2 0 1 2 年 秋 号
ISSUE No.21
発 行 英 国 日 本 人 会
- 1 - はじめに オリンピック・ムードに浮かれてあっという間に数週間が過ぎ去って行きました。心配 していたエアーポートも地下鉄も道路さえもスムーズで、少々拍子抜け。ヒースローでは 移民局の係員が「ようこそと」と待ち構えていたと友人の話。さんざん脅かした手前、「ミ ラクルは期待しない時に起こるものよ」と神様のせいにしてしまいました。 マーブル・アーチの近くで数秒立ち止まっていたら、何処からともなく胸に名札を付けた 人が、「何かお役に立てるでしょうか?」と近づいてきました。人々はみんな笑顔を絶や さず親切で、街中は安全で、交通機関はスムーズで・・・「これはどこの国の話でしょう か」。今回は“かみわざ”(神業・神技)がいたるところに見られた、素晴らしいオリンピ ックになりました。 久しぶりに庭に出てみましたら、朝顔、水仙翁、孔雀草、ジギタリス、 擬宝珠の花々が咲き誇っていました。弁慶草はその楕円形で厚手の葉 の先に小さな蕾をたくさんつけ、あと一週間もすれば淡紅色の小さな 五弁花を開くことでしょう。この花はイギリスでは Autumn Delight と呼ばれていると聞きますが、すでに秋の気配はそこかしこにあり、 先程から落ちたリンゴの実を山鳩が盛んにつついています。 2012年8月 お陰様で『英国春秋』秋号21回目の発行を迎えることが出来ました。今回、会員以外で 特別にご寄稿いただいた方々は、
有地芽浬氏 (SOAS Senior Teaching Fellow) 小倉孝保氏 (毎日新聞社・欧州総局特派員) 沢村亙氏 (朝日新聞社・ヨーロッパ総局長) 林景一氏 (在英特命全権大使) 森嶋瑤子氏 (ICBA UK 支部長) アイウエオ順 の諸氏です。会員の皆様をはじめ忙しい中、文集に投稿いただいたことに心より感謝いた します。 *** も く じ *** はじめに 1 一字違いの名前 森嶋瑤子 2−4 本とのつき合い クーパー矩子 4 Are You Happy? 加藤節雄 5 家族の絆−或るパラリンピック走者の話− 小倉孝保 6−7 2012年ロンドン・オリンピックを観戦して 岡村光雄 7−9 海と帆船 佐山菫子 10−11 英国春秋俳壇 なでしこ バロー典子 12 いちご エリオットつや子 13 月の弓 クーパー矩子 14 『不思議の島』の日本人たち/マン島のこと 沢村亙 15−16 私の卓球練習場所の遍歴 高松直喬 17−18 ダウジングと私 畠田勉 18 日英博覧会における日本美術展の評価と意義について 有地芽浬 19−23 Skibo Castle 古沢いくこ 24−25 臨床僧 対本宗訓 26−27 続・五つのポエム 田村陽子 28−29 若者を支援する 高階玲子 29−31 英国サッカーと私 林景一 32−33 英国春秋あれこれ 小川のり子 33−34
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一字違いの名前
森嶋瑤子
「森嶋さん、あなたは小説もお書きになるのね」 「とんでもない!ちょっと文章書いたからといってからかわないで!!」 1980年代の始めの頃だったかと思う。当時、私はイギリス事 情の小文を日本の新聞などに時折書いていた。久しぶりで日本か ら訪ねて来た友人と会って話がたまたまそのことに触れた時、彼 女は急に思い出したようにそう言った。私のびっくりした言葉の 調子に驚いたのか、この話題はそこで終わりになった。彼女と別 れての帰途、何を思ってあんなとんでもない馬鹿げたことを口走 ったのだろうかと一時は考えたが、それも長くは続かなかった。 それからしばらく経ちそのことも忘れかけていたら、また日本からの訪問客と会って話し ている時に、「小説は何時頃から書いていらっしゃるのですか」の質問を受けた。「えっ、 また!!」とは思ったが、今度の相手は知人程度だったから私も吐いて捨てるような反応 は出来ず、何かの誤解でしょうとかわして話題を変えた。まさかよりにもよって私の名前 を使い小説を書いている人がいるとも思えず、これらは話し手の何かの誤解だろうと思う ことにした。しかしその後も「五指に余る」とはいえないとしても誤解が続いたので(手 紙の中に書いて来た人までいた)、この謎を解明するべく次に訪ねて来た友人に私の方か ら話を持ち出した。 「あら森嶋さん、最近人気のある森瑤子という小説家のこと知らな かったの。彼女の小説の中にはイギリスの話がよく出てくるのよ。 彼女の本が本屋の店頭に平積みにされているのを見たとき、私だっ て『えっ、これって森嶋さんの著書?!』と思って手に取ってみた のよ。立ち読みで少し読んだら、こんな小説をあなたは絶対書かな いし、また書けないとすぐ分ったから」 私の名前を何度も見ているばかりか、手紙などで何度も書いている友人までがそんなに思 ったのも私の理解を超えていた。劃数の多い重たい字が三つ並びそのうちでも大きい「嶋」 が抜けているのが見えないなんて、それなら節穴同然の目を持った人が沢山いるのだと驚 いた。 ***** 「これは一体全体どういうこと! 私の名前がこんなところに大きく出ているなん て?!」 その後日本に一時帰国をした時、ある書店に何気なく入ると店の正面に、派手な色合の横 断幕が天井から下がっているのが目に入った。その途端、仰天して足が地に張り付いたよ うになって立ち止まってしまった。その幕には大きな字で私の名前が出ているではないか。 一息ついてよくよく見直すとそれは「嶋」が抜けている「森瑤子」と分り、「なーんだ」 と少し平静を取り戻した。確か彼女の新刊書のサイン会の広告だったような記憶がある。 しばらくどうして見間違ったのかと思いつつ幕を見ていると、すっかり忘れていた友人た ちの誤解の件が突然よみがえってきた。私の目も節穴同然なのだと、幕の字をしばし呆然 と眺めていた。私の傍らを通り抜ける人たちは、このおばさんは森瑤子ファンでサイン会 に来ようかどうしようかと迷っているのだろうと思ったことだろう。私はそれまで「森瑤 子」と書かれたポスターや印刷物には接したことがなかった。もし前に見ていれば、その 段階で同じようなことになっていたに違いない。今回は字の大きさだけ驚きも大きかった が。- 3 - このことがきっかけで、丁度同じ頃ロンドンで活躍していたバレリーナの 「森下洋子」のことを思い出した。漢字で書かれた彼女の名前を見ても「え っ!」と思うことは全くないが、こちらの新聞や雑誌で Yoko Morishita を見ると最初は「あらっ」程度のことは感じたが、私はバレーとは関係な いし、日本ではローマ字表記で彼女の名前が出ることはほとんどないだろ うから、誰も Yoko Morishima と Yoko Morishita を混同して「森嶋 さんはバレーも踊れるの!?」