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白百合女子大学 博士論文審査報告書 氏名

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Academic year: 2021

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(1)

白百合女子大学 博士論文審査報告書

氏 名 小林 夏美 学 位 の 種 類 博士(文学)

学 位 記 番 号 乙第

22

学位授与年月日 令和

3

1

7

学位授与の要件 学位規則第

4

条第

2

項該当者

学 位 論 文 名 主 題 「語る子ども」としてのヤングアダルト

副 題 日本現代児童文学におけるヤングアダルト文学のもつ可能性 論 文 審 査 委 員 委員長 教授 秦野 悦子

主 査 教授 白井 澄子 副 査

副 査 副 査

教授 井辻 朱美 教授 浅岡 靖央

千葉大学教授 佐藤 宗子 論文内容の要旨

本論文は、日本のヤングアダルト文学がヤングアダルトの語る力の獲得をたんに「大人になる」

ものとしてではなく、 「語る子ども」として生き延びるものとして描いていることを、作品の読解 を通じて明らかにすることで、ヤングアダルト文学が日本の現代児童文学に子どもと大人の区分 に対する新たな視座をもたらしていることを示すことを目的としている。

従来、ヤングアダルト文学はそれまで児童文学が対象としてきた年齢より高年齢であるティー ンエイジャーを読者層、ないし作品の焦点化の対象とする作品群として、その年齢層の独立性が 意識される形で理解され、言及されてきている。だが、日本の児童文学に

1970

年代半ばから生 じた「タブーの崩壊」現象を背景としてその展開を捉えたとき、ヤングアダルト文学は大人像の 不確かな中、大人になるという課題に直面するヤングアダルトに子ども概念と関連をもつ形で焦 点化することで、子どもと大人の区分自体を新たな形で捉える視座を模索するという側面をもも つと考えられる。本論文では、日本の創作ヤングアダルト文学作品のうち、大人になるという課 題そのものを問いに伏す展開をもち、その問いを語る力の獲得の問題として描き出している

4

作 品を取り上げ、これらの作品の描くヤングアダルトの姿に、大人になるのではなく「語る子ども」

として生き延びる可能性を読み解くことで、日本のヤングアダルト文学が子どもと大人の区分自 体を新たな形で捉える視座を有していることを論じる。

まず、具体的な作品の読解に先立ち、ヤングアダルトの直面する大人になるという課題の存在、

およびその直面に際した語る力の獲得の問題を子ども概念との関連から理論的に検討し、 「語る子 ども」という形象に基づく読解視座を導き出した。第一に「タブーの崩壊」以後に児童文学と関 連する形で子どもと大人の区分に対する新たな視点を提示した本田和子『異文化としての子ども』

の論議を「異文化としての子ども」を語る本田自身の語る行為に着目する形で再考し、そこに導

き出される子どもが語ることの困難と可能性について、サバルタンの語りに関する議論と関連づ

ける形で批判的に検討した。竹村和子がサバルタンに関して論じている、共通性と差異との間の

往還の中で「翻訳の(不)可能性」として展開される「翻訳のパフォーマティヴィティ」を子ど

もが語る可能性を示すものとして示し、この可能性をある種の奇妙さを伴う「語る子ども」とい

う形象として提示した上で、その「語る子ども」としての語る力の獲得を「異文化」から秩序内

への移行をもとめられるヤングアダルトの語る力の獲得の可能性として論じた。第二に、アメリ

(2)

カの作品を対象にヤングアダルト文学を権力と抑圧の観点から読み解く視座を示した

R.S.Trites

Disturbing the Universe

の議論に焦点をあて、先に示した「語る子ども」として生き延びる可

能性の所在をヤングアダルトの直面する大人になるという課題との関連から考察した。Trites の 論が主体化=服従化の問題と重ね合わせる形で、 「大人になる」ことの問題を提示する一方、それ を超え出る行為能力については十分に議論していないことを指摘し、この点を主体化=服従化に 関するジュディス・バトラーの議論を参照することで再整理した。バトラーが、 「呼びかけ」の光 景という主体形成の局面を二者関係に着目して再考する中、その二者関係の導く責任=応答可能 性に主体化=服従化を超え出る行為能力の基盤を見いだしていることを確認し、この責任=応答 可能性を竹村の論じる「翻訳のパフォーマティヴィティ」の基盤となるものとして示すことで、

