矯正治療における生体の恒常性と適応能
Constancy and adaptation ability of the human body to the orthodontic treatment
与五沢 文夫 Yogosawa Fumio
よごさわ歯科矯正
キーワード : 適応、 恒常性、 鋏状咬合、 犬歯間幅、 歯列形態
初めに
このたび矯正専門医の学会が開催される運びとなり ましたことを、心から嬉しく思っております。矯正専 門医学会と銘打ったこの会でお話しをさせて頂くに際 し、私はその責任を重く受けとめています。今回、お 話する内容を決めるにあたって、この専門医学会の目 的やあり方について私なりに考えてみましたので、そ のことからまずお話をさせていただきたいと思います。
専門医学会の目的とあり方
1)専門医という立場
そもそも、専門医は社会のニーズに応えるための医 療上の仕組みと思っています。専門医という資格や制 度があっても、それが社会で認知されなければ、専門 医としての実質的な意味をもちません。専門医は社会 との関わりの中で、はじめてその存在意味を持ちます。
すなわち専門医たる所以が社会で評価されたときに、
初めて専門医としての立場が確保されるようになるで しょう。そのためには、専門医が専門医として社会に 働きかける必要がありますが、それには専門医の集団、
すなわち専門医としての組織が必要となります。
2)専門医の責任と義務
その専門医集団は、臨床の質の維持ならびに向上を 目指すのは当然のことですが、同時にその分野におけ る社会的責任と義務の一端を担うこととなります。
専門医の集団は、専門というその名称の響きから、そ の道のエキスパートとして受けとめられると思います。
それによって、社会においてその分野での権限が発生し ますが、同時に責任をもつことは当然です。責任を伴わ ない権限はあり得ないと思うからです。
3)専門医のやるべきこと
そこで、私達、専門医集団としての責任の一つとし て、まず手をつけなければならないことは、現在の混 乱している矯正治療の方法や考え方の整理があると思 います。
矯正治療は、一般的な医療のように元の健康な状 態に復元することを目的とする医療ではなく、よりよ い状態を創りだすことを目的とする、すなわち創造の 医療です。したがって治療の目標自体が一つとなり難 く、必然的に何が最善かを判断しづらいものではあり ます。そのことも原因して矯正治療ではその治療に対 しての考え方を一つに絞り込みにくい性質の医療です が、現状においてはあまりにも幅広く拡散しているよ うに私には受け止められます。例えば、矯正治療を行 なう上での抜歯・非抜歯の問題、早期治療の限界や可 否、歯列弓拡大、各種矯正治療法などの問題を挙げる ことができます。それらの問題は矯正治療の根本にか かわる重要な問題ですが、各種の相容れない考え方や 治療法が共存しています。そのことが社会において矯 正治療が混乱している原因の一つと考えられます。
そこで、矯正専門医集団は、それらの問題の整理整頓 を行ない、矯正治療をより信頼ある医療とすることが 当面の重要な責務と考えます。
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4)問題解決のための手段・方法
これらの問題の整理を行なうに際して、最も適した 方法手段は、これまで行なわれてきた矯正治療の結果 から学ぶことにあると思います。我が国にフルバンド ないしフルブラケット法といわれる本格的な矯正治療 法が定着し始めてから、すでに40年程の時間が経過し ています。その結果、臨床例数はおそらく数百万に達 していると考えられますが、私達はその矯正治療の経 験を充分に生かしていないのではないでしょうか。や やもすると、私達は矯正治療の前と後、すなわち矯正 装置装着前と後、という限られた時間帯の中で、矯正 治療を評価してきたように思えます。矯正治療の前、
後は殆どが矯正装置によって誘導された結果で、半ば 機械的に支配された結果ですが、実は全ての装置から 開放されたときの生体の振る舞いを知ることが矯正治 療にとって大切ではないでしょうか。その確認作業に よって、生体に対して、あるべき矯正治療の形をより 明確にすることが可能となるだろうと考えます。