とはいって来なかった。 日本の名前は仮名表記も出来る。これはある意味では重要な表記法だと思う。ことに最近 のように、漢字表記ではこれを正しく読むのはクイズの難題を解くより難しいような名前 がやたらに多くなると、それらはふりがなをつけねば読めない。エッセイスト「桐島洋子」 の名前は漢字表記でも、ローマ字表記 の Yoko Kirishima でも「えっ!」と思ったこと はなかったが、ある時友人に「森瑤子」と「森嶋瑤子」の間違いの話をしたら彼女曰く、 「森嶋さん、もう一人あなたの名前と一字違いの『翔んでる女』がいる わよ。 仮名で書いたら『きりしまようこ』もそうでしょ」 当時は「翔んでる女」がもてはやされていた頃だった。森さん、桐島さ んはまさしくそのような方々だし、森下さんは実際に舞台で跳んでいら した。 ***** 森下さんと桐島さんはそれぞれの分野での優れたタレントと仕事の成果によって名を知 られた方々であり、そのようなものと無縁の私が彼女たちと間違われなかったのは至極当 然である。それなら森さんの場合も同じである筈だ。ところが間違われたし、私も同じ経 験をした。それは見た名前が漢字表記であったのがその原因だと断言してよいと思う。ロ ーマ字もかなも音を表示する記号、すなわち音標文字、であって目に訴える字ではない。 ところが目で見えるものの表示から始まった象形文字の漢字は視覚に訴える文字である ことをあらためて思った。 このようなことを考えると、生まれた子どもに名前をつける場合、日本ではいろいろな角 度から見て名前選びをせねばならなくなる。字画数を云々する姓名判断や各家庭の命名の 伝統などは別としても、声に出した時、それを聞いた時、文字に書いた時、そしてそれに 加えて漢字にはそれぞれ固有の意味があるからそれも考慮に入れなければならない。それ だけに親の愛情や希望を充分に反映する名前を選ぶプロセスには、他の国の親にない楽し みがあるのでないだろうか。最近日本でも親による幼児虐待や養育放棄が増えているよう に思うが、そのニュースに出てくる被害を受けた子どもの名前に随分凝ったのを見かける。 それを見るたびに、「生まれる前には愛情と希望を持って名前を選ぶ親だったのがどうし て」と思うと本当に胸が痛む。 ***** 今でこそ「ようこさん」は漢字表記では色々違っていてもクラスには必ず複数いるような 名前だが、明治末期生まれの私の母の頃には殆どなかったようでクラスには一人もいなか ったらしい。私が生まれた時、父が娘に「ようこ」と名付けたのは母には不満だった。そ れは母が知っているのは有島武郎の「或る女」の主人公「葉子」だけだったので、母にと っては「ようこ」は身持ちの悪い女の代名詞だったらしい。私が学校に入学する頃には、 とりわけ珍しい名前ではなくなっていたが、「瑤」は珍しい漢字だったので漢字を尋ねら れた時には「太陽の陽です」のように簡単に説明出来ず、揚句の果ては「書いて下さい」 と言うことになって父をうらんだ。
- 4 - 始めてイギリスに来た1956年はいうまでもなく、63年の滞在時も Yoko では面倒 なことがしばしばあった。名前を聞かれて「ようこ」というと、当然のことだが必ずスペ リングを聞かれる。「ワイ・オー」と言い始めると、英語の名前には Y で始まるものは珍 しいせいか、それとも私の発音が悪いのか相手は怪訝な顔をして聞き直す。その揚句が、 「書いて下さい」ということになるわけ。ところが一人の「ようこさん」の出現によって、 少々誇張していえば、イギリスに滞在するすべての「ようこさん」の日常生活が楽になっ た。それはいうまでもなく Yoko Ono だが、彼女の名前のおかげでその後は怪訝な顔を されたこともスペリングを尋ねられたこともない。 イギリス人の中には「あなたの名前は Yoko Ono と同じだから忘れ ることがない」と言ってくれる人がいるが、時と場合によってはち ょっといたずら気分で「必ずしも同じ名前でないのよ」と答え、そ の意味を計りかねて目を白黒させる相手に仮名表記と漢字表記のこ とや漢字の話をしたりした。すると 「あなたの名前の字の意味は?」と尋ねる人もあった。残念ながら 私の名は必ずしも体を表していないのだが「beautiful jewel」と答 えるしかない。
本とのつき合い
クーパー 矩子
山口県萩市の祖母の家に疎開していた頃四―五才だったろうか絵 入りの「キンダーガーデン」をもらった。いろいろなおとぎ話が載 っていた中でも私は親指姫が気に入って飽かず眺めていた。薔薇の 花のベットで眠っている姫のそばに描かれたつりがね草やゴボウ の実の形も今も覚えている。他にわら半紙に印刷された粗末な本も あった。題を「花びらの旅」と言って動・植物が主人公のお話だっ た。中でも「お芋の兄弟」がねずみに引かれていくのとか、目を悪くしたゲンゴロウが眼 科に通う話 etc で自然が身近になってゆくもとになったかと思う。 学校にあがると私達子供三人は毎月一冊ずつ本を選べたのでどれに決めるかいつも本屋 で迷った。雑誌のお正月特別号には本誌と同じ位の付録が付いたので特に真剣になったも のだ。中学生になった時珍しく父がサッカレーの「バラと指輪」を買ってくれて驚きとり ついてみたがさし絵ほどには面白くなかった。学生時代は体操部の練習以外は図書館が別 宅のように落ちつけてすごせた。社会人になると入社してすぐ図書部があると聞きつけ昼 休みの一時間をボランティアの貸し出し係となった。部員には特権として月に二十冊ほど 自分好みの本を社のあるビルの地下の本屋で選べたのである。忙しい中せっせと購入し真 っ先に読んで借りに来る社員におすすめしていた。 初めて親元を離れてロンドンに暮らしてからなれぬ仕事にホームシックとなったが、それ を救ってくれたのが本であった。今のように簡単に日本の本が入手できなかったから送っ てもらった本とは集中して向きあった。調子の良い時横文字の本ともつき合えるけれど落 ちこんだ状態では日本の活字が親しみやすいことに気が付いた。主人の永い療養中外出も ままならなかったが、近くのライブラリーへ通って英書を辞書を引き引き読破していたの も必要に迫られてのことであった。入浴中にも本を放せなかった一時期もあったが今は自 戒している。誕生日と新年に自分好みの本を購入していたが好きな作家が大分なくなって しまうのは淋しいことだ。文がかけなくなり本が読めなくなったらオシマイだと思いつつ 今日も又本をひもとくのである。- 5 -
Are You Happy?
