白百合女子大学 博士論文審査報告書
氏 名 高橋 有香 学 位 の 種 類 博士(心理学)
学 位 記 番 号 甲第54号
学位授与年月日 平成28年3月1日
学位授与の要件 学位規則第4条第1項該当者
学 位 論 文 名 主 題 乳幼児をもつ働く母親の心理的成長 副 題
論 文 審 査 委 員 委員長 教授 高本 裕迅 主 査 教授 宮下 孝広 副 査
副 査 副 査
教授 鈴木 忠 教授 田島 信元 教授 秦野 悦子
論文内容の要旨
本論文では,近年増加傾向にある乳幼児をもつ働く母親について,生涯発達の視点から実証的 な検討を行った。働く母親は,仕事をしていても家事・育児の多くを負担することが社会の中で 暗黙裡に期待されており,特に子どもが乳幼児の場合には,そうした性役割規範に加えて三歳児 神話の影響も強く,自分にとって育児と仕事のどちらが重要かという人生選択の迷いが生じやす いなど,仕事と育児の両立には様々な葛藤や困難が伴う。本論文は,生涯発達の視点から,乳幼 児期の子をもつ働く母親が,仕事と育児を両立させようとすることは,それまでの個人としての 生き方の変更やアイデンティティの混乱を伴う人生における一つの発達的危機と捉え,その危機 を乗り越える過程でもたらされる心理的成長を明らかにすることを目的とした。
研究 1-1 では,乳幼児をもつ働く母親の心理的危機を明らかにすることを目的として,探索的 な量的研究を行った。本研究では,母親が子どもや周囲に抱く心苦しさを心理的危機と捉えて検 討を行った。その結果,乳幼児をもつ働く母親にとっての主要な心理的危機は,子どもに対する 心苦しさや母親規範による心苦しさなど,母親としての自信を危うくする要因であった。親とな って間もないこの時期は,母親としての成長過程にあり,母親としての自信の喪失につながる子 どもや母親規範による心苦しさが心理的な危機となることが明らかになった。仕事はしていても 母親としての自分に自信が持てること,および自らが理想とする子育てを実現できることが,危 機を乗り越える上で重要だと考えられた。
研究 1-2 では,働く母親の心理的成長の構造と,心理的成長に影響する要因を明らかにするこ とを目的として,探索的な量的研究を行った。本研究では,母親自身が仕事と育児の両立で変化 したと認識している側面を心理的成長と捉えて検討を行った。その結果,働く母親の心理的成長 は,「自己の強さと柔軟性」(タフネスと柔軟性の向上),「変化への積極性」(困難に前向きに対処 していく主体的な成長),「人生への新たな気づき」(優先順位の明確化・新たな気づきの成長),
「他者との関係」(他者との親密化・他者に頼れるなど)の 4 側面の変化であり,これらの変化は,
母親の主体的な問題解決方略,身近な育児の協力者の存在,家庭に協力的な夫の存在,仕事に満 足していること,および理想の子育てが実現できていることによって促進される,ということが 示された。
研究 1-3 では,母親が危機を乗り越えて心理的成長に至るプロセスを質的に明らかにすること
を目的とし,母親が仕事と育児を両立させようとすることで体験した気持ちの変化についての自 由記述の分析から,暫定的な働く母親の心理的成長プロセス・モデルを作成した。仕事と子育て の両立を開始してしばらくは,子どもや職場への心苦しさなど,様々な困難に直面して[心理的 な葛藤を体験]する段階にあり、こうした危機・葛藤から成長に至る過程には,[困難な状況への 適応を模索]する段階が存在した。この段階では,困難統制の努力,自己変化による困難受容と 並んで,保育所のサポートによる精神的安定と,子育ての安心感を取り戻す過程があり、この段 階を経て,[成長的な変化を実感]する段階へと移行するプロセスが示された。
