方が『 カデル リー文典』では独特 である。複数の書 き方をしている場合 もあ り、規則的 に使い分けをしていない 点はある力`、la3enや
Inti3enやe3enや
fre3en,やgegeBenや verge3enな
ど の短母音 に挟 まれている3を頻繁 に使用 しているが、このような使い方は『 ド イツ語の読み物 と演習』第1巻ではなされず、fressen(第 1巻4章
相 やmussen(第
1巻
12章本文)の
よ うになっている。カデル リー的な書 き方ではない と言 える。しか し、表記の くせを細か く検討 してみると、第
1巻
の全体 を通 してカデル リーが関わつた とい うことは、やは り、否定 され ると思われ るが、第1巻
の一 部でカデル リーが教材作成 に関係 していることもあ りうる と思われる。カデル リーが関係 しているとす ると、第1章
や第1章
をもとに構成 されている第2章
、 第3章
が可能性が高い と思われ る。なぜな ら、『 カデル リー文典』では不定代名 詞のelwasや
nichtsを 大文字で書いているが、その特徴が第1巻 1章
の ドイツ 語 にだけ見 られるか らである。このelwasや
nichtsの 大文字書 きは本来間違い ではな く、当時の ドイツ語の文法規則 としては正 しかったものかもしれない。明治初期の ドイツ語教材 として日本でもおおいに使用 されることになった『 シェニ フェル氏文法』にι物 滋π bιグ
%助
薇物甍力″物 滋″滋%おθ力ιπ Qttπ力θノ勿″″″%π″雀πCルSSιπ力び力ιπ″Z′力ππsttJ″π υο
%巳
軌 %%グ Sθ力後 のでもそのよう に説明しているからだ。わたしが見た版は 1868年 にケルンで出版された第7版
であるが、Etwasと
Nichtsの 用法を名詞的な場合(als Dingwёrteう と形容詞 的な場合 (als Eigenschaftswёrter)に分け、名詞的な場合には大文字で書き、形容詞的な場合には小文字で書 くとい うルールを説明している。形容詞的な場 合とい うのは nichts Gutesや elけ
as Neuesの
ような使い方を指 している。第1巻
1章 ではEtwasと Nichtsが
大文字で書かれている。ao Jetzt werde ich Dir Etwas sagen[。 …]
bo Jetzt habe ich Nichts inehr,als dieses Pist01 [:..]
‑86‑
巻末単語集でもE師as‐ aru‐
monoや
Nichts‐nandemo(nai)と
なつている。etwasに
ついては1章
以外の第1巻
に3回
使われているがすべて小文字で書い てあるが名詞的用法 と言 えるものはない。nichtsについては1章
以外の本文に は出て来ないが、第1巻 7章
の巻末単語集 には小文字の nichtsが 出てきている。iku‐mo― nichts mehrと nakarishi‐ nichtsで ある。第
3巻
ではelwasは
本文 では副詞用法のelwas spaterだけだが、巻末単語集 には名詞的なetwasが
出て くるが、すべてガヽ文字で書かれている。zu etwas verhelfen‐ fugo‐sグruと etwas durchsetten‐hoka‐no h'to―ni sakote okonauと auf etwas sto3en‐ deau‐で ある。nichtsはワグネルの書いた第3巻
に2例
出て くるが、1例
は形容詞的用法 のnichts andёresで ある力ヽ目的語として nichtsが 使われているHannibal hatte waehrend dieser Zeit nichts untemehmen koennen, [.…](第 3巻
16章)では小文字で書かれていて、ワグネルは nichtsを 名詞的用法であつても小文字 で書いた よ うだ。 これは第
1巻 1章
の書 き方 とは異なつている。4口 日本人 (教員
)と