加藤節雄
今年のイギリスは女王のダイヤモンド・ジュビリー、オリンピック、パラリンピックと国 を挙げての大きな行事が続き、大変な盛り上がりを見せた。テレビで見る限りイギリス人 がこれほど興奮する姿はちょっと異常にも思えたが、オリンピック会 場に行かなくても、実際にロンドンの街を歩いて見れば、その興奮度 がひしひしと伝わってくるのを感じることが出来た。私自身はオリン ピックの柔道を観戦する機会に恵まれたが、会場内のピーンと張りつ めた緊張感と、場内全体に轟く観客席からのものすごい応援で、自分 自身の体内興奮度バロメーターが極度に上がっているのにびっくり させられた。普段はシニカルな表情を見せるイギリス人だが、オリン ピック・パラリンピックの期間中、ユニオン・ジャックを振りかざし、 笑顔で声援を送る姿は大変幸せそうに見えた。 アジアの小国ブータンでは国民の幸福度を GNP でなく GNH で計測している。国民総生産量(Gross National Product)でな く国民総幸福量(Gross National Happiness)で国の豊かさを表そ うという試みである。GNH は高い経済成長率や医療制度が発達 した国、所得が高く、消費も多い国の国民が果たして幸せかどう かと言う疑問を呈している。お金や物質と言った尺度で国の豊か さを測る現在のやり方が、果たして国民の幸福度に繋がっている のだろうか。先進国ではうつ病に悩む人が多い。環境破壊を繰り 返しながら経済成長を遂げるやり方がいつまで持続できるのだろうか。 最近、イギリスで政府による国民の幸福度調査が行われた。それによると 74 パーセン トの人が現在の生活に満足と回答している。もちろん地域差があり、スコットランドの離 島や富裕層の多いイングランド南部に住む人は平均以上に幸福度が高く、ロンドンや、ウ エスト・ミドランド、北部イングランドの住民の幸福度は平均以下となっている。また、 幸福度の尺度として仕事がある、持ち家に住む、結婚している、健康であると言ったこと も重要な要素となっている。年齢で見ると、16 歳∼19 歳、65 歳∼69 歳が最も幸福度が 高く、逆に、40 代∼50 代の人が人生に不安を感じている。 この調査はオリンピック前に行われたが、オリンピック、パラリンピックを成功させた 後の調査ではどんな結果が出るか興味があるところでもある。人間の幸福度は小さなこと で高くなったり、些細なことで落ち込んだりするものである。政治家にとってはいかに国 民を幸せに保つかと言うことが重要な課題だし、ビジネスにとっても国民がハッピーに感 じるフィール・グッド・ファクターは消費にも繋がる大変重要な要素である。 今のイギリスは多くの問題を抱えながらもよくまとまっていると思う。ロイヤル・ファ ミリーやスポーツで国民にフィール・グッドの感情を持たせ、国をまとめるやり方は、ど こかの国の様に反日感情を煽り、デモや破壊行為をある程度許し、国民の不満のガス抜き をする方法と比べればずっと大人でスマートな方法と言わざるを得ない。 振り返って我が日本人の幸福度はどうだろうか。政治の混迷、経済の停滞、原発の不安、 周辺国との領土問題、少子化、老齢化社会、多い自殺と、外から見る日本は幸福な要素が あまり見えない。GNP で世界 3 位の豊かさは、GNH ではどうなるのだろうか。今、日本 人の GNH 調査をしたら果たしてどんな結果が出るのだろうか。数年前に民間企業が行っ た調査によると、日本人の幸福度は先進国中群を抜いて最低だったという結果もある。日 本人は幸福の尺度を 1.健康、2.家計、3.家族と自分個人の周辺のみに求めており、ブ ータンの提唱する人間関係の平穏と交流という社会参加型の幸せに目が向いていないと 言う分析もある。 イギリスに住む我々は本国の日本人より幸福度は高いのだろうか。個人差があるので一 概には言えないが、少なくともイギリス人社会とのお付き合いを深め、ブータンの提唱す る社会参加型の幸福論を展開することにより、幸福度を高めたいものである。- 6 -
家族の絆 −或るパラリンピック走者の話−
小倉孝保
4月にロンドンに赴任した。エリザベス女王の即位 60 年の祝賀に続きオリンピック、パ ラリンピックとロンドンでは華やかなイベントが続いた。その中で、私の印象に残ったあ る家族を紹介する。パラリンピックに出場した日本人選手とその家族の話である。 堀越喜晴(よしはる)さんは明治大学や立教大学で言語学などを教えている。1957 年に生まれてすぐ、網膜芽細胞腫という病気がみつかった。この病気は、目の小児がんの 一種だ。眼球を摘出しなければ、がんが脳に転移してしまう。医師は堀越さんの両親に、 「この病気は、命をとるか、目をとるかです」と説明したという。結局、堀越さんは両目 の眼球を摘出し全盲となった。 その後、堀越さんは健常者の倫世(みちよ)さんと出会い、結婚。倫世さんは妊娠する。 堀越さんの気がかりは、自分の病気がお腹の子に遺伝しないかどうかだった。遺伝してく れるな、との願いもむなしく、長男は 88 年、同じ病気を持って生まれてきた。このとき も医師は堀越さんに、「命をとるか、目をとるかです」と語った。 堀越さんは長男を信司(ただし)と名付けた。信司ちゃんは生後 40 日で右目の眼球を 摘出され、左目は何とか摘出を免れたが弱視となった。 堀越さんも妻倫世さんも明るい性格である。堀越さんは しばしば、小さな信司ちゃんを信州の山に連れ出して歩い た。信司ちゃんも屈託なく育ち小学校に入ると、サッカー、 野球、水泳に興じた。 しかし、堀越さんの恐れていた日がやってきた。外から 帰った堀越さんが玄関を入ると、家の中の空気が重い。リビングで倫世さんが神妙な顔を している。理由を聞いてみると、夕食後、信司君がこんなことを言ったという。 「どうして僕だけ片目がみえないの。どうして僕だけみんなと違うの。こんなのなら、 生まれて来ない方がよかった」 それまで、信司君は友人と遊んでいても自分の障害に気付かなかったのだろう。それが 自我の芽生えとともに、自分が他者と違うことに気付いたのだ。 堀越さんは信司君の部屋に入った。ふとんの中で丸くなっている信司君を堀越さんはひ ざに抱き上げて、こう話した。 「お父さんも君と同じ病気で目がみえなくなった。この病気がわかったとき、おじいち ゃんとおばあちゃんはお医者さんに、この子の命をとるか、目をとるかですよ、と言われ たんだ。それで、おじんちゃんとおばあちゃんが、命だけは助けてくださいと言ってくれ たから、お父さんはこうして生きている。お父さんはそれを感謝している。君が生まれた ときも、お父さんは同じことを言われた。だから、お父さんはお医者さんに、目はいらな いから命だけは助けてくださいとお願いしたんだ。お父さんは君と一緒にいたかった。お 父さんは両目が見えない。だけど、君は片目がみえるじゃないか。お父さんの分も、君の その片目でたくさんのものをみてくれないか」 この言葉で信司君は少しずつ、障害者として生きる覚悟をしたようだ。徐々に本来の明 るさを取り戻していった。 信司君は運動の才能があった。中学に入って陸上を始めると中長距離でどんどん記録を 伸ばした。視覚障害の陸上大会に出場しては日本記録を塗り替えた。そして、大学で社会 福祉を学んだ後、信司さんは2011年4月、関西の大手企業に就職し現在、実業団陸上 部に所属。