研究 2 では,働く母親の心理的成長プロセスの詳細を描き出すことを目的として,半構造化面 接を実施した。その結果,働く女性は子どもの出産を契機に生活が【自分中心】から【子ども中 心】に変化することで,【夫との関係性の変化】や【仕事復帰前の不安】を体験するといった第 1 葛藤期に直面し,仕事に戻ってしばらくは【仕事と子育ての両立の困難さ】という第 2 葛藤期に 直面するが,自らの【困難統制への努力】と並行して【周囲のサポートと心の安定】により【心 のゆとり】を取り戻し,【成長的変化を自覚】するという,ストーリーラインが導き出された。
研究 3 では,研究 2 で質的に構築した心理的成長プロセスを量的データによって確認すること を目的とした。働く母親を心理的成長低群・高群の 2 群に分類して分析を行った結果,心理的成 長の度合いの高い母親(高群)は低い母親(低群)と比較して,心苦しさが低く,危機を乗り越 えていると考えられた。また,高群の母親は,自ら積極的に関与して問題解決を図るストレス対 処が高く,育児協力者数,夫の協力満足度,仕事満足度のいずれも低群を上回っており,仕事と 育児の両立に周囲からのサポートがある環境に生活していることが示された。また,高群は低群 と比較して,子育てへの安心感と母親としての自信を保ち,心理的に安定していることが示され た。これらの結果は,研究 2 の心理的成長プロセスと矛盾しないものであった。
総括的討論では,各章で得られた知見をまとめ,総合的考察を行った。本論文の結論は,乳幼 児期の子をもつ働く母親にとって,子どもや母親規範による心苦しさが自分で対応できる程度に 軽減され,子育ての自信と安心感が子どもや母親規範による心苦しさよりも上回ったときが,発 達的危機を乗り越えたときであり,これによって生じた心のゆとりと自覚される成長的な変化が 働く母親の心理的成長である。心理的危機を乗り越える過程では,個人の中で,子どもや母親規 範による心苦しさが抱えられる程度に軽減し,子どもに関わる心的困難に過度に巻き込まれなく なると,母親に心のゆとりが生じ,自分らしさを取り戻す,完璧を求めない,仕事と育児を両立 する生活に自分なりの意味を見出すという心の変化が生じ,自信や充実感,他者への感謝,共感 性の向上と寛容さ,気づきと視野の広がりなど,成長的変化を自覚できるようになっていく。ア イデンティティの視点では,働く母親の心理的成長は,周囲のサポートや社会との繋がりによっ て,母親アイデンティティを構築しながら仕事と育児の両立の危機を乗り越えていく中で,出産 前の職業中心のアイデンティティとは異なる,「働く母親」としてのアイデンティティを成長させ 確立することといえる。最後に,本論文で得られた結論について,成人期のアイデンティティ発達 の視点,母親の発達に関する先行研究との関連,状況的危機による成長と発達的危機による成長 との関連,Erikson の成人期の発達理論との関連,および今後の課題について論じた。
論文審査の結果の要旨
本論文は,生涯発達の視点から、乳幼児をもつ働く母親が仕事と育児の両立をめぐり体験する 心理的な葛藤や困難を、それまでの生き方の変更やアイデンティティの混乱を伴う人生における 一つの発達的危機と捉え,その危機を乗り越える過程でもたらされる心理的成長を明らかにする ことを課題としている。
はじめに、質問紙調査とその統計的分析によって、乳幼児をもつ働く母親にとっての主要な心 理的危機は,子どもに対する心苦しさや母親規範による心苦しさなど,母親として自信を危うく する要因であること、その危機を乗り越えるためには、母親としての自信が保たれ,自らが理想 とする子育てを実現できることが重要であることを見出した。続いて,働く母親の心理的成長の 構造は,「自己の強さと柔軟性」,「変化への積極性」,「人生への新たな気づき」,「他者との関係」
の 4 因子であることを量的分析によって明らかにした上で,これらを促進する要因が,「情報収集」,