5)専門医学会の役割
矯正専門医学会は、臨床経験が豊富である専門医の集 団という特徴を生かし、まずはそれぞれの経験を持ち寄 り、そこから生物学的な真実を導きだし、矯正治療をよ り確実で洗練されたものにしていくことが重要な使命と 考えています。矯正専門医学会としての役割分担はそこ にあると思っています。
以上のようなことを念頭におき、今回私は、具体的な 治験例を振り返り、生体の持つ恒常性や適応という視点 からお話をしてみたいと思います。
症例1 生体の恒常性を組み入れて治療方針を立てた症例
・初診時年令 26才 5ヵ月 女性 ・治療開始 27才 7 ヵ月
図1 治療前
4 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
7
図2 大臼歯部交叉の状態 右側第一大臼歯部 右側第二大臼歯部
・治療方針
主たる治療目標は右側大臼歯部の鋏状咬合の改善。
上下左右の第一小臼歯抜歯、ならびに第三大臼歯4歯の 抜歯が必要と判断。
交叉咬合改善過程において下顎の回転が起こることを想定。
頭部X線規格写真上では7°の顎の開大する方向への 回転が予想される。(図3左側のみトレース)
図3
・治療経過
図4 治療開始時
図5 治療開始後9ヵ月(バイトプレート装着後4ヵ月)
図6 治療開始後1年
図7 バイトプレート撤去時
図8 バイトプレート撤去時の顎位
図9 バイトプレート撤去1ヵ月後
図10 バイトプレート撤去時とその1ヵ月後の顎位の比較(左側のみトレース)
6 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
図11 治療後 31才 5ヵ月
図12 治療前後
図13 治療前後の咬合面
図14 治療前後の右側第一大臼歯の位置関係
図15 治療前後の右側第二大臼歯の位置関係
8 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
図16
治療前 治療後 治療前後の重ね合せ
(左側のみトレース)
☆ここでの事実とその理解
・下顎の位置の恒常性の認識 ・・・ 部分の全体への協調
頭蓋に対しての下顎の位置(下顎下縁角)がほぼ自動的に元の状態に終焉した。
・咬合平面の自動的調整。
鋏状咬合の改善過程において上顎大臼歯が圧下され、咬合平面が頭蓋に対してより平衡に なるように自動的に変化していった。本来ありたい咬合平面の位置に治まった?
・頭痛の頻度が減少したという事実(自発的な訴え)。より機能的なバランスが得られた結果?
症例2 適応力の強さを感じた症例
・初診時年令 12才 7ヵ月
図17 初診時の状態 左右側鋏状咬合の症例
図18 治療開始時 バイトプレート装着時
図19 バイトプレート装着時の下顎位 10 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
図20 大臼歯部の咬合面での接触が可能となった状態
図21 上顎左右第一小臼歯抜歯、バンド装着による治療開始時
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図22
初診時とバイトプレート装着時の比較
図23
初診時とバンド装着による 治療開始時の重ね合せ。
(下顎下縁角が一定に保たれて いることに留意)。
図 24
下顎の開大(13°)している 状態が1年8ヵ月後にはリカバー されている。
この反応に下顎顆頭の発育が大 きく関与している(約7ミリ)。
図25 治療前後の状態(治療過程で下顎左右第二小臼歯も抜歯されている)
☆この症例を通じた「こと」の理解と推測
・閉じ込められた潜在的素質を引き出し本来の素質が開花した。
・人為的行為が本来の生体に備わった能力を発揮させる刺激として作用した。
・ 矯正治療開始に際し、隠された秩序を読み取ることが重要である。
すなわち、ことの理解形式として、「この症例ではこうなった」を「こうすれば・こうなる」と置き換える ことはできない。
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図26 保定(約3年)終了時
図27 保定終了後1 0年経過時、上下前歯部に叢生発生
図29 再矯正治療終了時・・・動的治療期間・1年4 ヵ月 図28 保定終了後16年経過、再矯正治療開始時