北京(08 年)に続き今回、ロンドン・パラリンピックの5000メートル(視 覚障害)に出場した。 この種目への出場は信司さんを含め9人。自己記録の上では、信司さんは7番目だ。レ ースの数日前、私は堀越さん、倫世さん、信司さんの4人でピザを食べた。堀越さんの横 に座った信司さんはピザを切り分けては堀越さんの皿に置き、堀越さんの手をそっと皿ま で持って行く。父のガイドをするのがとても自然になのだ。- 7 - 調子を聞くと、信司さんは、「ロンドンに来て、調子は上がってきました」と話した。 5000メートルよりも本来、1万メートルの方が得意だが、ロンドン・パラリンピック には1万メートルがないため5000メートルだけの出場となった。信司さんは将来、実 業団駅伝やマラソン出場も夢見ているという。 9月3日のレース当日、私は堀越さん夫婦と一緒に観客席に陣取った。レ ースは午後8時5分から。7時半ごろになると、倫世さんが、「緊張してま すね。私が緊張してもしょうがないんですがね」と語る。 8時前に信司さんら5000メートルの出場選手がスタジアムに姿をみ せアップを始める。信司さんの体は心なしか軽そうだ。堀越さ んに、「調子よさそうですよ」と説明すると、堀越さんは顔を くしゃくしゃにして喜んだ。 そして、スタート。モロッコ、ケニアの選手が飛び出し、ぐ んぐんと先を行く。信司さんは自分のペースをしっかりと守り 7位につけている。目の前を通過するたび、3人で大声を張り上げて応援する。信さんは 1人抜いて6位になる。倫世さんは両手を固くにぎりしめながらレースをみている。堀越 さんは首をやや横にして大歓声に耳を傾ける。 ラスト2周になったところで信司さんは前の選手を抜いて5位に上がった。そのまま、 6位の選手との差をどんどん離し結局、5位でゴール。メダルには届かなかったが、自己 記録を大きく更新し目標だった入賞(6位以内)を成し遂げた。 「おう、やったね」と堀越さん。「すごい、すごい」と倫世さん。夫婦でがっちりと握 手した。しばらくして信司さんが観客席に向かって歩いてきた。堀越さんは倫世さんのひ じに導かれて、観客席の一番前まで歩いていく。ややぎこちない歩みだが、堀越さんの背 中には、息子の成長を喜ぶ親の姿がはっきりとあった。 「信司、よくやった」と堀越さんが観客席から大声で叫び、大きく両手を振った。信司 さんは、満足げな顔を浮かべ、回りの英国人観客からも拍手が起きた。 障害に立ち向かうことで、この家族の絆はまた一つ強くなった。
2012 年ロンドン・オリンピックを観戦して
岡村光雄
2005 年 7 月 6 日、シンガポールでの IOC 総会で 2012 年のオリンピック開催地はロンド ンに決まりこのニュースを東京の自宅のテレビ で観ていました。翌週の 7 月 12 日に憧れのロン ドンに出発した私たちは、「まず 3 年程度のロン ドン生活を」と考えていましたので 7 年先、こ こでオリンピックを観戦するとは思ってもいま せんでした。ロンドンの生活は快適であっとい う間に過ぎ、ロンドン・オリンピックの開催を 迎えることが出来ました。 ロンドン滞在中には東京が 2016 年のオリンピ ック招致に失敗のニュース。再度 2020 年の招致に向けて活動開始して、今年の 5 月に一 次選考を通る処まで来ています。 私たちの日本の住居は東京の国立競技場の傍にありますので、今度は是非東京で応援をし たいと、東京開催を待ち望んでいる処です。 東京オリンピック招致には、IOC から欠点と指摘されている、「市民のオリンピックへの 支持率の低さ」が問題となっています。その為どうしても「オリンピックへの国民の盛り 上がり」が必要です。 そこで折角ロンドンに住んでいるのだから、オリンピックをただ楽しむだけでなく、熱狂 的な応援をして、少しでもオリンピック熱を盛り上げようと思い立ちました。- 8 - オリンピック開催期間中は日本国旗を持って競技場に行って応援、パブでの声援、ジャパ ンハウスで日本人の仲間と盛り上がり、男女マラソンコースの沿道での日本選手への声援 と、オリンピック応援に明け暮れました。 では特に私の記憶に残った場面の紹介です。 1. 「なでしこ」応援 日本対スエーデンの 予選 (コベントリー競技場 ) コベントリー競技場の試合開始は 12:00。ロンドンから急行で約 1 時間の距離ですが、 余裕を見て、ロンドンユーストン発 8:00 の早めの切符を予約しました。 さて当日早めにユーストン駅に到着すると、応援姿の日本人グループが大勢既に集まって いました。通常の旅行では日本人はかぞえるほどですが、この列車では日本人乗客の比率 が約 3 割を占め、車内も何か和やかな雰囲気で気持ちも弾んで来ました。 駅からのシャトルバスサービスではボランティアの係員が親切に案内してくれてスムー ズ。競技場に入る時のセキュリティチェックは厳しいとの事でしたが、思いの他順調で、 開始時間 2 時間前には入場できました。場内には、工夫を凝らした応援姿の日本からの 応援団・英国在住の日本人が続々つめかけ、私たちも一緒に写真を撮ったり、情報交換を したりしました。 黄色のスエーデンカラーの応援者は少なく、観客の約7割は日本応援。日本チームのチャ ンスには、競技場を揺るがす大声援で、これなら「なでしこ」も張り切る事が出来ると思 いました。私達も日の丸の小旗で応援。試合後日本チーム全員で日本の応援席に向かって お辞儀したのは良いマナーと好感が持てました。 2. 「なでしこ」応援 日本対フランスのセミ・ ファイナル (ウエンブリー競技場) 予選、クオーターファイナルを順調に勝ちあがりい よいよ強敵のフランス戦です。フランスとは、オリン ピックが始まる前の親善試合で敗れており、油断がで きません。フットボールの聖地での試合とあって私た ちも少し興奮気味。日本人会から借りた大きな国旗と必勝日本の鉢巻きで応援する事にし ました。最寄り駅のウエンブリースタジアムには 5:00 開始の2時間前に着きましたが改 札口からスタジアム迄は人の列、私達も必勝日本の鉢巻きを締め入場。日本・フランス・ 英国人他、観客約 6 万人の埋まった競技場は壮観。ゴールポストに近い私達の席の周り のブラジル人の若者達に、「日本の応援はどうか」ときりだすと、「明日の男子の試合は勿 論ブラジルの応援だが女子は日本に負けてしまったので今日は日本を応援する。」との事 で一緒に大旗を振り応援しました。試合開始前の両国国歌の演奏でフランス国歌「ラ・マ ルセイエーズ」を始めて生で聞きました。続く「君が代」は声を張り上げて歌い感動的瞬 間でした。試合は、後半フランスの追い上げでヒヤヒヤドキドキ。私たちの席の前に座っ ていた英国人の親子連れは、試合中も冷静で、やはり応援するチームが出ないと盛り上が れない様です。試合は日本が逃げ切り勝ち、日本応援席は大興奮、ウェーブの連続で一緒 になって喜びました。 3.「ジャパンハウス」でフットボールと女子レスリングを応援 「ジャパンハウス」は 2020 年オリンピック東京招致の拠点として、JOC が中心とな ってハイドパークに近いビルの一部を借り 上げたものです。ここには TV 大画面を設置 し日本チームの出場ゲームを、日本人ファン が一緒に応援しようという部屋があります。 7 月 26 日の男子フットボールの日本とスペ イン戦はロンドンでも注目度が高く、マスコ ミのカメラが数多く入り日本人の応援ぶり を取材していました。私達も大使館の用意し
