歯科矯正の誇りを守るために
What do we need to do to keep our orthodontic pride higher ?
稲見 佳大 INAMI Yoshihiro
栃木県 真岡市 いなみ矯正歯科医院
キーワード:矯正臨床の危機,歯科医師の倫理感,教育,矯正講習会,治療の質
要 旨
1)矯正臨床は危機に瀕している.国民の健康を守
るために,矯正専門医は正しい矯正治療を啓発する責 務がある.そのためには,幅広くより多くの矯正歯科 医が志を一つにし集う必要がある.2)教育は大切であり,矯正医の育成には正しい教
育が必要である.本 文
矯正治療によって得られる喜びや美しさ,健康は計 り知れないが,患者に対して一定の肉体的および精神 的負担,費用や時間を強いる事は否定できない.その ため治療が奏効しなかった場合,あらゆる面で患者負 担は非常に大きなものとなる.しかし本邦において は,歯科矯正治療が安心して受診できる環境は構築さ れておらず,インターネットや風説では玉石混淆の情 報が溢れ,国民はむしろ検索を重ねる程困惑を招く1). そのような状況を示す一端として,2012年
11
月11
日に日本歯科矯正専門医学会主催で栃木県真岡市に於 いて「歯科矯正ってどんな治療? 〜知っておきたい 矯正治療のポイント〜」と題し市民公開講座を行なっ た際,参加者から事前に寄せられた質問を下記に示 す.・ 今すぐ顎を拡げろと言われたり,永久歯が出揃って からと言われたり,歯科医によって言われることが 真逆です.どうしたら良いか.
・ 歯列にスペースがないが,永久歯の先天欠如もある
ようだ.何年か拡大し,だめなら抜歯して矯正(歯 列を縮小して治す)と言われたが?
・ 月に一度病院に(アルバイトで)来る先生に診ても らう場合,不具合になったときなど不安がある.問 題ないか?
・ 上の子が矯正して
5
年になる.期間が随分長くな り,費用もかさんでいる.まあそのうち終わるとは 思っているが,下の子も矯正をする時期が近づいて いる気がする.一般的にどうなのか知りたい.・ 歯科医師には生え変わってからで良いのではと言わ れたが,知り合いに今のうちに少しやっておいた方 が良いと言われた.費用も心配.
矯正臨床における問題点が凝縮されており,そもそ もは簡単なアンケートであった中でこれらの質問が 挙ってくる事に闇の深さと広がりを感じざるを得な い.近年まさに日本の歯科矯正臨床は混迷を極めてい るが,その原因として国の制度,医療従事者の倫理 感,歯科医療のおかれている社会的状況など,問題の 根源には様々な事柄が複雑に絡み合っている.そのた めこれらの問題,状況を解決する事ははなはだ困難と 考えられるが,一刻の猶予もなく,不適切と思われる 矯正治療を受けている患者が少なからず存在すること を常に念頭に置かねばならない.
実際の事例としては,多くの歯科矯正専門医院同 様,当院でも医療として疑問を抱かざるを得ない治療 が為された患者を見受ける事が多くなっている.そこ で,問題が生じ当院を受診された患者の例と,私自身 が歯学部を卒業し入局後はじめて動的治療を終了する 事ができた一例をご覧いただき,一専門医としての立
場から私見を交え考察をおこないたい.