の協力関係はどうだつたのか日本人教員 との協力関係 を教材の言語的特徴か ら推測 してみ よう。『 ドイツ語 の読み物 と演習』 について これまで先行研究で 日本人教員が教材作成 に関わつ てい る可能性 について述べたものはない。外国人教師の関わ りだけが注 目され てきている。鈴木
(1975:104)は
、第1巻
についてであるが、「 ドイツ人の編 集 になつた ものか訳語がおか しい」としてい るし、上村 (1985a)では「すべて 同校生徒用 にカデル リニが編纂 したもの」 と書いている。それでは、 日本人教 員は作成 にまった く参加 していないのだろ うか。外国人教師の教材作成への関与 を支持する事例 を最初 にあげてみ よう。
a.日本の実情 に合わせた内容
b。 日本語 として間違 つてい る語形
c.ローマ字のjと
yの
誤用ドイツ語の文章が 日本の実情 に合わせた内容 になつている箇所が第
1巻
にはあ り、ドイツ語 の内容の書 き換 えは当時の 日本人教員 にも無理 だつた と思われる。たとえば8章にはFusi‐yama(喧士山」)から地平線までがおおよそ64 JapaneSiSChe Meilen(「
64里
」)に
なることが書かれているが、 ドイ ツで出版 された本 にあつ た文章であればこのような記載はあ りえない。15章で も日本式マイル としての‑ 87 ‑
「里」が使われている。
8章
や15章はお雇い外 国人教師が 日本で書いたか、書 き直 したものであることは間違いない と見て よいだろ う。第3巻
にしても既存 の歴史教科書を縮めてま とめたものだ としても、少な くても日本版が作成 され ていて、 当時の 日本人教員では作成できなかっただろ うと考えられる。また、 日本語 に見 られ る語形の間違いな どは日本人が間違えた と考えるより は ドイツ語母語話者の間違い と考えられ るだろ う。外国人教師の間違い と考え られる特徴が見 られることは確かである。
第
1巻 8章
単語集でhell‐ akiraki,dunkel‐ kurakiとなっているが、9章
の 抄訳でもakirakirto kuraki'tOkOro miyuredomoと なっているので、akiraki は誤植ではありえない。ドイッ語母語話者が類推によってkurakiと同 じ末尾形 式の形容詞 を「明るき」か ら作って しまった間違いだろ う。単語集だけでな く、日本文め方でも akirakiが 出てきているのは、ローマ字化を外国人教師が担当し たためではないだろ うか。arayertl(第
1巻
:1章 単語集、15章単語集)も
「あらゆる」であろうから、
eruという音形が日本語では動詞で頻繁に出てくること
などから外国人が類推 して間違えた可能性があるb
ローマ字のjと
yを
入れ替えたことで起きる誤用も第1巻
のローマ字日本語文 に観察される。『 ドイッ語の読み物 と演習』のローマ字ではヤ行子音を書 くのにyを
使 うのを原則としているが、ときに bakaJarO(「 馬鹿野郎」)の
ようにjも 使われている。これはもちろん ドイッ語ではjがヤ行子音に対応 しているためで ある。ところが、yを
使った日本語 としては意味不明の語がい くつも見つかる。ドイツ語で「100フィー トほどの高さの山」と書いてあるところに対応するロー マ字日本語文がtakasa yu‐dio¨no yarna(第 1巻
9章
本文)となっている。yu‐両0 が日本語 として意味不明であるが、ドイッ語文の意味から考えると「高さ10丈 の山」のはずである。とすれば、この間違いはju̲両0と 書いてあった●―マ字 を後から日本語の発音の分からない ドイッ語母語話者がjを ドイッ語のように読 んで「ユウジョウ」と解釈 し、それをyu―djoと書き直 したものではないだろう か。ローマ字のiの解釈がかかわっているとすると、一般的な問題なので、同種 の間違いが他にもあるはずだが、実際、幾つか見つかるようだ。「上弦下弦」と 思われるところをyogen‐kagen(第1巻 9章
本文および単語集)、「上手」にyodz
(第