- 9 - た、小旗・鉢巻き・ハッピを着て応援しました。試合は予想に反し日本の快勝。集まった 応援団も大興奮。英国のメディアもこの光景を録画していました。 私にもフジ TV のインタビューがありましたので、東京の友人達に出ていたか電話しまし たが、カットされたようでした。でも同行した友人は英国テレビの SKY ニュースにジャ パンハウスと応援者の中に自分が少し出ていたと喜んでいました。 8 月 9 日のジャパンハウスでは、女子レスリング吉田選手が決勝戦で金メダルを獲得した 際国旗掲揚と国歌演奏の TV 画面に合わせ応援団と一緒に「君が代」を起立して歌い、そ の後の「なでしこ」の決勝戦でアメリカチームを追い込んだときの応援の熱の入れ方が印 象に残りました。 4.「ロイヤル・オペラ・ハウス」で近代五輪の展示会を鑑賞 オリンピック開催期間中近代五輪の誕生の歴史と、今迄のメダルやトーチを集めた展示 会があり、ロイヤルオペラのスタッフ達がガイドツアーをしていました。 ここで特に印象に残ったのは、1948 年以降に使われた聖火トーチと開催地毎に聖火リレ ーの模様をビデオで流していました。 日本開催の 1964 年のトーチリレーは、広いだんだん畑をリレー走者がのぼっていく場面、 瓦屋根の街並みをトーチが走り抜ける場面、富士山と新幹線をバックに走っている場面が モノクロで映し出されており、私も当時の日本の美しい街並みや田舎の風景が懐かしく思 い出されました。いかにも日本的な穏やか風情が醸し出されている映像には感心しました。 2020 年の開催の時はどの様な写真が撮られるか楽しみです。 5.男女マラソンを日本人会のメンバーと沿道で応援 今回のマラソンコースは市内の名所を 3 周するコースで、路で待ち受けると 3 回もラ ンナーを声援出来る魅力的なコースになっています。私たち日本人応援団は、セントポー ル寺院に近い道路沿いの柵に日本国旗を 6 枚張り付け、旗も振って応援しました。女子 マラソンは出発直後大雨が降る等、悪コンデションで、傘をさしながらの応援でした。 男子マラソンは、打って変わって快晴、温度も上がり良いコンデションで、女子マラソン と同じ場所で応援。付近の応援ポイントの中では、イングランド銀行の前の道路が急カー ブするコーナーでは各国の人が鈴なりになり 自国のランナーを応援。特に英国の選手には、 順位に関係なく大声援で迫力満点でした。又、 付近の店の TV 画面では、走行選手に合わせロ ンドンの街並みがアップされ、テームズ川とそ の周辺をヘリコプターから撮った場面は印象 的でした。この画面を眺めながら、日本なら、 東京ビツクサイトを起点とし、お台場海浜公園、 レインボーブリッジ・皇居・銀座・浅草のスカイツリー・雷門・神宮と、新装予定の国立 競技場をゴールにすれば、ロンドン以上に素晴らしいコースになるのではと思いました。 6. 開会式、 閉会式を TV で見て 開会式は今までにない、英国らしく、本当に素晴らしいものでした。 英国 50 年間のロック・ポツプ中心の閉会式の中で、私が特に印象に残ったのは、音楽の 合間の男子マラソンの表彰式。アフリカの小国ウガンダの無名選手が国旗掲揚に感激し、 国歌斉唱時も晴々とした表情と観衆の惜しみない拍手。オリンピック旗の掲揚時には、ま づ最初に、古代オリンピックの発祥地のギリシャの旗が掲揚された事です。何時も TV、 新聞等でギリシャのユーロ離脱の危機とアテネのストの場面ばかり見て居た私も、オリン ピックは政治抜きの国別スポーツの祭典だと再認識しました。 ロンドン市長からリオデジャネイロにオリンピック旗の手渡し、続いて次期開催都市リオ デジャネイロのプレゼンスがあった事も閉会式を盛り上げました。カーニバルのダンスと 演奏で会場が盛りあがり、登場ダンサー達の激しい踊り、そしてあのペレも登場。 2020 年東京開催はどの様な趣向になるのか、考えるだけでわくわくしてきます。
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海と帆船
佐山 菫子
ロンドン・オリンピックが開催された今夏、わたしは残念ながら、日本の選手が出場する 種目をひとつも観戦することができなかった。開会式や閉会式をはじめ、主要なものは TV で見たり、インターネットのニュースで確認できた。日章旗を目にするたびに、ここ ろの目が釘付けになり、それを食い入るように見つめている私がいた。母国とは不思議な ものである。メダルを取った日本選手たちはもちろんのこと、いろいろな種目で、メダル に手は届かなかったものの国際舞台で大活躍する選手たちのレベルの高さに驚嘆した。 そんなある日、英国の西南端 Weymouth に出かけ、ヨットの種 目が見たくなった。2 年ほど前に友人と一緒に Weymouth まで ウオーキングにでかけ、そこから船で Portland にわたり、 Portland Bill のあの有名な赤白のまだらに塗りわけられた灯 台を見たことがあった。広大な海に傾く太陽をみながら、荒波 が打ち寄せる岩壁を歩いた。この辺の Chesil Beach は荒波で 小石の海岸が常に生きているように動きまわるというので危険 で悪名高いし、海峡の荒波も、近くを航行する船を、かつては、 たくさん屍に変えたらしい。ちょうど、明治の初めころに灯台 ができて活躍したらしいが、今はもう、使われていないとかだった。そのとき、Weymouth の 海 峡 が オ リ ン ピ ッ ク で ヨ ッ ト レ ー ス に 使 わ れ る の だ と い う こ と を 耳 に し た し 、 Portland にスマートな選手村の建物がにょきにょきと建設中であるのも目撃していた。 そこに今出かけたところで、切符なしで見られるかどうかはわからなかったが、海と帆船 を見たいという強い思いは絶ち切り難く、観光協会に電話をすると、予想通り、現場で見 られるかどうかはわからないとのこと。しかし、ビーチには大テレビが設置され、みんな で観戦できるので、それがいいだろうとのおすすめ。そちらには全く興味がなく、どこか の浜辺でこの目できっと現場が見られるはずだという強い予感に基づいて、ゲームの予定 表を確かめた上、無謀にもある日曜日出発した。 ウォタルー駅から汽車で 3 時間半。Weymouth の駅にはいろいろなバスが色とりどりに 並んでいた。しかし、聞いてみると、現場へは歩いていくのだという。歩くのは得意だか ら、せっせと歩いて、街に出た。交通整理をしている女性がいるので、ヨット競技を見る にはどこに行けばいいかたずねた。彼女は礼儀正しく、左手先の大ビーチを指差しながら、 あそこに行けば大 TV が設置してあるから、そっち方向に進むようにと勧めてくれた。断 固として現場に行きたいと主張すると、日曜日なので混んでいて、警官から止められるか もしれないと言う。そのときはそのときでもどってきますと、浜辺への行き方を強引に教 えてもらい、先を急いだ。警官は出ていたが誰も止める人はなく、波止場を越えて、現場 の岬にたどりついた。 