【症例
1】38
歳の女性.某一般歯科医院で下顎左右 側第一小臼歯を抜歯し,約2
年間歯の移動をおこなっ たとのこと.叢生は改善方向に向かった様だが,overjet
が過大な上突咬合と診断される状況であった.その後当院を受診し,上顎も側方歯を抜歯しマルチブ ラケット装置により
2
年4
か月間矯正治療を行ない改 善した.(図1)
【症例
2】某一般歯科医院で,38
歳の時に上顎左右側犬歯を抜歯しマウスピース型装置を用いて約
1
年間 歯の移動を行なったが,高齢のためこれ以上の歯の移動は困難との理由で,下突咬合の状態で治療が終了と なったとの事.40歳で当院を受診し,マルチブラケッ ト装置による
1
年6
か月の治療を行ない改善した.(図
2,3)
【症例
3】20
歳男性.中学生の頃,某一般歯科医院 で上顎左側と下顎左右側小臼歯を抜歯し(上顎右側小 臼歯を抜歯せず)3年間歯の移動を行なったとの事.上下歯列の正中および顔貌に対する上顎の正中が,著 しくずれていた.当院で上顎右側小臼歯の追加抜歯の 上,マルチブラケット装置により
2
年5
か月間矯正治 療を行ない改善した.(図4)
図1 症例1 当院動的治療前後
図2 症例2 当院動的治療前
図3 症例2 当院動的治療後
【症例
4】13
歳6
か月の女性.米国にて約2
年間非 抜歯拡大矯正治療をおこなったとのこと.継続治療依 頼で当院受診されたが両突歯列のため治療方針の変更 が必要と判断し,上下左右側第一小臼歯を抜歯する方 針として2
年6
か月間矯正治療を行ない改善した.(図
5,6)
【症例
5】12
歳の女性.抜歯を回避できる可能性に 期待し,いわゆる床装置(可撤式装置)で歯の移動,拡大治療をそれまで
4
年間なされていた.しかしなが ら咬まなくなってきている(上下歯列の幅の不一致お よび側方歯の開咬合)ということで当院受診.当院に てマルチブラケット装置を用い2
年6
か月間矯正治療 を行ない改善した.(図
7,8)
【症例
6】13
歳の女性.某一般歯科医院で上顎左側 第一小臼歯を抜歯し歯の移動を開始.遅々とした歯の 移動に不安を感じていた所,治療開始約1
年後,突如 歯科医院が閉院し連絡不能になった.そのため歯列咬 合の改善と治療の継続を希望し当院受診.上下顎左側 犬歯と上顎左側第一大臼歯のみに装置が装着されていた.当院にてマルチブラケット装置を用い
2
年3
か月 間全顎的に矯正治療を行なった.(図9,10)
【症例
7】25
歳の女性.叢生を認めたため,4年間 非抜歯拡大治療をおこなったとのこと.叢生は改善さ れているが,著しい歯肉退縮を認め,下顎前歯部は状 況の悪化に伴ってか歯肉移植がなされていた.全体的 に咬合状態は不十分な上,上顎左側中切歯は早期接触 により,咬合時に辺縁歯肉の貧血を認める.相談には いらしたがその後は受診されていない.(図11)
【症例
8】14
歳9
か月の下突咬合,開咬合の男性.某小児歯科医院で
4
歳から10
年以上に渡り歯の移動 を行なってきたとの事.顕著な下突咬合,開咬合で,歯列の前後的ずれも厳しい状態であった.継続して通 院していたにもかかわらず,当院受診時,上顎左右側 中切歯と上顎左側犬歯にのみブラケットが,上顎左側 第一大臼歯にボンディングチューブがついていた.こ れ以上治せないので,矯正専門医を自分で探し相談す るよう突如通院を拒否されたとの事.改善可能である ため,今後当院で治療方針を決定の上すすめて行く予 定.(図
12)
図4 症例3 当院動的治療前後
図6 症例4 当院動的治療後
図5 症例4 当院動的治療前
図7 症例5 当院動的治療前
図8 症例5 当院動的治療後
図10 症例6 当院動的治療後
図9 症例6 当院動的治療前
図12 症例8 当院初診時 図11 症例7 当院初診時
次に一例として,私が初めて全顎的な動的治療を終 了した症例を供覧する.(図
13
〜図25)
【症例
9】
初診:25歳の女性.上下歯列の前後的問題は少な い叢生ケース.歯肉,歯槽骨は薄いと思われた.口唇 はやや突出していた.セファロでは
AB
間距離が長図13 症例9 初診時写真
図14 症例9 初診時写真
く,下顔面が垂直的に長いことが特徴的.ANBが
4°,FMA
は34°,歯槽部はやや突出している.処置歯
は多いが,顎関節に問題はなかった.
診断:矯正治療の治療目標は,歯周組織や顎関節に も配慮した上で,咬合とプロファイルを改善(安寧な 口腔周囲筋への改善)することと考えている.本ケー
スでは,第一小臼歯および可及的に第三大臼歯を抜歯 する方針とした.咬合を改善しつつ下顎前歯の位置付 けを出来るだけ後退させたいケースと考えられたが,
上下顎左右側小臼歯抜歯だけでは叢生量が顕著で下顎 前歯の位置変化までは期待できないことは予測してい たが,実目標として本方針とした.