「肯定的解釈」,「計画立案」といった母親の主体的なコーピングと,「育児協力者の数」,「夫の協 力満足度」,「仕事満足度」,「理想の子育て」であることを明らかにし、さらに、共分散構造分析 を用いて、そのモデルが成立することを示した。このように、実証的なデータに基づいて、乳幼 児をもつ働く女性にとっての心理的危機と成長の構造を明らかにしたことは、本論文の成果の一 つと考えられる。
次に、自由記述の質的分析によって,働く母親が,[心理的な葛藤を体験]する段階から、[困 難な状況への適応を模索]する段階を経て,[成長的な変化を自覚]する段階へ移行するという、
乳幼児をもつ働く母親の危機から成長的変化への暫定的なプロセスを示した。さらに、そのプロ セスを面接調査と質的分析によって発展させ、働く女性が子どもの出産を契機に,生活が【自分 中心】から【子ども中心】に変化することで,【夫との関係性の変化】や【仕事復帰前の不安】を 体験し,仕事に戻ってしばらくは【仕事と子育ての両立の困難さ】に直面するが,自らの【困難 統制への努力】と並行して【周囲のサポートと心の安定】により【心のゆとり】を取り戻し,【成 長的変化を自覚】するという,ストーリーラインを導き出した。
この中で,働く母親の心理的危機は,産後の【自分中心】から【子ども中心】への変化の中で,
母親アイデンティティの誕生によってアイデンティティの混乱が生じる第一葛藤期と,仕事に復 帰後の【仕事と子育ての両立の困難さ】の中で職業アイデンティティと母親アイデンティティの 衝突と葛藤が生じる第二葛藤期の 2 段階あることを明らかにした。また、子ども中心の生活で社 会とのつながりが希薄になる第一葛藤期には,他者との関係性を回復することによって不安が軽 減されていくことを示した。第二葛藤期には,自らの【困難統制への努力】や【周囲のサポート】、
<子どもの成長>が母親に心理的な安定をもたらし,仕事と育児の両立生活への適応を促進する ことを明らかにした。このように、自由記述と面接調査を用いた質的分析によって働く母親の心 理的危機からの成長的変化のプロセス・モデルを丁寧に描き出し、母親の心理的危機は 2 段階あ ること、そして、母親がそれらの危機を乗り越える過程において心理的に変化していく発達のプ ロセスを明らかしたことは、本論文の最大の成果である。母親が危機を乗り越えながら心理的に 変化していく過程は,子育て支援においても有用な視点を提供するものと思われ,社会的側面に おける貢献として挙げることができる。
本論文では,親への移行期にある乳幼児をもつ働く母親が,仕事と育児の両立の困難さを乗り 越えていく過程で,他者からのサポートによって心理的に安定していくのと平行して,他者への 共感性が向上し,他者への感謝が生まれ,自分が他者から受けたものを他の人々にも返していく という,ジェネラティヴィティの感覚を発達させていく過程も明らかにした。これは,Erikson の生涯発達理論の中の「若い成人期」から「成人期」への移行がどのように展開されるのかを示 したものであり、現代女性の成人期発達の一側面の理解を深めたと言えよう。
最後に本研究の限界と今後の発展に対する期待として指摘されたのは、まず、本論文が高学歴 かつ比較的キャリア志向の高い女性という限られた対象の発達を扱うものであったことである。
しかし女性の高学歴化が進み,仕事と育児の両立を選択する女性が増えることが予想される現状 を考慮すれば,将来的に重みを増していく研究であると期待もされよう。いっぽう,出産を機に 様々な事情で仕事を継続できなかったり,子どもの手がかからなくなった時期に再就職したりす
る女性も多い。出産をめぐる女性のライフスタイルとそこでの発達の過程は多様であるため,今 後は本論文では対象とならなかった成人期女性の発達についての検討が求められるところである。
以上により、審査委員会は本論文が博士(心理学)の授与に値するものと認めた。