突出したコンクリートの岬にベンチが並べてあり、そこはすでにいっぱいの人。ベンチの うしろにも沢山の人が並んで立っていた。ふと下をみると小さ な浜辺になっており、短い階段下のじゃりの浜辺に人々がそれ ぞれに陣取っている。さっそく、彼らに加わることにした。海 に向かって浜辺は低くなっていたので、あとから行ったわたし たちが、前のほうに行っても、なにも文句は出ない。万一のた めに持参したレインコートを下に敷き、腰を下ろした。切符を 持った人たちは庭園になっている小高い丘の上に陣取っている らしかった。はるか前方ではあるが、目の前にヨットの競技の準備ができており、まさに 1 時からひと種目、2時からもうひと種目のメダルレースが始まる直前という、おあつら- 11 - えむきの状況だった。始まるまでのあいだ、みんなはそれぞれに弁当を平らげたり、軽い 午睡に入ったり。水際ではこどもたちが水とたわむれ、シェパード犬も一匹、興奮して、 ジャブジャブ水の中に入ったり、駆け上がってきたり、嬉しさをかくしきれない様子。ま さに家族ぐるみの観戦といったのどかな雰囲気がいっぱいだった。競技が始まると、ユニ オンジャックを打ち振り、応援をこよなく楽しんでいる。ブラジルの旗を身体に巻きつけ て、海に突き出した岩にたたずんで、見入っている人たちもいた。ユニオンジャックの小 旗を若い女性が無料配布していた。しかし、わたしにそれは不要だし、わ たしの友人はアイルランド人なので、二人とも別に国旗を振ることはしな かった。しかし、その楽しい、のどかな雰囲気と洋々たる海辺でのオリン ピックゲームの見物に英国での経験が深まった感じがした。 競技が始まってから、遅まきながら、二つの種目の一つは Star, 次は Finn というクラスであることが判明。はじめのヨットのほうが少し大型。種目 を知らずに見に行くのであるから、のんきなものである。海の真ん中に舞 台裏の船が何隻か陣取っており、係りの人たちの準備は万端のようであっ た。それぞれの帆船がしずしずと出陣してくる。やがてスタート点をから 出発。それぞれが英国、フランス、ドイツ、デンマーク、オーストラリア、スイス、ブラ ジルなどの国旗を掲げて、何度か折り返して、競技はすすんだ。折り返すとき、どの船も 決まったように帆をぐうっと傾けて、U ターン。そのさまは蝶が羽を たたむようで、美しかった。海と風という自然の力との戦いはまさに 命を張った戦いであっただろうが、これをはるか彼方から見物するの は、のどかで、気持ちがよかった。TV でみる接戦の緊張はなく、何 がおこなわれているかよくわからないままに、ただ風をはらんだ国旗つきのヨットの忙し い往来に見入った。空には真っ赤なヘリコプターが 2 機。報道陣 の撮影のためのものらしかった。 あとから行われた Finn というレースで英国が優勝。優勝者の Ben Ainslie の友人だというカップルが隣に座っていて、大きな国旗を肩にかけて振りながら、 大声で声援。TV の箱の中から出てきた本物の応援にはじめて接して、オリンピックが身 近に感じられた。帰りにヨットの模型を買った。小さいけれど木製で、白紺まだら縞の帆 が2枚ついている。わたしの帆船好きとロンドン・オリンピックの記念である。うちの暖 炉の上にはベルギーで買ってきた白紺の灯台の模型がすでに座っていたから、そのお相手 に好 都合であっ た。オリン ピックのマ ークはつい ていないが 、わたしの “London Olympic-made in Britain” の記念である。 この大成功に気をよくして、というか、海と帆船への思いがおさえがたく、閉会式の週末、 好天気との予報にあわせて、前から行きたかった Isle of Wight に出かけた。リュックを 背負ったあわてふためく冒険の旅であったが、Southampton から East Cowes までの フェリーボートの中からの光景も、わたしにとっては生涯忘れられない空と海と帆船の限 りなく美しいシンフォニーであった。北の端、East Cowes の Victoria 女王の Osborne House でも、昨年から、海岸が開かれたとのことで、宮殿から広大な庭を横切って、小 さな、プライベートな海岸に出ると、強い海の香りが鼻孔を快く刺激した。子どもたちが 見入っていた紙芝居のようなパペット・ショウをのぞきこんだ。小さな平和な海岸だった。 翌日、西南端に位置する、あこがれの The Needles にもバスを乗り換えつつ出かけ、チ ェアー・リフトで間際まで降りて行くことが出来た。三つのチョーク岩の巨大なかたまり が、三銃士のように仲良く縦列している。これも同じく名高い赤砂利の海岸に座りながら、 これが私の冒険、私のオリンピックなのだと、ひとり悦に入った。
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英国春秋俳壇
なでしこ
バロー典子
満開や 花弁一ひら 落とさずに
万緑の 中を真直ぐ ローマ道
のりだして 日に当たってる ラベンダー
ゆく道を みづから照らす 蛍かな
幼き日 虹の中にて 虹を見ず
虹消えて われに子らあり 庭にバラ
香りして 園に入れば バラの花
花いばら 父母と歩みし 散歩道
清しさや 庭の小滝の 水の音
“なでしこ”という名ゆかしき五輪の日
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英国春秋俳壇
いちご
エリオットつや子
句の心どこかに吸われし春の雨
たそがれて野すみれの花もう見えぬ
今は亡き母の好物いちご買う
白薔薇も黄薔薇もみんな雨の中
百花咲くこの世は仮の宿という
かたつむり歩道急いでどこ行くの
雨はじき朝顔一つ咲きにけり
白百合のゆれる匂いにふと目覚め
聖火リレー声援の中やって来る
ロンドンの夜空に五輪の旗白し
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英国春秋俳壇
月 の 弓
クーパー矩子
かけちがう思いやりかな冬日和
とりつきて離せぬ本や冬霞
閉園を告げられ戻る衿立てて
正装の孫上気せり睦月婚
気散じに短い家出花を見に
言葉なく残すコーヒー半夏生
繰りごとをさらりと受けて川涼み
秋高し訪英の友やゝやせて
夜半の秋なぐさめを欲る友のあり
カーテンのすき間より照る月の弓
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「不思議の島」の日本人たち/マン島のこと
沢村亙