その後の作品読解を可能にする、ヤングアダルトが「大人になる」ことなく語る力を獲得する可 能性、すなわち「語る子ども」として生き延びる可能性を読みわける視座を示した。

次に、この読解視座をもとに具体的な作品の読解を行った。まず梨木香歩『西の魔女が死んだ』

を取り上げ、この作品が「魔女修行」を通じた主体形成を肯定し「大人になる」ことを最終的に 必然化する一方、おばあちゃんとの二者関係への意識によって修行への誘導に抗う主人公まいの 姿を描き込み、 「大人になる」こと自体を問う意識をも提示していることを読解し、両者の意識の 狭間で忘却すべきものとして逆説的に「語る子ども」の姿が示されていることを論じた。次に岩 瀬成子『もうちょっとだけ子どもでいよう』に焦点をあて、妹の咲、姉の光

(ひかる)

、母の康子そ れぞれの覚える鬱屈が、三人の立ち位置の相違を示唆する一方関連性をもって生じていることを 読み解き、その「子ども-ヤングアダルト-大人」の立場の相関性の中に「大人になる」ことへの 困難を抱えるヤングアダルトの光の姿を捉えた上で、この作品がその困難を脱して語る力を獲得 する可能性を、同種の困難の中にある者への責任=応答可能性に見出していること、そこに「語 る子ども」の可能性が読み取れることを示した。次に三作目として、梨屋アリエ『スリースター ズ』を取り上げた。ヤングアダルトの姿に焦点を絞った展開の中、一見円満な状況にある三咲季 との対比において、裕福でも極度の疎外状態にある弥生が「大人になる」ことの問題を前景化す る存在となっていることを示した上で、その弥生の語りに関する困難を超え出る可能性が、同種 の困難に直面する水晶

(きらら)

の「スリースターズ」のつながりを模索する姿を通じて、未知性 をもつ相手への責任=応答可能性に基づく、共通性と差異とを往還する「翻訳のパフォーマティ ヴィティ」に見出されていることを提示し、 「語る子ども」として生き延びる可能性がより具体的 に描かれていることを示した。最後にいしいしんじ『麦ふみクーツェ』を取り上げ、この作品の 描く、「ぼく」がおじいちゃんに仕込まれたねこの声を自分自身の声として受け止め直す過程を、

聞き取った音や声に対する責任=応答可能性、とりわけ差異の際立つ存在である「へんてこ」た ちへの責任=応答可能性に基づくものとして示し、そこに提示される語りの展開に「翻訳の(不)

可能性」としての「翻訳のパフォーマティヴィティ」を読み解くことで、この作品が「語る子ど も」として生き延びる可能性を、ヤングアダルトに焦点をあてつつ、その年齢層に限らない社会 的生を拡張するものとして示していることを論じた。

これらの作品に読み解いた「語る子ども」の可能性は、その語りの行為性において子どもと大 人の区分を超え出る可能性を持つ。ここにヤングアダルト文学が日本の現代児童文学にもたらし ている子どもと大人の区分に対する新たな視座の存在をみることができる。

論文審査の結果の要旨

本論文「「語る子ども」としてのヤングアダルト―日本現代児童文学におけるヤングアダルト文

学のもつ可能性―」は、日本のヤングアダルト文学について論じたもので、論文構成は以下の通

(3)

りである。

序論 現代児童文学としてのヤングアダルト文学

1

章 子どもは語ることが出来るか――「異文化としての子ども」から「語る子ども」へ 第

2

章 「語る子ども」として生き延びる可能性――「大人になる」ことと主体化=服従化 第

3

章 忘却される「大人になる」ことへの抗い――梨木香歩『西の魔女が死んだ』

4

章 「大人になる」ことの困難、子どもとして語る困難――岩瀬成子『もうちょっとだけ 子どもでいよう』

5

章 「語る子ども」としての「サバイバル」――梨屋アリエ『スリースターズ』

6

章 「語る子ども」としての語りの展開――いしいしんじ『麦ふみクーツェ』

終章 「語る子ども」としてのヤングアダルトがもたらすもの

従来のヤングアダルト文学(以下YA文学)についての研究は、出版状況や読者年齢に関連した ものが多かったが、本論文は正面から「子ども観」の問題に切り込み、 「語る子ども」というヤン グアダルトの論点を提示し、それを理論的に論じた上で具体的な作品に適用して、この領域に新 たな視座を提示した。これは、今後の児童文学というジャンル全体に資する視点といえる。