図15 症例9 初診時パノラマレントゲン
図16 症例9 初診時セファロレントゲン
2000/06/13 25Y11M14D
SNA 85.0
SNB 81.0
ANB 4.0
FMA 34.0
IMPA 83.0
FMIA 63.0
U1SN 107.5
OP 7.0
II 126.5
図17 症例9 初診時セファロトレース
図18 症例9 動的治療後写真
図19 症例9 動的治療後写真
図21 症例9 動的治療後セファロレントゲン
SNA 85.0
SNB 81.0
ANB 4.0
FMA 34.0
IMPA 83.5
FMIA 62.0
U1SN 101.5
OP 11.0
II 131.0
図22 症例9 動的治療後セファロトレース
図20 症例9 動的治療後パノラマレントゲン
Pre treatment Post treatment After treatment
25Y11M 28Y5M
SNA 85.0 85.0
SNB 81.0 81.0
ANB 4.0 4.0
FMA 34.0 34.5
IMPA 83.0 83.5
FMIA 63.0 62.0
U1SN 107.5 101.0
OP 7.0 11.0
II 126.5 131.0
図23 症例9 動的治療前後重ね合わせ
図24 症例9 動的治療前後重ね合わせ
Superimposition at ANS parallel to palatal plane for maxillary changes
Superimposition at nose tip parallel to FH plane for soft tissue profile changes
Superimposition at Menton parallel to mandibular plane for mandibular changes
結果:叢生は改善し,緊密な咬合がえられた.プロ ファイルはほとんど変化がなかった.パノラマレント ゲンにて歯根のパラレリングは良好であった.上下顎 前歯(特に側切歯)の歯根の頬舌的なコントロールも 十分になされた.下顎犬歯のシーティングはなされ,
模型により上顎第二小臼歯の舌側咬頭もきちんと咬合
している事が確認できた.また,Spee彎曲は十分に是 正され,第一大臼歯と第二大臼歯間の辺縁隆線は垂直 的に
step
なく配列がなされた.アンドリュースの「Thesix keys to normal occlusion」
2)と言われる有名な指標(図26)があるが,現時点で鑑みても,十分に治療がなさ
れていたと考えられる.図25
図26
上顎第二小臼歯の舌側咬頭も咬合している
考 察
◇なぜ最初から治せたのか◇
私は大学卒業後,新潟大学歯学部矯正科への入局 し,矯正臨床に対する教育を受けた.その結果,初め て動的治療を終了した症例から専門医としても許容で きる治療結果を得る事が出来たが,これはひとえに正 しい教育を与えて下さった諸先輩のご指導の賜物であ ると考えている.当時の教授には,矯正専門医になる には時間がかかり,つらく厳しい道のりであると,最 後の宮大工と言われた西岡常一(にしおかつねかず)
さんの書籍を渡され,専門医として学ぶ心構えを諭し ていただいた.6年間という年限ではあるが,指導教 官の一挙手一頭足を自分なりに感じとり,多くの医局 員の先生方に教えを請う事が出来た.その結果,技能 だけでなく,フィロソフィーが構築されていったこと に尽きると考えている.
他方,独学と言う言葉がある.ややもすると専門知 識に捕われない発想から新たな境地,局面を開拓する ことがあると評価される場合もあるかと思うが,矯正 臨床に関して言うと,独学では言葉の通り,独りよが りに至りやすい.どれ程まで沢山の短期の講習会を受 けても体系的に歯科矯正を学んでいない初学者に独学 で正しいフィロソフィーが構築されることは極めて困 難であると想像するに難くない.
自己の経験からも昔の宮大工職人の様なストイック な生活とまではいかなくても,最低でも
5
〜7
年間,可能であれば一つの施設で正しい研修を受けることが 望ましいと思われる.与五沢は矯正臨床の学習サイク
ル3)の図(図
27)の様に,年月のかかる治療を繰り
返し評価していくことの重要性を説いている.
歯は思い立ったその日からでも動かす事は可能であ るが,医療行為としての矯正治療をおこない医療とし ての責任に果たすためには,自己の正しいフィロソ フィーとそれを具現化するための技能の習得のための 年月が必要であり,教育が大切である.