イングランド本島とアイルランドの間に浮かぶマン島は 不思議な島である。 日本の淡路島ほどのこの島は、法的には英国の領土では なく、イギリス国王の属領なのだという。1000年以上 の歴史を持つとされる世界最古の民主議会がある。タック スヘイブン(租税回避地)としても知られ、中心都市ダグ ラスには、金融マンとおぼしきスーツを身につけた人々が 忙しそうに行き交う一画がある。 と思えば、やはり世界で最も古いオートバイレース「TTレース」シーズンになると、 世界中から来た“バイク野郎”がそこここにたむろする。そして、昔も今も風光明媚なリ ゾートとして静かな人気を集めている。ダグラスの海岸通り「プロムナード」に立ち並ぶ 6∼7階建てのホテル群が、いかにもリゾートらしい優雅なムードを醸し出している。 70余年前、このプロムナードを英兵士に率いられて港から「行進」してきた東洋人の 集団が、どんなに好奇の視線を浴びたかは、想像に難くない。1941年12月の地元紙 は「ジャップがマン島上陸、ただし監視付きで」の見出しで報じている。 今年の初夏、私はこのマン島を訪ねた。 ロンドン五輪を前に、日本と英国の人の交流をめぐる物語を朝日新聞夕刊で連載するこ とになっていた。第二次世界大戦の開戦直後にマン島に収容された日本人の話から連載を 始めようと決めていた。日本と英国の歴史をひもとくと、いかに戦争がこの二つの国の絆 を断ち切ったかを痛感する。大戦中の在英日本人の収容と、日本軍による英兵捕虜らへの 虐待は、その最たるものだ。連載では、日英交流がリセットされたところから、それを再 び修復した人々に焦点を当てたいと考えた。 もっとも、マン島収容所について、これという手がかりがあったわけではない。とりあ えず目指した先のマン島図書館で、司書のアラン・フランクリンさんと郷土史研究家のイ ボンヌ・クレスウェルさんが、日本の記者を温かく迎えてくれた。マン島にあった「敵性 外国人」の収容所は、資料収集や関係者の聞き取りなど、二人の努力でかなりくわしい状 況が判明したといってもよい。 孤島という「地の利」からマン島は第1次大戦に続いて、第2次大戦でも敵性外国人の 収容所となった。ドイツ人、オーストリア人、ハンガリー人、イタリア人、フィンランド 人、そして日本人らが、島内約10カ所の「キャンプ」に収容された。 実は、1940年6月にフランスがドイツに降伏し、ナチス協力者がフランスに大量侵 入したのが早期降伏の原因と考えた当時の英政府が、慌てて自国内の敵性外国人の摘発に 乗り出したといわれる。したがって、収容されたほとんどがスパイ活動などとは関係のな いごく普通の市民だった。「ドイツ人」の中にはドイツ出身のユダヤ人も少なからずいて、 輸送船がダグラス到着後、マン島の「三脚巴」の旗をナチスのかぎ十字と勘違いし、ドイ ツに連れ戻されたのではとパニックになったという逸話も残る。 「キャンプ」として、冬場に空くホテルやゲストハウスが接収された。周囲に鉄条網が 築かれ、朝晩の点呼が課されたほかは、広範な「自治」が認められていたという。収容者 の中には音楽家や芸術家もいて、ミニコンサートや展覧会が催されたそうだ。学識者たち による「大学」が設けられたキャンプもあった。高級ホテルで料理人として働いていた者 が収容されたキャンプでは、仲間の収容者たちはおいしい料理にありつくことができた。 夜間こっそりキャンプを抜け出しては、島の娘と逢瀬を重ねたイタリア人もいたという。 冬場の寒さはかなりこたえたようだが、おおらかな「収容所生活」とはいえよう。 実は、フランクリンさんたちが私を歓迎してくれたのには理由がある。ドイツ人やイタ リア人などの収容者については写真や証言など多くの記録が残るが、日本人についてはほ とんど記録がないのだという。日本人の大半は1941年12月にマン島に到着。多いと きは100人近くいて、大半がダグラスのプロムナード沿いにあるパレスキャンプと少し- 16 - 内陸部に入ったハッチンソンキャンプにいた。だが、翌42年4月には多くがスコットラ ンドの収容所に移送された。その後は捕虜となった日本兵も含めて終戦まで10人前後が いたようだ。 そうした人数の推移については記録でたどれるものの、いったいだれが、どのような生 活をしていたかが皆目わからない。日本の新聞に載れば、ひょっとしたら関係者が名乗り をあげてくれるのかもしれないと、フランクリンさんたちは期待したのだ。 先に挙げた、日本人の到着を伝える記事では「日本人は豊かなビジネスマンの趣がある」 と描写されている。まさしくその通り、収容者のほぼ半分は、ロンドンで働いていた商社 や銀行の駐在員と新聞社・通信社のロンドン特派員だった。彼らのほとんどは捕虜交換船 で日本に戻った。 船員や雛の雌雄鑑別士も含まれていたようだ。もちろん収容者の中には解放後に英国に 住み続けることを選択した者もいる。だが、戦後も英国に根強く残った反日感情で、多く の人々が息を潜めるように暮らした。 そのへんの事情が米国の日系人とはだいぶ異なる。 米国の日系人も戦時中は収容所に入れられた。だが戦後の公民権運動の高まりの中で、 彼らは「日系米国人」であることを隠さず、その権利回復・向上を求める運動も広がった。 私は90年代半ばに米国に駐在していた時、カリフォルニア州の日系団体が毎年主催して いた収容所跡地への「巡礼ツアー」に参加したことがある。移民としての日系人の「記憶」 は語り継がれてきた。 かたや英国では、企業駐在員を除く日本人社会としては、第一次大戦ごろまでロンドン に次ぐ規模の日本人社会があったイングランド北東部ミドルズバラ周辺に戦後も日系家 族が暮らしていたことや、ロンドンに日本人が経営するランプシェード工場があったこと などが、若干知られるのみではなかろうか。 話をマン島に戻そう。日本人収容者の顔ぶれと暮らしぶりについては、日英交流史に詳 しい大庭定男さんが保存されている1965年の日本クラブ会報でその一端をうかがい 知ることができる。そこには収容者自身による将棋教室や時事講話、野球大会の様子が記 されている。ほかにも英国在住の伊藤恵子さんが戦前の在英日本人社会を調査してまとめ られた労作「The Japanese Community in Pre-War Britain」にもマン島収容所の項目が ある。 この夏には、ミルトンキーンズ在住のエドナ・エグチ・リードさんが、スパイの嫌疑を かけられて逮捕され、マン島収容所を経て日本に帰された父、江口孝之氏の思い出をまと めた「スパイにされた日本人」(悠書館)が日本で出版された。戦後60年以上を経て、 当時の歴史が薄皮をはぐように少しずつ明らかになりつつある。 連載の後、私の元にも反響が寄せられた。前述したようにマン島収容者には報道関係者 もいた。朝日新聞ロンドン特派員だった故・福井文雄氏のご子息から「父がマン島収容所 にいたはずだが、詳細を知りたい」という連絡を頂戴した。福井氏はニューヨーク特派員 を経て、戦雲が濃くなったロンドンに特派員として単身赴任。マン島に収容された後に交 換船で帰国した。だが日本では軍部から「親欧米派」とにらまれ、憲兵に何度も呼ばれた うえ、44歳の時に赤紙が届いて二等兵として徴兵されたという。それでも戦後は朝日新 聞に戻り、戦後初の特派員として再びロンドンに赴いたとのこと。ご子息によると、エリ ザベス女王の戴冠式の日に、母に連れられて家の近所の電気屋さんに行って、短波ラジオ で届く父親の肉声リポートを聞いたという。 それから60年。英国はエリザベス女王の即位60年の祝賀行事 に沸いた。ロンドン五輪では女子サッカーのなでしこジャパンの活 躍に大勢の英国人が日の丸を振り、「ニッポン」と声援を送った。日 英が敵対した時代と、ようやく普通につきあえるようになった現代。 このふたつの時代の間に、どれだけの歴史のうねりとドラマチック な人間ドラマが詰まっているだろう。 時代を記録するのも新聞記者の仕事である。「今のニュースを追 う」ことだけに忙殺されず、「歴史をひもとく」余裕と楽しみを持ち 続けていきたいと思う。