論文では、まず日本の児童文学について、特に

1970

年代の「タブーの崩壊」以降のYA文学 について代表的な評論等を概観し、近年の研究も視野に入れて文学状況の確認を行い、

80

年代以 降の日常的作品群の俯瞰をしている。批評、創作の両面において適切な手続きを踏んだ上での問 題意識の提示は、いずれも的確であり評価できる。

本論文における「語る子ども」を導き出すに当たっての理論的裏付けについては、まず、 「子ど も」に関する言説として著名な本田和子の理論における「子どもと大人」の区分には限界がある ことを批判的に検証した。その上で、 「子どもと大人」の区分に疑問を呈し、ヤングアダルトの観 点から、子どもと大人の区分に新たな視点を設け、「語る子ども」を提示した。

続いて、アメリカの児童文学研究者でありYA文学研究でもあるR.S.トライツの論を参照 し、トライツの論はヤングアダルトが「大人になること」の論究としては不十分であることを説 明している。これに関連してジュディス・バトラーや竹村和子の論に視野を広げ、その展開の中 で、ヤングアダルトが「語る子ども」として存在することの意義を論じた。このように、日本の 児童文学研究でありながら、海外の論考をも視野にいれた議論は、従来の日本の研究にはほとん ど見られなかったものだが、理論展開として十分に理解できるものであり、かつ妥当なものとい える。

「語る子ども」という視点からの作品分析に当たっては、1990 年代から

2000

年代に書かれた 作品群から「語る子ども」の様相が異なる

4

作品を選び、論じた。まず、梨木香歩の『西の魔女 が死んだ』では、主人公が一瞬ではあるが大人になることに抗う意識を見せる点を捉え、 「語る子 ども」としての微かな可能性が見えることを読み解いた。この作品には、すでに多くの論考が存 在するが、それらを踏まえた上で、従来の論が示した批評とは異なる、独自の視点からの論を展 開した。次の、岩瀬成子の『もうちょっとだけ子どもでいよう』では、中学生と小学生の姉妹そ れぞれに焦点を当てるだけでなく、母親にも触れる論考を行い、 「子どもと大人」の区分を問うこ とが効果的に行われている。続いて梨屋アリエの『スリースターズ』を取り上げた。この作品は

2000

年以降、児童文学でもネグレクトや親の過干渉などの問題が扱われるようになった中の一冊 であり、家庭問題や貧困という社会問題的な視点からの論評が見られるが、本論文ではより広く、

過酷な現状を生き抜く「サバイバル」の問題追究として捉え、3 人の少女主人公だけでなく脇役

的な登場人物も視野に入れることで、 「語る子ども」という視点からの考察をより幅広く為し得て

いる。最後にいしいしんじの『麦ふみクーツェ』を取り上げた。一般的に、 「子どもと大人」の関

係についてはリアリズム系の作品で論じられることが多い中、本論文では、日常と非日常が交差

(4)

する異質な作品を敢えて考察の対象にし、非日常的な設定の上に展開する日常的な世界、音楽、

声といった要素が盛り込まれた本作品が、 「ヤングアダルト」および「語る子ども」を考える上で、

新鮮な視点を持っていることを指摘した。この作品に対する果敢な読解は、このジャンルの追究 可能性に一石を投じたものとして評価できる。

終章では、改めて

1980

年代以降に書かれた現代日本児童文学におけるYA作品を俯瞰した上 で、ヤングアダルトの存在を説明しうる

4

作品を選んだこと、「子どもと大人」の関係に着目す ることでこれらの作品における「語る子ども」の在り方を提示したことを、まとめている。

公開審査では、テーマや作品選定の経緯について、 「ヤングアダルト」という状態と従来の「子 ども」から「大人」への移行の問題などについての質疑に対して丁寧かつ適切な応答がなされ、

本論の意義が一層明確になった。本論文は「ヤングアダルト」文学論として、確固たる基盤をも つ一つの論として成立していることが示され、今後の児童文学研究に新たな可能性を開くものと いえる。

なお、学位請求者については、これまでの経歴や業績から課程博士と同等以上の学識を有する と認定した。

以上により、審査委員会は本論文が博士(文学)の授与に値するものと認めた。

参照

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