◇矯正医が学ぶ過程での質の担保について◇
医療人として歯科矯正に限らず,必ず初めて行う治 療や,最初は慣れない中で行う治療に遭遇する.しか し医療であるから故,いかなる理由があろうとも患者 の身体に損害を与える事は許容できない.そこで多く の矯正専門家を志す者同様,私の場合は指導者の管理 下(私の場合は大学の矯正科)で学んだ.もちろん技 能のある矯正専門開業医の元でも良い.そうあること で研修中の治療の質もある程度担保できる.
しかしそうではなく独学で矯正を学び始めるという のは,仮にどれ程多くの講習会に参加し続けたとして も,未経験者が指導者もいない中で実際の矯正治療を 全くの無から積み重ねていく事になる訳で,学びの過 程で次々と多くの患者に不利益を被らせる可能性が極 めて高い.自動車の運転で講義だけを聞いて路上に出 る様なものである.せめて年月を経ていつかは正しい 矯正治療が習得できるのであれば救われる面もあろう
図27 矯正臨床学習サイクル
かと思うが,現実には矯正治療においてはその可能性 も極めて低い.それは前述した正しいフィロソフィー が構築されていく可能性が極めて低いからである.そ して上記の症例
1
〜8
も実際担当者は若い歯科医師で はない.このような事例が全国的に多発している理由 としては,突き詰めれば医療従事者の倫理観の欠如が 根本にあると言わざるを得ない.◇矯正講習会について◇
同様に,前述の倫理的な観点から相当なバックアッ プ体制がない限り,安易な未経験者向け矯正講習会の 開催は行なわれるべきではないと考える.短期の講習 会受講を機に治療を開始する未経験者が多いのが実情 である.基本的にはその状況で臨床を実行に移してし まう歯科医師に問題がある訳だが,そのような状況を わかっていながら講師を行なう歯科医師,主催者,協 賛企業においては,確信犯的な責任逃れはせず,講習 会のありようを再考するべきである.
◇国民の危機感について
2012
年度栃木県真岡市で無料の市民公開講座を行 なった.受講者には非常に熱心に聴講,感謝していた だいた反面,市民全体からの割合としては非常に低率 であった事に大変驚きを憶えた(表1).これは他地
域でも同様である.講演会としては参加者の多寡は全 く問題ではなく,来ていただいた方にご理解いただけ ればそれ以上の喜びはない.しかしもう少し掘り下げ て考えると,教育委員会,学校を通し周知を試みてい るにも拘らず参加者の割合が低率である事は,矯正臨 床が玉石混淆の混乱した状況である中,我々が感じて いるよりも遥かに低い程度でしか危機感を感じていないということであろう.また一説には矯正治療は,専 門医以外で治療を受けてしまう人の方が多いと言われ ている.これらの事を踏まえると,我々歯科矯正専門 医は,患者さんに正しい矯正治療を提供すると同時 に,正しい矯正治療を啓発することも大切な努めだと 考える.そのため
JSO
は国民のために,今まで以上 に活動を充実させる責務がある.矯正専門医は
10
万人と言われる歯科医師の総数か らすれば非常に微々たる人数でしかない.時間的猶予 がない今,一刻も早くより多くの専門医が集い,さら には日本歯科矯正機材協議会,一般歯科医師,歯科衛 生士などの医療従事者等,可能な限り多くの方々を良 き理解者として,国民に安心して矯正治療を受けてい ただけるよう,共に進んでいくことが必要である.矯正臨床の混迷の原因は多岐に渡り,この状況を打 破することは非常に困難を極める状況であるが,非常 に多くの患者が日々蝕まれており,困惑している.ま た,専門医としてこれ以上の矯正臨床の荒廃は許容で きない.我々の愛する歯科矯正が,美しいもの崇高な ものとして未来永劫,素晴らしいものとして継承され ていくことを切に願うばかりである.
◇終わりに◇
末筆ながら自戒の念を込めて記したい.歯科矯正専 門医は,矯正臨床において,模範となるべき立場であ る.歯科矯正の誇りを守るために,高い倫理観をもっ て自らを律していかなくてはならない.そして広い視 野を持ち,社会全体における歯科矯正や歯科矯正専門 医としてのありようも常に念頭に置いて行動していき たい.
【参考文献】
1) 増田美加:後悔しない歯科矯正 小学館 東京,2009
2) Andrews LF. :The six keys to normal occlusion. Am J Orthod.
1972 Sep;62(3):296-309.
3) 与五沢文夫:Edgywise System vol.1 プラクシス・アート,
クインテッセンス出版,東京,2001
表1