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私の卓球練習場所の遍歴
高松直喬
ピンポンとの最初の出会いは、小学校入学の時、叔母がピンポン のセットを入学祝に買ってくれたことからでした。当時のことで すから、私は物干し台を利用して友達とピンポンをして楽しんで いました。しかし、それは数年しか続かなかったのです。当時は 球だけを売る店がなかったので、球が破れると、それっきりにな ってしまったからです。その後はピンポンをしたことはなく、中 学生のとき、県内でも強いと噂のあった卓球部員の巧いプレイを 見て、あんなに上手になったらいいなあ、と思うくらいで、ピン ポンには殆ど縁がないままでした。それが、1986年にイギリ スに来てから26年の間に、ピンポンとは親しい係り合いになり ました。 ロンドンに来た直後、英語学校に入ったが、そこに卓球台があって、休憩時間にい ろいろな国の友人たちと試合を楽しんだものでした。この経験から、Adult Education で 卓球を始めることになりました。そして、当時のいろいろな(多分財政的な)事情のため、 その練習場所を何ヶ所も変えなければならなかったその遍歴をくどいですが順を追って 書いてみます。 最初は家に近い Paddington College でした。冬でしたが、初めて体育館を訪れた 時、窓は明るく、室内は暖かく、卓球台も5,6台もありました。楽しそうに練習してい る人たちを見て、夢の国に来たような感じがしたものでした。練習が終わると、ゆっくり お茶も飲めるし、事務所のスタッフもその時間までいてくれたのでした。 私たちがカンタベリーに引っ越したので、残念ながら6ヶ月の短い期間で終わって しまいましたが、それから1年半後、ロンドンに戻って来ても卓球をする機会はありませ んでした。ところが、93年秋、Amberly Road Adult Education で卓球の練習を再開す る機会を得ました。ここは Edgware Road 駅からバスで5つ目のところで、設備の良い 体育館があり、閉鎖になるまで1年6ヶ月通いました。帰路は厳しい寒さの中でバス待ち は辛かったですが、卓球が楽しくて全然休まず続けました。その半年後、幸い N. Wharf Road Education Centre でまた卓球を始めることがで き ま し た 。 前 と 同 じ 地 下 鉄 駅 の す ぐ 近 く で 、 夜 は 淋 し い と こ ろ で し た が 、 近 く に Paddington Mary 病院が見えていました。ここは gym だけで卓球台は10台もあり、 学生、ビジネスマンも含め、参加者が多く、皆上手でした。専門のコーチの指導もあり、 卓球の学校のようでした。始めに準備体操があり、私を相手に球の打ち方などいろいろと 指導して貰いました。ここでの練習は 理想的な期間でしたが、残念ながら10ヶ月足ら ずでまた閉鎖になってしまいました。
次の場所は、コーチ補佐の人が紹介してくれた Swiss Cottage Sport Centre でし た。この施設ではバドミントンのセットが張れるし、天井も高く、観覧席さえあり、プー ルも2つあって堂々たるものでした。私たちは広い gym の一角で数台の卓球台で練習し ていました。前からのメンバーは時間が昼間に変ったので殆ど来なくなってしまいました が、新メンバーが入り常時7,8名の参加者がありました。メンバーは主に音楽関係者や シニアの人達でした。5年近く通ったのですが建て替えでストップとなりました。何故こ んな立派な大きい施設を建て替えるのかと不思議に思ったのが、4年後には再建され、今 では私たちも時折お世話になっています。
次に探し出したのが Kilborn High Road から北に入ったところにある Chartaris Sport Centre でした。その gym では中学生の授業でバスケット・ボールのコートが使わ れていましたが、その中学生たちとの折り合いがうまくいかず、またもそこでの練習も1 年1ヶ月で終止符をうつことになりました。
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またまた探せば良いところが見付かるもので、Taracre Community Sport Centre という素晴らしい gym が見付かり ました。Camden Rock バス停から 10 分のところで、Kentish Town West 駅のすぐ近くです。スタッフもたくさんいて、卓 球台も常時 5 台置いてくれています。冷房もあり夏の練習には 快適です。バスケット・ボール、バドミントンなどのコートも あるし、隣には子供用 gym があり、子供連れの母親たちでい つも賑やかです。屋外にはバスケット、サッカーなどの広い施 設があり、子供たちがスポーツの指導を受けている姿も見られ ます。とにかく新しい立派な gym で、私たちのクラブはシニアのための卓球クラブとし て位置付けされています。毎週火曜日午後 2 時から 4 時までみんなで楽しく練習してい ます。練習場所遍歴のあげく、やっと、ここでは落ち着いて、現在まで 9 年 6 ヶ月もの 間クラブの全員で親しく卓球練習が続いているのです。常時 10 人余りが集まり、女性も ほぼ半数です。しっかりしたクラブと見なされ、そこの Director はクリスマスにはパー ティを開いてくれるのです。 ピンポンのお蔭で病気はしないし、80 歳半ばを越してもなお足腰は年齢にしては 強いようです。練習している時は何だか若者のような感じになって体が動くのは不思議な 気がしています。ピンポンは気軽に始められるし、シニアにとっても適当な楽しい exercise だと思います。
ダウジングと私
畠田勉
ダウジングを知っている方は少ないでしょう。 ダウジングは古代エジプトに発生したと言われています。日本 語では“振り子”と訳されていますが、これははさみ板にクサ リがついたその先に砲型状のおもりがついたものです。 これを人がつまんで対象物の上にたらすと、“右”か“左”に 揺れます。これはダウジングが人の心の奥深に到達して判断す るためです。たとえばロボットのような機械がつまんで対象物 の上に垂らしてもダウジングは微動だにしません。 私が振り子に出会ったのは30数年ばかり前のことです。中国 仙道健康研究会に入った時でした。爾来今日に至っています。 最初の頃は判断が出来るとの事で、株式相場を振り子に聞いて みたりしました。現在は食品の良し悪しの判断に使っています。買った食品を賞味期間が 不明な時、振り子で調べます。振り子が右回りでしたら食べ、左回りの場合は食べません。 他に、きのこ狩りのシーズンには必ず持参し、毒きのこがどうかの判断を振り子に聞きま す。 他にも写真の上にダウジングを垂らすとその人の健康状態が判ります。右回りの人は 健康ですが、左回りの人はそう健康でないということです。 ダウジングは身体の異常部の発見にも役立っています。ピラミックス・デジタルの身体の 各部分に垂らすと異常部は左回りします。左回りの場合は、医師の検査を受けるようおす すめいたします。こんな研究はほとんど行なわれていませんが、もし何かの役に立てれば と思いご紹介しました。- 19 -