保定後10年目とは同等の前歯部の叢生を確認、犬歯間幅が縮小、とくに下顎犬歯間幅は初診時(12才)の 犬歯間幅にほとんど復元していることを確認する。
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初診時 12才7ヶ月 治療終了時 17才5ヶ月 保定終了時 20才3ヶ月
保定後 10年30才4ヶ月 再治療開始時 36才7ヶ月 再治療終了時 37才11ヶ月
初診時 12才7ヶ月 治療終了時 17才5ヶ月 保定終了時 20才3ヶ月
保定後 10年30才4ヶ月 再治療開始時 36才7ヶ月 再治療終了時 37才11ヶ月
図30 下顎犬歯間幅の比較
ノギスの幅は初診時の犬歯尖頭部に合せ一定に保っている。各時点での左側犬歯尖頭にノギスの一方をあて、
もう一方のノギスの位置と犬歯尖頭の位置によって歯間幅を確認している。
図31 上顎犬歯間幅の比較
上顎では、下顎の場合と同様にノギスの一方を上顎右側犬歯尖頭にあてがっている。
初診時 12才7ヶ月 治療終了時 17才5ヶ月 保定終了時 20才3ヶ月
保定後 10年30才4ヶ月 再治療開始時 36才7ヶ月 再治療終了時 37才11ヶ月 図32 歯列弓形態の比較
☆この結果から学んだこと
・前歯部アーチの形と犬歯間幅維持の重要性。
・生体が必要とした修正(より安寧な状態であるための変化が生じた? 受入れ可能なゆらぎ幅を超えた? )
☆理解形式の展開
・下顎枝の顕著な発育から・・・個体本来の素質の強さの認識と矯正治療方針への取り込み。
・歯列弓の形と犬歯間幅・・・部分と全体、生体の秩序を保つヒエラルキーシステム。
註:この症例報告は下記の論文を参照下さい。
1)Fumio Yogosawa :Case Report AE Non-surgical correction of a severe ClassⅡmalocclusion(Brodie Syndrome) Angle Orthod.,Vol.60 No.4:299-304,1990.
2)与五沢 文夫 :適応 Monog.Clin.Orthod.,30:1-31,2008.
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症例 3 適応能の限界
問診によるこの症例の矯正治療に関わる経歴。
1997年頃から一年程、中国で非抜歯矯正を行なう。その後、日本の大学病院にて2008年2月に非抜歯治療の方針 のもとスクリュウによる拡大をおこなったが、同年8月に抜歯症例(上下左右第一小臼歯)へと変更した。翌2009 年2月に矯正治療継続中に矯正開業医へ転医、そこでの治療が困難とのことで、再度そこから他の矯正開業医へ紹介 され転医、治療を継続、2010年5月治療終了と言われたが歯槽部の隆起を問題とし、その改善を希望され当院に来 院した。
図33 当院へ来院時の状態
上顎中切歯 上顎側切歯 犬歯
下顎中切歯 下顎側切歯
図34
図35 中切歯、側切歯、犬歯周辺
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図36 上顎臼歯群の遠心傾斜が目立つ 図37 インプラントアンカーが使われている
以上の観察から現状において患者の主訴の改善は不可能との判断を行ない、矯正治療を解除して生体の自己治癒能 力に託すことを提案、これ以上の人為的侵襲を避けるため矯正装置を除去し、さらに保定装置は使わない方が良いだ ろうとの見解を伝える。その後、経過を見た上で対処法を考えることとした。
図38 前医にて矯正装置を撤去して6日後
☆ここでの見解
・適応のための時間と適応限界・・適応するための時間と範囲への配慮の欠如。
・機械論的思考への警鐘。
結語
☆矯正治療は
・体の適応能を頼りとした医療である。
・物理的刺激が体に反応を起こさせる引き金となるが、反応する主役は生物学的な応答である。
・矯正治療を行なうには物理学的理解と生物学的理解の形式の違いを認識することが必要である。
☆矯正治療にとって重要なのは
・どこまで歯や顎を移動させることができるかではなく、
どこに位置付けたら生体にとってより心地良いかである。
・それを判断するのが知識や経験で、そこに到達させる具体策が技術である。